シネマニア13


〜 CAST AEWY 〜

  

今や“名優”と呼ぶにふさわしい、トム・ハンクスが、その名優ぶりをいかんなく発揮している「キャスト・アウェイ」を見た。

 この物語で、最も重要なのは、“トム・ハンクスが25キロも減量した”ということでもなければ、“絶海の孤島で一人救助を待つ過酷な日々”でもない。

 現代のハリウッド映画、いや、なにもハリウッドに限ったことではない。近頃のヒット作品はあまりにも、CGやSFXといった技術に頼り過ぎていると思う。こういったことを考えれば、「キャスト・アウェイ」のような真正面から観客に挑んでくる映画には、こちらも背筋を伸ばしてきちんと見なくては恥ずかしいという気がする。いっさいのごまかしも、そこには存在しない。海と、島と、一人の男と、いくつかの、そしてたったひとつの“届けなくてはならない荷物”と、気の遠くなるほどの孤独だけがある。あとは、寝ても、起きても、寝ても、起きても、昨日と同じ今日があるだけだ。

 

ハンクス扮するチャックには、一度結婚に失敗しているケリーという恋人がいた。クリスマスの夜、彼はケリーから車の中でプレゼントをもらう。「祖父のものなのよ」と渡されたのは、懐中時計だった。ふたを開けると、ケリーのやさしく微笑む写真があった。チャックからのプレゼントは、タオルだ。「すてきね、毎日使うわ」と彼女は言うのだが、ティーンエイジャーではないのだから、恋人からのプレゼントがタオルで嬉しいわけがない。ケリーという女性のつつましさや、優しさや、そして“一度失敗している過去に、どこかこだわっている気持ち”がこんなふうに描かれる。この人を失いたくないと思う真剣さが、いじらしく伝わってくる。このあと、彼女はリボンのかかった小さな箱をわたされるのだが、「あけるのがこわいわ」と箱を両手に包み込む。「大晦日には帰るから、その時一緒にあけよう」と彼は言う。この時のこの約束が、いつまでも辛い記憶となって残ってしまう。

 宅配便の会社で、分刻みの毎日をおくっていたチャックは、数々の荷物とともに飛行機事故にあい、無人島で気の遠くなるほどの孤独と戦う年月をおくることになる。

 浜辺に流れ着いたいくつかの荷物。それぞれが思いのこもったクリスマスプレゼントである。アイススケートの靴のエッヂはナイフになった。可愛いドレスのレースやオーガンジーは魚を獲るときの網に。得体のしれないビデオテープは、引き出したテープが紐として役にたった。

 荷物のひとつにウィルソン社のバレーボールがあった。火をおこそうとして手に傷を負った彼は、その苛立ちをボールにぶつける。紅い血の手形が付いたボールに、指で目と鼻と口を描き、“ウィルソン”と名づけられたバレーボールが、彼の、島での唯一の友となる。

 いや、“友”はもうひとつあった。懐中時計のふたの内側で微笑む、愛しいケリーである。

この、物言わぬ共演者の存在が、チャックだけでなく、見る側の私たちをも救ってくれる。

 

 たぶん、ここまでは、我々観客の理解の範疇にはいっているポイントであるはずだ。

この作品の非凡さは、たとえば、アイススケートの靴を例にとれば、そのプレゼントを手にするはずだった少女の顔が、そしてバレーボールを待っていた少年が見えてきそうな臨場感を持っていることだ。見る側の私たちに責任の一端を担わせるかのような、巧妙な幻想にいつしかはまりこんでいることに気付いた時は、もう遅いのだ。私たちは、この漂流者の運命に、関わってしまっているのだ。

 思えば不思議なことである。会ったこともない男の、とんでもない事情に付き合う義理などない筈なのに、“ここまで見たのだから、最後まで見届けてくれよ”とでも言われたかのように、妙な使命感をおぼえながら、この長い作品の世界に入って行くことになる。

 

 現代人は孤独に弱い。とくに若い世代は携帯電話がなければ、一日だってがまんができないだろう。別にこれといった用があるわけではなく、大人からみればどうでもいいようなことを、歩きながら、食べながら、車の運転をしながらも携帯電話を耳から離すことがない。家人は言う。「私は携帯電話なんかいらない。ただでくれるっていっても、いらない。」

その理由は「時々、行方不明になる権利をもちたい。」ということである。 

 行方不明と言ってもたかだか二,三時間のことらしいが。彼女はカーナビも要らないと言う。地図を持つのもあまり好きではない。「道にまよう楽しさを手放したくないし、どんどん便利なものに頼ってしまうと、人間として退化しちゃいそうで。それに、できるだけ身軽でいたいでしょう。」なるほど、ただ単にメカに弱いからだけではないらしい。

 ついでに言うなら、家人は孤独にもわりあい強いと思えるところがある。一人で上手に時間を過ごすすべを知っているのだろう。しかし、そうであってもやはり、無人島で孤独に耐えることなど絶対に出来はしない。

 だが、チャックは耐えた。あらゆる知恵と知識を出し尽くして、死への恐怖と戦い、恐ろしい荒波へと、手作りのいかだを漕ぎ出したのだ。漕ぎ出す勇気をくれたのは、愛しいケリーへの思いだ。漕ぎつづける力をくれたのは、“親友”ウィルソンだった。

 自分の掌から血が流れても、手当てもできない。腹立ちまぎれに白いボールをつかんで岩に投げつけた。そのボールについた血の跡が、なぜか人間の顔に見えたのは、「誰のでもいいから、視線が欲しい」心がそうさせたのか。ロビンソン・クルーソーにはフライデーがいたし、ターザンにはチーターがいた。チャックには、誰もいないのだ。

 場面は4年後に変わる。チャックはひげも髪ものびほうだいで、身体はやせ、目はするどく、そして島で生きる知恵をいくつも身に付けていた。変わらないのは青い美しい海と、絶望をはこぶ波だけだ。ウィルソンも年をとった。うすよごれて、椰子の葉を頭につけられて、いっそう人間らしく見える。チャックがなにを話しかけても、ただ静かに微笑んでいる。慰められているはずなのに、時おりむしょうにその微笑みに彼はいらだつ。

 発作的にウィルソンを放り投げ、我にかえって探しに行くシーンは感動的である。

 波打ち際で浮かんでいた“かけがえのない友”を抱きしめる姿は、チャックがまだ人間性を強く持っているあかしである。

 このあと、彼は救助され、文明社会に復帰する。さて、“シネマニア”としてはこんなふうに作品の内容を長く書くことは、今までなかったことである。ストーリーをだらだら綴るのは、ルール違反のように思えて、自らに禁じていたようなところもある。だが、「キャストアウェイ」という映画には、ミステリアスな部分はなく、すでに多くのメディアで紹介済みでもある。ある程度内容にふれなくては、書きにくい作品である。

 めでたく帰還をはたしたチャックではあるが、彼が“キャストアウェイ”であることに変わりはなかった。“CAST AWEY”には、“漂流者、世間から見捨てられた人”という意味がある。

 ケリーとの愛はなくなってはいなかった。終わっていないのに、「大人の分別」をもって終わらせなければならない。誰もいない島での孤独よりも、愛する人がすぐそばにいるのに手の届かない孤独のほうが、胸に痛い。

 それでも、“生きていく”ことを選んだのだから、生きていかなければならないチャックの明日を思いながら、私も、文明に頼りすぎないように、強さと愛を失わないように、生きていかなければ。



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