ゆうさんの独善松本城ガイド
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大天守3階のご案内!!

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 さて皆さんここが大天守3階です、通称隠れ階と呼ばれています。天井は低いし、窓らしいものは右手にあります格子窓一つです、それも外側から見ると丁度、破風の一部になるようなデザインの為その奥に一つの階が有るようには思えません。何故この様な階を作ったかには色々な説が有りますが、それぞれにまあまあ納得?したりしなかったりです、その説一・・・まだ登ってはいないのですが大天守4階にある御座所で大名が有事の際の切腹をするのに邪魔が入らぬようにこの階にて家来が敵の侵入をくい止めるために待ち伏せをするため、その説二・・・外部からの敵の目を欺く為のもの、実際に攻め入ったら一つ余計に階があった・・・その説三・・・建築上の狂いを修正するのにやむおえず出来てしまったと言うもの・・・何れにしろ天守建築後は松本城は一度も外部からの侵略は無く、この階は物置として使われたようです。
 それでは4階に参りましょう。





天守3階(隠れ階)

大天守4階のご案内!!

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 大天守4階です。ぐっと今までの階と雰囲気が違うのが感じられますか?そうです東西南北全方向にある窓、それに天井が非常に高くできています、明るくて広々としています。すだれで囲まれている部屋がありますがあそこが御座所です、有事の際の大名最後の場所でここで切腹をするのです、と毎回お客様にガイドするのですが本当に御座所ってその目的で作られたのでしょうか?・・・







 さてこれから登る階段が天守の中で一番急な階段です。一段一段も幅がひろく更に天井は低いので足元と頭の両方に気をつけてください。そういいながら何時も自分で頭を打ってしまうのですが。










天守4階(城主御座所)



一番急な階段

大天守5階のご案内!!

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 頭は無事でしたか?さあここが大天守5階です。この部屋も四方に窓があります、そして、この部屋は有事の際の作戦会議をする為のものだったらしいのですが、その有事そのものが築造後に無かったのですから、多分この部屋も使用されなかったのでは無いかとおもわれます。

 こちらの北に面した破風部屋に来て見て下さい、この窓から乾小天守の屋根の上の鯱が良く見えます、鯱は何時でも夫婦で屋根の上に飾られますが、どちらが雄で雌か分かりますか?答えのヒントは方角にあります、日本の建築物は基本的に東西、南北の方向に建てられますが、太陽が昇り太陽が移動する方向、日本では東と南、この方向が暖かく明るい場所これが雄。西と北、この方向は寒く暗い場所これが雌ということらしい。ですからここから見える鯱は向かって右が雄ということになります。松本城の鯱には耳が無いと言われますが、耳は小さく、安土桃山時代の物に共通して松本城の古さを物語っています。

 こちらの柱の傷を見てください。この傷は天守が傾いた折ここにロープを掛けて引き起こした時についたものです。さて天守が傾いたと言うとこの地方の殆どの人が知っているお話があります。それは1686年に起きた大規模な百姓一揆に由来するものです、その起きた年代に由来し貞享義民騒動とかその指導者の名前から加助騒動と呼ばれています。その頃の松本城は水野氏により治められいました、折からの飢きんに追い討ちを掛ける年貢増の命令に現在の安曇郡三郷村の庄屋多田加助を指導者として百姓一揆が起こりました、多数の百姓が松本城の周りに集結して加助による直訴が行われ元どうり、米一俵につき三斗五升を二斗五升にする約束を取り一揆は収まりました。然しあくる日加助と首謀者、加助の家族は捕らえられ、はりつけにて処刑されました。その処刑場はここから見える小高い丘の中腹にあったんですが、処刑されるその瞬間加助は藩側が約束を守らなかった無念から目を見開き「五分摺り、二斗五升・・・」と天守の方を睨みつけました、と、突然ぐらりと揺れて南側に傾いたそうです。

 それでは大天守最後の階へむかいます。大天守6階の何処かに御宮があります、さがしてみてください。


 英文ガイドはこちらから



大天守5階、柱のロープ跡



北側窓より、乾小天守鯱瓦東西の方向


大天守6階のご案内!!

