シネマニア


「自由であるということ」〜塀の向こう側〜


「お楽しみはこれからだ」という和田誠さんの名著がある。

  このタイトルのもとは、「ジョルスン物語」という映画の中での、「私たちは、まだ何もみていない」という台詞を「お楽しみはこれからだ」と訳した翻訳の妙に敬意を表したものであるらしい。

  心に残る、どうしても消えない言葉は誰にでもあると思う。

  たかが映画の中の台詞、と言ってしまえばその通りではあるのだが、その“たかが”に励まされたり、慰められたり、時には叱られたりもする。いささか恥ずかしい気もするが、大分前から大切にしている言葉があるので、ここにご披露してみたい。

  「死刑台のメロディ」という古い映画にその言葉がある。

“サッコとバンゼッティ”あるいは、“あざみ”という著名で記録されている、ある事件をもとに作られた作品である。

 事件は1920年代におこった。

  ひとつの殺人事件が全ての始まりだった。貧しい魚の行商人であったニコラ・サッコと靴の修理職人のバルトロメオ・バンゼッティという二人のイタリア移民に、その容疑がかかった。事件には目撃者もいた。二人にはアリバイもあった。殺人の動機といえるものはひとつも見あたらなかった。

  裁判はボストンでひらかれた。ボストンは当時エリート達の都市であり、有色人種や移民への偏見が強い所でもあったらしい。二人に下った判決は死刑であった。

  バーナード・ショウ、アインシュタインといった著名人達が再審に向けて市民運動をおこし、事件は広くアメリカ全土に広がり、ヨーロッパにまで波及したのだが、判決が翻ることはなかった。

  まずニコラ・サッコが処刑された。バンゼッテッィのもとに彼の無実を信じる弁護士が面会に行った時に、バンゼッティが言った言葉が、今も私の心に深く、強く残っている。

「これが、私たちが故国を捨ててまで憧れ求めていた自由の国、アメリカなのか。今、神の前にひきずりだされても、私は何一つ罪を犯していないと誓うことができる。だが、そういう私は一体何者だろう。行商人のサッコ、靴職人の私、私たちは、社会の片隅で貧しさにあえぎ、どう生きてどう死のうが、誰の目にも止まらず、誰の記憶にも残らず寂しく

生涯を終えたことだろう。だが、この不幸な事件が私たちを変えたのだ。今では何千何万もの人々が私たちのことを考えていてくれる。
 
  “正義”と言う言葉を口にするたび、人々は私たちのことを思いだすだろう。その時、私たちはあなた方の心を手にいれているのだ。」


  引用が長くなってしまったが、どうしてもここから始めたかったので、お許し頂きたい。


  この「死刑台のメロディ」を古い記憶から引っぱり出してきたのは、つい先日、家人に「絶対観たい、行こう」とうるさく言われて観た「ザ・ハリケーン」という作品が、あまりにも強烈であったことに因るのだろう。

  「ザ・ハリケーン」もまた実話に基いて作られた作品である。

アメリカのプロボクシングについては殆ど知らないので、ルビン・カーター、というボクサーのことはこの映画で初めて知った。“ハリケーン”というリングネームを持つこの男は、やはり無実の罪で22年間を終身犯として服役した。少年時代にも8年間を少年院で過ごしている。これも冤罪である。

  一人の人間の自由と権利が30年間奪われる、それも少年期、青春期、妻子を持った壮年期であるのなら、なおさらに、その残酷さは想像を絶するものがある。

  だが、彼は自分を見失わなかった。書いたのだ。自分自身のことを書くことで自由を手
にいれたのだ。

「書くことは、魔法のようだ。俺はニュージャージーの果てまでも行った。書いていると魂はどこまでだっていける。ゾラにも、マンデラにも会ったんだ。」
  “書くこと”は彼に大きな扉を開かせた。奇跡のような出会いに導かれたカーターは、彼の真実と、勇気と友情を携えて、運命をくつがえした。


  「ショーシャンクの空に」という作品は、地味ではあるが、ファンが多い映画である。

原題は「塀の中のリタ・ヘイワース」と記憶している。リタ・ヘイワースは往年の名女優である。劇中で使われたのはグレン・フォードと共演した「ギルダ」だった。
  刑務所に服役中の囚人達の最大の楽しみは、おそらく月に一度か二ヶ月に一度かの映画を観られる日にあるのだろう。荒くれ男達が目を輝かせ、リタ・ヘイワースの美貌に「ヒューッ」と口笛をふくシーンは、この辛い境遇の男達に注がれる作者の優しさがあらわれていた。

  この映画の中で、アンディは“希望”を持ち続ける。レッドは“希望をもってはいけない。裏切られるだけだ。”という。

  アンディもレッドも長い年月を苦しみと不安の中で送るのではあるが、彼等は正当な報酬を手にする日がくる。

  50年もの年月を刑務所で生きた老人は、仮釈放になってしまった時、住まいも仕事も与えられているのにもかかわらず“生きる意味”と“生き方”を無くしてしまった。


囚人は一人一人犯した罪がちがう。その罪の重さも、意味も、課せられた量刑も。

  「名画」(と言っても良いと思う)「グリーン・マイル」に於いて、観客は三人の死刑に立ち会わなくてはならない。判決には、人種差別や、貧富の差、陪審員の感情がからんで、必ずしも妥当な審判を期待できるものではない。

  三人目の執行は、明らかに冤罪であることが観る者の胸をしめつける。

三人目であるコーフィーという黒人の大男は、“その日”が近いことを知らされて、その無実を知る看守長の「逃げたいか、もし逃げたいのなら」という言葉を遮る。

  コーフィーはいう。「俺はもう疲れた。雨の中をひとりぼっちで飛ぶ小鳥のような寂しい生活はもういやだ。旅を共にする友達もなく、どこをどうさまよえばいいのかわからない。もういいんだ。」


  幸いなことに、刑務所に入ったことはない。服役囚のことははっきり言って全く解らない。まして冤罪であるのなら、その苦痛は想像することすら難しい。

  だが、そうであっても今回触れたバンゼッティと、カーターの、気の狂いそうな孤独や悔しさの中にあって、“哲学”を自己の中に作り上げた事実に心を揺さぶられる。
  彼らは学問などろくに受けてはいない。すぐ目前に迫った“死”に静かに向き合うことで、彼らは誰かの借り物ではない“人生を表現する”自由を手にしたのだと思う。


「ショーシャンクの空に」のアンディも「グリーン・マイル」のコーフィーも、天使のような男達である。
  映画作家達は彼等の無念を描くことで、観る側の私たちを傷つけるほど刺激する。
そして、その傷は私の宝物になる。


  何もかもとは言えないが、私たちは自由を手にしている。欲をいえばきりがないが、努力さえすれば、欲しいもののいくつかは持つことができるだろう。
  戦争が終わってから生まれた。“死”を意識するのは、身近な人の病いや、事故によることが多いと思う。自分自身の哲学など、こういった日常からは生まれるべくもないのだろう。ただ、心のどこかで、いつかは向き合う時がくるのだと感じている。
  「逃げるんじゃないぞ」と通せんぼをしてくれる誰かを求めて、本を読んだり、映画を観たりしているのかも知れない。

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