シネマニア1


プライベート・ライアン


ある日の妻の言い分である。

  「あのね、あなたは泣きすぎると思う」

じわっと泣く。ほろほろと泣く。うわーっと泣く。泣くと言うことは映画をそのまま受け入れるという一方的な関係しかつくれない。「ここで泣いてたまるか」とこらえる。終わりのクレジットが感動の余韻を残しながら消えてゆくのを待って、劇場を逃げるようにとびだす。誰とも口をきく事もなく夜の電車にのる。暗い窓ガラスに映った自分の赤く腫れた目と目があう。

  さっきの映画のことを考える。「なぜなの?」あるいは「あのひとはまちがってる」あるいは「えらい、勇気があるんだね」……と、降りる駅まで何度もくりかえす、たとえばこれが映画との対話。対等の関係を作れるひととき。

  映画館でしか映画をみられなかった時代と、いつでもビデオでみることが出来る今とでは、映画そのもののみかたが変わってきていると思う。



この言い分に全くその通りだとうなずくのは本意ではないのだが、まあ理解はできる。

  時代はたしかに変わった。誰もが携帯電話をもち、情報はつねにあふれ、コンビニに行けばたいていの物は手にはいる。恋まで売っているのではないかと思うほどだ。けれどやはりそうではないのだろう。そこまでお手軽に得られるものではないはずだ。目に見える心などほんの一面だ。もう少し奥、そして裏側、丹念に隠された真実、そういった心をどうやって言葉にすればいいのか。どうかすれば、安っぽくなくては、何だか重たいとさえ言われかねない。

 そんなもどかしさを伝えたい、または解りたい。たとえば映画を愛するということは、こういう気持ちとどこかつながっているような気がする。

  五十才を目前にしての、ところどころさびついた脳ミソから穴ボコだらけの記憶をひっぱりだして、何とか綴ってみたくなった。その時々の印象をもとに、なるべくやってみようと思うので、記憶ちがい勘違いは多々ありそうで、じつは、もうすでにお叱りが恐い。

  間違いさがし、反論、ご指導、お待ちしております。

  一昨年の夏一人息子を半年ほど外国へ出した。
急に自分の時間がふえたような気がした。見たい映画もたくさんあることに気がついた。


「プライベート・ライアン」


スピルバーグ作品は、評判がどうであれ、とにかく見ることに決めている。評論家の言うことなど鵜呑みにしない方が良い。スピルバーグ監督に裏切られたことは、私に限ってはない。
 
ライアン二等兵というのは一個人の名前だが、同時に全ての兵士でもあるのだと感じた。味方とか、敵兵、あるいは兵士という漠然とした呼び方ではなく、一人一人には名前があり、幼名もあり、ヒストリーがあるのだと実感させられる。

  エピソードの積み重ね、スピルバーグの映画において、時にくどいほどそれは繰り返される。だが実はくどくなどないのだ。一人一人のエピソードが心の中に焼き付いているからこそ戦闘で傷つき倒れ、絶えて行く一人一人の生が見る者の胸を強くうつのだろう。

  ライアンが語る少年の頃の思い出話、滑稽で、平和で吹き出すようなそのエピソードこそが、何よりもやるせなく、悲しく、熱く反戦をかたっていたのではないか。

声高に「戦争反対!」とシュプレヒコールをあげるのでなく、生きることは毎日暮らすことだと、静かに強く描くことはこんなふうに可能だ。

 激しい戦闘シーン、耳が痛くなるほどの爆音、おびただしい屍の山という“現実”をこうも見せておいて なお詩情を失わない映像の力というものを「プライベート・ライアン」は確かに持っていたとおもう。

  ラストシーンでは嗚咽していたではないか。何が「あなたは泣きすぎる」だ。ゆるい涙腺をからかわれてもいい。「素直な心で映画と対峙せよ」これが夫の言い分となった。

  トム・ハンクス扮する分隊長の最期の言葉は「しっかり生きろ」だった。このなんでもない当たり前の言葉がなぜこうも胸を熱くするのか。たぶん戦場にあっては、「生きる」ことの意味がとんでもなく重いのだろう。「しっかり生きろ」を心深く受け取ってしまった身としては、自分もまた一人のライアンであることに気付かなくてはならない。

  とは言え、おのが毎日を「しっかり生きて」いるのかと問はれれば、いやあ、それはその……とまことにいい加減なライアンである。

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