地元学
     

地元学とは地元の人が主体となり地域外の人の視点や助言を得て地元を客観的に知り、地元を再確認することです。
 地元学は水俣市の吉本哲郎さんが主宰されました。
住んでいる人にとってあまりにも身近になってしまい、気づかない地域のさまざまな個性・魅力を自分たちの力で見つめ直し、あらためて発見する取り組みです。
塩尻市も楢川村と合併し、新たなスタートをしましたが、新しい地域の魅力をみんなでいろいろな面から再発見できればと思います。


一里塚を探す
 塩尻宿東端(柿沢)の一里塚はどこに


 塩尻宿のマップを作る中で、宿の東端にあったという「一里塚」が話題になりました。
道の両脇に一里ごとに塚を築き、木が植えられたという一里塚ですが、塩尻市域の中山道でも現在まで残されている塚は限られていて、往時のようすを知ることが難しくなっています。
 昨年の10月16日に開かれた塩尻宿のマップづくりの学習会の講演で、講師の太田秀保先生は、一里塚に触れ、「痕跡が残っていないが、どこの場所かぜひとも明らかにしたい」といわれました。私も前から失われた一里塚が気になっていました。
 下諏訪宿から塩尻峠を越えた中山道では、東山の松井橋の近くに南側の塚だけが残されています。木は残されていません。ここの一里塚は太田南畝が『壬戌紀行』で「左にいの字山というあり。げにもいの字の形したり。芝山なり。一里塚をこえて小流あり。板橋わたりて立場あり。」と書いています。
 ここの一里塚から中山道は塩尻宿に下っていくのですが、宿の東端にあったという一里塚の場所が特定できないのです。このため、塩尻宿のマップに「一里塚跡」として載せることが出来ませんでした。

 この検討のなかで、「やれ、何々さんの前だ」とか、「いや、御旅宮(おかりや)のところだ」とかそれらしい距離のところが話題に上りました。
「御旅宮・御旅社(おかりや)」というのは、阿禮神社の祭礼の際に奥社から神様をお迎えし、一晩お泊まりしていただく宮です。このあたりが塚の有力な所在地に上りましたが、塚が現存していないだけに確定することはできず、最終的にマップには載せないということになりました。

 何とか探せないものでしょうか。
 堀内千萬蔵の『塩尻地史』は、そのなかの塩尻宿口留番所の項で、口留番所にふれ「それは宿を外れたる北側(塩七六番 当時其東隣に一里塚があった)に建てられ・・」と記しています。これからすると口留番所の東隣に一里塚があったということになります。言い伝えられたことを記したのでしょうか。
 長野県文化財保護協会が遍した『中山道信濃二六宿』には宿の成立にふれ、「塩尻峠の西麓と塩尻宿の東端に一里塚も二基ずつ新設された。」と簡単に記していて、その場所を書いていません。
 『塩尻町誌』は「当地付近で之が設置された場所は、塩尻峠・塩尻上町上・桔梗ヶ原等であったが、今は峠下に一ヶ、桔梗ヶ原に二ヶ、其の昔の面影を止めているだけで、塩尻宿のものは摩滅して其の痕跡さへ見る事が出来ない」としています。
 
 前述の太田南畝はここを歩きました。享和2年(1802)のことで、その時の『壬戌紀行』に平出の一里塚と塩尻峠の一里塚を書いているのに、塩尻宿東の一里塚を書いていません。このとき南畝は、「塩尻の駅は去年の冬左がはの民家やけて、あらたにいとなみたつるもあり」と記しています。続いて「右に三河道あり。左に寺あり。土橋をわたりて柿沢村也。石に二人のたてる形をゑりたたるは、道祖神にや。」と、塩尻宿が前年火事に見舞われたこと、現在、三州街道とよばれている道も書き、寺、土橋、柿沢村に入り荒井の道祖神とみられるものも見逃さず書いています。南畝は、その土地の景観や地名、名品をも書き残していることから観察眼の優れた人だったと思います。お寺は永福寺になるのでしょうか。土橋はどこの土橋でしょう。
 
太田南畝が歩いたのは享和2年(1802)のことですが、その2年前の塩尻宿のようすはどうだったでしょう。
 寛政12年(1800)に書かれた「御分間御絵図宿方名細書上帳」は「宿内往還長八町弐拾八間三尺」と書き上げられ、そのうち「地子御免許地五町四拾間四尺 御免地宿前後御年貢地弐四拾七間五尺 内四拾六間四尺片側」となっています。これは宿ができた頃の地子御免許地より、前後に御年貢地といわれる家ができたことがわかります。つまり年貢を課せられる家が前後の地に伸びて宿が広がっていったことがわかります。また、宿内往還のようすを「往還傍木杭之儀無御座候 宿内並木無御座候」と記し、傍木や杭、並木が無いことを書き上げています。一里塚は、「当宿より洗馬宿間 壱里塚 壱ヶ所 但左右松木立平出村地内」と記しているだけで、宿東端にあったといわれる一里塚は書上げられていません。
 「御分間御絵図宿方名細書上帳」は、御絵図作成のために塩尻宿が書上げた書類ということになりますが、『五街道分間延絵図』(正式には「五海道其外分間見取延絵図」)のために書かれたものです。『五街道分間延絵図』作成の命が出されたのは寛政年中(1789~1801)のことで、文化3年(1806)に完成していますが、『中山道分間延絵図』はこの一部なのです。


 書き上げた塩尻宿の明細帳に一里塚がないのに『中山道分間延絵図』では一里塚が描かれています。絵図には江戸方面から縁並土橋を越え、永福寺を右に見て、両側に描かれていて、縁並土橋から町頭板橋までの間には家があります。町頭板橋の東(江戸の方)に丸印で塩尻宿と書かれています。
 これで理由がわかりました。つまり、ここが宿と柿沢村の境になっていたのです。塩尻宿では他村のことを書上なかった可能性があります。これで絵図で一里塚が描かれているところは塩尻宿ではなく、柿沢村ということになります。絵図の「絵図併大概書」に「集落の両界を道路に接するものは朱の丸印で区分した」と書いてありました。また、解説編(監修児玉幸多・解説山本光正)には「柿沢村のはずれにある一里塚を過ぎれば塩尻宿である」としてあります。つまり柿沢村と塩尻宿の境に一里塚があったということになります。
 絵図には、町頭板橋のすぐ左へ参州遠州への脇往還が描かれています。現在の三州街道になりますが、「継場北小野村江道法二里」と書かれています。この道の東あたりに柿沢の一里塚があったのです。『中山道分間延絵図』には、現在無くなっている一里塚が描かれている事がわかりましたが、柿沢村で書上げた文書(明細書上帳)が伝えられているのでしょうか。残っていれば読んでみたいのです。

では、この一里塚がいつごろ無くなったかがわかるでしょうか。
寛政年中(1789~1801)に作られていた『中山道分間延絵図』に描かれています。 
享和2年(1802)に太田南畝は『壬戌紀行』には記していません。(南畝が見落とした可能性がありますが)
 この寛政まであったとみて、柿沢村の明細帳で享和以後のものや、塩尻宿・塩尻町村で寛政以後の記録に塚がどこにあったか書かれていないでしょうか。時代は文化・文政・天保と続きますが、柿沢村の明細帳が寛政12年(1800)に提出されたとすると明治になるまでの68年間の間に失われたと解釈していいのでしょうか。このころ柿沢村や塩尻宿に何があったのか知りたいものです。
『中山道分間延絵図』丸印柿沢一里塚

 前置きが長くなりました。
一里塚を探す手立てを考えないといけません。
この『中山道分間延絵図』から場所を探せないものでしょうか。
「絵図併大概書」には「縮尺は一里を曲尺七尺二寸とし」(原本)として著しているのですが、この絵図は同時代のデフォルメされた多くの名所案内絵図より縮尺が正確だといわれています。私の持っているのは東京美術が復刻したもので、原本絵図の天地幅二尺を縮小したものです。この絵図から探せないでしょうか。
 長さの単位は1里=36町、1町=60間、1間=6尺という六進法の部分と、1尺=10寸、1寸=10分 の十進法の部分とがあります。
 これらから一里が曲尺七尺二寸なら720分/36×60間=1分/3間で、縮尺は 1/1800 ということになります。復刻版は60.6%ですから1800/60.6=1/2970 という縮尺になります。
 この復刻版の『中山道分間延絵図』から実際の距離を出してみることにしました。
絵図で縁並土橋から京都方に一里塚まで測ると5.4センチありました。
このことから5.4×2970=16038とでました。縁並土橋の中心から約160メートルのところに一里塚があることになります。
口留番所の木戸の中心から江戸方へ3.7センチ、こちらは3.7×2970=10989ですから約109メートルの距離にあることになります。
つまり、京都方へ160メートル。江戸方へ109メートルの場所が絵図に描かれている「一里塚」となります。
これを基準に
読み取りの誤差を1ミリ多かったとすると5.5×2970=16335(縁並土橋) 3.8×2970=11286(口留番所)となり
読み取りの誤差を1ミリ少ないとすると 5.3×2970=15741(縁並土橋) 3.6×2970=10692(口留番所)となり
縁並土橋から京都(平出)方面へは、約163~157メートルの範囲に 
口留番所から江戸(東山)方面へは、約112~106メートルの範囲になり、約プラスマイナス6メートル前後の間になります。
 ここの現在は、縁並土橋から京都方への道は僅かにカーブしていますが、口留番所から江戸方へは直線です。
 この計算はあくまで1/2970 という縮尺の場合です。原図の縮尺の分母が大きくなれば復刻版の縮尺で距離も変わることになります。そして絵図の歪みも考えなくてはなりません。また、一里塚は塩尻宿のある塩尻町村でなく、柿沢村の地籍でなければならないということも前提になります。
 これらから実際に絵図を元に一里塚を探すとなると、基準となる縁並土橋が、絵図の時代から現在まで移動していないことが前提になります。口留番所も同じことがいえます。

 なにかほかの方法がないでしょうか。
 実際に東山の一里塚からと、平出の一里塚から一里ずつ歩いて測ってみたらどうだと提案されました。つまり一里(36町)3.927キロメートルを、それぞれの一里塚から歩いてその交点を柿沢の一里塚とするものです。この場合両側の一里塚の場所は特定されていますし、中山道の道筋も東山の1ヵ所を抜かすとほぼ道筋は特定されています。何かイベントでもやりながら大勢で気軽にやれば面白く探すことができるかも知れません。
 間宮林蔵も伊能忠敬も実際に歩いて測量したのですから、やってみる価値は大いにあります。地図などで二点間の距離は測れても地形上で高低があると正しい距離が測れないことがあります。水平なところばかりとは限らないからですが、実際に歩いてみることでようすを知ることも出来ます。
 この方法でも問題があります。それは東海道や中山道で残されている一里塚の距離が正確に一里、3.927キロメートルごとにある一里塚が少ないからです。
 
 絵図縮小版から距離がおおよそわかったので、確かめるため緯度・経度から距離を計算してみようと考えました。
これを国土地理院の電子国土地図で緯度・経度を測って見ました。これで、地図上の任意の2点間の距離を測定することができます。
 先ず縁並土橋の座標は橋の中央で、緯度 36度6分 2.386秒 経度 137度58分55.473 秒 でこれは現在の縁並橋になります。
 口留番所の前の道の中央で、 緯度 36度6 分6.798秒 経度 137度58 分45.825 秒 と出ました。
これから絵図の一里塚があったと思われる場所の座標を仮に設定して試みに計算してみました。これが下右の図表1です。
(左地図は縁並土橋と口留番所の座標)

 私が前々からこの辺りではと思っていた場所の座標は図内の番号3番で、緯度 36度6 分4.870 秒 経度 137度58 分50.001 秒 のところです。
縁並土橋から距離:156.832(m)となり
口留番所から距離:120.176(m)となります。
計算からすると絵図の縮尺の距離にとても近いのですが、ここでしょうか。

 もう一度西に座標を移してみました。
永福寺に行く道の交差点東角にとってみました。
その座標は図内の6番、緯度 36度6 分5.054 秒 経度 137度58 分49.501 秒です。
縁並土橋から距離:170.520(m)
口留番所から距離:106.509(m) になりました。
 先の計算より少し増減した数値です。
絵図の読み取りから想定した範囲163~157メートルの縁並土橋よりちょっと長く、口留番所から112~106メートルの範囲にわずかに入ります。

最後に御旅宮(おかりや)の座標で計算してみました。図内の11番になります。
緯度 36度6 分5.842 秒  経度 137度58 分47.701秒です。
縁並土橋から距離:221.676(m)
口留番所から距離:55.409(m)となりこれは想定した範囲内に納まりません。どうも御旅宮(おかりや)のところではないようです。ここは塩尻町村の地籍です。
 以上、この計算は現在まで縁並土橋と口留番所が動いていないという想定です。

 これで、一里塚のあった場所が浮かんできました。
 縁並土橋から京都(平出)方面、約163~157メートルの範囲で、口留番所から江戸(東山)方面、約112~106メートルの範囲内を満たした場所はありませんでしたが、図内の番号4・5・6番がどちらかの範囲に入っている最も近い距離の場所です。
 当初の一里塚の大きさがどのくらいあったかはっきりしていませんが、平出の一里塚が、東塚は周囲50メートル、高さ1.7メートル、頂上の直径15メートル。西塚は周囲45メートル、高さ2メートルのものが現存していることから、平出並みだとすると想定された範囲に入る場所はかなり広くなるということになります。また、東山の一里塚は、幅12m奥行13m高さ4mの塚といいます。どちらにしても塚は小さく見積もっても約9メートル前後(五間四方)の幅を持った塚が建てられていたことになります。
 これらから柿沢の一里塚は、交差点東角の吉江宅とお隣の吉江宅、南側の田中宅と手塚宅を含めた辺りにあったとほぼ推定できます。ここは柿沢の地籍になります。
 これは机上での地図の緯度・経度をもとに、おおよその距離を測定して計算したもので厳密なものではありません。あくまでも橋や番所が動いていないとして、推定した場所です。地図上でなく実際にその場所に立って距離を計測する必要があります。これによってよりはっきりわかってくると思います。歩測や巻尺、間縄、間竿などでも短い距離ですから十分ですが、今の人たちはGPSやレーザー距離計なんていうでしょうね。
 (左地図は推定した場所

