穂高秘話

探検登山~黎明期にかけての穂高小史

『穂高の穂は秀につながり気高く優れた山』 と古史にある。登山史以前には奥山とも呼ばれてたこの気高き山に最初
に登った人は、英国宣教師の ウオルタ-・ウエストン(1893年)との伝えが一般的定説であるが、実はウエストンの
1週間前に 陸地観測官一行(地図を作る役人)によって登頂がなされていて (その時の案内人はどちらも上条嘉門
次東面からの前穂高岳) ウエトンンの登頂に関しては、外国人による初登攀と位置づけしている山岳解説者もいる。
嶮山にして登ることかなわず。と 称えられた穂高の峰であったがウエストン以降登山熱が高まり、奥穂や北穂や西穂
など多方面からの登山が試され、1909年前穂~奥穂~北穂~槍ヶ岳への初縦走を果たして穂高山群における探検期
時代が終了したと登山史にある。ところで この探検登山期には穂高各峰の呼び名が登頂者によって変えられているの
が面白い。例えば現在の前穂高岳を南穂高とか明神岳。その明神岳は前穂高岳。涸沢岳が北穂高岳。北穂高は東穂高
岳と記録されたり、他にもあって論争も多々あったようだが、1930年公的な5万分の1の地図が国から発表されて現
在の峰名に落ち着いたとのこと。日本の暦で言うと大正末期から昭和の初めにかけて登山は探検期から趣味的存在へ
と移行し、やがてスポ-ツ登山となって現在に続いている。
大学山岳部もこの頃だ。ヨ-ロッパアルプス仕込のアルピニスト達の持ち帰ってきた登攀装備やアルピ二ズム魂に魅入
り、部員たちはより困難なル-トに青春を賭けて挑んだ。ジャンダルムとかザイテングラ-ドとか横文字言葉の使われ
始めたのもこの頃のようだ。この頃(昭和初期)には勿論山小屋等ない。しかし穂高にはヨ-ロッパアルプスに近い山
並みがあってその山並みのビユ-ポイント位置に岩小屋があった。前記の前穂~槍の初縦走の際にも使われたようだが
当時の精鋭達(登山史に名を残した人々)は競って岩小屋に集結し未登攀稜を攀じ、人生を語り合ったのだと。だから
して 穂高涸沢は近代アルピ二ズム発祥の地なのだと,駆け出しの頃に何度も聞かされ、我がガイド人生にはそんな先輩
達の熱き岳人魂に憑かれての、多分そんな影響が大であったようだ。

以下 穂高生活50年間に見聞きした穂高の内緒話や面白話をあれこれ
お聞かせしましょう。

 ①ジャンケンクラック (滝谷クラック尾根) 
飛ぶ鳥も止まらんズラ」 との名言は、知る人ぞ知る嘉門次翁の言葉だ。前穂~槍ヶ岳初縦走(1909年・鵜殿正雄
パ-ティの案内役)の際、切れ落ちる岩々の様に生唾を呑み込みながらそうつぶやいたと言うその鳥も止まれないと
表現された滝谷は、穂高主稜上の大キレットから、涸沢岳間の飛騨側範囲の総称で日本を代表する岩場群。下部には
雄滝とか雌滝とか滅多に見られない 滝群が万年雪をつめて連っていて、その滝群からの初登攀が1925年の8月。奇
くも同じ日の2つのパ-ティによる快挙だったが 到達位置に両者の違いがあってA沢のコルとC沢のコル。A沢パ-
ティが時間的には早かったが、初登攀の権利は場所的に高位置に出たD沢パ-ティにありと両者ゆずらず、滝谷初登
攀ドラマは後年の登山界を揺るがしたとの由。滝谷初登攀劇はこの項の趣旨でないので割愛するが、後年この時
の両キャプテンと知り合うチャンスをいただくので 項を改めて再編したい。さて前置きが長くなったが、クラック尾
根は北穂小屋横を登攀終了点とするB沢サイドの岩稜。その名の通りクラックの連続する上級者向けの人気岩稜で
ル-ト中ほどにジャンケンクラックと呼ばれる美しいクラックがある。岩の割れ幅は半身が入るが程度。上にいくほど
に狭くなり、中程にかぶり気味のチョクスト-ンがあって、その辺りの処理が登攀の最大のヤマ場になる。名前の由来
は初登攀(1939年8月)の時、朋友とトップを譲り合ってのジャンケンとのこと。先陣の争いなのではなく譲り合い
なのだ。この話を最初に聞いた駆け出しの頃には、彼らの真意を測りきれずにかなりのショックだったが、年を経てそ
の意味の奥深さを知り登攀メンバ-のユ-モラスと心の広さに感動させられた我が青春時代。 この頃は、寝ても起きて
も立ちだかる岩壁がいつも目の前にあった。

