シネマニア16


ちょっと脱線しました

 昨年の暮れだった。テレビで“中村仲蔵”を扱ったドラマを見た。歌舞伎界のプリンス市川新之助が主演の作品である。自分の知らない世界の話で、興味深く見た。見始めてすぐに、家人が「これはすごいね」とつぶやいた。何がすごいのかを聞いてみた。「時代考証がしっかりしてるの」と言うのだが、まだ私にはよく解らない。

「この時代の、女の着物の着付けがちゃんと出来てるの。帯の結び方ひとつをとっても、武家の女は帯締めは使わずに文庫結びをしているし、町家の女はこう言う風に角出しに結ぶのが正しいの。新年の挨拶廻りをする芸者衆が、白い献上の帯を“柳”という結び方にしていたし、しかも、その“柳”が横に揺れるように歩いていたのよ。素人が歩くと小学生のランドセルみたいに、パタパタって前後にゆれちゃうのね。あの揺れだけでもこのドラマの質の高さが解るんだわ」

 何だか面白い展開になってきた、とドラマそのものへの興味とはまた別のところで、画面から目がはなせなくなった。「第一、この新之助の着物の着方のきまり方って言ったら、本当に見事だよね……」と感心しながら、「この着物の柄は、弁慶格子というの、“勧進帳”で弁慶が着ていた着物からきているんだけど、“茶弁慶”と“藍弁慶”があって……」云々といったことから、“数珠だま、かまわぬ、吉原つなぎ、大名縞、ふぶき、”などなど……江戸の柄の講釈を受け、「黄八丈の着物に黒い襟をかけてるのは、“黒朱子”といってね、襟は一番汚れる所でしょう、だからああいうふうに黒のしゅすをかけて、汚れたらそこだけ取り返ればいいのよね。」とか、「夏座敷のしつらえは、昼間っから簾垂れを長く降ろしていたら、行儀が悪いんで、明るいうちは半分くらい、日が翳ったら下まで、がいいの。」といった“江戸の作法”を教わるのは新鮮な気がして、悪くない。

 家人に言われるままに見ていたが、だんだんドラマそのものにも惹かれて行った。所作の無駄のない動きの美しさにも見とれていた。つまりこの魅力は“様式美”ということではないかと思う。

 私達日本人には、俳句や短歌を始めとして、“韻”を大切にする言葉の文化がある。これも“様式美”なのだと思う。

 これは日本独特のものなのだろうか。いや、そうではあるまい。

今年のアカデミー賞がどの作品に輝くのかは解らないが、三年ほど前に作品賞を獲ったのは、「恋におちたシェイクスピア」という映画だった。

 若き日のシェイクスピアが、自らも許されぬ恋に苦しみながら、“ロミオとジュリエット”を書き上げるという内容だった。

 シェイクスピアの作品を上演するということは、日本人にとっての歌舞伎に近い感があるらしい。シェイクピアの没後百年をゆうに越えている現代においても、“オセロー”も“マクベス”もハムレット“もそして”ロミオとジュリエット“も耳に心地よい韻をふんだ台詞は、ほとんど変えられることなく上演されているのだという。

 他の国のことは詳しく知らぬが、いわゆる「古典」を持たぬ、たとえばアメリカの人々にとっては、こういう文化はやはりどこか羨ましいのではないだろうか。

 せっかく歴史のある国に生まれたのだから、私も古典芸能に触れる機会をもうすこし持ちたいものだと思うようになった。

 ことのついでと言っては何だが、“中村仲蔵”についても家人に教わった。故三遊亭円生の人情話に残っているらしい。血統を重んじる歌舞伎の世界にあって、有力な後見を持たず、いやというほど下積みの辛酸を味わった仲蔵が、「仮名手本忠臣蔵」で、塩谷判官(浅野匠之守)を演じる程に精進しながらも、その大役があまりにも重く、判官の無念を表現する手立てが掴めずに、死を考えるほど苦しむという話である。苦しみに苦しみぬいて、仲蔵はついに最後には認められるという、ほっとする結末がその人情話には用意されていたのだが、実際は果たして、そんな生やさしいものではなかったろう。

