シネマニア31

悲しみの棲み家  めぐりあう時間たち

 不景気である。新聞を読むたびにその深刻さを実感する。いや、新聞を読まなくてもここ数年の不景気さは、当たり前のように私たちの暮らしを支配しつつある。

 だが、不景気でない業界もある。高級ブランドのメーカーである。高ければ高いほど人気があるのだそうだ。高校生までがプラダやグッチを手にして、ブランドものの服を買いあさるという。ルイ・ヴィトンの社長がついに言った。「自分の力で買えない人にはヴィトンを買ってもらいたくない。我々は高校生のためにバッグを作っているのではない。」

 新聞でこの記事を読んだときは思わず拍手をおくりたくなった。

家人はシャネルが好きである。だが、シャネルのバッグも服もひとつも持っていない。ココ・シャネルという女性を敬愛しているのであって、昨今のシャネルというブランドのありかたには否定的なのだ。

 シャネルは「私のスーツを買って、そのまま着ているなんて、なんて工夫がないのでしょう。」と言ったそうである。マリリン・モンローが愛用していたという香水がシャネルであったことは有名である。シャネルが香水を発表したころは、「天使のささやき」だとか、「花の微笑み」といったような、いかにも女性が喜びそうな名前がつけられ、花や天使がほどこされた香水瓶に入れられたものが殆んどであったのだが、彼女はその常識に兆戦した。スパッとナイフで切り取ったような四角いボトルに、味もそっけもないようなラヴェルをはりつけた。香りもそれまでのフローラルブーケをやめて、自らも調香に参加してスパイシーな大人の香りを作り出した。「シャネル ナンバー5」はこうして世に送り出されたのである。

 今から80年以上も前のことなのである。社会は男性のものであった当時に、孤児院で育ち、貴族の愛人までやった孤独な少女が、服飾界に君臨し、現代に至っても女性たちの圧倒的な支持を受けている。

 余計な装飾をいっさい省き、「これをつけなさい」と言い切るような潔さが、死後

30年たった今も愛されている“本物のあかし”なのだろう。

 

なぜシネマニアでこんなことを書いているのかというと、「これをつけなさい」という香水があるように、「これを読みなさい」という本もあるのだと思ったのだ。そして私は「これを見なさい」という映画と出会ったのである。

 

「めぐりあう時間たち」はまれに見る文芸作品である。

三人の女性たちの一日を描きながら、心をしめているそれぞれの悲しみを、時をこえて紡ぎ出される“時間”が操る。三つの人生が、まるでたったひとつの人生であるかのように、織りなす時の糸が孤独の模様を紡いでゆく。

 映画はいきなりヴァージニア・ウルフが入水するシーンから始まる。美しい緑の森を抜け、ゆったりとした湖に、吸い込まれるように漂ってゆくヴァージニアは、私には幸せそうに見えた。人は自然の営みの中にいなければ、その命の終わりを従容として受け入れることが出来ないのではないかと、私は思った。花が咲いて、実がなって、葉を落とし、次の季節を待つ。その繰り返しの中にいてこそ、人もまた自然の一部なのだと、何年もかけて教えられるのではないかと。

 だが、映画を見てゆくにつれ、この死の持つ意味の深さに、私の思いは出口を失う。

 ヴァージニア・ウルフは精神を病んで、作家としての懊悩から自殺をしたということになっている。だが、「めぐりあう時間たち」の解釈は少しちがうような気がする。ヴァージニアは1941年に59歳で死んでいるのだが、彼女の作家としての才能を誰よりも理解している夫がいつもそばにいて、彼女の毎日に心をくばっている。都会の生活がストレスを生むのだと信じ、緑ゆたかな田舎に自分の仕事場を移し、召使いを置き、作家としての日常を取り上げることもいっさいしてはいない。

 愛しい姪が母親に連れられて訪ねて来た。姪は天使の服を着て、背中にはちいさな羽をつけて、ヴァージニアの前に現れる。生きる喜びそのもののような天使は、森の中で死んだ小鳥を見つける。無邪気な手に弔われた小鳥は草の上に横たわり、その小さなむくろにヴァージニアは魅入られる。

小鳥と並んで草の上によこたわり、「死が完全な終わりであることに、私は慰められる」と安堵の顔を見せる。

執筆中の「ダロウェイ夫人」もまた死が重要なテーマとなっている。死はいつも彼女につきまとい、命と死のはざまでヴァージニアは両方の世界で生き始めていったのではないか。

 何度も自殺未遂を繰り返した彼女は、それでもロンドンの喧騒を恋しがった。夫とともに移り住んだ田舎で、彼女は26年間を過ごし、死の直前まで多くの小説を発表している。だが、作家としての成功は、彼女の孤独感を埋めるものではなかったのだろう。

「ダロウェイ夫人」を書きながら、ヴァージニアは作中の誰に死をもたらせば良いのかをいつも考える。日常に死を手なづけるように時をおくるうちに、死への誘いはゆったりと彼女を包み始めていったのである。

 

この映画にはあと二人の女性が大きくかかわる。1951年、ロサンジェルスに暮らすローラと、2001年、ニューヨークで働くクラリッサである。

三人の女性は、生きる場所も時期も関連をもたない。「the hours」という原題を「めぐりあう時間たち」と訳した感性を私は尊敬する。この作品の主人公はまさしく「時間たち」なのである。

封印された悲しみは年をとらない。それはいつも生まれたてのように新しく悲しいのである。幸せな妻であり母であるローラは、なぜ死を考えるほど追い詰められていたのか、平凡に暮らす私には理解することが難しいのであるが、死もまた、生と同じく、自分が選び取るもののひとつなのだと気づき、生を選択したローラを理解することは出来る。

 

働き者で、優しくて明るいシングルマザーであるクラリッサもまた、紡いでは断ち切られる元気の糸を、何度も結び返しては生きている、たくましくも悲しい女性である。

人につくし、幸せにすることが、自分の人生に大きな意義をもたらすのだと信じる彼女は、時々その重みに耐えられなくなってゆく。

「若いころ、ある朝起きて心の中で思ったわ。これが幸せのはじまりなのね。でも違った。あれこそが幸せだったのよ」クラリッサはこの言葉を10年後も20年後も呟きながら生きて行くのだろうか。

 

登場する三人の女性たちを繋ぐものは、「ダロウェイ夫人」だけである。先日新聞のテレビ欄でBSジャパンにその名を見つけた。この小説が映画化されていることをまったく知らずにいた。

映画「ダロウェイ夫人」は、静かで難解である。「めぐりあう時間たち」を見ていなかったなら、おそらく一生出会うことはなかったに違いない。

見てわかった。まるまる一本の作品が新しい映画の伏線になっているのである。

2003年の現在、時間たちはこうして私たちを訪れた。

 

なんとなくとっつきにくいような気がして、一度も手にしたことのないヴァージニア・ウルフであったが、これを機会に読んでみたくなった。

「人生に対する見方がちがうだけで、平凡な人生など一つとしてない。人は誰もが私小説の主人公なのだ」

ヴァージニアの言葉に私は勇気づけられる。死後60年もたった今、日本の片隅で、こんなふうに自分の言葉が生きていることを彼女に伝えたい。


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