 最後に触れたいのは、伊能忠敬が文化6年(1809)に行った測量のことです。
 伊能忠敬は、第7次測量の際、塩尻宿で泊まっています。9月28日(西暦11月5日)に下諏訪丸屋要四郎に宿泊、恒星測定をして、翌29日塩尻峠を越え銀杏屋佐市と藤屋勝治に泊まっています。この夜は天体観測はできませんでした。30日本山宿の小林吉左衛門に止宿しています。
 このようすを東公民館のふるさと歴史講座で太田秀保先生が、「塩尻宿を通った人たち」で次のように紹介しています。
「九月廿九日 朝晴天 先後手六ツ時前後下諏訪出立、後手我等青木梁田上田長蔵同所より初、友ノ町村、東堀村、戸川、西山田村(地先僅か卅二三間、人家は右五六丁)小井川村(立て場四ツ屋、家五六軒本村ハ右ノ方ニあり)今井村(小休、家作りよし、紀州殿の休所ニなりよし)(東堀辺より急に雪降出し今井村にては盛んなり)を経て塩尻峠の上迄測る、下諏訪より峠迄五十八町五十五間二尺、九ツ頃峠にて雪止む積ルコト一寸(即諏訪郡筑摩郡堺)峠を少し下て(柿沢村出張茶屋傳次郎こて中食)後手坂部下河辺永井箱田平助塩尻峠の上より初柿沢村(中食)を歴て塩尻宿迄測る 峠より四十七町五十間、下諏訪より当宿へ三里、九ツ後先後手一同ニ着、実測二里卅四町四十五間二尺、止宿銀杏屋左市藤屋勝治、此夜曇天不測」
 朝、7時前後に宿を出て、先手、後手と分かれ、峠でお昼ごろ雪が止んだこと、塩尻宿までの距離を測り合流したこと、その夜は曇りで天体観測ができなかったことなどがわかります。測量しながらの移動でかなり大変な作業であったのですが、前半(先手)を測量する組と後半(後手)を測量する組の二手に分かれ、後半組は夜明けの一刻ばかり前に宿を出て、前半組の担当部分を通り越し、夜明けと共に受け持ち部分だけを測量するという合理的な方法で測量したといいます。もちろん前半組は後半組の部分は測量せず追い越して宿で合流したのでした。
 なお、忠敬は『山島方位記 』で塩尻峠で富士山の方位を測定していたことがわかっています。富士山より一番遠隔地の観測地点 北として塩尻峠で「小半円方位盤辰二二分五〇秒(辰二二度五〇分)甲方位盤辰二三分(辰二三度)下方位盤辰二二分五〇秒(辰二二度五〇分)」と測りました。南は東京都の御蔵島小白潟、西は三重県志摩市国府中ノ浜、北東は栃木県那須町の越堀芦野間の柏平で測っていたという研究もあります。(伊能忠敬研究 第47 号佐久間達夫・伊能忠敬記念館元館長2007 年)
 伊能忠敬一行は文化6年(1809)に塩尻宿まで測っていますから、一里塚があれば当然自身の「測量日記」に記録したと思いますがどうでしょう。
 伊能忠敬一行が泊まったのは銀杏屋左市と藤屋勝治の宿ですが、銀杏屋というのは国の重文に登録されている「いてふや・小野家住宅」になります。小野家にはこのころの古文書が文庫に残されているといいます。整理されて公開されれば読んでみたいものです。伊能忠敬一行のことを記録しているでしょうか。それから一行が分かれて泊まった藤屋勝治という宿はどこにあったのでしょう。探してみたいものです。

 失われた柿沢の一里塚ですが、おおよその場所がわかりました。
今年は「まちづくり」の観点から失われた一里塚を楽しみながら探すという企画をたてみんなで歩きたいと思います。                              

(11/03/30)


塩尻宿のマップ完成




 悠々くらぶ・町区が昨年から手がけていた塩尻宿のマップができました。「中山道 塩尻宿往来」という名前のマップです。
悠々くらぶ・町区は、地域に存在する文化や文化財を探り、知り、学び、後世代の人たちに伝えるための諸活動を行うことを目的に昨年の春、結成されました。その結成総会でマップづくりが取り上げられ塩尻宿のマップを作ることになりました。
 
 塩尻宿のマップについては思い出があります。塩尻東地区地域づくり連絡協議会歴史・文化部会の席上、部員の近藤彦一先生から「中山道塩尻宿」と題した手作りのマップを頂きました。「中山道分間延絵図」をもとに先生が平成19年に作ったA3版の地図でした。先生はもっと大きな地図で塩尻宿を紹介したいと意欲的でしたが、病を得られ帰らず、先生の願いは歴史・文化部会で「塩尻東歴史マップ」として生きることになりました。
 図らずも今回、先生の「中山道塩尻宿」が、「中山道 塩尻宿往来」として先生の遺志を継ぐかたちで完成したことに特別な思いを抱きます。
 
 この「中山道 塩尻宿往来」マップは塩尻市の協働のまちづくり事業の補助金をうけて、悠々くらぶの会員がそれぞれ役割を分担して、何回も会議を持ち、タイトル、レイアウトやデザイン、解説面の原稿を練ってきたものです。最終的に広げるとA2版の大きさになり、携帯時の利便性を考えて蛇腹折りでA5の大きさになるようにしました。くらぶではこれらの検討や審議と並行して塩尻宿の学習会や太田秀保先生を招いて「塩尻宿の成り立ちとその概要」の講演会も開きました。
 
 マップの表紙は「中山道分間延絵図」で飾りました。ここを開くと散策するに便利なように塩尻宿の史跡や神社、寺、国の重要文化財の「小野家住宅」同じく登録有形文化財の「笑亀酒造」の穀倉の写真を載せてあります。また、道祖神の写真も合わせて載せ、明治15年の大火で焼失した本陣の写真も載せています。
 主な史跡には番号をうち、裏面の説明文と連動させて、より詳しく知りたいという人の利便を図っています。
特色は、現在の地図を下敷きにして、宿のようすがわかるように表しています。宿の地割り、町割りが想像できるようになっていて、宿場用水や、宿の南北を貫く裏道も載せています。塩尻宿の概要と中仙道制定以前にあった「塩尻之宿」現、古町も「旧塩尻宿」として載せています。

 裏面は掲載項目を祈る、住む、史跡を巡る、歩くをキーワードにまとめてあります。
祈るでは
 阿禮神社、御旅宮、永福寺(旭観音・仁王門含む)、薬師堂・脩(修)践社
住む
 小野家住宅、笑亀酒造、鉤の手、小坂田池
史跡を巡る
 飛脚問屋、口留番所跡、問屋場 上・下問屋、本陣跡、、脇本陣跡、陣屋跡、駕籠立場跡、高札場跡
歩くでは
 中仙道、五千石街道、伊那(三州)街道
の解説文が載っています。これらのほかに年表「塩尻宿のおもな出来事」を永禄6年から明治元年までまとめて載せています。宿のおもな出来事を年代別に簡潔に記してその頃のようすがわかるようになっています。
 阿禮神社の祭典で曳航される祭典舞台、下町(宮本町)仲(中)町、室町、上町の4つの煌びやかな舞台も紹介しています。

 「中山道 塩尻宿往来」が、明治15年の大火で失われてしまった塩尻宿のようすを次世代に伝えるきっかけになればいうことはありません。子ども達がこのマップを片手に塩尻宿を探る旅に出てくれることが悠々くらぶの希望であり願いでもあります。説明文は小学生の高学年なら理解できるよう配慮しましたが、難しい言葉や言いまわしは特別注釈は付けませんでした。友達や先生、家族で取り上げていただければ解決するができます。マップを見ながらみんなで話題にして頂いて地域のようすを探り、知ることができればと思います。
 マップは塩尻市の観光協会、駅前の観光案内所においてありますので見ていただくことができます。

 
(2011/03/28)
 


塩尻東こぼれ話   地名「おっ掘」について

 ある会で「おっ掘」という小字を聞きました。お聞きすると「おっぽり」と呼ばれているとのことで、小坂田溜池の堤が決壊して金井田地まで押し流したことがあり、その際の名であるとのこと、その跡が「おっ掘」と呼ばれているということでした。
 小坂田溜池は『塩尻地史』によると、寛永のころ藩主の御普請にて寄夫で築造したが、翌年大決壊をしたと記されています。その後打ち捨て置き、寛文5年頃、藩主水野侯が寄夫で築き立てたといいます。
 この地名といわれる「おっ掘」ですが、以前、読んだことのある信州塩尻組柿沢村の熊谷家の文書に、興味ある口碑が記されていました。古道が「武田領下の道路丸山の東遍より同麓を経て田川浦遍分岐する当時の部落上際より武田が架設せしといわるる庄の濠跡(濠ポリ)を経て四澤川を渡り大宮八幡の南遍に通せると口碑す」と出てきます。庄の濠跡(濠ポリ)を経てとありますから、この道筋に濠(ポリ)があったのでしょうか。
 濠跡(濠ポリ)とわざわざ読み方までルビを振っていますが、この庄の濠跡がいまに伝わる地名「おっ掘」にあたるところでしょうか。下の図のどこにあたるのでしょうか。
図1.『塩尻市誌』地名地図抜粋
 更にこの庄は「柿澤岩鼻の庄」と呼ばれ、「諏訪家庄、柿澤岩鼻の庄之なり、柿澤相馬宗重初代庄司たりという」と出てきます。五代柿澤相馬宗充のとき、諏訪武田が敗れ、一時柿澤に帰農し、その場所は、「四澤川が字 岩鼻なる處の岩の突角を以て屈せる下流五、六十間迄と更に川の西屈の南方中仙道なる諏訪街道の点より南東なる現 お濠と仕捷する當りは庄の濠の存せし扁なる由 武田氏の直路となせると」と記し、「館跡は字古屋敷なりしと口碑す」と結んでいます。
 この柿澤相馬氏は天正の末ころ諏訪家が復興するや諏訪に帰っています。この「濠の水源は字 社宮寺下添いの沼地なりしと口碑す」とし、現、永福寺一帯は庄の防御帯であったとしています。

 現在、四沢川と呼ばれている川は、寛政12年の塩尻宿の『御分間明細書上帳』では、「城ヶ澤川東之方四澤より川下り田川へ落合申候川端へ宿頭より道法凡壱丁」と書き上げられていて、小坂田の堤水も「城ヶ澤川江落塩尻宿、大小屋村、堀内村、長畝村右四ヶ村にて用水仕候」と書いています。川端は宿頭より道法凡壱丁ですから100メートルを越えたくらいのところを流れていたものでしょう。

 この熊谷家の文書は、年次を書いていませんが、熊谷家で口碑(石碑に刻んだ文が長く残るのになぞらえて、口承に残った言い伝えをこうよぶ。前代の生活の痕跡を語る昔話、伝説、語り物を書き留めたもの)を書き留めたもので、史料としては信を於ことは難しいのですが、言い伝えとして柿澤村に残っていたのでしょう。
 諏訪氏を中核として諏訪明神の氏人によって鎌倉時代に形成された武士団である「諏訪神党」の歴史でも詳しく調べれば、この柿澤相馬云々のことはわかるかもしれません。この「諏訪神党」の多くは南北朝の騒乱期には南朝方として、小笠原氏や村上氏などの北朝方と戦っています。その後の時代では諏訪氏の凋落や復帰があり、まんざら根も葉もない言い伝えでないような気もします。

 口碑は「岩鼻」「お濠」「上屋敷」「古屋敷」「屋敷添」「社宮寺」「被除御堂(やけみどう)」「五輪堂」「町狩」「馬捨て場」などの地名と「柿澤八幡社」「阿禮神社」などの由来を記していますが、現在でもこれらの地名は生きています。
なお、熊谷家の文書に慶安4年(1651)の「柿澤村検地水帳」があります。その水帳に柿澤の小字が記載されていますが「おっ掘」も「お濠」も載っていません。
 明治以降の『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』別篇地名 郷土資料編纂会(土地台帳記載の地名が多数記載されているもの)にも記載されていません。塩尻村が大正7年に作った「塩尻村全図」にも残念ですが記載されていません。これを下敷きにした『塩尻町誌』の付録地図にも載せられていません。最近の『塩尻市誌』の地名地図にも載っていません。
 明治9年に塩尻村が長野県町村誌の編纂のために差し上げた記録のなかに、「屋敷城址」があります。「本村より寅の方、柿澤耕地にあり。地名古屋敷と云う。東西三十間南北二十間、今田地の内にて畑地なり。区画不分たり」とあります。伝えられたことを書き上げたのでしょうか。限られた史資料だけでの 判断は避けたいのですが、「おっ掘」といわれる地名はいつごろから呼ばれていたものでしょう。

 この「お濠(おポリ」が、現在に伝えられている地名「おっ掘」でしょうか。それともそれぞれが別々のところにある地名でしょうか。
 同じだとすると、小坂田の堤の欠けで、この「おっ掘」もしくは「お濠(おポリ」も、被害にあったことは間違いないように考えられます。また、同じだとするとこの名の由来は、池の堤欠けの被害でつけられた地名ではなく、それ以前から呼ばれていた可能性があるように思います。もしかしたら金井の青木家文書に記録があるかもしれません。
 『長野県町村誌』の「屋敷城址」の城址の端を流れていたのが、『御分間明細書上帳』に書き上げられた城ヶ澤川でしょうか。

 『塩尻市誌』の地名地図をみると、さまざまな地名がみられますが、地名地図の地字は明治初期の土地台帳を編成する際のものが元となっているといわれています。また、凸凹の地形を平面的に表す場合、実際の場所と隔たれたものになっている可能性も考えなくてはなりません。ここは実際に歩いてみて確かめることも必要でしょう。
 明治の土地台帳は明治まで大切に伝えられたという検地水帳の地字を当てたものですが、心配するのはその際に改変されていないか、正しく載せられているかどうかです。村役場の職員がどう書き表したかまで考える必要と、これら検地水帳に載せられた地名が、正確に書かれているかどうかも問われます。

 時代が移るたびに川や耕地、道路も変わっていき、言い伝えも色あせていきますが、ここは、この口碑をもう少し調べてみようと思っています。柿沢はご存知のように塩尻宿の町割り以前からあった古い村落です。「かいと」地名もみられ、地字が豊富なのでそれを頼りにもう少し思いめぐらして見たいと考えています。

(11/03/05)


玄蕃之丞の時代
「桔梗ヶ原ときつね」


 昨年の12月17日に塩尻東小4年生の遠山先生のクラスに「玄蕃之の話し」で行ってきました。遠山先生のクラスはこの春に「玄蕃之丞」という劇をやるということでクラスが「玄蕃之丞」について勉強しているとのことでした。先生のお話しでは、玄蕃之丞が活躍したころの桔梗ヶ原のようすを子どもたちに話してほしいとのことで、子ども達にわかりやすく話せるか心配でしたが出かけることにしました。老人ですので話しの要点を忘れないよう資料を簡単にまとめてみました。
 以下がその話しの資料です。

はじめに
 桔梗ヶ原に住んでいた「玄蕃之丞」というきつねの伝説は、塩尻市に暮らす人たちにとってなじみのあるものです。「塩尻史談会」がまとめた『塩尻の民話と伝説』で玄蕃之丞とその仲間の活躍が紹介されていますが、桔梗ヶ原のその頃のようすは意外に知られていません。その頃の桔梗ヶ原がどのように開発されてきたかを当時の史資料をもとに、主に宗賀地区であった桔梗ヶ原をざっと探ってみたいと思います。

桔梗ヶ原というところ
 『塩尻市誌』の別冊集落の歴史に、要約された地区の立地が書かれています。「桔梗ヶ原は奈良井川と田川に挟まれ、奈良井川によって造られた標高690-730㍍の扇状地の台地に広がる東西3キロメートル、南北5キロメートルにおよぶ広大な地域の総称である」としています。また、「古くはその範囲は北の出川あたりまでの田川と奈良井川の間を桔梗ヶ原と称した」といい、現在よばれているより広い範囲を桔梗ヶ原とよんでいたと書いています。
 そしてその台地は「大部分が奈良井川によって運ばれてきた礫層の上に、乗鞍岳の火山灰が層をなして堆積していて・・・(中略)地下水が低く乏水性の台地には一筋の流れもなく、加えて火山灰による酸性の強い土壌は長い間農耕地としてかえりみられず、古くから芝や雑木などが生い茂るままの原野であった」とその立地を紹介しています。この原野が玄蕃之丞とその仲間の舞台になるのです。

地名の初出と古戦場
 桔梗ヶ原という地名がはじめて表れるのは「矢嶋文書(矢嶋道念覚書)」です。南北朝の正平10年(1355)南朝方の宗良親王と北朝方の小笠原長基が桔梗ヶ原で合戦しました。この合戦は8月20日に行われ、南朝方の大将、矢嶋正忠は流れ矢で討ち死にしてしまい、南朝方は敗北してしまいます。この文書に「桔梗原に取陣」と出てきます。これが初めてとなります。この文書では桔梗ヶ原のどのあたりで戦が行われたかはっきり書いてないので、どこで戦われたかわかっていません。
 この戦からのちに、諏訪と小笠原が金屋(金井)で正平20年(1365)戦いがあり、その翌年の正月にも戦いがありました(「守屋文書」)。塩尻の金屋というのは現在の金井といわれ、これも金井の初出となりました。
 宝徳元年(1449)またも塩尻で合戦がありました。「矢嶋文書」によると8月24日「塩尻有合戦、上宮 打勝」としていて、場所は特定されていませんが、桔梗ヶ原の南端ではないかと掘内千萬蔵の「塩尻地史」は記しています。そして大門神社の傍にある「耳塚」はこの合戦の産物(耳をもって数を数えた)ではないかとしています。

