コラム       

私のひとりごと 山・映画・本・お酒・そのほかをランダムに語ります。  


東小発表会

東小発表会

 東小の6年生と4年生の発表会が開かれました。
6年生の発表会は2月22日東小の体育館で開かれ、保護者や地域の大勢の方が観にきていました。はじめの会から発表まで全部子ども達の運営で、とても盛りだくさんの内容が発表されました。 
 グループごとに分かれてそれぞれが研究したことを発表していました。身近な地域の歴史や自分が興味をもったことなどを、写真を嵌め込んだり、要点をまとめ図で表したりして発表していました。
 
 発表会の感想ですが、皆さん一生懸命に自分が学んだことを堂々と述べていました。一人一人の持ち時間が短い中で発表するということは、大人でも大変なことですが、まとめを校歌の歌詞につなげ、思いを語ってくれました。塩尻東小の校歌は難しい言葉で綴られていますが、それにつなげるところなど感心してしまいました。  欲をいえば、もうすこし大きな声で発表してもらえたらと思いました。私のような老人にはありがたいのです。それと、それぞれのグループのなかに共通するテーマの発表があり、同じテーマ発表を聞こうとするともう終わってしまって、聞き逃してしまったりしたので、テーマごとの発表にしていただけるとありがたいのです。歴史のテーマ、民俗関係のテーマ、同地域のテーマなどに分野でまとめていただくと、子ども達のまとめ方の違い、発表の方法の違いなどがわかって良かったのではと思いました。

 孫くらいの子どもたちですが、インターネットを駆使したり、地域の人に聞いたり、それぞれが研究してまとめたのはえらいと思います。昔の小学生とは違いますね。中学生になっても続けて欲しいと思いました。
 最後におわりの会があり、三部合唱の校歌の発表がありました。この小学校の校歌を久しぶりに聞きました。とてもよい合唱でした。
 
4年生の発表会は塩尻東地区センターホールで3月2日にありました。
 4年1部が「玄蕃の丞狐」の劇と4年3部の「太鼓」の発表会です。はじめに劇の発表がありました。
挨拶から照明、効果、小道具まで全部子ども達が担当してこちらも良くできた発表会でした。ホールは地域の人たちで一杯でした。準備に大変だったと思います。
 劇は現代の子ども達が、タイムマシーンで昔の桔梗ヶ原にタイムスリップして、玄蕃之丞や新左エ門、お夏狐と交流するものがたりでした。劇のなかで開発の歴史をおり込みながらまとめていました。
 4年3部の「太鼓」の発表会は、阿礼神社の五百渡の言い伝えにまつわる太鼓の発表で、そのいわれから曲を演奏してくれました。各パートをきちんと務め、まとまっていました。
 子ども達は、『地域が元気になるようにこの曲を聞いてください』といっていました。とても大切な言葉をいただきました。年寄りも元気になります。学校と地域が一体となってこれからも進んでいけたらと感じました。

 (11/03/05)
  


大門の中学校に通ったころ


 私が、小学校に入学したのは昭和22年です。
戦争が終わり、新学制になって最初の小学校で、最初の小学生でした。塩尻国民学校が「塩尻町立塩尻小学校」という名になり、このとき入学した仲間は408名でした。
 このころ、塩尻中学校は小学校に併設されていました。第一校舎と呼ばれていたところと、一段高いところにあった青年学校の校舎が使われ、校庭も体育館も一緒に使うという状況でした。このころ、小学校は一つで大門から生徒が通っていました。全校で2000名を越えるという郡下一の大きな小学校でした。
 昭和23年、二年生になっての夏、中学校が移ることになり、大門の日本光学の工場を改築したところに引っ越していきました。
 私たちが大門から来る生徒と一緒に学んだのは二年生までで最後になりました。先生から第三校舎が古くて危ないので取り壊し、大門に持っていくことなどを教えられていました。 古い歴史のある小学校、昭和28年の3月まで小学校生活を送ったのです。

 昭和28年に塩尻中学校に入学しました。
小学校二年まで一緒だった仲間に会えるのは嬉しいのですが、中学校は大門なので往復7キロ強を歩かなければなりません。東山地区は一番遠く、片道12キロ以上歩かなければならず、東山や柿沢の生徒は大変でした。
 このころ町は、新しい場所での中学校の建築を決め、予定地を堀の内として地鎮祭(昭和27年1月)をすでに行っていました。このころ国道のバイパスが、元の塩尻町役場のあったところから大小屋までまっすぐ空けられていました。見通しはいいのですが砂利を敷き詰めた道を車が通るとすごい埃でした。
 私たちはすでに始まっていた中学校の建設工事を横目で見ながら大門の中学校まで通ったのです。

 大門の中学校というのは現在の塩尻郵便局から塩尻病院の東、大門公民館、労金、JA塩尻農協の駐車場などがあるあたりになります。
今では、このあたりのようすが一変していますが、とても古い校舎でした。入学して早々の思い出は、飯田長姫高校が春の選抜で優勝した放送を宿直室の外で日向ぼっこをしながら聞いた覚えがあります。
 校庭は草野球には十分な広さでしたが、場所取りが大変で朝早く家を出たものです。上級生から先生のあだ名を教えてもらい、ちょっぴり大人になったような気分でした。それと農芸委員会という委員会があったこと、校歌がなく、校友歌と応援歌を歌ったことが思い出されます。教室は窓が小さいため暗く、昼間でも電燈を点けなければならないという状況でした。倒壊しないようつっかい棒のある校舎で、雨漏りなど普通で、体育館(講堂)も元は工場の食堂だったといわれ、全員が入れず、狭かったのです。教室も壁で急遽仕切られたため薄く、廊下、階段は静かに歩けと生徒会の公民委員会や先生から指導されました。図画・工作などの特別教室も離れていました。

 無理もありません。この校舎は共栄社という製糸工場の建物で糸を操る工場で、昭和18年解散になっていましたが、そのあとを日本光学が疎開して18年から25年までの間、顕微鏡や双眼鏡などを作っていました。このあと日本光学は昭和25年、労働争議のあと閉鎖されることになります。
 この日本光学の疎開工場であった塩尻工場を、引き継いで設立されたのが八陽光学でした。学校の隣にあり、私たちが通っていた頃、大勢の人が働き、カメラやレンズ、映写機などを作っていました。当時の大門の大きな工場といえば石灰窒素を作っていた昭和電工とこの八陽光学が塩尻の工業を代表するものでした。

 学校に通う道は、新しく開いたバイパス道路が主でしたが、より道(道草)するときは昔からの道(中山道)をつかいました。 丁度、車が多くなってきた頃で、車はバイパスを通り、掘の内の集落を抜ける道は、小学生や中学生と地域の人だけでのんびり歩けた道でした。
 小学校から堀内医院のまわりの大きな家を見ながら、鍛冶屋さんの店先を覘き、教科書を売っていた油屋さんの前を通り、精米所からちょっとまわって細い道の入り口にある鍛冶屋さんをまた覘きます。ここから大小屋の狭い道を歩き、大きな倉庫を左にみて、田川橋に出ました。小学校の音楽の先生だった有賀先生の家から、ヤマキチ(紀文)の酒屋さん、鍛冶屋さんの前から商店街に入ります。
(左は塩尻中学校舎)

 鍛冶屋さんの多かったのが印象に残ります。当時鍛冶屋さんは忙しかったでしょうね。鎌、鍬、蹄鉄などの農具の製造や整備、流行ってきたスケートの刃づくりなどで鞴(ふいご)の火がいつも炊かれていました。栄町にも国鉄のガードの傍にもありました。石炭やコークスの焼けるにおいとリズムカルな鉄を鍛える音が心を引きつけたものです。

 中沢先生の家の前から、ラジオ屋さんを過ぎると東座の映画館の前に出ます。ここも看板を見ながら歩きました。映画は学校では禁止されていましたが、時代劇や外国映画の看板がとても魅力的でした。
 中学に抜ける道は、三河屋さんから渋川沿いに北へ入る道と、倉沢石灰屋さんから横山医院、天理教から農協、羽田木材の前へ抜ける道、清水製材の前の大津屋さんから北、銀座のかどやさんから八陽光学に出る道がありました。どの道も距離はたいした違いはありませんが、それぞれ違った路地道で、そのときの気分で曲がったものです。
 中学校からの帰りは、家の手伝いがない時は、丸文の本屋さんや河西の貸し本屋さんに寄ったり、田川でのうなぎ取りや、生き物探し、鍛冶屋さんの店先の道草が多かったです。また、田川べりを上がって中学の建設地を見ながら外田橋まで上がり、下条道を帰ることもありました。

 新築された中学校に引っ越したのは昭和29年の6月でした。二年生のときです。
 3日間、机やこしかけなど学校で使う物を運んだ覚えがあります。一年生は入学したばかりで大変だったと思います。生徒会の役員がところどころにいて安全確保をしていました。離別式が行われ思い出のある校舎と別れました。この校舎の運動場や敷地は新築される中学の建設費用に当てられるということで、売却されるという話しで、町が中学建設にかける意気込みと大変さがよくわかりました。これ以後、大門の同級生はまた堀の内まで通うことになります。遠くは郷原の桔梗ヶ原から通ってきた同級生もいました。

 新しい塩尻中学校は見晴らしの良い場所で、東と西、南は田んぼでした。田んぼの中の中学校という格好です。さえぎるものがないので気持ちは晴々しました。
 出来たばかりの校庭は雨が降ると水が引けず、野排球や陸上などの授業ができませんでした。小石も多くみんなで拾ったものです。体育館も引っ越し当時はまだ出来ていず、音楽室もまだ出来ていませんでした。廊下や教室は縄を結んだたわしや、小糠を入れた袋で磨きました。校歌もまだなく、南部支会や郡の野排球の大会にはまだ校友歌や応援歌を歌っていました。三年生になって校歌がやっと出来、音楽の授業はもっぱら校歌で、歌いにくい校歌だと思ったものです。
 まだ整ったとは名ばかりの学校でしたが、みな大切に使おうと思ったものです。この29年の秋10月、新校舎の竣工式が行われました。このときだったと思いますが、出来たばかりの体育館で島倉千代子ショーがあり、入りきれない人は外で聞いていました。
 こうして私たちは昭和30年度の塩尻中学卒業生となるわけですが、大門にあった中学校に通ったのは1年3ヶ月でした。

 中学が大門にあった頃は、塩尻町も大変な時で、大門で火事が何回もあったり、工場がつぶれたり、町役場の移転があったり、塩尻の東と西がいろいろなことで揉め、議員や議長が辞めたり、町長のリコール問題などがありました。学校への行き帰りに良く友達と話したものです。大人の世界のようすは子どもにはわからないことでしたが、いろいろなことが、今の塩尻市に繋がっていったのです。
 共栄社の糸繰り工場から、光学測定機器製造と変わっていき、その一部の建物は町役場や塩尻中学の校舎として使われたのですが、隣接していた建物の中から、いまの塩尻市の産業を支えている機械・金属工業が、日本光学や八陽光学といった会社から生まれ出たのです。顕微鏡やカメラ、双眼鏡などから培われた技術が伝えられ、その後昭和30年代になって創業された多くの会社の源となり活かされていくのです。
 道草しながら見た鍛冶屋さんは無くなりましたが、これも車社会への流れや耕運機などの普及があったと思います。手仕事の風景がなくなっていくのは寂しいものですが、昭和30年以降の機械・金属工業の発展は、あの古びた中学校の校舎の周りから生まれてきたといえます。 



資料                                                                   (共栄社の商標
共栄社とは(中信社塩尻工場・旧、共栄社本社)
大正から昭和初期にかけて製糸業隆盛、大正六年筑摩地村古町神戸八郎が組合を作り設立。塩尻工場昭和3年6月設立、当初は製糸工場で120釜が運転。
昭和10年から別業工場としてガラ紡機520台多條式繰糸機20台の工場となる。昭和16年共栄社本社事務所を村井工場から塩尻工場に移した。昭和18年8月解散した。  
                           

昭和23年8月日本光学工業(旧共栄社跡)に塩尻中学校移転。
昭和25年塩尻町役場移転   (塩尻市誌)
日本光学とは(日本光学工業梶i昭和25 年まで操業)光学測定器製造)
 昭和18年5月、塩尻町の製糸工場中信社塩尻工場(旧:共栄社本社)の敷地及び建物を買収し、昭和18年11月に操業を開始。従業員も、昭和20年4月には、学徒動員による増員も含めて男子362名、女子690名、合計1,052名。昭和25年8月閉鎖。閉鎖当時、職員48名、工員5名、合計143名で、そのうち職員33名、工員73名、合計106名が解雇、残り37名は本社、東京大井工場へ吸収された。(塩尻市誌)
八陽光学とは(八陽光学工業渇鱒K工場)八州工業株式会社と陽和商事株式会社が業務提携。
日本光学工業渇鱒K工場の跡地、昭和24年5月に創業
二眼レフカメラ(アルペンフレックス)・顕微鏡・双眼鏡製造
昭和26年従業員数80名
昭和30年に潟Zコニックに買収
(昭和37年にセコニック精機鰍ニ改称)。(塩尻市誌)

(右は八陽光学の工場)
                                  


(11/02/14)


弟のうさぎ


 私がまだ小学3年生の時のことである。
その頃の農家ではいろいろな生き物が飼われていた。私の家も鶏から、うさぎ、やぎ、ぶた、牛がいてそれぞれ小屋があり、その世話をする者が決まっていた。父は大きな牛の世話をし、私たちは鶏やうさぎ、やぎやぶたなどの世話をするのである。

 私は長男であったから、やぎやぶたの世話をすることになり、弟は鶏やうさぎの世話をすることになった。
学校から帰るとまず、これらの様子を見て水や飼料の補給をするのであるが、私は怠けがちでよく父にしかられた。生き物の世話などより友達と遊ぶ方がより楽しかったのである。めんこやビイ玉、釘刺しやチャンバラごっこに夢中であった。近所のガキ大将的な存在であった私は、父や母が畑に出ているのを幸いに、留守を守る祖母に見つからないようカバンを隠して暗くなるまで遊ぶような子どもであった。

 弟は、兄の私とは違い親にいわれたことをきちんと守って世話をしていた。
特にうさぎが好きで、小さなうさぎ小屋の前でうさぎを自分で確かめるように何時間もうさぎと遊んでいた。弟のうさぎ小屋の敷き藁はいつも換えられ掃除されてきれいであった。うさぎや鶏といえども日頃の管理が大切なのはいうまでもないが、食べる草を用意することは、楽なようで遊びたい子どもにとって毎日ともなると大変な仕事である。
 遊びがちな私は豚小屋の掃除が嫌いだった。臭いがきついし労力はうさぎ小屋の比ではない。先に生まれたことを何度呪ったことだろう。やぎもおとなしい動物と思われているが結構気が荒く、気に入らないと頭で何度もこずかれた覚えがある。

 暮れの28日頃になると農協の倉庫の前にうさぎを「じょおる」おじさんがきて店を開き、うさぎを持って行くとあっという間にじょおうってくれたのだが、子どもには普段見ることができない光景であった。
 ビクにうさぎを入れて大勢の子どもや大人が並んでいたが、「じょおる」おじさんの手際の良さは神業ともいえるものだった。身は新聞紙に包まれて渡され、皮はおじさんが持ち帰るのか、何がしかのお金をうさぎを持ってきた人に渡していた。何でも皮が自転車のサドルカバーやハンドルカバーになるということだった。

 弟が学校から帰るとうさぎはいなかった。
「おれのうさぎ、しらねぇ」と弟に聞かれたことを今も思い出す。私はうすうす感ずいていたが、「かぁちゃんに聞いてみ」としかいえなかった。
弟のうさぎも「じょおる」おじさんの手にかかって果てたのだ。

 昭和の25年頃は、歳の暮れになると鶏やうさぎを、「じょおうって」年とりの「おごっつお」にするのが、この辺の農家の慣わしであった。
 今は牛の肉や豚の肉はお金だけ出せば普段に得られるが、当時は飼っていたものから得ていた。お年取りや正月のごちそうになって家族の口に入るのだ。牛やぶたは「じょおる」わけにはいかないが、卵を産まないひねた鶏や、うさぎは貴重な蛋白源であった。

 鶏の骨も蚕室の土間の「藁たたき」の石の上で母の祖父が叩いて「つくね」にした。私もお手伝いで何度か叩いた。鶏にも暮れは受難の月である。鶏を「じょおる」ことは、母の祖父も父もしたが、子ども心で鶏はまだ許せるような気がしたが、うさぎは可愛そうだという気持ちが強かった。何がそう感じさせたか今もってわからないでいる。

 母が弟に、ことの顛末をどう語ったか知る由もないが、ひとしきり元気を失くし、からっぽになったうさぎ小屋を見ていた弟を暮れが近くなると思い出す。

(10/10/27)
 


新緑の上高地 上高地こぼればなし

 新緑の上高地を歩いた。
 塩尻東公民館が主催した上高地自然教室の一員として上高地に足を運んだ。思い出せないくらいに通った上高地であるが、来る度に新鮮な気持ちを覚えるのはなぜだろう。古希を迎えるいま、自分のなかに新たな感情が生まれているとしか思えない。
 今日のコースは、大正池から田代湿原を経て、田代橋、ウェストンの碑から河童橋までを歩くのだが、若いときに味わう高揚した気持ちとは違う静かな気持でバスを降りた。歳を重ねると感情も変わるのか不思議である。

 大正池の景観は変わった。
 昭和の30年代は、枯れ木がまだたくさん残っていて、独特の景観を残していた。大正池あっての穂高連峰という姿で釜トンネルを抜けて見える風景は上高地そのものであった。自然がつくり出した景観であるが、また滅びの美でもある。たくさんあった枯れ木も今では数えるほどしかなく、人の手を越えたところで自然は自らこわれていく。池は、焼岳や中千丈沢から流れ込む土砂で昭和初期に比べて、面積も貯水量も減ったという。池の出口の堰堤も土からチューブ状の空気で調整するものに変わった。

 焼岳の新緑がまぶしい。
 梓川右岸の芽吹きの早いヤナギ類の濃い緑と、広葉樹林の柔らかい萌えたばかりの緑、その上のカラマツの緑、中尾峠から割谷山の針葉樹の黒味がちの緑のモザイクが心地よい。上高地の植生の妙だが、ただ、中堀沢の亀裂が頂上に突き上げているのが、活火山であることを知らせている。
 私がまだ若いころの昭和37年に中尾峠にあった焼ノ小屋が爆風で飛ばされ、小屋の人が怪我をするということがあった。中尾峠は信州の松本平と飛騨の蒲田を結ぶ道として交易上重要なところであった。現在でも細々と使われていて中尾峠も新と旧があるようになった。峠からは大きな笠ガ岳を望むことができる。
 中千丈沢の押出しに出ると看板が埋まってしまったことの説明板が現れる。以前の説明板はすでに抜き取られて影も形もないが、ここに立つと自然が持つ荒々しさを感じることができる。大正池は焼岳の土砂と千丈沢の押出しによって堆積が今も進行している。堆積の厚さは中央で50bに及ぶというが、ここでは霞沢岳を構成する穂高安山岩の砂礫が白く目立つ。

 大正池から田代橋まで自然研究路が田代湿原を横切り結ばれている。自然研究路というが遊歩道だ。
 田代湿原の田代は水田の意であり、水田のような湿原という意味である。湿原の北西には田代池があり、池と微高地(島状の高いところ)が近年写真撮影のポイントとして有名になっている。今回もマガモの雄がポーズをつくり私たちを待っていた。池は梓川右岸の押出しと中千丈沢押出しに囲まれた凹地にできたものだが、約1500年から1000年の歴史があるといわれているが、ここも埋もれていく運命が待っている。
 田代湿原は研究路である遊歩道で三つに隔てられていて、ミズゴケ湿原とサギスゲ湿原、ヤマアゼスゲ湿原をみることができるが、この湿原の今後はどうなるのだろうか。このまま人手を加え続け、維持していけるものだろうか。すでにサギスゲ湿原の梓川右岸に近い凸地は森林であり、ミズゴケ湿原にはカラマツ、シラビソ、ヤナギ類などが侵入している。北の霞沢岳八右衛門(はちうえもん)沢からの陸化が心配されている。

 コチャバネセセリ?の発見
 シナノザサが茂る遊歩道沿いでコチャバネセセリと思われる幼虫をみた。淡い緑でシナノザサの食痕と巣から判断したが、オオチャバネセセリだったらどうしょう。上高地での出現期はともに七月だし、似ているからセセリチョウ科の幼虫といって皆さんに紹介した。同定が確かでないだけに自分が恥ずかしい。

 中ノ瀬の思い出
 田代湿原を梓川コースを辿り、田代橋に向かうと穂高橋に出る。ここは上高地の帝国ホテルからも遊歩道が伸びていて、中ノ瀬園地にでることができる。中ノ瀬園地は、昭和20年代から30年代にかけて中ノ瀬キャンプ場が置かれていたところであり、大勢のキャンパーで賑わった。
 私の母方の親戚で奥原さんという明治生まれの安曇村島々の叔父さんがいた。家は子供にまかせ、夏はずっと中ノ瀬キャンプ場の管理人をしていていた。私はそのお手伝いをしたことがあった。キャンプ料を徴収する仕事を手伝った。山が好きだった私を母が頼み込んで置いてもらったというのが真相だが、そこの番小屋で寝泊りし毎日が楽しかった。キャンプ場は西穂や焼岳を登山する人や、小梨平のキャンプ場が一杯で泊まれない人も訪れてにぎやかだった。手伝いの合間に西穂や岳川谷から前穂に登った。まだ小僧であった私は、この番小屋に用事を伝えに来る山のおじさんたちの話を畏敬な思いで聞いた。特に西穂山荘を経営していた村上さんは道すがら良く寄った。私にとって村上さんは有名人だった。小柄だったが笑顔が良く、田舎によくいる好々爺した人であった。西糸屋の奥原さんのところにも番頭をしていたやはり島々の親戚がいて良くしてもらった。本気で山登りしながら生活できればいいと考えたあのころのことが思い出される。梓川に架かった橋は立派になったが、中ノ瀬キャンプ場はなくなりさびしくなってしまった。いま、中ノ瀬はハルニレやシラカバのやわらかい緑に包まれて静かな林となっている。中ノ瀬は中瀬と書くのが正しいのに、いつのまにノが付くようになってしまった。
 思い出を引きずりながら穂高橋を渡って右に折れ、上高地温泉ホテル、上高地清水屋ホテル前を歩く。ここも年々立派になって中ノ瀬の番小屋から風呂を借りにきたころと比べようがない。ニホンザルが4頭姿を現した。人を恐れず歩道沿いにいるがこれは問題だと思う。人との距離が近すぎる。


 ウェストン碑で考えたこと
 日本アルプスを紹介したウェストンのレリーフが埋め込まれている岩盤は、滝谷花崗閃緑岩である。花崗岩より深い地下で高温のマグマがゆっくり冷えるとできるが、形成年代が最も世界で若く、140万年前にできたものだという。隆起運動で上にあった岩石が侵食作用で取り去られ姿を現したもので、滝谷花崗閃緑岩は上高地の西側斜面(滝谷・小鍋谷〜西穂山荘)を形づくる地質である。穂高安山岩や奥又白花崗岩とともに登山者にはなじみのある岩石だ。ウェストンのレリーフだけに目がいってこの岩盤を見ようとしない人が多い。ウェストンの功績は大でここに記すまでもないが、ここに来たらこの岩盤に触って140万年まえの時間に触れて欲しいものだ。
 ウェストン園地のベンチで昼食となる。園地にセイヨウタンポポが咲いている。いつ、どこから、どのようにして来たものだろう。田代湿原の遊歩道沿いでエゾタンポポをみたが、ここの園地にはセイヨウタンポポが進出してきている。園地の広場にはせわしくサカハチチョウの春型が舞っている。

 六百山と霞沢岳
 ウェストン碑のある右岸から霞沢岳が良く見える。山の名の由来は霞沢から付けられたが、左に三本槍を従えて登高欲をそそる立派な山だが以外に登られていない。ここを登るには八右衛門沢をつめる。沢の川原を登るには5月から6月の雪が残る時期がいい。しっかりしたアイゼンワークが必要な沢だ。沢には帝国ホテル下から入るが高度はどんどん稼げる。
 六百山を見るには河童橋を渡らず白樺荘近くの右岸から見たほうがいい。五千尺ホテルの屋根の上に六百山が見える。この山もあまり注目されていないが、松本藩政時代、六百玉と呼ばれた山である。名の由来は榑木の出来高が六百六十六挺あったから、また、検尺前に榑木を流失してしまい、検尺役人の調べに杣元締めが六百棚あった述べたということから付けられたという。登るには五千尺ホテルの公衆トイレ横の中畠沢から登れるが、ルートを読めない人は登らないこと。

 河童橋に到着
 アルペンホテル、西糸屋や五千尺ロッジ、ホテル白樺荘をすぎると河童橋だ。穂高の景観は昔と変わらないが、登山者の姿は少ない。時代とともに観光客が多くなり、むくつけき山男、山女の姿が少なくなった。渡るときピッケルやキスリングザックが触れないよう横向きに歩いた時代はすでに遠い。
 橋の由来は、環境省が環境庁だったころの昔に、「旅人が着物を脱ぎ、頭の上に載せ川を渡った姿が河童に見えたことから付けられた名」として、河童橋の傍に建てた標識に由 来を記していたが、地元の顰蹙をかい、標識は引っ込められたという。地元の人の言い分は、「着物なんぞ脱がなくてもくるぶし程度が濡れるだけで渡れる場所があるのに、わざわざ冷たい水の中に裸で入るのはおかしい」というものであったという。さらに村人は流れが寄って狭くなった場所を竜宮淵・河童淵などと呼び、よどみ渦巻く場所には河童が住み、悪さをするので、子どもたちへの水遊びの戒めとして教えたという。淵・よどみのある場所は川幅が狭く、狭くなった場所に橋を架けることは、費用的にも妥当であることなどから地元民の言い分に部があることは明白で説得力がある。納得できる話だ。初代の河童橋は明治24、25年ころ現在の場所に架けられたという。

 清水川を覘く
 河童橋から梓川左岸を上流に向かって50bほど歩くと清水川が見える。六百山の北麓にあたり梓川の支流で、上高地の上水道の水源として使われているが全長は300bしかない。年間を通して6℃の水温の短い川だ。覗きこむとイワナとおぼしき魚が泳いでいる。上高地のイワナは在来イワナ(ニッコウイワナ型)と放流イワナ(木曽系・ヤマトイワナ)・(石川系・アメマス型)二つに大別できるという。明神橋上流では在来イワナが、明神橋下流域の本流、支流、湖沼では在来、放流、交雑種、ブラウントラウトなどが混棲しているという調査結果がある。在来のイワナの系統が保全されることを願うが無理だろうか。

 ビジターセンター見学
 環境省のビジターセンターに入る。金持ちになったらこんな別荘を建てたいと思う。個人的に好きなデザインでデッキ屋根を支える太い柱が立派だ。ビジターに利用してもらえるようグッズを並べ敷居は低いが、ブックコーナーを覘くと書や資料類が貧弱だ。専門書や史料類の充実を望む。国立公園のビジターセンターの視点は利用面で観光に強く向いているように見える。

 小梨平キャンプ場
 ズミの方言を小梨(コナシ)というが、昔、(明治19年ころ)上高地開墾結社がリンゴ樹に仕立てるためその台木にしたものが増えたというが、自生のものでなく、ここで開墾結社が企てた名残りの跡が小梨平という名の由来という。当時は小梨林(こなしばやし)と呼んだという。高校・大学山岳部や社会人山岳会がベースキャンプ場としてテントが林立した昭和の登山ブーム時の賑わいを思い出させるものは残っていない。キャンプ場の住人から食べ物を恵んで貰い、山に登り、食糧がなくなると帰って来るというキャンプ浪人の山男の伝説があった。その小梨平はいま静かな林に戻りつつあって、カラマツの幼木も大きくなり落ちついた林となっている。
 
 さりげなく舗装された道はビジターセンターの前を伸びて、五千尺ホテルの売店の喧騒を横目にバスターミナルへの道を歩く。車道の傍に昭和27年に指定された文化財保護法による「特別名勝」と「特別天然記念物」の指定を受けていることを示す碑が建てられている。ここから少し歩くと中日新聞上高地支局の建物が見える。
 中日新聞上高地支局の入り口を示す看板の下に、内野常次郎の碑はこちらと書かれた小さな案内板があった。中ノ瀬にいたころおじさんたちから聞いた上高地の名物爺さんの話がよみがえる。「上高地の常さん」は、飛騨(岐阜県の上宝村中尾)の人で、上条嘉門次の手伝いをして川漁、山猟を覚え、嘉門次なきあと、上高地で逸話を残した人である。昭和24年故郷の中尾で亡くなった。遺髪を納めた墓碑は槙有恒の筆になる。案内板を見て足を運ぶ人がだんだん少なくなっていく。

 山に触れる一歩が上高地だが、上高地にも歴史があり、多くの人がここで世に知られる前から生活の糧を得るために働いていた。松本藩の杣人(そまびと)として、用木の伐り出しに地元村の人たちが関わっていた。松本藩の伐り出しの始まりは江戸初期の寛文年代に遡るというが、呼び名も地元では「カミグチ」・「カミウチ」と呼び続けてきたというが、松本藩の文書では「上河内」と記されている。
 上高地周辺に人の名を付けられた地名が多いのも、村の人がいかにここで藩の事業に依存して生活していたかがわかる。杣として働く人が川下げの事故で死んでも、松本藩はもみ(籾)2俵ですませ、重傷者はもみ1俵で、鷹狩用の鷹の仔を藩に献上したものには雄だか一羽にもみ3俵、雌だかには5俵の手当てが出たという。鷹の仔より軽い人の命であり、時代といえ腹立たしい。

 昔のことを知ることはいまの上高地を知ることにつながるものだ。玉手箱を開けるように上高地が突然名勝の地として現れたわけではないのだ。村に家族を残し、番小屋で寝泊りしながら働いた人たちがいた。村から島々谷道(徳本峠)を越え、また尻平山尾根道(峯道)を越え、杣として稼ぎに出た人々のことを忘れてはならない。上高地は家族を守る稼ぎの場所であった。物見遊山の場所ではなかったのである。
 現在の上高地はオーバーユースだといわれて久しい。私たちが望むもの、厳しい自然のありさまと、安らぎを感じる自然の両方が上高地にはある。それが人びとをここに来させる理由だろうが、立ち止まって考える時間が必要なときである。

(10/06/16)


