シネマニア24


〜時は流れない〜


 松本市は、どこを通っても川の流れに行きあたる。女鳥羽川の浅瀬には、何羽もの鴨が陽だまりに集っているのが見られる。台風や大雨で増水して、流れが急になると、何羽かの鴨は下流まで一気に運ばれてしまう。流された鴨たちはどうしているのだろうかと、時々思うことがある。

 流れる、流されるとはそういうことである。では時は、流れて行くものなのだろうか。

「時の流れ」と一口に言っても、たとえば50歳であれば、春夏秋冬を50回ずつおくってきたことになる。事故や大病にさえ遭わなければ、まだまだあと数十年、それぞれの季節をおくることができるだろう。

 80歳を過ぎた患者さんが、ある春の日に「桜がきれいですね。あと何回みられるでしょうかね」とつぶやいたのが忘れられない。

 

 若さというものは、確かに素晴らしいものだ。あらゆる可能性に満ちている。みずみずしく伸びやかな感受性、何よりも、未来を夢見る時間が潤沢にあるということは、何にも変えがたい。だが、負け惜しみで言うのではなく、この年になると、若さゆえの悲しさもまた見えてくる。自分自身を振り返ってみて思うのだが、愚かであったし、傲慢であったし、それのどこが悪いかと、周囲に甘えていた。

 時々、若い人と話をする機会があり、まるで昔の自分を見ているような気持ちになることがある。で、腹が立つかと言えば、これがそうでなく、つっぱっていてもどこか純粋なものを感じる時は友情に近い感情をもつ。

 

「小説家をみつけたら」という映画は、年老いて世捨て人のような暮らしをしている小説家と、バスケットボールと本が好きで、文才のある黒人の少年との友情をテーマにしている。二人の心が、触れ合い、すれ違い、呼び合い、重なり合いして行く月日を、静かに描いている。

 人を見る目がやさしい監督だな、と思ったら、「グッドウィル・ハンティング〜旅立ち」「マイ・プライベート・アイダホ」で数々の賞を受けている、ガス・ヴァン・サントによる作品だった。

 主演はショーン・コネリーである。まったく、彼ほど熟年になるにつれて魅力を増した俳優がほかにいるだろうか。“007シリーズ”の頃のコネリーは、アクが強くてキザで、どうしても良い役者には思えなかった。何年前になるだろうか、ケビン・コスナー主演の「アンタッチャブル」を見て、コネリーがあまりに素晴らしいので一気にファンになってしまった。

 妙な例えだが、冬木立のようである。枯れているかに見えるのに全く枯れていない。「寒い時期は葉を落として、じっとしてりゃあいいんだよ。」とでも言っているようだ。

 

「小説家を見つけたら」では、コネリーは、処女作でピューリッツァ賞をとり、その後二度と作品を出版せずに、ニューヨークのブロンクスでひっそりと隠遁生活をおくるウィリアム・フォレスターという小説家を演じている。

 もう一人の主役は、ブロンクスの高校に通うジャマールという黒人の少年である。

偏屈で孤独な老作家と下町に住む高校生の魂のふれあいを、出会いから、お互いの思いが解かりあえるまでを、じっくり丁寧に描き出している。

 

 題名は「小説家を見つけたら」であるが、実際は小説家が少年を見つけたのだ。ウィリアム・フォレスターと外の世界をつなぐものはアパートの窓と、何日かおきに食料や日用品を運んでくる若い男だけである。フォレスター宛の手紙もその男が持ってくる。電話は線を切ってしまってある。きれいに磨かれた窓から、フォレスターはいつも外を見ている。

 

ふとした出来事をきっかけに、ジャマールは小説家の家で、文章の書き方を学ぶことになる。

 ジャマール少年の生活が大きく変わっていく様子を、一人の少女の存在を通して描きながら、フォレスターという伝説の作家がなぜ世捨て人になっていったのかを、パーク・アヴェニュー、セントラル・パーク、カーネギー・ホール、ティファニー……と、どこかで見知ったニューヨークの街並みとともに映し出して行く。

 ニューヨークに行ったことはないのだが、こんなに美しい町だったのかと、いまさらながら驚かされた。勿論あの忌まわしいテロのずっと前なので、ニューヨークは活気にあふれ、そしてどこか優しい顔をしている。

 映画の後半、ジャマールは、渋るフォレスターを町に連れ出す。フォレスターにとって何十年ぶりかの外出である。ジャケットの上に分厚いダッフルコートを着込み、黒いサングラスをかけ、大きなハンティングキャップまでかぶったフォレスターを、ジャマールが「流行遅れだ」とからかう。

 フォレスターは、夜のマジソン・スクェアガーデンの人ごみにジャマールを見失う。

あふれかえる人波にまかれた彼は、幼い迷い子のように頼りなくはかなげに見えた。家に一人でいるよりも、ずっと大きな孤独感が、見ている私達の胸にも迫ってくる。

 

 その後、二人は誰もいないヤンキースタジアムのグラウンドに立ち、そこでフォレスターは初めて自分自身についてを語りだす。黙って見つめるジャマールが、彼の心を開き、こみあげる涙がその心を解放して行く。つらい過去に囚われるあまり、己を許さないことで贖罪としていた日々が、終わろうとしているのを、フォレスター自身が誰よりも解かっていたのだろう。

 

 好きなシーンばかりなので、とても書ききれない。それでも設定の巧みさには触れておきたい。まず、フォレスターが住むブロンクスのアパートだが、古い建物なのでドアに呼び鈴がない。ピンポーンという音はここには似合わない。ためらいがちな、あるいは息せききっての、コンコンコンコンというノックだからこそ、どんな気持ちでジャマールが訪ねてきたのかを、フォレスターは知ることができる。

 そして彼の書斎。いつも仄暗く、おびただしい書籍が積んであり、書棚の本はどれも古色蒼然とした佇まいを見せている。ジャマールのために引っ張り出したタイプライターは、オリベッティだ。昔懐かしい、赤と黒のリボンをはさんで打ち込むブラックタイプライターであった。

 そして、群衆の描き方だ。誰もいない砂漠にいようと、ごった返す雑踏の中にいようと、人の孤独は癒されはしないのだということを、ガス・ヴァン・サントは言っているのだ。賑わう町、車の流れ、そして満員のスタジアム。

 自分の心が何を求めているのかを見つけられないかぎり、人は孤独なのだ。

 

 この作品は、ある意味では、サクセス・ストーリーといえるだろう。だが、映画のラストで、人生を決める大事な瞬間を、ジャマールは手にいれ、そして失う。

 

 「虹のかなたに」という歌がやさしく流れるタイトルバックは、ストリート・バスケットボールに興じる少年たちを俯瞰でとらえている。アパートの窓からこうして毎日彼らを見つめていたフォレスターの視線を、私たちに預けるかのように。

 

 ジャマールはまた歩き始める。時を重ねるために。

時は流れるのではない。その人生の歴史のために積み重なるのだ。


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