シネマニア35

〜  季 語  〜

 母が俳句好きである。上手いか下手かは問わずにおくとして、とりあえず字数が五七五で、季語がはいっているということで、俳句なのである。

 近頃は家人まで俳句を作り出している。私はそっちのほうは全く不調法なので、句の良し悪しを云々できる立場にないのであるが、「わずか十七文字にまとめるためには、浮かんでは切り捨てられた言葉がいくつもあるわけで、散らかったアタマを整理するのにすごくいいの」と家人は言う。

「そうか、ボケ予防か」と私はつぶやく。もちろん心の中で。

 

 山頭火のように俳句のルールから大きくはずれても、世に知られる名句はあるもので、「 まっすぐな道で さびしい 」などと詠まれると、胸にストレートに響いてくる。出来そうで出来ないのがこういう句であろう。

 真砂女の「 羅(うすもの)や ひと悲します恋をして 」という句は、まるで一篇の小説を読み終えたほどの重みを感じさせる。

 まさに俳句は小宇宙なのかもしれない。

 

 こじつけのようであるが、映画にも季語があると思う。

一年間にめぐる四つの季節。そして、人の一生を 青春 朱夏 白秋 玄冬と呼ぶのであれば、年をかさねて生きる月日そのものが 季語と言えるのではないか。

 

 「エデンより彼方へ」という映画を昨年みた。

原題は「ファー フロム ヘヴン」(楽園の遠く)という。

1930年代、アメリカのコネチカット州の、高級住宅地に住むキャシーという女性は、まさに “楽園” にいた。

 重役夫人として、二人の子の母として理想的な暮らしをいとなみ、地域活動にも熱心な彼女は、その美貌も人々の羨望の的であり、マスコミにもたびたび登場していた。

 その生活はある出来事をきっかけに、音をたててくずれて行く。

夫の秘密、裏切り、親友からの中傷。世間の非難にさらされた彼女は、やがて嘆き悲しむ日々から卒業して、真の自立を選んで立ち上がるのであるが、それは同時に“楽園”からの旅立ちでもあった。

 

 屋敷の庭は黄金色に輝き、地をおおいつくす落ち葉の中で、彼女は黒人の庭師と人間としての心のふれあいを知るのであるが、相手への尊敬とやすらぎを口にすることさえ許されずに、人種差別の壁になすすべもなく別れてしまうのである。

 

 人生の朱夏から白秋へ、キャシーは歩みだす。

上流の婦人らしく、シーンごとに美しいドレスで登場していた彼女は、その自立の日、去ってゆく庭師レイモンドを見送る駅のホームでは、ツィードのスーツを着ている。

 頭には、灰色がかった薄紫のシフォンのスカーフをまいている。このスカーフは、庭を歩いていた時、突然の風にとばされたものである。拾ってくれたのが、庭師であったことから、キャシーの日常は変わって行くのである。

 手をはなれて、空に舞うスカーフが、キャシーそのものであったことが、駅のラストシーンではっきり見えてくる。

 

 言葉で説明するのでなく、彼女の決意を、着ている服で表現する描き方が、さりげなくて鮮やかである。

 悲しみと束縛からの解放。それを手にいれるために手放した安定した暮らし。

描き方はまったく違っているが、イプセンの「人形の家」を彷彿とさせる作品である。

 

 静かで、深くて見ごたえのある秀作であると思うのだが、映画館に見に行ったとき、観客は私たち夫婦をふくめてわずか6人であった。

「いい映画だったよ」と友人に勧めようと思ったら、一週間で打ち切りになってしまった。

これではよい映画など、だんだん作られなくなってしまう。地味であってなにが悪いのだろう。映画の質が年々荒れているように感じられるのだが、作り手ばかりのせいではないのである。

 

 ところで私は今、白秋と言われる時期を生きているのであるが、家人に言わせると「今はどの人も若々しいからね、朱秋で朱冬だったりして」だそうで、そんな気がしないでもない。しかしそれではやはりつまらないのではないか。

 せっかく四季のある国に生まれたのである。一年の四季を楽しむように、人生の四季を味わう方が良い。

白秋と玄冬が自分らしくないのであれば、黄秋でも銀冬でも良い。若々しさと若づくりを混同することなく、かっこいいじいさんでも目指すとしようか。

 

俳句のことは分からないと先にのべたが、好きな句はある。

「 さびしさは 木をつむあそび つもる雪 」久保田万太郎の作である。


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