ポーランド大統領機事故

 神はとても残酷なことをする。
第2次世界大戦下ソ連の「カティンの森」で集団銃殺されたポーランドの人たちを追悼する慰霊の日が、新たな悲劇の日になってしまった。
ロシア西部のスモレンスク近郊で10日起きた政府専用機(ツポレフ154型機)の墜落事故で、ポーランドのカチンスキ大統領を始め「カティンの森」事件の被害者遺族多数が犠牲となってしまった。
 
 ロシア政府は「カティンの森」事件の追悼式典に、ポーランドのドナルド・トゥスク首相だけを招待をしていたため、ロシアとは敵対姿勢をとってきたカチンスキ大統領は、7日の式典には招待されていなかった。
 秋に迫ったポーランド大統領選にはトゥスク首相とカチンスキ大統領が出馬して、争うのではという状況が裏にあり、別日程の10日に行われる式典にカチンスキ大統領が参加しなければならない事情があったといわれる。

 ロシア政府が式典を開き、和解に乗り出した背景には、反ロシア感情の強いポーランドなど東欧やバルト諸国との関係修復で、EU(欧州連合)との協調をはかる目的があるといわれる。プーチン首相は和解の糸口を式典に求めていた。
 「カティンの森」事件は、1939年にナチス・ドイツとソ連がポーランドに侵攻したさい、ソ連軍の捕虜になったポーランド軍将校らが、ソ連人民委員部によって40年の春銃殺され、犠牲者は約2万2千人とされている事件である。独ソ戦で侵攻したナチス・ドイツ軍によって発見されたがソ連は一貫して認めなかった。
 その後冷戦の終結とともに、1990年にゴルバチョフ大統領がソ連人民委員部の犯行と認めたが、ソ連の影響下にあったポーランドでは「ナチスの仕業」として国民は信じこまされていた。

 この政府専用機(ツポレフ154型機)には、ポーランド政府関係者のほかにこの事件の遺族約50人が乗っていたという。
ロシアの地元当局は同機には97人が乗っていてが生存者はいないと発表した。ポーランド外務省はこの事故による死者は89人と発表したが、ロシア当局の調査委員会は132人が乗っていたとしている。まだ事故の詳細は不明である。
 
 私の心配はアンジェイ・ワイダがこの機に乗っていなかったかということであるが、トゥスク首相に招待されていたという報道もあり、まだはっきりわかっていない。アンジェイ・ワイダ監督は、ポーランドのいまを撮り続けた監督であるが、無事であって欲しいものだ。事件を題材に「カティンの森」を2007年に制作しているが、彼自身この事件で父を亡くしている。

 ポーランドではあの「カティンの森」の遺族の高齢化も進んでいるといわれる。遺族団体を統括する「カチン家族同盟」のスコンブスキ会長も難にあったといわれている。痛ましい限りだ。ロシアとの和解、犠牲者を悼む慰霊の旅が暗転した。
 ポーランドのことわざに「火の中でなくしたものは、灰の中から救わなければならない」がある。アンジェイ・ワイダも映画『灰とダイヤモンド』で「永遠の勝利の暁に、灰の底深く 燦然たるダイヤモンドの残らんことを」と教会の墓碑名に刻まれていた弔詩をマチェクに詠ませている。
 ポーランドよ、どうか力強く再起してほしい。

(10/04/12)


古希がくる

古希がくる

 誕生日が来る前に古希のお祝いをしようか迷っています。
古希のお祝いは数え年で行うということなので、誕生日が来てしまうと満70歳となってしまいます。あまりげんを担ぐことはしないほうなのですが、還暦は数えの61歳のときにやったので古希も数えでと思っていますがどうなるでしょう。
 杜甫の詩句の「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」にもとづいているようですが、昨年、還暦を共にした友二人を欠いてしまい、話ができる人が少なくなって、長寿を喜ぶというお祝いが申し訳なく思うようになってきました。
 還暦の時、お互い古希はやめようと決めていたのですが、実際に後に残るとその寂しさが身に沁みます。

 人生五十年といわれた時代では還暦や古希に意味があったと思いますが、その時代は遠くなり、作今は少子高齢化の趨勢で還暦で引退する人も少なくなり、悠々自適で暮らせる人も少なくなりました。困った世の中です。還暦になっても働かなくてはならない人ばかりで、それが古希に近づいても余り変わらないことになってきました。
 内孫や外孫を抱いてにこにこしながら、なごやかな古希のお祝いができれば幸せですが、そんなささやかな長寿を祝うことが難しい社会になりつつあります。若い生産をする人の減少が高齢者の就業を続けさせる結果にも繋がっています。これは農業などの一次産業に多く頭の痛いことです。
 会社の役員などで働いている人は70歳はまだ現役とばかり、仕事を続ける意思表示に盛大に古希のお祝いをすることがありますが、それはそれで立派ですが、リタイアできず働かなければならないような社会が続くと庶民はとても困ります。

 長生きすること自体は嬉しいのですが、社会のしくみがそれを助けていない社会だと何のために長生きするのか解らないということになります。
厚生労働省は簡易生命表というものを毎年作っていますが、平成20年簡易生命表の結果によると、男の平均寿命は79.29年(過去最高)女の平均寿命は86.05年 (過去最高)となっています。「平均寿命」とは、生まれたばかりの人がこれから何年生きていられるかという年月の平均値ですが、私たちが小学校に入学した昭和22年には、男性が50.06歳、女性が53.06歳でした。これからみると平成20年の時点で平均寿命は男性で約29歳、女性で約33歳も延びています。
 この平成20年簡易生命表による平均余命は、いま70歳の人は男性で14.84年、女性で19.29年生きられるということになります。平均余命は平均寿命からいまの年齢を引いたものでなく、今まで何年か生きてきた人が更に何年生きられるかという年月の平均値ですが、ある年齢の人々が、その後何年生きられるか、早くいえば死ぬまでの残りの年数ということになります。
 この数字を50歳からみてみると下のようになります。
       男性      女性
  50歳   31.21      37.34   
  55歳   26.79      32.69   
  60歳   22.58      28.12   
  65歳   18.60      23.64   
  70歳   14.84      19.29   
  75歳   11.40      15.18  
  80歳   8.49       11.43(平成20年の簡易生命表) 
男性より女性の方が平均余命が高いことがわかります。
 さあ、平均余命はわかりました。現代の人は昔の人より肉体的な年齢は若いといいます。70歳なら7か8を掛けると昔の人の年齢になるといわれています。そうすると約50代から50代後半になります。成人病に注意すればまだまだ長生きできそうです。昔は恵まれた武家や商家では50代で引退し、跡を譲ったといいます。藤沢周平の『三屋清左衛門残日碌』の主人公、三屋清左衛門のように隠居生活をたのしめたものと思います。
 
 隠居生活は現代ではどうも夢物語のようです。
リタイアすると年金生活ですから平均余命まで生きると、70歳なら14.84年あります。年間300万円掛かる暮らしならば約4,400万円、200万なら約2,960万円、100万円のつつましい暮らしなら1,480万円になります。
 三屋清左衛門のように釣や鳥刺しをしたり、気のおけない友人と酒を飲んだり、経書を読み、料亭の女将と楽しい時間をすごす自由時間はどのくらいあるでしょうか。睡眠時間を7時間、食事に3時間として計10時間、残りは14時間ですから、14時間×365日×14.84年が自由時間ということになります。自由時間に仕事をしていたのでは推して知るべしで、三屋清左衛門のような生活はとても出来ないことがわかります。藤沢周平が描いた清左衛門のさわやかな生き方のまねはできませんが、かくありたいと願う気持ちにさせてくれるのです。
「七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。」とは孔子の言ですが、とてもその境地に達せられない凡人はどうしたらいいでしょう。劉廷芝のように「今年花落ちて顔色改まり、明年花開くも復(また)誰れか在る。」と嘆き、「古人復た洛城の東になく、今人還(ま)た対す落花の風。」、「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。」と、はかなさと寂寥感を感じつつ歳月の無常に立ち向かうことしか、どうも方法はないように思います。
 「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」で、いたずらに残る日を数えようとしていてはいけないのですが、余命を前提にして残りの日々を組み立てなければいけないことも確かです。ただ、貧しくても豊かな老いを迎えられる社会を願うばかりです。古希になる人、希望を持ってもう少しがんばりましょう。それしかありません。

(10/04/08)


映画  ハリーとトント

ハリーとトント
   老境の人の映画

 老人には楽しい映画だ。
いつから老人になるのか、老人と呼ぶのか知らないが、この映画は老境に入るころ、入った人が見る映画だ。なぜならば老人同志の会話が楽しいからだ。

 首輪にリードをつけたネコを連れ、買い物をするハリー。卵1ダース半、スキムミルク1本、コテージ・チーズ2箱、レバー4分の1ポンド、クリーム1本を買う。
「おれより贅沢なネコだ」とコンビニの店主。「食うことはネコの最大の楽しみだ」とハリー。
「おれだってそうさ」と店主。「君は本が読める。テレビもある。女とも寝られる」とハリー。
「くだらん。ネコのほうがお盛んさ」と店主。「ネコも私もあっちは引退さ」とハリー。どうも一人暮らしのようである。茶トラの「トント」はどうも雄らしい。
 会話はこんな調子で進む。
公園のベンチで年上のいつもの友とおしゃべりをするハリー。「トントの歳になると引っ越しは辛い。なじみすぎてるからね」ここでネコの名が「トント」であることがわかる。住んでいるところはニューヨークのマンハッタンだが、区画整理のために、立ち退きを命じられているのだ。
 トントに重ね合わせてそれとなく友に心境を吐露するハリー。買い物の帰り道に引ったくりに遭うハリー。難をしのぎ家に帰るが年を取り、ふがいなくなった自分に苛立ち、世相を呪いながら悪態をつくハリー。

 彼の住むアパートは取り壊されるのだが、頑固者のハリーは最後の住人として抵抗する。警察はアパート下の道路から拡声器で「退去」を呼びかけ、強制的に「排除」されるハリー。警察はソファーに座ったままのハリーをそのまま表に運び出すのだ。ハリーは「リア王」のせりふを叫びながらアパートから出されてしまう。
 ハリーという老人がどんな老人かここまでの導入部で分かるようになっている。口が達者でユーモアと教養もあり、少し頑固だが愛すべき老人だ。

 ハリーとトントは長男の車に乗り、長男の家に向かう。「人、すなわち家だ」「年寄が家をなくせば、放浪者だ」とハリー。黙って聞いている長男のバート。長男のバートは妻のエレィンと息子二人と暮らしているが、ハリーとトントを引き取ることになる。
 エレィンとハリーはお互いに気兼ねしてどうもギクシャクしてしまう。二人とも遠慮してしまうのだ。長男の息子のノーマンとはうまくいく。ノーマンは無言の行をしていて、自然食品を愛し会話は筆談だがおとなしい青年だ。この長男の家での日常がやたら可笑しいのだ。ハリーは現代の事情にも詳しい。「メスカリン、ペヨーテ、LSD、コカイン・・・」と孫にドラックをジョークを交え聞くこともする。
 ハリーは公園のベンチでいつものポーランドの友人と女談義をする。リロイともピアノやダンスもする。長男の家を出ようと家探しをするハリー。だがネコのトントがあしかせになりみつからない。この家探しの会話がまたふるっている。階段を上りながら「エレベータがいる歳だ」とハリー。部屋を案内され「風景は」と聞くと「もう見飽きた歳だ」と逆にいわれるハリー。この家主の婆さんも相当なものだ。

 ベンチの友、気心の知れたポーランド生まれの老人の死。身元確認をするハリー。彼にもいつか来る死だ。
ハリーはシカゴにいる娘のところに行くことを決心、長男に「奥さんの気持ちもわかってやれ」というハリー。父は「今までの蓄えはある」と断るが無理やり金を渡す息子のバート「あれば便利だから」と、優しい子だ。
 いつしか観客はハリーと共に旅をすることになる。旅の始まりだ。
 飛行機の予定が一悶着ありタクシーからバスと変わるが、バスもトントが災いして途中で降ろされる顛末があり、中古車店へ行き、車を1台買う。
 ハリーは運転しながら一人ごとをいう。「子ども、家庭、仕事、・・・アニー、ぽっくり死にたい・・・」アニーとは彼の妻の名なのだ。「すまない、人の苦痛は分からない」と妻に詫びるハリー。

 ハリーはコミューンへいくという16才の、孫ほどの若い娘ジンジャーを拾い旅を続けて行く。
ジンジャーに思い出の土地、思い出の話などを語るハリー。教師だったことがここで明かされる。72歳の元国語教師だったのだ。「頭を切り替えるには歳をとりすぎた」という。ジンジャーに初恋の相手を聞かれ答えるハリー。かっての恋人ジェシーに逢いにいくことにしたハリーは、記憶を頼りに家を訪ねるが黒人の夫が「留守だが、すぐ帰ってくるから待て」という。帰ってきたジェシーは黒人の女性だ。
 ハリーは人種で人を分け隔てする人間ではないということは、もう観客は知っている。その観客にハリーならさもありなんと思わせるのだ。
だが、女性がいう。「ダンス教室のジェシーでしょ?、よく間違われるのよ」
 ジェシー・ストーンは介護施設のホームにいた。認知症を患いハリーを思い出せない。「アレックスなのね」「いやハリーだ」
ウーマンリブの闘志だったジェシー。二人の会話は「灰色な昔だった」とハリー「明るい昔よ」とジェシー。ジェシーとダンスをするハリー。

 シカゴの「カサンドラ書店」は、娘シャリーが経営している。久しい再会だ。だが「トント、誰と来たの?」というシャリー。長男の息子のノーマンもいる。散歩をしながら二人は語る。シャリーは四度も結婚に失敗した娘。シェークスピアを語るハリー。「過去を覚えすぎていると・・・」とハリー。何でも茶化す二人。二人は似ている。シャーリーはシカゴで一緒に暮らそうというが、シャリーに次男のエディのところに行くというハリー。次男エディはロスにいるのだ。

 コロラド、アリゾナと旅をするハリー。隣にはジンジャーとノーマンのカップル。二人は気が合うようだ。コミューンへと旅立つ二人に車を与え、トントとヒッチハイクの旅を始めるハリー。
 猫好きの薬売りの老カウボーイと意気投合するハリー。ニューヨークの女性タクシードライバーとハリーとの会話がここでも使われる。
「シャム、バーマン、マンクス、ペルシャ、ロシアンブルー、チョコレート、キャラコ、レックス・・・レックスは10キロもある巨大ネコだよ」と薬売り。
高級娼婦に乗せてもらうシークエンスでのハリーが可笑しい。ラスベガスでの立小便で留置場に入れられるハリー。そこで免許証なしで人にまじない医術を施したから捕まったという老インディアンと話すハリー。「トントは、ローン・レンジャーに出てくる仲間の名さ」というが、老インディアンは「見たことはない」という。
 ここでネコのトントがローン・レンジャーに忠実なインディアンの名であることが明かされるのだ。老インディアンから滑液のう炎の治療を受けるハリー。直って喜ぶハリー。

 ロスアンゼルスの次男のエディは不動産業を営むが、内実はほとんど破産状態で苦境に陥っている。父にはなかなか打ち明けられない。父と暮らすことで何とか打開しようとするが見抜かれて果たせない。父に「今日の天気は」と聞くエディ。「毎日晴れている。ときどき曇るけど」と返すハリー。我慢できず打ち明けるエディに「元気を出せ、お互い甘えてはいかん・・・」といいながら1000jを渡すハリー。長男からもらった金だ。やさしいハリーだがいうべきことはきちんというのだ。

 トントの別れ、トントの死。トントは11歳、人間なら77歳だ。情景にあわせた優しい音楽。

 海岸近くで暮らすハリー。近くのユダヤ人のネコ好きな女性セリアに「一緒に暮らさない・・・」と口説かれるハリー。目の前を横切るネコ、トントそっくりだ。
思わずあとを追うハリー。浜辺には砂の城を築く子どもがいる。カメラは引いてエンドになる。

 あらすじを書いてしまったが、この映画は単に老人の旅を追ったものではない。
ちりばめられたせりふの見事さ、自分を甘やかさず、他人にそれを求めない一人の老人の生き方、それゆえに自分というものを、しっかりとしっかりと持っている老人がここにいる。人生を透徹した目で見るハリーがここにいる。
 親しい人たちとの別れ、そして新しい人との出会い。悲しみや喜びをハリーは当然のように受け入れ前に進んでいく。寂しさや不安をトントと分かち合い、めったに泣き言をいわない老人がいる。老いると悲観したり愚痴る人が多いがハリーはそういう老人ではない。動物を愛し、周囲の人間を励まし、青年にもそれとなく指針を与える強くてやさしい老人なのだ。
 さまざまなことを思い出すトントそっくりのネコを追うハリー。いろいろなシチュエーションがハリーによみがえっているのだろう。象徴的なシーンだ。人生とは砂の城のようなもの。流されるまで精一杯築かなければならない。この作品の監督はこれをいいたかったのだろう。最後の場面で子どもと老人に托したのだ。

 
 この作品が作られたのは1974年である。このころのアメリカはフォード大統領が就任し、国内の不況とインフレの同時進行(スタグフレーション)があった。ベトナム戦争は73年パリ和平協定で終結となったが、南ベトナムと 北ベトナムの戦争はその後も継続し、最終的には75年年サイゴン陥落で収束する。
 「ハリーとトント」では作品の中でドラックの流行、反戦運動、人種問題、ヒッピーカルチャーを語り、60年代後半のウーマン・リブが語られる。これらのことがらがせりふの中に込められている。アメリカに吹き始めた「新しい風」である。アメリカの新しい風は西海岸から東へ吹くというが、ハリーが移動したのは東のニューヨークからシカゴ、シカゴからルート66を、カルフルニアのロスアンゼルスへと行きついたのだ。ハリーは東から西海岸へと逆に辿ったのだ。
 ハリーが辿ったルート66は州間高速道路の建設で 廃線になろうとしていた時期である。私のような老人には『ルート66』というテレビドラマが懐かしく思い出される。ルート66の標識とシボレーコルベットと主題歌。この作品にも標識が出てくる。

 監督、脚本は、ポール・マザースキーだが、古きよきアメリカ、強くたくましいアメリカを描きたかったのであろうか、それとも新しい新しい風に翻弄されるアメリカの70年代の風景を描こうとしたものか。
 音楽は、ビル・コンティ。優しいテーマと「慕情」のテーマ曲を効果的に使う。
 主演は、アート・カーニー。彼は1974年のアカデミー主演男優賞に輝いた。彼は56歳で72歳の役を演じたという。
 
(10/03/07)


図書館感謝祭

図書館感謝祭に行く

 2月6日塩尻市の図書館本館で行われた図書館感謝祭(フェスタ)「〜本でつなぐ過去、現在、そしてえんぱーくへ〜」に行ってきました。
図書館本館は、えんぱーくへの移転に伴い、2月18日より長期休館するというので、現在の図書館では最後の感謝祭になるわけです。午前10時からということなので少し早めに出
かけました。
 総合文化センターのロビーでは、えんぱーくくらぶの皆さんが整理や看板を持ってお手伝いをしていました。9時50分頃にはもう60人くらいの人たちが並び、ミニ古本市の開くのを待っています。私はえんぱーくの建物模型を見たくてきたのですが、10時まで階段を上らせてくれないので仕方なく並んで順番を待ちました。どうやら皆さんはミニ古本市が目当てのようです。
 
 ミニ古本市は盛況でした。が、狭い会場でお目当ての本を探す人たちにはちょっと気の毒でした。通路が狭くゆっくり本を探すことができません。でも、これが古い図書館の最後の行事だと思えばこれもまた楽しくもあります。新しい図書館がえんぱーくにできるという希望があるからです。皆さんたくさんの本を抱えて嬉しそうでした。スタッフの皆さんの心づかいも嬉しかったです。
 ミニ古本市をざっと見て、大会議室で行われている図書館の「過去の展示」、「これからの展示」を見ました。展示場にはえんぱーくくらぶの皆さんと図書館の職員が案内と説明をしてくれました。図書館の歩みが写真展示され、過去のベストセラーなども展示されていました。懐かしさを感じると同時に自分の歳も思い起こされ複雑なき持ちです。
 「これからの展示」にお目当てのえんぱーくの建物模型があり、つぶさに見ることができました。模型の最上階が取り外せるようになっていて外して見せて頂きました。平成22年夏オープン予定といい、第一印象として明るい感じの建物ですが、実際に建築されるとどんな感じになるでしょう。楽しみです。

 職員の方が「図書館クイズ」をというので用紙を頂いて挑戦して見ました。以外にも難しい問題があって思わず机に座ってしまいました。問題を紹介してみます。

 1. 塩尻市立図書館の分館はいくつあるでしょう。
 2. 塩尻市立図書館(今の建物)ができたのはいつでしょう。
 3. 新しくえんぱーくに入らない施設はなんでしょう。
 4. 新しくできるえんぱーくは何階建てでしょう。
 5. 1969年(昭和44年)より小学館発行雑誌に連載され、その後テレビでも大人気となった漫画はなんでしょう。
 6. 村上春樹の作品でないものはどれでしょう。
 7. 筑摩書房設立者は誰でしょう。北小野に記念館もあります。
 8. 1階から3階まで階段は何段あるでしょう。
 9. えんぱーくの図書館で雑誌は何種類になるでしょう。
 10. 新しいえんぱーくがオープンするのはいつでしょう。

 答えははすべて三択でしたがここでは書きません。できましたでしょうか。

 今年は国民読書年だそうです。
国は「国民読書年に関する決議」を、平成20年(2008年)6月6日に衆参両院全会一致で採択し、「文字・活字文化振興法」の制定・施行5周年にあたる2010年を「国民読書年」に制定しました。国を挙げて努力をして本を読もう…と推奨しています。新聞や本を読まない人が増えたと国が憂慮しているようですが、ほんとうのところはどうでしょうか。
 新聞や雑誌、本の活字文化の衰退がささやかれて、新聞も発行部数が減り、雑誌も廃刊が相次いでいます。出版業界・新聞業界の窮状が裏にあるのでしょうか。
「活字中毒」と娘にいわれるくらい本や新聞が好きな人間で、文字・活字文化がなくなっていいとは思っていませんが、国が音頭をとって読め読めといわれると抵抗があります。かん ぐるとなにかきな臭ささを感じます。

 図書館感謝祭の帰りに大門商店街を通りました。えんぱーくの建設が進んでいますがこれから商店街はどうなるでしょう。えんぱーくが活性化の起爆剤になるでしょうか。ヨーカ堂 の跡店舗はどうなるでしょう。図書館なぞ出来たって誘客に繋がらないという意見もありますが、座して待つより人が集まる取り組みをみんなで考えることが必要です。せっかくえん ぱーくができるのですから県下一の「本の街」「古本の街」なぞどうでしょう。本館だけで本を貸すでなく、空き店舗をいくつも利用して分野別古本館なんていうのはどうでしょう。
読んでしまっていらない本、交換して読みたい本、図書館で除籍した本などを気軽に持ちよることができる仕組みがあればと感じます。行政の力を借りなければいけない場面もあるでしょうが、図書館のミニ古本市の盛況をみて夢をみてしまいました。ただ本好きの年寄の変な夢ですが・・・。

 (10/02/07)



シベールの日曜日

シベールの日曜日
     心に残る映画

 この映画を最初に見たのはたしか23歳くらいのときだった。当時、ハーディ・クリューガーという俳優のファンで、クールな風貌で陰があるドイツ軍人やスパイなどを演ずると、彼はとても魅力的だった。彼が出演したこの映画「シベールの日曜日」では複雑な難しい役を演じている。この映画を見終わって時、若い私はなにやら落ち着かないもやもやとした気持ちがわいてきて、すっきりとした気持ちになれなかったのを覚えている。まだ感情が幼くて消化不良を起こして理解できなかったのだ。
 この映画を正月にテレビで再度見た。この映画は歳をとってから見る映画である。

 いきなり戦闘場面から始まる。
パイロットの主人公が操縦している戦闘機が撃墜され墜落する場面、一本の木の根元に見上げている少女の姿が見える。どうやらその少女の上に落ちるようだ。フェイドアウ トした画面で現代に戻る主人公ピエール。
 画面はモノクロである。撮影は「いとこ同志」や「太陽がいっぱい」のアンリ・ドカエで、監督との息はぴったりだ。木立ち・木の枝や水面の波紋、めまいにも似た木の下の少女、ガラスに映る風景など、モノクロの画像が二人の心情を表すカメラワークと共に生きている。
 青年と少女との物語なのだが、二人とも心に大きな空洞を抱えている。埋めがたい傷を負っているのだ。戦争によって記憶を欠いたピエールと、父親に捨てられ拠るべき家族のない少女“フランソワーズ”二人は出合いお互いに穴を埋めようとする。青年ピエールには墜落後病院で介護してくれた看護婦のマドレーヌがいて、一緒に暮らしているが、ときおり夢に木の下の少女を見てめまいに襲われる。戦争での埋めがたい傷が彼の心を蝕んでいるのだ。彼は友人の芸術家カルロスのもとで「鳥かご」を作る手伝いをしながら心のリハビリをしている。
 ピエールと“フランソワーズ”は日曜日ごとに逢う約束をして二人で湖を散歩する。お互いの傷を埋めあうように・・・。
 “フランソワーズ”は、ピエールに打ち明ける。私の名前は修道院で付けられた名で、本当の名は「素敵な名前よ、教会の風見鶏をくれたら教える」という。
 
 “フランソワーズ”は小悪魔的だが、無邪気でもろくて繊細さを併せ持つ少女、彼女は13歳だ。監督のセルジュ・ブールギニョンの女性観が色濃く投影されているように感じられる。二人の純粋な愛を、ピエールの恋人の大人の女、マドレーヌと対比させて描く。マドレーヌは現実を見据える強い女だ。なんとかピエールの記憶を取り戻そうとしている。
 湖を散歩しながら“フランソワーズ”はいう。いつも彼女が主導的にピエールに話しかける。「あなたはいくつ」「32だ」「あなたはまだ若いわ、私が18になったら、まだ37だから結婚しましょう・・・。」「私がお母さんのかわりになってあげるわ・・・。」 乗馬する男が現れると「あの人が好き、ハンサムで素敵だわ、私も乗って見たい。」そしてピエールに「妬いているの・・・心配しないで。」という。ブールギニョンの手にかかると少女でも、無邪気さと大人の女の狡猾さを併せ持つ。ピエールはいつもの湖の散歩で、同じ歳くらいの男の子と無邪気に遊ぶ“フランソワーズ”をみて思わず相手の男の子を打ってしまう。彼も自分の気持ちに戸惑う。あとでこのことが伏線として意味を持つシーンだ。
 ピエールの恋人マドレーヌも、少しずつ変わっていくピエールに不安を覚え距離感を感じてカルロスに相談するが・・・。
 クリスマスの夜“フランソワーズ”は初めてピエールに「シベール」という名前を教える。ピエールは約束した風見鶏をとりにいく。教会の塔から風見鶏を外すときピエールはめまいの発作が起こらないことに気付く。ここから物語りは悲劇的な終末に向かってゆく。
 ラストにシベールが「もう、私には何も無いの。名前なんかないの。誰でもなくなったの。」と。
 
 お互いに相手を必要とし、「望むように愛し、愛されること」は難しい。得たいの知れない愛という感情を追い求める時の苦しみ、痛み、別れを監督のセルジュ・ブールギニョンは描いた。風見鶏を手にしたとき、ピエールとシベールの悲劇は始まってしまう。鳥かごと風見鶏がなにやら象徴的だ。鳥かごの中にいたピエール。風を感じたピエール。修道院にいたシベール。ピエールに風を感じたシベール。マドレーヌもそうだっただろう。見通せない愛、閉じ込めておけない愛。純粋な愛ほど追い求めても手に届かない。風のように手をすり抜けてゆく。後半になるほどこの映画は息苦しくなる。
 見終わっても考えさせられる。ピエールは自分を取り戻せなかった。そのきざしはあったのに。シベールは名前と愛を失ってしまった。マドレーヌとカルロスも愛を失ってしまった。追い求めた愛はこんなものではなかったはずだ。
 シベールの広がってしまった心の傷、喪失感は回復できるのだろうか・・・。どう生きるのだろう。マドレーヌとカルロスもどう生きるのだろう・・・。
 
 この映画でシベールを演じたパトリシア・ゴッジは12歳だった。彼女の無邪気さと愛くるしさ、ふとみせる淋しさでこの映画を魅力的なものにした。彼女の出演作品は少なく、ハーディ・クリューガーは、戦争で記憶が欠落し心に傷を負った後遺症の残る寡黙な青年を演じ好演した。この映画はアカデミー外国映画最優秀作品賞、ベニス映画祭特別賞、アメリカ・アート・シアター賞などを受賞した。

 原作はベルナール・エシャスリオーの小説「ビル・ダブレの日曜日」
 脚本 セルジュール・ブーギニョンとアントワーヌ・チュダル
 監督 セルジュ・ブールギニョン
 撮影 アンリ・ドカエ
 音楽 モーリス・ジャール
 フランス映画(東和)1963公開 116分

(10/01/25)


イングリッシュ・ペイシェント

イングリッシュ・ペイシェント
         ある恋の物語

  一本の筆が人と思われる絵を描いていく。次の画面は砂漠の上に映る飛行機の陰。複葉機だ。撃墜されてベドウィンに助けられる火傷の一人の男。この男がこの物語の主人公だ。
 
 画面が変わるとカナダ人の看護婦のハナが登場する。恋人のマクバガン大尉が戦死し、戦傷で多くのイギリス兵が死んでいくのをのを見、移動の途中、地雷で同僚を失い、心に深い傷を追っている。この地雷処理の場面でインド人の爆弾処理の将校キップと初めて出会う。途中ハナは部隊と別れ、イギリス人の患者と僧院に残る。ここまでが導入部である。少ないせりふのなかで、手短に説明する画面で巧みな導入部だ。

 イギリス人の患者には名前がない。
イギリス人の患者はハナに聞く「なぜ僕を生かそうとするのか」ハナはいう「看護婦だからよ」ハナの読む本の言葉に触発されるように男の回想が始まる。患者はアルマーシといって王立地理学会の会員でどうやら砂漠の探検をしている男らしい。同僚のマドックスと空からの砂漠の地図も作っている。
 この古い破壊された僧院にもう1人の男がやって来る。カラバッジョだ。ハナと同郷という男は両手に手袋をしていて謎めいた男である。

