シネマニア21


〜誰も知らない”誰のものでもないチェレ”〜

 22、23年前になるか、いや、もっと長い年月がたってしまったのか、はっきり思い出せないのだが、高野悦子さんという女性が設立した“エキプ・ド・シネマ”という事務所がある。高野さんは、東京岩波ホールの支配人である。

 “エキプ・ド・シネマ”の会員になると、岩波ホールで上映される映画を優先的に見ることができる。そこで上映される作品は、大きな配給会社の手を通ってはいない。興行的には、“儲からない映画”ばかりだと言って良い。高野さんの仕事は、丹念に砂を掬い取るようなものだったかもしれない。そしてその掌の中で、かすかにいとしく輝く小さな映画を選び抜き、私達に見せてくれたのだ。

 やがて花が咲き、実がなることになど、なんの保証がある訳ではないのだが、彼女は私達の胸に小さな種を蒔きつづけてくれたのだと思っている。

 

“エキプ・ド・シネマ”を見つけて、会員になったのは家人である。まだ結婚間もないころで、子供もいなかった。経済的にも決して豊かとは言えず、楽しみといえば映画を見ることぐらいだった。私達は“エキプ・ド・シネマ”に夢中になった。

 神田にある岩波ホールまでは電車と徒歩で30分ほどだった。私と家人は月に一度送られてくるパンフレットを前に、見たい作品をチェックした。そんな時間が、私達にとって本当に満ち足りた時であり、楽しみだったのだ。

 いくつも見たはずなのだが、今思い返してみると、ずいぶん忘れてしまっている。だが、自分の一部になってしまったかのように、刻み込まれた作品も確かにある。

「木靴の樹」「旅芸人の記録」がそれである。

この二つの作品は、映画好きの間では時おり話題になることがある。この「シネマニア」でも、いつの日か紹介してみたい作品である。

 今回は、「だれのものでもないチェレ」というハンガリーの作品について書いてみたい。

1976年に作られたこの映画には原作がある。モーリツという作家の「みなしご」を映画化している。驚くほど上質のこの作品は、ほとんど無名である。一人でも多くの人に覚えておいてもらいたくて、この場をお借りする。

  

 美しい農村の風景が画面いっぱいに広がる。一人の少女が牛の番をしながら、黄金色に輝く草原を歩いている。そののどかさは突然破られる。6,7歳に見えるその少女は小さな布きれ一つ身につけてはいない。いくら1930年代の貧しい農家の娘だとしても、裸で暮らす少女などいない。「だれのものでもないチェレ」とは、そういうことなのかと、心が激しく痛んだ。

 チェレは中年の男に乱暴される。泣きながら家に帰ると、養父母は「きっとあいつだね、しょうがないねえ。」と気にもとめない。

 孤児院から子供を引き取ると国から補助金がでる。養父母はそのわずかな金を手にするためだけに、チェレを養子にしたのだ。

 毎日当たり前のように折檻され、養母からは「決して人のものに手をだしてはならない。お前のものは体しかないのだ。」と言い聞かされた。チェレは裸で引き取られたわけではない。粗末ではあるが服を着ていたはずである、だがチェレは裸で暮らしている。

 盗みの疑いをかけられたチェレは、ある日養父母の家から逃げ出す。たった一人の友達だった牛がいつまでも着いてくる。

 森の木立の中を一人の農婦が歩いている。胸に子供を抱いて。チェレはその若く美しい母親を言葉もなく見つめている。

 自分の本当の名はなんというのか、今いくつなのか、そして、かあさんはどんな人なのか。チェレは何もしらない。

 

 残酷な運命は彼女を手放さない。再び孤児院にもどったチェレは、以前よりも過酷な境遇におかれることになる。孤独な老人との出会い。つかのまのやすらぎ。そして永遠の別れ。何度さしのべても振り払われる小さな手。

 はなやかに着飾った村の人々がクリスマスを祝う夜、チェレは納屋でたったひとり、小さなわらしべで作った粗末なツリーの前にすわる。「かあさん、プレゼントをちょうだい」とつぶやき、ツリーに火をともす。瞬く間にそれは燃え上がり、納屋を赤くつつんで行く。チェレは微笑みながら炎の中にいた。

 

 こんな不幸な少女の物語に、なんの救いがあるというのか。ただ悲しいだけではないのかと、そう思われたのなら、それは私の文の拙さゆえである。

「だれのものでもないチェレ」には、“希望”がある。人間として生きることを決してやめなかった少女の誇りが息づいている。

 「お前のものなど何ひとつないのだ」と吐き捨てるようにののしった養母に「シャツがある、あれは私のだわ」と言い返した気丈さがある。森をさまよい、泉を見つけて、「さきにお飲み」と子牛に水をのませる優しさがある。

 そして自分の人生を自分で決めた強さがある。「だれのものでもない」ということは、一人ぼっちであることだが、誰の束縛も受けはしないということでもある。

 

 何ももたないこの少女に、私は教えられることばかりではないか。何もかも失ってしまう事態がもしおこったとして、人間の尊厳を持ちつづける勇気や、ぎりぎりの孤独にたえる強さがはたして自分にあるのか、答えをまだ見つけられない。


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