穂高秘話
探検登山~黎明期にかけての穂高小史
『穂高の穂は秀につながり気高く優れた山』 と古史にある。登山史以前には奥山とも呼ばれてたこの気高き山に最初
に登った人は、英国宣教師の ウオルタ-・ウエストン(1893年)との伝えが一般的定説であるが、実はウエストンの
1週間前に 陸地観測官一行(地図を作る役人)によって登頂がなされていて (その時の案内人はどちらも上条嘉門
次東面からの前穂高岳) ウエトンンの登頂に関しては、外国人による初登攀と位置づけしている山岳解説者もいる。
嶮山にして登ることかなわず。と 称えられた穂高の峰であったがウエストン以降登山熱が高まり、奥穂や北穂や西穂
など多方面からの登山が試され、1909年前穂~奥穂~北穂~槍ヶ岳への初縦走を果たして穂高山群における探検期
時代が終了したと登山史にある。ところで この探検登山期には穂高各峰の呼び名が登頂者によって変えられているの
が面白い。例えば現在の前穂高岳を南穂高とか明神岳。その明神岳は前穂高岳。涸沢岳が北穂高岳。北穂高は東穂高
岳と記録されたり、他にもあって論争も多々あったようだが、1930年公的な5万分の1の地図が国から発表されて現
在の峰名に落ち着いたとのこと。日本の暦で言うと大正末期から昭和の初めにかけて登山は探検期から趣味的存在へ
と移行し、やがてスポ-ツ登山となって現在に続いている。
大学山岳部もこの頃だ。ヨ-ロッパアルプス仕込のアルピニスト達の持ち帰ってきた登攀装備やアルピ二ズム魂に魅入
り、部員たちはより困難なル-トに青春を賭けて挑んだ。ジャンダルムとかザイテングラ-ドとか横文字言葉の使われ
始めたのもこの頃のようだ。この頃(昭和初期)には勿論山小屋等ない。しかし穂高にはヨ-ロッパアルプスに近い山
並みがあってその山並みのビユ-ポイント位置に岩小屋があった。前記の前穂~槍の初縦走の際にも使われたようだが
当時の精鋭達(登山史に名を残した人々)は競って岩小屋に集結し未登攀稜を攀じ、人生を語り合ったのだと。だから
して 穂高涸沢は近代アルピ二ズム発祥の地なのだと,駆け出しの頃に何度も聞かされ、我がガイド人生にはそんな先輩
達の熱き岳人魂に憑かれての、多分そんな影響が大であったようだ。
以下 穂高生活50年間に見聞きした穂高の内緒話や面白話をあれこれ
お聞かせしましょう。
①ジャンケンクラック (滝谷クラック尾根)
「飛ぶ鳥も止まらんズラ」 との名言は、知る人ぞ知る嘉門次翁の言葉だ。前穂~槍ヶ岳初縦走(1909年・鵜殿正雄
パ-ティの案内役)の際、切れ落ちる岩々の様に生唾を呑み込みながらそうつぶやいたと言うその鳥も止まれないと
表現された滝谷は、穂高主稜上の大キレットから、涸沢岳間の飛騨側範囲の総称で日本を代表する岩場群。下部には
雄滝とか雌滝とか滅多に見られない 滝群が万年雪をつめて連っていて、その滝群からの初登攀が1925年の8月。奇
くも同じ日の2つのパ-ティによる快挙だったが 到達位置に両者の違いがあってA沢のコルとC沢のコル。A沢パ-
ティが時間的には早かったが、初登攀の権利は場所的に高位置に出たD沢パ-ティにありと両者ゆずらず、滝谷初登
攀ドラマは後年の登山界を揺るがしたとの由。滝谷初登攀劇はこの項の趣旨でないので割愛するが、後年この時
の両キャプテンと知り合うチャンスをいただくので 項を改めて再編したい。さて前置きが長くなったが、クラック尾
根は北穂小屋横を登攀終了点とするB沢サイドの岩稜。その名の通りクラックの連続する上級者向けの人気岩稜で