 監督のミンゲラは脚本家だけあって人物の内面を掘り下げて語るのがうまい。
髪を洗いながら泣くハナ。カラバッジョが「どうしたの」と聞く。ハナはいう「幽霊に恋してるの、彼も幽霊に恋してる」と。ミンゲラはフェイドアウトとオーバーラップを使って現在と過去を行き来する。
ピアノを弾くハナの前に爆弾処理の将校キップが現れる。彼の部下ハーディと僧院の庭にテントを張るのだ。イギリス人の患者の回想に現れる彼が恋したキャサリンと、主要な人物がここで揃う。

 イギリス人の患者アルマーシとキャサリンの恋、ハナとキップの恋、カラバッジョのエピソードが複雑な物語を紡ぐ。これに絡むイギリス人の患者が持つヘロドトス『歴史』の本だ。本に記された書き込み、地図、日記、挟まれたメモや絵の謎、切抜きがこの映画で重要な意味を持っている。
 キプリングの読み方を指導するイギリス人の患者アルマーシ。カラバッジョがレコードをかけるが『マイ・ロマンス』の作詞家を言い当てるアルマーシ。「誰か、ボスポラス・ハグの踊りを知らないか」と聞くアルマーシ。この踊りはキャサリンと別れの後、国際サンドクラブで、彼女の目の前で荒れたアルマーシが見せた踊りだ。一瞬だから見落とさないように見て欲しい。ボスポラスは喉前下陥没、アルマーシが愛した女の喉。
 アルマーシとキャサリンの恋がフラッシュバックで語られていく。二人の過去の出来事がだんだんとはっきりとしてくる。別れの決意とアルマーシへの怒りのなか、野外劇場のポールに頭をぶっけるキャサリン。その痛さは彼女の別れの代償だ。夫がいながらの恋、キャサリンの世界は秘密を許さないのだ。
 国際サンドクラブでのパーティで荒れるアルマーシ、彼女を責めるが「苦しんだのは貴方だけではないのよ」と女はいう。

 インド人のキップとハナは惹かれあう。
キップは僧院の礼拝堂の壁画を見せようとハナをカンテラの明かりで導く。出かけるハナを静かに見守るカラバッジョ。キップはロープを操作し、ハナを吊り上げ壁画を見せる。ハナが最も輝いた場面だ。キップとハナの恋は静かに進むが、その恋も終戦と共に終わる。キップは同僚で部下のハーデイの死を境に沈黙 し、心を閉ざしハナにも語らない。残月が僧院を包む。

 映画はラストに向かう。
ここでは、なぜアルマーシが火傷を負うようになったかが、カラバッジョとの会話の中で明かされる。キャサリンの夫クリフトンがキャサリンを乗せたまま、飛行機を墜落させる。ここからアルマーシの物語が繋がってゆく。泳ぐ人の洞窟。「なぜ私を憎んだの」聞く女の胸に思い出の指抜き。ヘロドトス『歴史』の本に挟みこまれた絵とkの頭文字のメモ、彼女と交わした約束が解き明かされ、カラバッジョがなぜ絡むのか、その目的も解かれる。
 キップもハナに「いい英国人はハーディとイギリス人の患者だけ」といってオートバイで去る。アルマーシはハナにモルヒネのアンプルをそっと押す。「なにか読んでくれ聞きながら死にたい」とアルマーシ。泣くハナ。砂漠に影を落としてゆるやかに飛ぶ飛行機。アルマーシは砂漠に帰ってゆく。ハナが車から見る風景は太陽が木々の梢を流れて・・・詩的なラストだ。

 この映画は4人の男女が紡ぐ愛と苦悩の物語だが、瀕死の火傷を負ったイギリス人の患者を中心に語られ、戦争が4人に影を落としている。言葉が意味を持つのでせりふを見落としてはいけない。ちょっとした短いせりふにも意味があるのだ。特にイギリス人の患者と呼ばれる男には。
 この監督は、詩的で重層的な原作の世界を叙情的な美しい映像にし、発端となる砂漠を官能的にまでに美しく描いた。結ばれない二組の男と女の物語を際立たせた。流れるテーマは国境のない世界、アルマーシはハンガリーの貴族で伯爵だが、束縛を嫌い、太陽コンパスで祖先や国を意識せず、いつも自分になれる場所を探して砂漠を愛している男だ。ヘロドトスの本を置いて、女に助けると約束をして泳ぐ人の洞窟を出た男は、イギリス軍にいうべき名前をいわなかったために、約束を守れず女を助けられなかった。そのとき男の心は死んだのだ。
 地図のない世界を歩きたいと願ったアルマーシの思いが胸を打つ。

 映画は小説と違うものだ。原作を忠実になぞろうとしても表現の仕方が違うから比較すること自体おかしなことだが、この映画は「映画」として砂漠を視覚化して見せている。空撮された砂漠がなんとも美しいのだ。砂漠の怖さも表現されているが、小説で読んで空想するという作業のなかでは味わえないものだ。
 原作の主人公たちの複雑な心理を視覚化することは難しいが、短いシェークエンスに監督が(脚本家でもある)努力した結果が現れている。
 この映画を監督したのはアンソニー・ミンゲラ、1996年公開のアメリカ映画である。彼は脚本も手がけるがこの映画も彼の手になっている。原作はブッカー賞を受賞したマイケル・オンダーチェが1992年に発表した『The English Patient』で、日本では新潮社から土屋政雄訳で『イギリス人の患者』(1996年)として出版された。原作もぜひ、読まれたい。アンソニー・ミンゲラは2008年3月18日、ロンドンで死去した。享年54歳だった。
 この作品は第69回(1996)アカデミー賞で作品賞、監督賞、助演女優賞、編集賞、撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞、作曲賞、音響賞など9部門で受賞した。

出演者 レイフ・ファインズ
クリスティン・スコット・トーマス
ジュリエット・ビノシュ
ウィレム・デフォー
コリン・ファース
音楽 ガブリエル・ヤレド
撮影 ジョン・シール
編集 ウォルター・マーチ
上映時間 162分

(09/04/01)


夢で逢いましょう

夢で逢いましょう

 最近夢を見ることが多くなりました。夢を見ることなく熟睡できればいいのですが、体が、というより心や脳に問題があるのでしょうか。
体はだまし、だまし使っているのでハードワークをしない限り無理はしていないと思うのですが、足しない脳はいつもフル回転で、その上、耳が少し遠くなったので、その分余計に神経を使うことがいけないのでしょうか。
 「耳が遠い人は100まで生きられるじ」と、よく人にいわれますが、最近のご時世をみるにつけ、あんまり永生きをしてもいい事がないような気がして、いわれても嬉しくもないのです。これも現世にも、自分にも願望がないということでしょうか。

 若かりしころ、NHKで「夢で逢いましょう」という番組が放送されました。
 昭和36年(1961)ころのテレビ番組ですが、テレビがようやく一般家庭に入りだしたころのバラエティの生放送の番組でしたが、眠気をこらえ放送時間を待ったものです。そのころはビデオ録画などできるはずもなく、ただただ10時まで待っていました。
 この番組のなんともいえない柔らかな感じが好きで、見ているとなんだか温かくなるような気持ち、優しくなれるような気持ちになったものです。もう青年でしたが、ちょっぴり大人の気分に浸れた時間でした。
 出演者がまたそれぞれの持ち味を生かしていて、オープニングと終了する時の中嶋弘子さんの頭をちょっと右に傾けた挨拶や、渥美清や坂本九、三木のり平、黒柳徹子、E・H・エリックと岡田真澄兄弟、坂本スミ子やジェリー藤尾、田辺靖男、デューク・エイセスや九重祐三子などが歌やコントをみせてくれました。
 この番組を盛り上げたのは永六輔と中村八大でした。二人も出演して独特の雰囲気をつくっていたものです。この「六・八」コンビの歌は今月の歌で紹介され、ヒット曲がたくさん生まれていました。「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」などはその最たるものでした。ジェリー藤尾の歌う「遠くへ行きたい」は、当時の自分の気持ちを代弁しているような歌でした。それと皮ジャンとジーパンがよく似合いました。この姿をみて丈の短い皮ジャンがガラでもなく欲しかったものです。もう少し背も高く、足を長く生んでくれればと親を恨んだものでした。いまでもこんなに皮ジャンとジーパンが似合う男を見たことはありません。
 E・H・エリックの変な外人や、軽妙な渥美清が中嶋さんになにかいって笑わすところも好きでした。上品に笑うしぐさがなんともいえず、すてきなお姉さんでありました。五つ六つ年上かな、いやもっと上かななどと勝手に想像してました。
 永六輔さんのちょっと心に響くお話が好きでした。永さんは昭和8年生まれですから、私より7才上のお兄さんということになりますが、独特のポエムの語りがなんともいえませんでした。いまも永さんのお話はりんご園での作業のとき、ラジオで聞いて勉強させて戴いています。この人には脱帽です。
 「夢で逢いましょう」のテーマソングを歌った坂本さんもよかったですね。大阪弁を上手にだして。この曲が流れ出すと30分という時間があっという間で、もう終りかと淋しく思ったものです。
この曲は、中村八大作曲で、永六輔が作詞したものですが、ゆったりとして心がおちつく曲でした。
 
 夢であいましょう 夢であいましょう
 夜があなたを抱きしめ
 夜があなたに囁く
 うれしげに 悲しげに 楽しげに 淋しげに
 夢で 夢で 君も 僕も
 夢であいましょう

 うれしげに 悲しげに 楽しげに 淋しげに
 夢で 夢で 君も 僕も
 夢であいましょう

 いまでも、ちょっと気持ちが沈んだときこの歌を歌います。歌うと元気が出るのです。「夢で逢いましょう」の番組は、現実とは違うものであったのですが、現実だと思い込ませるものを、短い時間に見ている人に与えてくれたのです。
 かの有名なジグムント・フロイトは「われわれは、われわれの望んでいることを夢にみる」といいました。そんな願望充足の夢を今夜もみることができるのでしょうか。

 (09/03/24)


アンジェイ・ワイダの映画を読む

アンジェイ・ワイダの映画を読む

  「世代」と「地下水道」と「灰とダイヤモンド」

 アンジェイ・ワイダは一貫して祖国ポーランドを描き続けているポーランドの映画監督である。
彼の初期の作品にはポーランドという国の複雑な事情が描かれている。『世代』と『地下水道』と『灰とダイヤモンド』に代表される作品は、抵抗三部作として知られているが、第二次世界大戦後まもなく制作、公開されたことから、この三本の映画を鑑賞するには、第二次世界大戦中のポーランドと終戦間もないポーランドがおかれた状況を知っておく必要がある。ただの活劇や恋愛ものの映画と侮ってみるとこれらの映画でワイダが伝えようとしたことがわからない。

 1926年、ポーランド東北部のスヴァウキでワイダは生まれる。父はヤクプ・ワイダで母はアニエラという。父は軍人でワイダが13歳(1939)のとき国境防衛隊の将校として東部国境地帯に派遣され別れるが、ソ連侵攻以後父は消息が不明となる。
 ワイダは戦後まもない20歳(1946)のときクラクフの美術大学に入学するが、映画に志し、以後映画で自分の気持ちを表現することとなるが、当時のポーランドはソヴィエト連邦の強い影響下に置かれ、社会主義国となったため、抑圧と搾取に苦しむようになる。この後ソヴィエト連邦の支配する体制による抑圧と搾取に抵抗する市民による民主化運動が起こるのである。このため映画も体制によって検閲され、体制側を批判するようなものは制作できない状況が生まれ、ワイダは表現に苦労することになるのだ。ワイダはこのような閉塞された状況のなか、ポーランドの自由のために戦った人々をこの国に生まれた国民に見せたい、祖国ポーランドのありさまを知らせたいという思いがあり、映像でそれを表現することになる。

 『世代』(1954)はワイダの映画監督デビュー作となるが、この作品は急遽助監督から監督に抜擢された作品で、同じ世代の少年がドイツに対する地下活動に入るようすを描いている。親を扶養しながら迷いつつもレジスタンス活動に入っていく少年、ソヴィエトの地下活動家に扇動され、迷いながらも意志を貫こうとする少年たちをワイダは描く。
 1939年8月23日、ドイツとソ連が当時の常識を覆し不可侵条約を結んだ日から、ポーランドは両国から侵略される。ドイツとソ連は条約の裏で秘密議定書を結びポーランドの分割占領に合意していたのだ。ドイツは9月1日、ソ連は9月17日に侵攻を始めこれが第二次世界大戦に結びつくことになる。
 この侵攻でポーランドの市民が大きな犠牲を払った。ポーランドはフランスにフランスが降伏後は、イギリスに亡命政府を樹立、国内に残る地下組織と連携を図るが、その地下組織は一枚岩ではなく、ロンドン系、ソ連系とユダヤの人々がそれぞれ抵抗組織を作り戦っていたのであるが、戦後ソ連に後押しされた社会主義政権が誕生するのだ。
 ワイダはこの映画でドイツとの戦いの地下活動に入る若者をある種の共感を持って描いている。推測するにワイダ自身の少年期と重なるものがあるためだろうか。
 この映画で若きロマン・ポランスキーが青年の一人として出演している。ワイダより7歳年下だが彼もポーランドで過酷な体験をしている。後年「戦場のピアニスト」を監督し、2002年のアカデミー監督賞を受賞している。

 『地下水道』はワイダの1956年の作品である。
カンヌ国際映画祭審査員特別賞に輝いた作品であるが、これでワイダは国際的に高い評価を受けた。ワルシャワ蜂起(1944)を題材に、蜂起したポーランド国内軍が10月3日にドイツ軍に降伏した戦いを描いたものである。
 ワルシャワ蜂起とは7月30日にソ連軍がワルシャワから10kmの地点までに進出するのを受けて、ポーランド国内軍が8月1日ワルシャワで蜂起した戦いである。
 映画はこの国内軍の一中隊が攻撃を受け、やむなくワルシャワの市街の中心へと移動するために選んだ地下水道を舞台にワイダが語る。
 中隊はドイツ軍により徹底した攻撃をうけ、再集結するために地下水道を選ぶが、このなかで多くの兵士が命を落とす。ワイダは二組の愛し合う男女を地下水道のなかで対照的に描く。ハリンカと愛人の中尉、コラブと仲間にアバズレ呼ばれるディジーだ。ハリンカは中尉に裏切られ、ディジーは負傷したコラブに希望を持たせながら付き添う。ディジーがたどり着いた下水道の出口には鉄格子が嵌まっている。ここでワイダはディジーに語らせる。
 「目を開けちゃだめよ、水と緑と土がみえるわ」ワイダはここでディジーの言葉どおりのビスラ河の対岸を見せるのだ。検閲のため見せられなかった河を渡らないソ連軍を暗示させることで、ワイダは社会主義政権の検閲に観客の想像力に期待して抵抗する。
 現実にソ連軍は蜂起したポーランドの市民を見殺しにする。ソ連は親ソ派政権の樹立でポーランド支配を目指すことを考えていて、戦後の指導者になりうる敵対する亡命政府側主導の武装蜂起には冷たかった。黙ってみていたソ連は翌1945年1月になってから進撃を開始、亡命政府側の抵抗組織の人間を逮捕することになるのである。
 このワルシャワ蜂起の63日間の戦いで市民の死亡者数(戦死・処刑)は18万人から25万人になると推定され、ポーランド国内軍は1万6千人の戦死者を出したといわれる。
 ワイダはラストで記録係りの兵士と中隊長を対比させる。記録係りの兵士は、中隊長ザドラに部下が後続しているか聞かれる度にうそをついてきた。地下水道から抜け出て生きて外に出られた喜びに記録係りの兵士は本当のことをいう。彼は中隊長に射殺される。ここも意味深いシーンだ。都合の良いことばかり聞かされる中隊長に国民の姿を重ねあわせた表現である。中隊長ザドラはまた、地下水道に戻るのだ。
 映画『地下水道』は自由を求め、そのために戦った人々を描くが、ラストで地下水道に戻る中隊長はワイダ自身の姿ではないだろうか。閉塞したポーランド、祖国ポーランドの自由に向かってポーランドのなかでそれを勝ち取るために、暗い出口の見えない鉄格子の地下水道で戦うことを決めたワイダ自身の姿を象徴させるものだ。

 『灰とダイヤモンド』も1958年、ヴェネチア国際映画祭で批評家連盟賞を受賞した。
戦後、ポーランドで製作される映画はソ連の影響化のなか、社会主義体制の政府によって検閲される。オカリナの音にあわせてタイトルが流れる。
 時は1945年5月8日である。主人公のマチェクはワルシャワ蜂起の地下水道を生き抜いた元兵士で暗殺者だ。黒いサングラスを掛けている青年だ。彼は社会主義者で労働党県幹部のシチューカの暗殺を仲間と計画している。
 ワイダはこの二人を主人公にしているが、検閲する側は社会主義者で労働党県幹部のシチューカが描かれると感じたらしいが、ワイダはここでも抵抗する。
マチェクはシチューカと同じホテルに投宿、機会を窺うがホテルのバーのカウンターで働くクリーシャに惹かれる。クリーシャは毎日をこれ以上難しくしたくないとマチェクの誘いにも気乗りはしないが、マチェクの押しに彼の部屋を訪ねてしまう。一夜限りの情事と割り切るつもりだったが、何故か占領下に家族を失った孤独な身であることなどから二人は惹かれあう。
 ワイダの演出は巧みで地元の市長のパーティ騒ぎをからめ、体制側の腐敗を皮肉る。社会主義者で労働党県幹部のシチューカにも悩みがある。長く別れていた実の息子が自由を求めて戦う「おおかみ団」という抵抗組織に属していることを知らされて苦悩する。相容れない敵対している組織なのだ。
 マチェクとクリーシャは夜の街に出るが雨やどりで教会に出くわす。碑文を読むクリーシャ。言いよどむクリーシャにマチェクが続きをそらんじて見せる。「残るはただ灰と嵐のごと深淵に落ちゆく混沌のみなるを/永遠の勝利の暁に灰の底深く/燦然たるダイヤモンドの残らんことを……」マチェクは手荒な仕事をしているが教養のある青年ということを暗示して見せる。
 この教会の場面は秀逸だ。逆さ吊りのキリスト像を画面の中央にみせ、マチェクとクリーシャを左右に配し逆三角形の構図が象徴的で美しい。ワイダはこの場面でなにを伝えたかったのだろうか。
 ポーランドに侵攻したドイツ軍は制空権を確保した空軍によって民間人の住居や教会など無差別に爆撃、避難民の行列をも攻撃対象にして凄惨な損害を与えたといわれる。ドイツによるポーランド占領中に最終的に600万人のポーランド人(ポーランド全人口の20%)が殺害されたといわれる。そのうちの300万人はアウシュヴィッツなどの絶滅収容所で大量虐殺されたといわれ、大戦中の市民の死者の数ではヨーロッパの国々でも類をみない。まさに神もいない状況であったのだ。
 マチェクはクリーシャとの別な人生を選ぼうとするが果たせない。クリーシャのしぐさが切ない。暗い路上で目的を果たすマチェク。撃ったシチューカを抱きながら曳光弾のような花火をみるマチェク。ワイダは「本当の悲劇は善と善の衝突でおこる」という。同じポーランドの人間がなぜ憎みあわなければならないのかワイダを問うている。
 ホテルにポーランドの国旗を掲げるホテルマンの老人、彼もワルシャワ蜂起で戦った人間だ。マチェクに泊るときはいつでも便宜を図るという。蜂起で掲げたかった国旗を丁寧に掲げる姿が印象的である。マチェクがホテルを出るとき唐突に白馬が現れるが、この白馬は体制に翻弄されたマチェクやポーランドの人々を具現化したものではないだろうか。ポーランドを助けようとがんばるマチェク、その現実との乖離に苦しむマチェクを表現したものと思われるがどうであろうか。愛を捨て銃を選んだマチェクは警備兵に追われゴミ捨て場の中で息絶える。マチェクが乗ろうとした列車の音にオカリナの音色が響く。

 アンジェイ・ワイダの抵抗三部作は1954年の『世代』から『灰とダイヤモンド』までの作品は、映画で祖国ポーランドがを描き、我がポーランドへの強い思いによって貫かれている。ワイダにぶれはない。鑑賞する側には描くことのできない現実をそれとなく知らせ、象徴としてみせることによって観客の想像力を生かす手法をとるのだ。ワイダはこの三本の作品を28歳から32歳の年齢で完成させた。恐るべき監督である。
 ワイダはこの三部作のほかに『大理石の男』を1963年制作するが、相次ぐ検閲のため完成したのは1976年でほぼ12年の歳月をかけて作っている。政府のプロパガンダに利用される青年と、1950年代の鉄鋼都市ノバフタ建設の影の部分を描いているが、ワイダが本当に描きたかったのは1970年に起きた「12月事件」を再現したかったという。この12月事件は、労働党の政府が労働者のストライキのデモを武力で鎮圧したもので多くの死者が出たが政府は公表せず、墓も建てることを禁じたという。この作品を許可したときの文化大臣ユゼフ・ティフマは政府側の批判を受け、辞任に追い込まれている。
 その後のポーランドは市民による民主化運動が進展する。1979年6月にはポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が故国ポーランドを訪問、1980年9月17日にはワレサが主導した独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。このときワイダは「連帯」から『鉄の男』の制作を頼まれシナリオを一切使わず1981年これを完成させている。この作品はカンヌ映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞した。この作品はポーランドの人々に「あのときどうであったかを見せてくれた」と圧倒的な支持を受けた。ワイダはその後、1981年、検閲が厳しくなり戒厳令が敷かれるなどしたため、一時パリへ逃れそこで制作したが、自分の撮る場所はポーランドだと1985年祖国へ戻っている。

 2007年ワイダは『カチン』を制作する。彼はもう81歳だ。彼の父、ヤクプ・ワイダの消えた「カティンの森事件」を題材に『カチン』を作ることになる。
 「カティンの森事件」とは、1943年ソ連に侵攻したドイツ軍が、カティン近くの森で溝に4,000人以上の遺体が埋められているのを発見したが、ソ連はこの虐殺はドイツ軍が実行したものであると反論、これを認めなかったが、西側連合軍(イギリス・アメリカ)はソ連の行為であると気づいていた。この虐殺事件は1940年ごろソ連軍によって起こされたものだが、ソ連はだんまりを続け1990年ゴルバチョフが公式に殺害したことを認めるまで長い時間がかかった。この間ポーランド国内の人々はソ連の仕業と知ってはいたが、ソ連の影響化にあるポーランド統一労働者党政権下ではどうにもならない状況が続いたのだ。
 この状況の打破は、社会主義政権が下野し民主化が完全に実現した1989年まで待たなければならなかった。ワイダの母、アニエラは夫、ヤクプ・ワイダの死の真相を知ることなく42歳でこの世を去ったのである。ワイダにとってもこの映画を作るまでに70年という歳月が必要だったのである。ワイダはこの作品に父と母を投影させた人物を演出しているというが、この作品はまだ日本では公開されていない。
 自分の国で映画を作るということを課してきたワイダにとって長い時間であったに違いないが、終始「あのときどうであったか」を観客に見せている。
強い意思を持ってポーランドを愛し続けた稀有な監督である。

(08/09/15)


ホェーブス625

ホェーブス625

 雨で農作業ができず、空いた時間を利用して久しぶりにホェーブスを出して磨きました。
山の道具は使っていないと故障が起きたりするものですが、このホェーブスだけはいつも裏切ることなく働いてくれました。いつでも頼もしい味方でありました。
 雪洞のなかで、このホェーブスの燃焼音を聞いていると心が落ち着くのです。
私の625はかれこれ50年近く使っていますが、重いので最近はほとんど出番がなく、山行のお供をすることがなくなりました。ストーブはいまやガスが主流で重量も四分の一の重さ(約400c)になり、火力も結構強く、機能的で年寄の装備としてたいへん助かりますがボンベを持ち帰らなくてはならないのでそれが難点です。

 タンクの形状に惹かれ赤い丸缶に入ったホェーブス625を買ったのは松本の「ヤマトヤ」というスポーツ用品屋さんでした。当時、松本には登山用具を扱う専門店はなく「メルヘン」という小さな店があっただけでした。「メルヘン」に行ってみたのですが留守番をしていた信大の学生にホェーブスは「いまない、ヤマトヤに行ったらあったぞ」といわれ「ヤマトヤ」から買ったのです。ここは面白い店で信大の山岳部の部員らしき人が留守番でいて買い物客をからかっていました。ザイルを買ったときも「なにをするだぁ、子どもが使うものじゃねーぞ」などといい、なかなか売ってくれませんでした。商売ッ気がない、それでいて温かい不思議な味のある店でしたがいつの間にか消えてしまいました。

 以来48年間このストーブと付き合うことになりました。
 「ホェーブス625」はオーストリア生まれのストーブです。ガソリンと灯油用のノズルがついていましたが、灯油用のノズルは持ち歩くうちに紛失してしまい、以来ホワイトガソリン専用で使っています。いまならホワイトガソリンはカインズや登山・釣用具を扱う店などで1g入りの小缶を販売していますが、当時はガソリンスタンドで買うしかなく、それも18gの缶でしか販売しないということで保管に苦労したものです。オクタン価の低い「ストレートナフサ」ですが、ガソリンですから容器が暖められたり、日向に置くことは危険です。静電気が発生するようなポリタンクも携行するには危険です。揺らすと火災の原因になります。
 いままでメンテナンスは調整弁を1回ばらし、ポンピングの皮を2回交換しました。この皮は皮のベルトを切り自作し、グリースを塗って押し込みました。結構うまくいっていまでも問題なく動いていてくれます。ニードルの針は折れないようこれだけは注意しています。
 着火にはプレヒートといってメタを使っています。1本を四つに折り調整弁を暖め、ポンピングしながら火が消える寸前マッチで火を点けます。メタが完全に消えても着火できますから心配することはありません。つまり、「ホェーブス625」は調整弁でガソリン蒸気と空気の混合気が暖められ、着火温度に充分達している状態になっていますからあとはちょっと火を点けるだけで燃え出します。
 むかしキャンプ場で女の子のグループがテントのなかで使っていて、ガソリンの蒸気がロウソクの火で引火し、テントに大穴を開けたことがありました。また吸っていたタバコの火で同じくテントを燃やしたパーティもありました。馴れてくると一旦消火したストーブを再度点火する際、不精して生のガソリンで点けたり、バルブを開けすぎ発火温度に達した蒸気を一気に出してしまうとこの手の事故が起こります。狭い密閉した空間でこの手のストーブを無頓着に使うことは要注意です。特に厳冬期などテント内で暖房に使うことなども慎むべきです。ちょっとした油断が命取りになります。寒くてもガソリンストーブでのクッキングは雪洞か外で行うことが原則です。
 「ホェーブス625」のケースの丸缶がパッキングに具合が悪く、キスリングに納まりにくいものでした。これが欠点でした。無理に押し込むことが多かった私の丸缶はもう一部がつぶれ錆びてきてヘナヘナです。この代用をいま考えていますが、14.5a×19aの寸法があればいいので、生ビールのアルミ缶で作ろうかと思案中です。風防も酷使したので錆びが浮き心配ですが、いけなくなったら代用品で間に合わせるつもりです。

 磨いてもあまり綺麗にならなかったですが、ひととき昔を思い出してしあわせな気分になりました。

(08/08/29)


果樹園にて

果樹園にて

 いまりんご園では摘果作業で大忙しです。
なにしろ時期が決まっているのでだらだらといつまでも続けているわけにはいきません。りんごは日、一日と成長していきます。この作業には各農園とも手馴れた熟練した人たちが作業にあたることになります。毎日入れ替わりで顔ぶれは変わりますが、子育て中の見目麗しい奥さんが5人、前期高齢者(国でいう)である私たち5人がチームとなって摘果をするわけです。摘果作業そのものはいらない果実を落とすだけのもので、その落とすルールさえ守れば特別難しい作業ではありません。ラジオを聞いたりして作業をしますが、この摘果作業での会話が面白いのです。

 わい化栽培なら二人、向かい合って作業をし、立ち木なら枝ごとに1人づつ木を取り囲むようにして取り掛かります。
ことしは私と同年輩の人が多く、公務員を退職し好きなことをしたいとこの作業にきた人や、長年勤めた会社をやめたのでちょっと体を動かしたいたい、家にいてなにもせずテレビばかり見ていても仕方がないので体を動かしたくなった、などお手伝いにきた理由はそれぞれですが、同年輩のよしみでラジオ番組などそっちのけで会話が弾むことがあります。
 ラジオで聞いたニュースや出来事、政治経済や社会のようす、はては自分の趣味や子どもだったころの思い出などがその材料になりますが、同じ作業をする同志ですから連帯感もあり、大人ですからことさら相手にごねたり、突っ込んだりしないので会話が楽しいのです。
 
 暗いニュースの世情が多いことに触れ、昭和20年代から30年代の社会を懐かしむ気持ち、「誰もが豊かになろうとして、がんばったあのころ」を共有できる年代はどうも私たちが最後のようです。夢を語るような話が一番楽しいのですが、歳をとり過ぎました。
会話のテーマとなったのは
 子殺し、親殺しと現代の犯罪
 子どもの教育
 病気・医療制度・介護保険のいく末
 国のありよう
 食糧自給率と食
 ガソリン価格の高騰
 農業のいく末
 こどもだっころの思い出、遊び 
 若かりしころ好きだった映画作品、スター、歌
などですが、これがさまざまに絡み合って複雑な話の輪を作るのです。
 具体的に、「子殺し、親殺しと現代の犯罪」からは、犯罪のありさま、子を突き落としたり、ホームから背中を押したり、切り刻んだりということが「感覚が違う。ここまできたか。まだこんなもんじゃすまねえじ。人が恐ろしい。」から「子どもの教育、生活のありよう、学校と親、地域社会のありさま、老人と子ども、病、医療、介護、国のありさま」へと続いていくのです。
 まさに複雑怪奇なな現代社会のありさま、ありようが、摘果作業の合間に語られていきます。
皆さん40年間を働いてきたという自負と哲学をお持ちの人たちですが、お互い最後は諦観にも似た心情になり、ひとしきり会話が途切れ、沈黙が続きます。

 若い奥さんたちは年寄の会話をどう聞いているのでしょうか。
 老人がむかしのことを懐かしむことは、立ち止まり、現在、いまを確認することなのではないのかと最近考えるようになりました。
むかしのことをことさら美化するつもりはありませんが、いま、この時代が追い求めるものが幸せなものでない場合、老人としてこれに異議を申したてることにやぶさかではありません。
 声が高くなりましたが、若い人たちに「理想の大人」になれたか、努力をしたか、このようないまのような社会の土台をつくったのはあなたたちだといわれればどうしょうもありませんが・・・。
 老人同志がお互いに相手の体のことを心配するのも、自分の立っている位相を見極めるために必要な作業なのではないかと思うようになりました。若い人にはテンションの低い話と嫌われますが、これは歳をとればわかるでしょう。そのころにはもういませんが。
 いまの世の中、こうした仕事で少しでもお手伝いできることがあと何年できるか、迷惑にならずに何年生きられるか、そのときあわてず、騒がず静かに逝けるか心配ですが、それまでもうすこし元気をだしてがんばるつもりです。りんご園の会話は自分を見つめる会話なのです。

