シネマニア27


〜過去はかえられるものなのだろうか〜


 映画というものに出会って、ずーっと映画好きで生きてきた。若い頃には、夢中になった映画について、あの監督の作品はとか、あの俳優は、あの時代設定はと、持てる限りの知識を総動員して、滑稽なほど語りたがっていたような気がする。

 今だって知識は大切であると思ってはいる。思ってはいるが、年とともに記憶する力が随分なくなってしまって、このごろは思い出せないことが多すぎる自分自身に、もどかしさやらじれったさを感じて、よほど自信がある時でなければ発言を控えるべきなのかな、などと少々気弱になってしまっている。

 監督を追いかけるように映画を見るなど、近頃ではほとんどなかったことであるのだが、最近見たなかで、好きな映画を挙げてみれば、「ギルバート・グレイプ」「サイダーハウス・ルール」「ショコラ」「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」そして「シッピングニュース」であり、これらはすべて一人の監督の作品なのである。監督の名はラッセ・ハムストレムという。スウェーデン人である。

 

 私が中学生のころであるから、もう40年ほども前になるのか、「野いちご」「沈黙」「処女の泉」という、当時のキネマ旬報紙上で、大変高い評価を得ていた作品があった。

 そのいずれも、イングマール・ベルイマンというスェーデンの監督の作であるということを、(おそらく当時も知っていた筈であるのだが)知って、感慨深かった。

 「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」の主人公の名は、イングマールというのだ。

思い込みが強すぎると言われれば、その通りなので、その思い込みに頼って言うのだが、ラッセ・ハムストレムは、この作品をベルイマンへのオマージュとして作ったのだろうと、どうしても私には思えてならない。

 

 ハムストレムは、目に見えないものを見せてくれる作家である。

一体、人はいつから見えるものだけを信じるようになったのだろう。誰も彼も、(私に言わせれば)“近眼”すぎるのではないか。批判を承知で言わせてもらえば、“近眼”に自信を持つあまり“遠くを見る目”を排除する、あるいは遠ざける所がありはしないだろうか。

 逆の場合もあるだろう。遠い未来ばかりに思いを馳せて、足元が見えない、身近な者の悲しみが見えなかったりもするのだから。 

 

 たとえば、月を見ない人はいないだろうが、それはただ見るということではない。月があるいは地球が誕生してからずーっと、長い長い悠久の時をこえて、およそ生命の誕生以来、その生命は、そして初めての人類は、月を見たのである

 今日に至るまで、人類は、動物たちは、たったひとつの月をみてきたのだ。

月ひとつを例にとっても、人の心は無限に広がって行く。それぞれの思いをたくして月を描こうとする時、月の表情もまた無限なのである。

 

 「見えない空気を吸って生きているんだしね、無色無臭の毒ガスを吸ったら死んじゃう体なんだもの、見えないものっていうものは、命にかかわるくらい大切なんだと思う。」と主張した家人は、こう付け加えた。

「思い出だとか、憧れだとか、後悔なんかも見えないし。」

 

“見えないもの”の持つ力はあまりに大きい。もしかしたら、人を作っているものはアミノ酸なんかじゃなくて、“見えないもの”なんじゃないのかとさえ思えてしまう。

 過去を記憶する能力。そして記憶を再現する力。時にはそれを塗り替える狡さをも含めて、私たちは今日をそして明日を生きるのだろうと思う。 

 

 ラッセ・ハムストレムの最新作である、「シッピング・ニュース」を見て、二、三日の間

私はそんなことを繰り返し考えていた。

 

 多重人格という、あまりにも重くシリアスな症例があるが、幼児体験というものが如にその後の人生を揺さぶるものであることかが、近年顕わになってきた。私が最近読んだ本にあったことであるが、女性の場合の症例として、幼児期に、近親者それも父親や兄による性的虐待が根幹にあって、「あんなひどい目にあったのは私じゃない。ほかの子なんだ。」と、逃避による“過去を否定する”手段を選択してしまうことが多くあるらしい。まったく、あまりにも痛々しく辛いことが、今もこれからも世界中のどこかで起こっているのかと思うと、歯がゆく、切なく、悔しい気持ちで胸がいっぱいになる。

 「シッピング・ニュース」の主人公は、幼いころに父親から虐待をうけている。「泳げるようになる為だ」という、そして「お前の為だ」という美しい旗を振るように、父親は小さな息子を川に突き落として「水泳」を教える。水を飲み、両手足を必死にばたつかせ、息子は思う。「僕は生まれてくる家を間違えた。」

