シネマニア22


〜画に語らせろ〜

 

 以前所用があって、東京のホテルに宿泊したときのことである。朝テレビをつけ、ドラマを見ていたのだが、人物の動きにいちいち説明のナレーションが入るのである。煩わしいので何とかその音声だけを消してしまおうと、いろいろリモコンをいじってみたがどうしても消せず、仕方なくそのままにしてしまった。

 ホテルには目の不自由な人が泊まることも当然あるのだから、こういった配慮も必要なのだろう。

 それとはまた別の話だが、最近のドラマにはナレーションが多いものが増えたような気がする。そう思わないかと家人に聞いてみると「朝のドラマはしょうがないのよ。忙しい時間帯だし、おかあさんが子供たちや旦那さんのお弁当を作りながら、ちらっちらっと画面に目を走らせるんだもの。そんな慌ただしい見方でも、ちゃんとストーリーが解かるように作られているわけ。」なるほど納得した。朝だけは、である。

 

 「スピルバーグ作品が好きだ」と以前この紙上で述べた。それは今も変わらない。

「スピルバーグには裏切られたことがない」とも書いたが、「A・I」という映画で前言がひっくりかえった。映像作家が画で表現しなくてどうするのだ。「A・I」は前評判が高かったし、TVスポットが上手くできていたのでこちらの期待が大きかった。その分失望も大きかった。

 天才的な子役であるジョエル・H・オスメントと、妖しい美男ジュード・ロウの個性と演技力に頼りきって、だらだらとやたらに長い。ラストの20分ほどはすべてナレーションに任せてしまった。こんな雑な作品を“故スタンリー・キューブリックに捧げる”などといわれてもキューブリックも嬉しくはあるまい。

 

 画に魅力のない映画なら、見る必要もない。原作を読んでわくわくするなり、感動するだけで充分である。だが私たちは映画を見たい。見終わったあとも心にしみついて忘れられないシーンが欲しいのだ。

 

 「太陽がいっぱい」はあまりにも有名な作品であるので、映画ファンならずとも一度は見たという方が多いだろう。

 私が初めてこの映画を見たのは高校生のころである。当時、高校の映画研究会が主催していた映写会で「太陽がいっぱい」を上映すると聞いて、今はもうなくなってしまった開明座に、朝はやくから並んだのを覚えている。

 今でも素晴らしい作品であると思っているのだが、思い出すたびに、あの頃の自分が顔をだす。どうしても冷静に見ることができない。ラストシーンの眩さに、危うさに、生意気で何にでもムキになっていた青臭い自分が重なって見えてくるのだ。

 

 昨年、「リプリー」という小説を読んだ。ストーリーに見覚えがある。「この小説、“太陽がいっぱい”に似てるんだ。」と家人に話すと、彼女は「やれやれ…」という顔で本の後書きを指で示した。おお、“太陽がいっぱい”の原作とちゃんとかいてあるではないか。

 

「リプリー」はその名のまま、映画になった。

アラン・ドロンが演じた、野心に燃えた貧しい青年トムにはマット・デイモンが扮している。金持ちの放蕩息子ディッキーには、ジュード・ロウ。その婚約者マージはグィネス・パルトロウである。このキャスティングには、正直いって意外な感じがした。だが見てみると、実に面白い仕上がりになっている。

 頭脳明晰ではあるが、風采があがらず貧しいトムという男を、映画はさまざまな工夫で表現している。重いかばんを肩にかけ、分厚いジャケットを着込み、イタリアのリゾート地を汗をふきながら歩く彼は、その垢抜けなさゆえに、粋でお洒落な若者たちの中にあっては圧倒的な存在感を持つ。

 彼のひたむきさ、人懐こさ、真面目さがいくつかのエピソードで展開して行く中、僻みっぽさや狡さ、そして冷酷さが、見ている私たちの目のふちに見え隠れして行く。それは次第に小さなものもらいのように、目の中で疼き出す。そしてやがて、目をそむけるどころか、眼をはなせなくなるほど大きく広がって行くのだ。

 小さな白い村、細い坂道や階段だらけの島は、先の見えない毎日を暗示しているかのように頼りなく、不安を掻き立てる。

 トムとディッキーが二人だけで小さなボートに乗るシーンがある。この時のカメラワークはこの映画のポイントだ。「お前なんか大嫌いだ」と悪態をつくディッキーのうしろに見えるのは、小さくも賑やかな港町である。どんなに憧れようとも撥ね付けられるトムのうしろには、青くどこまでも広がる海がうねっていた。

 トムの孤独、焦燥、憧憬が、嫉妬や野心と絡み合って、殺意にまで至る重要なシーンである。この先、トムがどんな人生を歩まなくてはならないかを、彼のうしろの青く冷たい海が示唆しているように思えた。

 

 景色が美しければ“映像美”であるというわけではない。美しい海を美しいぶんだけ、たとえば悲しみや、孤独、憎しみの海として見せてくれることが、“映像の力”なのだと思う。

 

 いわゆる名画のリメイクはなかなか難しい。前作が優れていればいるほど、比較する目がどうしても意地悪になってしまうようで、気付かぬうちにアラ探しをしている。まさか「ローマの休日」をリメイクしようなどという大胆な製作者はいないだろうが、「麗しのサブリナ」はウィノナー・ライダーの主演で「サブリナ」という映画が作られている。オードリー・ヘプバーンの清冽なイメージがあまりにもつよいせいか、どうしても見る気になれない。新たに作られた「恐怖の報酬」も「ダイアルMをまわせ」も「ハリケーン」もそれぞれ決して出来が悪いとは思わない。だが、いずれの作品も前作を凌ぐ仕上がりとはいえない。「太陽がいっぱい」のリメイクが作られたと聞いても、実を言うと、たいしたことないだろうとタカをくくっていたところがある。

 ところが、原作は同じであっても、「リプリー」はまったく違った魅力をもつ作品である。

人間関係の描き方が濃密であることがこの作品を骨太にしている。最近の映画にしては全体のテンポがゆるやかに感じた。猜疑心や恐怖という感情は、人の心にゆっくりと湧いてくるものなのだ。舞台が海であるということとも関係があるだろう。三角波のうねりはどこか不安を色濃くしてゆくものである。

 画面の切り替えが少ないのも、落ち着いて見られる要因である。長いシーンが多いということは、役者たちに本当の力があるということを表している。

 

「太陽がいっぱい」のラストシーンを覚えている方は多いことだろう。アラン・ドロンの笑顔、輝く海、静かに漂うヨット、スクリーンいっぱいに流れるテーマ曲……。

 同じ主人公を持つ「リプリー」には、裏切りと悲しみの中で、三度目の殺人を犯してしまうマット・デイモンの、絶望的な横顔が、暗い夜の海に重なって行くという、痛々しいラストシーンが用意されていた。

 

 どちらがいいとか、好きだとか、それはどうでも良いことだ。

 「太陽がいっぱい」と「リプリー」という、忘れがたい映画があるということなのだ。


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