 (08/06/04)


塩尻市有害図書類等の自動販売機等の規制に関する条例案について

塩尻市有害図書類等の自動販売機等の規制に関する条例案について
 
 塩尻市はこの25日、「市有害図書類等の自動販売機等の規制に関する条例案」を公表した。
いままでこれは大人の問題だとして見守ってきたが、ここにきて定例議会も始まった。私も塩尻市民として「条例規制反対」と声を上げることにした。
 
 きっかけはこうだ。
 信濃毎日新聞[信毎web」「有害」自販機規制条例を要望 塩尻市PTA連合会という昨年、11月28日の記事だ
 『塩尻市PTA連合会は27日、市が検討している「有害」図書類の自動販売機設置規制条例について、早期制定を求める趣旨の要望書を小口利幸市長に提出した。自販機が多い塩尻市は子どもの健全育成の環境が十分でない−とし、「条例を検討していることに感謝します」としている。 市は性的表現の量などによって図書類を「有害」指定し、自販機への収納を規制する方針。自治体による同種の条例に対し、県弁護士会は9月、「表現の自由との関係で問題のある規定」と指摘、安易に制定しないよう求める会長声明を発表している。 要望書を受け取った小口市長は「表現の自由への影響を主張する人がいるが、私はそのリングに乗る気はない」と述べた。PTA連合会の平林健会長(43)は取材に「内部で『表現の自由』を侵す可能性が話題になったことはない。子どもへの悪影響排除が第一だ」と話した。連合会は市議会議長や市教育委員長らにも要望書を提出した。』というものだった。

 一番驚いたのは市長が「表現の自由への影響を主張する人がいるが、私はそのリングに乗る気はない」と述べた。という部分だ。
これはおかしい。
 市長が自らリングに乗ったのではないか、乗せたのではないかといいたい。『表現の自由』が取り上げられるようになると「私はそのリングに乗る気はない」という。
「依らしむべし、知らしむべからず」ということがあるではないか。これは最近では逆の意味に解釈されているが、本来は為政者が民をして信頼させ、従わせることはできるが、民の一人一人にまでことの真意や真相を知らしめることは至難であるということをいったものだ。だから為政者は常に十分な説明をしなければならない。
 市長のいうことは多分こういうことだろう。条例は「有害」図書類の自動販売機の設置規制をするもので、検閲や表現の自由の侵害をするつもりはないと形式的な論理をふりかざしているとみたい。だがこの論理は破綻しているとみる。
 なぜ、県弁護士会やメディアが慎重な姿勢をとるかというのは「表現の自由」という大きな問題があるからだ。
憲法では自由の侵害を禁止したり、自由を保障する規定が定められている。この目的は個人の生活の活動を国家の権力によって干渉されたり、妨害されることがないようにするものだ。このような性質をもっているものは自由権と呼ばれ「表現の自由」もそのなかの一つだ。
 
 実際は「市有害図書類等の自動販売機等の規制に関する条例案」を読むとよくわかる。逐条ごとに細かくここでは取り上げないが条例案は、有害図書類の指定は包括指定と個別指定を導入、指定について市長は「塩尻市青少年健全育成審議会」に諮問して審議会の意見を聴いた上で指定するということになる。「有害」ときめるのは審議会といえよう。ここで規則に定める基準に該当する卑わいな姿態等と有害がん具類が有害と指定される。審議会の組織は委員15人で任期は2年、委員は識見を有する者のうちから市長が委嘱するとしている。
 また市は立入調査にもふれている。
 第17条で「市長はこの条例の施行に必要な限度において、その指定する職員に、営業を行っている時間内に、図書類又はがん具類の自動販売機等の設置場所に立ち入らせ、当該自動販売機等を調査させ、関係者に質問させ、又は関係者から資料の提出を求めさせることができる。
2 前項の規定により立入調査をする職員は、その身分を示す証明書を携帯し、関係者の請求があったときは、これを提示しなければならない。
3 第1項の規定による立入り、調査、質問又は資料の提出を求める権限は、犯罪捜査のために認められたものと解釈してはならない。としている。
この条例には附則がついている。附則の3に塩尻市特別職の職員等の給与に関する条例の一部改正があり「国民保護協会の委員」を、「国民保護協会の委員」と「塩尻市青少年健全育成審議会の委員」に改めるとしている。なんでこんなものがついているのか。この改正は立入調査に特別職をつくり関わらせるものなのかはっきりわからないが、なにかきな臭い臭いがするものだ。

 長野県は全国で唯一、県レベルで青少年保護の条例を作っていない県だ。誇ってよいことだ。条例がないことで非行や犯罪が増えたという事実はないという。だが、ここ数年、長野県内で「東御市青少年健全育成条例」や長野市の「青少年保護育成条例」、佐久市で「有害図書類等の規制に関する条例」が相次いだ。今度はわが塩尻市だ。
 市は有害図書類の指定について「青少年の性的感情を著しく刺激し、その健全な育成を阻害・・・」「青少年の粗暴性又は残虐性を著しく助長しその健全な育成を阻害・・・」などと規則に定める基準に該当するものを「有害」と指定するといっている。これが市の定義だが、はっきりいってなんだかわからないものだ。青少年には確かに性的感情はある。これは認めよう、だが青少年の粗暴性又は残虐性とはなんのことだ。「酒鬼薔薇事件」のような性状を等しく青少年が持っているものとしてみているのか。この事件は報道の自由が問題になった。
「有害」を国や地方自治体が判断することは憲法の保障する「表現の自由」保護されるべきものに対する挑戦だとみてもいい。自由権には「情報を受け取る自由」「知る自由」もあるのだ。性表現の自由も例外ではない。これらに国や地方自治体が制限を加えることは間違っている。
 冒頭の新聞記事にもあるように塩尻市PTA連合会は、塩尻市は子どもの健全育成の環境が十分でないとして早期制定をもとめ、「内部で『表現の自由』を侵す可能性が話題になったことはない。子どもへの悪影響排除が第一だ」と塩尻市PTA連合会長が述べている。これは自分たちを自分たちで市に売り渡しているようなものだ。

 保護者はこの問題についてどう考えているか、学校の教職員はどう考えているかをある市会議員のホームページで知った。この市会議員は「有害自動販売機の状況をふまえ、有志の議員2名とともに学校関係者(PTA・教職員)と図書販売事業者のみなさんを対象に、今回の有害自動販売機の規制条例に対してのアンケートをおこない、その報告書がまとまりました」と報告書「有害図書自動販売機に関する意見調査報告書」をPDF で掲載している。
 26ページにわたるものだがアンケートの設問が書かれていず、学校や保護者がどこでどのように答えたのか詳しいことはわからないが、ここはリテラシーを働かせて 報告者の意図や教職員・学校や保護者の意見を読み取られたい。読み方によってはこれは興味深いものである。
 こういう状況のなかで議会で可決され運用されるようになると思うと薄ら寒くなるものだ。親や学校の教職員が子どものためだ、青少年のためだといって意見を述べている。親(保護者・大人)がみたくないもの、その辺にあっては困るもの、見せたくない嫌なものを排除し子どもはこうあるべきだと述べている。
 子どもに対し「悪影響を与えるものを排除」することに力点が置かれ、本質の部分「有害とはなにか、何がどう悪いのかや、猥褻はなぜ悪いのか。猥褻だとなぜいけないのか、十分な育成環境とは、青少年の健全育成とは」ということが論議されているようにはみえない意見だ。
 要は「子どもがどう思うとどう考えようと、大人がそこらに在っては見苦しいものはだめだ」ということなのだ。子どもの考えなどだれも聴いていない。
 「猥褻」とは個人、個人で大きく異なるものだ。おなじものを見た人でもある人は猥褻で、ある人は猥褻と受け取らない人もいる。そのくらい難しいものを誰がこれは「有害で卑わい」「有害」でないと判断するのか、国や自治体が判断していいのかという議論があまりにも少ない。
 もう一つこの報告書で気になることがある。学校・教職員の意見だ。どんな形で学校・教職員に対しアンケートがとられたかが明記されていないので詳しいことは避けるが、学校・教職員の意見がこれでは困る。どこかに管理されて思うことがいえないならこれも問題だ。教職にあったら子どもたちには今回の事例を題材にリテラシー教育や憲法をきちんと理解させて欲しい。せめて「有害」を判断するのは個人であって国や自治体ではないということを伝えて欲しいものだ。
 この報告書でまともに感じたのは図書販売事業者の意見だ。書店などは自主規制が進み、以前は猥褻文書販売罪などで摘発されたが社会通念の変化もあり、最近では性的表現の自由、価値観の多様化などの観点から犯罪でなくしょうといわれてきている。裁判になっても原告側が負ける場合が多くなってきているのだ。販売する現場はいまどんな状況にあるかわかっているのだ。

 塩尻市のやり方は市民を一人前の大人とみていない。
どうも「塩尻の人たちはまだ子どもだから、幼稚で自分で判断できないようだから、識見のある私たち(市)が判断してやりましょう、決めてやりましょう」といっているようなものだ。大人(自分で判断できる)になっている人からみれば余計なお世話だ。こんな調子で条例案の「第2条 この条例は、前条に規定する目的を達成するためにのみ適用するものであって、これを拡張して解釈することにより、何人に対しても、その自由及び権利を不当に制限するようなことがあってはならない」が本当に確保されるのか疑問だ。踏み込まれてからではどうにもならないからだ。
 市の考え方については『「塩尻市有害図書類等自動販売機の規制に係る条例」案の骨子等に係る意見の概要と市の考え方』をみて欲しい。ここで意見の概要と市の考え方がよくわかる。ここで条例案の骨子等に反対する意見にうなずくか、市の考え方を良しとするか判断をするのはあなたしだいだ。

 私もかって子どもであった。
親に隠れて市が指定するような卑わいな姿態等のものを読んだりみたりしたことはある。親戚のおばさんに「まだ早い、大人になったらいくらでも読め」としかられたこともある。これは裏があり、親がしかるよりもと思って親戚のおばさんにいってもらったというのが真相だといまではわかる。親はちゃんとやるべきことをやったのだ。
 子どものころにはこうしたことを大概の子どもはなんらかのことで通過儀礼のように経験していることだ。
 高校生になると生物の先生がとてもいい先生だった。生物(生き物)のことをきちんと教えてくれた。「動物のあれ(交尾・性交)は生物学的にいうと粘膜と粘膜の接触であり、子孫を残す行為だが、人間だけは不思議な思考や幻想を持っているから諸君は若いから、気をつけたまえ」人間も生き物の一つであることを、大人になるということ、おとなとはどういうことなのかも教えていただいた。
 担任の蔬菜の先生も「知っていることで損なことは一つもない、何でも知ることは大事だ」が口癖の先生で「本がなければ新聞を隅から隅までよめ、裏もわかるぞ」といわれた。いまでいうメディア・リテラシーだ。あだ名は「チャンスの神さま」で「チャンスの神さまは頭の後ろに毛がない。前から見ていると神様だとわからないが、後で捕まえようと思っても禿げだから捕まえられない、そのとき後悔するな」が持論だった。「錠の構造を知っていれば泥棒がどう開けるかわかるから、なんでもいい知ることだ。だが泥棒はいけんぞ」ともいった。いい先生に恵まれた。
 子どもをいつまでも子どもと思ってはいけないのではないか。いつまでも子どもは無垢で純情なものとしてみていてはいけないのではないか。市で定義する18歳以下の子どもでも自分で考えて判断できる子はもう大人である。歳だけとっても自分で判断できない大人もどきが条例などをつくって規制することはいけないことだ。
 「表現の自由」といっても満員の映画館の中で火事でもないのに火事だということや、幼児虐待やレイプなどの表現は人としてやってはならないことで明白だ。憲法でいう人権の本質を踏みにじる女性の性の商品化や、人たる尊厳をないがしろにする大人を子どもたちは知っている。子どもは大人の醜いところ偽善には敏感なのだ。私たち大人は、自らの社会のあれこれをどれだけ正しく伝えているかが子どもたちに問われている。
 PTAの悪影響排除という背景をわからないわけではないが、あまりにも抽象的で具体的なものが欠けている。親は子を監督し、保護することは当たり前のことだが、一歩進めて本来親のなすべきことは何なのか、いま親が何をやらなければならないか、青少年の健全育成とはなんなのか、を考えるときではないだろうか。
 条例案では第5条で市民の責務として保護者の役割を述べている。「その監護する青少年を健全な環境の中で心身ともに健康に育成するように努めなければならない」としているが、青少年の健全な環境とは憲法でいうもろもろの権利がある社会のことだ。みたくないもの、嫌なものがあっても排除するでなく許してみることができる社会だ。それを規制することを自治体自身が行おうとしているのに「はい、ごもっともです。賛成です」と私はいえない。
 
 憲法を久しぶりに読んだ。いい憲法だと本当に思う。私が小学校へ入学したときに施行されて時代とともに生きてきた。ともすれば暮らしのなかで忘れていたが、もっと大切に考えなければいけないことをあらためて学んだ。
 議会はまもなく始まるが、議会で議員は何が大切か真剣に議論して欲しい。この条例案は議会の福祉教育委員会に付託されるようだが、一般質問を含め議員の発言を注視したい。否決されるのを願うが可決された場合「有害」を決める「塩尻市青少年健全育成審議会」の委員になる識見を有する者の名は覚えておこうと思っている。
 市の職員は『すまじきものは宮仕え』と最後は尻(ケツ)をまくればなんのことはない。それとも『あわぬは君の仰せ』か。こんな条例を自動販売機うんぬんといってつくる市を私ははずかしくおもう。

(08/03/01)


塩尻のむかしばなし

塩尻のむかしばなし

 むかしむかし、信州に塩尻というところがありました。
ここに住む人たちはみんなおだやかで、めぐまれた自然にかこまれながら豊かな暮らしを楽しんでいました。
 あるとき、一人の男が山にはいり狩りをしていると風の音といっしょにふしぎな声が聞こえてきました。 
「くう、くう」と人が泣いているような声です。男はびっくりしてあたりをみまわしましたが、じぶんのほかにだれもいません。
男は怖くなっていちもくさんに村へにげかえりました。

 村へかえった男はふしぎなできごとをむらびとに語りました。
むらびとたちは気のせいだとかいってしんようしてくれません。「ありゃなんだったずら」と男もよく確かめもせずに帰ってきたことを後悔しました。
 男はまた、勇気を出して山にいってみることにしました。

 このまえ声が聞こえたあたりにくると、にわかに空がくらくなり風が吹き渡りました。
男は怖さをこらえ声が聞こえないかと耳をすませました。
 すると突然「おまえ、またきたか」と恐ろしい声がしました。男は小さな声で「はい」といったまま、怖さで這いつくばってしまいました。
恐る恐るあたりをみまわしても誰もいません。深い森が続くばかりです。
「わしは自由の神だ。お前たちが何をいおうが、何をしようが許してきたが、自由を大事にしていないのではないか。おまえたちはよくわかっていないようだから、 これからはお前たちを一人ずつ喰うぞ。帰って相談しろ」といいました。
 男はびっくりして逃げるように村へ飛んで帰りました。

 男は村のおさに相談しました。
むらおさは人々をあつめ、どうしたらよいか知恵をかりることにしました。一人ずつ喰うという恐ろしいはなしですから子を持つ親や、村をつかさどる主だったものにはなしをしないわけにはいきません。みんなはおおさわぎでした。相手は神さまですからその相談はすべった転んだとか、なんのかんのといって一年あまりも続きました。
ようやく相談がまとまったのは梅の花がほころぶ春がくるころでした。
 村は、「自由の神さま」と接触することを禁じました。自由の神さまを呼び出したり、連れてくることも禁じました。約束を守らないものは罰するというきびしいものでした。これは神さまと会わなければとって喰われることはないからです。村のきまりは決まったのですが、むらびとも自由の神さまについてあたらずさわらずに、おこらせないようにしようとおもいました。

 男は村の返事を伝えようとまた、神さまのいる森にむかいました。
神さまの声が一陣の風とともに男にとどきました。「わしが満足するものではない。お前は喰わないが一人ずつ喰うことに決めた」と男には聞こえました。
 男は村に帰って村のおさにいいました。
「一人ずつ喰う」と神さまはいっていると伝えました。男はじぶんだけは助けてもらえるという、ただそれだけを頼りにしていました。

 それからは男が森に入っても自由の神さまの声は聞こえなくなりました。
ほどなく豊かだった村やむらびとにも変化がおこりました。いつのまにか自由がなくなりだんだんと窮屈になり、つまらぬことでいさかいがおこるようになりました。むらびとも「さわらぬ神にたたりなし」ときめていたのですが、村から一人、また一人と消えていく神さまのしわざに恐れおののいていましたが、どうにもなりませんでした。
 
 ほどなく男は一人ぼっちになりました。
村には人がいなくなってしまったのです。
 男はじぶんだけが助かったことをうしろめたくおもいながら、神さまが大事にしないものは喰うぞといったときに、なにかできなかったかを後悔しながらだれにも看取られず寂しく死にました。
 さいごの言葉は神さまだけがきいていました。それは「自由がいい」ということばでした。神さまは満足していました。

 それは、むかしむかしの2008年の春のことでした。

 (08/02/12)


明暗をわけた遭難事故

明暗をわけた遭難事故
 
 暦の上では春だというのにスキー場で二つの事故があった。
ひとつは、北安曇郡小谷村の栂池高原スキー場林間コースで3日、スキー実習中の愛知大(愛知県豊橋市)の学生と非常勤講師の7人が巻き込まれた雪崩事故である。もうひとつは広島県安芸太田町横川、国設恐羅漢(おそらかん)スキー場でスノーボードをしていた男性7人が、3日午後3時30分の連絡を最後に消息を絶ち、行方不明になっていた遭難事故である。この事故の結末は片方は2名死亡、もう一方は7人全員が救助され明暗をわけた。

 気の毒だったのは栂池高原スキー場でスキー実習中に、立ち入り禁止になっていたコースで雪崩にあったことだ。女子学生7人は指導者の非常勤講師2人に引率されコースに入ったが雪崩に巻き込まれたという。重体となった2人を除く5人は自力で脱出、残りの2人は巻き込まれなかったが、二次災害を避けるために雪上車は林間コースを迂回、現場に到着したのは発生から1時間半後のことだったという。救出された二人は4日相次いで搬送先の病院で亡くなった。
 
ここでは立ち入り禁止コースになぜ入ったかが問題とされている。
引率講師は事故当時立ち入り禁止を認識(知っていて)したうえで滑走したことを認め、「圧雪車が来る前のコース閉鎖だ」と思ったという。地元の大町署は業務上過失致死傷の疑いもあるとみて事情を聞いているという。
 栂池高原スキー場は大きなスキー場だ。初心者から上級者まで斜度も長さも幅も自由に選べる数少ないスキー場だが、難点もある。それはゴンドラリフトがあることだ。これに乗った初心者は栂の森から林間コースを滑るか、ちょっと上手ならはんの木ゲレンデに出て、丸山ゲレンデに降りてくるというのがいいコースだろう。
 愛知大のパーティは午前中に林間コースを利用したということが引き金となってしまったようだ。ゴンドラ乗り場からそれゆけどんどんで栂の森までいってしまうと、初心者が滑り降りるコースは林間コースしかない。
 
 愛知大のスキー実習というものがどんなものかわからないが、初心者にスキーを学んでもらうのが目的なら、ここは地元のスキースクールを利用することを考えてもよかったはずだ。地元のスキースクールは基礎から体系的に教えるから、初めての学生をゴンドラで上に連れて行くようなことはしない。この実習がスキーの楽しさを知ってもらうためのものだったら、栂の森まで行く必要はなかったように思える。チビッコゲレンデや鐘の鳴る丘ゲレンデでも、親の原やからまつゲレンデでもよかったのではないだろうか。
 スキー場に着くと誰もが気分は高揚する。まるっきり初めて人は無理はしないが、一緒に行く仲間が多いと互いに無理をしがちだ。自分の技量より高いところを望みやすい。競争意識や対抗意識もあり斜度の緩いところで滑りたいとなかなかいえないのだ。引率講師がこのあたりをどう判断したのだろうか。

 雪崩は直接的な原因だが、楽しませてやりたいという引率講師の気持ちがつよく作用したことは否めないようだ。その気持ちに引きずられて林間コースが立ち入り禁止になったことを知ったとき、引率講師はゴンドラに乗って帰るか、はんの木に出るか、閉鎖された林間を下るか悩んだに違いない。一番下手な人を標準に安全に降ろそうとした結果が林間コースとなってしまったものだろう。午前中にはここを降りているということも強く作用している。
 斜滑降やボーゲンで、何回もターンしてはんの木から丸山に出ようとは考えなかっただろう。初心者は平均斜度が15度以上になると見下ろす感じからとても急な坂にみえる。降りる技術や制動の技術がない初心者をここまで連れてきたとすればもう論外だ。そうなれば最終的にはゴンドラで帰るよりない。

 学生はいずれもスキーは始めてだったというから、ゴンドラに乗って栂の森に行ったこと自体に、このスキー実習の問題点がある。安易にしてしまったのが林間コースを午前中に滑り降りたことだ。早く帰りたい、ここを滑れば帰れるという思いは強かっただろう。
 立ち入り禁止から約150b進んだところで、雪崩の跡をみつけたというのだから直ちに戻る判断をすべきだった。午前中に滑れたところに新しい雪崩があったのだから考えている暇なぞなかったはずだ。戻るべきだった。時間が午後4時というからスキー場では遅い時間だ。今は夜間でも滑れるようになっているスキー場が多いが、午後は疲れから転倒や骨折、捻挫が多くなる時間帯である。この時間帯にスキー場の上部にいたことも初心者に適当であったか疑問だ。上級者の下りはあっという間だが初心者は時間がかかる。時間に余裕のない実習ではなかったか気にかかる。
  
スキー場の安全管理にも問題がある。
 雪崩の危険があるようなコースだったらコースそのものを閉鎖すべきだ。使えないようにすることが第一だ。はんの木から入れなくすることが今後このような事故を防ぐことになる。ネットなどの簡単なものでなく雪崩が起こりうることを伝えシーズン中は大型なゲートで封鎖すべきだ。
 栂の森ゲレンデは標高も高く粉雪の滑りに人気があるが、ここは緩斜面を犠牲にして上級、中級ゲレンデとして利用することにしたらどうであろうか。初心者にはゴンドラ乗り場やリフト乗り場で初心者用のゲレンデがないことの案内を徹底すべきだ。栂の森上部は春5月まで滑れるが、雪崩が起きそうな谷筋、沢筋をまたぐ林間コースを組み込んでいること自体今後もこの種の事故は起こりうる。初心者はいまどき大事なお客様だ。これからも長くスキーを楽しんでもらうためには安全が第一だ。
パトロールなどきめ細かく行う必要があると同時に、利用するお客にゲレンデ情報を正しく伝える努力をすべきである。利用者も自分の技量を知りゲレンデを選んで欲しい。
 雪崩にさえあわずに帰れれば、立ち入り禁止を破って帰ったと笑い話ですんだ話だが暗転してしまった。
 
 おなじ日もう一つの事故があった。
 広島県安芸太田町横川、国設恐羅漢スキー場で3日、夕方からスノーボーダー7人が消息を絶ち、行方不明になっていた事故は、5日朝42時間ぶりに全員が発見された。こちらは県警や地元消防、陸上自衛隊などの捜索隊が編成され、ヘリも飛ぶおおがかりな捜索を行っていた。
 3日夕方、7人は旧恐羅漢山から広島県側に下りようとしていたが、方向を見失い島根県側に下りてしまったが、日没直前の午後5時か6時ごろ偶然、廃校舎を見つけ小屋の板でたき火をたいたり、部屋にあった毛布やポリ袋をかぶるなど、一袋のあめで暖と飢えをしのいだという。
 4日は携帯電話の通じるところまで下りようとしたが、吹雪や積雪に阻まれたという。食事はこの日はとらなかったという。5日朝、ヘリの音を聞き畳を燃やすなどして合図、国道を約1時間歩いたところで捜索していた自衛隊員に発見された。

 廃校舎を偶然見つけたときはうれしかったであろう。地獄に仏だったに違いない。
搬送先の病院で「山を甘くみていた」と語り、「次の日になっていれば体力がなかった」と救助に感謝したという。全員無事でほんとによかった。今度のことで全員が肝に銘じたことだろう。

 ゲレンデ外で滑走を楽しんだことに批判する向きもあるが、今回の青年たちは40代から30代でスノーボードの経験が長かった。当然ゲレンデではなく雪の深いところでの滑走は魅力であったろう。これは心あれば誰でも通る道だ。ゲレンデでおとなしく滑ることに飽きたのだ。
 だが、準備が悪かった。
 ゲレンデ外は何が起きても不思議ではない。滑る技術以上に山をみる目が必要とされる。テレビで彼らをみたが持ち物を持っていないのだ。ゲレンデ外で滑るのだからザックに一通りのものを入れていくのが普通だろう。携帯ガスストーブと栄養補助食品一箱、あめ一袋が7人の命をつないだという。幸い、廃校舎があったからよかったものの、何日も続くような悪天の場合どうなったかわからない。
 この7人は2人と5人の混成パーティだった。先の5人パーティに、あとから出発した2人が合流したもので、誰がリーダーか決めていなかったというが、負担の重い先頭を交代で務めたというからチームワークはよかったのだ。彼らは反省で「それが問題であったとも思う」と述べている。きちんとものを考えられるようになったのだ。リーダーはいなかったが「絶対に皆で帰ろう」と励ましあい、廃校舎の木の板をはがし交代でたき火の番をし、携帯用の鍋で水をつくったという。

 帰れば帰ったで大勢に迷惑をかけたのだから批判は受けるだろうが、「生きてこそ」だ。今回の教訓は身に沁みるものだったろうが好きならまたやればいい。
だが、今度は計画をきちんとつくり、どこにゆくか計画書を出し、装備を持ち、もしもに直面したら廃校舎や小屋がなくても生きられる技術を今以上つけて欲しい。食 べるものさえあれば、昔と違って衣服は格段にいいのだから雪穴を掘っても一週間くらいは生き抜けるはずだ。人間は勝手なもので極限に近くなると仲たがいをする人もいるが、君たちは仲がよかった。これは誇ってもよいことだ。
 若く体力はあるのだから今度はひとまわり大きくなることだ。がんばれ、青年。

 (08/02/08)


同級会 

同級会
    
 塩尻中学を昭和30年(1955)に卒業した同級会があって2年ぶりに出た。
2年ぶりといっても昨年はやらなかったから、ここ数年の同級会には欠かさず出ていることになる。幹事さんが乗り合わせで行こうと、奥さんの運転する車で迎えに来てくれた。計、5人で会場に行く。 私は途中で並木町のイチョウの数を数えたいといって、市役所前で降ろしてもらった。

 市役所前の街路を往復し、気になっていたイチョウの並木を数えて会場に向った。
すでにみんな集まっており私が最後だった。今日の出席は14名だということを知った。宴席の用意は整っていた。 お決まりの幹事挨拶があり、乾杯の音頭のあといつもの通りの宴が始まった。

 「同級会」というのは学校という入れ物のなかで、同級生が同じ時間をすごしたという共有感をあらためて確認するという儀式であろうか。
学校というところはパブリックなスペースで、制度として年齢別に分け、一絡げにして先生が教育をするというところで、その空間にいるものは教育されるものとして管理されるといったら語弊があるだろうか。
 学校は子どもを一人の子どもとしてみない。ひとり一人の感じ方や考え方を斟酌しない秩序性を持っている。
 廊下は走ることは禁じられ、清掃をしない者、衛生に無頓着な者、授業中のおしゃべりや整理整頓ができない者、がやがやしたり列を乱すもの、生意気な言動をする者、脅かし扇動するような者、目新しい物を持ってくる者は秩序を乱すもの「悪い子」として扱われる。
 子ども本来の姿を奪い、管理することによって秩序を維持するという公的な強い性格を持つため、従順な枠に嵌まる子どもが「良い子」として好かれるのだ。
私たちの学校には当時、公民委員会という委員会があった。文字通りの「公民」で学校ですごす資格のある生徒、規則を守る「良い子」をつくる委員会があった。

 登校から下校まで時間によって管理されるため、子どもが本来の姿を取り戻すのは至難の業だ。
授業中、子どもたちは個としての本質的なものは埋没して、教育されるものにならなければならないのだ。休み時間や終業時間になると解放されて本来の個を出す。休憩時間の長い昼休みも本来の自分を取り戻すいい機会となる。「鬼ごっこ」をしたり、「キャッチボール」をしたり、近くの川へ「川遊び」に出かける子どももいる。また、気の合った友達と本音で語り合える時間だ。秩序を乱す「悪い子」とされた個が、私的なところでは良い友になるということが起こり得る。秩序を乱す者でもかけがえのない友になり得る。また、公的な「よい子」が公的な「よい子」とつきあうことも、またその逆もあるのだ。
 タテマエとホンネ、公と私が使い分けられる時間が学校にはある。皆そのことをおぼろげながら知っている。「同級会」というのは、過去のそれを現在の時間のなかで追認してみせる作業ではなかろうか。
 
 同級会の宴は少しずつ盛り上がる。
 宴たけなわになったころ、栃木から来た君に「おい、犬山道節元気か」と聞かれた。一瞬戸惑っている私に、彼は「はっけんでん、八犬伝」といった。「ああ、そうだ。俺は犬山道節だったなあ」と酔いのなか、当時の出来事が走馬灯のようによぎった。私は急に14才の少年になってしまった。
 栃木の君は続けて聞く。「俺がなにになったか覚えているか」いくら頭を絞っても浮かんでこない。降参すると「信乃、犬塚信乃」という。すると、今回の幹事役が「俺は犬飼源八」とかいうので、私の頭は混乱しますます酔いが深まった。
 当時「里見八犬伝」という映画が人気をはくし、東千代乃介、中村錦之助主演で上映されていた。シリーズものだった。この映画をみたくて私たちは苦労したのだ。
 国語の授業では「南総里見八犬伝」の作者は滝沢馬琴と教えられていたが、テストに出るくらいでこのおどろおどろしい物語を教えてくれる先生はいなかった。私 たちは秩序を乱すものとして公に隠れて観にいったのだ。入場料をどう工面したか覚えていないが、多分、学校の授業で使うとかいって親をごまかしたものと思う。「悪い子」だが、映画はそんな子どもを区別せず面白かった。
 そういえば休み時間に皆して廊下で八犬士の真似をして楽しんだものだ。美女「浜路」悪女「船虫」を同級生の誰にするかでもめたこともある。私は犬士ならなんにでもなれたのに何故、「犬山道節」になることを選んだのだろう。強制されて選んだ覚えはないから、自分で「犬山道節」になることを選択したに違いない。短気でそれでいてクールな忍者という設定に惹かれたものか、私にも短気なところがあるから自分で納得して選んだものだろう。それとも「忠」の珠に惹かれたのか自分でも定かでないのに、それにしても彼は良く覚えていたものだ。
 今まで同級会に出席していても二言三言、言葉を交わすくらいで、ろくに話もしなかった彼に、50年以上前の時間を思い起こされるとは「同級会」とは怖いところだ。彼はいつかあの時間を私と共有しようと時の訪れるのを待っていたのか。
 今日のような少年の日の朧な思い出は心を楽しくする。公たる学校での苦い体験や思い出は山とあるが、私的に共有した楽しい時間がある日ふっと甦るのだ。

