シネマニア19

〜心という字〜


 ささやかではあるが、私の家にも庭らしきものがある。苔など植えたおぼえはないのだが、いくつかの木々の根元に、うっすらと苔がはえている。桂の木に、山もみじの木に、かいどうの木にも、百日紅の根方にも。
 数年前に、京都を訪れたとき、大原の三千院の庭園の木々に、美しくひっそりと、いく種類もの苔が息づいていたのを思い出した。

 京都で苔といえば、“苔寺”の別名を持つ西芳寺が有名である。最近は予約をして、しかも抽選を経て、年に二度ほどしか西芳寺を拝観する機会がないと聞いている。清水寺のように、いつでも誰でも受け入れる、という訳にはいかないらしい。

 しかたがないことなのだろう。苔の持つ、幽玄や静かさや、歴史観にもつながるかのような、重苦しいほどの美しさなど、昨今の修学旅行の子供達に、理解を求めるほうが無理なのだ。

 かく言う私も西方芳寺を訪れたのは、中学校の修学旅行で一度だけである。覚えているのは、いくつかの苔の不思議な光と、千の利休が自害したといわれている茶室と、そして“心字池”である。
“心”という字を形取った池というものがあることなど、それまで知らなかったこともあって、「あ、なんか、すごいや」というような印象をもった記憶がある。

 “心字池”というものは、西芳寺に限ったものではないらしい。たとえば福岡の大宰府天満宮である。天満宮の境内にある心字池には、三つの赤い橋がかかっている。一つめは“過去”二つめは“いま”そして三つめは“明日”だという。

 我が家では私よりも家人のほうが漢字に強い。私のほうはワープロ、パソコンを使う機会が増えるにしたがって、ますます漢字に弱くなった気がする。読むほうは何とか大丈夫なのだが、書くことがどうもいけない。簡単な字がなかなか思い出せない。だが、漢字に強いはずの家人も時々間違えることがある。「あっ、いけない。忙しいって書くのを急がしいって書いちゃった。」と書き損じた葉書に小さくため息をついている。「忙しい、も忘れる、も“心を亡くする”って書くのよね。だから“忙しくてつい忘れた”なんていうのは、そうとうまずいね。」

 なるほど。だが、生きて行くということは、ある意味“忘れる”ことでもある。忘れたほうがラクな場合もあるし、忘れなくてはならないこともあるだろう。それでも「忙しいから」とか「疲れていたから」忘れる、というのはやはりそれはそうとうまずいかも知れない。


 古い作品だが、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」という映画がある。

今の日本が不景気だの不況だのと、(勿論そうには間違いないし、深刻な事態ではあるのだが)さわがしいが、1950年代のイタリアの比では到底ないだろうと思える。

 「自転車泥棒」は大好きな映画で、何度かテレビの深夜放送でも見る機会があった.

 どのシーンを思い出しても、胸が熱くなるような、名画であるが、なかでも忘れられない場面がある。

 美しい妻と可愛い息子をもつ貧しい父親が、職を得られずにいらいらしている。彼は必死なのだ。気遣う妻にも、心配そうに見つめる息子にも、とげのある言葉を投げつけてしまうほどに。

 手にあまる大きな重い荷物をひきずるように運ぶ妻に、彼は手を貸すことを忘れていた。妻のほうもそのことで夫を責めたりはしない。

 心にゆとりがある時であったなら、“手を貸す”どころか、はじめから自分で重い荷物を運んだに違いない。そんなふうに追い詰められている男の心情を、“手を貸すことを忘れていた”シーンに描くことで、デ・シーカは、貧しさと、未来にむけて持つべき夢をみることが出来ないもどかしさと、そして家族への切ないほどの愛を表現している。

 
「セブン」という映画を、5〜6年ほど前に見た。聖書における“七つの大罪”にもとづいた猟奇的な連続殺人事件を追う、二人の刑事がいる。一人は人気者のブラッド・ピット、もう一人をモーガン・フリーマンが演じている。モーガン・フリーマンは、「ショーシャンクの空に」「アウトブレイク」等々良質の作品に多く出演している。渋く、落ち着いた存在感のある黒人俳優である。「セブン」の中で、フリーマン演ずる中年刑事はひとり暮らしをしている。

 難解で残酷な事件を手がけながらも、彼はアパートの部屋にもどると、脱いだ服をきちんとハンガーにかけ、シャツをたたむ。部屋は決して豪華ではないが、ひっそりと片付いており、一人暮らしの長さと彼の几帳面な人柄が想像できる。

 よくある刑事ドラマだったら、こんな時どういうふうに描かれるだろうか。疲れて帰ってきた刑事は、寝床にどさりと身を投げ出し、アタマなどをかきむしり、事件の手がかりのないことに苛立ち、ビールでも飲むのか。せいぜいからっぽの煙草のハコを握りつぶしたり……。そのうちハタと何かを思い出し、あるいは思いつき、電話に手を伸ばす………。と、こういったパターンが多いのではなかっただろうか。

 「セブン」のフリーマンは、毎日そうしているように、静かに服をクローゼットにしまい、気負わず騒がず“事件”の中に入って行く。この“日常を忘れない”という描き方に、事件の解決は不可能ではないという、暗示のようなものを感じるのだ。

 この映画自体は、実はあまり好きな作品ではない。だが、今書いたような“シーンの作り方”の巧みさについては認めざるをえない。禍禍しく恐ろしいストーリーの中に、ほっとするような空間が、言葉をつかわずに存在している。


 シネマニア 5 で、北野たけしの映画について書いたことでもあるが、伝えたいことが多くあるのなら、言葉に頼るべきではないのだろうと、いまも私はそう思っている。

 たとえば、高倉健は70歳に近いというのだが、なんと瑞々しく豊かな人間性を持ちつづけていることか。本人は、そう無口なわけではないらしなく、その素顔を知る人々は、彼の無邪気さやユーモラスな面を口にすることが多い。

 だが、 ほとんどの主演作にあって、高倉健は“無口で不器用”な男を演じている。

「居酒屋兆治」という映画では、かつて恋人であった女から「あなたがいけないのよ、あなたが……」と責められる。そのシーンでの彼は、ただ黙々ととり肉を串に刺し続ける。言いたい思いはあふれるほどにある。それでも焼き鳥の準備をしながら、ぽつりと「……すいません。……」 と小さく言い、頭をさげる。

 この「すいません」には、手放してしまった過去への後悔と、今の暮らしを守らなければならない自分、そして目の前にいる昔愛した女への、語り尽くせない思いが詰まっている。その女にも守るべき家庭がある。たとえば“見詰め合う”というほどの、ほんの一歩さえも踏み出してはならないのだと、自分への戒めまでも、この「すいません」の一言にふくませている。

 いとしさと、もどかしさと、自分へのじれったさと、忘れたはずの若さへの執着と。あふれて渦巻くような思いを「……すいません……。」にありったけこめて、兆治は手を休めない。高倉健は兆治になりきって、兆治という寡黙な男の心を演じて見せた。

 
 映画は監督のものでもあるが、役者のものでもある。そして映画は私達のものだ。“心”を伝えたい監督がいて、演じる役者がいて、受け止める私達がいる。この三者の誰にも“心”が息づいていなくてはならない。“忙しいから忘れた”と言ったら負けなのだ。


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