シネマニア

北野たけしの映画のこと


 北野たけしとはほぼ同年代である。映画というものに対する思いは、共通するところがあると、一方的に感じている。
 彼のつくる映画は、はっきり言って暗い。映像もテーマもやりきれなく暗い。それでも若い世代にも人気があるのは、たけしという人の個性によるところが多いといえるだろう。
 共感するところは、時代の匂い、不安感、焦燥感、といったもの、つまり同じ空間を共有したという、それだけのあやふやな手ごたえだけかもしれない。ふたつ隣のクラスの同期生とでもいう感じだろうか。
 たとえば「ソナチネ」だ。
やくざの世界を「日本」に置き換えてみるとよくわかる。ちっぽけな社会で、それなりにのしあがって、舎弟も増えて、もちあげられて偉くなったように思い上がって、欲しいものはひととおり手にいれた。けれど、そんなものはほんの目先のことにすぎないことは、自分にもわかっている。そのいらつき、もどかしさ、逼迫、解決してくれるのは暴力だけになってくる。“いま”だけしか見えないのは「俺たちに明日はない」とも共通している。
 「明日」は本当にいらないんだろうか。
そうではあるまい。いらないと思っているのは自分だけだ。愛する者たちには「明日」があってほしい、穏やかな明日が。「ソナチネ」の中のたけし扮するやくざは、敵に対しては冷酷だが、自分を慕う子分たちには驚くほどやさしい。下町の小学生みたいに笑い転げて生きてゆきたい男だ。
 それだけで生きてゆけるわけはない。あとはいかにかっこ良く死ぬか、それしかのこっていない。足元を固めずに粋がって頭にのると、こんな未来しか手にいれられないと、派手なアロハを着て、破滅に向かって突っ走って行ったたけしを、私たちは嗤えない。
 「あの夏 いちばん静かな海」というやさしい映画があった。
主人公の若い男は声を発することができない。誰もかれもが自分を主張するのに忙しく、傍らにいる人間が何を考えているのかとか、何を言いたいのかなどを、わかろうとする努力さえ忘れている今日、この映画の静かさは胸をうつ。
 言葉のないことと、心のないことは全く別のことだ。こんな当たり前のことすら、どうかすると忘れている。認めるのはつらいが、思い上がりがどこかにあるのだろう。
 もの言わぬ主人公の気持ちを海が雄弁に語る。
おだやかに凪いで見える海も、ささやかな風に小さな波をたてる。波はやがてうねりを増し、大きなエネルギーをたくわえる。海を愛する者たちをのみこむほどの。
 雄弁であることと、饒舌であることはあきらかに別のものだ。テレビの中で北野たけしはだれよりも饒舌にみえる。しかし、彼の中の沈黙がこういう映画をつくりだす。
 伝えたいことが山のようにある時は、言葉にたよるべきではないと言われたような気がする。
 バラエティ番組の中では、彼はあいかわらず、だらしない酔っぱらいのオヤジだったり、不思議なかぶりもので登場して、笑いのうずのまん中にいる。こういうバランス感覚は天性のものだろう。北野たけしと同じ時代に生きていてよかった。
 「菊次郎の夏」をみると、彼が何を大切に思っているかが見えてくる。
古今亭志ん生の生きた時代だったら、きっとこういう男はそこいら中にいたのだろう。志ん生自身も同じくらいぞろっぺえな人間であったと聞いている。ぞろっぺえ、つまりだらしなくて、いいかげんで嘘つきで、無責任でなまけ者で、要するにどうしようもなく“こまったヤツ”のことである。そしてまわりの人間は「しょうがねえなあ、まったく」とこぼしながらも、どこかでこの“こまったヤツ”を愛しているのだ。
 現代だったらとても生きてはゆけないようなこの男と、これもまた現実には見あたらないような素直で純粋な少年の、まるでおとぎ話のような映画である。
 少年の家の茶の間には丸いちゃぶ台があった。私の家も昔はこういうちゃぶ台で飯を食べた時代があった。四角いテーブルとちがって、急にだれかがお客を連れてきても、家族が少しずつ膝をつめれば一人や二人増えたってどうということはなかった。
「さあさあ、何もないけど食べてってね」という言葉が何の気取りもなく当たり前にでてくる、そういう下町の人情が丸いちゃぶ台に象徴されているように思う。
「貧乏だけどあったかい家庭でそだった。俺くらいマザコンはいない」と北野たけしは言っている。
もう二度と手にいれることはできない、物質の豊かさとひきかえに手放してしまった、やさしい風景を、たけしは映像をつかって取り戻したかったのだろうか。
 
 菊次郎という名は彼の父親の名前である。
「タケシ君、はい」という著書によると、『ペンキ屋に学問なんざいらねえや』と強がりながらも、こっそりと手習いをしていたらしく、亡くなったあと、自分の名前を練習した紙が何枚もでてきたという。

さて、映画にもどる。隅田川の風に吹かれて、気持ちのいいラストシーンだ。
「おじちゃんの名前なんてゆうの?」ときかれて「菊次郎だ、ばかやろー」と彼はこたえる。「ばかやろー」に、愛情と愛嬌と照れと人情がいっぱいつまっている。
 本当に“しょうがねえなあ”。

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