 いいことばかりではない。同級会で昔の少年のままに、同性に対し姓を呼び捨てにすると本気で怒る人がいる。
「おい、君をつけろ。さんと呼べ」というが、それこそ傲慢ではないかと思うのだが、同級生に親しみを込めて昔のように呼んだとたん怒られたのでは立つ瀬がない。名なぞ呼ばなくても「おい、やい、」「おう、うん」ですんだ間柄ではないか。かってあった時間はここにはもうないのだ。これだから同級会は殊更に好きになれない。
 同級生で同級会だから呼び捨てが許されるというふうに思ってはいけないのだ。同級会でも礼節を欠いてはいけないのだ。公民を捨ててはいけないのだ。 意識しない何気ない言葉で誰かが苦い思いを抱いているかも知れないのだ。私は同級生の同性に行儀の良い「・・さん、・・君」などと呼ばれたら「ああ、遠くなったなあ」とその人との距離を感じるのに、人という者は不思議なものだ。

 「同級会」は公である学校を母体にしたものであるから、秩序を色濃く内包しているのは仕方ないだろう。だから私的な個はあまり歓迎されないということになるようだ。同級会にはホンネで語り合えない難しさ、もどかしさがある。同級生のなかに話せる親しい友を持ったものにとって同級会は幸せの舞台だが、そうでないものには意味のないものになりかねない。

 来年の幹事も決まり、記念写真を撮り、万歳をして幹事が手配してある二次会の会場に向うことになった。
「里見八犬伝」にうれしくなった私は会場にデジカメを忘れて出てしまった。どうも私の頭は消費期限切れのようだ。酔いの回った頭で来年の同級会はどうしょうか 「浜路」「船虫」のことを彼に聞いてみようか、それともいっそ出席を止めようかと迷いながら風が舞うイチョウ並木を歩いた。

 (07/12/08)


映画 「狩人と犬 最後の旅」 フランス/カナダ/ドイツ/スイス/イタリア映画 2006公開

「狩人と犬 最後の旅」

 この映画は狩人と犬の物語だ。(原題はLe Dernier Trappeur/最後の狩人)
ロッキー山脈の山裾で罠猟(わな猟)をする猟師とそれを助ける犬ぞり犬(Dog Sled )の日々を静かに追った映画である。

 映画はユーコン川を下るカヌーと一頭の犬を映して静かに始まる。この物語の主人公ノーマン・ウィンターと犬のナヌークだ。
この物語の舞台となるユーコン川は、カナダのユーコン準州、アメリカのアラスカ州を流れてベーリング海に注ぐ川だ。全長3,700 km に及び、信濃川の約10倍の長さを持つ。信濃川の40倍という832,700 平方kmの流域面積を持つ大河である。
 導入部でユーコン準州の美しくも厳しい自然のなかの豊かな風景が紹介されてゆく。

 ノーマン・ウィンターは罠猟(わな猟)で生計を立てている。ネィティブ・インディアンの妻(ネブラスカ)とそりを引く7頭の犬と生活をしている。
なんでも自分の手で造る。カヌーを漆で修理したり、スノーシューの製作もお手のものである。彼はロッキーで生まれ、ここでしか生きられないが、猟に対して信念を持つ狩人だ。受け継がれた自然をより良いかたちで残そうとしている。彼は自分が生かされている生態系を調節することに意義を感じている。人間も生態系の中に組み込まれた生き物として生きていかなければならないことを知っている。ここでは自然と一体にならなければ暮らせないのだ。だがここ近年、森林の伐採が進み獲物が少なくなり、移り変わりがおかしいと感じている。森林伐採会社は一本の木も残さないのだ。
 彼は今季限りで猟を止めようと考えている。

 カメラはノーマン・ウィンターの生きるための日々を坦々と追う。
彼は強靭な肉体と精神で厳しい自然と闘う。冒頭に出てきた犬ぞり犬のナヌーク(リードドック・先導犬・Lead Dog)は、ドーソンの町で不慮の事故で命を落とす。心配した友人がアパッシュという名の生後10ヶ月の犬をくれるが、リードドックになれるか、猟に使え間に合うのかスノーモービルを使わない彼には不安だ。
 極北の地で猟をするのに犬ぞりは欠かせない。
冬、道の無い山野や捕獲した獲物を運ぶ手段として犬ぞりは大切な乗り物だ。彼の犬ぞりは7頭編成である。その先頭を走るリードドック(先導犬・Lead Dog)は、ほかの犬に比べリーダーシップ、スタミナ、服従性と併せ、マッシャー(犬ぞり使い)と対話できる知性が要求されるのだ。
 アパッシュは彼の妻ネブラスカによって徐々にその才能を開いてゆく。リードドックになるべくアパッシュはネブラスカや彼と信頼関係を築いてゆく。

 ロッキーが紅葉に染まる頃、冬が来る前に彼にはする仕事がある。
新しい家の建設だ。少なくなった獲物を考え罠道(わなみち)を移さなければならない。そのためには罠道の近くに家が必要である。彼は樹を切り、ログハウスを建てる。妻ネブラスカとの作業だ。丸太を組み隙間にはコケを詰める。

 狩の始まり雪が来た。
罠猟師には待望の季節だ。上質な毛皮が確保できるからだ。犬たちにも思う存分駆けることができる季節だ。駆けるアパッシュ、ノブコ、ウォーク、ミニク、プッシイーなど犬たちの表情がいい。犬たちとのスキンシップは欠かせない。
 猟師にも冬は危険な季節だ。ユーコン川は凍り渡河に危険はつきものだ。川に落ちるノーマン。零下30度を越す気温のなか、水に入ったら5分が勝負という。直ちに火を起し暖めなければ死が待っている。強靭な体力と精神力がないと生き残れない。

 ユーコンの自然のなかで罠猟師として生きるノーマン・ウィンターは実在の人物である。彼自身が本人を演じている稀な映画だ。そのためドキュメンタリーに近い劇映画となっている。
 監督のニコラス・ヴァニエは、犬ぞりでのシベリヤ横断など極北圏の探検・冒険家として知られているが、小説も書き、また、写真集、映画制作にも手を染める多彩な人だ。1999年に犬ぞりでアラスカを移動している最中にノーマンに出逢い、翌年の冬にノーマンに映画出演のオファーをしたという。
 

 この映画のなかでノーマン・ウィンターと彼の友人が語る言葉は大きな意味を持つ。

 「人間は自然との接触を失わず、環境を共有すべきだ。人類が生き残るには自然と共に生きることから始めねば」

 「動物を殺す理由を問われたら、皮と肉を採るためだと答える。許しは請わない。感謝する。ナスカビ族の教えだ」

 「罠を掛けるには時間と忍耐と集中力がいる」

 「極北地帯ではいま動物の数が減少している。猟師が減っているからだ。矛盾しているようだが我々なしでは動物相が乱れる」

 「罠猟師(トラッパー)は少数の獣を捕ることで動物の数を調整している。罠猟師は弱い個体を殺して種の無制限な増殖を防ぐ。強いものが育つ」

 「オオカミは犬を憎み、人間がいなければ瞬時に襲う。オオカミは決して人を襲わない。物語のなかだけだ」

 厳しい自然と調和しながらどう生きたらいいかをこの映画は教えている。声高に叫ぶことがないだけに余韻が残る。
音楽はクリシュナ・レヴィ。哀調を帯びた曲が情景をより美しくする。撮影はティエリー・マシャド。ユーコン渓谷の俯瞰、ビーバー、トナカイの群れ、ヒグマ、オオカミ、ヘラジカのショットとオーロラが輝く極北の風景を切り取ってゆく。
 犬が見事だ。そりにノーマンを載せ駆ける犬。可愛さとけなげさに涙がこぼれる。ノーマンの犬を見る目が優しい。ノーマンの飾らない自然な演技がいい。

 犬たちとの最後の旅はノーマンに希望をもたらすのか・・・。是非みて欲しい。

製作 2004
公開 2006/08
製作国 フランス/カナダ/ドイツ/スイス/イタリア
監督: ニコラス・ヴァニエ
製作: ジャン=ピエール・バイリー
脚本: ニコラス・ヴァニエ
撮影: ティエリー・マシャド
音楽: クリシュナ・レヴィ
出演: ノーマン・ウィンター
    メイ・ルー

(2007/09/25)


塩尻市のホームページのここが・・・

 塩尻市のホームページのトップに募集中の欄がある。「みんなで守ろう高ボッチ高原の自然 参加者募集!」の案内にいま、注目している。
塩尻市と自然保護ボランティアが主催で、7月16日に高ボッチ高原で行った催しだが、すでに終了しているにかかわらず、この催しの参加者を23日現在も募集をしている。これはどうしたことであろうか。

 一週間になるというのに市はなんと思って載せているのだろうか。それとも来年の募集を始めているのか・・・この募集欄は現在進行中のものを載せる欄だと思えるのだが・・・
好意的に考えると単なる間違いで、それほど目くじらたてるほどのことではないように思えるが、よく考えてみると市役所のありようが、かいまみえるような景色である。
 「みんなで守ろう高ボッチ高原の自然 参加者募集!」は、2007年7月9日更新と記されていることから、この日に掲載されたものと思うが、催しが終了したらそれなりの措置を講じることが必要だ。

 この催しを担当した課でチェックをしていない。
 自然保護ボランティアの関係者もチェックをしていない。
 ホームページを担当している課でもチェックをしていない。
 市長もチェックをしていない。

 誰もチェックをしていないのだ。
 市には立派な「行政改革アクションプログラム2007」がある。システムが機能していないのでは・・・
 これはかなり問題だ。

 「声の広場」へ私の声を届けようと思ったが、役所言葉で「行政が進めている行政改革が抱える、幾つもの大切な課題を提示していただき・・・」みたいな模範回答をされそうで、どう返答したらよいのか困るので、訂正されるのを待つことにした。
 いつ削除されるだろうか・・・
 私も意地悪じいさんになったもんだ。
 (07/07/23)
 追記 7月27日夕方みたら削除されていました。ネット社会は便利だなあ・・・ああ、良かった。
 (07/07/27)


市会議員選挙が終わった
塩尻市市会議員選挙開票結果一覧
当落 名前 今回得票 相対得票率 絶対得票率 前回得票 伸び率 備考
森川雄三 1698 0.0502 0.032
山口恵子 1636 0.0484 0.031
中村 努 1563 0.0462 0.029 2065 -24%
牧野直樹 1435 0.0424 0.027
永田 公由 1422 0.0421 0.027 1754 -19%
金子勝寿 1386 0.041 0.026
古畑秀夫 1250 0.037 0.024
中原 巳年男 1244 0.0368 0.023 1577.273 -21%
鈴木 明子 1226 0.0363 0.023 1409 -13%
永井泰仁 1221 0.0361 0.023
塩原政治 1212 0.0358 0.023 1199 1%
中野長勲 1172 0.0347 0.022 1516 -23%
丸山寿子 1161 0.0343 0.022 1408 -18%
太田茂実 1156 0.0342 0.022 1257 -8%
柴田 博 1153 0.0341 0.022 1087 6%
小野光明 1145 0.0339 0.022 1534 -25%
中原輝明 1145 0.0339 0.022 1313.726 -13%
青柳充茂 1096 0.0324 0.021 1344.384 -18%
白木俊嗣 1082 0.032 0.02 1404 -23%
金田興一 1077 0.0319 0.02
古厩圭吾 1056 0.0312 0.02 1175 -10%
今井英雄 1032 0.0305 0.019 1110 -7%
石井新吾 1025 0.0303 0.019
五味東条 949 0.0281 0.018 757 25%
武居博明 854 0.0253 0.016 864 -1%
樋口光久 790 0.0234 0.015 1128 -30%
伊藤秀文 682 0.0202 0.013 855 -20%
井野兼一 647 0.0191 0.012 880 -26%
青木博文 521 0.0154 0.01
野村みなお 479 0.0142 0.009 699 -31%
高木孝治 296 0.0088 0.006
得票合計 33811 100% 64% 30564 11%
議席あたりの票数 1409 1288 9%
当日有権者数 53052
有効投票数 33811

市会議員選挙が終わった。
 新聞の速報だけでは情勢が良くわからないので自分でつくってみた。
定員24名に対し31人が立候補するという選挙だった。現職5人が落選し、新人が6人当選するという結果になった。
現職議員が涙をのむ結果となったことについて新聞報道などでは、議員の若返りを有権者が求め、市議会の刷新を望む意思の表れと評している。
前回の投票率が62.45%で今回は64.37%と上がった。上がった分の票と引退した議員の空いた票を、皆で奪い合った構図のようにみえるが、新人に票が流れたのは確かのようだ。
 得票合計を前回と比べてみると、今回は11%も上がり、議席一人当たりの票数も9%上昇している。この割合を超えた現職議員は一人だけで、当落を分けた票の差は95票であった。前回よりボーダーラインは3.5%も上昇している。

 現職の議員の苦戦が目立つ。現職で票の伸び率がいいのは2人だけだ。
1人は組織票を満遍なく集めた結果で、もう1人は地域で空いた票をうまく取り込んだといえる。25%という大幅な伸びだ。伸び率が1%という人もいるが現状維持というところだろうか。前回より票を伸ばした人は現職で3人だけだ。

 あとの現職は軒並み票を減らしている。
当選した現職でも低い率が2人、20%を超える高い率で減らした人が5人いる。元職も前回より減っている。10%から20%台は6人で、確かに激戦だったようだ 。 落選した現職は1人を除き、高い率で得票を減らしている。20%から31%までに4人もいる。1%の減で落選した人もいる。

 現職で高い率で得票を減らしたにかかわらず当選した人たちと落選した人たちを分けたものは。
 地元や組織の基礎票を食い合った結果なのか。それとも政策に見るものがなく支持を失った結果なのか。はたまた、議員活動に批判がありそれで票を減らしたのか。論点や視点があいまいだった結果なのか。議会定例会での質問権を行使した結果なのか。おとなしく質問もせずにいた結果なのか。
 
 こんなに得票が伸びない塩尻市の市会議員って・・・。
当選したマイナス20%を超えた議員の皆さんは真摯に反省して欲しい。たった1%のマイナスで落選した人も今回の経験を生かして欲しい。当選した人たちは、組織や地域のしがらみに流されず、今後4年間市民に公約したことを守って、市政に取り組んでいただきたい。新人の議員の皆さんには、郷土の未来のため行政におもねず活動していただきたい。 


当日有権者数 男26160 女26892  計53052
当日有効投票数 33811
投票率 男62.80% 女65.90% 計64.37%

 相対得票率を%表示にしなかったのは、僅差の数字をみたかったためである。
 2003年の市会議員選挙 有権者数 : 49478人  投票者数 : 30900人  投票率 : 62.45% 
 現職で前回得票がない人は合併特例と補欠選挙によるため比較しなかった。

(07/04/24)


信毎の県議選立候補予定者アンケートが面白かった

 信濃毎日新聞社が3月7日に掲載した県議選の立候補予定者アンケートを読んだ。とても面白く、興味深く読ませていただいた。
塩尻市区も定数2であるが3人の立候補者予定者がいる。現職2人と新人1人が予定されているが、信毎の質問項目にそれぞれが答えているのを読むと、考え方の違いなどがわかって面白い。いや、本当に信毎に表彰状でも挙げたいくらいである。
 面白いなんていうのは「立候補予定者にとって失礼なことだ」「不見識だ」などと非難されても困る。
こちらは有権者で真剣に選ばなければならないからだ。これからの県政を共に考えていくために選ぶための材料がいる。信毎はそんな材料を一つ提供してくれた。
 メディアの情報を読むには注意が必要だ。
情報リテラシーなどと難しいことをいうつもりはないが、特にアンケート調査などでは、採り方、設問や質問項目、意見を言わせたりその枝分かれには注意が要る。今回の信毎の質問項目で特に注目して読んだのは村井知事・県政に対した立場と、穴あきダムへの評価、憲法改正は必要かの三点である。
 まず、県知事・県政に対する立場では
 是々非々と答えた人が多かったのに注目した。現職24人、元職2人、新人14人が「是々非々」を選んだのだ。
「是々非々」とは、善いことは善いとし、悪いことは悪いとするものを「知」、善いことを悪いとし、悪いことを善いとするのは「愚」であると、中国の儒家、荀子がいったが、さすがに荀子は深いことをいう。(注:荀子修身篇:是是非非謂之知,非是是非謂之愚)(是謂是 非謂非 曰直)
 立候補予定者の半数40人がこれでは選ぶほうの選挙民は困るのだ。長野県をどうしたいのかこれではわからない。
 この質問の選択肢は四つあった。支持する、是々非々、支持しない、どちらともいえないである。立候補予定者は考えたに違いない。この選択肢「是々非々」は信毎の質問の面白いところだ。こんな選択肢を出せば立候補予定者は渡りに舟と選んだことだろう。当たり障りなく選挙民にいい顔ができるというものだ。反面そのおかげで立候補予定者の本音がのぞけたことで良しとしょう。信念もなく地元住民の顔色を伺うような立候補予定者にこちらも用はない。
 支持する、支持しないと答えた人は自己の姿勢を選挙民にはっきり示し、いさぎよい。わかり易いからだ。「是々非々」を選んだ人は、荀子のいう「是々非々」を正確に解釈した人たちだろう。公のために私を捨てようとする皆さんで「知」であり、「愚」ではないと思いたい。これと浅川への「穴あきダム」建設を柱とする県の治水対策案を評価するか、という質問の答えを比較して読むと面白い。こちらは「是非」を求めている。ここでどちらともいえないというなんとも不思議な人たちがいる。信毎もこんな答えを用意するなどたいしたものだ。

 憲法改正は必要かという質問は、立候補予定者の憲法観がかいま見える。ここは注意して読まなければならないところだ。
正確に質問項目を引用すると、安部晋三首相は任期中の憲法改正に意欲を示しています。憲法を改正する必要があると思いますかである。必要がある、必要はない、どちらともいえないの三択だ。(理由を20字以内)が付いている。この20字以内の理由が面白い。
 支持政党別でみると共産党、社民党を支持する立候補予定者は、はっきり必要はないとしている。理由は9条関連で「戦争をする国づくり」への反対や「9条堅持」という意見がある。民主党支持は9人のうち6人が必要ない、2人が必要としているが共に新人である。
 民主党支持では「平和と人権を守る立場での議論が必要」「自衛組織は必要だから。集団的自衛権は不要」自民党支持では「国際社会で世界に貢献できる国家にするため」「アジアの安定に日本が貢献する必要がある」「社会経済環境の変化に合わせた改正は必要」「9条について安易な妥協はいかがなものか」などなど、気持ちを素直に吐露したものが多いが、何を考えているのかわからず首を傾げたくなるものだ。悲しくもなる。
 
 今回の県会議員選挙はこれからの県政や県議会、県会議員の意識を、どう改革していくかが有権者に求められている。有権者に候補者を選ぶ際、判断する情報が乏しいのが正直なところである。現議員の場合は政務調査費の使途であったり、議案に対する賛否や県政報告などを、注意深く見守ることによってある程度どんな人かわかるが、新人の情報はなかなかわからない。新人には有権者の声を聞く姿勢や、質問されたらその場限りでない信念を披露してもらわないと有権者は困るのだ。また勝手に有権者を「評価」されても有権者は迷惑だ。
 立候補予定者は選挙になったら、終わってしまった田中県政の良かったところ、悪かったところをきちんと自分なりに検証し、今後の、始まったばかりの村井県政の政策や課題に、こう当たりたいと言いたいことを語って欲しい。改革の主義主張を明確に。これは「是非是非」お願いする。
 立候補予定者には有権者から次の荀子の言葉を贈ろう。「千人萬人之情、一人之情是也。 不荀篇」解釈を間違えては困るが。
 信毎には偏しない報道をお願いするため「新聞倫理綱領」を贈ろう。書かれた記事はよく読んでこれから参考にしますから。
そしてわれわれ有権者は選ぶ確かな目を持って投票所へ足を運ぼう。付けや後悔、宗旨替えした議員に泣くことのないように。

(07/03/17)


アフガンの女性議員

この春統一地方選挙が始まる。
選挙になると政治家の言葉がいやでも耳に入る。

 NHK BS世界のドキュメンタリー「アフガン空爆から5年」を見た。「−アフガンの女性議員の闘い−」というもので衝撃を受けた。
2006年に、デンマークのバスタードフィルムが制作したものであるが、アフガニスタンで一人の女性が議員になるまでを追ったものだ。2003年のロヤ・ジルガ(国民大会議)の議場で、発言を許され「ロヤ・ジルガの代表の多くは軍閥であり、アフガニスタンを破壊した犯罪者である。麻薬などの犯罪にも手を染めている。このような人たちは告発されるべきだ」と糾弾した。議場は騒然となり、議長は彼女を退場させた。この発言以後4回も暗殺の危機に直面したという。その後、05年9月18日実施のアフガニスタン初の議会選挙に出馬し、当選するまでをデンマークのクルーが、彼女に密着して記録したドキュメンタリーである。

 彼女の名はマラライ・ジョヤ、27歳(05年当時)である。
 彼女の立候補は命がけだ。銃で武装したボデイガードに守られ10日間の選挙活動をする。「安全上の問題で遊説にいけない」のだ。彼女を脅して精神的に追い詰める軍閥勢力がいる。そのために銃を持った保安責任者を雇わなければならない。日本では考えられない状況である。
 彼女は、心にあっても誰も言葉にしないことを公にしたのだ。口にして命を脅かされているのだ。だが、彼女には誰にも負けない勇気がある。
彼女を駆り立てたものは、アフガンの人権の、特に女性に対する権利の侵害だった。彼女はいう「女性を差別し、虐げ、平和を壊す社会を変えたい。 アフガニスタンの未来を子どもたちに残したい」と。
 タリバン政権が崩壊し軍閥がまた、好き勝手のことを始めている国では、女性は「自分の身は自分で守らなければならない」のだ。彼女もブルカ(体全体を頭から足まで覆う着物)をかぶり護衛付きで街に出る。選挙を前に武装勢力が活動し、暗殺、誘拐、強姦などの事件が日常茶飯時なのだ。
 選挙中でも、彼女は女性の相談に親身にのる。離婚話や夫や親族の要求に従わされ、強制的な結婚も普通に行われている女性の人権の回復を目指して、時には軍閥の男とも対決する。
 そんな彼女を10時間もかけて訪れた老女がいる。ソ連との戦いで地雷の敷設もしたという。休まないで歩いてきた老女は「みんな投票にいくよ、あんたは優しいから」という。マラライ・ジョヤは遊説に出られないため、カセットテープで考えていることを有権者に訴える。「みんなの武器を回収して仲良く平和に暮らせるようにしてください」と。「自由、民主主義、平等のために働く」と。
 民族や宗教を乗り越えアフガニスタンの再建と将来を考えるマラライ・ジョヤは当選した。最年少議員だった。国会に向かうバスの中で軍閥出身の議員や、ムジャヒディーンの議員と論争する彼女の姿勢が毅然としている。気迫がありおもねることなく意見を闘わすのだ。
 ドキュメンタリーは、国会で彼女がカルザイ大統領の演説を聞き、車で帰るところで終わる。「音楽をかけて、なんでもいいわ」彼女のモノローグが続く。「小さい時からずっと働いていたから、音楽を聴く時間がなかったの、音楽は知らないの」

 アフガニスタンは今も混乱している。
国会は「議員の6割が軍閥かその関係者」といわれ、選挙も公平に行われたかどうか疑問の声もある。状況は変わっていない。アメリカ政府は、アフガニスタンで民主化が大きく前進したと国内外にアピールしているが、軍閥はアメリカ政府が育てたといわれており、タリバンはパキスタンの高地から攻撃を仕掛けている。アフガニスタンの再建は前途多難である。
 翻って、日本の将来は、日本の政治家はどうだろうか。言ったことに命を懸けるだろうか。彼女のように、わかりやすい言葉で語りかけているだろうか。他人の痛みを感じているだろうか。ふさわしい人を選んでいるだろうか。

(07/03/05)


映画「ラインの仮橋」 フランス/西ドイツ/イタリア映画 1961公開

ラインの仮橋
 もう一人のパン屋さんの物語
「硫黄島からの手紙」でパン職人の青年が招集され、戦場で過酷な体験をするが、この「ラインの仮橋」ではフランスのパン職人が登場する。
シャルル・アズナブール演じるロジェはパン屋の娘婿である。ドイツとの戦いに召集され、ろくに戦わないうちに捕虜となるが、この映画は戦争を題材にしながら、戦場の場面が一切出てこない稀有な映画である。

 監督は「洪水の前」「裁きは終りぬ」「眼には眼を」のアンドレ・カイヤット。モノクロ作品である。
アンドレ・カイヤットは二人の対照的な青年を登場させる。パリのパン職人ロジェと新聞記者のジャン、二人はドイツ軍の捕虜となり、ライン川の仮橋で知り合う。職業はと聞かれたとき「農業」と答えてしまったことから、二人は村の村長である農家で働かされることになる。パン職人ロジェは、影、日向のない人間で、なれない仕事に誠実に取り組む。農家は家族四人で主人は人間的な人だ。
 対する新聞記者のジャンは祖国の解放を目指す野心的な青年として描かれる。なんとか捕虜という現状を打開したく手段をめぐらしている青年である。当然農家の仕事には興味はなく、村長の娘を籠絡し、脱走しようと計画している。
 二人は仲は良いが、自己を貫くことに対しては二人とも頑固である。ロジェはジャンに「一緒に脱走しよう」と言われても乗らないのである。自分の分を知っているロジェ。対するジャンは現状を打開しようといつも何かしていないといられない。
 ライン地方の農村と農家のたたずまい、そしてドイツの農村の人々、戦争をしているとは思えない牧歌的な風景をカイヤットは描いていく。二人と二人を取り巻く人と世の中を丁寧に描くことで、戦争が持つ悲しさを表現して行く。
 
 ジャンは、ロジェが密かに思いを寄せている娘に巧みに言い寄り、その気持ちを利用して首尾よく脱走するが、娘の心は深く傷つく。農家の娘ヘルガを演じたコルドラ・トラントフがいい。この前後、ロジェの娘への気持ちをほのかに表すシーンを見落とさないで欲しい。ジャンの脱走後一家に不幸が押し寄せる。
 このあと娘は軍に連行される。軍需工場に徴用される罰を受けるのだ。ドイツの敗色が濃くなり、村長も前線へと招集される。見送るロジェに村長がいう「家族を頼む」と。捕虜で働きに来た男に村長が頼むのだ。彼は敵対するフランスの男にすべてを託して出征して行く。
 ロジェは村の人にも信頼され、村長の留守をしっかり守る。もう村の人といっても良い。新しい村長にも頼りにされる。娘が帰ると入れ替わりに、ロジェを父親のように信頼している少年も招集される。もうドイツは長いことはないと思わせるシーンだ。村の年老いた男と少年たちが乗ったトラックを、見送るロジェと家族のカットが戦争の持つ意味を伝える。
 脱走したジャンは祖国フランスに戻り、開放を目指し対独レジスタン活動に入る。ゲシュタポに逮捕されるが恋人の力で辛くも釈放される。彼はそのことを知らないままロンドンに亡命する。彼は亡命先のロンドンからフランス市民に、ペタンに代表されるフランスを新聞記事で攻撃するのだ。

 カイヤットはロジェとジャン、二人の人生を等分にみせる。冗長と思わず気を抜かず付き合うことだ。カイヤットはどちらにも肩入れせず淡々と演出している。突き放して択一せずに並べてみせるのだ。
 寡黙と饒舌、対立と融和、都市と農村、家族の絆(パン屋・農家)に、ロジェとジャン二組の愛を絡め対照させてみせる。どちらに感情移入しようと観るものの自由ですよという姿勢だ。底にはカイヤットのヒューマンな気持ちが流れている。

 戦争が終わり、二人は祖国フランスに帰る。だが、パン職人ロジェはフランスでの全てを捨て、再びドイツに渡る決心をする。「フランスでは自分が生きているような気がしない。ラインの向こうにはそれがあった」とジャンに語り、戻る手助けを頼む。ジャンも恋人との間に複雑なものを抱えていて、気持ちを整理しなければならない。
 橋を渡る前、二人はそれぞれの思いを胸に見つめあう。別れだ。ゲートが閉まりロジェは渡る。一度振り返りながら・・・。

 「ラインの仮橋」は、構築物として河に架かる橋ではない。誰のために何の為に生きるか「あちら」と「こちら」を繋ぐ心の橋であり、いつか、渡らなければならない橋なのである。カイヤットは、市民的な愛国心と民族的な愛国心を持つ二人として描いてみせたが、二人は「愛国心」という一つの裏、表なのである。カイヤットは「ラインの仮橋」にいろいろなことを収斂させてみせた。みるものの心に仲立ちをし、媒介をし、橋を渡らせてみせた。橋を架けたのである。考えさせられる作品だ。

 ラインの仮橋 1960年製作

 製作国 フランス/西ドイツ/イタリア
 初公開年月 1961/04/
 監督 アンドレ・カイヤット
 脚本 アンドレ・カイヤット
    アーマンド・ジャモット
    パスカル・ジャルダン
    モーリス・オーベルジュ
 出演 シャルル・アズナヴール   (パン職人ロジェ)
    ジョルジュ・リヴィエール  (新聞記者ジャン)
    ニコール・クールセル     (ジャンの恋人フロランス)
    コルドラ・トラントフ     (農家の娘ヘルガ)
    ベティ・シュナイダー

(07/02/28)