                            ジャンケンクラック ルート写真
②梓川

槍ヶ岳を源泉とする槍沢と、 穂高や南岳を源泉にする横尾谷と、ふたつの流れが横尾で合流して
流れの名前が梓川になる。
日本有数の清く美しい梓川は 途中幾十もの支流を合わせ、松本に出て犀川と名を改め、長野に出
てあの古戦場辺りで千曲川。最後は新潟との県境から信濃川となる。
信濃川の源流域は川上村(千曲川)。 源泉域は甲武信岳というのが教科書等での定説であるけど
もう一方の源泉域、槍・穂高の存在を知る人は少ない。
「あずさ」は木の名前。カバノキ科の「ミズメ」と言うのが樹木の別名と植物図鑑にある。粘りが
あって弓の材料に多用されたとのこと。 あずさの原木が上流域にあって (主に釜トンネル下から
十石峠にかけての梓川側斜面)梓川の川名はそこから名付けられたとの由。
その梓川は北アルプス誕生初期の頃には(数十万年前)岐阜県側に流れていたとか。
それは槍ヶ岳固有の古代期の岩塊がある筈のない高原川で発見されたり、不思議に思って地層内
を調べてみると岩盤の傾きも岐阜県側が低く、温泉の流出量もそのことを裏付けていて、学術的に
もこの事は定説らしいが、 焼岳周辺の火山活動がその後流れを堰き止め、今の方向に変えたとの
こと。山の帰りに十石峠に立ち寄って古の流れを思い浮かべるのも一興かも知れない。
さて梓川の源泉池と言えば「天狗池」「北穂池」「涸沢池」「奥又白池」「瓢箪池」 等名の通った
源泉池が数か所あるが「梓水神社」 と言う社が乗鞍高原山麓にあり 境内西側に気になる池がある
ので最後にその池を紹介しよう。
梓水神社は867年の鎮座と言う。昭和初期頃までは老木が鬱蒼と生い茂る竜神の住む社で里人さえ
も近づきがたい雰囲気だったとのこと。気になる池は「御池」と言う。 梓水神社の御神体が池中ほ
どの祠に祀られていて、農耕の水神様が鎮座する池として信仰が厚く 水飢饉の年には遠方からも池
の水をいただきに来たと言う文字どうりの「雨乞いの御池」だったとのこと。
さらに気になるのはこの池には入水口がなくそれでいて涸れることがないのだ。と言うのも実は私は
池の近くに住んでいて朝晩眺めていると、中程の水面が風もないのに揺れていて地中深くに巨大水瓶
があって、そこと何やら繋がっているようなそんな気がしないでもない (近所のお年寄りは諏訪湖と
繋がっていると、祖父から聞いたと言っていた)
故に『梓川の源泉池は御池なり !!
!』 梓水神社の神主さんは自信を持って言い切っている。信濃川の
源泉域は千曲川に譲るとしても、梓川源流域には旅心を誘われる色々な風景とロマンがあり、御池の
さざ波は、ひょっとして竜神様のため息なのかも知れない。




