無知・無能・無責任な戦争指導者






日本人は勤勉・誠実な民族です。でも少数の無能・無責任な人間もいました。この無能・無責任な人間が戦争指導者になつたのです。

 戦争指導者は日本のGNPがアメリカの1/13。石油資源に至っては1/1,000で戦争を始めたのか。戦争指導者は戦う相手は小型の護衛空母とはいえ一週間で1隻の護衛空母、1年間に1万5000機ものB-29重爆撃機を作る国と知っていたのでしょうか。

 ハードが叶わない言い訳に精神論でごまかしたのです、曰く『連合国軍は烏合の衆だの弱卒だ』、『一発必中の砲は百発一中の砲100門に当たる(一斉射で敵の砲1門を撃破してもわが軍の1門の砲も撃破され残るのは敵の砲が99門!!)』

あげくの果てに『一億総火の玉だ』、『一億総ざんげ』なる言葉で指導者本人が取るべき責任を無垢な国民に転化した。
 国民は無能な指導者のために命を失い、家財を無くし塗炭の苦しみを押し付けられた。恥知らずな指導者は戦後国会議員になり戦時中に隠匿した金品を取りにいった者もいた。

 
何故原油輸入にたよっていたアメリカに戦争をしかけたのか。近隣諸国と平和に共存している国に誰が経済封鎖をするものなのか
 アメリカから輸入した備蓄原油で戦争が戦えると思ったのか
  
 究極の攻撃力を持つ爆撃機B-29の製造は大きな工作機械、使いやすい治具、機能的な作業分解で技術者は1/3残りの半分は年配の男性、残りは女性です。主婦や娘さんが電動工具を使うのは当然としても天井を走る大型クレーンのオペレーターも女性です。窮屈な運転席で的確な操作をしています。高さ9メートルもの垂直尾翼組立も急な階段を上り降りして男性と一緒に組立をしています。
 反面、我が国は男性だけといっても未熟練者、不適切な組立架台(ジグ)で品質はニの次、数だけをこなしていたのです。人的不足も顕在化してきたのですが何より不足して来たのは原材料です。そして石油不足が決定的でした。
 

1 人的不足 陸軍は無能・無責任な作戦を命令して100万人もの陸軍兵士を犬死させました。
   海軍は志願兵であったのに陸軍指定の軍需工場の熟練労働者を徴兵して陸軍の武器製造の妨害しました。
   当然、陸軍も海軍指定工場の熟練労働者を徴兵して対処しました。
2 主力武力の戦闘機、爆撃機の主原料のアルミは枯渇したので学徒動員された工員が廃棄された航空機の残骸でアルミ板を作っていました。
3 鉄も同様に使えない輸送船やタンカーの代わりにドラム缶をつかったのですが、このドラム缶は精油所の大型原油タンクを分解した鉄板を使わざるを得ない事態になりました。
4 海軍の主力でもある戦闘艦は燃料不足で港に停泊したまま米軍の攻撃にさらされました。

 

【ハードはもちろんソフトも酷かった】 作戦を失敗した司令官、参謀は処罰されるどころか厚遇されさらに負け戦を指導し続けたた。無知無能無責任な戦争指導者が生きながらえ実線部隊は弾丸より飢餓と風土病で死ななければならなかったのか。



@ 自軍に都合の良い展開しか考えなかった参謀は処罰されず出世を続けたのは何故か
A 理念、信念のある指揮官を前線の指揮官にとめおき無能な人間を司令官にしたのは何故か
B 何故人命軽視する指揮官参謀しか出世しなかったのか。最前線の指揮官・将兵は必死で戦ったが戦争指導者は愚作、無責任な思いつき程度の作戦を起案し押し付けた。結果責任を取ることもなかった。

 海外からの原油輸送も途絶え残るは松根油。目標の1.2万breを作るには100万人を超える作業員が必要なのが計算もできなかった。

【こんな人物が海軍大臣、総理大臣】

 渡辺伊三郎著『日本海軍燃料史』 「或る日閣議のあとで、近衛総理から、「僕のところの井戸水は大変なものだよ。あの水がガソリンになるそうだ」と発言があり、米内海相に「調べてみたら」と耳内があり、海相から軍需局長に話が伝えられた。軍需局では詐欺行為であることを熟知していたので取り上げるべきではないと結論された。(web)

【獅子身中の虫 日本陸軍と日本海軍】

1 陸軍がドイツに新鋭エンジンの製造ライセンスを買うことを知った海軍は急遽多額の金銭で買取ったが陸軍には渡さず隠匿、陸軍は国内で解決をすることができず独自にライセンスを購入し悪魔のヒットラーも日本人は未開の原住民より劣るエイリアンと思ったらしい。
2 帝国陸軍と帝国海軍は同士討ちこそしなかったが本来の敵アメリカよりも互いに嫌っていた。
3 両軍とも互いに相手と共通部品は厳禁で銃弾はもちろんビスやナットの類まで互換性を許さなかった。
 @ 同じ口径の銃弾でも細部の規格を変えて互換性は全く無かった。
 A 航空機に至っては操作電源は陸軍は24V、海軍は12Vに固執し製造メーカー、部品メーカーの量産を妨げた。
   さすがに戦争末期危機的状況になって戦闘機などは同一機種を採用したが細部は独自で整備の効率をさげ稼働率を下げていた
 B 大企業は陸軍海軍双方からの生産を行っていたが規格の不統一以上に共同、融通を厳禁させて生産能力を阻害させた。
4 海軍が戦車を開発し陸軍が潜水艦を開発したのは日本だけの愚作であろう。両軍とも相手の指定工場の熟練工を指名して徴集して製造実績を低下させることに励んだ。アメリカと戦うより身内を困らせることに努力していた。
5 占領したオランダ領東インド(インドシナ)の原油量は85%が陸軍、残りが海軍、輸送用のタンカーは海軍が90%残りが陸軍。これでアメリカからの禁輸分を補えたかに見えたが双方協力できたのはミッドゥエー海戦まで、このため輸送手段が無い原油は海に放出する一方海軍が徴用したタンカーはカラ船で停泊したままとなつた。さらに僅かに動いていたタンカーはアメリカ軍に攻撃されて国内搬送は絶無になった。

