松本城近辺のお城達「稲倉城」 武田氏の信濃支配の一翼を担った赤沢氏の本城である。 |
![]() 稲倉城(しなぐら)は浅間温泉稲倉部落の背後にある山城で、その麓に居館の跡をとどめている。 この城は室町時代のはじめから戦国時代末期の天正11年まで浅間郷の領主であった赤沢氏の本城であった。 赤沢氏は、甲斐源氏の流れをくむ小笠原氏の分れで、初代清経が伊豆国田方郡赤沢郷の地頭となり、所の名を取って赤沢氏を称した。 赤沢氏がこの地に来たかは諸説あるが、ひとつには鎌倉時代に浅間郷の地頭となった北条氏の代官として入ったとする説、また、井川に入部した小笠原氏が執権北条基時の知行地を没収し、家臣である赤沢氏を配したとする説がある。いずれにせよ建武年間のことである。 赤沢氏は1548年の塩尻峠の戦いでは小笠原氏を裏切って武田方につき、小笠原氏の敗戦を決定づけた武将であり、その後も武田の一翼を担った武将である。 赤沢氏は武田氏滅亡の後小笠原貞慶に府中から北の嶺間地域平定の拠点として苅谷原城を任されたのを機に、塔原城主海野三河守、小岩嶽城主印旛守らと謀叛を企てたが発覚し、切腹を命じられた、天正11年(1583年)2月12日の事である、この年秀吉が大阪城に入っている。 図と文章は図説松本の歴史(郷土出版より) |
![]() 稲倉の集落より北方に三つの嶺を加工して作られたようです。番号1.2.3の嶺です。 |
2001年11月16日金曜日 今日は朝からピカピカの秋晴れのいい天気、山城巡り絶好のタイミング、さて何処へ行こうか、前回は岡田城を探そうとそうと思える嶺を三つ程登りそれらしき物は何も無く、地区の老人に伺ったら、山城跡はなく城にちなんだ字の地名が幾つかあるからと教えられた。先日、松本城の研究員の中川先生に学研の本に山麓に岡田城の名前が有るのですがとお聞きしたところ、やはり山城ではなくて居館が裾野に有ったらしいとのこと、本が間違いですとの事でした。 そして井深城の北方にある稲倉城を訪ねる事にした。 10時半、デジカメ、資料をデーバックに入れ出発、途中のコンビニでおにぎり、お茶、チョコレートを仕入れて20分程で、稲倉へ到着、バス停の横に説明看板があり上り口はすぐに解りました。でもバスの通路、車を駐車するスペースはあるもののチョットまづいかなと思い、更に100メートル程三才山方面に車を走らせるとチェーン脱着所がありました。ここならオッケー、荷造りをしていざ、登り口まで戻ってきました。 |
史跡看板を見る |
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登り始めると遊歩道風に作られた石垣の道が直ぐに現れる、セメントなど使わない石垣である。そして、右にも、左にも植林されたような石垣で囲われた平削地がつづく。 | ![]() |
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左には畑に作られた耕作地、石垣で段々畑になっている。 |
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そして、右にはも植林されたような杉の木が石垣で囲われた平削地がつづく。 | ![]() |
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これでもかと石垣をみせつけられました。 |