シネマニア10


〜寒い夜のための愛の映画〜


  もう30年程も前のことになるだろうか。「誰の為に愛するか」という本がベストセラーになったことがあった。曾野綾子氏の著作であったと思う。副題に“その人の為に死ねるか”とあったのを覚えている。“その人の為に死ねるか”という、刃のような言葉を喉元につきつけられたショックが、今でも心のどこかに残っている。


  その問いに二十才そこそこの自分がどう答えたのかは思い出せない。想像するに、「もちろん死ねるとも」などと、若さゆえの一途さでそう言い切ったのかもしれない。


 では今は、と己に問うてみると、悲しいかな「もちろん死ねるとも」とは言えないような気がする。同じ質問を家人にしてみた。「そうねえ、子供のためだったら、死ねるわね。心臓だってあげちゃうわね」夫のためだったらダメなんだろうと思う。「こちらだって同じだ」と言い返してやりたいところだが、果たしてどうなんだろう。


 子供のためであっても死ねないのかもしれないし、カミさんのために命をさしだすようなことだって、ひょっとしたらあるのかもしれないじゃないか。
 “誰の為に愛するか”“その人の為に死ねるか”などと、熱く問うたり、答えを迫ったりというせっぱつまった愛のかたちを、ひったくるように受け止めるのは、やはり若者である証しなのだ。50才ともなると、暮らしのあちこちに“愛”をちりばめなくとも良くなるのだと思う。


  素性のしれない猫がすっかりなついて足元で寝入っている。お互いに機嫌をとったり、じらしたりといった駆け引きも何もなく、空気のように私の周りにいる。ここまで書いて答えがみつかった。“その人の為に死ねるか”じゃなくて“その人の為に生きられるか”だろう。


  愛をテーマにした映画は、古今東西数限りなくある。100人いれば100の愛に会えるだろう。私を100分の1とする。


  私の“愛の映画”は「オールウェイズ」という。
10年程前のスピルバーグ作品である。森林火災を小型飛行機で消火するという、危険な職務に就く男は、ある夜その職に命をおとす。
  男には恋人がいた。死んでもなお、彼は恋人のそばを離れることができない。いつもそばにいて彼女を見守っているのだが、彼女にはその姿が見えない。と、ここまで読めば、「ゴースト・ニューヨークの幻」を思い出す方がいるかもしれない。ほぼ同じ時期に封切られたので、「オールウェイズ」の印象がやや薄いのが残念な気がする。


 「ゴースト」で流れていた音楽は“アンチェインド・メロディ”だった。「オールウェイズ」の方は“煙が目にしみる”である。どちらも心にしみいる名曲である。音楽については引き分けだ。だが、愛の描き方に大きな違いがある。


  テーマもシチュエーションも殆どといっていいくらい同じである。「ゴースト」の方はいかにも現代的であるように思う。愛が一方的に先走っていたような気がする。


  人間を善と悪にきっちり分けすぎていた。これくらいにやらないと今の若い人には伝わりにくいのだろうか。


 「オールウェイズ」の方はというと、たとえば主人公の男が、自分が死んでしまったことが理解できずにいるというシーンで、その驚きと悲しみを実に優しく描きだしている。


  誰もいない草原で彼は一人の女性と出会う。ハップと名乗ったその女性は不思議な笑みをたたえ、男の運命を静かに悟らせる。二人が並んで草原を歩くシーンがある。風にそよぐ草の中を語り合いながらゆっくりと歩いているのだが、周りの風景を見ると実は猛スピードで滑るように進んでいるのだ。このシーンを見ることで、観客は二人がこの世の人でないということを確認する。


  このハップという天使をオードリー・ヘップバーンが演じている。“スクリーンの妖精”は年を重ねても“妖精”であった。


  死してなお、恋人を守りたいと思うのが愛であるのなら、この先も生きていかなければならないその人の為に、離れていくことは最後の愛であるのだろう。


  愛の“熱さ”を“暖かさ”にゆるやかに移行させて行く、スピルバーグならではの体温のある作品であると思う。   


  もうひとつ、“愛の映画”についてふれたい。
「愛情物語」といえば、ずいぶん古い映画である。主演はタイロン・パワーとキム・ノヴァク。
“シネ・マニア”にたびたび登場する家人の「愛の映画といったら、これでしょう」という主張もあるのではあるが、私にとっても、「愛情物語」は忘れがたい作品のひとつである。


  家人は少女の頃、この映画を見て、カーメン・キャバレロが奏でた“愛情物語のテーマ”に「感電しちゃった」のだそうで、その電源はショパンの“ノクターン9の2”である。


  触ったことのある楽器はハーモニカと木琴、という家人が、子育ても一段落したある日、「電子ピアノを買って欲しい」と言い出した。小振りなキーボードを手にいれた彼女は、“ハ長調で弾くピアノ”という楽譜を前に、猛練習をはじめた。情けなくなるほどの雑音時代を経て、ある日私の耳にたどたどしい「愛情物語」のテーマが聞こえた。勿論、ハ長調に翻訳された楽譜で弾いているのであるから、誠に幼いショパンではあった。だが、そうであってもやはり「愛情物語」の数々の美しいシーンが私の胸に蘇ってきた。


 すみずみまで覚えている映画というわけではないのだが、なぜこの作品が私の“愛の映画“なのかを書いてみたい。


 音楽家として成功をおさめていた主人公は、妻を亡くしていた。数年経って、地味だが芯の強い優しい女性に結婚を申しこむ。10才になるかならぬかの一人息子のために。

「亡くなったマージョリーは私にとって大きな花だった。あんな大きな美しい花はもう二度と咲かない。」

 マージョリーというのは死んだ妻の名である。

 こんなプロポーズがあるだろうか。若い女性なら、「馬鹿にしないでよっ」と怒り出すのが当たり前と思うが、彼女は静かに受け止め、優しくうなずいたのだ。

 男の命がもう永くないと、彼女もまた知っていたのだ。“永く生きられない、自分がいなくなったら息子はこの世で独りぼっちになってしまう。ムシのいい話だが息子をささえてやって欲しい。彼が一人で生きて行けるようになったら、貴女は自分の人生を選んでくれ。”

  おそらく男は心の中でそう言っていたのだろう。夫婦になったとしても、二人で生きられる日々はもう残されてはいない。「貴女が好きだ。結婚してくれ」と言いたくとも、言えないプロポーズしかなかったのだ。

  男には父親として最もつらい仕事が待っていた。夕暮れの公園で「遠くへ行かなくてはならなくなった」と彼は告げる。「演奏旅行?今度はどこ?いつ帰るの?」矢継ぎ早に問いかける息子に、“帰れない”ことを苦しそうに言い訳するシーンに胸がつまる。

 「いつも僕だけ置いてきぼりなんだねっ」乱暴にゆすったブランコがいっせいに踊り出す。揺れて、からまるブランコは、まさに少年の心の悲しい乱れを象徴している。

 揺れの間隙を縫うように、父親が一直線に息子に歩み寄った。

  いくつもの言葉を並べようとも、伝わる“愛”には限りがある。この作品のこのシーン以上に、静かで、深く美しい悲しみを私は知らない。


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