映画「終身犯」 アメリカ映画 1962公開

私の好きなバート・ランカスターが出たモノクロ作品で、実在した人物の映画化。

 タイトルバックで、手の中の鳥、スズメが写される。
 正義感があるが、すぐ熱くなって罪を重ねてしまうストラウド。服役中のさなか些細な事を理由に、母に合わせなかった看守を殺してしまうが、母の助けで絞首刑から終身刑に減刑される。母は大統領夫人に直訴したのだ。
 監督のフランケンハイマーは、ストラウドと母の感情、刑務所長や看守の非人間的な対応を淡々と写してゆく。

 ストラウドに運命を変える出来事が起きる。
暴風雨の日、まだ生まれたばかりの小鳥(スズメ)を拾った彼は餌ずけをし、ランディと名前をつける。新しい刑務所長は鳥の飼育を許可する。看守から貰った木箱や瓶を加工、スズメのランディを育てる。
 看守から彼は、人との接し方の規範を教わる。彼は「すまなかった」と20年ぶりに看守に詫びる。この場面がとてもいい。
 フランケンハイマーは人生の意味を、ストラウドを通して観客に語りかける。
 「かごの鳥は嫌だろう、大空を自由に謳歌しろ」スズメに語りかけるストラウド。スズメは飛び立つ。狭い独房の部屋はカナリヤで一杯だ。研究と観察に没頭するストラウド。カナリヤの病気の研究で、世界的な権威になる。彼の敗血症の薬は世界中に知れ渡る。支援者ステラと獄中での結婚、「ストラウド小鳥商会」の設立、カナリヤの病気と、鳥の病気について研究したことを出版する。
 自由を拘束され、生きがいや生きる意味を見失っていたストラウドの顔が、看守の彼への忠告いらい、だんだんとやさしい顔になるのがいい。「母は死んだんだ」と大事にしていた母の写真を焼き、自分を助けてくれた母への訣別をするストラウド。彼にとって遅い人生の始まりだ。

 フランケンハイマーは刑務所のなかで鳥の研究をした男の話を描きたかったのではない。
 塀のあるなしにかかわらず、自由とは、人生とは、生きかたとは、人の尊厳とは、を考えて欲しかったのではないだろうか。
ストラウドはアルカトラズの刑務所に移送され、鳥の飼育は出来なくなったが、今度は、刑務所の歴史や組織・待遇などの論文を書くことになる。彼の人生の新しい戦いだ。限られた自由のなかで、自分のできることを精一杯やったロバート・F・ストラウドの生きかたは心を打つ。フランケンハイマーは「かごの鳥でもなく、大空を謳歌している人間」である私達を告発しているのだ。私達もある意味、終身犯であるからだ。
 タイトルバックの手の中の鳥、生まれたばかりのスズメは弱い鳥だ。飛べない鳥は握られればすぐ死ぬ。大きな手はなんだろう。何を意味するのだろうか。暗示的な絵である。

アメリカ映画 終身犯(1961)
初公開年月 1962/09
監督: ジョン・フランケンハイマー
原作: トーマス・E・ガディス
脚本: ガイ・トロスパー
撮影: バーネット・ガフィ
    ロバート・クラスカー
出演:
バート・ランカスター
 老けかたと控えめな演技がこの作品を盛り上げている。だんだんと顔が優しくなり、人として悟っていく様子がいい。
ネヴィル・ブランド
 看守でストラウドに人としての規範を教える。寡黙でストラウドを見守り、彼に顕微鏡を与える。アルカトラズに移送される時
 ストラウドは「俺のことは忘れろ」という。悪役専門の俳優だが好演。
テリー・サヴァラス
 彼の独房の隣りにいた男。陽気でカナリヤが好き。好演。
カール・マルデン
 お互い気持ちはわかっていても、衝突してしまう刑務所長。憎まれ役好演。

追記
 実在したロバート・F・ストラウドのことを知りたい人は
http://en.wikipedia.org/wiki/Birdman_of_Alcatraz へ。リンク多数。

 刑務所のなかから
"Diseases Of Canaries" と"Stroud's Digest On The Diseases Of Birds"を出版。
 論文は
"Bobby: An Autobiography Of Looking utward" と"A HIstory Of U.S.Prison System From Colonial Times To The Formation Of The Bureau Of Prisons" を出している。
 
(07/02/06)


統一地方選挙が始まる

統一地方選挙が始まる
       有権者の気持ちは・・・
 統一地方選挙の準備で、あちらこちらが賑やかだ。
県会議員、市会議員選挙と身近な選挙だけに、私たちの年代では関心が高い。私の周りにも立候補したいという人の説明会に、何度も顔を出したという人もいる。候補者の意見や説明を聞き選びたいという人がいる反面、決めているからあまりあちこちに顔を出さないという人もいる。政治にまったくかかわりたくないという人もいる。
 立候補者も政策をビラやホームページ、ブログなどで発信しているが、ご苦労様なことである。選挙は勝たねば「ただの人」になってしまうから、出たい人にとっては大変なことだろう。
 良く「出したい人は出ず、出たい人は・・・」といわれるが、これも一つの真理といえよう。血縁や友人、何らかで関わりが深い人ほど選挙が始まると熱くなる。また、「人の就職活動なんかやれるかい」と覚めた目の人もいる。どちらにしても候補者を選ぶ有権者には、確かな目が要ることに間違いはない。
 それにしても、政治にはいま汚いというイメージがある。政治家を目指す人は大変だ。国政から県政、市政の議員や首長のなかから「えっ」というような言葉や倫理のなさが目につくからだ。有権者からみると議員になると「こんなに何でも平気で出来るのか」という気持ちがある。
 選挙のたびに有権者はそれぞれの思いを候補者に託すが、うまくいった試しはあまりない。政治不信はこのところ募るばかりだ。ストレスも溜まる。「出るときは頭を下げるが、当選すればしらんふり」で、選挙のときだけ頭を下げられても有権者は困るのだ。
 身近な地域社会には、自分たちの努力だけではどうにもならない問題がある。生まれ育ってきた社会の将来を、候補者はきちんと見据えた政策を提示して欲しい。「抽象的なきれいな言葉」で「あれもやりますこれもやります」でなく、思惑を捨て、自分が取り組む課題を示して欲しい。日本の、長野県の、塩尻市の将来を語って欲しい。
 マニフェストばやりだが「ほんとかや・・」と思われるものが多い。前の選挙のマニフェストを取ってあるが、議会での質問と整合の取れない人もいるし、取れた人もいる。節操もなく有権者をだしにして、あっちこっちに顔を出す人もいる。
 パンフやビラもきれいにつくられたものが多いが、候補者の自己満足でも困る。デザインに凝るほど伝わってくるものが少なくなるからだ。それより心のやりとりを大事にして欲しい。
 若い人が政治に関心を持ちやってみたいと出る人もいる。挑戦することはいいことだと思うが、どうか名前だけを連呼するような選挙でなく、風穴を開ける気持ちで、政策をみんなに語って欲しい。
 政治家を目指す人は語る言葉に気をつけたい。「・・・生む機械」なんてのは論外だが、人によっては不愉快な思いをさせてしまう言葉は慎むべきだ。「じじい」なんてのもそうだ。自分で自分のことを「じじい」というのはいいが、人から言われたくないという人は多い。私も以前、接客のチームリーダーをしていて、お客さんに呼び出され叱られたことがある。「どんな教育をしているだぁ・・・」と。相手の気持ち・立場を考え語って欲しい。そうでないとそれは結局自分に帰ってくる。
 フーテンの寅さんではないが、「奮闘努力の甲斐もなく、きょうも涙の日が落ちる」というのが日々の庶民の気持ちだ。もう、残りの少ない歳だから、一票しかない票を「こんなもんせ・・・」などとあきらめず行使しようと思うが、「政治屋には絶対入れんぞ・・・」という気概だけは持つつもりだ。庶民はにおいでわかるのだ。

 一口知識
 政治=さまざまなものごとを調整、解決し治めること。一口では定義が難しい、政治は難しいのだ。
 政治家=次の世代のことを考えて自己の損得を考えず政治に携わる人。
 政治屋=次の選挙のことを考えて思惑、利害、損得で動く人。

(07/02/03)


佐々木洋之輔先生のこと

佐々木洋之輔先生のこと

 佐々木先生は鉄砲ユリが好きだった。
バーバリーの長いコートを着て、ツバ広の中折帽子をきちんとかぶり、鞄を下げた姿が眼に浮かぶ。
 先生は背が高く、着こなしが日本人離れしていた。長身の先生は歩いていると外国人のように見えた。もちろん、雨の日は傘を持っていたが、雨が止むとステッキのように使っていた。日本に滞在している英国紳士に見えた。

 先生は英語を教えていた。
農業高校では英語は1年生は必修で、2年から選択になる。上級学校や就職するために選ぶものと、自営のためこれからの農業には英語が必要だと思って受ける奴、三種類の人間がいた。
 先生の授業は厳しかった。なにしろえらく発音がいい。スクリーンでみる英語圏の外国人みたいな発音で、ついてこれない奴は置いていくというもので何度も繰り返さない。
 いつだったか、机の下で外国映画の雑誌を隠れて読んでいたら、「君はもういいから、外で遊んできなさい」と叱られた。生徒にご機嫌をとらない先生は誰にも公平で平等だった。
 
 先生には伝説があった。
生徒の間で先生にまつわるある話が広まっていた。
こんな話である。「先生はあの有名な槙 有恒と一緒に山を登った人らしいぞ」「慶応義塾の山岳部らしい」「なんでもあっちこっちの山を登っているらしい」など、山に関するものであった。
 どうしてそんな話が出たのか詳しい経緯は分からないが、なんでも山をやる先輩から聞いた話というのが飛び交っていた。
先生はそんなうわさなど関係なく、相変わらず授業をしていて、山の好きな生徒は何とか先生に近づきたかったが、伝えられていた山の話などおくびにも出さなかった。
 
 先生は鉄砲ユリが好きだった。
卒業し、社会に出ると先生を見かけることが少なくなり、私も好きな山登りに熱中した。あるとき偶然先生と遇った。先生が鉄砲ユリを買いにきたのだ。近寄り難かった先生の意外な面をみた思いで声を掛けた。先生は「僕はこれが好きなんですよ」と静かに低い声で話された。私のことなどとっくに忘れていたが、高校時代に聞きたかったことをすぐ聞けなかった。恐る恐る先生に山が好きなことを伝えると、先生は言った。「君も山をやるの、登りなさい」と。嬉しかった。あの伝説の山男と会話することが出来たのだ。
 先生が鉄砲ユリを買いに来るたびに、少しづつ山の話を聞いた。やはりあの伝説は本当だった。
先生と私の会話は山の話だけで浮世の話はしなかった。大正八年から九年ころの山行を思いだすように静かに話された。槙さんと同行した「針ノ木越へ剣岳より白馬岳」の話もされた。私は夢のような話を聞いて満足した。槙さんのマナスル登頂は1956年だったから、丁度私たちが先生から授業を受けていた時にあたる。英語の先生はあの槙さんと一緒に登った人なんだと。
 
 その後、先生は体調を崩され亡くなったが、亡くなる前一冊の山行ノートを戴いた。あの大正八年のことが書かれているノートだった。先生に聞いておけば良かったと後悔していることがある。「先生、何で鉄砲ユリが好きなのですか」と。
 背筋を伸ばし、コートと中折れ帽が似合う先生はいつも静かだった。本当に紳士だった。
 
(07/01/12) 


映画「硫黄島からの手紙」 アメリカ映画 2006公開

映画「硫黄島からの手紙」

クリント・イーストウッド監督の硫黄島(いおうじま)で戦われた日米の攻防を、双方の視点から描いた作品の二部作目「硫黄島からの手紙」が公開された。
 頭のなかの一作目をリセットして観に行った。
脚本が悪ったか、アメリカ人の監督が日本の軍人と日本の軍隊と戦闘を描く難しさを感じた。

出来は前作より落ちる。
 硫黄島で戦わなくてはならなかった背景、司令官の苦悩、兵隊たちの死守に至るまでの苦悩をうまくまとめたとは思えない。
栗林中将に焦点を置き過ぎた。栗林中将の偉さは分かるが、一作目の「父親たちの星条旗」は兵隊のエピソードから全体をまとめている。ここも、きちんと直接最前線で戦う兵隊に力を注げなかったかと思う。
 なにも、史実に忠実にと言っているわけではないが、深刻な水不足、地熱やガス、加えて補給を絶たれた食糧と弾薬、兵隊が嫌がったというトンネル堀りや地下壕の構築などを担当した設営隊の苦労など、兵隊の描き方はあったはずだ。

 戦場はひとり一人が生死をかけて向き合う。 
 トンネルを堀り持久戦に至る経過が、栗林司令官に力点をおいたため、作品が平板になってしまったことだ。
栗林中将はアメリカとの戦いを避けたかったというが、命令で動く職業軍人である。国の命令には逆らえない。その栗林司令官の国を思う気持ち、家族への愛がストレートに伝わってこないのだ。と同時に兵隊が防備を強化するさまや、一人十殺戦法へと進んでいった、頑強な最後まで抵抗する戦闘の目的、「本土進攻を遅らせ、アメリカ軍にできるだけ出血を強いる」が、充分に描かれたとはいえない。

 前線で戦う兵隊の苦悩と恐ろしさ・トンネルでの凄まじい持久戦を描けなかったのは何故か。この目的「本土進攻を遅らせ、アメリカ軍にできるだけ出血を強いる」が、アメリカ人、イーストウッドに描けなかったからだ。
 第一線で戦う兵士は極限状況にある。前作は兵士側から、英雄に祭あげられた兵士の視点で戦闘が描かれていたが、アメリカ国内の厭戦事情もあるなかの話である。
 今度は日本側だ。国家にがんじがらめにされたなかで、戦うことを余儀なくされた日本人、この作品でいえばパン屋の兵士、元憲兵の兵士と、パン屋の戦友で自決を強要される兵士がそうだ。
 峻烈な戦闘を戦った人間としての兵隊がこの作品では描かれていることが少ない。将官の縄張り意識や、用兵の誤りはどこの国の軍隊にもある。正義もどちらにもある。ここでは、人間として戦う兵隊を丁寧に描いて欲しかった。自決を強要される兵士と元憲兵をもう少し描きこめれば訴える力はもっと大きかったはずだ。特に元憲兵の犬も殺せない男が、犬のように殺されてしまう不条理を。
 また、硫黄島には、海軍特別年少兵や補充された年輩の兵士などが多数いた。また、軍属、朝鮮半島出身軍属など徴用されていた。この人たちこそ描かれるべきでなかったか。物量に勝るアメリカ軍に「地獄の二週間」と呼ばせた戦いの全貌が描写されているとは思えなかった。
 前作に出て来るアメリカ軍の兵士と、日本軍の兵士のいくつかの遭遇戦のシーンを思いだして欲しい。殺すもの、殺されるものが、出会ってしまった。その兵隊にはそれぞれ家族があり、ふるさとがあり生活がある。それでも殺しあわなければならない。ど ちらかが死に、どちらかが生きる。ある瞬間にそれぞれの人生が交錯する。そこに至る人間を描いて欲しかった。将官の人生ではなく、召集された平凡な普通の人たち、一兵卒が置かれた極限の生き方を・・・それが足りなかったと思う。

 「硫黄島からの手紙」を、栗林中将の手紙にしてしまったのは残念だ。「硫黄島からの手紙」は日米双方へ宛てられた手紙で、あの戦闘を戦ったものからあなたに送られた手紙なのである。


アメリカ 2006公開
監督: クリント・イーストウッド
脚本: アイリス・ヤマシタ
撮影: トム・スターン
音楽: クリント・イーストウッド
出演: 渡辺謙
    二宮和也
    伊原剛志
    加瀬亮
    松崎悠希
    中村獅童

(07/01/04)


映画 「ライムライト」 アメリカ映画 1953公開

映画 「ライムライト」
 
 バレリーナと道化師の物語。
1914年ロンドンの下町。 部屋のベッドで倒れている女。酔って帰る一人の初老の男。ここから物語りは始まる。
子どもたちを斜め上から映すカメラワーク。コントラストが強い画面だ。大家が留守であること。男がここの住人であることを少ないセリフでわからせる。男は葉巻を吸おうとして臭いに気づくが、ガス漏れだと気づくまでの男のしぐさが面白い。ドアを破り、女を自分の部屋に運ぶところでフェイドアウト。この導入部が心憎い。

 男は道化師でカルベロ。女はバレリーナを目指すテレーズ。自殺を図った女だ。
カルベロは質屋へ行ってまでテリーを助ける。生きる希望を与えようと懸命だ。
 夜、三人の大道芸人が楽器を侘しく奏でる。この三人が出てくると回想シーン、夢のシーンに繋がる。
華やかだった頃のカルベロの舞台「ノミの曲芸フィリスとヘンリー」の上演だ。目で演じるカルベロ。拍手喝采のお客。ふと目を凝らすと誰もいない劇場。ここで画面はフェイドアウトする。
 女はテレーズといい、テリーと呼んでという。リューマチで脚が動かないという。
落魄の予感に怯えるカルベロは内心を隠し、テリーを励ます。テリーも少しづつ打ち解けていく。
 台詞としてさまざまな言葉が飛び交う。説教じみた人生訓を喋り捲るカルベロ。医者に、テリーの脚は心因的なものと言われると、医者に言葉を返す。「フロイトか」と。ジグムント・フロイトのことである。カルベロは知的な男で、並みの男ではないことを窺わせるさりげないシーンだ。
人生訓も彼の内面を如実に語る。
「苦しみは重要だ」
「太陽には意識はないが、君には意識がある」
「今という瞬間を生きればいい」
「人生は冗談ではなくなった」
「私は雑草だ。刈られてもまた生える」
「人生を恐れてはいけない。人生に必要なものは、勇気と想像力と・・・少しのお金だ。」
「みんなに親切にされると、気に入らない。あなたでも」
テリーも言う。
「お笑いって悲しい仕事ね」

 人生の喜怒哀楽がすべて描かれている。
 生と死、愛と別れ、幸運と悲運 逆境など、暗くなりがちなシーンでもどこか救いがある。簡単に手に入らない人の心を見つめる視線がどこか温かいのだ。三人の大道芸人とバイオリンを引くカルベロ。ビールとバッハとベートーベンだとテリーに紹介、芸人に注ぐ目も優しい。大家には家賃を延ばして貰うために、必要とあらば、甘い言葉もささやくカルベロは魅力的な人間だ。だが、弱音を吐き皮肉を言うこともある人間だ。「みんなに親切にされると、気に入らない。あなたでも」と。
 明暗のコントラストとアップがカルベロの心の襞に迫る。小道具、大道具、音楽も効果を上げていて、フェイドアウトで画面を締め括る。テリーが「テリーのテーマ」で踊るラストシーンが秀逸だ。

 チャップリンは、迫り来る老いを意識し、自分の分身としてカルベロを描いただろうか。彼自身を投影してみるのもいいが、ここは彼を忘れ素直にみたい。
若さには、老人が手を伸ばしても届かないものがある。希望、愛、夢がいっぱいだ。カルベロは、自分の気持ちを抑えて、愛するテリーの人生を明るく喜びのあるものに変えた。
 
 この映画はチャップリン63才のときの作品だ。チャップリンは1928年、39才の時に「サーカス」という作品を作ったが、「サーカス」では、浮浪者がサーカス団に雇われ、団長の娘に恋をするという設定で、綱渡りの若い男に惹かれた彼女のために、一肌脱ぐ浮浪者を描いている。こちらはサイレント映画で、すべてパントマイムであるが、見比べて欲しい。
 「ライムライト」は、チャップリンが母へ捧げたオマージュだとみたい。母リリーは、女優であったが声がでなくなり、その後、精神を病み入院している。母のことをチャップリンは「パントマイムに関する限り最高の名人だった」と語り「いなかったら私が、名を成していたかどうか・・・」と偲んでいる。

アメリカ映画 1952年製作
製作:監督:原作:脚本:音楽:
      チャールズ・チャップリン
助監督:ロバート・アルドリッチ
撮影:カール・ストラス
美術:ユージン・ルーリー

出演:チャールズ・チャップリン
    クレア・ブルーム
    シドニー・チャップリン
    バスター・キートン

(06/12/30)


映画 「ホワイト・プラネット」 フランス・カナダ映画 2006公開

映画 「ホワイト・プラネット」

 フロムイースト(FromEeastCinema)で「ホワイト・プラネット」を鑑賞した。
 いま、北極は気候の変動が原因と見られるさまざまな異変にみまわれている。氷山がやせ、凍らぬ海、ツンドラの乾燥化、氷河の後退など、考えられなかった変化が起こっている。 環境の変化はそこに住む生き物のバランスを崩す。厳しい環境にうまく適応して、生き延びてきた生物が危ないのだ。
「ホワイト・プラネット」はそんな極圏の生き物を追った映画ということなので期待して観に行った。

 感想を言おう。
 ブリザードやオーロラ、フィヨルド、氷山の崩壊などと、そこに住む生き物を捉えた映像は美しい。
カメラはあるときには俯瞰し、また近づく。アイマックスで観れたらすごいだろうという感じになった。 だが、極圏に住む生き物の生態を知ろうという人には物足りないだろう。そういうフィルムではない。ドキュメンタリー映画ではなく、これはドラマの映画なのだ。
 構えた私が悪かった。
「北極圏」の生物は、種類が少なく、一種類あたりの個体数は多いと言われている。この映画ではホッキョクグマ、ジャコウウシ、イッカクやセイウチ、オットセイ、アザラシ、ザトウクジラ、ホッキョククジラ、カリブーなどの大型動物と、ホッキョクギツネ、カンジキウサギ、タイリクオオカミ、小動物のレミングやウミガラスなどと共に、海の中のタコやカニまで登場する。
 美しい映像をただ楽しむにはいいが、深めるためには、極圏に住む生き物の食物連鎖や生態系などと共に、生物保護や資源管理などをおさらいしてから観に行ったほうが良い。そのほうが何倍も楽しめる。
 音楽が煩わしい。
特にタイリクオオカミがレミングを狩るときのシーンなど音楽はいらない。と思うのは私だけか。
 写した所がわからない。
「北極圏」で撮影されたというが、場所くらい観客に掴ませるのが常道だろう。
「北極圏」といわれるところは「南極大陸」とは違うのだ。陸地のほとんどが氷床で覆われている南極とは違う。北極を中心にした高緯度地域で、北極海は南極大陸とほぼ同じ面積があり、ユーラシア大陸と北アメリカ大陸が含まれるので広大で、永久凍土、ツンドラと多様である。その「北極圏」のどこで、このような生き物を撮りましたという親切さがまったくない映画である。推測するに後援がカナダ大使館なのでカナダ北極圏かなと思ってみたが。ただ、ひたすらに「美しい映像を観て、観て、感動して」といっている映画である。
「ここで描かれた光景は数十年後残されているかどうかわからない」というせりふは気に入った。「北極圏」の危機が叫ばれてから久しい。多くの国で観測所や研究所を置いているのも、資源管理、気象、軍事と取り組まなければならない問題が多いからだ。
「ホワイト・プラネット」は「北極圏」のあるべき姿を考える、未来へ向かって行動を起こさせるような作品だったろうか・・・
 私には問題意識が明確ではなかったような気がする。いろいろ求めた「構えたあんたが悪い」といわれればそれまでだが・・・とにかく綺麗だ。そして音楽は静かにだ。
  
監督・脚本:ティエリー・ラゴベール、ティエリー・ピアンタニダ
脚本:ティエリー・ピアンタニダ、ステファン・ミリエール/ナレーション:ジャン・ルイ・エティエンヌ
音楽:ブリュノ・クレ/製作:ステファン・ミリエール、ジャン・ラバディ、ジャン・ルミール

原題:La Plane`te Blanche/2006年/フランス・カナダ//配給:東北新社、コムストック オーガニゼーション

(06/12/16)


リンゴ農家で働いて


リンゴ農家で働いて

 ある事情からリンゴ農家のお手伝いをすることになって、いままで見えなかったものが見えるようになった。
長野県は「くだもの王国」という人が多いが、確かにリンゴ、ブドウ、ナシ、モモと種類も品種も多彩であり、その生産量も全国有数である。このくだもの王国を維持するために果樹園芸農家は、うまいくだものづくりに奮闘しているが、さまざまな問題に直面している現状がある。
 私の働いている農家は、果樹専業農家である。午前と午後に30分の休憩時間がある。お茶の時間であるがここではさまざまなことが話題にのぼる。
 社会情勢や世相、身近な地域の暮らしと歴史や文化、果樹栽培の苦労話、さまざまな話が飛び交う。みなリラックスして本音で語るのでそれを聞いているのは楽しい。そんなお茶のみ話のなかから思いもよらず、いまの農業の抱えている問題があぶりだされることがある。
 
 果樹農家といってもいくつかのタイプがあるのだ。
 リンゴだけの大規模単一農家もあれば、ブドウだけしか作らないという農家もある。ナシやモモ、プルーンといった種類を組み合わせ栽培している農家もある。また、稲作、野菜と果樹を組み合わせ経営している農家もある。
 その上、息子たち夫婦は勤め人で休日だけお手伝いという農家もあるから一口に括れないほど多様なのだ。多様ではあるが、果樹栽培を基盤に経営をしていこうとする努力はみな同じである。生産者は作ったものを「少しでも良い値段でさばきたい」と思っている。
 農家は作ったものを売らないと生きてはいけない。いくら良い品質のものを沢山作っても売れなければ話にならないのだ。ここからが難しい。
 農業は近年、家族農業から脱し他産業並みの労働時間、労働報酬、利潤があげられるような体質改善を図るということを求められてきた。そのため、力のある農家は生産性の高い農業経営をするべく、質の優れたものを大量に生産することによって、粗収益を増やすということがあたりまえとなった。売れる商品の生産である。
 かっての農業は自給生産が主で、余ったものを売るというものであったため、売る、売れる商品づくりをしてこなかったが、果樹、洋菜、花卉栽培などでは、規模の拡大と生産技術の向上が、売る農業への傾斜を強めている。

 作ったものは売らなければならない。しかも良い値段で。
消費者はできるだけ良い品質のものを安く買いたい。二律背反である。
 リンゴ農家の売る流れを見聞きすると、売るということに先駆的な考えを持って対処している経営者は少ないように みえる。直売所の運営、大手の量販店、スーパーでの販売や贈答品の販売、食品バイヤー向けの一括購入、インターネットでの販売、観光農園などに力を注いでいる農家が少ないのだ。このようなことができる農家は大規模果樹専業農家で、集約度を高め、労力を分散する品種構成と繁忙期には労働力を確保し、高品質のリンゴを生産できる農家に多い。
 こんな大規模果樹専業農家でも課題がある。いくら生産技術が確立していても、高品質な優れたものばかりができるわけではないのだ。品種にもそれぞれ特徴があり、枝擦れ、日焼け、割れや温暖化や立木の老木化などによる着色不良、病気や小鳥などの食害もあり、規格外のものが出る。このような規格外の販売も考えねばならない。

 規模の小さな農家や兼業農家では、共選所への出荷に重点を置かざるを得ない。
地域の特産品としているところでは、農協などで共選所を運営しているところがあり、「目どうり」会などを催し、一定の品質を確保し、生産地のブランド化を目指しているが、販売してもらうには手数料がかかる。
「おぞいりんご」ほど手数料が高いというが、共選所の役割として、大量の出荷物を有利に市場に出すには信用を守らなければならないから、一概に非難もできない。
 そうじて経営規模と農業所得とは強い相関があるので、規模が大きいほど売るリンゴが沢山あるということになり所得も多いといえよう。果樹農家では、畑をみて経営規模を聞けばだいたいどのくらい売上げがあるかわかるというが、反当り4トン(商品として売れるもの)を目標とし、1`200円で売ると反当り80万となる計算だ。
 これはあくまでも計算である。すべてこのようにいくとは限らない。病虫害や台風など想定外のアクシデントが起こることもある。すべておりこんでみなければならないのが農業だ。
 規模を拡大、法人化した農園では億という売上をあげているというが、所得率は規模が大きくなるにつれ落ちるという。これは規模を拡大するほど、人件費(雇用労賃)や原材料費が増えるからだ。

 消費者からみたリンゴはどうであろうか。
 いま、くだもの売り場には輸入物を含めさまざまなくだものが並んでいる。消費者の嗜好にあわせ多様な品揃えで、購買意欲をそそっている。食べたいものは旬を問わずいつでも食べられる。どんなものでも食べたい時に間に合うのだ。この煽りを受けてか、国民の年間一人当たりのリンゴ消費量は、約15`でこれも年々減少しているという。くだもの全体では、果汁などを含め50.1kgで、主要国48ヵ国中40番目という低さであり、1日当りにすると137cということで、リンゴ農家には困った事態である。
 くだものは生食で食べるのが食べ方である。
私の子どもの頃は、リンゴ、ナシ、モモなどは皮のまま「丸かじり」して食べるのが普通であったし、学校の保健の先生も「皮とのさかいに栄養があるからむいてはだめ」と言っていたのを覚えている。当時のリンゴは紅玉や国光で中玉であった。薬剤が付着しているので洗わなければならないが、ズボンやシャツで拭いてすぐ食べたものである。
 いまのリンゴは「ジョナゴールド」のような大玉品種や「王林」「つがる」など大きくなる品種が多く、「丸かじり」するには子どもでは手にあまるし食べきれない。
 皮をむくにはナイフがいる。鉛筆も上手に研げない子どもたちが、リンゴを上手にむけるとは思えない。ナイフ自体持ち歩くこともままならないご時世である。要するに食べるまでが面倒なのだ。
 若い親も面倒なことを嫌う風潮があり、簡単に食べられる他のくだものに向かう。子どもたちに人気のあるくだものの第一位はイチゴという。素直にうなずける結果だ。リンゴの消費も世代やライフスタイルの変化、消費動向などと無縁でなくなっている。
 リンゴの消費量を伸ばそうと、青森県や長野県など主な生産地では、さまざまな取り組みをしているが、思うように伸びないようである。リンゴを高級化して消費の拡大を図るか、安くして拡大するか路線が決まらないことが、問題を複雑にしている。消費量が少ないことは、逆に考えるとまだまだ伸びるということである。消費者にしてみれば「うまいリンゴをなるべく安く買いたい」から、手ごろな値段で、安全で鮮度のよいものがあればそれにこしたことはない。品質の劣るものを安いからといって買う人はまずいない。
消費者が心配していることはまだある。
「食の安全」である。リンゴに限らず、くだものに健康を脅かす消毒剤などが、かけられていないか懸念されることである。生食することで負うリスクを避けたいから、減農薬や無農薬、有機栽培されたくだものなどの人気が高いのは無理からぬことである。生産から販売までの段階で、情報を追求し遡及できるトレーサビリティの導入が叫ばれているのも、消費者要望の高まりといえよう。消費者は「食の安全」を保障するものがあれば購買動機が高まるが、まだこの制度は充分に生かされていない。生産物の顔が見えるよう積極的な導入が望まれる。生産地が地域ブランドをいくら高めても、ひとたび安全を脅かすことが起きると、牛肉の例のように産地全体が崩壊してしまい、元も子も無くなる。
 リンゴは健康意識の高まりで、健康機能食品として優れた効果があることがわかってきた。便秘解消や動脈硬化の抑止、血圧効果、消炎効果、血糖値の正常化などがあるとされ、この方面からの消費拡大も期待されている。特に若い女性に人気があるという。

