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槻井泉神社は藤の蔓を持あげた彬や欅に囲まれ、山の中腹に古遠く洗馬の地を守護している

〒399-6462 長野県塩尻市洗馬3340番地

槻井泉神社についてCONCEPT

「槻井泉神」の社額

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神祇官卜部良弘が、ここは三代実録に載っている槻井泉神に間違いないと言って残していった額である。卜部良弘は吉田神道三十二代目。神祇官を務める。文化七年五月十一日〜慶応四年四月二日(1810.6.12〜1868.4.24)吉田神道の子孫である。吉田神道とは本地垂迹説を覆し、今の神社神道を起こした一族である。神祇官とは、710年大宝律令によってできた律令制度の官である。政治を受け持ったのが大政官、天皇直属にて、祭りごと儀式を行ったのが、神祇官。神祇官残した社額は松本の深志神社にも存在する。(卜部良弘の父)


神宮寺として光西寺があった

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神宮寺として「光西寺」があったとされる。西光寺の一部と云われている観音堂が現在も槻井泉神社の近くに残り奉られている。神宮寺とは平安時代より起こった神仏習合思想にもとづき、神社に付属して建てられた仏教寺院や仏堂を言う。檀家を持たず、明治の廃物希釈で姿を消す。早くに神仏分離を起こした地域、寺が残って社が消えたところなど様々である。光西寺は、確かにあった「清水山光西寺(真言宗)」しかし平安時代に無くなったとのこと(地区民の話しより)現在資料探索中。


槻井泉神社の大藤蔓

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槻井泉神社の歴史を物語る抱えられないほどの藤の蔓が境内地に生息しており、現在も5月半ばには山を覆うように花を咲かせている。


洗馬という地籍から推測する

藤原実資の「小右記」に洗馬が記載されている。藤原実資が書いた「小右記」に洗馬芦の田の事が載っている。長和三年(1014年)洗馬の牧司より品々が届いたという記録がある。少なくとも藤原実資の時期はすでに洗馬は藤原氏の領地である。当時芦の田は、田は無くとも湿地帯で、陸稲を生産していたのではないかと云われている。さらに古くは、この地より石器の出土もあり、早くから文明があったと思われる。

旅舎がある
伊勢よりお札を持って頒布に訪れた。「御師」と呼ばれる人らが泊まった宿である。今も公民館として存在し、資料が残っている。地区内に伊勢の「内宮」「外宮」を祀った社があった。都との交流があった地と思われる。御師とは神宮に使える下級祀官である。


近代の歴史から見聞

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菅江真澄滞在地である。(1783.5〜1784.6)
菅江真澄はこの地が気に入り、釜井庵に2年近く滞在「庵の春秋」いおのはるあき1784「來目路乃橋」くめじのはし1784を釜井庵にて書き、槻井泉の神輿行列についても描いている。菅江真澄によって記載された槻井泉神社の神輿行列は平成8年まで馬を2頭使った行列であった。奈良井立田祭りの影響を受けているらしい。現在資料検索中


菅江真澄は、江戸時代後期の旅行家。
博物学者。1754〜1829.8.18
詳しくは釜井庵の隣「歴史資料館」へ
菅江真澄の描いた編木(ササラ)踊りは、今も芦の田区に受け継がれ踊られている。編木(ササラ)踊りは645年大化の改新頃起こったと言われ、田楽(でんがく)系統の踊り。田植えに際して農耕儀礼として奏されたものであるが、藤原道真の件以来、怨霊祓いの呪法とも使われるようになる。編木(ササラ)は短冊形の薄い檜の板108枚から成、108の煩悩を祓う厄除けの道具ともされ、床の間に飾られた。元は中国の拍板別紙参照(十数枚の板の上部を紐で綴ったもの)から変化したものと言われる。現在富山県王筒山「こきりこ唄」に使われているのが有名。


洗馬は高遠藩であった。

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高遠藩の鎧がある。明治4年、高遠藩最後の殿様(内藤頼直)より鎧を頂いた。



バナースペース

槻井泉神社

〒399-6462
長野県塩尻市洗馬3340番地