松本城近辺のお城達「伊深城」 「平安時代の末に岡田地域に勢力を張っていた清和源氏の流れをくむ岡田冠者親義が築城したと伝えられる。」 |
麓にあった慶弘寺には慶弘寺殿梅源昌英大門定門の位牌があったこと、寺名に赤沢左衛門の戒名をいただいていること、武田信玄・勝頼の寄進状があったことなどからみてもこの城館は赤沢氏のものであったと考えるのが妥当であろう。 赤沢氏は、小笠原長経の次男清経を祖とする源氏である。清経ははじめ小笠原二郎といい、伊豆国の守護職となった時に、伊豆国赤沢郷に因んで赤沢氏と称した。 後に府中小笠原氏に属して稲倉城に入り浅間、稲倉、三才、原、水汲、洞、の六郷を支配したが小笠原氏の本城林城の落城のとき武田氏に降った。 武田氏は赤沢氏にかえて、小宮山織部を城代としたが、後に洗馬三村氏の流れをくむ後庁氏をついだ出羽守久親が城主となった。 城は、松本平を北から望む要害にふさわしい山城で、東麓に館を構え、稲倉・早落ち・茶臼・横谷入城などと相まって、この地を固めている。 文と見取り図の資料は図説松本の歴史(郷土出版)より |
2001年4月20日 金曜日 天気(快晴) 松本市内より岡田方面へ向う、六助池の交差点で右折、しばらく最近あいた道を進み、畑が開けた所で旧道に入った、農家の方が作業をしていたので、場所を尋ねると八幡神宮の横の道を登るように言われた。 ここだな。 図の左中ほどが入り口で、山道を登ったようだ。 |
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少し登ると市の水道局の伊深配水地があった。どうりで登りの道が舗装化されてきれいになっていた。 | |
曲がりくねって、ある程度急なそれでも結構整備された山道を登っていくと五段位の平削地に出る、大きな松の木が根こそぎ倒れていた。 | |
ここからは尾根道が真っ直ぐ出来ていて80メートル位進むと掘割が有った。 | |
副郭の周りに石垣を発見。 | |
副郭、レンギョウと山桜が咲き誇っていた。 |