シネマニア

“ なぜ 微笑むのか ”


 
ずいぶん古い作品だが「旅情」という映画がある。名作である。なつかしく思い出される方も多くおいでだろう。

  婚期をだいぶ過ぎたと思われる女性が、一人ベニスを旅するのだが、当時は今よりも外国旅行は時間的にも金銭的にもそうとうな贅沢であったことだろう。彼女は汽車が目的地に近付くと8ミリカメラをまわしたり、だれかれかまわずに笑顔をふりまく。その興奮がこちらにも伝わってくる。

  見るものすべてが新鮮で、太陽はあかるく、ホテルは親切だ。なのに彼女はすこしずつ孤独になってゆく。

  新婚旅行中のカップルがいる、初老の夫婦がいる、恋人たちもいる。「一人でも平気よ、たのしいわ、どうぞ私にお気使いなく。」と微笑み、「いってらっしゃい」と手をふってもその笑顔が寂しさにくもってゆく。

  キャサリン・ヘップバーンは間違いなく名女優だ。いかり肩でやせぎすで、目ははなれすぎだし、そばかすがいっぱいだ。なのに目尻のしわに涙があふれるのを見ると、なぜかいとしさがこみ上げてくる。決して美人とは思えないのに、少女のようにいじらしくみえる。
  赤いベネチアガラスのゴブレット、赤いスカーフ、赤いハイヒールと、恋におちる時の色彩の鮮やかさの中にあって、白いクチナシの花が彼女の心を象徴している。

  別れの朝、汽車の窓から身をのりだして大きく手をふる彼女は美しく微笑んだ。渡せなかった白い花の清らかさが、その笑顔とぴったりかさなる。

名ラストシーンは数多くあるだろうが、「旅情」はその中でもとりわけ心に残るものだろう。


  キャサリン・ヘップバーンの次は、やはりオードリー・ヘップバーンの微笑みについて書いてみたい。

  オードリーといえば、何といっても「ローマの休日」だ。


愛くるしさ、清純さ、品の良さ、これから先もあんなアン王女にはお目にかかれまい。この映画についてはすでに語りつくされているので、私ごときが言うべきことなど残されてはいないのだが、やはりラストシーンにだけは触れておきたい。

  謁見の場で、グレゴリー・ペックと見つめ合う、あのシーンである。「一番心に残った地は?」の質問に、王女の後ろから侍従がそっと耳もとで囁く。その言葉どおりに「どの地もそれぞれに、忘れがたく……」と言いかけて、彼女はパッと瞳を輝かせて言うのだ。「ローマです!」

  そのうるんだ瞳と微笑みに、王女としてうまれたひとの潔さと美しさがくっきりとあらわれていた。


  こうして書いてみると解かる。微笑むのは、嬉しいときばかりではないのだ。
いや、むしろ微笑みは悲しみに裏打ちされている。
  寂しかったり、切なかったり、あきらめたり、ときにはうちひがれ、絶望のなかにあっての微笑みは胸をうつ。泣くよりも嘆くよりも、深く。

 
  「旅情」「ローマの休日」と名画が続いたが、ほとんど無名ともいえる作品にも目をむけたい。私の場合、青春の映画といえば「ジェレミー」というイタリア映画を真っ先に思いうかべる。とくにこれといった事件もおこらず、バケモノも出てこない。美男も美女もでてこないしドラマチックなシーンもない。では一体どこがいいのか、自分でもはっきり分かってはいないのだ。主人公の少年に自分を投影していたのかともおもう。

  だから「ジェレミー」は図々しさを承知で言わせてもらえば、私だけの映画なのかもしれない。映画好きの友人と話している時、やはり彼も“自分の映画”を持っているらしく、自分にしかわからないこだわりを持っていた。案外、映画の楽しさというのは、こういうところにあるのかも知れない。大ヒットした「タイタニック」についてだったら、すみからすみまであらゆる映画雑誌に紹介ずみだ。今さら何を言っても受け売りになってしまう。心根がひねくれているのか、受け売りはお断りしたい。もちろんその映画の良さには罪はない。

  その映画好きの友人の“私の映画”を見る機会があった。「愛すれどせつなく」何と甘ったるいタイトルをつけたものだろう。洋画を日本で公開するにあたって、日本名でタイトルをつけるときは、もう少し何とかならんか、とタメ息をつくことが間々あるが、これなど代表的であろう。一頃は「愛と悲しみの……」がやたらと氾濫していた。
  さて、「愛すれどせつなく」の原題は「ブブ」という。これもまた芸がなさすぎるような気がするが……。

  主演の女優の名をオッタビア・ピッコロというのだが、おそらく知る人は少ないだろう。(「ドロンのゾロ」のヒロインといえばおわかりの方もいるかもしれない)「愛すれど……」を見たのがかれこれ25年ほど前なので、もう古い女優の部類にはいる。映画は、美しく、貧しく、純情な娘がしだいに転落してゆく悲惨な話である。「ブブ」というのは、転落させる男の名だ。

  素朴だった少女がだんだんに化粧が濃くなり、はすっぱにかわってゆく。墜ちてゆくのを切なくただ見ていた。こんな男に惚れてはだめだ、何て悪いヤツだとじれったかった。いつかこんな男はひどい目にあうに決まっていると楽しみにして見ていると、映画はそのままで終わってしまう。

  これではヒットなどするわけがない。後味が良くない。こんなのってアリか?と思いつつも、私も友人同様この映画がひそかな“私の映画”になった。

  理由はオッタビア・ピッコロだ。どんなにひどい目にあっても、恋しい男の顔をみるたび、哀しくうかべるあの微笑みだ。白状してしまうと、この25年間、私の中でのナンバー・ワンなのだ。残念なことに、ビデオ化もされていない。

  いつの日か深夜にでも放映されることがあるだろうか。


  前回は、ロバート・デ・ニーロの笑顔についてが、テーマだった。また笑顔のことばかりで、ワン・パターンじゃないかと言われそうで、少しつらい。けれど、毎日の暮らしの中で私たちはたくさんの笑顔に会う。笑顔をただの笑い顔と受け取ってしまいそうな自分に気がついた。

 たとえば患者さんの、あるいは家族の誰かの、かならずしも楽しい場面ではない時の微笑みを、きちんと受けとめてやることが本当に私はできているのだろうか。

  笑顔の奥にひそむ、悲しみや寂しさ、あきらめや戸惑いに鈍感であることが多いのではなかったか。

映画を見るのに、「何かを学びとってやろう」などと思って見たことはないが、見たあとで学ぶことは多い。

  と、殊勝なことを言うと、「そのわりには、あなたは……」と家人があぶない微笑みをうかべそうだ。今回はこのへんで。

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