桔梗ヶ原の近世 
 江戸時代に入っても桔梗ヶ原は相変わらず原野でした。中山道が開通し北国脇往還(善光寺道)が洗馬から郷原を通っていてもこの原野に足を踏み入れる人は少なく、近在の村の草刈り場でした。桔梗ヶ原は、床尾・平出・大門・吉田・高出・郷原・堅石・野村・8か村が入会(いりあい)秣(まぐさ)や田畑への刈敷の採集場として利用をしていたのです。
 村々に接するところは内野(うちの)と呼ばれ、原の中央部は外野(そとの)と呼ばれ、周辺の村々はひそかに畑や田を広げたためしばしば争いが起きました。元禄16年(1703))、宝永2年(1705)は村々があい争い、享保4年、(1719)寛保2年(1742)宝暦7年(1757)松本藩や幕府、松本御預役所などを相手方にして新開命令・拒否・増税命令・拒否が繰り返しおこなわれていました。

水田開発計画
 桔梗ヶ原に水田をと計画を立てた人がいました。この開発計画の詳細は林睦朗の「桔梗ヶ原開発顛末―天保年間における水田化の計画―(信濃三次5-5)」に詳しく載せられています。要約すると「文政13年(1830)床尾村の吉之助は、有志59名と123町歩を開墾、水田開発を計画しました。水を味噌川から藪原まで引き、鳥居峠を隧道で通水し、奈良井川の上流で落とし、牧野村の矢治が島で取り入れ桔梗ヶ原まで、2800間の間を開さくする計画でした。この計画は入会8か村から中止の陳情が出されましたが、水田が開かれればと妥協して双方で取り決めをして決着し、天保6年(1835)に実行に移されましたが難工事と資金、吉之助が天保9年(1838)亡くなったことから完成をみずに終わりました。
 こうして時代は幕末から明治に向かうのです。        (右の写真は大正6年頃の桔梗ヶ原)

玄蕃之丞が出たころ
 明治初年ごろの外野はまだ草原で、近辺の村から草刈りに通う道が在る程度した。明治政府は国土開発と士族の救済のため、未開原野の開発を進めました。桔梗ヶ原も外野が官有地に編入され、開拓のため住まいを設けて開墾するということになってきたのです。
 明治2年(1869)最初に開拓に取り組んだのは田中勘次郎という39歳の人でした。彼は生活に必要な水を得るため井戸を掘ることにしましたが、20㍍から30㍍も掘らねばならず、ガスの発生などに苦しみ思うように進みませんでした。そのため平出の泉から隧道で水を引こうとしましたが、1400㍍も掘らねばならずこれも途中で中止することになってしまいました。
 明治3年(1870)平出村の藤原義右衛門という人が井戸掘りに成功して、これをみた勘次郎は再び井戸掘りに挑み、今度は見事成功し、25町歩の開墾許可を得、開墾を始めました。
 明治5年(1872)桔梗ヶ原は官有地区分が行われ、344町9反1畝の桔梗ヶ原は周辺9か村165町6反5畝、秣場75町8反7畝、未開墾地100町2反1畝、ほか2町1反8畝に区分されました。このうち165町6反5畝は周辺9か村に分割され、鍬下年季10か年で新しく開墾することが許可になりました。村への分割は吉田村が最も多く床尾村、高出村、大門村、平出村、郷原町村、原新田村、堅石村、野村となり野村はわずか1町歩でした これは先ず近接した村の内野から開墾されたのです。
 外野の未開墾地100町余りも入札払い下げが行われ、南安曇野高家村の内田聡英ほか5人が1、100円で落札、同じく、鍬下年季10か年で許可になりました。彼らはこの100町歩を5000坪(1町6反6畝20歩)ごとに分割し、60戸の入植を計画して開墾を始めました。この開墾は明治14年までに入植19戸、開墾9町5畝歩にとどまり、未開墾の90町5畝歩は再び官有地になってしまいました。
 明治10年(1877)頃のようすは、『塩尻史誌』に「筑摩地村の古厩領平と塩尻村の青木禎一郎はじめ9人が桔梗ヶ原に開田するため、諏訪湖の水を桔梗ヶ原に引くことを計画して、県に願書を提出しました。これに対し県より天竜川沿岸の村々と篤と協議のうえ、故障なき場合には改めて願書を出すようにとの沙汰を受けましたが、この水田化計画をみなかった」と記されています。
 ここで塩尻村の青木禎一郎という名が出てきます。この人は金井村の生まれで地域の政治・産業・教育・文化運動に力を尽くした人ですが、この頃県会議員をしていました。この水田化計画は実現出来ませんでしたが、明治13年善知鳥峠の改修にこころざし、同14年2月に完成させています。
 明治18年(1885)高家村の内田聡英らが開墾できなかった地が、官有地となっていましたが、宗賀・塩尻・広丘の戸長役場に分属となりました。
宗賀村に35町9反3畝1歩、塩尻村に28町4畝10歩、広丘村は高出に26町7反7畝19歩、郷原に9町2反4畝20歩と決まりました。「宗賀村受地字桔梗原開墾地取調書」によると宗賀村に分けられた35町余りはさらに平出と床尾に分けられましたが、平出では各戸におおむね等分されましたが、床尾では乱雑に分けられています。そのころの村の自治のありようがわかります。
 明治20年(1887)ころより桔梗ヶ原の開発が進むようになります。明治23年(1890)には官有地の原野の払い下げが告示され、原野の大部分は個人所有となりました。

ぶどう栽培の道
 明治23年(1890)島内に生まれ松本里山辺の人、豊島理喜治が桔梗ヶ原に来て官有地の払い下げを受け、1町歩余りの土地にぶどうの苗木3000本を植え、ぶどう栽培を始めました。これが桔梗ヶ原でのブドウ栽培の始まりとなったのです。コンコードやナイヤガラという品種が風土に適したのですが、そのほかに桃、洋梨、和梨などの果樹の栽培も行い、桔梗ヶ原発展の基をつくった人です。昭和44年に塩尻市制10周年記念事業で豊島理喜治頌徳碑が総合グランドの一隅に建てられました。
 明治30年(1897)頃になると中山道沿いの宗賀地籍の桔梗ヶ原で薬草の栽培が盛んになりました。この年、塩尻尋常高等小学校(東小学校の前身)は桔梗ヶ原の沖右衛門林で春の運動会を行いました。この林はどこにあったのでしょうか。明治32年と33年にも塩尻尋常高等小学校も参加して野球大会や運動会が開かれ大勢の参会者が集まっています。
 明治35年(1902)には塩尻駅が開設され、篠ノ井線が開通、続いて明治39年(1906)には中央東線が、明治44年(1911)には塩尻から名古屋までが開通しました。
 このように桔梗ヶ原は、明治の初め頃から開拓が始まったわけですが、宗賀地区の明治40年の戸数は17戸で、大正初年に30戸、大正12年4月の区の独立時には73戸と変遷していきます。
 後の昭和20年に調査された桔梗ヶ原の「宗賀地区在住者の移住年と出身地」をみると、昭和20年99戸で、うち明治時代に入植した先祖を持つ家は26戸あります。全戸の出身地は近在の平出村が10戸、床尾1戸、宗賀洗馬が2戸、洗馬では太田8戸、小曽部6戸、岩垂2戸、上町1戸、塩尻4戸、片丘内田1戸、が近在です。諏訪・諏訪郡からは21戸、岡谷が4戸、上伊那が8戸で、他の戸は多方面にわたっています。
 宗賀地区の桔梗ヶ原のようすはこんな風でしたが他の村の地区のようすがわかればより詳しいことがわかってくると思います。


きつねとは

 「玄蕃之丞」というきつねは、人に悪さをした動物の「きつね」が、主人公になっていますが、今回のお話はちょっと違うお話です。
 「きつね」の性格について考察したのは、一志茂樹という人です。信濃史学会の雑誌、信濃第6巻に「ねずみ」と「きつね」を書きました。その要旨を紹介しましょう。
「狐については、六国史・日本霊異記・今昔物語・宇治拾遺物語・沙石集その他しばしば見えており、都に出没した狐、狐鳴きに関しての俗信、狐に関する怪異な伝説などを伝えているが、一方、全国各地にある部落名・小地名等についてみると「ねずみ」より多く、長野県内だけでも私の知っているものだけで、優に300をこえている。」とし、「それらは単なる「きつね」の名称で現れている場合は案外少なく、きつねじま・-くぼ・-あな・-ざか・-やま・-だいら・-がは・-ざき・-ずか・-はざま・-みち・-だ・-ばたけ・-やしき・-がいと等、微地形・免訴地・屋敷などを伴って命名されていること、「ねずみ」の場合と同様であるが、それらに関しては、多く怪異な狐の伝説が誠しやかに附されており・・・(中略)文字通りに動物の狐に関係してのものとして解釈できるものもないではないが、それにしては、その地名が、とかくある特定な箇処にみられることをどう考えたならばよいのであろうか」と前書きで述べています。そして県内外の「きつね」に関する文書を考察しています。
 結論はこう述べています。「狐に関しての伝説においてそれらの多くが武士の家筋のものについてであること、それらの人々が狐を冠しての呼称で呼ばれていたこと、その伝説の中に家臣(狐として)たちの動きがみられることなどを併せ考えたとき、ある必要とするところに基地を構え、そこを根拠として他の領域乃至敵陣に深く探り入って偵察し、時にはこれと交戦する能力を有し、前衛的布陣として、これを報ずる重要な役割をもった人々を「きつね」と通称したものと考えたく、後世の間諜・間者・隠密などはこの「きつね」の職能の細分化され、組織化されたものとみたいのである。」と述べています。
 そして、この「きつね」が生きた言葉として用いられた年代をこう推察しています。「ただ鎌倉時代頃の武士が往々狐を冠しての呼称で呼ばれていたところをみると、当時盛んに俗称として使用されていたことは容易に首肯し得る。動物の狐の持つ変通自在の能力、その足の疾さ等がその言葉を倦んだものであろうが、「きつね」としての的確な用語例がいつごろまで遡り得るかについては、今後の研究に俟つの外ないのである。」としています。
 大分永く引用しましたが、桔梗ヶ原にもこのような「きつね」がいたのでしょうか。いたとすればそれは誰だったのでしょうか。

 その手がかりとなるものは

 塩尻市誌が「古くはその範囲は北の出川あたりまでの田川と奈良井川の間を桔梗ヶ原と称した」といわれる「桔梗ヶ原」で、
鎌倉時代の頃、城や館址があり、軍略上もしくは交通上の要所で基地となり得る場所。
眷属(家筋・家臣)がいて、きつねに関係する地名の残るところ。
免訴地があること。
などが解明の糸口になりそうです。これらから考えると宗賀地区の桔梗ヶ原より、郷原、堅石、野村、吉田に接する桔梗ヶ原が、ここでいう「きつね」の活躍した場所になりますが、そんなところがいまに伝わっているのでしょうか。
 塩尻市誌の「塩尻市地名地図・広丘」を探ってみると郷原から堅石にかけて「狐」に関係した地名がいくつかあります。塩尻農協の流通センターと松本歯科大周辺に「狐巾」があります。「中立」といういわくありげな地名も狐巾と隣接しています。「上原中立」「上原稲荷上」「稲荷社跡」「稲荷北」「稲荷南」「鳥居前」もあります。
 広陵中の傍には、『塩尻地史』がいう「九里巾の中辺に湯之気といえる処がある微かふる口碑に此処に昔し池の坊なる寺寮があって宗良親王が暫し御身を忍ばせたまひ大妻某なる者守護し奉った」という「湯の木」「池之坊」という地名があります。古くからの言い伝えが残っているところなのでしょうか。
「中立・なかたて」というのは城・館をさすものでしょうか。
 野村では、九里巾から角前の工業団地を東に、丘中学校の西北に「城(盾)下」という地名が、また北には「外屋敷」があります。ここも気になるところです。
 吉田はどうでしょう。吉田は古くは『倭名類集聚鈔』で吉田郷と呼ばれたところで、吉田川西遺跡が発掘され緑秞陶器(国重文指定)が出土して、当時の役所か支配者が使用したものと思われるものが出土して郷庁との関係が暗示されています。この遺跡の北に「屋敷添」という地名があり、赤木山の西にも「屋敷添」という地名が残されていて赤木と隣接しています。

 この赤木には、赤木氏がいましたが、嘉元2年(1302)鎌倉幕府の下知によって備中(岡山)に移っています。鎌倉時代の嘉元3年(1305)赤木左衛門尉家忠の遺領の筑摩郡吉田郷内等の田屋敷についてのことで、三男三郎忠光子息忠澄と、嫡男忠綱子息三郎盛忠の争論がありました。この赤木家は桔梗ヶ原につながるところに本貫の地を持っていた武士(地頭)で、眷属が赤木郷の南方、北方、東方にそれぞれ分かれたという家筋です。田川流域を領有し、桔梗ヶ原を自分たちの支配するところとしていました。嘉暦4年(1329)、諏訪上社の「頭役状」(守屋文書)に「赤木郷 赤木太郎入道跡」とあります。
 赤木氏は赤木山の西斜面に館跡、山城があり、狐林(きつね林)といわれ、その下が弘長寺の創建の場所といわれています。これらから弘長寺は赤木氏の祈願寺だったといいますが、館跡という説もあります。真言宗のお寺で不動明王が本尊で、寺の創始または中興は弘長年間(1261-64)といわれています。 
そして、赤木村は弘安年間(1278-88)すでに赤木氏の所領となっていました。
『吾妻鏡』の延応元年(1239)の記事に「赤木左衛門尉平忠光」とあり、六波羅飛脚として四日間で京と鎌倉の間を駆けたといいますからその足の疾さは尋常ではありません。まさに「きつね」そのものですね。

おわりに
 どうやら玄蕃之丞の姿がおぼろげに浮かんできました。「玄蕃之丞」というのは律令制の「玄蕃寮」というお役所の役人で、寺院や僧尼、外国人、蝦夷などを管理監督した役所ですが、長官が「玄蕃頭(げんばのかみ)」、次官が「玄蕃助(げんばのすけ)」、三等官が「玄蕃允(げんばのじょう)」といわれました。その後、律令制度は崩れていきますが、官位制は存続し、主に武士の地位を表すものになります。松本城主の石川康長は玄蕃頭でした。
 鎌倉時代の桔梗ヶ原を取り巻くあたりに武士(地頭)がいて、田川端や朝日村の横手ヶ崎、松本の岡田や白川、寿の赤木などで連携しなかがら活動したようすが言い伝えられてきたものでしょうか。
 『塩尻の民話と伝説』で、玄蕃之丞の伝説が載せられていますが、背景を探りながら読むとまた面白いと思います。皆さんには一度は読んで欲しいと思います。この本のなかで竹下吉英という人が「玄蕃之丞と稲荷」を書いていて参考になります。そして桔梗ヶ原の原野を風のように奔った「きつね」に思いを託して想像していただけると幸いです。

 (11/01/27)


塩尻東地区の歴史 子ども達の質問

塩尻東小学校の6年生を担任する先生から、子どもたちの質問に答えて欲しいという相談を受け、12月8日に学校に出向くことになりました。私は学校支援ボランティアなのです。前もって質問の内容を頂きましたが、なかなか難しい質問でした。地域の歴史を知ろうとする子ども達は、いろいろなところに目をむけて調べようとしていることがわかり、地域の歴史を受け継いで貰うためにもと、出かけることにしました。

 質問の内容は個別に答えるようにして、資料を用意しました。
まず、はじめで、歴史ということをどうとらえるか子ども達に伝え、地域の歴史を調べる文献を紹介することにしました。

1.はじめに
 歴史というのは過去のことを伝承し記録することから歴史になります。
 歴史は科学、想像力を働かせる。
 見ようとしないと何にも見えない。気にしなければあってもないようなもの。
 その土地の歴史や人びとの生活の中に発見できるものがある。として、子ども達に意識してものをみること、考えて見ることを伝えました。