【 御 池 初 雪 】

【 御 池 秋 色 】 


 
③穂高ビユ-ポイント

(1)に河童橋 (2)に涸沢 (3)に徳本峠 (4)常念岳 (5)に蝶が岳。辺りが番付の定
番で改めて解説は不要かと思はれる。
(6)見過ごし易く意外と意外なのが二の俣尾根。稜線から200メ-トル程下降すると趣の異なる
涸沢カ-ルが前方にあり、特に朝霧の中の穂高は絶品だ(尾根をそのまま下って一の俣、二俣
への下降も可能)。 (7)続いて南岳からの滝谷。プロのカメラマンたちが競い合っての お立ち
会い場だけに、夕陽燃え立つ迫力さは主稜線上でナンバ-ワンだ。 (8)(9) は北尾根六峯と
奥又白池。どちらも軽くバリエ-ションル-トになるが、六峯は五・六のコルから30分。北尾根も
五峯から上は雰囲気的にも厳しくなるが、六峯辺りがジャスト仰角。前穂・奥穂・北穂と弓なりに
並んだ北穂の右奥に槍が入る。
奥又白池へのル-トはもともとは獣道。涸沢から前穂東壁に通うクライマ-達のアプロ-チル-ト
でもある。前記五・六のコルから約2時間。一旦下降して不安定なガラ場を横切り、 秋にはベニ
バナイチゴなど摘みながら徳沢からの道と合わせ、ひょいと尾根を越すといきなり現れる。一周
100メ-トルちょいくらい。 あの山岳ドラマ氷壁の、 前穂東壁群を湖面いっぱいに映しての標高
2500メ-トル。ゆれる小波に思いを乗せて、しばしわが心をもゆらしてみよう。
穂高各峰の山名が今日のように定着する以前、上高地の猟師達は前穂高岳を又四郎岳と呼ん
でいたとか。 又四郎なる人物は登山史に登場しないが彼らの仲間か先達だろうか。時代が移り
自分達のマタシロウがマエホタカに変えられてしまった折、その名の一字をつめて谷名に残した
のがマタシロ、又白谷だと言われている。ちなみに梓川側には下流から下又谷・中又谷・奥又谷
の顕著な谷が3本あり、奥又谷の上部台地に位置するので奥又白の池。下又谷と中又谷を分け
る上部台地には瓢箪の形をしたひょうたん池があり、明神岳東稜のオハシス的アタック起点にな
っている。
最後に登場するのが屛風岩の耳(10).穂高のビュ-ポイントとしてナンバ-ワン的存在であろう
此処への道も、 まさか展望を楽しもうと通ったのでもなかろうが、最初に足跡を付けたのは獣達
だった。その後屛風岩の登攀者達が少しずつ幅を広げ、さらに一般登山道としてのパノラマコ-
ス誕生が昭和の30年代中頃だった。涸沢ヒユッテから片道2時間40分。穂高のモルゲンロートを
おさめようと夜明け前に出発するカメラマン衆が、昔も今も絶えないとのこと。
話の順序が逆になるが涸沢への道も最初は獣達だった。稿書き始めの岩小屋の頃になって横尾か
らの入山者が増し、涸沢への道が歩き易くなったと、昭和初期頃の古い案内書にある。
横尾谷沿いの道と言えば対岸に屛風岩がある。森の切れ目に美しいと言うより恐いと表現したく
なる落差600メ-トルの大岩壁が聳え、聳え立つ岩壁のテッペンが屏風の頭、その隣横にあって
馬蹄形穂高山群の左端位置を占めるが屏風の耳なのだ。
馬蹄形とはお馬さんのひずめの形。屛風岩から前穂にせり上がり、吊り尾根を経て奥穂。さらに
涸沢岳~北穂と連なり、馬蹄形の右側端を占めるのは北穂東稜だ。部分的にも良し、 パノラマも
良し。春も夏も秋も、ここには飽きることのない感動のアルプス風景がある。

 
④天狗の踊り場
「天狗岳(奥穂~西穂間)」「天狗原(槍沢上部)」「天狗の腰かけ(北鎌尾根)」など、天狗の
名の付く所が槍・穂高にはいくつかあり、此処での天狗様は横尾谷左俣。大キレット下の氷河圏谷
内にある「天狗の踊り場」です。
「天狗」 を辞書でひくと『神通力をもち深山に住む想像上の怪物』 とあるけど、一般登山道から
外れた秘密めいた所、眺めのいい所に山ではその名が付けられていて、何処となく愛嬌があって優
しくて、登山者には見えない角度から安全を見守ってくれてるような、天狗様にはそのような思い
もしないでもない。
そこは横尾谷左俣カ-ルの底の辺り、 氷河作用の置き土産であろう 大小の岩塊がゴロゴロあって
その中の一つにそんな雰囲気の岩があるんだ。 涸沢の昼寝岩を二回りほど大き目にしたステ-ジ
形の岩。 寝ころべば南岳の岩壁群が頭上にありカ-ル下には北穂の池が 碧くみずみずしい。踊り
疲れた後、 あの碧き水で渇きを癒しているのかと、ふと瞑想めいた気分で岩の下をのぞけば 中は
岩小屋風になっていて、奥には焚火の跡さえある。 北穂小屋の出来る以前は (1948年以前)滝谷
に入るパ-ティ は其処をべ-スにしていたとか。 駆け出しの頃に聞いた記憶がある。
「天狗の踊り場」からは稜線上のA沢のコルまで1時間半程度。幾度か上り下りしていても そこに
夜を過ごした機会はないけれど、満月の夜になど、ひょっとして ひょっとするかも知れない横尾谷
左俣の「天狗の踊り場」の雰囲気。穂高に残された最後の秘境でもある。