 働いている近くで、栽培を放棄した圃場もみられた。
 後継者のいないことや、従事者の高齢化、労働力、資本力不足が原因といわれるが、放任された農地の活用も、図っていかなければならない。リンゴ圃場が荒廃化すると病気を媒介することなどから、リンゴ専業農家などは困っているが、なかなか活用がはかどらない現状がある。
 個人で借り入れ規模を拡大したくても、圃場が小規模だったり、とびとびで、効率が悪いのだ。ここはやはり国、県が基盤を整備し、活用できるように手助けする必要がある。かって優良農地であった農地の荒廃を防ぐためには、リンゴ栽培が難しかったら、ソバでも蔬菜でも栽培できるよう転換を促すことが必要である。規模の拡大は自家労働力を基本としている限り難しい。農業は閑な時と忙しい時がはっきりしていて、熟練した技術、技能が求められる労働が多い。冬の剪定などは大事な作業で初めての人が簡単にできる作業ではない。
 このような作業を共同化したり、委託して行っている産地もあるが、技能のある人たちでも過重な労働を強いられる大変な作業である。今後は定年後の高齢者の活用や援農者に技術や技能を習得させ、活用する取り組みを産地全体で、組織的に考えて行かなければならないのではないだろうか。労働の能率を高めながら、かつ、雇用労働も考えて行かなければ規模の拡大はできない。現在、農協や行政などにより、援農支援の取り組みがなされているが、働く意欲と技術の習得意欲があれば、これらの人々は大きな戦力と成り得る。また、彼らも消費者であり、一緒に働くことで生産を理解でき、消費拡大にも力を貸してくれる人たちでもあるのだ。
 後継者不足も深刻である。
子どもがいても家を出て跡を継がないといった農家が多い。老人夫婦だけで働けなくなったら農業を止めるという話を聞くが淋しい話である。また、希望を持って農業後継者の道を選択しても、配偶者がなかなか得られないということは深刻な問題だ。農村青年の交際の機会は限られていて、結婚は本人しだいという風潮からますます進まない。本人の努力もあるが、できる限り交際の機会が得られる企画・出会いを地域社会で考えてほしいものだ。
 後継者の確保と伴侶の問題は、一朝に解決できるものではないが、悲観することでもない。希望は大いにある。都市と農村も変化し、また、若い女性の意識も変化している。単に労働力を確保し求めるということでなく、働くことで報われ、経営が安定でき、お互いに自立した個として一緒に農業経営に参画できるようなかたちを、個々が模索し初めているから、これらの流れを地域全体で後押しできれば解決も近いことだろう。

 最後に、人情味豊かで個性的な人たちと、新鮮なリンゴを食べ、おいしい漬け物を戴き、好きなお菓子を好きなだけ食べたお茶の時間は楽しいものでした。どうもいろいろありがとう。
 
(06/12/09)


「白馬岳遭難から学ぶもの」 気を付けたいツアー登山

白馬岳遭難から学ぶもの

 悲しい遭難事故が起きた。
 10月7日、折からの低気圧の接近で海と山で多くの遭難が起きた。
なかでも7日に発生した白馬岳(標高2932b)の遭難は悔やまれる遭難であった。
私も山を登る。山を登るものとして山で斃れることの空しさ、遺族に与える悲嘆や負担を知らないわけではないが、どこかで今回の遭難に異質なものを感じてしまうのは何故だろう。これは「防ぎえた遭難」ではなかったか。この痛ましい遭難から私たちは学ばなければならない。
 ここは冷静にパーティの足跡を新聞記事から拾ってみよう。

 遭難の経緯
 プロの登山ガイドに引率されたパーテイは、七日午前五時十分、富山県の祖母谷(ばばだに)温泉小屋を出発した。総勢七人である。小雨は降っていたが前夜天気予報を見て、低気圧が台風並みに急激に発達するとは思わなかったガイドは小雨の中を白馬岳を目指して出発した。
 パーテイはそのまま清水尾根を進み、清水岳には午後2時半ころ到着。全員元気だったが、雨はみぞれに変り、午後2時すぎから吹雪になり、着衣が凍り付いたような状況になった。午後三時半ごろには猛吹雪になった。このころ、姉妹は眼鏡が曇り、歩みが遅れ気味になったため、男性がこの姉妹に付き、ほかの四人を先に行かせた。ビバークのために、姉妹を横たわらせツェルト(簡易テント)をかぶせようとしたが、強風でツェルトが飛ばされた。このため、三人のザックを姉妹の体に乗せて、救助要請のためにその場を離れた。稜線に出てから約五十b登った地点で、先行させた四人グループと出合ったが、すでに一人が倒れていた。男性は白馬山荘に急行、「吹雪が激しくなって、行動が取れなくなったなった」と救助要請をした。
 山小屋従業員三人が直ちに捜索に出動、白馬山荘から三百-四百b付近で、ツェルトをかぶって動けなくなってる女性四人を発見した。うち一人は声をかけても反応がなく、一人はうなっていた。山小屋従業員はあられ状の雪がよこなぐりに降り、視界はほとんどなく、真っすぐ歩くことも困難な状況のなかで、救助作業を行ない、この現場から近い約百b先の村営頂上宿舎に三人を収容した。積雪は場所によっては10-15aあるなか、現場から小屋までの約百bに20-30分かかるという救助作業を行なった。
 八日、県警山岳遭難救助隊は吹雪や雪崩のため捜索を中止、待機するなか、村営頂上宿舎に収容した一人と稜線上の一人の死亡が確認され、ビバークしている二人とは連絡が取れないでいる。
 九日、早朝から救助を再開、ガイドと小屋に収容されていた女性二人がヘリで救助されたが、ビバークしていた女性二人(姉妹)は稜線まで百bの地点で発見したがすでに死亡と、小屋に収容されていた一人、稜線上の一人計四名の女性が遺体となって収容された。
 (10/08・/09・/11信濃毎日新聞朝刊・10/11朝日新聞地方版・一部抜粋)

 ルートと天候
 このパーティが登った清水尾根は古来、清水平と呼ばれ越中の古図にも記載されているルートであるが、明治40年富山県の吉沢庄作という人が祖母谷温泉から祖母谷を遡って、清水平から白馬岳の道が開かれ、その後昭和に入って清水尾根ルートとして、今日の祖母谷温泉ー清水平ー白馬岳の登山道ができたものである。
 このルートは横断登山の道として、白馬岳の背稜を横断するコースであり、山の両側の異なった地形、風景・風物が見られるので人気がある。アプローチの便利さから猿倉ー大雪渓ー白馬岳ー清水岳ー祖母谷温泉というルートで下りに利用することが多いコースである。
 今回のコースはこれとは逆のコースであるが、祖母谷温泉から百貫山にかけての間が長く、百貫山の鞍部から、不帰岳を捲く清水小屋跡まではコブがいくつもあり、体力のある山男でも1日で登るにはきついコースである。
 7日の天候は発達した低気圧が三陸沖を進み、中国大陸には高気圧があり、このため寒気が入りやすい冬型の気圧配置だった。北陸や東北地方では雨が降りやすく大荒れの天気という予報が出ていた。
 秋山は日照時間が短く、装備も判断に迷う。山はもみじに彩られおだやかで静かな旅が楽しめるが、台風や低気圧の接近で天気は変わりやすい。山里の小雨が高度を増すにつれ山では雪になるということも珍しくない。雨に打たれ濡れれば凍死・凍傷を起こす。「秋山は怖い」というのが通説だ。
 現に、明治38年(1905)8月9日、夏山の乗鞍岳で、朝小雨で午前10時には晴、午後2時ごろからの突然の暴風雨と霰も降るという状況の中、偶然一緒になったパーティ十三名中、四名が疲労の末、凍死で亡くなっている。山の遭難第1号という遭難であった。携帯ラジオ、携帯電話など思いもよらない時代のことで装備なども今と比較にならないときの遭難で、八月でさえ天候の急激な変化は起こりうるのである。
 「前夜にふもとの山小屋で天気予報を見て、低気圧が台風並みに急激に発達するとは思わなかった」とガイドは述べ、出発前に祖母谷温泉小屋の従業員から「大丈夫ですか」と声をかけられているが、「大丈夫」と二年前の同じ時期にも雨の中、同じルートをツアーで登った経験をあげたという。
 低気圧が頭上を通過していて今は天気が悪いが、高気圧が順調に張り出してくるときなど晴れることが多い。これは移動性高気圧が低気圧の後に順調に張り出している場合である。
 低気圧がゆっくり本州の南岸を進んできて、中国大陸から寒気が入り込むという冬型の場合、西高東低が崩れる時が登山のチャンスとなるのだが、西に高気圧が張り出してきたのを好天につながるとガイドは読んだのだろうか。
 予報が難しいとき、また、天気図から好天につながる崩れを確認できない場合、万全の準備がなければ出発を取り止めるのが判断だろう。当日はすでに祖母谷温泉小屋で小雨が降っていたのだからより慎重であって欲しかった。「中に着るダウンやフリースセーター、オーバー手袋などが必要だった。真冬並みの状況に対応できる装備ではなかった」と認めているのだからなおさらである。しかもルートは不帰岳から上の稜線が長い。
 好天なら明るい草原上の広い道を、剣岳などを見ながらのんびり登れるところであるが、悪天の場合、稜線で吹かれることを予想しなかっただろうか。
 天候の様子を見ながら登るということだったら、不帰岳の捲き道に出る前に退却を決めて欲しかった。ここからなら充分余裕をもって祖母谷温泉小屋まで帰れる。

 ツアー登山とリーダーシップ
 ツアー登山は常に「安全に」を確保しなければならない。これは絶対的なものでリーダーが負わされる責任である。元気で家に帰るまでが登山なのだ。低山歩きでも厳冬期の登攀でも山を相手にする限り危険が予想される。今回のケースのようにプロガイドとして自分で参加者を募集して行なったツアー登山の場合、必然的にリーダーの責務を負うことになり、その責任と任務は特に重くなる。 
 リーダーはメンバー(参加者)の選択権を行使したのだろうか。
 参加者のひとり一人について、準備段階で装備、食糧、登山経験、登山能力などを把握、点検などの作業をしながら、ルートなど熟知させただろうか。しなければならない。
 単に申し込んだからそのままメンバーにということは避けたい。
 行動中リーダーはメンバーを掌握していなければならない。各自の荷重が適当か、余分な嗜好品を持っていないか、歩行状態はどうか、食欲不振のものはいないか、充分注意しなければならない。休憩中も参加者の様子を把握し、天候が急変するような場合退路の確保や安全を優先させなければならない。
 遭難は外的要因と内的要因が複合して起きる。
外的要因は山そのものが持っている危険であるが、ツアー登山の場合お互いの力量がよく把握できず、見過ごしてしまうと取り返しがつかない。メンバーも「連れていってもらう」という感覚で参加することは避けたいものだ。自分で考え、自分で判断する登山の難しさをリーダーと共に共有、信頼しあわないと危機に遭うと崩壊してしまう。営利、非営利、にかかわらずお互いに気を付けたいものだ。
 今回のリーダーは「K2」の遠征経験もある人という。それなりに深い経験と知識を持ち、細心の注意を払ったにもかかわらずこのような結果に終わったことが悔まれるだろうが、毅然とした決断が欲しかった。

(06/11/26)


映画  「父親たちの星条旗」 アメリカ映画 2006公開

父親たちの星条旗

「父親たちの星条旗」は、クリント・イーストウッド監督が、第二次世界大戦の末期に硫黄島(いおうじま)で戦われた日米の攻防を、双方の視点から描いた作品である。二部作として製作したもので、硫黄島に立てられた星条旗を、たまたま掲げる役割を担ってしまい、写真に撮られてしまった三人の兵士の物語である。
 「父親たちの星条旗」は、従軍した一人の衛生兵ジョン・ブラッドリーとその息子によって語られてゆく。
父親の死後、息子は、遺品を整理しながら父親が終生戦争のことを一言も語らず死んでいったわけを、同じ戦いに参加した兵士から真実を知ろうと旅に出る。
 
 映画は最初からどんどん進む。
 この冒頭から硫黄島での戦闘に至るまで要注意である。監督がいいたかったことはすべてこの冒頭部分にあるといっていい。「戦争を美しく語るものを信用してはならない。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから」と語る。心してみたい。
 ここでは時間が、硫黄島の戦闘場面と、三人の兵士の国内キャンペーンツアーの模様、息子が訪ね歩き真実を知ろうとする現在の、三つの時間が交錯する。照明弾と思っていると、それが国内キャンペーンツアーのセレモニーの花火だったり、花火だと思っていると戦場の照明弾だったりして、最初は戸惑うが切り替えにはすぐに慣れる。
 
 戦いに赴く若い兵士たちの日常と訓練、言動が等身大の自分たちと変わらない人間として画かれている。演ずる俳優が見慣れない俳優なので感情移入が無理なくできる。
 国家とか軍隊組織が持つ非人間的な所業を、イーストウッドはさりげなく画く。ひところのドンパチの戦争映画ではない。いざ戦争となると、輸送艦から一人の兵士が海に落ちても一人の命など艦を止めてまで拾ってくれないのだ。
 アメリカ国内でも厭戦気分が流れている。国内を戦費調達の国債募集に使われる英雄とされた三人の兵士、キャンペーンツアーでのさまざまな茶番、熱狂する観衆、英雄を演じなくてはならない三人の兵士たちのそれぞれの苦悩と受け止め方、戦場に行かない大人の倣岸さや真実を曲げてでも戦争を遂行しようとする政治家の汚さ、戦死した子を思う親の心情などが、硫黄島の戦闘場面を交え描いていく。国と国の戦争の陰にはその犠牲になった多くの市民がいる。その市民には家族がいて、友だちもいるのだ。

 戦闘で日本兵が登場する場面は少ない。
ホラ穴とトンネルの戦いだから、突然日本兵が現れ遭遇する場面が戦場の恐ろしさを伝える。戦争とは小銃や銃剣、手榴弾を駆使し、火炎放射器で兵士と兵士が殺しあうことなのだ。砲弾が人を貫き、引き裂き、なぎ倒す戦場の怖さ、無残さが戦場で英雄など一人もいないことを教えている。
 
 終盤、星条旗が「二度目」に掲げられたプロセスと、たまたま、その場にいて手伝ったため、英雄とされた三人の兵士たちの戦後の人生を紹介し、時間を遡り、嬉々として戦闘のつかの間、何事もなかったように海と遊ぶ兵士たちを写して映画は静かに終わる。英雄とされた兵士の一人が言う。「あそこで死んでいったものが英雄だ」「祖国のために戦ったのではない、戦友のために戦ったのだ」と。 観客はここで全体を初めて掴むのだ。

 監督のいいたかったことは「戦争に英雄などいない」「戦争に勝者はいない」のだということなのだ。ここで冒頭の言葉が生きる。
 そして戦ったどちらの側にも正義があり悪がある。最後は「国とはなんだ、なんなのだと」と。
 
 二部作目の「硫黄島からの手紙」は12月9日公開されるという。

原作 ジェイムズ・ブラッドリー
    ロン・パワーズ著、島田三蔵訳『硫黄島の星条旗』文藝春秋、文春文庫   
監督 クリント・イーストウッド
脚本 ウイリアム・ブロイレス・Jr  ポール・ハギス
アメリカ ワーナーブラザーズ配給 2006年公開

(06/11/19)


ナトコ映画

ナトコ映画
 
 1946年(昭和21年)11月3日、日本国憲法が公布、翌、1947年(昭和22年)3月、教育基本法、学校教育法が公布され、新しい学制が実施に移されたのは、昭和22年4月1日であった。これにより塩尻国民学校は塩尻町立塩尻小学校となり、私も新入生408人の一人として入学した。
 当時、教育は占領軍(GHQ)によって管理され、特に視聴覚による教育が重視された。なかでも「ナトコ映画」が学校や地域の公民館活動のなかに取り入れられ、戦後の学校教育や社会教育のなかで「日本人の再教育」を担った。
 
 この「ナトコ映画」とは、アメリカ陸軍省所有のナショナル・カンパニィ社製の16ミリ発声映写機(NATCO)で、民間情報教育局映画(CIEフィルム)を上映するものである。映写機は占領軍によって各都道府県に貸与され、長野県でも1948年(昭和23年)には各地域で「ナトコ映画」を上映するためのナトコ運営協議会などが発足し活動を始めている。
 翌1949年(昭和24年)には、社会教育法が制定・実施され公民館の設置・運営が始まり、この年の12月の「ナトコ映画の取り扱いについて」という 文部次官よりの通達をうけて各地区でナトコ映画が学校や公民館で上映され始める。
 このようななかで塩尻市の近郊、東筑摩郡今井村(現・松本市今井)では、昭和25年から26年にかけて次のようなナトコ映画が上映されている。

昭和25年8月6日今井小学校講堂
CIEフイルム
 フイリッピン共和国
 演劇の世界
 働く少年の楽園
劇フイルム
 花咲く家族

昭和26年3月18日 午後7時今井小学校
CIEフイルム
 腰の曲る話
 ハドソン川の遊覧船
 テレビジョン教室
 オクラホマタルサ市
文化フイルム
 子どもクラブ

昭和26年5月26日 午後8時30分今井小学校
CIEフイルム
 共産主義の足跡
 スクエァダンス踊ろう
 演劇を尋ねて

昭和26年9月17日 午後7時30分今井小学校
CIEフイルム
 家畜王国
 生活水準向上の鍵
 海は吾が故郷
などが公民館主催で行なわれた。

 当時、占領政策の柱として社会教育ないし成人教育の推進が図られていたが、ナトコ映画は戦後間もない日本の社会に「民主主義」と豊かなアメリカの生活風景をスクリーンを通して紹介し、戦前の軍国主義や封建的な考えかたを是正し、日本の民主化を進めるという占領政策の意図があった。
 今井村でのCIEフイルムの上映作品をみてもそれが窺え、民主主義・生活水準の向上・共産主義・子どもや女性の地位向上などと共にアメリカの都市や風景、冷蔵庫や洗濯機のある暮らし、余暇のすごし方などを伝えている。スクエアダンスなどは早速学校教育にも取り入れられ小、中学校で踊られた。
 今井村の上映で注目したいのはCIEフイルムと同時に、劇フイルム「花咲く家族」が上映されていることである。「花咲く家族」は1947年(昭和22年)に大映が配給した映画で、その年のキネマ旬報ベストテン第9位にランクされたが、嫁と姑の確執を通して、新しい世代(戦後)の個人の自由と、古い世代(戦前)の若い世代への無理解・自由への反発を描いた映画であるが、ナトコ映画については、CIEが月ごとに上映状況を報告することなどを求めたということからして、CIE(民間情報教育局)の意図に沿う映画といえなくもない。
 CIEの映画だけでなく、このように劇映画が併映されたのは観客の動員を図る意図もあり、戦後まもない娯楽の少ない社会での学校・公民館でのナトコ映画の上映は、短い期間であったが大勢の人に喜ばれた。GHQ(連合国軍総司令部)の視聴覚教育を通じて日本の民主化を進めるという意図は大きな効果をあげたといわざるを得ない。

 長野県では1949年(昭和24年)からナトコ映画による社会教育が始まったが、貸与の映写機が郡に一台しかないので日を決めて各町村を巡回して行なったということから、今井村で行なわれたものと同じ映画が郡内である塩尻町(現・塩尻市)でも上映された可能性が高い。塩尻東小学校講堂(旧体育館)で私も小学4年生ごろから巡回のナトコ映画を鑑賞している。フイルムが切れたり、ランプの熱で燃えたりしながらも講堂を埋めた大勢の人たちの熱気を思いおこすことができる。
 ナトコ映画は1951年の日米講和条約締結をうけ、1953年、ナトコ映画は役目を終わったとして廃止されることになるのである。

(06/09/20)


愛犬「りんたん」の脱走

りんたんの脱走

 私の愛犬「りんたん」が脱走した。「りんたん」は七歳の雌の雑種柴犬で通称リンと呼ばれている。
仕事から帰った私をいつも出迎えるはずの「りんたん」がいない。おとなしい犬で尾を降りながらいつも帰りを待っていたので、どうしたことかと訝りながら繋留ロープを点検すると、約5_のワイヤーが喰いちぎられている。
「りんたん」になにがあったのだろう。

 夕食の支度もそこそこに付近を捜すが見つからない。
いつもの散歩コースを歩いてみる。くびわはついているが認識標を付けていないので保健所に渡されると心配だ。普段、気にも止めていない小さなことが急に気になる。

 番犬として出発した犬と人の関係は長いが、最近では人と人の関係以上に犬との関係を大事にする人たちが増えているという。私自信もそうである。
「りんたん」は娘が今井のリンゴ園にいるところを拾ってきた犬である。生後4ヶ月位で可愛い盛りで合った。私は飼うことに反対であった。理由は、娘がかわいそうという気持ちだけで拾ってきたのであり、それは娘のヒューマニズムで実際に飼うのは私で、私自身の行動が制約されると思ったからである。案の定、朝夕の散歩が日課となってしまった。
 
 犬は人の疲れを癒やすか。
人と人との関係、仕事などの疲れに向き合うとき、人は犬に慰めを求める。
近年のペットブームが象徴しているのは「子殺し」「親殺し」に始まる殺伐とした社会のありようを写したものだろう。逆説的であるが、人間社会の現実や背景に向き合うことなく眼をそらすにはペットを飼うのが一番いい。希薄な人と人の関係よりペット相手に、人以上の愛情を感じている人たちが多くなっているということは、それだけ現実の社会に眼を向けたくない表れだろう。なにやら「いぬ語」を翻訳する機械も出来たというが、意思疎通が図れない人、国が多いというのにいまさら「いぬ語」がわかったところで世の中がうまく廻る訳でもあるまいと思う。
 私と「りんたん」との朝夕の散歩はそれなりに楽しいものである。モグラやヤマドリ、キジなどをポイントして追い出すのを見るのは人にとって楽しいが、犬は本能として行動しているだけであり、それを人は自分の都合で勝手に解釈しているだけで、わかったように「犬は人の疲れを癒やす」などというのは犬からみると滑稽なことかも知れない。
 
 犬は喋らない。
 犬はペットとして飼われて以来人に対して従順である。
人は人に対して「好きだ、嫌いだ」「愛している」と意思を表すことができる。それに対する気持ちも言葉で受け取れる双方向の関係だ。だが犬は喋らない。喋らないのでわからないが、「りんたん」は私の一方的な愛情を重荷と感じ、ひそかに脱走すべく日ごとワイヤーを削る作業をしていたに違いない。
「こんなに可愛がってやっているのに何で」と思うがどうにも犬の気持ちがわからない。ただ「りんたん」にストレスがあるのはわかった。数日前、庭の柏葉アジサイとツツジの枝を噛み切りバラバラにしたことがあったからである。朝夕の散歩もきちんと1日も欠かさずしていたが、なぜか繋がれて自由にならない自分の身にいらだっているような所業であった。おとなしい犬で無駄鳴きもしない犬なのであるが、繋がれている不条理に反抗したくなったのだろう。なんせ喋らないので私が犬の気持ちを推測するより仕方がない。
「心配しますな、今に帰ってくるで」と人は言うが愛憎半ばである。この自身の複雑な気持ちがどうにもならない。
 次の日の早朝、もしやと思って近所の家に行った。
そこに「りんたん」はいた。「春太郎」通称ハルと庭で遊んでいた。「春太郎」は純血の柴犬で三歳、由緒正しい血統を持っているハンサムな青年である。。ハルの飼い主にきずかれぬよう「りんたん」を呼んだ。「りんたん」は申し訳ないような伏し目で伏せの姿勢で素直に縛についた。
 「そうか、りんたんはハルが好きだったもんな」喋らない犬がこれほど可哀相に思えたことはない。

 犬は繋いで飼うことに決められている。
「りんたん」はまた新しい鎖で繋がれた。簡単に逃げられぬよう飼い主の私の管理化に置かれる。いいつけを守り素直なおとなしい犬として可愛がられるのだ。自由度の高い室内犬でも管理されていることに変りはない。従順な犬が人に可愛がられるのも何か人の社会に似ている。
 子どもから大人までペットに夢中の社会の裏に、人よりペットという歪んだありようが透けてみえるようで私自身の気持ちを含め怖い。
 「りんたん」はリンゴ園で拾われた野良犬である。自由に天地を駆け、草の上で敷した在りし日を思いだしたとしても不思議ではない。
 ペットに限らず生きものにとって、自分たちの都合で専制的な生殺与奪の権利を行使する人間ほど勝手で傲慢な生物はいない。人間が滅びると生きものは生態系の輪廻のなかで本来の生を謳歌し生きることができるのだ。
「りんたん」も私がいないほうがいいと思っているのだろうか。 どっちが先に死ぬかわからないが、先に「りんたん」が死んだらもう犬は飼わない。

 (06/09/04)


映画  「野菊のごとき君なりき」 日本映画 1955公開

野菊のごとき君なりき

白いバックに切絵のような野菊の花のタイトルバック

 川辺を遡る舟の中の船頭との会話から物語りは始まる。
 叙情的なギターの音楽と風景。
「もう、何年になりますかなー」語るは一人の老人。
ふるさとを訪れた老人が過ぎ去った若かりし日を回想する。回想場面は白地の楕円形の画面に変わる。モノクロの映像が白いふちどりによって強調されているが違和感はない。

 いとこである政夫と民子。民子は政夫より二つ年上だ。
二人は仲が良いが周囲の心ない大人たちのねたみや嫉妬にさらされる。
山の畑へ綿花を取りに行く政夫と民子。二人は抱いていたほのかな気持ちをお互い口にする。
 「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
 「わたしも野菊がとってもすきよ、私は野菊の生まれ変わり、みぶるいするほど好きなの」
 「民さんは、野菊のような人だ」
 「政夫さんは野菊をどうして好きなの」と聞く民子。
 学校へ行くと告げる政夫。
 泣く民子。
 「考えごとをしていたのはそのことなの」
 帰り道、民子はりんどうの花を見つける。
 「政夫さんはりんどうのような人だわ、さわやかなんだわ」
ススキの咲く野道を帰る二人。

 祭りの日
 「お祭りがすんだらすぐ学校へ行け」と言われていた政夫は民子に手紙を書く。
 手紙を読む民子。
 
 雨の日、学校へ旅立つ政夫。
渡し場で見送る民子。
川舟が薄いもやの中を進み、濃いもやに消える政夫の姿。
美しい映像だ。民子が見る政夫の最後の姿である。

 橋の上で回想に浸る政夫と野菊の花。
画面の右から左へ、左から右へ斜めに歩いてゆく政夫。ここでも映像が美しい。

 正月を前に家に帰る政夫。
誰も民子のことを一言も言わない。
 
 民子の嫁入り話
政夫の母に説得され承知する民子。
民子のおばあちゃんが言う「目出度いことだよ・・・でも、もう少しみんな民子の気持ちになってやれ」

 婚礼の日、人力車に乗っている民子。
キッと顔を上げている。
 「お嫁に行くときはうつむいて行くもんじゃ」と民子の心情を思う祖母が言う。
締めたように下をむく民子。

 民子が嫁いだことを知らされる政夫。
手伝いのおますが政夫の学校に来る。「このことを知らせたい」と
政夫の心情を音楽に語らせる。

 民子の死
嫁にいった民子は流産し実家に帰される。病状は思わしくない。
急遽呼び戻され、不審がる政夫に民子の死が告げられる。
詫びる母親と庭で慟哭する政夫。
民子の祖母が民子の最後を語る。
 「民子はな、お前の名前を一言も言わなんだ。だもんでな、諦めきってることと思って一目も会わさんで・・・。許してくれや。だけどな、息を引き取った後で、枕を直そうと思ったら、左の手にな、切れに包んだ物をしっかりと握って、その手を胸に乗せていたんじゃ。可愛そうな気もするけど、見ずにおくのも気にかかるので、皆で相談してそれを開いてみたらな、政夫、民子は嫁に行って、お前に会わす顔がないので、それでお前の名前は一言も言わなんだんじゃ。切れに包んであったのはのう、お前の手紙とりんどうの花じゃった」

 画面の楕円は消え、大樹のした、野菊の咲き乱れている墓へと老人は歩む。
    「秋ふけて野もさびゆけば
       み墓べに
     鳴くかこおろぎ誘う人もなく」
 映画は静かに幕を下ろす。

 この映画を観たのは中学3年生のときである。政夫と同じ15歳、多感な15の春に特別に鑑賞会を開いてくれた学校に感謝したい。
当時、映画を観ることは中学生はご法度であり、映画は学校で許可したものを先生に引率され観るものだった。
 印象深い映画として当時の卒業文集(クラス文集 白樺 1956)に同級生が感想を二編寄せている。

言葉で語る場面を必要最小限にして映像と音楽、ときおり挿入される短歌が、純な若い二人の心情を物語り効果をあげている。
原作は伊藤左千夫の「野菊の墓」で、脚色・監督は木下恵介である。詩情あふれる撮影は楠田浩之、音楽は木下忠司が担当した。
木下恵介監督は若い二人の純な愛を題材に日本の家族の姿と人の思いやりを見事に描いた。

配役は
政夫     田中晋二  笠智衆
民子     有田紀子
政夫の母  杉村春子
政夫の兄  田村高広
民子の祖母 浦辺粂子
船頭     松本克平
1955年松竹大船製作

 伊藤左千夫の野菊はノコンギクでしょうか。それともヨメナ、ユウガギクを指したのでしょうか。

(06/07/09)


中田英寿選手ありがとう

中田英寿選手ありがとう
 
 夜NHKの「ニュースウオッチ9」を見ていたら中田英寿選手が現役を引退しましたとテロップが流れた。
自分のホームページで現役を引退することを表明したという。
 あわてて、接続を試みるがどうにもつながらない。
 
 私のなかで、日本ーブラジル戦の試合終了後、ピッチの上でブラジル選手と交換した黄色のユニホームで顔を覆い、寝転んでいた中田の姿がオーバーラップする。「疲れただけです」と記者に言ったという。
 
