シネマニア30


〜くじらとビラニア〜


 黒澤明監督が亡くなってから何年たったのだろう。

今なお根強いファンにささえられて、黒澤作品は今日も日本のどこかで稼いでいるのだ。名作シリーズを全て見て、まだまだ黒澤作品を見たいという、エセもにわかも含めてのファンたちの声に応えて、何だかよくわからぬが、“黒澤明が残した最後の作品!!”と銘うって、近頃ぽこぽこといくつかの映画が芽を出した。

 

 気持ちは解からぬでもないが、そんなことでどうするんだ!と苦々しく思う。

 金や宝石や、不動産なら、ちまちまと切り売りして糊口をしのげば良い。だけど映画は違うだろうが。

 “絵コンテが残っていた。”ふむふむ、なるほど。黒澤明という人は確かに絵がうまかった。でもなあ、絵コンテは絵コンテでしかないのだ。そんなに残したかったら「黒澤明の世界 〜絵コンテに見るいのちの時刻〜 」とでもタイトルをつけて画集なり写真集なりを出版すればよい。

 

 私が見たいのは、そんないじましいものじゃない。オマージュにもならないものをいくつ作ったって、みっともないだけじゃないか。あの世の黒沢が歯軋りするようなものを作ろうとなぜ思わないのか。せせら笑われて、それでも幸せだと言うのなら、こう言ってやりたい。「じゃあ、そんな自己満足を人に見せるなよ!金なんか取るんじゃないよ!」

 

 黒澤明という人は、実に多くのエピソードを持つ。

 「あの雲がじゃまだ。あれをどかせてくれ。」と言った話は有名だが、ほかにも、「隠し砦の三悪人」のときには、千秋実という役者と藤原釜足という役者の息が、どうにもあわず、「もういいや、好きなことしゃべっていいよ。あとで声だけ禄ってあてればいいから。」と言ったという話や、「赤ひげ」で使った薬箪笥は、引き出しのひとつひとつの内側までを焙って汚して、“時代”をつけた。などなど……。

 所謂、凝り性であることは間違いない。だが、そんな伝説を有り難がってばかりでは、一歩も抜け出すことはできない。それこそが、黒澤明が最も嫌っていた“ありきたり”ではないのか。

 

 「天国と地獄」という映画は、もう、40年近く前に作られた映画ではなかったか。数ある黒澤映画の中でも、名作の内にはいるだろう。ストーリーの面白さ、緊迫感あふれるロングショットを多用したカメラワークが、今も鮮やかに蘇えってくる。そして、ラスト近く、山崎務扮する、屈折した青年が階段を降りてくるシーンで、黒澤はシューベルトの「ます」を流した。

 軽快な「ます」のメロディに合わせるように、彼は楽しげに足を運ぶ。そのあまりの爽やかさに、見ている者は“悪意”を割り引く。

 

 たとえば、これが黒澤マジックなのだと思うのだ。“犯罪者”を一括りにしない。

 一人の男の置かれた位置。何を憎んでいるのか、何に腹を立てているのか、何を誰をどうしたいのか、逃げる狡猾さを持っていない不器用な若者を、シューベルトの「ます」にのせて描くことで、その若者を私たちに近づける。

 

 私は黒澤明よりも大分若い。私が「ます」を音楽の時間で習った中学生のころ、「ます」には日本語の詩がついていた。“清き流れに…”ではじまるその曲は、いきいきと渓流を泳ぎまわる若い鱒を彷彿とさせて、ある種の一体感をもたらしたことを、今も思いだす。

 「ます」というBGMを使うことで、犯人の人間性や、背景までをも表現する、黒澤明を、私は永遠に尊敬する。

 

 だから言いたい。追いつけもしないくせに食いたがるなよと。

 鰯一匹食い尽くせないくせに、鯨を食いたがる下品なピラニアを、私は認めない。

 

 もうひとつ。人は命の期限を言い渡されたとき、何を思うのか、何をしたいのか、このある筈もない答えが、黒澤明監督の「生きる」にあるのだ。

 志村喬演ずる、老境にさしかかった男が、夜の公園でブランコを漕ぎながら、“ゴンドラの唄”を小さな声で歌うシーンはあまりにも有名である。

 命短し恋せよ乙女 紅きくちびる褪せぬ間に 熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日はないものを とは、命ある者への絶唱である。

 

 一人一人に歴史があることなど、とうに解かっていたことである。ただ、その歴史の意味は少し違っていたかもしれない。これからの月日もまた歴史の一部として、尊重すべきものなのだと、認識し直したいと思う。

 解かっていただけると思う。“これからの月日”が、一年なのかひと月なのか、あるいはもっと短い何日であるのかを黒澤は問いかけているのだ。

 「生きる」の中の志村喬だって、ただの気のいいおじいちゃんであるわけではない。熱き血潮はまだその胸に息づき、若い時分の健康さや、広がっていた未来、仕事を覚え家庭を持ったあの日々を思う。二度ともどることのない時間がいとしい。

 明日の月日を約束されることのない老いの身に、今一度の恋を願って何の悪いことがあろうか。

 「生きる」の中で、志村喬演ずる男に、その恋を示唆するエピソードなど、なにひとつ表現されていない。彼の情熱は公園造りに一心に向けられている。だからこそ、この映画はすごい。熱き思いはなにも女性だけに向かうわけではない。

 そこんところを見ろ。と、この気持ちを解れ。と。これが解かんなきゃあんたなんて全然だめじゃないか。と私たちは黒澤に、胸倉をつかまれていることを意識していなくちゃいけないんだ。

 

  癒しという言葉が、みょうに市民権を持ってしまった近頃だからこそ、迎合したり、甘やかしたりの、いんちきをちゃんと見抜こうと思う。

 

 黒澤明は大きな海をわがものとして、悠然と泳ぐくじらだ。そのヒゲにさわっただけで、あるいは尾びれに叩かれただけで、「鯨を知っているぞ!」と騒ぎ立てて、プランクトンたちに胸をはる、そんな乳歯だらけのピラニアなんて、おみおつけの実にもなりはしない。                                   

 なれるものなら、噛み付けるほどの歯を持って、大きくなって帰っておいでよ。おんなじ映画好きなんだから。


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