2.昔を知る文献・史資料 塩尻東地区の昔を知る手助けになる本などの紹介。
『塩尻地史』     掘内千萬蔵          大正14年発行
 塩尻の東地区のいろいろなことがらを明らかにしています。阿禮神社や地名の由来、西山や東山、小笠原氏のことなどが書かれています。ここで書かれていることが『塩尻町誌』や『東筑摩郡松本市塩尻市誌』、『塩尻市誌』で取り上げられています。これを著した人は掘内千萬蔵ですが、明治31年5月より同36年3月までと、同44年12月より大正6年3月まで2回にわたって塩尻村長に就任した人です。囲碁を好み、堀内家の建物は国の重要文化財に指定されています。ガリ版刷りですが東地区の昔を知るには基本的な文献資料です。

『塩尻町誌』     大森利球治・三澤勝衛     昭和12年発行
  自然編の記述は少ないですが、歴史編では特に塩尻宿のようすが詳しく記されています。江戸時代の宿の史料が原文のまま掲載されています。

『東筑摩郡松本市塩尻市誌』             昭和43年発行
  19世紀初めころの塩尻宿のようすがわかります。寛政12年の「宿方書上明細帳」が原文のまま載っています。

『塩尻市誌』     塩尻市編纂          平成9年発行
  塩尻市全体の自然、歴史と民俗について知る最も新しい基本的な文献資料です。別冊には年表や集落の歴史などが掲載されています。「塩尻市地名地図」も必見です。
これらの本は塩尻市の図書館にあります。難しいと思わず読んで見ましょう。

東地区の区誌などでは
『堀之内区誌』    堀之内区          昭和57年発行
『長宇祢区誌』    長畝区           平成18年発行
『東山開墾百年沿革史』  東山百年史編集委員会  昭和53年発行
が出版されています。どれも身近な地区のようすを記録しています。

その他東地区のことを記録したものでは
『阿寿摩風土記』   塩尻東公民館        昭和63年発行
塩尻東地区の農村の暮らしなどが明治から大正、昭和の三世代にどのように変わっていったかが、書かれています。大正時代の塩尻町の地図もはさみこまれていて当時を知ることが出来ます。

『塩尻の民話と伝説』 塩尻史談会         昭和50年発行
塩尻の伝説と民話をまとめたものです。塩尻町のほか北小野、広丘、洗馬、宗賀、片丘の語り継がれたお話が載っています。塩尻編には29編が集められ「夜通道」や「犬飼の清水」「長者平」などの伝説、民話が掲載されています。
一度は読んで欲しい本です。

『延喜式内 阿禮神社』  阿禮神社総代会     平成12年発行
学校近くの阿禮神社の歴史を紹介しています。イオト(五百砥・五百渡)から現代までのことが書かれています。

地図もあると便利なものです。
「地形図」  国土地理院の地図で「塩尻」や「諏訪」「松本」があれば便利です。
昔の地図があれば今のようすと比べて見ることができます。
「大正7年地図塩尻村全図」  塩尻村        大正7年発行
大正7年ころの塩尻村の地名や入会のようすなどがわかるようになっています。
「塩尻市地名地図」
『塩尻市誌』の付図ですが「大正7年地図塩尻村全図」を新しく作り直してあります。

として、塩尻東地区の昔を知る手助けになるものを、子ども達に紹介しました。次に子ども達が調べるにあたっての方法とまとめを書きました。

調査の方法 (例)
1. 調べたいことがあったら関係する史・資料をまず探して読んでみる。
   本(文献)新聞、聞き書き、場所にいって実際に五感(見る・聞く・かぐ・触る・味わう)を使う。測る。
2. まとめる。
   ノートに集めたことを書き込む。
   書き込んだものを整理する。
   整理したものをつなげる。
    広く、総合的に考え、わからないものはわからないとする。

ということを伝えました。
6年生の質問の内容は次のようなことでした。東小の6年生は卒業するまでに、研究をし、それを発表するということで、問題を解決できず、壁につきあたっている生徒に地域の大人が手助けをして、解決のヒントを与えて欲しいというのが学校の願いのようです。思い出すと私自身、子ども心に近所のおじいさんが話してくれた昔話に夢中だった時代がありました。

6年生の知りたいことは、
①「上西条の一本松」
・一本松はいつごろからあるのか。
・「昔上西条からみどり湖のあたりに原住民(?)が住んでおり、ある時大火事になり、一体が焼け野原になりそのときに大量の松が燃えて一本だけ残ったのがこの松だ」という説は本当か。
・一本松の経緯のようなことを知りたい。
というものです。

 簡単そうですがなかなかの難問です。この一本松というのは上西条の松原にある一本松のことです。
一本松はいつごろからあるのか。という問いには、植えられた時代がはっきりとしていない。記録がない(文書)がみつからない。と答えました。
 ここは古くから「焼町」と呼ばれ『塩尻地史』を著した掘内千萬蔵は、東山道の道筋にあたるのではないか、駅家ではとしたところですが、子ども達も調べたらしく、焼町が火事で焼けた町という意味で受け取っていたようです。それが原住民(?)が住んでおり・・・という問いになったものと思います。
 ここの松は、昭和20年代、私が小学生のころにはもうありましたが、樹高も低く現在のような太い松ではありませんでした。子ども達に聞くと東地区で発行しているカレンダーのなかに記事があってそれで調べたようで、すでに樹高も調べてありました。
 そこで、原住民(?)が住んでおりという言い伝えは、いつの時代か、もう6年生だからそういう質問はおかしい、時代を特定して質問しないととし、旧石器、縄文、弥生時代のとらえかた。時代の永さ、生活のようすを話しました。
 縄文時代は1万年も続く長い時代で、アメリカの動物学者モースの命名であること、縄文時代は変化の小さな社会だったが、紀元元年から今日までの年月2010年の5倍も続いたということを話しました。そんなに長くからあった松ではないということを解ってもらいたかったからです。そして三内丸山遺跡の話をしました。今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡でヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物の遺物が出たということ。長野県では上伊那の南箕輪村御子柴遺跡は、旧石器時代末から縄文時代草創期にかかる遺跡ですが、世界最高の黒曜石加工品といわれている遺物が出て、この時代の標式遺跡といわれることを、上伊那考古学会が発行した報告書『御子柴』という本をみせ、この時代のようすを確認してもらいました。この『御子柴』という報告書は、黒曜石加工品の綺麗な写真が沢山載っている立派な報告書です。
上西条の一本松近くにある遺跡は
焼町遺跡(昭和44年(1969)発掘、縄文中期の住居址13軒、焼町土器は市の有形文化財、石鏃、石斧など)今の松原区のあるところ。
剣の宮遺跡(昭和47年(1972)発掘、縄文中期2軒後期2軒、石鏃、石斧など)
田川端遺跡(昭和61年(1986)発掘、縄文前期5軒、石鏃、石斧など)
峰畑遺跡(昭和47年(1972)、平成3~5年(1991~1993)発掘、縄文中期16軒、黒曜石片20個、石鏃、石斧など)
青木巾遺跡(縄文前期、石鏃、石斧など)を紹介、これらの遺跡は一本松のすぐ近くにある遺跡で、複合遺跡ですが調べてみることをすすめました。
 いつごろからあるのかは、松を調べることで解決できないかと投げかけてみました。
松の寿命は現代の科学でもまだはっきりわかっていない、300年くらいといわれていること、スギやヒノキ、ケヤキに比べ寿命は短いことなどを話しました。
松の樹齢を計る方法はいろいろあり、林業関係者は(成長推)丁字型をした錐で孔を開けて調べていること。樹齢がわかればこの松が植えられた時代がわかると伝えました。
胸高直径(太さ)の計り方は、胸の高さ地上1.2㍍と決められ直径で表すこと。体積は直径×長さでわかること。松の枝張りを調べてみること。地域に同じくらいの太さの松があったら調べてみること。樹高の測り方も目測や比例計算などで測ることや、この松のことを地域の人にいつごろからあったか聞く、お年寄りから聞き書きをしたらとヒントをあたえました。
 上西条や松原で現在、この松を神様にお祭りをしているのかどうか調べて見たかと聞いたところ、子ども達はすでに聞いてあるとのことで、お祭りはしていない、風魔除けの御札が貼られているが近所の人が余った御札を貼っているということでした。
 子ども達はこの縄文時代の長さをなかなか想像できないようでしたが、この松が原住民(?)うんぬんの言い伝えのような古い松ではないことがわかったようでした。東地区で発行しているカレンダー(地域づくり連絡協議会発行人・暮らし部会編集)の記述「上西条の一本松」では、樹齢何百年とか、風魔除けの御札とか、神の憑代などとしていて、子どもらの関心を引き付けてもそれらについて考証していません。主観、情緒に流されずここはやはりきちんとした記述が大切と思います。

次の問いはこういうものでした。
②「東山神社と東祖神社の場所と形について」
・東明神社できる前にあった東山、東祖神社について知りたい。
・国常立尊(クニトコタチノミコト)と神大日本盤余彦尊(カムヤマトイハレヒコノミコト)は何の神様か?
・日本の神様は雨や火などが多いがなぜか?。
というものです。

 この質問をした子どもは東山の子どもでした。自分の地区のお宮のことを知りたいんですね。そこで東山の集落が出来たのは明治8から9年(1875~1876)年で、東祖神社は神武天皇が祭神で一里塚の北側の山にあり、神武様と呼ばれていたこと。東山神社は天照大神が祭神でグランド西の角にあり、新宮と呼ばれていたこと。二つの神社の祭日は同じ日で東山の人たちが祭りの日は困ったことなどを話しました。 
 大正11年(1922)11月合祀する規約を作って、大正12年(1923)12月両方の神社を合祀、開墾50周年記念碑を建てたこと。昭和51年(1976)3月開墾 100周年記念碑の除幕をしたこと。
東明神社の古い鳥居は旧道から国道に降りる坂の途中にあった東祖神社のもので、石灯籠は消防器具置き場の上の辺にあり東山神社のものであったこと。東明神社の拝殿の前に瓦があり、その紋は「梶の葉紋」でクワ科の植物で古代から神に捧げる神木として尊ばれたが、その諏訪神社の紋が何故東明神社の紋になっているかを考えてもらいました。
 蚕神の碑は明治34年に建てられていることなどを話し、東山の集落ができた当時を想像してもらいました。
 国常立尊(クニトコタチノミコト)は何の神様かは難問です。
神話であること、神様を「生む」、「産む」など、神代のお話しで『古事記』と『日本書紀』に書かれていることを伝え、『古事記』では国之常立神、『日本書紀』では国常立尊と呼ばれていたこと、『日本書紀』では、国常立尊が最初に現れた神としており、男神で、『古事記』では神世(かみよ)七代の一番目に現れた神 性別のない神として国の床(とこ)を用意した神で国土形成の根源神、国土の守護神としての神だとし、是非『古事記』と『日本書紀』を読むことをすすめました。実際にこの2冊を持参し見てもらいましたが、学校の図書館にはマンガで書かれた本しかないということで、ちょっと寂しい気持ちになりました。
 神大日本盤余彦尊(カムヤマトイハレヒコノミコト)は、『日本書紀』の卷第二 第十一段、神日本盤余彦尊 (かむやまといはれびこのみこと)誕生と出ていること、神武天皇は日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇といわれていること。『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、『日本書紀』では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)と称されること。2月11日は日本が建国された日として、明治6年(1873年)に祭日(紀元節)と定められ、紀元節は昭和23年(1948年)に廃止されたものの、昭和42年(1967年)には建国記念の日として、祝日とされたことなどを話しました。
 日本の神様は雨や火の神様が何故多いかは、『古事記』や『日本書紀』をよく読んでくださいとお願いしました。神を生む、産んでいくようすが出てきますとして、イザナギ・イザナミの物語を紹介しました。自然を恐れながらうやまうことが、多くの神を産むことに繋がったとしました。
 神話を小学生に語る難しさを痛感しました。『古事記』や『日本書紀』が著された時代の支配層により、在る意図が裏に隠されていることを読み取る年代には至っていません。まだ彼らは若すぎるのですがいつかこれらの書物の裏を読み取ることになると思い期待したいのです。

次のグループの質問は民俗の分野です。
③「塩尻地区にある双体道祖神について」
・いつごろ作られたか
・どの地方から伝わってきたか
・作るきっかけは?
・道祖神の歴史など。
というものです。

道祖神の歴史やいわれを話しました。
賽の神(さえのかみ・さい)といい、720年完成の『日本書紀』には岐の神(くなどのかみ)と出てきます。
 峠や村境、辻など道の分岐点にあっていろいろな災厄を退けて旅の安全を守る道の神で道祖神、賽の神などと呼ばれること。悪霊の進入を防ぐため、道の辻や村の境などに祭られる境の神で、「さえ」は境をさえぎるの意味ということ。道祖神(どうろくじん・道陸神とも呼ばれる)として祭られ信仰は全国にわたるということ。
 病気や危難・災難に遭わないよう自然石、石像、文字碑、相対像などで作ったこと。今日では縁結び、夫婦が仲良くなる神、子孫繁盛の神、五穀豊穣の神として祭られることなど。
 市誌に旧塩尻市の道祖神碑は98基(文字、像含む)と記述されていること。そのうち市誌によると市内の双体道祖神は52基(塩尻14、洗馬25、片丘1、広丘6、宗賀1、北小野5)年号の刻まれたものは28基。古いものは吉田の元禄6(1693)大部分は天保年間(1830~1844)以降。東地区では町区の文化6(1809)年が古く、次が下西条の天保3(18321832)年、上西条の上手の天保12(1841)年、上西条小曾野天保13(1842)年、桟敷安政5(1858)年、堀の内大壺の元治元年(1864)と続くこと。岩垂 真正寺の天保7年(1836)のものは上西条小曾野からの「御縁想」といい、戴いてきたもの。
 像は、向かって右が男、左は女が普通で、これは平安京の紫宸殿の天皇、皇后の玉座の位置によったものといわていること。地域の人が協力して建て、多く建てられた時代は石工集団がいた可能性があること。寛文年間(1661~1673)以後に造型するようになったこと。東日本に多く、全国では長野県が最も多く、安曇平(安曇野・松本・塩尻市)・伊那地方が最も多い。と説明しました。
 子どもから「町区の双体道祖神は変わっているといわれるが、どこがかわっているのか」と聞かれました。誰から聞いたのと尋ねると「おじさん」という。「ほかの像とどこが違うか比べてみて」といいましたが、町区の双体道祖神は上町と荒井にあり、上町のものは文化6年のもので男像が左、女像が右、荒井のものはいつつくられたか読み取れませんが、男女が相い対してある行動に移ろうという姿勢をしています。どこかの「おじさん」がこれを教えたものでしょう。気のきくおじさんです。この二体と他地区の双体道祖神と比較してみて子どもが気が付くでしょうか。しっかり観察眼を働かせてほしいものです。
 道祖神は三九郎に関係することを伝え、
 塩尻・松本では「三九郎」と呼び、安曇地方では「せえの神」(安曇村)、「どんど焼き」(烏川村)、「左義長」(三毬杖・さぎちょう)烏川村)などということを教え、子孫繁栄の神様で、道祖神の火祭りのことをこの辺りでは三九郎というと語りました。
 松飾りを下げることを「松送り」といって、正月の神を送る日が三九郎で、7日の晩と、15日の晩に昔は焼いたこと、物作りの繭玉、稲花、餅などを焼いて食べたこと、「三九郎」の俗信には、書初めを一緒に燃やすと字が上手になる。餅などを焼いて食べると、風邪をひかぬ、虫歯にならない、疫病神がこないとか、燃え残りの松を味噌焚きに使うと味噌の味がよくなる。魔よけになる、火事にならない。炭は炬燵に使うと病気にならない。などのいいつたえがあることを伝えました。
 子ども達が民俗に関心を持つというのは嬉しいことです。小さな石造物に目を向けて広くいろいろ考えてくれると年寄りも元気になります。これから年の暮の行事やお正月行事が続きますが、そのなかで子ども達がなぜ、この行事をするのか考えてくれると嬉しいです。

