ゆうさんの松本城独善ガイド
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大天守一階のご案内!!

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  さて皆さん大天守一階です、この階の周りを囲んでいる通路をご覧下さい、床の高さより低く、まだ見ては無いのですが他の通路より広く作られていて、武者走りと呼ばれています。有事の際は武具に身を固めた侍たちが走り回ったのでしょう、松本城はこの天守が出来た後は一度も戦いはなかったので、多分演習で走り回ったのかもしれません。ご覧下さい、石落としが部屋の角ばかりでなく通路の中ほどにも作られています、これも松本城の特徴の一つです、他の城は殆ど建物のコーナーのみに作られているそうです。
  大天守一階は部屋全体を四つに仕切って使われていたそうです、柱の穴をご覧下さい、かべの仕切りに使われたものだそうです、この部屋は武器弾薬、その他食料の倉庫として使用されたようです。




  こちらの心棒のような柱をご覧下さい、これは屋根のてっぺんにある鯱の心棒に使われている物です。あちらのガラスケースの中に鯱がはいっていますが、昭和の大修理の時に置き換えられた物です、この心棒で屋根に固定されていました。








  鯱とは本来中国の想像上の動物で海に住んでいます、その顔はトラともライオンともそして胴体は魚です。鯱が敵に襲われた時、大海の水を吸い込みそれを敵に吹きかけ、逃げたそうです。お城のような木造建築の大敵と言えば、勿論火災です。いざ火災発生の時水を吹きかけ消してくれるだろうと、鯱を高い建物のてっぺんに置きました。鯱はいつでも雄と雌一対で配置されます、その違いは外見では分かりません、ですからここにある鯱もこのままではどちらが雄か雌か分かりません。後ほど鯱が所定の位置によく見える場所で説明しましょう。







  こちらは壁のサンプルです、壁につきましては昭和の大修理の時に古いものはこのサンプルを残してすべて新しく作りなおされました。ご覧のとうり、竹、葦、藁、泥で作られています、表面は漆喰が塗られています。当時の記録映画を見ましたが、作業は一人一人の職人さんの手作業にてなされており大変な作業でした。このサンプルは紛れもないオリジナルなものと言えるでしょう。







  さてこちらのガラスケースには先ほど説明しました土台支持柱の残片が展示されています。(写真はページ1に転載されています。)数年前はこの様に立派なケースには入っていませんでした、ある日突然無くなってどうしたのかと思っていたら保存処理されて、この様な素敵なケース入りで戻って来ました










  こちらに展示されていますのは破風と呼ばれる大天守の飾り造りの芯に成っている物です。いくつも小さな穴があいていますが、これは釘の跡で、釘の間に糸をめぐらせ泥と漆喰で塗り固める為の物のようです。松本城の破風はその形により唐破風と千鳥破風の二種類があります。ここでいつも外国からのお客様に、言っているジョウクがあります。破風を文字どうり英訳すると、break wind. となりますがこれは違う意味(おなら)をするという意味になります。しもネタですが結構受けます。



  さあ、いよいよ二階に上がります。階段がさらに急になりますので足元にご注意ください!!




英文ガイドはこちらから





大天守一階の様子



鯱瓦固定用芯柱



展示されている鯱瓦



保存されているオリジナルの壁片



ガラスケースに入った土台支持柱の残片



破風の芯板

大天守2階(鉄砲蔵)のご案内!!

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  大天守二階にはご覧のように沢山の火縄銃やその他の小物が展示されています。この階の鉄砲や装備品の展示物は、赤羽さんご夫婦が30余年を掛けてコレクションされた物で松本市に寄付された物です。赤羽通重さんは松本市出身で文化庁の鉄砲刀剣審査員、鉄砲史学会会員で奥さんは加代子夫人です。赤羽氏と松本市はこれらのコレクションを火縄銃などの火器を主力兵器とする攻防を想定して築かれた松本城に展示されることに深い意義があると考え、平成3年より鉄砲蔵として常備開設されることとなりました。なお一部の展示品は民族資料館の方にも展示されています、松本城入場切符には民族資料館の入場料も含まれていますのでお時間が許す限り是非ご覧になっていってください。
  皆さんご存知のことと思いますが最初に日本に鉄砲が伝来したのは1543年薩摩種子島とされています、コレクションの中心はそれ以降江戸時代末期までに日本で製作された火縄銃です。日本の鉄砲の中心的製作地であった江州(滋賀県)国友村の国友筒、泉州(大阪府)堺の堺筒、初期の火縄銃など歴史的文化財として価値の高い鉄砲や古文書など数多く展示されています。
  最初に種子島に漂着した中国の帆船に乗っていたポルトガル人の商人により紹介された火縄銃2丁を模倣しそれが急速に日本中に広がっていく様はいかにも日本の大量生産の技術につながるようです。広がっていく中でも鉄砲製造技術は秘中の秘で他言無用、鉄砲生産に関った人々は血判を押してその証をしました。ですから始まりの技術は一つでも各地でさまざまな発達をとげ生産されていきました。堺筒はその商業都市ゆえお金を掛けた装飾作りに、又国友筒は見かけはシンプルでもその武器としての性能に優れているとされています。それぞれの地域の名前が銃の名前にかぶされ、それぞれの特徴をもちました。

