シネマニア28


〜あらかじめ約束された悲しみ〜


 先日ビデオで「ブラックホーク・ダウン」というアメリカの映画を見た。封切られたのが昨年であったと思う。新しい映画である。

ソマリアへの介入戦争を描いていて、明るいところも楽しいところも、ほっとするシーンさえ何ひとつない厳しい映画である。

 私は戦後の生まれであるので、実際の戦争を知らない。だが、今までに数え切れないほどの戦争映画を見てきた。

 敵と味方をはっきり描きわけた単純なものから、正面から反戦を表現しているもの、歴史に重点をおいたもの、戦火を背景に恋愛を織り交ぜたもの……と、一体どれくらいの作品が作られたのだろうか。

「ブラックホーク・ダウン」は切なかった。

戦争は、どの戦争もそうであるが、若く健康な命がつぎつぎと失われる残酷な出来事である。この作品でも、ごくふつうの暮らしを営んでいた若者たちが、将棋のコマ以下の扱われ方で、遠きアフリカの地でその命を終えてゆく。

 一番近い未来であるはずの明日を思うことも許されず、故郷に残してきた家族にもひとことの言葉を残すこともなく。

 

 人はかならず死ぬ。愛する者たちとの別れはかならずやって来る。これは、約束された悲しみである。

 その耐え難い悲しみを乗り越えて生きて行くことが、人としての道であるのだろうが、悲しみのあまりの大きさゆえに、魂までをも封じてしまった一人の女性がいた。

「アザーズ」という映画の中に。

 

 アレハンドロ・アメナーバルという30歳の監督による、昨年日本でも話題になった映画である。監督、脚本、音楽まで自身でやってしまうという、大変な才能である。アルフレッド・ヒッチコック亡き後、本物のホラーや、サスペンスを見る機会がほとんどなくなってしまったと思っていたが、アメナーバルの出現で映画界は変わって行くことだろう。

 血も流れない。化け物もでてこない。若く美しい母親と二人のかわいい子供。人里離れた広大な邸宅。突然やってくる三人の使用人。

光アレルギーの二人の子供のために、陽を遮る分厚いカーテンに屋敷は一日中おおわれて、各部屋は出入りのたびに鍵がかけられている。

   世の中から完全に孤立しているような、静かで、悲しく、美しい暮らしが、ほんの少しずつはがされてゆく。  

 

大分前にこの紙面でふれた「シックスセンス」と同様の理由で、「アザーズ」の内容について書くことはできないのだが、興味のある方はぜひビデオででも見ていただきたい。主演のニコール・キッドマンが実に美しい。この映画をプロデュースしたのは、当時ニコールの夫であったトム・クルーズである。アメナーバルの才能に惚れ込み、脚本を読んだ段階で一気に映画化への指揮をとったと聞いている。

 ヒッチコックがもしも生きていたら、やはりニコール・キッドマンを起用して、闇にひらく花のような恐怖を作り上げたにちがいないだろう。

 

 人は一人では生きて行けないと、よく聞く言葉であるが、果たしてそれは本当のことであるのかと、あらためて考えてみたい。

 衣食住のすべてを一人でまかなうことなど、出来るはずもない。だからそれらのことは別にして、いわゆる社会生活を一人で送ってゆくことは不可能なことではない。現代の日本なら、飯も炊けない男だって一人暮らしをして行くことが出来る。では、何故、人は恋愛や結婚をするのだろう。祖父母や両親との死別を考えることはあっても、妻あるいは夫との永遠の別れなど、はるか遠くのことに違いないと、思い込んでいるからなのか。ましてや子供たちが、この両手からある日突然にすりぬけるように、この世からいなくなってしまうなど、想像さえしたくないことであるから、考えないことにしているのだろうか。

 

 話がとんでしまうが、ニューヨークでおきた同時多発テロを、テレビの画面で見たときの衝撃と絶望を、今も私は身近においている。週末の予定をたてながら、その朝を迎えた人のことを時々考える。そして、ビルに残ったそれらの人々を救出するために、くずれかかったビルに入っていった何百人もの消防署員と警察官。彼らの“失われた明日の予定”を思わずにはいられない。

 命はだれのものなのだろう。

 

 生まれてきたこと、生きてきたこと。これだけが解っていることである。この現し世での生を終えて、その後はどこへ行くのだろう。洋の東西を問わず、むかしから人は死後の世界をあれこれと思いめぐらし、絵に残したり本に書いたりとあらゆる手立てで語り継いで来た。正しく生きなければ、こういう目にあうのだと、地獄の絵を子供たちに見せて、躾をした親たちもまた、心のどこかで、誰も見たことがない地獄を畏れていたのではないかと思われる。

 私は、といえば、死んでしまったらそれきり、何も残らないし、ただそれだけのことだという気持ちが強い反面、やはり科学で説明がつかない“なにか”の存在を否定できずにいる。

 人はこの世に生まれてきたことと、精一杯生きた証が欲しいのかもしれない。ほんの小さな引っかき傷でもいいから、なにかを残したいという気持ちは誰にでも少なからずあるような気がする。その思いが、子供を持ちたいという心へとどこかでつながって行くのだと思う。

 言い残したことや、やり残したことがあり、たち切れない思いを伝えたくてさまよい続ける孤独な魂に、やがては自分自身がなるのかも知れないと思ったりもする。

 

 「アザーズ」の主人公であるグレースの生きる世界は、驚くほど精神的なものである。日光を浴びられない為に、学校へも行けない子供たちに、厳しく勉強を教え、聖書の暗誦をさせ、ときにはお仕置きをする厳格な母親である。反抗的な娘の言葉に悩みながらも、いつでも二人の子供たちを愛で満たしたいと願っている、やさしい母親でもある。彼女はその自分自身が描く理想郷に永遠に生きたかったのだ.。

 “約束された悲しみ”のその“約束”を自ら破った。そしてグレースは、“失われた約束”の中に生きることを選んだ。

 

 「アザーズ」を見ていない方には、なんのことだか解かりにくい文章になってしまったかもしれない。タネあかしをしてしまう訳にはいかない映画なので、書いている方ももどかしい。ただ、この作品は、私が見たかぎりで言わせてもらえば、完璧に近い映画なのである。

 ヒッチコックへのオマージュとして作られたにちがいないこの映画の、“良い観客”であることを少しばかり誇りにしている。


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