最後の難題になりました。
④「桟敷の白木助右衛門について」
・彼の生い立ちや、活躍
・囲碁碑に書いてある内容。
ということです。

 白木助右衛門は意外に知られていません。そこで生い立ちを調べてみました。
 『塩尻地史』は,
白木助右衛門について次のように記しています。要約すると「文化12年(1815)堀之内村に生まれた。6、7才の時江戸の叔父の家で養われたが、本因坊丈和の隣の家であったので毎日格子の外から覘いて見ていた。丈和が珍しがって呼び入れて碁を教えたところ質が良くてすらすら上達したので、弟子に貰い受けた。文政7年(1824)9才で江戸の碁番付で初段格、天保3年(1832)18才のとき初段の免状を受け、その後諸国漫遊し伊勢神宮本部で暦法を学んだ。天保7年(1836)彦根藩に招かれ藩で碁の師匠をした。
 北信の松代藩で史上最強の初段といわれた関山仙太夫とともに信州の巨頭といわれた。天保9年(1838)3段に、その後藩を辞し、桟敷村米窪家の養子となった。文久2年(1862)の日本大番付では3段の筆頭に載ったことから実力は余っていた。安政元年(1854)に出版された信州番付には関山仙太夫とともに勧進元(事を発起して、その世話をする人。主催者)となった。彼は家産を修めず多くを旅に暮らした。明治18年(1885)72才で没した。雅号は柏亭。」と堀内千萬蔵は書いています。生涯はこんなふうでしたが、囲碁碑の碑文にはなんと書かれているでしょう。私も塩尻東地区の歴史・文化部会で「塩尻東歴史マップ」を作るとき、何回も碑を見せていただきましたが、再度確認したくて碑がある桟敷の米窪卓雄さん宅を訪ねてみました。

米窪卓雄さんから聞き書きした内容は、
 囲碁碑は構造改善事業で移せといわれて移した。今のところより南の道端にあった。昔はいたずらっ子が石を投げて遊んでいた。
 碑を建てたのは私の曽祖父の邦彌さんで、家が盛り立つように囲碁が強かった助右衛門を顕彰したいと家の前の道端に建てたとのこと。
 邦彌さんはそのころ教師をしていたので、難しい文を書けた。
 囲碁の段が低い方が稼ぎやすかった。北信は関山、中南信は助右衛門といわれ強かったという。旅ばかり出ていて家のことはかまわなかったと聞いている。
 関山さん(関山仙太夫)は、松代藩のえらい人(武士)でお金には困らなかったが、助右衛門は旅に出たり、賭け囲碁で稼いだと聞いている。
 段が低い方が稼ぎやすかったので高段者になりたがらなかった人だったという。
 家をかまわずに、そのくせ碁会所はりっぱなものを建てて教えていたということを聞いた。門弟の指導に尽くし、信州囲碁界の発展に大いに貢献した人と聞 いている。
 信毎の記者だった長野の中田さんが研究していて何度も家を訪れてくれた。関山さんの本を出したので今度は助右衛門の本を出すという、できるのを待っ ている。
 東京で本因坊丈和展があり、家の資料を貸した。
 碑を見せてくれと人が来るが、難しくてなかなか読める人がいない。桟敷の中島英彦さんという人がパソコンで打ったものを皆さんにあげている。
 そういえば東小の子どもが調べにきた。と話してくれました。
 
 碑だけではわからないろいろなお話しを聞くことが出来、また、近隣の村の番付表も見せていただきました。
碑文は以下のように刻まれていました。(碑文は縦書きでしたが、縦書きで読みたい方はワープロソフトで変換してください。)


囲碁碑碑文
 柏園翁之碑
俗名良太郎又称助右衛門塩尻村堀之内之人本姓白木
後冒米窪幼頴悟夙成嘗従父在於江戸居近本因坊棋館
比七歳有人奕棋則瞪視不動九歳乃能對局見者異焉十
七歳與初段戴就本因坊丈和学焉技益進天保十年三十
四歳陞三段於是歴游海内足跡殆遍天下弟子三百人嘉
永中辟仕於彦根侯井伊掃部頭眷遇頗渥侯卒翁致仕再
巡游四方所交公卿士大夫至騒人墨客不遑枚挙爲人憺
泊視財如土塊嘗造□公賜黄金煙管己而出門途逢鬻魚
者易数尾而去矣其曠達大率類□彦根侯稱其技授楸秤
今傅存干家慶応中侯朝江戸往來過塩尻輙賜謁於其里
歴数医薬莫不通焉或作暦或施薬腹笥豊□恢然有餘觸
機流露無往而不可焉其退隠於桑梓也致力於門弟指導
循々不倦明治十八年六月以八十歳終

  大正二年十一月養子邦彌礪石道傍
□は欠字

 さあ、大変です。これを訳さなければ小学生に説明できません。難しい言葉は漢和、国語辞典を引いて意味を探りました。
まず、
「冒」  おかす    他家の姓をなのること
「頴悟」 えいご    さといこと
「夙成」 しゅくせい  早熟なこと
「嘗」  かって    過去の一時期。以前。昔。
「瞪視」 とうし    みつめること
「奕棋」 えきき    囲碁のこと
「異」  い      不思議に思ったり驚くこと
「眷遇」 けんぐう   手厚くもてなすこと
「致仕」 ちし     役を退くこと。退官すること
「公卿」 くぎょう   高官
「士大夫」したふ    官職にある人
「騒人」 そうじん   詩人。文人。風流人。
「墨客」 ぼっきゃく  書画を良くする人
「曠」  こう     明らか
「達」  たつ     たち。 複数であることを表す。
「大」  だい・たい  おお・おおきい
「率」  りつ・りち  ひきいる
「類」  るい     たぐい
「楸秤」 しゅうしゅう 碁盤のこと
「腹笥」 ふくし    学識のこと
「恢然」 かいぜん   広々としたさま
「流露」 りゅうろ   気持ちが外に現れて何をしても十分な成果をあげることが出来る
「桑梓」 そうし    ふるさと。故郷。
「循々」 じゅんじゅん ものにとらわれないで物事を行うさま。整然。
「不倦」 うまず    いやになったりなまけたりしないで飽きることがないこと
「礪石」 れいせき   砥石。荒砥にする石。     
 
囲碁碑に書かれている内容は。
 俗名(世間での名)は良太郎 または助右衛門と称す。堀之内の人で本姓は白木。後に他家の姓をなのり米窪。幼くして早熟でさとく(りこう)、以前、父に従い江戸に在り。居(すみか)は本因坊の棋館(碁をするところ)に近し。7歳頃から人の囲碁するところをみれば、瞪視(みつめて)して動かず。9歳にして良く対局し、見るものこれに驚く。17歳にして初段を与えられ、本因坊丈和について学ぶ。技益々進み、天保10年34歳で3段に昇る。是に於いて海内を遊歴し足跡は殆ど天下に遍(わたる)する。弟子は300人。嘉永中に彦根井伊掃部頭に召されて仕え、眷遇すこぶるあつし(手厚くもてなされ)。侯が卒(死す)して、翁退いて再び四方を巡って遊ぶ、交わる所の公卿(高官)、士大夫(官職に在る人)から、騒人(詩人、文人また、風流人)、墨客(書画をよくする人)に至るまで枚挙にいとまず。この人淡白にして財を視ること土くれの如く。かって造□公に黄金の煙管を賜る。しかし門を出て魚を商う者に逢うや数尾の魚と易えて去る。其曠達大率類(そのたぐいたちをひきいて大いに明らかなり)□。彦根侯其の技をたたえ碁盤を授ける。今も家に傅存する。慶応中に侯江戸に朝する。往来に塩尻を過ぐ。すなわち其の里に於いて拝謁を賜る。聞く人以って栄となす。翁□藏天に授ける。象棋も善くし20歳で初段に進む。天文、暦数、医薬に於いても通ぜざるは莫し。或いは暦を作或いは薬を施し、腹笥(腹中の本箱・学識)豊かにして□恢然(心広く)余裕あり。機に触れて流露(気持ちは外に現れて何をやっても、みな十分の成果をあげることができる)し、往きて可ならざる無し。その桑梓(ふるさと・郷里)に隠退するや門弟の指導に力を致し循々(整然)として不倦ず(飽きることがない)。明治18年6月80歳で終わる。と刻んであります。□は欠字。

 なんとかわかるようになりました。
ここで『塩尻地史』に書かれている助右衛門の生い立ちと碑文を比べてみました。碑文には、助右衛門の没年は明治18年で、80歳と記されています。明治18年は西暦で1885年となりますから、助右衛門の生まれた年は、1805年となり文化2年に生まれたことになります。『塩尻地史』は文化12年(1815)ですから10年の違いがあります。
 助右衛門の碑文ではっきり年号がわかっているものは、天保10年34歳で3段に昇る。というところですが、天保10年は1839年ですから、この年から34歳を引くと1805年になり、生まれた年になりますから碑文は正確に年齢を数えているということになります。
 『塩尻地史』では亡くなった年は明治18年(1885)で、碑文と同じですが72歳と記しています。生まれたのは文化12年(1815)ですから70歳でなければならないはずです。亡くなった年から逆算すると生まれは文化10年(1813)になるはずです。ここで2年、天保3年(1832)18才のとき初段と記していますが、ここで1年の違いが起こります。どちらにしても助右衛門は明治18年に亡くなったということは確かなようですが、生まれた年はどうでしょう。どちらがほんとうでしょうか。
 それから助右衛門の雅号を『塩尻地史』は「柏亭」とし、碑文では「柏園」としています。「亭」は、眺望や休憩のために高台や庭園に設けた小さな建物。あずまや。といわれるものですが、碑文の「園」は庭を園といったものでしょうか。米窪卓雄さんへの聞き書きで、碁会所を建てたということですがそれを指したものでしようか。どうも『塩尻地史』には下敷きとなった助右衛門資料がありそうです。
 それと井伊掃部頭とは誰のことでしょう。直亮(なおなり・なおすけ)でしょうか。それとも直弼(なおすけ)でしょうか。井伊直弼は安政の大獄で有名ですが、兄、直亮の遺領を相続したのは嘉永3年(1850)です。助右衛門の碑文によって計算すると助右衛門はこのとき45歳です。直弼は、万延元年(1860)3月に桜田門で暗殺されています。助右衛門は嘉永中に仕え、侯が卒し、とありますから直亮に仕えたものと考えられます。碑文の「慶応中侯朝江戸往來過塩尻」の人は誰だったのでしょうか。直弼の遺領を継いだ直憲だったとみて間違いはないでしょう。ここは「慶応中に侯江戸に朝する。往来に塩尻を過ぐ。」としましたが、慶応4年(1868)3月1日、東征軍が塩尻を通過しています。このとき彦根藩は新政府側に属しこの東征軍に参加していて、この後戊辰戦争を戦うことになります。このときのことでしょうか。それとも情勢の急迫を受け、彦根藩主井伊直憲はこの前後に江戸へ出たことがあったかも知れません。「朝」というのは「天朝」京都から江戸に移った天皇のことを指しているのではないでしょうか。慶応4年9月に 明治と改元されています。
 助右衛門は嘉永中に井伊家に仕え手厚く遇されていますが、井伊家での嘉永は直亮、直弼、直憲が重なる時代です。直亮、直弼は大老を務めました。直憲が生まれたのは、嘉永元年(1848)で、叔父、直亮は55歳、父、直弼34歳でした。
 この碑を建てた邦彌は、子がなかった助右衛門の養子になった人です。見習いたい立派な文だと思います。

 子どもたちへの予習でいろいろなことがわかりました。助右衛門の碑文も、読んでみようとしなかった私の背中を押してくれた子ども達に感謝です。勉強させていただきました。そして子ども達に関連した次のようなことも広く調べてみることを薦めました。
① 本因坊とは京都寂光寺の塔頭(たっちゅう)本因坊に住んだ日蓮宗の僧、算砂(さんさ)が祖であること。江戸幕府の扶持(ふち・50石5人)を受け、碁打4家(井上・安井・林)の筆頭。本因坊丈和は12世名人であること。
② 白木助右衛門の子孫の家で「織田信長公象戯(将棋)文」が見つかった。文書は縦約0センチ、横約80センチの和紙に、京都生まれで一世名人の大橋宗桂(1555~1634年)の名人位を継ぐ9代目の孫が、白木助右衛門のために書き写したと由来が書かれていた。囲碁史研究家の中田敬三さん(長野市)が見つけた。(読売新聞記事2007.1.12)この中田さんは聞き書きに出てくる人です。
③ 助右衛門の生きた文化・文政の頃の時代のようす、幕末までのようすや暮らしなどを調べてみること。

これらのことは資料として渡しましたが、子ども達はマーカーなどで線引きをして整理し、質問、全般にわたり私のつたない話しを子ども達は真剣に聞いてくれました。私には荷が重かったのですが、人が生きてきた歴史には学ぶものが沢山あります。子ども達の顔に元気づけられた一日でした。それと学校の担当の先生のご苦労がわかり、勉強になりました。御礼申し上げます。

(10/12/19)


夏休み子どもふるさと歴史教室」を開いて

 塩尻東地区地域づくり連絡協議会歴史・文化部会は、8月9日、10日と「夏休み子どもふるさと歴史教室」を東地区センターで開いた。
この教室は歴史・文化部会の歴史教室・散策班が主になって企画したもので、塩尻東公民館と共催した。

 地域を知る大人が地域の子どもたちにふるさとの歴史・文化を伝えるためにどうしたら良いかが部会で話し合われ、夏休みに「夏休み子どもふるさと歴史教室」の実施が検討された。地区の大人が子どもたちへ地区のさまざまなことを伝えていくことで、地区を見直し、新たな地域づくりにつながる一歩となることを願った。対象は東小学校の3年生以上の児童とし、保護者向けの案内文に趣旨を次のように載せた。

 趣旨
  「子どもたちが地域に親しみを持ち、健全育成のためには地域の歴史・文化との係わり合いが大切であり、また、伝承には子どもの頃から地域の歴史文化に触れ、理解し、身に付けていくことが重要であると考えております。
  この度、地域の人々が児童の夏休み中、歴史・文化に対する関心や理解を深めるための手助けをしたいと考えました。
この教室の参加で、地域の大人から直接自分の住んでいる地域の様子を知ることができます
また、大人との交流を通じ、自由研究のヒントや昔話や伝説、ことわざ、遊びを知ることもできると思います。 この教室は塩尻東地区地域づくり連絡協議会歴史・文化部会を中心に、専門的知識・技能を有する皆さんが相談にのります。  
夏休みの一日、子どもさんと楽しんでみませんか。」

 実施にあたり「教室をどのように持つか」が班別会議で話し合われ、班員が東小学校に出向いて山田富康校長先生から具体的なアドバイスを頂いた。
申し込みの締め切りは7月26日として参加者を募った。その結果、6名の子どもの申し込みがあり3年生が3名、4年生が1名、5年生2名が参加することになった。内、女生徒が3名、男生徒が3名であった。
 子どもには申し込み書に調べたいこと、知りたいことを具体的に記入するよう求め、記されていた内容は次のようなことであった。

 ○どうしてしおじりという名前がついたのか

 ○みどり湖の歴史・地形
   貯水池を作ったのはなぜか
   その前はどんなところか

 ○東地区の昔について一つでも多くのことを知りたい
   通っている東小の歴史についても調べたい

 ○昔はどんな道があって、どこからどこへ人や物が塩尻に来たのか知りたい
   あと、どんな人や何が運ばれてきたかとかも知りたい
   小学校に行く時はどんな道を通ってきたとか、仲町の郵便局や駐在所はいつできたのか
   戦国時代の塩尻の勢力図や勢力関係など

