「なぎなた」という呼び方は『本朝世紀』久安2年(1146年)の条に、源経光所持の兵杖を説明して「俗に奈木奈多と号す」とあり、このころから世に現れたと推察されます。

一般に「なぎなた」の出現は、「奥州後三年記」(1803〜1087年)の戦記の中に記されていたり、「絵巻」では絵詩の中で描かれています。これが最初と考えられていました、すでにこれより148年前の天慶の乱(935年〜941年)には「長刀」が使用されていたようです。

「なぎなた」の発生をその機能から考えると、太刀よりも離れた相手に向かうときに有利であるという点からみて、手鉾の柄を長くして工夫されてきたようです。

「なぎなた」は、はじめ「長刀」の文字を使用していましたが、南北朝時代5尺、7尺という長い刀を用いるようになったので、これと区分けするために、人馬を薙ぎ払う意味から「薙刀」の文字を用いるようになったといわれています。

「薙刀」は徒歩、打物、合戦武器として、僧兵などに好まれ、、刀身は茅の葉とか菖蒲形などと形容され、時代とともに長大化し、室町時代には刀身4尺、柄4尺という大長刀が出現しました。戦国時代になると鍔をつけたものが現れましたが、槍の利用が多くなり、さらに鉄砲の伝来などで戦闘様式が集団的になったために、一騎打ちの接戦に有利とされた薙刀は、次第に僧兵や意志、婦女子などの専用する武器に移行してきました。

その後江戸時代に入ってしだいに刀身が短くなり、主として婦女子の護身用として用いられ、武家の女子は、必ず心得として練習し、柄は青貝だたきや蛭巻などの美しい塗柄が多くなりました。

明治以降は男子の剣道とともに、女子の武道として、その目的も人間形成に重きがおかれ、学校教育の場において実施されるなど、女子の教育面に貢献してきました。