シネマニア9


アメリカの良心


  映画を見るということがお手軽になったと思う旨は、以前にもふれたことである。
上映中に見られなかったとしても、数ヶ月待てばビデオが出来てくる。“カウチポテト”という言葉が流行った時期があったが、現代においては映画を見る緊張感だの、期待感、昂揚といったものは、ずいぶん薄くなっているようである。

 “カウチポテト”とは、長椅子に寝そべってポテトチップスなんぞをパリパリつまみながらビデオを見るということらしい。それは勝手にどうぞ、と言いたいところだが、近頃は、映画館にもその輩が増えているようだ。売店でそんなやかましい菓子を売っているのがそもそも大まちがいなのだ。先日、ついに私はきれた。「がさがさうるさいっ」と注意をした。せんべいをばりばり食っていた若い女は、びっくりしたようだった。食べるのを素直にやめたところをみると、おそらく彼女は、それが良くないことで、人に迷惑をかけているなどと思ったこともないのだろう。注意されたことも初めてなのかも知れない。

  かくいう私も家でビデオを見る時には、家であるという安心感からか、時折ごちゃごちゃ喋って、家人から「少し黙ってくれない?」などと叱られる。

  映画を見るのに緊張感なんて必要なの?という声が聞こえてきそうだが、少なくとも私は、開演を告げるベルに今も快い緊張をおぼえる。“今も”と書いたが、若いころはまさに私は緊張していたように思う。

  待ちに待った作品であったり、あるいは誰かに見つかるとやばい種類のものであったりと、状況はそれぞれだったが、いつでも背伸びをしていたような気がする。

 思えば、本を読むというのもそうだった。「少年少女文学全集」にそろそろ飽きて、もっと大人っぽいもの、父親から「お前にはまだ早いだろう」と言われた数々の本。子供用に易しく書かれたものではなく、旧仮名遣いの、たとえば芥川龍之介の「羅生門」であり、樋口一葉の「にごりえ」「たけくらべ」、翻訳ものならモーパッサンだったり、ヘッセだった。こちらが何歳であろうと、芥川も一葉も漱石も太宰も手加減なしだ。こういう文豪達に、きちんと相手をしてもらっているような気がした。これは背伸びどころか、こむらがえりを起こしそうなほどの“つま先立ち”に近い。

 甘いカクテルから酒に入門するのではなく、いきなり生のウィスキーをあおって、その強さにむせた。甘やかされることを“恥”だと思っていた。

 たとえむせても、こむらがえりを起こしても、解らなくても、本物に挑みたかったのだと思う。
 映画がまさにそうだったのだ。“私を甘やかさない作品”に、わかっちゃいない映画好きの青二才はいつも緊張していたのだ。
 
何歳の頃に見たのかさだかでないのだが、忘れられない映画がある。作品は“陽のあたる場所”という。
 監督の名前は忘れてしまった。覚えているのは、モンゴメリー・クリフト演ずる、貧しいけれど才能も向上心もある青年の、誠実さ、野心、そして狡さ。エリザベス・テーラーの、朝露に濡れた薄紅色の薔薇のような圧倒的な美しさである。
 男は“陽の当たる場所”に手が届くような気がしたのだ。その場所で微笑む愛しい女にも。
 手は届いた。だが、つかみ取ることは出来なかった。自分が這い上がる為に罪のない命を犠牲にした。映画を見る限りにおいて、アメリカでは、牧師が死刑囚に、聖書を持って最期の面会をするというシーンがたびたびある。この作品でも、それが重要な役割を果たしている。「あれは事故だった。僕は殺してはいない」と主張する男に、牧師は問う。「ボートが転覆した時、誰のことを考えていたかね?」
長い沈黙のあと、男は答える。「ほかの女性の事を……」牧師は諭す。「心の中で殺していたんだよ。」
 このシーンを思い出す時、私は“アメリカの良心”という言葉を思いうかべる。
 「殺意があった」と認めるということが、今の日本ではあまりにも軽んじられている様に思われてならない。「心の中で殺していたんだよ」と諭す側と、「殺意がありました」と認める側の双方に、私は“良心”を感じる。
 大嫌いな部分もいっぱいあるアメリカという国が、たまらなく魅力的に感じられることが時々ある。“陽のあたる場所”を見たあとは、私は“現代の日本人”であることをどこかで恥じている。
 