 ○自由研究のテーマ「塩尻の古いもの」。塩尻の一番古い建物の写真を撮りに行きたい。他にもお薦めの古いものあったら教えてください。

 ○げんばのじょうぎつねについて
である。
 
 当日の教室は上記の質問内容に合わせ資料・文献を準備し、担当者を決め、子どもとマンツーマンで接した。
子どもには
 1.事実をとらえる。「つかむ段階」
   なぜ、調べたいか、知りたいかを聞く。
 2.歴史的事象の関連を見いだす。「つなげる段階」
  ○複数の資料を提示し関連を見いださせるために、資料の見方についてヒントを与える。
    解決に向けてどういう情報が必要なのか,その情報はどこで入手できるのか、そして、どういう情報収集の方法があるのか、情報を選択,分析,活用するヒントを与える。
    夏休み中にこども自身で実際に現地を確認することを薦める。
 3.歴史的事象の要因・影響について類推する。「さぐる段階」
  ○とらえた事実や、見いだした関連をとおして、事実に即し根拠をもって類推させるヒントを与える。
   ふるさとの当時のさまざまな事象(歴史・文化)を、関連させて考えさせる。
   1日だけのこどもにはまとめかたのヒントを与える。
   2日間参加するこどもは二日目にまとめができるように応援する。を基本にし、順序を追って子どもたちとまとめた。

教室を終わって部員の感想は
 小人数であったが、それぞれの子どもにあわせ、まとめの段階まで持っていくことができたこと。
 休み時間をとったことは良かった。学校の授業は45分でありそれに準拠して息抜きをしたことが良かった。
 子どもと一緒に勉強することは思っていたより疲れる、が勉強させてもらった。学校の先生の苦労がわかった。
 初めての体験であったが、休み時間にこどもといろいろな話をして世代間の交流が図れた。
 子どもたちが「楽しかった」と言ってくれたのが嬉しかった。

 反省点として
 子どもたちに現地(史跡・文化財)を案内して実際の事物を見てもらうことが必要ではないか。
 子どもとマンツーマンで対応するには、子どもの調べたいこと、知りたいことを一つにまとめてもらうとありがたい。受け入れ側として参加者は10人前後が限度ではないか。
 まとめをするには2日間連続参加が望ましいが、教室終了後、それでも足りない場合のフォローをどうするか、窓口があったほうが良いのでは。などが上がった。

歴史・文化部会として今回始めての試みであったが、アドバイスを頂いた東小学校の山田富康校長先生、共催した東公民館の武居館長さん、平日で忙しい中を都合付けて頂いた部会の皆さん、また休憩時のお茶やお菓子、野菜を部員の皆様から頂いたことにあらためて感謝申し上げたい。
 
 (10/08/13)


本棟造なぜ多い

 塩尻ロマン大学大学院「まちづくりコース」の「市内のまちなか探索をしてみよう」にガイド役で参加した。
吉江弧雁の生家、阿禮神社をへて、重文の堀内家を見学、その際、学生から「何で、中信平に 本棟づくりの家が多いか」と訊ねられた。堀内家の住宅は、昭和48年に国の重要 文化財に指定された「本棟造」の建物である。
 下西条村の川上家の分家を文化12年(1815)に移築したもので、木造平屋建て、本棟造り(切妻造、妻入り)で、民家としては大型の住居であり、この系統の民家の一頂点を示すものとして名が高い。さらに長板葺きの緩やかな勾配の妻入り屋根に、棟飾りの「雀(すずめ)踊り」がつく特徴的な建物である。

 「何で、中信平に 本棟造の家が多いのか」ときかれ「そんなに多いのですか」と逆質問してしまった。これはガイド役としては禁じ手である。こちらにしては質問者の意が正確につかめないからうかつに返事はできない。いつごろのはなしであるか、現在のことなのであるか、時間軸が無いので答えようがない。
 「近世から近代(現代でもいいが)の中信平に 本棟造の家が多いのはなぜか」ときかれればまだ答えようがあった。また、「…多いのか」といわれてもその人の主観が入っているから、現在も、多くはないと思っている私の主観とは相容れないし、そもそも「本棟造」という定義がはっきりしていないこともある。

 切妻造、妻入り、長大な破風と大梁で、緩い勾配の板屋根の、平面はほぼ正方形の住宅を「本棟造」というのがその定義であるが、塩尻市で「本棟造」の住宅として最も古いのは、中挾の古沢勝男家住宅で17世紀後期に遡るといわれ、北熊井の嶋崎家(国指定重文)は元禄13年に工事を始め享保年間(1716-36)に建設された。この2軒の家は棟飾りの「雀(すずめ)踊り」がついていない。
「雀(すずめ)踊り」のついているものに堀内家住宅や、塩尻短歌館(旧柳沢家住宅)岩垂の岩垂隆家住宅、旧塩尻峠茶屋本陣の上条家住宅、郷原の赤羽弘家住宅、赤羽宣治家住宅などがあるが、この地方では現在、一般にこれがないものや、切妻造、妻入りでも規模が小さかったりすると「本棟造」と呼ばない傾向が強い。

 さて本題の「なぜ、多いか」であるが、この造りの「多くはない」理由として成立した時代から考えて見たい。
「本棟造」の建物は、上農(上層農家)の建物として17世紀には成立していた。この建物は建築するにも多額な費用がかかり、しかも大型住居で建坪も広いため、工事に早くても2年から3年という年月がかかり、下層農家の百姓層や小作人には手が出るものではなかった。桁行き10間、梁間10間などという家は建てられる家ではなかった。この建物は当時の村落の資力のある支配者層に受け入れられた様式の建物であった。この時代の農家の建物は茅葺屋根の寄棟造がおおく、間取りも少ないものであった。茅は身近で調達できるが板葺屋根の「本棟造」の住宅は木材産地を控え、かつ資力のある層でなければ難しかったのである。
 「本棟造」は間取りを広げるなどの、増築、改築をすることが容易なことがあり、板葺屋根の「本棟造」が発展していくのは江戸中・後期になってといわれ、屋根の勾配を急にして中二階に表、裏の部屋を設けた。堀内家住宅や、塩尻短歌館(旧柳沢家住宅)にはこの時代の完成された形式を見ることができる。
 「本棟造」は豪農・上農の建物であり、地位、資力を現した建物であるから「本棟造は多くはなかった」のである。完成期の棟飾りの「雀(すずめ)踊り」が象徴的だが、一名雀おどしともいう棟飾りのある建物を建てたいという憧れ・願望を現していて、いまでも「本棟造」を建てたいという人が多いのもなにやらうなずける気がしないでもない。農民はこの意匠を凝らした外観をどう見たのだろうか。江戸末期の木曽騒動などで打ち壊しの対象となった支配層の建物の多くは、みなこの「本棟造」であった。

 以前、宗賀の伝統工法で家を建てる工務店の案内で現代の「本棟造」の現場を見せていただいた。北小野の住宅であったが、間取りは現代風に設計されていて冷暖房完備の住宅であった。中二階にも居間があったが屋根の勾配があるため、頭をぶっつけてしまった。モダンな現代の住宅と比較すると中二階は分が悪い。その工務店の話では、現在でも「本棟造」を建てたいという人がいるというが、狭い町なかに「本棟造」は似合わない。農村地帯の屋敷林に囲まれた広い敷地に似合うのだ。

(10/06/27)




柿沢という地名

 中山道を東山の集落を過ぎ、代官山から西に下ってくると「柿沢」という集落に出ます。
この地区は、国道20号線付近から永井坂を経て町区の永福寺あたりまで、西南は金井区の東端に接し、南はみどり湖区と田川に、北は四沢川が流れ、国道20号線が通過しています。東端の国道20号線から永福寺のちかくまで西に向かって緩やかな段丘状の地形で、残丘地形の丸山がほぼ中央にあります。丸山と国道20号線の間を長野自動車道が北の山裾に向かって通過しています。東山が近代になって開発されるまで東山山麓では最も東にあたる地域で、西の西条山麓とともに古くから開けた地域とみなされています。

 ここの「柿沢」の名のいわれについて『塩尻地史』を著した堀内千萬蔵は、その稿の塩尻地名考のなかで「柿は誤字である。維新前は?字を書いた ?でなければならぬ、今は衆人に従って矢張り柿字を書く・・・」とし、続けて丸山の餓鬼澤説、牛倉澤の柿説、辛き澤のラ略説、桟ケ澤の訛りのかき澤説を挙げています。
 『塩尻市誌』(註1.)別冊集落の歴史の記述では、「近くの餓鬼山にちなむという説のほか、四沢川の桟説、牛倉沢の柿にちなむなどの諸説があって定かでない『塩尻地史』註2.)」として堀内千萬蔵説を挙げています。この説のなかの餓鬼山というのは現在、丸山と呼ばれ八幡社のあるところをいいます。
 地史も市誌も「柿沢」の名の由来について定かでないということでこれを結んでいます。
 
 定かでないとするならば、その説について問うことになりますが、『塩尻市誌』の記述は『塩尻地史』を引用しているので、ここは『塩尻地史』に書かれていることについて問うということになります。地名の由来を考証するなどおこがましいのですが、今に続く遠い過去のことに属している地名を考察するということは、現在の村をより深く知るということで、意味があると考えたわけです。これを科学的に論理的に推論できればいいのですが、なにぶん地名というのは、いつ頃命名されたかという起源を明らかにしたり、意味をあきらかにしたりすることが難しい側面を持っています。ここは「柿沢」にどの程度迫れるか、手がかりを頼りに考察してみることにしました。
 『塩尻地史』は、丸山の餓鬼澤説については、百五十年程前のさる物知りの書遺された文書にあるとし、この説を間違いの説であるとして、高井郡の丸山を引いて当て嵌めたものではあるまいかとしています。
 牛倉澤の柿説は牛倉澤という特種の柿があるからといい、辛き澤のラ略説は或人の辛き澤(からきさわ)のラの略されたもの、かき澤説は或老人の四澤川に桟があり桟ケ澤が漸次訛りしてかき澤となったとしています。この諸説は文書であったり、果実の柿であったり、或人の略説や訛り説が元になっていますが詳しい説明は省かれています。丸山の餓鬼澤説にしても百五十年程前の文書としていますが、その典拠は示されていません。諸説について紹介をしていますが、「・・といふ。」として断定してはいないのです。

 餓鬼澤説はさておき、辛き澤のラ略説、桟ケ澤の訛り説はどうでしょう。一概に間違いだと否定することはできませんが、両説とも澤に関係がある名なので捨てが たいのですが、辛き澤、桟ケ澤の澤や桟がどこか特定できないうえ、この小字が検地帳や土地台帳に見い出されないので外すことにしました。
 牛倉澤の柿説はどうでしょう。
 「柿」はカキノキ科の植物で、日本と中国が原産となります。野生の柿が自生することは知られていて、牧野富太郎はヤマガキと栽培ガキを区別しています。
『古事記』や『日本書紀』にも「柿」の字は人名や地名として出てきますが、果実や果樹としての「柿」は出てきません。『本草和名』(918)に「加岐」として現れますが、これは中国本草学からの転載とされていて、名だけのもので実際に薬草として使用されてはいないとされています。
 『延喜式』(927)には、「柿子二升」とあり、「皇室ノ御料とセラレ禁園ノ果樹トシテ柿百株ヲ植付」されたといいます。「柿」はこのころから果実として利用され始めたものですが、牛倉澤の柿説というのがいつの時代のことなのか、はっきりしないだけに明らかにすることはできません。牛倉澤は、現在でも沢があり、小名として柿沢に残っていますが、特殊の柿の名が村の名として残るほどのものであったかは疑問です。
 古来、柿の実の渋を抜くことを「さわす」とか「さわし」(醂)といいますが、これは平安時代に中国から渡ってきた技法といい、古代の品部(しなべ・ともべ)で特殊の柿を栽培しこれらの技術を生かして、柿を貢納した民がいてそれが村の名になったとは考えにくいのです。
 
 「柿沢(かきさわ・かきざわ」の「かき」とはなにをさしているのでしょう。いつごろ付けられた名でしょうか。
 まず、「かき」から考えてみましょう。
 堀内千萬蔵は、「柿は誤字である。維新前は?字を書いた ?でなければならぬ 今は衆人に従って矢張り柿字を書く」として、「柿」を?としていることですが、維新前は?字をといっているように異体字としてこれを捉えているのではないかと思います。これでは使用文字(表記)の違いであり、「かき」の意がわからなくなります。
 『塩尻市誌』では『塩尻地史』を引いて、柿沢は「旧石器時代から人が住んだ形跡がある。もとは阿禮神社が祀られた五百渡(いおと)付近に農牧生活をしていたが、明神平付近へくだり、近世初頭に中山道が改修されてから現在地へ多くの人が移ったといわれている」としています。これは、現在の柿沢の前身の村(邑・むら)が阿礼神社に関係があり、近世初頭まで山麓の明神平付近に生活の根拠を置いていたと考えていいでしょう。大筋ではこの説に賛成ですが、とすると旧石器時代から近世初頭までのことを考えて見なけばならないことになります。
 旧石器なんていわれるとこれは大変なことです。文字情報がない時代ですから考古情報や土地本来が持つ情報から読みとらなければならないということになります。いつごろから呼ばれたということになると、古代は中世以降の文書が残っている時代に比べ、年次をはっきり特定できるものが少なく、文献史資料から探し求めるということは難しくなりますが、暮らしていた人たちの姿は、遺跡や出土品から読み取ることは可能です。
 
 ここは、このころの塩尻や長野県のようすを知ること、伝えられていることを知ることが必要なので、遠回りですが探ってみることにしました。
 先土器時代から縄文、中世にかけての遺跡では、有名な「丘中学校遺跡」、桟敷の「中島遺跡」があります。東山付近でも中腹や山麓から旧石器時代の遺跡が発見されています。柿沢では、禰ノ神遺跡、小丸山北遺跡、大原遺跡、北山遺跡、御堂垣外遺跡、柿沢遺跡、柿沢東遺跡、中島遺跡、社宮司遺跡、堂屋敷遺跡などが発掘され、特に柿沢東遺跡が縄文の時代を考える重要な遺跡といわれています。これら柿沢の遺跡は一括りには出来ませんが、旧石器時代から縄文、弥生にわたる遺跡で複合した遺跡が多く、柿沢に隣接する金井の五輪堂遺跡からは、弥生初期の住居跡が見つかり、子どもと見られる人骨も出土しています。
 これらの遺跡からの情報で、人々が四沢川と田川に挟まれた地域に住居があり、長い時代に渡り集落の移動などをしながら暮らしていたことがわかってきています。 定住生活を営むようになるのは縄文時代からといわれていますが、この時代はいまから一万2000~2000年前の一万年間に及びます。この後に続くのが弥生時代で前三世紀から三世紀ころまで栄えた文化ですが、稲や青銅器、鉄器などが中国や朝鮮半島から伝わってきた時代です。稲作は縄文最末期にすでに耕作されていたというのがわかっていますが、稲作が定着するのは弥生後期といわれ、その伝播は一般に天竜川づたいに北上し、松本盆地に入ったとされています。またルートも西だけでなく、日本海のルートもあったのではといわれています。大門の柴宮の銅鐸(三遠式銅鐸)も天竜川沿いにもたらされ、縄文時代にはない祭祀だといわれています。
 弥生時代の人々は、稲作ばかりでなく、ムギやマメ類、ソバ、アワ、ヒエ、アサなどを栽培し、クリやドングリなどの採集、狩猟も行っていたことが、平出遺跡やそのほかの多くの遺跡の調査からわかっています。
 弥生時代の末期になると前方後方形墳丘墓が現れてきます。松本市の弘法山古墳は県内最古といわれる前方後方墳ですが、三世紀末から四世紀初めの築造といわれ、全国的にも最も古い時期に属する古墳といわれています。これより少し遅れて前方後円墳が築かれるようになり、更埴市の森将軍塚古墳や長野市の川柳将軍塚古墳(四世紀後半)がみいだされ、これらの前方後円墳からは畿内との結びつきを示す副葬品が出土しています。
 五世紀後半の古墳時代中期後半になると、天竜川の西岸台地に前方後円墳や大型円墳、帆立貝式古墳などが次々と作られ、甲冑などの武具が副葬されるようになり、畿内との結びつきがより濃くなる時代となっていきます。
 六世紀(古墳時代後期)に入ると、飯田市付近の古墳に馬具や直刀の副葬が増加しますが、これは畿内の政権が戦闘方法を歩兵から騎馬に変えたことが大きいとい われ、畿内の政権が特に下伊那地域に馬や馬具を優先して与えたものといわれています。
 古墳時代といわれる時代は、「クニ」と呼ばれるものが現れてきた時代です。広く3世紀末から7世紀末、東国では8世紀に姿を消した時代ですが、科野(しなの)にも国造が「科野国造」として現れる時代です。
 この「科野国造」については、四世紀から六世紀までの間、200年という長い年月があるので多くの説がありますが、『長野県史』は、五世紀の科野国造は、多氏ではなく、科野直(しなのあたい)氏で更科郡が根拠地で、六世紀の継体・欽明朝以降、科野直氏から金刺舎人・他田舎人氏に分かれ伊那郡が根拠地とする説をとっています。「国造」は、大和政権が地方を支配するために在地首長を二次的に編成したものといわれていますが、県下でその姿が現れてきました。
 古墳文化の終わる六世紀までの塩尻や長野県のようすはこんなふうであったのです。

