ゆうさんの松本城太鼓門のガイド

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 さて内堀を右に回り込み左折すると太鼓門がみえてきます初期築造は天守築造の後の1594年頃とされる。明治4年の暮れ頃に破却されましたが、以来昭和40年代の基礎石発掘調査に始まり、50年代には石垣の復元工事が行われ、その後も発掘調査が行われました。平成7年太鼓門枡形の復元許可がおり、この度、平成11年3月に復元落成されました。

 その後一年間”太鼓門復元記念まつり”と称して観光客誘致の行事が四季を通して行われました。

 さあこれが太鼓門です名前の通り時を知らせたり、警鐘を発する為の太鼓や鐘がここにおかれました、今回の復元工事ではその太鼓や鐘を置いたとされる太鼓楼は資料不足と言うことで復元許可が下りず、復元出来ませんでした。本来ならば向かって右奥、手前側にあったらしいです。

 さて正面二の門へつづくこの土橋の付け根のほうが少し狭くなっています。これは鵜の首と呼ばれる虎口の防御のひとつです、押し寄せる敵を狭くまとめて迎え撃つということでしょうか。

 二の門を入るとすぐ気が付くのが一の門が対角線上に配置されていることです、これも敵がたやすくこの門を通り抜けられなくする工夫で、この箱庭の中に入った敵は上の矢座間,鉄砲座間、から狙い撃ちということになります。このような造りは枡形と呼ばれ城の防御の典型となっています。尚、松本城には枡形門が三つありました。先ほど街中橋の上で説明した大手門、そしてこの太鼓門、この後本丸庭園入り口の黒門があります。

 こちらの巨石をご覧下さい、高さ約4m、重さ約26tです。この石、玄蕃石と呼ばれています、松本城天守築造の大名石川玄蕃頭康長の名前からそう呼ばれるようになったとか。
 巨石を重要な門の石垣に使うのはその城主の権力を示すのによく使われています、エジプトのピラミッドしかりですね。
 この巨石、松本東部の山辺の山中より運び出されたのですが、その大きさ、重さに運搬人夫が苦情を訴えたところ、大名自らの指揮下の仕事、その者は即座に首をはねられました。康長はその首を槍の穂先に刺し、他の人足に向かって「者ども、さあ引け!!」と督励して運ばせたそうです。

 太鼓門の広場は鷹狩の際の集合場所、さらには参勤交代の出発集合の場所でもあったそうです。

 さて一の門を過ぎるといよいよ城のなかの城の領域になります、この門の上に石落としがありますが気が付きましたか。

 それでは先に進みましょう。
 


二の門と鵜の首



玄蕃石と一の門

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