シネマニア20

〜偏食の申し子〜


 食べ物に関しては、そう好き嫌いがないほうだと自分では思っている。

年のせいか、むかしほど肉料理に執着しなくなって、あまり脂っこいものを旨いと感じなくなった。

 家人は言う。「原始人になってかんがえればいいのよ。若くて体力が充分あって、育ち盛りの子供がいる人なら、けものを追いかけてしとめて、一番栄養のある肉を勝ち取る権利があるでしょう。自分と家族のために。そして、追いかける体力がなくなったなら、残り物をほんの少し分けてもらう。これでいいんじゃない。」

 なるほどと思う。獲物を追って野山を駆け抜けるスタミナがないのなら、浜に出て小魚や、海草を集めたり、木の実や草やきのこなどを食べるのが、道理にかなっている。第一からだに良い。

 その家人は実は肉類が食べられない。牛、豚、鶏、から、ハム、ソーセージ、ベーコンにいたるまで殆ど口にしない。一時はそのことを悩んでなんとか克服しようと努力はしたのだが、無理やり挑んで、胃痙攣をおこしたところで、諦めてしまった。

 だが食卓には、肉料理はよく登場した。子供のことも考えたのだろう。偏食で苦労するのは自分だけで良いと。札幌生まれの家人は魚料理が得意である。おかげで私も魚の旨さがよく解るようになった。

「初めて松本にきた時は、もう、どうしようかと思った。目の前にならんだのは、鯉の煮付け、泥鰌の柳川、馬刺し、蜂の子、にじ鱒でしょう。高そうな料理屋さんなのに、申し訳ないやら辛いやら……。ごはんとたくわんしか食べられなかったのよ。」いまあげたメニューに、彼女が食べられるものはない。魚も川魚はダメなのだ。

 こんな好き嫌いの多い女とよくもまあ一緒になったものだと、われながらそのボランティア精神に感心する。


 いつもながら前置きが長くなってしまった。“好き嫌い”について一寸だけ触れておきたかったのだ。今書いたとおり、私はなんでも食べる。酒も好きだ。だが、映画だけには“好き嫌い”が激しい。


「スタンド・バイ・ミー」という曲がある。名曲である。だが映画の「スタンド・バイ・ミー」は好きではない。テーマは悪くない。少年を主人公にしたのも良い。特に今は亡きリバー・フェニックスの存在感は忘れ難い。だが、それだけだ。イージーとさえ思える脚本。一体どんな層をターゲットにして書かれたのだろうか。スティーブン・キングなら何でも良いというわけではない。この映画を好きな人には、まことに申し訳ないのだが私にとってはこの作品は駄作なのである。

 料理でいえば、アメリカの料理そのものとさえ言えるかもしれない。ケーキは甘い。どうだ、甘いだろう。ステーキは大きいほうがご馳走だ。どうだ、大きいだろう。のどが渇いた?それ、バケツ一杯のコーラだ。と、まあ、悪口がすぎたか。


 少年の性格の屈折を、4人にふりわけることで描く。よくあるように、そのうちの一人はぐずで、デブだ。食い意地が張っていて、ドジな男の子を入れることで、笑いをとり、ほのぼのさのパートを確保する。物語の軸になるクリスという少年だけが、やたらとかっこいい。勝手に傷ついている。理解のない両親、死んでしまった兄への憧れとコンプレックス。このことについて、だらだらとした描写がつづく。類型的な、手垢だらけの言葉のやりとりに飽きて、見ている方は「だから何なんだ。」と開き直ってしまいたくなる。

 いろいろあって、いきなり子供達は大人になり、約束どおりのように、一人はこの世になく、作家になって、過ぎし少年時代を邂逅するクリスがいる。セピア色の思い出の画面が流れ、「スタンド・バイ・ミー」のテーマ曲がエンディング・クレジットに被さる。

 〜大人になんかなりたくなかった…〜というサブタイトルをつけられても、そのことが一番の正義であるかのような押し付けはいらない。子供を理解することと、媚びることはまったく別のことなのだ。