 ここで村の名「かき」に戻りたいと思います。
 「柿沢」というむらが現れてきたのは、おおまかにいえばこんな時代ですが、クニという倭王権が出来つつあるころ、四沢川、田川の流域沿いで定住生活を始めた人たちがいたとみていいでしょう。
 大化前代のクニの社会は、氏(うじ)が構成単位でした。その統率者は氏上(うじのかみ)とよばれ、氏の首長として氏神の祭祀を行い、一般の氏人(うじびと)をまとめ、政りに参与していたということから、朝廷から姓(かばね)を与えられたといい、一部の氏人も姓を称したといいます。
 氏は部民(べみん)や奴婢(ぬひ)をもちますが、奴婢は各家に分属し、売買の対象となった財産でもあったといいます。部民は氏上に隷属して、氏の所有する集団の中に住み、氏上のために貢納や賦役を行っていたといいます。
 氏の政治組織であるカバネの成立については多くの説があり、氏・カバネの表記法にも新羅や百済の関係があるのではないかといわれ、大化前代の氏族が統一的に氏、カバネを与えられるのは六世紀始めで、全国的に拡大されたのは六世紀以後であるとされています。『長野県史』の科野国造の科野直氏の直(あたい)も朝廷から国造の地位を与えられたカバネということになります。
 豪族の私有部民は「部曲」(かきべ)といいます。
 「部曲」(かきべ)の「カキ」は「家をなし、村をなし、自営していた農民または漁民」を隷属民として組織したものですが、五世紀後半に出来上がったといわれ、豪族に必要な物資を貢納する品部と結びついていると考えられています。「直・首・公」などの地方の首長が率いていたものです。
 五世紀後半は雄略天皇の時代ですが、『日本書紀』巻十四(註)に天皇の遺詔に「大連等、民部広大、充盈於国」(大連たち、かきべ広く大きにして、国にみてり)とあり、続けて「星川王は腹が悪く心が荒きゆえ、皇太子を害するかも知れない、民部が多いのでゆめ(努力)あひ助けよ、なあなぞらしめそ」とあります。このようななかで大伴や物部氏は畿内の豪族として畿外のカキの民を領有していきます。豪族が部民を支配して権力を拡大させていくことになりますが、それまでの緩な安定した体制が、分裂や抗争の世界へと変わって生きます。
 四沢川、田川の流域で、地方の首長の治下のもと、「無姓」の農民として、また部曲の民として首長のために働き、伴造(族長)のために隷属、貢納し、召し出されて(上番)労役した民がいて、民の成員は、部曲のカキのほか、ヤッコ(家僕)や無姓の農民と各地に分散された帰化人もいてむらというものをつくっていたといいます。この「部曲」についてはいろいろな見解がありますが、「部曲」は大化二年(646)の改新の詔において、「民部」は天武四年(675)廃止されることになります。
 
 「柿沢」の「かき」は、部曲(かきべ)のカキ、民の「かき」であるのでしょうか。
 部曲(かきべ)のカキ、民の「かき」では、柿沢によらず他の集落でも当てはまり、各地に柿沢があることになってしまいます。ここで「かき」の意を別な面から考えてみることが必要になります。
 「垣根」(かきね)の「垣」はどうでしょう。この「垣」は「カキ」で屋敷や庭の内外を仕切る囲いの意があるのです。
 万葉集巻第十三の三二二三の歌(註3.)に「霹靂之 日香天之 九月乃 鐘礼乃落者 鴈音文 未来鳴 甘南備乃 清三田屋乃 垣津田乃 池乃堤之 百不足 卅槻枝丹 水枝指 秋赤葉 真割持 小鈴父由良 手弱女尓 引攀而 峯文十遠仁 ?手析 吾者持而徃 公之頭刺荷」とあり、(訓読 前略・・・雁がねも いまだ来鳴かぬ 神南備(かむなび)の 清き御田屋(みたや)の 垣内田(かきつた)の池の堤の 百(もも)足(た)らず 禊(みそき)の枝に・・・後略)(現代訳・・・雁はまだ渡って来て鳴くことのない神が宿る清らかな御田屋の、その動物除けの垣の内側の田のその池の堤に生えている、百には満たない三十ほどの禊(榊)の枝に・・・)という歌のように「垣」は向こう側が見える垣であることがわかります。
 垣津田・垣内田(かきつた)とは、垣の内の田という意で、この「垣内」のことを「かいと」とよびますが、「かいと」が文献にあらわれるのは天暦七年(953)伊勢国近長谷寺資材帳に見える「阿支呂垣内辰巳新開田・・・後略」(註4.)が最古とされています。万葉集の成立は770年ころといわれていますが、そのころは垣の内側は訓読で「かきつ」とよばれていたことがわかりますが、それが同じ意でありながら天暦ころには「かいと」と呼ばれていて、この間180年余りの開きがあり、長谷寺文書が初出だというのは少しおかしいのではないかと考えます。天暦ころも「かきつ」と呼んでいたとみたいのですが、一世紀や二世紀くらい平気で飛んで読み方を語る時代ですから、ここは興味深いといっておきましょう。
 「かいと」(垣内)は小規模の開発地、本来は畑がおもだったといわれていますが、屋敷が設けられその周囲の林や水田なども含むようになって、それが集まり集落を形成するすることもあり、その集落も「垣内」とよばれたといいます。また本拠以外に新しく占有した、開拓した土地を自分の垣の同じものとして自己の名を冠し、また目じるしとなるものの名を冠して呼んだのがその起源という説もあります。このことから一戸を単位とした小さな垣内から、数戸、村のような集落の垣内まで「垣・かき」のある集落、村が想像できます。垣内をカイトとするところは政権に近い畿内に多いといわれるのも無理のないことです。垣と似た「柵」(さく・さの)は、びっしりと組んだもので向うを見渡すことができないものをいいます。
 現在の柿沢にもこの小字(こあざ)が残っています。御堂垣外遺跡の「垣外」もこの「かいと」で、そのほか土地台帳(註5.)記載の「御堂外戸」「御堂外下」「ミノカヘト」「海道」が、かいと地名として残っています。この御堂とは一般に阿弥陀堂であることが多いといわれています。柿沢の御堂垣外は寺に関係した一戸を単位とした垣内で、「御堂外下」は五輪堂に隣接した地名で五輪堂の下になるので堂の外の下、「御堂外戸」は御堂の垣の外の戸ということになり、屋敷添という字に隣接しています。「海道」は四沢川に掛かる橋の右手前で社宮司、古屋敷に接しています。「ミノカヘト」は環境センターの入口から国道がカーブしますが、その東になります。
 柿沢は塩尻市の他の地区よりかいと地名が残されている地区です。「かいと」といわず、垣内の「かきつ」と読めば柿沢とのつながりが推測できますが、中世以前にいた有力者の姿を彷彿させるものであると考えます。

 ここは結論を急がずもう少し他の地区のかいとをみてみようと思います。
塩尻の東地区で「かいと」地名のある集落は、上西条、桟敷、大小屋があります。
 上西条は土地台帳に「海道」がみえます。剣の宮を下り地蔵前を右に折れたところになります。桟敷に「海道端」が慶安4年(1651)の桟敷村御検地帳と宝永元年の申之新切に「大海道」が記載されています。「海道端」は大正橋の西の花見にあります。大小屋は慶安4年の水帳に「道成海道」が、土地台帳にも同じ名で記載されています。東地区で検地帳や新切検地帳、控えの水帳、土地台帳などで見られるのは僅かなものです。
 東地区に隣接する地域に広げてみますと、慶安4年の北小野村御検地帳には、「海道はた」「おなへかいと」「そとかいと」「あらかいと」が、後の土地台帳では「荒井垣内」「外海戸」「原海道」「西海道」となって残されています。
 北の片丘方面はどうでしょう。
桟敷に隣接する中挾には、「櫻海道」「櫻海棠」「櫻街道」が土地台帳に、南熊井では同じく土地台帳に畑及び林地として「櫻海道」「桜かいとう」が、原野として「櫻海道坂」道路として「櫻海道山道」が見えます。中挾・南熊井の櫻または桜は寺に関係するもので、かいとを海棠、海道、街道、かいとうと記すのは、土地台帳に記入する際の村職員の使用文字にどうも関係がありそうです。土地台帳は明治の始めころから作製に着手し、種々の改正を得ながら明治20年ごろまで続いたといわれ、検地帳などの地字が整理されたといいますが、正しく伝承されなければならない字(あざ)が変わってしまうと検証も出来ないということになります。
 広丘村高出ではどうでしょう。高出の土地台帳では「海道端」「北海渡」「海渡」「よもぎ海渡」が、元文2年の新切検地帳には「大海道はた」「大海渡」が見えます。吉田では土地台帳、検地帳にない「花海道」があらわれます。原新田では慶安4年原新田村検地帳に「海渡ばた」があります。
 宗賀村の平出になると慶安4年の平出村検地帳には「かいと」「窪かいと」「次郎かゆと」「宮かゆと」「わでかゆと」が現れ、宝暦12年の平出村新田検地帳では「わでかいと」(上手屋敷)「宮かやと」「久保かいと」が、安永9年の平出村新田検地帳になると「かいと」「久保かいと」「わでかいと」「宮かいと」「次郎かいと」となり、多くのかいと地名がみられます。隣の床尾村では、慶安4年の床尾村検地帳に「八条かいと」が、元禄8年の床尾村検地帳には「八丈海道」「御領海渡」「かいとばた」とでて、土地台帳では「花見海道」「八丈海道」がでてきます。
 洗馬村は、本洗馬の土地台帳に「久保海道」が、岩垂では、「市垣外」「牛海道」「海道」が土地台帳に記載されています。
市域外の朝日村では、元禄3年の朝日村古見御検地水帳に畑の部で「かいと」が見えます。
 
 全国的に用字として、垣を使った垣内、垣外、垣戸、海を使った海道、海渡、海外、海棠、海戸、開を使った開渡、開外、開戸、開道、開土が見られ、道と紛らわしい街道や貝を使った貝渡、貝外、貝戸などや、平仮名の「かいと」や「かいとう」「かゆと」カタカナの「カヘト」などが多く見られるといい、本来の「垣内」「垣外」が漢字や平仮名、カタカナとなり、年次が下がるごとに当て字ともいえるものとなって、本来の意味がわからなくなっていく過程が現れています。
 ここで市域のかいと名を整理をして見ますと「かいと」の前につく呼び方で、次ぎのようにおおよその地形、場所の見当がつくことがわかります。
御堂・桜・櫻は寺に関係するもの、地形では窪・久保・坂・端・原・はた・あら・荒井・花見・人名では次郎、神社に関係するものでは宮、面積では大・丈、位置では、西・北・わで(上手)・そと・外・下、支配では御領、職業を思わせる市、動物の名では牛、植物ではよもぎ、道では道成が、意の不明な、おなえがあります。
 この「かいと」に関連しているものについて、柳田國男の『分類農村語彙』(註6.)は、「シマ」を「信州遠山地方では田地の連なった處をシマ、之に対して畠をカイト謂ひ、・・中略・・他の多くの地方では川の岸に臨み、また湖沼に接した部分に限られ、且つ田畠を併せてさう呼んで居る・・中略・・シマといふのは何れも流れに近い田園のことであり・・・後略」として語義を述べていますが、柿沢にも「中嶋」が、堀の内にも「中嶋」、桟敷、北熊井に「中島」が、堅石にも「中島」が検地帳に見ることができます。
 また柿の付く地名には、「柿沢」のほかに下西条で「柿沢畑」、大小屋に「柿木畑」、洗馬の本洗馬に「柿ノ木田」が見えます。これらは土地台帳や検地水帳に載っているものですが、垣の「かき」であるか、果実の柿の木の「柿」であるかは名称だけで判断はできません。呼ばれている土地の状況、地形などの環境を観察して検討しないとうかつに判断することはできないのです。

 では、「柿沢」の「さわ」はどうでしょう。
 辞書による「さわ」は『広辞苑』では「低くて水が溜まり、アシ・萩などの生い茂った地。水草の交り生えた地。山間の渓谷」大辞泉がいう「浅く水がたまり、草が生えている湿地。または 山あいの比較的小さい渓谷」と出てきます。ここは素直に山あいの比較的小さい渓谷の意である「さわ」で問題はないと思います。
 万葉集では数の多いことの意「さわに」とか、また陰暦の五月をいう「皐月」(さつき)の異体字「皋」(コウ)も「さわ」(サハ)で、水辺の平らな地という意がありますが、「さわ」は「さわに」ではなく、「皋」は、白い光のさす大きな台地の意でそれがこの地に当てはまるのかは疑問です。