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 さて御宮はみつかりましたか?そうです、あの天井の小さな神棚がそれです。26夜神と呼ばれまして女性の神様でこの天守の守り神です。26夜神さまの始まりは、1618年の1月26日になります、この日、時は丁度月が昇り始めた頃、戸田家の家臣の川井八郎三郎清良が宿直当番で天守内を回って丁度4階付近に来た時、突然彼の前に白装束に赤い袴の巫女さん風の女性が現れました。彼女は彼に錦の袋を渡しながら「三石三斗三升三勺(約500`)の米をたいて26夜神を祀れば、勝手元が繁盛するだろう。」と言い残して天守最上階の方に歩み去り消えました。翌日この話を藩主にしたところ、綿の袋を御神体として天守最上階の梁の上に祠をつくり、翌月の26日から毎月この日に祭りを行うようになりました。こちらの窓から本丸庭園が見えます、きて見てください。芝生の中に屋根瓦で囲われている部分がありますよね、先ほどもお話しましたけど、本丸御殿のあった位置を示しています。随分大きな屋敷だったようです、それにこの天守の随分近くですよね、それで天守は無事だったのはこの26夜神さまのおかげであるとか・・・それとも鯱が水を吹いたのかも・・・

 西の窓からは、天気の良い日には北アルプスの山々が一望できます。
 東の窓からは、美ヶ原のテレビ塔がみえます。
 南の窓からは、松本駅にむかって松本市の繁華街がみえます。
 北の窓からは、城山、開智学校、加助の処刑された場所などがみえます。
 時間の許す限りゆっくり景色を楽しんでください。400年前この天守が出来た頃はまわりに高い建物は無かったでしょうから、きっと東南方向は村井近辺まで眺望できたのでしょう。

 充分景色は楽しめましたか?それでは降りましょう、上りより下りのほうが歩きずらいですから十分に足元に気をつけてお願いします。

  


大天守6階、26夜神様



大天守6階、東側窓より、本丸庭園本丸御殿跡

辰巳附櫓のご案内!!

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 6階から2階までおりてきました、鉄砲蔵の階です。それでは次の建物にはいります。辰巳附櫓とよばれますが、この建物と後の月見櫓は最初の三つの建物の建築の後35年経ってから、時の藩主松平直政による築造とされています。
 何の目的でこの櫓が付け加えられたかは分かりませんが、月見櫓をバランス良く付け足す為の築造だったのかも・・・。
 このフロアーには火薬入れ、望遠鏡、変りだま、その他色々展示されてます。

 それでは最後の櫓、月見櫓へ参りましょう。



火薬入れ

月見櫓のご案内!!

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 さてここ赤いベランダで囲われている部分が月見櫓です。現在月見櫓と呼ばれる城郭建築物で残っているのは岡山城とここ松本城だけだそうで、しかも天守閣と一連となっているのは松本城のみということです。
 このベランダ10年前ゆうさんがボランティアガイドを始めた頃はまだ観光客のかたも外に出てその上を歩けたのですが、現在は危険(碇屋さんの話では、「中がスポンジ状になってしまっている。」)とのことで立ち入り禁止になっています。
 月見櫓はその名の通り観月の目的で造られ、実際に酒宴が催されたのでしょう。
 この場所では3個の月が一度に楽しめます、夜空に浮かぶ月、お堀に写っている月、そして酒宴の杯の中にもう一つ・・・いいご機嫌で飲みすぎて、更にダブルで・・・足元をとられすってんころり、頭を打って・・・今度はお星様キラキラ・・・
 ここまで話すと、アメリカのお客様が教えてくれました、お尻のこともお月様(moon)と言うとのこと、酔っ払ったお侍、自らのお尻でお月見と相成った・・・・(落ち)
 これで松本城天守の案内はおしまいです。
後は本丸庭園内の案内を別ページでどうぞ。



月見櫓