 脱線ついでにもうひとつ。私は故三遊亭円生の高座を一度だけ見ている。結婚間もない頃、寄席好きの家人に引っ張られて、上野鈴本に行ったことがあるのだ。その日の主任(トリをとるという意味で、本来はこの主任という言い方が正しいらしい)を努めたのが円生であった。演目は「やかん」という、しったかぶりのご隠居と八つぁんの他愛もない笑い話であったが、やさしく、機嫌よく高座をつとめる円生を今でもはっきりと思い出すことができる。

映画の話にもどると、「恋におちたシェイクスピア」は作品賞を獲っただけあって、なかなか良く出来ていたと思う。なにより、ヒロイン役のグィネス・パルトロゥが良かった。美しいだけではなく、久々に気品のある女優を見たという気がする。

 “韻”ということを考えると、やはりローレンス・オリヴィエが演じた「ハムレット」や「オセロー」が代表的だろう。今見ても少しも古臭さを感じさせない。「オセロー」におけるイヤゴーという悪党と、「真夏の夜の夢」のいたずらな妖精パックは、それぞれ重要な狂言廻しとして、鮮やかに物語を操る存在である。イヤゴーもパックも、シェイクスピアが生み出したある種のスターである。かれらは今も生きている。たとえば「恋におちたシェイクスピア」で言えば、グィネス・パルトロゥ扮するヴィオラという令嬢の、乳母がまさにそういった役割だった。そして「フォレスト・ガンプ」でトム・ハンクスの上官を演じたゲーリー・シニーズであり、「カッコゥの巣の上で」の看護婦長ルイーズ・フレッチャーである。「グリーンマイル」のミスター・ジングルスは人間ではないが、これも一種のパックと言っても良いように思う。

 新しい作品がどれだけ作られても、それはいきなり生まれてきたのではなく、歴史の積み重ねに支えられていたのだ。

 これからも、シェイクスピアの名作は、姿を変え、名前を変え、あるいは古典そのままに舞台やスクリーンに登場するだろう。良いものは不変であり不滅だ。いつの時も、良いものを楽しめる自分でいたいと思う。

“韻”のことなどに生意気にも触れてはみたが、英会話に関しては、私は実はたいしたことがなくて、もちろん英語だけではなく、外国語にはまるで弱い。洋画を見るときは字幕のお世話になりっぱなしである。つまり清水鎮男氏や戸田奈津子氏といった翻訳家による解釈が、そのままこちらのアタマに入って来る訳である。

 だから“韻”など、本当には解ってはいないのだろう。

 雪が降る夜、を表現するのに、「しんしんと、雪が降る夜でした」と言うのと、「雪の降る音が、聞こえてきそうな夜でした……」と言うのでは、静かさのイメージの広がり方が違ってくる。このふたつの表現においては、“雪”を感じる“私”のいる場所が違う。

「しんしんと……」では“私”は外にいて、屋根に降り積もる雪を見ている。「雪の降る音が……」では“私”は家の中にいる。布団にくるまって、屋根に降り積もる雪を感じているのだ。

 清水氏や戸田氏に不満はないが、豊かな表現力を持った翻訳者が、これからどんどん出てきてくれると有り難いと思う。

 なるべく手垢のついたような言葉は使わずにいたいものだ。言葉の鮮度にもう少しこだわりを持ちたい。ましてや外国映画を日本語に置き換える場合は、いろいろ制約があって難しいとは思うが、どこか小さな不満が残ることがある。日本映画を外国向けにする時も同じ事が言えるだろうと思う。

 「そうよね、“寅さん”の口上なんか英語に出来ないものね。」と家人が口をはさむ。まあ、そういうことでもあるが、少し違うのだが……。

「よしっ、まかせなさい。私、英会話習ってるんだから。」だから、少し違うんだってば………。


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