「ザ・キッド」という作品を見た。
 優雅な独身貴族で、仕事もすべて順調。“成功者”として毎日を忙しく暮らす男のもとに、ある日、一人の男の子が現れる。少年は、男が8才の頃の自分自身だった。
 忘れたい過去、デブで要領が悪くて、いじめられっ子だった幼い自分が、いきなり目の前に現れる。だのにその劣等生は言う。「40才?それなのに、パイロットじゃないの?犬も飼ってないの?家族もいないって?そんなの最低じゃない?!」
 ひっくりかえされた価値観がなんとも清々しい。もう、謝るしかないではないか。いや、面目ない。
 幼いころの自分に、会いたいような、恐いような、正直をいえば「もう少し待ってくれないか。もう少しちゃんとするから……」などと言い訳さえ浮かんでくる。
 金銭的、社会的な成功が一体どれほどの価値をもつのだろうか。少年の日に思いを抱いた自分自身のあまりのギャップに、大人である自分が一番ショックを受けているシーンは、全く、人ごとではない臨場感があり、うーむ……と腕組みしてしまうくらい考えさせられてしまった。
遅ればせながら、お勧めしたい。「ザ・キッド」は大人の男のために作られた映画である。
 子役の可愛らしさに微笑み、封印してしまった過去にその悲しみを分かち合い、ラストシーンでは、気持ちの良い涙がほろほろと湧いてくる。こんな映画はそうそうない。
 主演は大分前にとりあげたブルース・ウィリスである。
「またか」と思われてもいた仕方ない。良いものは良いのだから。
 
アメリカが果たさなければならない役割は沢山ある。プラスにも、マイナスにも。国際的に論ずれば、何ページを費やしても足りるものではない。 
 山ほどある“言いたいこと”を脇に置いて、心のどこかでひっかかりながらも認めざるを得ない“アメリカの良心”に今回は捕まってしまった。
 物質的に豊かであることが、幸福につながるかの様な価値観は、私がまだ小学生だった頃に日本中に広がって行ったように思う。白黒テレビの画面で初めて見たアメリカのホームドラマ。大きな冷蔵庫に入っていた牛乳瓶のでかいことに驚き、「あなた、週末にはお皿を洗ってくれる約束よ」と金髪の妻が言い、幼い子供達に「君…」と話しかける夫にまた驚いた。どこの家にも自家用車が有り、夫婦はしょっちゅうパーティに出かけていく。
 アメリカってすごい……。日本のハナたれ小僧は口をぽかんとあけていた。
あいた口をきりりと引き締めて、日本の大人たちは猛烈に働き、おかげで私達のまわりには、大きな冷蔵庫も自家用車も珍しくはなく、大画面テレビもパソコンもせまい部屋にあふれる様になってしまった。贅沢をおぼえてしまっては、なかなかその快適さから抜け出すことは難しい。
 物質の豊かさを我々に教えておいて、「本当の豊かさは、物に依るものではない」と、アメリカは「ザ・キッド」の様な映画をさらりと作ってしまうのだ。出し抜かれたみたいで、何だか空しい気もするが、悔しがっても仕方がない。「そうなんだよなあ」と気づいた時にこちらも気持ちを切り替えていけばそれで良いのだろう。
 豊かさにたるんでいる場合ではなさそうだ。ともすれば忘れがちになる緊張感を、もう一度手元に引き寄せて、だらけずに生きてみよう。

 少年のころの自分にある日出会って、「僕が思っていた大人になってないね」と言われたら、「まあそう言うなよ。これでも結構がんばっているんだよ。それに、僕たちの人生はまだまだこれからじゃないか。」と言ってやろう。

「相変わらず、本が好きだよ。映画もいっぱい見ているよ。」

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