シネマニア15


〜ものぐさなフランチェスカ〜 

 何年か前に、“失楽園”が話題になったことがある。渡辺淳一原作で、映画にもテレビドラマにもなったので、見た方もおいでかもしれない。私はどちらも見ていないし、読んでもいない。家人に言わせると「おなかの出たおじさんのおとぎ話でしょ」とこれもまた、読んでいないのに、手厳しい。口がワルくてどうにもきまり悪いのだが、実を言うと私もそんなふうに思っているところがある。

 では“マディソン郡の橋”はどうか、あれだって不倫の話だ。と尋ねると、「あれはおじさん達への警鐘。女はみんな、フランチェスカを心の中に住まわせているんだという、イエローカードみたいなものだと思うな」ときた。

 だからせいぜい女房を大事にしなさい、とでも続きそうなので、ちょっと話の方向を変えてみた。「映画化するとしたら、キャスティングは、どうなるかね」「そうねえ、フランチェスカはメリル・ストリープ、キンケイドはクリント・イーストウッドだわね。」と言いきった。

 そんな話から大分経って、新聞に「“マディソン郡の橋”映画化決定」とあり、配役がその通りであったので、ちょっと驚いた。家人が言うには、「好きか嫌いかで言うと、また別なんだけど、この二人はとにかく上手いし、ちょっとくたびれてると言うのか、年の取り具合がちょうど良いのね」ということらしい。

 夫婦で見る映画、というものではないらしいので、一人で見た。

原作を忠実になぞるかのような、丁寧な作品に仕上がっていた。なるほど、こういうやり方もあるのかと唸った。

 「こういうやり方」とは、つまり観客が「原作を読んでいる」ことを前提としているのではないのか、と思われるシーンが、まんべんなく散りばめられていたことである。

 原作を知っていれば、印象に残っているシーンを見た時に、「ああ、そうだ、そうなんだった」と、繰り返しては確認するという作業を、無意識のうちにしているのではないだろうか。“マディソン郡の橋”は、ベストセラーになった小説である。映画化されたら、読者はやはり見に行くだろう。「読んだ人だけが解る」シーンが多かったと言って良いと思う。

 だが、それでも、映像でしか表現できないシーンは、やはりあった。短い恋を終わらせたフランチェスカが、「おかえりなさい」と、夫と子供たちの乗ったトラックを迎えに庭先に出るシーンがある。その時、彼女は道のかなたに目を走らせる。

 道はどこまでも続いているように見える。なだらかな坂には、今しがたトラックが作り出した砂埃りが、ちいさく渦を作っている。

 もう二度と、キンケイドがこの道をやってくることはない。そして自分もまた、一度だけ夢みた別の未来が、この道の向こうにあったかもしれないと。

 

 この映画の主役は“橋”である。赤い屋根のある橋だった。渡ってしまえば、橋はただの橋だが、その屋根の下でどんなことがあったのかは、誰も知らないままだ。

 まるで、人生の「ある時間」をくぐり抜けるかのように、出会いと別れが橋を渡ったのだ。

 映画としては、一流とは言い難いが、後味のよくない作品が多い中で、“マディソン郡の橋”は、すこし悲しく、すこし優しい、大人のための映画である。

 今をときめくレオナルド・ディカプリオが一躍人気者になったのは、“タイタニック”だった。その少し前に“ロミオとジュリエット”も演っている。イーサン・ホークの次回作は“ハムレット”だそうだ。

 恋愛というものは、昨今簡単になったようで、携帯電話があるおかげで、すれちがいの悲劇も滅多におこらない。手軽な恋愛映画ばかりでは、誰も感動など出来ない。親の反対とか、身分の違いとか、過酷な運命といった、障害のひとつやふたつもないのでは、恋人達もなかなか燃えにくいだろう。“ロミオとジュリエット”だの、“ハムレット”だのと、いにしえの名作に頼りたくなるのも仕方がない。(“ハムレット”が恋愛映画だとはかぎらないが)

 昨秋、あちこちで宣伝していたのは、“オータム・イン・ニューヨーク”という作品である。「今世紀最後の恋愛ドラマ」というのが謳い文句だった。リチャード・ギアとウィノナー・ライダーという、人気スターを配しての「大作」であったらしい。内容は見ていないのだが、若い女性が不治の病いに冒される、いわゆる「難病もの」である。ハリウッドもいよいよネタが尽きたか、という感を持った。

 その昔“ある愛の詩”が封切られた時も、実は同じような感想を持ったことを覚えている。古今東西を問わず、ある意味で「永遠のテーマ」なのかもしれない。

 「不倫もの」がうけるのも、世間、常識というカベが、難病と並べられるくらいやっかいな障害になり得るということだろう。

 二十五,六年も前になるだろうか、篠田正浩が「心中天の網島」を撮った。近松門左衛門の「紙屋冶兵衛」が原作である。

 冶兵衛と小春が、道ならぬ恋を遂げるために向かう道の先々に、現れるのが数人の黒子である。黒子は、歌舞伎や、日本舞踊の舞台においてよく見ることがある。黒装束に身を包み、観客からは見えないという、歌舞伎独特の約束事のもとに、舞台上の話を、段取りよく廻してゆく存在を言う。その黒子が、許されぬ恋に落ちた二人を、しだいに追い詰めてゆく。スクリーンの中で、黒子たちは、その存在を不気味に膨らませて行った。責めて、追い詰めて、帰り道さえも塞いでしまいそうなほど、黒子たちは大きく、恋人たちの前に立ちはだかる。そしてついには、心中のお膳立てをもしてしまうのである。

 黒子は“世間”なのだ。と見る者は納得する。“秩序と因習と常識”を冒した者たちへの、“ある種のペナルティー”を、世間は求めるのだろう。

 暮らしそのものには、特に困窮しているわけではなく、世の中もいちおう落ち着いていいる。さし当たって急を迫られてもいない日常にあるのなら、「不倫」をする以上、せめて深く悩んでもらいたいものだ。“失楽園”の二人も死を選ぶらしいが、家族をさんざん悲しませたのであろうから、まあ、そのくらいは苦しまなくては、と他人事だからそう思う。

「“失楽園”ファンのおじさん達は、恋をする相手がいるっていうことが羨ましいのじゃなくて、一緒に死んでくれる相手がいるっていうことに憧れてるんじゃないかなあ。その相手が若くて美人だっていうのがまた……」とまた家人が口をはさむ。

 「お前さんの中のフランチェスカは元気かい」とまぜっかえしてやったら、「んー、めんどくさいから、別にいいや」だと。


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