松本城近辺のお城達
平瀬城、安曇郡入り口の城

2001年4月27日 金曜日天気快晴
 春の日差しに誘われて、今日は兼ねてから予定の平瀬城へ行って来ました。
場所は島内下平瀬下田、本城へは沢奥の小道による、支城へは道無し。南と北の沢の合流点付近より急斜面を登るしかない。と言う訳で支城からの下りは転がって下りてきました(ハハハ、山城巡りも結構大変っす。)
 古代以降この地を領有し統轄してきた平瀬氏は鎌倉幕府滅亡後に信府に入る。
 信濃守護小笠原氏の信任あつく南北朝争乱時や平時の生活においても表裏一体の関係で運命を共にしてくる。
 平瀬は小笠原氏にとってその後も最も重要な拠点の一つであったことが知れる。
 おそらく南方の犬甘城と共に林城に前後する室町期に相互必要あって築城されたものと考えられる。
 北の本城と南の支城から成っている。
 1550年の10月24日武田晴信の侵攻に会い落城、その際平瀬方武将204人が生命を落とした、城跡から焼米、石臼の破片などが見つかっており、戦時における篭城の足跡をうかがえる。


   図は信濃の山城(郷土出版社)より


 午前9時前回忘れたペットボトルの麦茶と、デジカメ、資料をもって一路国道19号線を明科方面へ向う、下調べした通り薄川と梓川の合流地点付近の道路沿いのスペースに車を止めた、丁度何件か飲食店がある細長い空き地が道路沿いにあり気兼ね無く駐車できました。大体の方向を決めて歩きだした。沢筋を登るはずだからと鉄道のガードのある道路で山沿いに向う。
 しばらく行くと看板があった、その横には石碑が三つ立っていました。


 本城の大手は下田の犀乗沢沿いの道である。城下を南北に川手往還が通じているがこの犀乗沢を渡る所が鍵手になって枡型をつくっている。犀乗沢を登ると南沢と北沢に分かれ、北沢を150メートル程登ると本城に登る小道がある。
      文、信濃の山城(郷土出版社)より



 沢筋をしばらく登るがどうしたものか方向が解らなくなる、多分この山がそうだろうと思って沢筋が二股に分かれる所で左手を見上げると←平瀬城跡の札が掛かっていてこれで一安心。

 この道を少し登ると緩傾斜地の畑地に出る。畑上に大きく掘り下げた帯郭横を登る。道沿いに大手を押さえるための幾つかの帯郭がある。
        文、信濃の山城(郷土出版社)より




 しばらく歩くとかなりの落差のある複数の平削地に出会う。結構な段差のある物だ。
 さらに10分位登ると、竹林に囲まれた扇状の窪地に出る。本に寄れば進入する敵を左右から攻撃出来るようになっている、とある。竹が群生しているのも目隠しの為か。。。
 写真は本郭内を二の郭より望む、二の郭には武者走りの帯郭がついている。
 主郭内東隅に案内立てと、鎮魂碑がある(二十数年前下田の道端貯水溝を掘った時数体の頭骨が石囲いの墓より出土、それ以来本城で鎮魂祭を行っている。)
 一の郭東側の周りは深く空掘りが施されている。
 本城、一の郭より支城の山と松本平、島内方面を望む。
さあ、いよいよ支城攻めだ。。。