 
⑤あずき沢
巨大すり鉢状の穂高氷河圏谷(涸沢カ-ル)は圏内上部が4つの領域に分かれていて、夫々に谷名
や尾根名があり、そのうち白出のコルを源頭にもつ沢状斜面を「あずき沢」と呼ばれている。 沢
の特徴は夏遅くまで残雪を残してダイナミック。ザイテングラ-ドと共に奥穂高と涸沢岳を分け、
残雪期登山のダイレクトル-トになってる。
時は第7回冬季オリンピックに向けての涸沢合宿中のこと。久々の休養日に選手達は奥穂に登り
帰路穂高山荘に寄って思いがけなくもお汁粉を頂いたそうな。戦後の物不足時代で、山小屋での
食事は質・量ともに充分でなかったはず、 選手達は重太郎さん (穂高山荘創設者)のもてなしに
小躍りしていただいたそうな。
その時のチ-ム (猪谷千春氏や杉山進氏などのナショナルチーム)の監督は猪谷六合雄氏。それ
はそれは練習は厳しく、Ⅲ・Ⅳの雪渓中程からの本チャンGSセットを 日に4本のハ-ドスケジ
ュールだったとのこと。当時の国内経済事情は、設備の整った海外での練習など夢のまた夢。選
手達は自分の足で登り返しての4本だったとのこと。
コルチナダンペッツオオリンピック (1956年開催。この大会で猪谷千春選手がスラロ-ムで銀メダ
ル。オリンピック史上に残る トニイ・ザイラ-の三冠王もこの時の大会だった)に向けての涸沢合宿
とは言え、並みの精神力では耐えきれぬハ-ドさの中での重太郎さんの優しさには 過分に慰めら
れるものがあったと、当時のことを聞かせて頂いたのは杉山進氏。 15年前の涸沢でだった。
選手達は休養日を見つけてはその後も山荘に通いだれ言うとなく小豆に逢える沢「あずき沢」 と呼
んだそうな。

 ⑥松濤岩
北穂の頂上に立って奥穂高方向を眺めた時、北穂沢源頭をはさんですぐ目の前にある 小岩塔を
松濤岩と呼んでいる。松濤と言う名は 「風雪のビバ-ク」 のあの松濤明。その松濤明が滝谷第Ⅰ
尾根冬季初登攀の際にべ-スとして利用したのがこの岩の根っことのこと。それ故の命名と聞いて
いる。当時は島々から歩いての北穂南峰・北峰間のビバ-クサイトだった。
時は1939年12月。松濤明18才の暮だったと言う。 パ-トナ-は地元島々の上条孫人。登攀詳細
は専門書にお目通し願うとして、12月23日10時に登攀を開始して、終了点の北穂頂上に登り着い
のが夜の10時15分 『いい月だなあ- 』 頂上の雪の上に無事戻って、相棒の孫人がそう叫んだと
明の手記にある。
命名の本意は初登攀を祝っての仲間たちからのプレゼントであろうが、「風雪のビバ-ク」 の悲劇
は11年後の1950年。思うにプレゼンタ-は北鎌の後、彼の所属する山岳会(徒歩渓流会)の友人
たちによって50年代中頃の頃かと想像される。

添えた写真は第二尾根P1手前からの松濤岩の横顔です。はたしてどのように
解釈されるか、ご意見をいただければ幸いです。(右端のシルエットの岩)


 
⑦「大蝙蝠」・「狸岩」・「獅子岩」
初夏雪解けの頃に、北尾根3峯から4峯下に蝙蝠の雪形があらわれ、その北尾根の6峯左稜に
は狸岩。獅子岩は涸沢槍の真下、ザイテングラ-ドへと続く斜上登山道の 200メ-トルほど上
に。などなど涸沢カ-ルには氷河作用の置き土産がそこここにあり、穂高誕生期のロマンを偲
びながらの散策にも一興ある。
1950年代の中頃涸沢テント村に「涸沢キゾク」と呼ばれた人達がいた。本人達は「貴族」と言
い、周囲からは「奇族」と呼ばれていたとのこと。前穂東壁や滝谷屛風岩など穂高の岩壁群に
手づかずの未登攀壁が残されていた時代だった。心技体のうち心の方はさておいても、技と体
には並み外れた人達であり、未登攀壁を端から狙い 北穂にでも奥穂にでも涸沢から駆け上が
って3~40分もあれば充分ズラ(ズラは地元の方言)と仙人気取りでうそぶき 中には飛ぶハエ
を煎って食べちゃったと言うツワモノもいたとか・・・・・・、
キゾク達の紹介がテ-マでないので本題に戻るが、置き土産の命名もこの頃とのこと。背景的
に判断して名付け親は彼等(彼女もいた)の中の知恵者のように思えるが 「大蝙蝠」 は7月下
旬から8月上旬にかけてのパノラマコ-ス中間付近からが姿良く、 「獅子岩」 はザイテングラ
-ドの取りつき辺り、あるいは北穂南稜の梯子場上から見下ろす角度の背中姿がいい。「6峯
の狸岩」は ズバリ涸沢小屋の展望テラス。中秋の名月の時に 、名月が隠れてシルエットの姿
狸が出現するとか・・・
山小屋の顔ぶれや登山者の姿は変わっても、穂高の名所、雰囲気は今も昔に変わりない。 と
は言うものの 「狸岩」は最近「トトロ岩」などと呼ばれているらしい・・・・