ル-ト中ほどにジャンケンクラックと呼ばれる美しいクラックがある。岩の割れ幅は半身が入るが程度。上にいくほど
に狭くなり、中程にかぶり気味のチョクスト-ンがあって、その辺りの処理が登攀の最大のヤマ場になる。名前の由来
は初登攀(1939年8月)の時、朋友とトップを譲り合ってのジャンケンとのこと。先陣の争いなのではなく譲り合い
なのだ。この話を最初に聞いた駆け出しの頃には、彼らの真意を測りきれずにかなりのショックだったが、年を経てそ
の意味の奥深さを知り登攀メンバ-のユ-モラスと心の広さに感動させられた我が青春時代。 この頃は、寝ても起きて
も立ちだかる岩壁がいつも目の前にあった。
ジャンケンクラック ルート写真
②梓川
槍ヶ岳を源泉とする槍沢と、 穂高や南岳を源泉にする横尾谷と、ふたつの流れが横尾で合流して
流れの名前が梓川になる。
日本有数の清く美しい梓川は 途中幾十もの支流を合わせ、松本に出て犀川と名を改め、長野に出
てあの古戦場辺りで千曲川。最後は新潟との県境から信濃川となる。
信濃川の源流域は川上村(千曲川)。 源泉域は甲武信岳というのが教科書等での定説であるけど
もう一方の源泉域、槍・穂高の存在を知る人は少ない。
「あずさ」は木の名前。カバノキ科の「ミズメ」と言うのが樹木の別名と植物図鑑にある。粘りが
あって弓の材料に多用されたとのこと。 あずさの原木が上流域にあって (主に釜トンネル下から
十石峠にかけての梓川側斜面)梓川の川名はそこから名付けられたとの由。
その梓川は北アルプス誕生初期の頃には(数十万年前)岐阜県側に流れていたとか。
それは槍ヶ岳固有の古代期の岩塊がある筈のない高原川で発見されたり、不思議に思って地層内
を調べてみると岩盤の傾きも岐阜県側が低く、温泉の流出量もそのことを裏付けていて、学術的に
もこの事は定説らしいが、 焼岳周辺の火山活動がその後流れを堰き止め、今の方向に変えたとの
こと。山の帰りに十石峠に立ち寄って古の流れを思い浮かべるのも一興かも知れない。
さて梓川の源泉池と言えば「天狗池」「北穂池」「涸沢池」「奥又白池」「瓢箪池」 等名の通った
源泉池が数か所あるが「梓水神社」 と言う社が乗鞍高原山麓にあり 境内西側に気になる池がある
ので最後にその池を紹介しよう。
梓水神社は867年の鎮座と言う。昭和初期頃までは老木が鬱蒼と生い茂る竜神の住む社で里人さえ
も近づきがたい雰囲気だったとのこと。気になる池は「御池」と言う。 梓水神社の御神体が池中ほ
どの祠に祀られていて、農耕の水神様が鎮座する池として信仰が厚く 水飢饉の年には遠方からも池
の水をいただきに来たと言う文字どうりの「雨乞いの御池」だったとのこと。
さらに気になるのはこの池には入水口がなくそれでいて涸れることがないのだ。と言うのも実は私は
池の近くに住んでいて朝晩眺めていると、中程の水面が風もないのに揺れていて地中深くに巨大水瓶
があって、そこと何やら繋がっているようなそんな気がしないでもない (近所のお年寄りは諏訪湖と
繋がっていると、祖父から聞いたと言っていた)
故に『梓川の源泉池は御池なり !!!』 梓水神社の神主さんは自信を持って言い切っている。信濃川の
源泉域は千曲川に譲るとしても、梓川源流域には旅心を誘われる色々な風景とロマンがあり、御池の
さざ波は、ひょっとして竜神様のため息なのかも知れない。
【 御 池 初 雪 】
【 御 池 秋 色 】