シネマニア25


〜群衆を描く〜


 松本市で、一番多くの群集といえば松本ぼんぼんであろうか。連を作って踊る人々も、沿道でながめる人々も、群集である。

 ながめる側の一人である私には、それなりの歴史があり、毎日の生活がある。それは、当然全ての人々にあるものである。「雑草という名の草も花もないよ」とは、昭和天皇のお言葉であったと記憶しているが、人間もまた然りであろう。「群集という名の人はいない」のだ。

 

 前回の“シネマニア 24”で少しふれたことなのだが、書き足りない部分があるように思えて、今回はテーマを“群集”にしぼって書いてみようと思う。

 

 「ウォーターボーイズ」という映画を見た。話の中心は5人の若者たちである。シンクロナイズドスイミングを男子高校生がやるという、実話をもとにした作品である。パンフレットを見ると、シンクロに参加する28人の男子全員の名前と、ニックネーム、この作品に参加することをどう思っているかなどが、写真とともに紹介されている。

 主役の5人を除けばほとんどが台詞もなく、アップもない。だが、“その他大勢”とひとくくりにされるのでなく、全員がその役になりきっていたように感じられた。

 そうでなくては、あんなにもいきいきと、エネルギッシュな青春は描けなかっただろう。

監督、脚本は矢口史靖という。なんと34歳の若さである。

 勢いのある映画だし、勢いのある群集であった。

 

 話題になった、または何か賞を獲った、からといってその映画が素晴らしいとは限らないものである。たとえば「グラディエーター」という、アカデミー作品賞を獲得した大作を例にとれば、やはり群集の描き方に不満が残る。

「当ったり前でしょうっ、私たちはベン・ハー見てるんだから」と、キャイキャイと家人に言われるまでもなく、そうなのだ、私たちは「ベン・ハー」を見ているのだ。

 不朽の名作である「ベン・ハー」と比べられるというのは、それは気の毒なことである。

 40年前に作られた映画なのである。第二次世界大戦の終戦から、ほんの14,5年しか経っていない。

 打ちのめされて、地べたを這いずるように生きて、貪欲に、そしてひたむきに生きた当時の日本人が「ベン・ハー」と出会ったのだ。そのスケール、その魂に、心を奪われぬ訳はない。

 私たち夫婦はそれぞれこの映画を3,4回見ているわけで、言ってみればこの「ローマ時代」については、“ちょっとした者”なのであって、「グラディエーター」を見たときに感じた「なんじゃこりゃ」という感情を抑えることは難しい。

 

 ラッセル・クロゥという現代の名優の、力量と存在感についてはここ数年の活躍を見ても、文句などつけようがない。だがそれでも私たちはこの「グラディエーター」のクロゥと「ベン・ハー」のチャールトン・ヘストンを比べてしまっている。一所懸命に演じているクロゥには悪いが、“なりきり方”が違うんだ。

 金はかけてあることは十分に解かる。だが時間のかけかたが圧倒的に違う。

何より違うのは、実は主演の俳優ではなく、群集なのである。

 衣装をつけて、化粧をして、言われるままに動いて、終わればハリウッドに帰って行くにちがいない、その他大勢の人々を私は認めたくない。

「ベン・ハー」をつい最近、BSテレビでまた改めて見たのであるが、その迫力にはやはり圧倒されてしまった。“終わればハリウッドに帰ってゆくエキストラ”など、一人もいない。「違う人生を生きられる」ことが俳優という仕事の大きな魅力であると、よく言われている言葉であるが、そうであるならば、それは群集の一人であっても同じ意味を持つのではないかと信じたい。

 

 日本映画の往年の名優、坂東妻三郎はまだ駆け出しのころ、その他大勢としての切られ役を演るときは、スクリーンになるべく映らないように、隅っこのほうで、顔が映らない位置で、早めに死んでしまうようにと心掛けていたそうである。自分はきっとスターになる。だから、切られ役などに顔を残したくはないのだと。

 このエピソードは、その後の板妻の活躍を知る者にとっては、“スターというものは、やっぱりどこか違う”といったような、いわゆる伝説という意味を持つものである。

 そしてその対極にあるものとして、川谷拓三の言葉がある。「初めての役は死体でした。息をしないように、何日も前から練習して、本番ではもう、本当に死んじゃうのじゃないかってくらい、苦しくってね、でね、出来上がった映画を見てみるとね、ほとんど映ってないの。くくくっ……」

 死体でもこんな意識をもって映画に臨んでいるのだ。「仁義なき戦い」がつまらぬ訳がない。

 川谷拓三はこうも言っている。「切られ役の心構えですか?あのぅ、それはやっぱり、その瞬間、死にたくねぇ!って思うことだと、思うんすけど……」

 

 主役がいて、準主役がいて、脇役がいて。それだけでは映画は作れない。端役がいて、そして“群集”がいなければならない。

 群集の一人に一つずつ、過去と今と未来があるのだ。

 この「シネマニア」の第一回目は「プライベート・ライアン」についてだったと記憶しているが、確か、一人一人の兵士の描き方へのこだわり方について書いたのだった。

 なぜこんなに“群集”にこだわるのか、自分でも少ししつこいような気がするが、実は何回か前に書いた“悪口”で引き合いに出した「ニュー・シネマーパラダイス」の監督である、ジュゼッペ・トルナトーレが「海の上のピアニスト」を発表して、その後「マレーバ」という作品を作ったことに、少しこだわっているせいなのだ。

 ある映画を見るために映画館に足を運んだ。映画の予告編ほどわくわくするものはない。どれもこれも、「ようし、絶対にこれを見るぞ」と私の中の映画少年がせっつく通りに、私は“次に見る映画”への期待やら夢やらを育み始める。

 だが、その日だけは少し事情が変わっていた。

 「マレーバ」という映画の予告編を見て、なんとなく覚めてしまったのである。

 当たり前のように家人が言う。

 「金八先生みたい」

 

 「金八先生」とは一体何のことだ。私には説明がつかない。

 

 「学芸会ってことよ。村人A:何々…、村人B:何々…、意思表示の順番までが決められているんじゃない?マレーバという女が、この町でどんな風に生きて行けばいいのか、そして町の男達は、女達は、彼女をどういう風に受け止め、あるいは撥ねつけていったら良いのかを、解かりやすく、もう、常識的にね、つまりそっち側の人として群集を描いたんだと見るね。」

 

 まったく、映画好きをバカにしないでもらいたいものだ。

 順番通りに台詞を喋る、こんなお約束通りの描き方で、一体なにを表現したいのか、馬

 鹿にしてはいけない。どんなに若くたって映画好きは映画好きなのだ。

  これでは困るんだ。

 だって群集は私たちそのものなのであるから。

  

 見ることで、参加するのだよ。私たちは、群集は。


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