追記 涸沢貴族周辺話は 『おんな独りぽっち』 辰野嘉代子著  読売新聞社発行
をご覧下さい

 
⑧大キレット
古い地図に「大切戸」とある。「おおきりど」が「おおキレット」になり 「だいキレット」と
呼び方が変化したと山名辞典にある。大キレットと言えば槍~穂高縦走路の核心部。多くの登
山者が目標にしていて、此処を越えることが一種の勲章みたいになっている。
「キレット」と呼ばれる箇所は後立山の鹿島槍~五竜岳間や八ヶ岳にもあるが「キレット」 の呼
び名は信州固有のもの。.同じ形状を越中では「窓」と呼んでいる。 剣岳北方主稜上の「大窓」
「小窓」「三の窓」がそれであり、察するに地図などなかったころ、山々の存在が神に近かった
頃であったかも知れない。あの山の窪んだ向こうにはどんな世界があるんだろうか・・・山脈の
鞍部を窓に見立てて、土地の人々のそんな思いが「窓」と言う呼び名になったのであろうか。
越中人の心優しい様がなんとなくうかがえる。
大キレット通過の最大の難所は、馬の背と飛騨泣き。馬の背は長谷川ピ-ク稜上にあり(長谷川
ピ-クの由来は不明)稜上が狭く通過時のしぐさからその名があり、飛騨泣きはA沢のコルから
北穂側に150メ-トルほど登った滝谷側(飛騨側) 名の由来は想像におまかせするとしても泣
きたくなるくらいにショツパイことは確かだ。北穂小屋はじめ関係者の手入れで以前ほどではな
くなったとは言え、心技体、此処の通過には確かなものが必要だ。

 ⑨紀美子平
岳沢から重太郎新道を登って3時間半。 鎖場帯を抜けて稜角を越すとちょっとした広場があっ
てそこが紀美子平だ。紀美子平は前穂の肩。 一息入れて山並みを眺めると一旦視野から消え
た奥穂から西穂えの本邦屈指の岩稜帯が左手にあり、 正面スラブ帯には前穂への登頂ル-ト
が見え隠れにある。奥穂からの縦走者も岳沢からの逆縦走者も、ここにザックを置いて前穂の
ピ-クを往復する。紀美子平はそんな場所になっていてたいてい多くの登山者で賑わっている。
紀美子は重太郎さんの娘さん。大正末期に 手作りで小屋を建てた重太郎さんは、続いて登山
道の開削に取り掛かり、 現在の重太郎新道を奥方と2人で開通させたとのこと。小屋から通っ
ての力仕事ゆえ数年がかりの大仕事だったように思えるが、 その際に、幼少の紀美子を寝か
せておいた場所がこの岩棚だったとのこと。後にまな娘は病にこの世を去るが、人々は重太郎
さんの偉大な業績とロマン、そして彼女の命運を偲び、この場所に紀美子の名を残したと言う。

 ⑩宝の木
宝の木はダケカンバ。標高およそ2500メートル。奥又白池の見晴らしの良い所にあって幹は
30センチ程。 同じ所に3・4本あり、うちの1本が背丈ほどのところから大きく曲がってい
て特徴があり、 その木を指しての命名らしいが名付け親は旧制松高山岳部(現信州大学
山岳部)とのこと。 旧制と言うから話は古くなるけど、その頃は学生山岳部が国内の山岳界を
リ-ドしていた時代であり、奥又白谷一帯は松高山岳部の聖地だったとのこと。
松高の名の付く開拓ル-トは「松高ルンゼ」「松高カミン(チムニ-と同意語・前穂東壁群北壁
の途中にある)」北尾根Ⅳ峯正面壁の「松高ル-ト」等があり、入山時や登攀後の帰路方向な
どテントサイドを示してくれる宝物のような存在であったのであろう。
そしてです「宝の木」は松高のみにあらず、冬季の奥又谷エリアに入山する多くの岳人達にと
っても宝の存在であり「宝の木」の名はこのエリアにおいて現在でも固有名詞的存在になって
いる。
残雪きらめく初夏に良し、光きらめく盛夏に良し、紅きらめく秋はさらに良し。 前穂東壁群を
正面に見て又白池の湖畔に立てば、「氷壁」始め登攀史に残る数々の山岳ドラマが水面に揺れ
動き、ひょっとして見る者の心をも映してくれるかも知れない又白の池。ル-トは新村橋を渡っ
て中畑新道を往復するのが一般的であるが、熟達者であれば北尾根Ⅴ・Ⅵのコルへとル-トを
採れる。