  それでは先に進みましょう


  さてこちらの鎧をご覧下さい、この鎧兜は鉄砲隊の隊長の物です。隣の絵の武士の顔、なんとも疲れたような様子ですね(大きな写真で見てください)、きっと重い鎧を着て戦場を駆け巡りくたびれちゃったのかも。金属、皮、布で作られ総重量約12kgだそうですから無理もないですね、でも鉄砲まだ戦場の主要武器になる前は刀と槍の一騎打ちの戦いの世界、その頃の鎧兜はこの3倍は重かったそうですのでその重さはかなりの物でした。兜の方はスターウォ−ズのダースベーダ−を連想させますね、それに胴回りの帯(オビ)、映画の中でオビワンケノービっていましたよね、ジョージルーカスのこれもパクリかも(笑)。



   この絵をご覧下さい、女性しか描かれていませんね。このように戦国期の鉄砲の弾造りやメンテナンスの仕事は武士の妻や姉妹の仕事でありました。この時期女性のもう一つの仕事は何だったとおもいますか?敵の首を洗い綺麗に整える事でした、男は戦いに出掛け、敵の首を持ち帰る、それを女性が洗い綺麗にラッピングをして、それを殿様に献上すると褒美が支払われました。

  先に進みましょう。


   こちらの屏風絵をご覧下さい、日本の鉄砲の歴史上、更には城郭史上、非常に重要な戦い、長篠の戦が描かれています。この戦いは1575年、日本への鉄砲伝来より約30年後になります、すでに火縄銃もかなり全国に広がってきていました。絵の右側をご覧下さい、武田軍です、武田氏はこの松本地域を1555年から30余年に渡り支配したこともある山梨県の武将でこの戦いの時にはこの地は武田の支配下にありました、その騎馬隊は全国に名を轟かせたつわものでした。当時の戦いはまだ火縄銃は導入されておらず、その装填時間が故に、更にはその騎馬隊が余りにも優秀だった為火縄銃の実践利用には消極的でした。さて左側の軍勢は織田信長と徳川家康の連合軍です、ごらんのように火縄銃が多く見られます、そうです、彼らは強い騎馬隊の攻撃に対して新しい戦略を三つ用意していたのです。第一は見てください、高いフェンスが幾つもありますね、これは騎馬隊の馬を止める為です、二番目には長い槍です、これで馬上の武士を下から襲います。三番目3000の鉄砲隊を組織しました。これが画期的で鉄砲隊を幾つかの小さなユニットに分けました、さらにそのユニットを三つのグループに分けて戦場に分布待機させました、第一グループが撃ちます、第二グループが交代して撃ちます、続いて第三グループが撃ちます、そしてその頃には第一グループの銃の再装填は終了していて又初めからという具合です、これをマシンガン戦略と勝手に名づけました。この戦いの結果は火を見るより明らかでこの戦いを境に武田軍はその力を落とし天下取りより遠ざかっていきました、この地の武田軍も織田軍に押され去ります。さらに言えば、火器が実戦に有効である事が証明された重要な戦いでこの後の実戦の方法、又城郭建築そのものにまで影響を及ぼしたとされます。松本城はこの戦いの約20年後の築城でその影響は鉄砲狭間、壁の厚さ、お堀の幅(約60m)は火器の使用を踏まえた造りになっています。

   徳川家康全国統一後は兵器である火縄銃も武器と言うより芸術、装飾品として発達しました。この火縄銃はこのフロア−で一番お値段が高いものだそうです、何円かは聞かないで下さい。

   さて次の階に行く前に質問があります。この大天守いったい何階建てでしょうか?外から見る限り屋根が5階になってますので5階建てのように見えますが実は6階あるんです、乾小天守も3階に見えますが実は4階が正解です。それではその隠れた階へまいりましょう、足元に気をつけて下さい、それからここからの階段は相互通行になります他のお客さんと譲り合いながらお願いします。


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各地の鉄砲



血判状



鎧兜



弾薬、玉造り



長篠の戦い屏風絵



高級装飾火縄銃