 「はい、感動いっちょうあがり!」とレジを打たれたような安っぽい仕上がりが感じられて、それがどうしてもイヤなのだ。

「嫌いなわりには、ずいぶん詳しく覚えてるね。」という声が聞こえてきそうだ。けなす以上はきちんと見なくては、と思ったまでです。この映画を好きな方には、本当に申し訳ない。

 憎まれついでにもう一作。「ニュー・シネマ・パラダイス」も嫌いな作品だ。

「えっ、あんな良い映画を?」という方が沢山おいでかもしれない。すみません。この作品も私にとっては駄作です。

 これも主人公はいたいけな少年だ。笑顔が可愛い少年と、イタリアの片田舎ののどかな景色と、ほどほどの貧しさと、孤独な老人と……。シチュエーションが揃ったところで映画は始まる。十人のうち、八人くらいは考えつきそうなシーンが続き、そのうちの六人くらいが思いつきそうなやりとりが続く。

 まず、役者が下手だ。もしかしたら有名な役者なのかもしれないし、高い評価を得ているのかもしれぬ。だが下手である。

 あの少年があんな大人になるのには、とんでもないストーリーがなくてはならない。その部分は全く描かれていないといっても良い。“愛のシーン”にあれほどこだわる理由が、不充分である。涙、涙のラストシーンに強引に持っていったが、持っていかれたくないこちらの気持ちをどうしてくれるのだ。主人公が勝手に泣いてるのを見て、こちらはしらけるばかりだ。

 私以上に辛口の家人にも聞いてみた。「俗っぽいし、娑婆っ気がありすぎる。“純粋を装ったあざとさ”という感じがする。私は“すれっからしの純情”のほうが好き。」

 よく解らんが、やはりこの映画は好きではないらしい。

 「スタンド・バイ・ミー」同様、「ニュー・シネマ・パラダイス」ファンの方、腹がたったでしょうね。「電気舘さんは、天邪鬼だ。素直じゃない。」という御批判が聞こえてきそうで、ほんとうはちょっと辛いのです。

 でも、私は映画会社からなにかを貰っている訳ではないし、宣伝マンでもない。ただのシネマニア、映画好きなだけなのである。好きな作品が沢山あって、嫌いな作品もいくつかあるということなのだ。

 今回悪口を言った二つの映画は、所謂“良い映画”という評価を得ている。そこに「ちょっと待った!」を言いたかったのだ。なまじ悪くはないところが、余計引っかかるのである。

「感動しましたあ」と、埒もない映画にニタニタしている若い世代に、もっともっと、傷ついたり打ちのめされたりしてもらいたいのだ。

 恋人とのデートに、ゲームセンターでなく、映画を選ぶ彼らだからこそ、本当に良い映画を見てもらいたい。

 こ洒落たようなインチキ臭いものに、感動なんかするな。本物に会うまで、取っとけ。配給会社がこねくり回したコピーなどに惑わされるな。本当に感動したら、自分の言葉で表現してみろ。たとえ名もなき作品であっても、心の奥ふかくに住みつくような、そんな映画といつか出会え。とっとと出会え。

 食べ物の偏食は、決してほめられたことではない。だが、本や映画に関しては、おおいに好き嫌いを言って良いのだ。多数の意見がいつも正しいとは限らないのだ。たとえ多くの人々が「あれは良い映画だね」と言ったとしても、自分がそう思わなかったのなら、「ノー」と言える勇気を持っていて欲しいのだ。

 振り上げる拳の一番の理解者はタイミングなのだ。もしかしたらその「ノー」は誰よりも熱い「イエス」であるのかもしれない。

 主張する気概を持つには勇気が必要だ。みんなと同じでなければ安心できない、などというのは、中学生までで良い。


 偏食で良いではないか。好きなものだけを好きと言いたい。嫌いなものは、たとえあなたが“好き”と言っても、私は“嫌い”だ。


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