 ⑪ゴジラの背
ゴジラの背は北穂東稜にある。
この項をご覧いただいている方には今さらの説明でもないが、北穂高岳は南峰と北峰の双耳
峰からなっていて、南峰から派生している尾根を南稜、北峰からの派生岩稜を東稜と呼び、
一般ル-トの南稜に比べ東稜は軽いバリエ-ションル-トになっている。
「ゴジラ・・・」 というくらいだから、名付け時期はゴジラが世に出てからになるだろうが
(第1作の映画化が1954年)東稜にその名の付くのは数年後の、登山ブ-ムに沸いていて
68年代中頃あたり、当時の登山事情からその頃かと察せられる。
当時は万事に国中が熱くなっていた。乗物は新幹線もあずさ号もなかったが若者達の志向は
高く、満員の鈍行両夜行での登山。槍~穂高の縦走路にはキレット辺りに列が出来、滝谷を
登るにも人気ル-トは順番待ちするほどの、屛風岩や前穂東壁群も含めて 穂高中が岩登り
ブ-ムの盛期だった。
そんな折、 順番待ちに苦慮しているクライマ-達のべ-スにと、北穂小屋の小山オ-ナ-の声
がかりで南稜テラスにテント場が整備された。 初期の頃は数も5~6張程度の少ない整地だ
ったがアプロ-チ時間の短縮に利用者からは好評だった。そしてだ。そこに憩うクライマ-達
から発信されたのが「ゴジラの背」だった。 顔があって、トサカがあって、背ビレがあって、
朝な夕なに東稜と向き合うテントサイドから見る鋸歯群はまさにゴジラの姿。 登攀帰りのク
ライマ-達は映画のシ-ンにそれらを合わせて、しばし空想のひと時に魅入ったのであろう。
北穂東稜の登攀ポイントは背の部分のトラバ-スと その先の横尾谷側への懸垂下降。 落差
は15メ-トルほどで問題ないが 下降口が軽くハングしていて、入門者には少々ショッパイか
も知れない。リッジ通しの下降も可能であるが、 一旦振られると北穂沢側に大きく振られるの
るので要注意!!


 
⑫岩小舎
「坊主の岩小舍」 「横尾の岩小舍」 「涸沢の岩小舍」 槍・穂高のビックスリ- 岩小舍と言えば
この3つだ。がしかし、横尾の岩小舍は水害で崩れて現在は「跡」になっていて、 正確にはだっ
たと言う表現になるのかも知れない。

「坊主の岩小舍」 は殺生ヒユッテの一段下。槍ヶ岳開山の折 あの播隆上人が寝泊りしたと言
われる岩小舍で名の由来もそこにあり、中は4~5人が入れる広さになっている。登山道の道筋
にあって碑もあり、今さら仔細説明までもないでしょう。「坊主の岩小舍」 のことは槍ケ岳に行
った人なら誰もが見て知っている。

「横尾の岩小舍」 は横尾大橋から15分の所。 林を抜けて河原状に出た道横に中が空洞に
なっている大岩があった。入口が広く、4~5人くらいはゆったりのスペ-スだった。
坊主の岩小舍が槍であるならここでの狙い先は屛風岩だった。 歴史的には ウエストンも使用
したとの記述もあるが定かではなく、文献に登場する最初の使用者は慶応大の山岳部だった。
1924年の夏、屛風岩を登って(勿論初登攀)前穂まで1日でやる計画だったとのこと。偵察の
時に1,2泊したと、 その折の登攀メンバーだった佐藤久一郎さんから、 偶然出会ったグリン
デルワルトのテン場でお聞きした。 久一郎さんは後年キャバンシュ-ズ社を立ち上げたお方、
色々と多才な方で上高地のウエストン碑や滝谷出合の藤木九三氏のレリ-フも、久一郎さんの
作だ。が、多趣味の久一郎にとっての一番のことはやはり山登りだったみたいで、 定年前に
会社を息子さんに譲られて、強力な2人のパ-トナ-(小西正継さんと 植村直己さん)を伴って
の世界の山旅を以降のライフワ-クにされていた。
「横尾の岩小舍」 に寝る機会はなかったので寝心地的な話は出来ないけど、屛風岩には20
数本の開拓ル-トがあり、岩稜会の中央壁(1947年7月)の初登攀始め、多くのクライマ―達
にねぐらを提供して、崩れる寸前まで ここは屛風岩登攀者達には宮殿のような存在であったか
と想像できる。