【露見した石油不足】

1940(S15)年 在庫量1,990万bre(318万kL) 油製品の在庫量 2,968万bre(475万kL)
1941(S16)年 アメリカ、オランダ領東インド(インドシナ産原油)対日輸出禁止 日米開戦
1942(S17)年 占領した南方から石油製品を国内使用分を上回る量を輸送 ミッドウェー海戦
1943(S18)年 航空燃料の質が悪くなる 訓練部隊はガソリン50%、アルコール50%となる 
1944(S19)年 夏 重油不足のため北方艦隊は本土近海、第2艦隊は南方へと分離 松根油の精製本格化
1945(S20)年 燃料不足のため12,000トン/月以上使う戦闘艦は全て休航。国内の重油残量は1万トンを割り込む 敗戦

【石油技術者たちの太平洋戦争】から
1 陸海軍がおのおのの独自の石油供給源と供給量に対する統制力を持ったことは、やはり問題であった。しかも、陸軍が供給源の大半を支配
し、悪いことに最大の消費者は海軍であったこと、その上、油送に必要なタンカーは海軍が押さえていたのであるから、事情はさらに複雑になり、
これらのことが大きな問題点として顕在化するまでに、たいして時間はかからなかった。p.136

2 榎本は海軍の技術将官の身分のまま、陸軍の南方軍兼務という異例の立場に立って、陸海軍間の調整役を努めた。しかし、所詮は南方油
田を押さえた陸軍の立場をくずすことはできず、石油積み出しの管理は、陸軍の言いなりになることが多かった。イニシアチブは陸軍が握ってい
たのである。それでなくとも陸軍の言いなりという不満に加えて、海軍としては頭の痛いことがもう一点あった。昭和十七年六月のミッドウェー海
戦、八月以降の数次にわたるソロモン海戦と、大きな海戦により燃料の消費量はうなぎ登りとなっており、すでに自軍の供給源ではまったく不足
という事態になっていた。敗戦以上にショックだったのは、じつは海戦にともなう莫大な燃料消費という事実の方であった。開戦第一年の消費予
測280万キロリットルに対して、実際の消費は485万キロリットルにおよんでいた。そのため、開戦後一年足らずにして、すでに石油供給の大半を
陸軍に嘆願するという苦しい立場におかれた。

3  しかし、実際の消費量は、一年で485万キロリットルに達した。しかも、補給はといえば、パレンバンでの黒潮丸事件(下記に概要)にはからず
も現われたように、まことに心もとない状況であった。そのため、海軍は慌てふためき、それまでの作戦、戦術を大きく変更したが、それがかえっ
て悪い結果をまねくというジレンマに悩むようになってしまった。海軍派その戦術をどのように変えたのか、いくつかの例を挙げてみる。

 (1)燃料効率を高めるために艦船の速度を経済速度に押さえるようにした。その結果、肝心の戦闘に間に合わないという事態が起こるようにな
った。
 (2)タンカー不足から洋上給油を最小限にとどめるようになった。そのため、艦隊としての効率的な統合や航路選定ができず、みすみす敵方の
術中に陥ることになった。

 (3)訓練用ガソリンの節約から、パイロットの練度が極端に落ち込んだ。それに加えて偵察不足、警戒不足にもなり、結果的に敗戦に結びつく
ようになった。
 (4)掃海にも手を抜くようになり、湾内でのタンカー損失が増大した。
 (5)燃料不足から片道飛行を強いるようになった。また、アルコールの混合燃料や底オクタン価の質の落ちるガソリンの使用により、戦闘以外
の原因によって航空機が喪失するようになった。p.152

【十川透『石油より見た大東亜戦争】から
 昭和17年11月海軍のタンカー黒潮丸ほか一隻が、何の予告もなしにパレンバンに入港してきた。海軍は時あたかもソロモン海域で死闘中であ
り、バリクパパンでの給油が不可能だったので、急遽、事前連絡なしに補給を求めてパレンバンへ来たというわけであった。しかし、パレンバンで
の海軍側への補給は、本廠により船腹割り当てが決められており、支廠長の一存で割り当てを変えるわけにはいかなかった。許可願いを本廠
へ打電したが、予定外の補給は東京に請訓し、陸海軍石油委員会での協議事項になるので、返事は一週間ほど要することになる。
 海戦はそれまで待ってくれるはずはなく、中村支廠長は武士の情けで、一日滞船した時点で、独断で給油を命じた。喜んだ海軍の担当将校
は、船がブルン島の島陰にかくれるまで、ブリッジに立って帽子を振っていた。支廠長はむろん、第二製油所の責任者だった十川少佐にしても、
作戦要務令(陣中勤務、および諸兵の戦闘に関して、基礎となるべき準拠を示したもの)に認められた「独断の適例」であり、上層部もやむを得な
い処置と認めるものと確信していた。しかし、本廠からは「今後、一ドラム缶といえども、許可なくして海軍への給油まかりならぬ」と、支廠長の越
権行為に対して厳しい叱責があった。こんあこともあり、海軍側では、のちにUSSBSに対して、「陸軍は故意に海軍を石油不足に陥れたことは間
違いない」と供述する関係者が出るほどに、陸軍に対する強い不信の念をいだくことになったが、石油不足に関しては、海軍側にも大いなる責任
があった。p.137-139