 

 こういう出来事がどれほどのトラウマになるのかを、映画は一人の男の日常に“水に溺れる少年”のイメージを何度も組み込んで行くことで描き出す。

 溺れる悪夢に苛まれ、妻に裏切られ、そしてその妻をある日突然失う。眠りに就こうとする時、彼の心はいつも水に沈んで行くのだ。

 

 「シッピング・ニュース」に登場する人々は、みんな辛い過去を持っている。持っているどころか背負っている。そして引きずっている。

 

 風速25メートルの風がいつも吹いていて、一日おきに天気が荒れていて、過去や現在どころか、未来からさえも逃れることが出来ないニューファウンドランド島で、「生きてゆくことは難しいことじゃない。暮らしを営むことの方が大変なんだ。だって、愛する家族がいるのだから」と言わせるのには、一体どれほどのエピソードが要るのだろうと思うのだが、ハムストレムのすごいところは、全ての観客を納得させられるところにある。

 

 奔放な母を持ち、その存在を失うことで自分までを閉ざしてしまう幼い少女と、荒涼たる丘に建つ“忘れられた家”が、この作品の中の人々の孤独感と重なって行く。

ハムストレムは「みんな辛いんだよね」と傷を舐めあうような甘ったるい感傷でなく、「みんな辛いんだから、甘えちゃいけないよ」と、見る側の心にまるで目盛りをつけるかのように、生きることの厳しさを、どこか包み込むような大きさで描いている様に私には思えた。

 

 辛く厳しい過去があるからこそ、今の自分がいる。未来だって変えられる。と映画の主人公は言う。

 本当かなと信じたい気持ちの裏側で、そんな訳ないだろうと意地の悪い自分が顔をだす。

今にいたるまで、どれほどの人を、しかも自分を許してくれていた優しい人たちを傷つけてきたのだろうか。

 自分自身を省みて、厳しすぎた躾を反省することは容易いのであるが、反省というものが、一体どれほどの価値をもつのだろうか。親は息子の20年後、30年後を思うものだ。だが、当の息子にとって、そんな先のことなど見えるはずもないのだから、もしかしたら、辛さや怖さだけを心の奥に残してしまったのかもしれない。

 息子のトラウマを癒す力などきっとありはしないのだろう。気付かないふりをして来た、その月日はあまりに長い。威張ることで甘えてきたことも、今だったら認められそうだ。

 たとえば、この映画の主人公の父のように、水に突き落として泳ぎをおぼえさせることだけが、正しいのではなく、水への恐怖心に負けない勇気を教えることが、違うやり方でもし出来るのだったら、その方が良いに違いないと。

 

 先日、家人が息子からの手紙を読んで泣いていた。大きい期待に押しつぶされそうだった少年期のことや、さまざまなプレッシャーへの反発、欲しかったのは自由ではなく“普通”であったこと。そして、「あの頃の自分がいたから、今の自分がいるのだと思います。」の一行に、涙を耐えていた気持ちが一気に崩れてしまったのだと言う。

 

 息子は過去を変えたのだと、私は思った。つらい過去があればこそ、それに耐えた自分がいるのだ。すまなかったと詫びる気持ちは溢れるほどにあるのだが、親にならなけりゃ分からないこともあるのだと、もう少しの間、偉そうな、しょうがない親父でいたいなと思う気持ちもある。

 

 過去は変えられるのだ。

 これから先も、どんなに辛く悲しく苦しい過去であっても、それからの生き方で「あの時があって良かった。」ときっと気づいて欲しい。悲しみや苦しさをきちんと味わって、生きることの痛さや恥ずかしさを己の重みとして、ちょっとしんどく生きていってくれればどんなに良いかと、過去だらけの、傷だらけの父は思ったのである。

 

 「ショコラ」にも多感な少女が登場する。彼女は自分にしか見えない一匹のちいさなカンガルーを“友”にしている。そのたった一人の友と、ある日別れるのだが、それは彼女の自立そのものであるのだ。まるで「本当に大丈夫?」とでも言っているかのように、ちいさな“友”は振り向きながら振り向きながら、石畳をそっと跳ねて消えてゆく。

 私のカンガルーは誰だったのだろうか。家人の、息子の“友”は誰で、そしていつ別れたのだろうか。

 

 私にはどうやらまだ“人生”がもう少しあるらしい。

  過去は変えられる。この素晴らしい言葉を「シッピング・ニュース」から貰った。気がついた所で直せばいいんだ。


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