「涸沢の岩小舍」 は涸沢小屋裏山の中ほど、モレ-ン堆石群の一角にある。
ザイテングラ-ドへと続く登山道からも見えるこの岩小舍は、 以前はもっと上の方にあったと
か。 ずり落ちてきて今の場所になったのか、 或は別の岩なのか確かなところは定かでないが
氷河作用の置き土産であろうこの岩小舍の位置は、穂高山群を眺めるのに 良き展望台にもな
っていて、槍・穂高黎明期の立役者的存在だったことは前期2つの岩小舍同様だ。
最初の利用者は、前穂~奥穂~北穂~槍ヶ岳への初縦走の際(1909年) の鵜殿正雄氏一の
行とのこと。偶然の発見だったと氏の手記にあるが、 ここの岩小舍の名を不滅の名にしたの
はその後1920年代の (大正末期から昭和初期) 気運盛り上がりの中で創設された 学生山
岳部員の面々だった。彼らは本場ヨ-ロッパアルプスから持ち帰った近代装備と登山技術を
駆使して涸沢合宿を行い、多方向から登山を試み (バリエ-ションル-ト) 登山技術の研究
実験やル-ト解説。 夜には岩小舍の上に車座になってアルピ二ズム (昔の武士道、 ひと頃
のマチアスポ-ツ精神)談義に岩小舍の夜を謳歌し合ったと言う。
涸沢ヒユッテのパンフレットに、涸沢は近代アルピ二ズム発祥の地とあるが、 発祥の地と言
うのはそのような時代背景があってのこと、岩小舍あっての発祥の地のように思える。

追記 現在の岩小舍は環境衛生上涸沢ヒユッテが管理していて、無断での使用は出来なくな
っている。 又岩小舍から生まれた叙事文に、永遠の名作 『涸沢の岩小舍のある夜のこと』
大島亮吉 著書 等がある。


 
⑬大雪渓
氷河作用で削り取られた椀状圏谷やU字状谷間に雪が降り積もり、秋遅くまで残る雪渓群
を大雪渓と呼んでいる。 万年雪などとの呼び名も古い地図にはあって、針の木岳や白馬岳
薬師岳。立山・剣岳方面には秋にも消えずに新しい雪がその上に積もって数年とか数十年
分の旧雪塊が堆積しているU字状谷もある。
秋になっても消えずに残る大雪渓はどのようにして出来るのか。勿論涸沢や槍沢の大雪渓
も国内を代表する雪渓群のひとつであるが、先に名を上げた山岳帯と合わせ、 大雪渓と呼
ばれる雪渓群は、北アルプスでは8~9割がた東南面に形成されている。 原因は降雪期の
気圧配置に関係ありと思えるが、降雪期の特徴は西高東低の冬型で、風は日本海側からの
北西風だ。稜線周辺の樹木の枝の、東南方向を示している姿もその証であり、降る量は両
方向同じでも、風上側のは吹上げられて風下側に吹き積もり、結果大雪渓誕生の主なる理
由であるように想像できる。
二十四節気七十二気候。太古の昔から季節の色合いには大差なく、残雪の描く雪形を見て
昔の人達は農耕歴にしたと言う実績からも、年間の平均気温や雨量同様、 山に積もる雪も
早い遅いの多少の差はあっても量的には同じなのだ。
雪渓下部の雪模様には、稜線下の急斜面や沢途中の喉付近など、これから向かう山全体の
雪付き指標になる。山の経験とはそのようなものの積み重ね、一つ一つを知ることではな
かろうか・・・