 私がサッカーに夢中になれたのは中田がいたからだ。
U-17の世界選手権前後から注目されていた中田はまだ高校生だった。お隣の山梨県韮崎高校サッカー部は全国でも名の知られた高校だった。在学中から彼は頭角を現していた。
 サッカーは「ごしたいスポーツ」だ。
90分間走り続けなければならない。野球のような間(ま)が無いスポーツである。しかも貰ったボールに対するキープ力と狙ったところに出すパスが的確で無いと得点に繋がらないスポーツである。中田は高校生の頃からそれは正確だったという。
 小学生の頃から「止める」「蹴る」と言った基本技術を一番重要視していて人一倍練習したと言う。
練習が嫌いなヤツにロクなものはいない。サッカー少年団で6年生の卒団式まで練習を1回も休まなかったという。そんな彼のひたむきさが好きだ。

 私が中年と言われる50歳前後から中田の活躍が始まった。
91年、甲府北中学校3年でU-15代表入り、95年韮崎高校からベルマーレ平塚入団、ワールドユース出場、96年のアトランタ五輪でのブラジル戦での勝利、97年W杯予選ではすべての得点にからむ活躍で日本をフランスに導いた。98年W杯フランス大会後イタリア一部リーグのペルージヤへ、私が定年を迎えた2000年には名門のローマへ移籍した。
 
 彼の言動に勇気ずけられた。
定年とは職場を去ることである。息子といっていいくらい歳の違う若者の言葉に定年後の私の姿を映したのだ。
「サッカーしか知らない人間になりたくないし、いつも好奇心を持っていたい。サッカー選手として生活するの、あと何年か分からないけれど、その先の人生のほうがずっと長いに決まってる。次にどんな仕事しようか、自分にはどんなことができるのか、いろいろ考えるのって凄く楽しい」
「メダルより図書券が欲しい」
「熱くなっても得することないから」
「基本があれば、1を100にすることだってできる」
「年齢や経験を問題にするなんて、ナンセンス」
 
 私は彼のようにクールでなかった。
「怒りはモチベーションを下げるし、だいたい俺はゲームを中断するの好きじゃない。それにさ、怒るのって体に悪そうだよね」
 彼の言葉の通りだ。怒るのはできるだけ止めようと決めたのだがなかなか守れない。
 ただ、中田と似ていることがある。本が好きなことである。中田にとって本は無くてはならないものだと言うが私にも言えるのだ。

 「ワールドカップが人生のすべてじゃない」「俺は勝っても泣きませんね。もちろん、負けても泣きませんけど」と言ってMy bestを尽くし、貫いた一人の男が死ぬほど走って引退した。
 ご苦労さん、年寄りを頑張らせてくれたあなたに「ありがとう」

(06/07/03)


映画 「列車に乗った男」  フランス映画 2002製作 2004公開

 初老の男二人の三日間の物語

 監督は「仕立て屋の恋」「髪結いの亭主」「橋の上の娘」のパトリス・ルコント。55歳の時製作した映画である。

 二人は薬屋で偶然出会う。一人は元教授、もう一人はアウトロー、正反対の人生を歩んできた2人が偶然出会い一緒に過ごすことになる。
宿を貸した元教授は三日後に心臓の手術をひかえ、アウトローの男は銀行強盗を計画している。そんな二人が互いの違う世界に少しづつ足を踏み入れる。
パトリス・ルコントは静かに二人の男の心の動きを描いていく。声高に叫ぶことはしない。小さなエピソードを積み重ねながら二人は心を通わせていく。
 手術を前に漠然と死への予感を感じている元教授は疎遠であった姉との絆を取り戻すべく姉を訪れる。「本当のことを言うんだ姉さん」姉は心の奥にあったものを吐き出す。姉に本来の生きかたをしてもらいたかった弟の心情「そう、それでいい」が切ない。

鏡をみてごらん。老いていくほど輝きは増すものだ
アウトローの男は恋に引っ込み思案の元教授を鏡の前に立たせ自分自身を見つめ直すよう言う。「自分に自信を持て」とエールを贈る。自分自身の生きかたを貫き、自分自身の人生を重ねた二人、誰も人の人生を生きることは出来ないが、今ある人生を精一杯生きることでその人の「輝き」は増すのだ。
 二人はそれぞれ互いの人生を交錯させ、お互いの生き方に惹かれ、もしかしたらこんな生き方も出来たのではと夢想するが、現実には叶わぬ夢である。

これは男の映画だ。
饒舌に二人の心情を語らないだけに二人の気持ちがストレートに伝わってくる。お互いに思いやりがあり、自分自身を見つめる心を持っている二人。そして二人とも泣き言を言わない。自分が選んだ人生に責任を持つ男たち。強い感情表現がないだけにものごとの本質がよくわかる。
 夢に見た別の生き方を相手の人生の中に見出しながら二人がそれぞれの旅に旅立つ。別れが悲しい。
自分の人生に身をゆだねた二人の男が最後、喜びともとれる表情で解放されるシーンが印象的だ。

誰もがいつか列車に乗るのだ。ほかの人生をあらたに生きぬくために・・・
パトリス・ルコント万歳。

脚本 クロード・クロッツ
出演 ジャン・ロシュフォール(元教授)
    ジョニー・アリディ  (アウトロー)

(06/02/17)


映画 「黄 昏」  アメリカ映画 1981製作 1982年4月公開

この映画は老境に入った人のものだ。

 この映画の主人公ノーマンは妻エセルと二人でニューイングランドの別荘にやってくる。湖畔を舞台に老夫婦と娘をめぐるひと夏の触れ合いが描かれていく。
 主人公ノーマンは自分のことを、物忘れがひどくなり人間の化石と思っている。皮肉屋でもあるが80歳を迎えるいま、漠然と死への恐れを抱いている。そこへ疎遠であった娘が恋人とその息子を伴ってやってくる。
 80歳の誕生日パーテイも娘への愛情を素直に表せない彼によって散々だ。翌日若い二人はビリーを預けヨーロッパに旅立つ。
 
 誕生日までの導入部でいろいろ語られる。
湖畔で夕日を浴びてボートに乗る老夫婦の映像が美しい。
人生の晩年を迎える夫婦の心情、森に入り混乱するノーマン、昔歩いた古い道が思い出せないため、怖くなって散歩を切り上げた夫を励ます妻。長年連れ添ったもの同士のこまやかな愛情が会話によって運ばれていく。
 母には思うことを話せるが、父には好きだけど反発、なにごとも折り合いが悪い娘と、娘への愛情を素直に表せない皮肉屋のノーマンとの間をとりもつ妻のエセル。どこにでもある家族の風景が淡々と描かれる。
 娘は「私があなたの息子だったら、また違っていたでしょうに」というが、心では父親を心配しているくせに父親を悪し様に言ってしまう娘。家族の在りかたは身近な問題であるだけに観る人に考えさせる。

虹鱒釣りを契機に心を通わせていく少年ビリーとノーマン。
出会いで、少年に「宝島」を読んだか、「宝島」を読めというノーマン、ビリーは13歳である。都会での遊びが忘れられない少年は釣りにしぶしぶ従うのだが、だんだんと老人ノーマンの気持ちがわかってくる。
 入り江で「虹鱒ウォルター」を追うノーマンは、ビリーを娘と間違い娘の名前を呼んでしまう。「僕はビリーだよ、チェルシーじゃないよ」というが、ノーマンの娘を思う気持ちがストレートに現れた場面である。 「死ぬのが怖いの」と聞くビリー。このあたりからビリーはノーマンに対し心を開く。
 老人と少年、祖父と孫との心の触れ合いはいつの時代でも古くて新しい問題である。死を目前にした老人と前途ある若者、人生の酸いも甘いも経験した老人と人生の入り口に立った少年。自分ならどうするか、どう接するか観る人に迫る。

この映画の登場人物は6人。
老夫婦と娘、娘のボーイフレンドの歯医者とその息子、娘の元恋人である郵便配達屋さんの6人である。皆、相手を思いやる心を持っている善人で、それだけにお互いの気持ちがすれ違うとなかなか修復できない。
ノーマンの妻エセルがひとり奮闘する。娘を諭し、夫を諌め励まし、少年には教える。母性的な力を発揮するエセルが良い。
ノーマンは元教授で皮肉屋で頑固者であるけれど、人生に深い洞察力を持っている。言葉はきついけれど温かみのある人間だ。自分の内面を素直に語るのが不得手である。昔はこんなおじいさんが身近にいたもので感情移入が出来る人物像である。

 父と娘の親子の絆はどうなるか。ここでは紹介はしない。観てのお楽しみだ。
最後にこの映画の名文句を紹介しましょう。
いいこと、あなたは私の白馬の騎士なのよ。白馬にまたがり私を迎えにくる。私はあなたにしがみつきどこまでも駈けて行くの。
Listen to me, mister. You're my knight in shining armor.  Don't you forget it.  You're going to get back on that horse, and I'm going to be right behind you, holding on tight, and away we're gonna go, go, go!」です。男ならこんなことを一度でいいから言われてみたいものです。
ちなみにこの映画は1981年のアカデミー賞で主演男優賞でヘンリー・フォンダ、主演女優賞はキャサリン・ヘップバーン、脚色賞はアーネスト・トンプソンが受賞した。
 ノーマンを演じたヘンリー・フォンダは1982年、エセルを演じたキャサリン・ヘップバーンは2003年亡くなった。
娘チェルシーを演じたのは、ヘンリー・フォンダの実の娘ジェーン・フォンダで、この映画を撮るまで実際に父娘の葛藤があったと言われている。

(06/02/04)


パラチオンの恐ろしさ

 高校3年生の時、父が農薬「パラチオン」で危ない目に遭いました。。
学校から帰ると8畳間に父が寝ており、母にどうしたのかと聞くとお昼までリンゴの消毒をやっていたが、お昼過ぎに具合が悪いといったので寝かしたとのこと。様子をみにいくと父は青い顔をして寝ていました。べつだん苦しがっている様子でもなかったので低血圧の症状がある父がまた、具合が悪くなって寝たんだわくらいにしか考えませんでした。
 夕方、父の具合が急変しました。
 母が私のところへ飛んできてすぐ先生を呼んでこいといいました。父が急に起きて母に何かわけのわからぬことを震えながらいい始めるし、体も熱があるし、おかしいでというわけです。母の切迫した表情から私も容易な状態では無いことを知りました。
 先生は看護婦さんと二人できて、母から容態などを聞くと注射を何十本もしました。父は注射をされるとおとなしくなり眠ったように見えました。
 先生は母と私に「これは奥さん、駄目かもしれねで、覚悟しておくりや」といったのです私はそのとき、先生にわけもわからず怒鳴っていました。確かこんなことを言ったと思います。「先生がだめっていったじゃ、だめじゃんかい、先生ならちゃんとやっておくりや」とか言った覚えがあります。
 先生はなにも言いませんでしたが、看護婦さんが「みるで心配しなんで」と言ってくれました。

 父は先生の手当てのおかげで元気になりました。
先生は、私に「俺も駄目と思ったがよかったなぁ」といい、「あれは、パラチオンの中毒で死んでも不思議でなかったが運が良かった。父ちゃんは丈夫だ」といいました。そして「今度消毒するときにゃ、マスクしたり、ゴム手袋や合羽きたりしてやらなきゃ駄目って親父に言え」と言われました。先生を責めた自分が恥ずかしかったです。

 父はパラチオン中毒事故でした。
 私も学校で選択科目で「果樹」を専攻していました。授業のなかで殺虫剤として「パラチオン」のことを知っていましたが、こんなに怖いものだとは思いませんでした。当時私の家ではリンゴやナシの栽培をしていました。そのリンゴやナシのアブラムシやハダニ、コナカイガラムシなどの駆除を、父と一緒に雑な服装で「パラチオンや「ホリドール」を使い消毒していました。小さな虫は死んでも人は死なないとパラチオンを甘くみていたのです。
 新聞には時々中毒事故で農家の人が亡くなるという記事を読んでいましたが、まさか、身近で起こるとは考えもしませんでした。
 
 以後、父は気を付けるようになり、私も暑くても合羽を着用、防備をして手伝いました。
パラチオンは有機リン系殺虫剤でDDTやBHCに比べ、強力な殺虫剤であることから、当時多くの農家で使われました。1944年にドイツのバイエル社で開発されたものですが、農薬取締法で登録されいて、毒性が急性なため(特定毒物)購入するときははんこが要り、書類を書かなければいけませんでした。使い方は、消毒は気温が高いときに行なったり、無防備のままで行う事を禁じられていましたが守られないことが多く、多くの農家の方が亡くなりました。このため1971年に登録は失効になりました。パラチオンより毒性が少し劣る「ホリドール」でも多くの方が亡くなっています。ホリドールは室内でゴキブリなどの駆除に使った人もいて中毒事故が多発しました。またパラチオンやホリドールを自殺用に買う人もいて社会問題にもなりました。ホリドールも1971年に登録が失効になり、いまは販売されていません。

 ひやひやしながら使うという恐ろしい農薬でした。
(06/01/30)


冬の単独行

 浦松佐美太郎という人の「たった一人の山」を真似たわけではありませんが私の冬の単独行は木曽駒ヶ岳から宝剣岳でした。
 木曽駒ヶ岳を選んだのは日義村の友が当時木曽地区の遭対協(遭難対策協議会)に所属していて木曽側に精通していること、既に彼と前年の冬、駒ヶ岳に登ったことがあり、もしものとき小屋が沢山あるからというのが理由です。「また、おれもいくから」といったことで計画が進みました。

 木曽駒ヶ岳は高校時代(三年の夏)に土日をかけての山行で苦い経験がありました。このときは大原からのコースでしたが、終列車に乗り遅れ二人で月曜日、みんなが通学する列車で帰宅したのです。当然学校の知ることになり、担任から厳重に注意を受けました。このときは一緒に行ったのが級長であったため説諭という比較的軽い処置で済んだのです。「級長と一緒じゃなきゃおめぇは停学だ」と担任から言われましたが、あとから考えると先生の立場もあり、級長を処分することができなかったのが寛大な処置に繋がった理由でした。山に登ったということより「月曜日に帰ってきて授業に遅れた」ことが問題だったのです。
 このとき、駅で途方にくれていると原野(はらの)宿の小学校の女の先生が声をかけてくれました「私の家で泊まりなさい」と言って案内してくれました。土間には馬がいて大きなひじろがあり、奥の座敷で一夜の暖かい夜を取ることができたのです。先生は「私も山が好きなの、良かったら山の雑誌を見る」といって「岳人」という山の雑誌を数冊持ってきてくれました。
 それから「親が心配するから」といって私たちの家に電話をしに行き「もう、大丈夫ゆっくり休んで」と気配りをしていただきました。先生はまだ若く美人で、私たちは先生の顔を見るのも気恥ずかしい年ごろでした。 

 日義村の友と上松駅で待ち合わせるという計画でしたが 彼は待ち合わせに現れませんでした。再度同じ山に登るということで私も彼のことを心配していたのですが、準備は単独でも良いようにしっかりしてきたので連絡は取りませんでした。こなければこないでいいと妙に覚めた気持ちでした。これは装備を調達するころから彼に引き気味の姿勢を感じていたからです。個人装備ならいざしらず、団体装備まで用意させました。
 このときになっても来ないのは、多分山に行くことを親に話していないと思われるからです。電話してこじれるよりと思い、再度用具の確認をして駅を出て、タクシーで二合目に向かいました。
 雪道をなるべく距離をかせごうと河原の護岸の直ぐ近くまで乗り入れて貰いました。車中運転手は「ひとりかい、大丈夫かい、気を付けて」としきりに心配してくれました。多分頼りない若者だと感じたことでしょう。

 今日は金懸小屋泊まりと決めていたので時間に余裕があります。河原の膝下くらいの雪をラッセルして進みました。河原の講の石碑を目印に金懸小屋への尾根の取り付きを目指しました。数日前に先行者がいるらしくかすかにトレースが残っています。だいぶ助かりました。快晴で暑いくらいです。
 敬神の滝小屋を横に尾根の取り付きで昼食を取りました。私はパンなどが駄目で米の飯でないと力が出ません。祖母が作ってくれたにぎりめしをほお張りながら、私の家では山に行くと言っても誰も反対しない理由を考えていました。「行くな」と誰も言わないのです。
 遭難事故は度々新聞を賑わせていましたが、祖母が「山なんて寒いに、うちのほうがいいぞ」というくらいで、父や母もいままで一度も「行くな」といったことはありません。

 午後3時半金懸小屋に着きました。ここは無人の小屋で冬も開いていて誰でも利用できます。ここにくる尾根道は雪も少なく膝下くらいで順調に歩けました。
小屋に入ると大きなキスリングザックが一つ目に入りました。寝袋も広げてあります。「ああ誰かいるんだ」と思い邪魔にならない場所を確保することにしました。
 夕食の支度をしているとザックの主が帰ってきました。挨拶をして聞くと今日は前岳まで散歩にということで既に駒ヶ岳には登ったとのこと、直ぐに帰るにはもったいないから今日は遊びですとのこと。28歳で単独、三重県から来て自衛隊に勤めていて明日帰ることなどを話しました。
 食事を一緒にしながら頂上の様子を聞きました。「前岳までは尾根を直上、駒ヶ岳までは大丈夫、宝剣に行くんだったら中岳を頂上よりに歩き、宝剣は下りが危ないので注意する」ことなどを教えて頂きました。こちらが聞かない限り喋らない寡黙な人でしたが、単独のいかにも経験の無い若いものを心配してのアドバイスでありました。私は前の年に駒ヶ岳までは登っていると言うことを何故か素直に話せませんでした。

 午前2時半起床 食事をしてサブザックを背負い3時半に小屋を出ました。
小屋上の急な登りを登るとテントを張るのにもってこいの緩やかな台地があり、そばに小屋があります。それからは尾根を一直線に登ります。先行者のトレースもありあまり苦労はしませんでした。
 森林限界を抜けるともう前岳です。大休止しながらアイゼンを締め直しました。目の下に玉の窪小屋、駒ヶ岳は目の前です。稜線を忠実に辿り、シュカブラのなかを木曽小屋を経て駒ヶ岳に向けてひたすら登ります。

 午前9時50分頂上に着きました。快晴です。誰もいません。360度の展望を独り占めしています。
頂上のお宮と鳥居にはエビのシッポが着いています。ピッケルを立てかけ写真を撮りました。証拠の写真というわけです。
 私のピッケルは門田(かどだ)の当時出たばかりの穴あきのピッケルでした。セルフビレイの穴が空いているやつで持っている人が少なく私がろくに使えもしないのに自慢していたものです。
 ピッケルの写真を何枚も撮りましたがどうもしっくりしません。誰もいないということがこんなに寂しいものとは知りませんでした。
前回は二人で代わる代わる写真を撮りましたが、今回はそうはいきません。

 宝剣岳に登ることに決め、体が冷えないうちにと中岳を登り宝剣山荘のあるコルに出ました。目の前に天狗岩が聳えています。目、口、鼻、耳がはっきり判ります。雪が岩についたり吹き飛ばされたりしてそれぞれの形を作っています。
 宝剣岳に登るのは見た目より簡単でした。雪がついているので夏より簡単でした。夏だとあんなところに立てるかと思うような狭いところですが簡単に立てました。
 千畳敷のカールを覗きます。深く静かです。千畳敷の小屋も屋根だけ残して眠っています。小さな祠がエビのシッポに覆われています。ここも写真を撮りました。伊那谷が綺麗にみえます。

 宝剣山荘までの下りは「行きはよいよい、帰りが怖い」というものでした。慎重に一歩一歩足を運びます。スリップすれば木曽側滑川の本谷に一直線に飛ばされます。落ちたら下まで行くでしょう。誰も確保してくれないので自分だけが頼りです。クラストしているのでアイゼンがよく効きます。やっとコルに着きました。

 コルで大休止をしました。持ってきたチョコレートを食べぼんやりすることができるようになりました。もう1時近くです。三沢岳に続く稜線が見えます。一人で楽しんでいるのがもったいないような景色です。南アルプスの北岳、甲斐駒もみえます。あそこもいつか行って見たいところです。
 帰りは一瀉千里に飛ばしました。中岳は夏道沿いに木曽側の谷を見ながら駒ヶ岳を捲き前岳まで歩きました。
 前岳でまた大休止、御岳がよく見えます。すぐそばに牙岩、麦草岳に続く稜線があります。木曽の里も見えます。前岳からの下り樹林帯に入るともう緊張するところはありません。アイゼンをはずしオーバーシューズだけで樹林帯のなかを下ります。

 午後4時金懸小屋に着きました。
もう、三重の人はいませんでした。今晩は一人です。トリスと干鱈を仲間に夕食をとることにしました。明日は帰る日だゆっくり寝ようとしやわせな気分でした。

 今日は帰る日です。予備日が1日あるとはいえもう登るところは登ったし帰ろうと思いました。いつも山から帰るときは不思議な気分になります。山に来たのに家に帰るのが山登りみたいになってしまうからです。家に帰るために山を登っているみたいになってしまうことです。
「お前は考えすぎだ、ばかなことを考えるな」と友達から言われたこともありますが今もってよくわかりません。
 
 二合目の近くに小屋がありました。お昼近くだったのでここで休んで行こうと足を止めました。なかに入ると「やあ、やあ」と言われお茶を戴きました。なかにはこれから登るという名古屋の若い私くらいの年齢の二人組がいました。小屋の主人である原さんという夫妻が出てきてちょっと話をしてやって欲しいというので駒ヶ岳のルートを説明しました。
 何でも今日はここに泊まり明日の朝出発するとのことでした。原さんは私に今日はうちに泊まって明日帰ればというので、予備日のあった私は1時間で上松駅に出られるのを止めて甘えることになりました。もう少し山の匂いのするところに居たかったのです。
 その晩はご馳走でした。ニンニクの沢山入ったジンギスカンで、お風呂まで入ることができました。さしかけ屋根の五右衛門風呂です。お風呂に入るころから天気がおかしくなりました。大粒の雪がざんざんと降ってきたのです。トタン屋根の破れたところから雪が降り注ぎます。それでも雪見の風呂と洒落ていることが出来たのは私だけで、これから登ろうとしている名古屋の二人は明日の天気を心配していました。
 小屋のラジオは低気圧の接近を報じていました。二、三日おぞい天気がつづくようでこの分では登山は無理のようです。

 案の定あくる朝は30センチを越す大雪でした。しかもまだ降っています。
名古屋の二人は帰ることに決めたようです。私もいい天気の時登れたことをありがたく思いました。三日間も快晴だったし、ラッセルもしなくてよかったし、すべて順調に運びました。前岳までの樹林帯のラッセルは一人ではどうにもならなかったでしょう。
 一人でもやれるとおおいばりすることができたのは天気のなせる業で私の実力ではなかったのです。
原さん夫妻にお礼を言い、上松駅まで雪の降るなか道の無い道をラッセルしながら歩きました。山でラッセルせず里でラッセルです。3時間もかかって駅に着きました。もうびしょぬれです。
 
 いま、二合目近くの道沿いにあった原さんの小屋はありません。新しい林道も作られ、河原の護岸の様子も変わりました。
 蕎麦粒山を登った帰りに訪ねたことがあります。小屋のあった場所にわずかな痕跡がありました。風呂場の脱衣室のトタン板の壁とみられるものが打ち捨てられていました。破れた屋根から五右衛門風呂に降り注ぐ雪を思い出します。

 冬の単独行は友のこないことから始まりましたが、天気に恵まれて無事目的は達成できました。単独行はいろいろな制約がありますが、単独行ならではの楽しみもあります。自分をみつめることもでき、好きなところで休むこともできます。無理をしないでまたやってみようと思った二十歳の1月の冬でした。


初めての山

 小学生の頃から西山をみて育った私が、始めて自分の意志で山に登ったのは高校2年の夏休みである。
以前から身近な里山には炭焼き、刈り敷き、草刈りなどで登ってはいたが、登山といえるものではなく、登山といえるものは中学のとき学校登山で乗鞍岳に登ったくらいであったのに、ひょんなことから「初めての山」が始まってしまったのである。

 中学で仲の良かった同級生に「おい、夏休み、山にいかんか」と誘われたのである。
計画は、「初めての山」ということで東山から高ボッチ、鉢伏山を経て美ヶ原までの2泊3日の山行である。この計画は流行の「表銀座縦走」とは一線を画し、身近な山を縦走しょうとするもので、「身近な山を知らずになんで槍、穂高だ」という気負いがある計画だった。
 塩尻峠から出発して美ヶ原まで、途中扉鉱泉付近で一泊、美ヶ原台上で一泊する予定で、もう一人同級生を誘い三人で行くことになり「初めての山」のスタートとなった。

 1日目
 塩尻峠でバスを降り、東山、高ボッチ、鉢伏山と同級生3人という気心の良さからわりわりと越え、鉢伏の鞍部から扉鉱泉へ無事降りることが出来た。天気は良くすべて順調だった。
 「さて、きょうのお宿は」ということで扉鉱泉下の河原にテントを張り、夕食をすませ眠りにつこうとしたとき、大雨が降って来たのである。
 このあたりから仲間の気持ちがすれ違うようになる。河原でのキャンプの是非、キャンプの移動、計画の不備を突く者、どうする鉱泉に泊めてもらうかなど不平不満続出。混乱をきたすが衆議一決、扉鉱泉に泊めてもらうことになり、雨の中を扉鉱泉宿に向かう。宿のご厚意で泊めて貰える。就寝。

二日目
 扉の鉱泉宿にお礼をいって2日目スタート。快晴。
全員気持ちが乗らない。夕べの蒸し返しをする。どこを登って美ヶ原に行くかでもめる。地図を出すが現在地と登る尾根がわからない。そうこうしているうちに山仕事のおじさんに会い、登り口を訊くが「そこをまっすぐのぼりゃーつくよ」といわれ目の前の尾根を全員ひとことも言わず登る。
 気負いこんで色々詰め込んだ私のザックは重い。なんでこんなに重いのだ。
やっと見晴らしがきく場所に出る。ああ、茶臼山だ。台上に出ても気持ちが晴れない。山本小屋は目の前だ。
 山本小屋に到着。休憩。
 会話が少なくなっていたのにここでまた問題が起きる。一人が親父と仕事の約束をしていて今日中に帰らないと殺されるといい始める。「なんだ、2泊3日って約束だぞ。最初から言えばいいじゃんか」と、またもめる。
 結局、泊まると親父に殺されるかもしれない彼に説得もきかず彼は帰ることになる。三城からのバスに乗るため彼は帰る。気まずい別れだ。残った二人は「どうする、こうする」で言い合う。一人が「金があるでおら、小屋に泊まる」と言いさっさと小屋に行ってしまう。
 残った一人(私)には食うものはあるが小屋に泊まるだけの金はない。帰りの電車賃しかないのだ。決断の時だ。
一人でキャンプしようと思ったが無性に帰りたくなる。「かえるぞー」
 三城まで歩く。最終バスはもう出て明日まで無い。親父に殺されそうな彼はバスに乗れたのだ。
帰ると決めたので一気に電鉄浅間線桜橋停留場まで歩くことにする。夜の山辺の里を大きなザックを背に祖母がくれた氷餅をかじりながら歩きに歩く。
 松本駅から最終の汽車に乗り塩尻駅から家まで約4`の道は暗く遠く、永かった。

3日目
午前1時に家に到着。祖母が「はやいなぁー、うちはいいずろー」というが足が豆だらけで痛い。肩も痛い。祖母に布団を敷いてもらい就寝。
 私の「初めての山」の顛末である。

 あの気まずさを皆それぞれ胸にしまったが、その後尾を引くことはなかった。
 一緒に登り親父との約束を守った彼は大学に進み、新潟県の高校の先生になった。新潟地震のときは真っ先逃げ出したという。現在は糸魚川市に住んでいる。いまも同級会があるとあのときの話が出る。
 小屋に泊まった彼は平成16年11月13日、病気で亡くなった。生きているときは自分のことより人の面倒ばかりみていた。絵がうまかった。もう逢えない。
私はいまでもあの計画は良かったと思っている。塩尻峠から美ヶ原だぞ。
 いま歩けといわれても歩けるかわからないが、東の山並みを目で辿ると3人が2日で歩いた昔がよみがえる。


戦地に行った写真

 私の母は大正5年南安曇郡温村で生まれました。いま、三郷村と呼ばれているところです。
  父に嫁いだとき、24歳だったといいます。父は25歳母より一つ上でした。 私が生まれたのが昭和15年ですから、結婚してすぐ私を生み、弟は昭和17年に生まれました。
 父は1人息子でしたが、父親はすでに亡く、農学校を出て家を継いでいました。
父へ召集令状が来たのは弟が生まれ、まだよちよち歩きが出来るかどうかのときだったということです。
 父が出征後の母の苦労は大変なものだったと思います。おんな手ひとつで父が復員するまで頑張りとうしたのです。
 右の記事は平成5年、4月29日信濃毎日新聞の「らいふ&ふぁみりー」というコラムに掲載されたものです。母は嬉しかったようで、子どもたち(戦後2人生まれた)4人にこの写真と記事の切り抜きをくれました。
 この写真にはエピソードがあります。
 右から2番目にいるおじさんは洋服の仕立て業をしていました。そのおじさんに抱かれているのが私です。私を可愛がってくれました。「だょだぞー」といってよくお茶を誘ってくれたそうです。高校野球の観戦が好きで、私が高校を卒業する頃まで一緒に松本の県営球場へ観に行きました
 それから、よく見えないのですが左に屋根のように松の枝が積んでありますが、ハシゴのその途中におじさんがいます。写真を撮るといったら「仕事しているようにみぇねーで」といってかいかい(どんどん)とハシゴを登って行ってしまったとのこと。
 このおじさんは力がありました。大きな体をしていました。父の復員後も稲刈り、はぜかけの作業と、お手伝いをして貰ったのですが、カケヤも使わず腕の力だけでハゼ足を突き刺し、ハゼを作ってしまいました。このおじさんのハゼは雨でも、風でも倒れませんでした。
 祖母も祖母の姉も写っています。左で祖母の姉に抱かれているのが弟です。母は牛のたずなを取り、その右にいるのが祖母です。
 戦地から帰ってきた父も亡くなり、近所のおじさんたちも祖母も祖母の姉も亡くなりました。牛も歳をとり売られて行きました。
 母は今年90歳になりますが、いまも元気です。




追記(06/10/26)
 母は5月頃より体調を崩し、入退院を繰り返していましたが、10月23日亡くなりました。大正・昭和・平成の時代を立派に生き抜きました。母の願いは「もう戦争のない世の中になること」「親子みんなで仲良く暮らすこと」「体を大切に使うこと」でした。