 ⑭高山植物
地球の気候が氷河期から温暖期へと移行する際に、生活環境(住みやすい気候)を求めて北
へと向かった仲間たちに分かれ、高山帯へと登って根を張り、子孫を残し続けた植物をいま
私たちは高山植物と呼んでいる。
氷河期(寒冷期)と間氷期(温暖期)は過去に4回繰り返されて、現在の地球は4回目の間
氷期とのこと。最後の氷河期が終わって3~5万年あたりの経過と言うのが世界的な学説ら
しい。
以前カムチャツカの海岸を歩いていて驚いたことがあった。 北の海の冷風にもめげずに力
強く立ち並ぶ防風林を見ての驚きだった。早春の頃の落葉樹で木の葉は付いてなかったが、
樹皮の色や枝先に見誤ることはなく、 いつも山の行き帰りに見ているその樹はダケカンバ
たのだ。 緯度は北に1度上がると温度は平均1度下がる。 中学の理科で習ったようなそ
んなことを思いだしながら宿に戻って地図で確かめると確かに納得の緯度差。 カムチャツ
カ南端の海岸付近は北アルプス2000メ-トルとほぼ同じの植生地だった。 高山のも高緯度
ものも元々は同じ所に住んでいた兄弟みたいな仲間。 両者をまとめて低温植物と呼んでい
る学者さんもいると聞くが、それもまた納得の呼び方だ。
近年稜線付近の草花が一部で賑やかになっている。密集度が濃くなって以前より背丈が伸
びているように見かけるが、 ひょっとしてこれも温暖化のせいなのかと思いながらも、自
然界の生物は滅びる前に全力で頑張ると聞く、 50年に1度とか観測史上初めてなどの
自然災害が最近は多く、ささいな事だけど、この夏にいつもの沢水が涸れていて摂取出来
ずに喉をからしながらのハプニング山行もあった。
カムチャツカの植物たちにはさらなる高緯度があるけど、穂高稜線上の植物たちにはこれ以
上に登る所がない。3万年以上もの時を経ての今の植生地であるので、今すぐにどうってこ
とはないにしても、 温暖化がさらに進んだ時の彼等(彼女) たちの移動地を思うと、なん
となく気にならずにいられない昨今の高山植物事情だ。

 
⑮ジャンダルム
本来の意味は宮殿の正門を守る護衛兵とのこと。転じて山では主峰の前に立ち塞がる顕著
な前座峰にその名が宛てられていて、もともとはシャモニー針峰群の中の世界的にも名の
あるグレポン前衛峰の名を引用しての穂高のジャンダルムとのこと。命名期は近代アルピ
二ズム幕開けの頃、昭和の初期の頃かと思われるが、昔も今も、ジャンダルムの風格は護
衛兵よろしく、 北アルプス最大の難所に変わりなく此処の通過を目標にしていつかきっと
と奥穂の頂きで涙した人も少なくないことであろう。
さて3190メ-トル。 奥穂の頂上に立ってジャンダルムとの位置関係を確認してみると、
ザイテングラ-ドや重太郎新道からの登頂者には ジャンダルムの方向は前座峰と言うより
も先にある峰、或は後の峰的な印象なのではなかろうか。 然らば何故の前座峰なのかと登
ってきた登山路に登山史を重ねて振り返ってみると、ザイテングラ-ドも重太郎新道も 現
在の登山路は後年になってからのこと、近代登山幕開けの頃には整備された登山道はなく
穂高への登頂ル-トは、岳沢側からが主流だったのだ。天狗沢をつめて(当時天狗沢の沢名
はない) 稜上に出て、稜線伝いの主峰奥穂となればガッテンだ。 ジャンダルムの位置は無
理なく前衛峰になる。
はてさて目は口程に物を言うというけれど、岩塔ジャンダルムは黙して語らず、間違いなく
護衛兵そのものの雰囲気である。が、 このジャンダルムには登山史に刻まれなかった驚き
の経歴説があって、知る人ぞ知るの秘話噺がある。
いまのジャンダルムは、昔(黎明期以前)地元では天狗岩と呼んでいたそうな。岩塔の形や
風格から察して、なるほど、その名に相応しい雰囲気がしないでもないがその天狗岩。その
後登山者達の勝手で名をジャンダルムと変えられ、一般的にも定着してしまって、 やむなく
天狗フアンの声がかりで 似た岩に名を移したのが現在の天狗岳とのこと。その際に名を岩
から岳にして、呼び名のなかった足元の沢にも天狗の名を宛て天狗沢とした。そんな経緯が
あっての山や沢の今の名前なんだと。 以前土地の老ガイドが語る 「まんが昔ばなし」のよ
うな話しだった。

登山者の趣味趣向が変わり、山小屋のオ-ナ―が時と共に若返っても、穂高のジャンダルム
は威風堂々と、雄々しい姿は今も昔に変わりない。