 柿沢には阿礼が深く関わってくるように思えます。
いま、阿礼の「五百渡」を下から仰ぐと変哲もない尾根に坐していることがわかります。もっと立派な尾根、山が近くにあるのに何故ここだったのでしょうか。ここでなければならなかったわけはなんでしょうか。
 阿礼神社が祀られた「五百渡」の西には四沢川が流れ、北側は狭い山地で四沢側の源流へと続きます。「五百渡」の尾根の南斜面には小さな沢が流れ、「野田ノ澤」という意味ありげな地名が残っています。ここは山間でも珍しい緩い傾斜地で「姥畑」、「長者平」、「後林」というこれも古い地名のところに接しています。
 名がいつごろ付けられたのか、年次的に調べることが可能なのか、「ノタノサワ」の「ノタ」とは何をさすのか、「姥畑」「長者平」「後林」との関係はどうなのかと、ここは以前から気になっていました。「ノタ」を「野田」野にある田とするなら、縄文早期に緩傾斜地でヒエやアワなどを焼畑で作っていた可能性もあり、また縄文中期以降、稲を耕作した可能性もあり、阿礼の「五百渡」という祭祀の場がすぐ左上にあるだけに捨てきれない地名です。
 柳田國男は「ムダ」について「大牟田をはじめ、九州に最も多い地形名で湿地を意味する・・中略・・関東ではノダと発音せられ野田などの地名が宛てられて居る」とし、また、「ノタガミ」にふれ「三河・遠江の境の山村ではノタ場にはノタ神坐すと信じて不浄を戒め、之を犯すときは農作を荒さるるという。新たにノタ場を発見した時には注連を張り、幣をきりかけ、そこにノタの神を祭れば霊験ありという・・後略」と述べています。
 野田ノ澤は五百渡の尾根を分けた南斜面にありますが、ここにいた民は獣の害を防ぎながら小区画の耕地を開発し、合わせて狩猟採集もするという生活の拠点であったのではないでしょうか。野田ノ澤の周辺の「後林」や「長者平」からは石器や土器が見つかっていて、僅かな痕跡は残されています。この周辺で組織だった発掘調査が行われれば解明されると思いますが今後が待たれます。
 「長者平」は、明治9年(1876)から18年(1885)にわたり編纂された『長野県町村誌』の塩尻村の項に「長者平」は「南北八十間、東西六十間ほどの平地なり、傍に城澤抔と云所あり」と「城澤抔」が地名として出てきます。大いに注目したい地名ですがこれはなんと読むのでしょう。難読地名ですが「きさわぶ」「きさわのぶ」とでも読むのでしょうか。野田に関連してなにか引っかかる地名です。
 この「城」を(き)と読むと、万葉集巻第二十の四三三一の歌「前略・・筑紫国波 安多麻毛流 於佐倍乃城曾等 聞食・・後略」の「筑紫の国は賊(あた)守るおさへの城(き)そと 聞し食す」にあるように、堀や垣をめぐらして内外を限り、敵の攻撃を防ぐ建造物。とりで。入口などの意があるので、「城澤抔」は「 沢に堀や垣をめぐらしたところ」という意味になります。「・・抔」の「ぶ」の読み方も意味がありそうです。
 とすると、野田の澤近くの長者平に垣をめぐらせた有力な民がいたということが推定できます。『塩尻市誌』は「五百渡(いおと)付近に農牧生活をしていたが、・・」として「牧」を後部牛養に想定しているようです。ただ「城澤抔」は、慶安4年の柿澤村検地水帳にこの名が見い出されないのに、明治初期の『長野県町村誌』に出てくるというのは腑に落ちないことです。また土地台帳にも記載されていません。
 近世の野田ノ澤は、刈敷やもやなどの採取のために堀之内村と長畝村が入会、奥を桟敷村と十一ヶ村が入会していた場所になります。当時の柿沢村は権現山の北方から北の入の東方「後林」に入会をしていました。江戸時代の柿沢村の勢いを象徴させるものですが、後林は確保しています。これは中世末期ころから近世初頭にかけて村に変貌があったことを窺わせるものではないでしょうか。
 この「野田」が付く地名は上西条にもあります。「野田打」という名が付いていますが、東沢川の沢沿いにあり東塩尻駅に向かう山麓で、扇状地から東沢遺跡が発見されています。ここは山際の開けた台地で傾斜地ですが、畑となっていて東沢川がほぼ中央を流れています。ここも気になるところです。


 「かきさわ」のむらの名については、「民(かき)が暮らす、垣(カキ)をめぐらした田がある沢沿いのむら」という意ではないかと思います。村形成初期では獣害に悩まされることから、獣害を防ぐ垣(カキ)で集落を囲んでいたものでしょう。その原初の姿は、五百渡に坐した神の近く「野田の澤」「姥畑」「長者平」「後林」にあったと考えられます。この沢のむらから仰げる場所が「五百渡」であり、阿礼の神は祭祀、居住を同じくする、他の村落から区別する、祖を同じくするなどで産土的なむらの神であり、阿礼の神は柿沢のむらの神であったと考えられます。 
 沢沿いで戸が増えむらの拠点がより広い台地に築かれると、阿礼の神も明神平に移動します。野田ノ澤、後林からほぼ直線に西へ下がった尾根の中腹に坐します。
神とともに人々は農具や栽培技術、台地を改修する水利・土木技術などを手に新たに地を開き、より大きなむらへと変貌していく姿がここにみられます。それはこの台地に多くの遺跡がみられ、中核となる遺跡も推定されていることからも窺えます。特に柿沢東遺跡は縄文中期を代表する遺跡といわれ埋甕が発見されていて、住居跡二十三軒、土壙一三〇基という環状集落でした。墓地を囲むように居住区があることでも知られ、敷石住居址も発見されています。また、御堂垣外(みどうかいと)遺跡から縄文後期の敷石住居址四軒が見つかっています。
 そのころの柿沢の集落の姿は、今よりかなり異なっていて、緩やかな傾斜の森林帯が東部と北部に伸び、丸山のような残丘の山が残る谷戸、谷筋の村で、四沢川が権現山を廻り込み小丸山の裾から台地へと流れ込むという扇状地でした。小丸山の周辺に大石原、川すみ、牛倉沢、山道、山岸、蛭田、籠田などの小字地名が見られることから、四沢川が出水時には氾濫した川であったことが窺えます。これは四沢川が荷直し峠直下の標高1400m付近から、柿沢の850mの台地までの断層谷の標高差550mを流れ落ちるため勾配がきつく、台地に出るところで氾濫を繰り返したものでしょう。集落の北部は小坂田までの段丘崖が続いていて、四方を崖推の森林に囲まれた狭い台地で、四沢川の氾濫の影響のない段丘から、暫時沼沢化したところを水田として開発したと考えられます。人々は荒れる四沢川の湿地で基盤を築きながら、徐々に西と南へ移動し村の名もそのまま伝承されていったものと考えます。
 柿沢は慶安4年の柿澤村検地水帳によると「・・田」と付く地名が多く、田方の石高は畑方の倍近くあり水田に依存した村で、四沢川、北の入、牛倉沢の水を利用して耕作していたと考えられます。
 
 村の名が付けられた時代はいつでしょう。年次をはっきりと特定することはできませんが、八世紀以前とみたいのです。
『續日本紀』(797完成)の後部牛養、宗守豊人が田河造の姓を賜ったというのが延暦八年(789)ですが、彼ら以前に、もう村の名があったとみたいのです。彼らはこの地の偉大な開拓先覚者ですが、「後林や宗張という地名で残されている」とする『塩尻地史』の見解は正しいとしても、村の名として残っているわけではなく、 牧や水田を広めた垣内にいる有力者、大きな住居のある有力者なら、その姓が集落全体の名として付けられても不思議ではないのに、小字としてしか付けられていないということから、それ以前に集落には村の名があったとみたいのです。
 地名はいつごろ付けられたかを科学的に論証することは難しく、それだけに推測する面白みがありますが、いまに至るまでの村の推移のなかに蓋然性を持たせられるかで、近世以降のように文書が残されて、年次が簡単に特定できるものがないだけにより慎重さが必要とされます。
 八世紀末から十二世紀末までの平安時代で吉田郷が、鎌倉時代に入ると塩尻西条、塩尻東条が見い出されるようになり、「塩尻之東条」の初出は「諏訪大社下社文書」元享3年(1323)といわれ、この吉田郷や東条に柿沢は含まれていたとされていますが、まだ村としての名は出てきません。
 『塩尻地史』は「柿沢部落は中古は四澤北峠にて阿礼神社の奥社以下の山麓一帯に住して居ったとは古老口碑の一致である」としていますが、これは中古はとしていて時代区分があいまいなので、これを古代と中世までの区分ととると、弥生から戦国期までとなるのでこれは肯定せざるを得ません。
 この説を裏付けるような柿沢の古老が記した考察があるので、それをここで紹介したいとおもいます。
 字上屋敷並びに古屋敷と題された論考ですが、「阿禮神社前なる柿澤は数十年来に亘る南北朝の戦禍により散し 同所の上屋敷は相馬家祖先の居邸 町狩の下方 字古屋敷は諏訪家岩鼻の庄司柿澤相馬の邸址付近は 庄出仕の武家が居住せる處なりといふ 天文の末期相馬宗充の時 諏訪家亡するに及び柿澤(地番あるが省略)一時帰農す 土着三十余年天正の末期諏訪家其の儘此地を去るに当り 字町狩(地番あるが省略)の水田を八幡神社に寄進せる」とし、また、柿澤の部落について「古昔の部落は阿禮神社の南の處にありしは西ケ崎の字上屋敷等の有するを様して明瞭なり 南北朝以降天文の頃までは現今の字町狩に部落ありしは明治二十年頃の地番調査の道路図及び其の頃まで存せし道巾の明瞭し居るよりよっても明らかなり・・後略」としています。
 この論が書かれたのは大正の始めころですが、柿沢の14世紀初頭から中世の末期をこのように記していますが、柿沢のかいと地名が見られる場所でもあり、具体的な有力者の名が見い出されるので確かめてみたいと思っています。

 村の名などは何気なく呼んでいて普段意識することはあまりありませんが、そのいわれを聞かれると説明できないということがあります。塩尻東地区の大字だけでも「塩尻」に始まり「金井」「桟敷」「長畝」「堀の内」「大小屋」などが難しい地名です。隣接する「大門」「平出」「高出」も難しい地名です。『塩尻市誌』や『塩尻地史』の地名の由来で足りていては一歩も進めない状況です。
すでに述べたように地名は、
 いつ頃命名されたかという起源を明らかにしたりすること、その証明が難しい。
 由来、意味をあきらかにしたりすることが難しい。
 年次をはっきり特定することは難しい。
 年次を遡るごとに文献史料から求めるということが難しい。
 現在残されている地名が改められている時代があり、語義を判断することが難しい。
地名を形づくっている要因で判断できることがらは、
 人々たちの姿は、遺跡や出土品などの考古史資料から読み取ることは可能。
 自然の要因(地質、地形、河川、湖沼、土壌、気象、生物など)から形成を読み取ることは可能。
 民俗、伝承、文化財、生活環境から読み取ることは可能。
 解らない地名は、わからないということで済ませることができる。これはとても大事なことです。

 地名の考察はともすればいい加減な説を立てても許されるようなところがあり、うさんくささを感じながら聞いたり、解らないものを解ったとすることが往々起こります。地名のいわれは、それを証明することがとても難しいからです。
 まだ地名の研究が始まったばかりで体系建てた研究が行われていず、余り役に立たないものとされていることがありますが、郷土を知るに地名から始めるとそこからより深く郷土を知る手がかりが得られることがあります。
 地名の研究については難しいこと、検証できることを知り、その上で慎重にかかわらないと一人よがりなものになる危険があるので、今回の説もそうなってしまっていないか、妥当性ある解釈はできたか、こじつけになっていないか、どこまで証明できたかを問い直すことがなければならないと考えます。
 結論が導き出せなくても、疑問が生まれたら臆せず語ることが必要ではないかと思います。村に残る名は今に至るまで伝えられ続いてきたわけですから、村の歴史の一つの手がかりにはなるはずです。
 柿沢の村のなかにはまだまだ沢山の小字の地名が残されていて、解らない地名があります。この地名が残るうちに他の村の地名と比べながらもう少し調べてみようと思っています。
 
 参考にした文献・史料
 註1.『塩尻市誌』別冊 集落の歴史 231p 塩尻市
 註2.『塩尻地史』堀内千萬蔵
 註3.『万葉集』古典文学大系 岩波書店
 註4.『信濃』三次第3巻第1号 「かいと考」 一志茂樹
 註5.『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』別篇 地名 郷土資料編纂会 土地台帳記載の地名が多数記載されている。
 註6.『分類農村語彙』柳田國男 国書刊行会
   『分類山村語彙』柳田國男・倉田一郎 国書刊行会
   『古事記』古典文学大系 岩波書店
   『日本書紀』上下 古典文学大系 岩波書店
   『長野県史』長野県
   『長野県の歴史』山川出版社
   『長野県の地名』日本歴史地名体系 平凡社
   『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』別篇 地名 郷土資料編纂会
   『長野県町村誌』南信編 名著出版
   『慶安4年柿澤村検地水帳』
   『柿沢村古老論考』熊谷翁
   『信濃』三次第27巻第3号 「地名を中心とした地方史研究」 一志茂樹
   『信濃』三次第4巻第1号 「地名と国史の考察」 一志茂樹
   『日本歴史』古代2 岩波書店
   『岩波講座日本通史』古代1 岩波書店

(10/03/30)


上西条上手の道しるべ(道標)

 上西条に上手と呼ばれているところがあります。JRの東塩尻駅に向かう角の辻の周辺をいい、近くには上西条公民館、消防の屯所などがあるところです。この上手に道しるべがあります。
 道しるべ(道標)は、道の行き先や現在地を示す標識で、一般的なものは木柱や石柱に文字で表記するものが多いのですが、ここの道しるべは道祖神と兼ね合わせて作られているもので東地区では珍しいものです。天保12年(1841)丑2月8日と刻まれた双体道祖神像で、隣には庚申塔が建っています。
 この道祖神を兼ねた道しるべには、「右やまみち」、「左いせ道」と刻まれていますが、道祖神像だけをみていると気付かないほどの小ささで書かれています。

 「右やまみち」、「左いせ道」とは何のことでしょう。
 ここ上西条の村落の人たちは信仰から道祖神を建てたものだしょうが、兼ね合わせて刻字していることから主体はあくまでも道祖神であって、道しるべは付随的なものだったのでしょう。
 道祖神に向かって「右やまみち」とは、現在使われていない東塩尻駅に向かう道で、飯綱山の飯綱久保、北ノ入り、幸ノ田澤に入る山道です。飯綱山の東面と城ヶ嶽北面、大象像と小像像の西面、大仙内の西面に入るにはここを通らなくては入れません。
 「左いせ道」とは、伊勢講などで伊勢参りをする人たちのために行き先を案内するためのものでしょうか。
「お伊勢参り」と呼ばれた庶民の「伊勢詣」は、参宮を目的に室町時代以降盛んになったといわれて近世以後ゆとりが出来た庶民は街道の整備や宿場の発達 などにより、旅が容易になるにつれ、講中で総参(講の全員が参加)や代参(ニ、三人が代表して)詣でが、行われるようになりました。いまでいう観光旅行的な性格に近くなり、各地の村々で講がつくられ参拝する人たちが増えていきました。
 
 「右やまみち」は、飯綱山の常光寺の寺山や幸ノ田と呼ばれている上西条村の入会(入相)山に入る道です。ここに入る道にわざわざ標を立てなくても村民なら誰もが知っている道で間違えようのない道です。つまり村民が暮らしに必要な山の恵を得るための道でありました。
 「左いせ道」は、伊勢神宮に参拝するための道と解釈するなら、これも村民なら承知の道だったでしょう。
どうもここの道しるべは村民のために記したものではなさそうで、変則的な辻のため、他村の人が道なりに辿ってやま道に入ってしまわないようにしたものではないでしょうか。当時の道は、「やまみち」も「いせ道」も同じ幅員であり、紛らわしかった可能性があります。田畑に通う馬や牛、中馬稼業の馬や荷車が通ることができれば良かっただけの道で、さほどの整備を必要としなかったため、間違えないよう「いせ道」はこちらですよと他村の人に知らせる標識が必要だったのではないでしょうか。
 この道は常光寺を過ぎ、この辻のところで道は緩やかにカーブします。三叉路ですが道なりに直進すると「やまみち」に入ってしまいます。カーブして東 の強清水に行くのが「左いせ道」になります。
 「左いせ道」の左とは道祖神に対面した方角です。つまり大門村から下西条村、中西条村を経て常光寺の坂を上って来た人に教えているのです。逆に善知鳥峠から強清水を経て西に下ってくると、当然逆になりますから「右いせ道」と標記されなければならないことになります。

 当時の伊勢神宮に参拝する人たちはどこを歩いたのでしょうか。
お伊勢参りが最も盛んになったのは、江戸時代に入っての宝永2年(1705)、明和8年(1771)、文政13年(1830)だといわれています。特に明和の時には約一ヶ月間に計150万人が参宮したといいます。上西条上手の道しるべは天保12年(1841)ですから、遠隔地の村であってもお伊勢参りをする人たちがいたことが分かります。このように盛んになったのは、御師(おし・おんし)と呼ばれる神に対する信者の祈願の仲立ちをする職能者が、村々を巡回して伊勢信仰を勧誘して講を組織し、浸透させて毎年参詣に上らせるようにしたことが大きいといわれています。御師は戦国期の天正9年(1581)ごろから松本平や川中島一帯の武田家ゆかりの檀家を廻ったといいます。御師は村民全体を対象に御祓を配り、伊勢暦・扇・白粉・茶を土産にし、御初穂料を集めたといいますが、塩尻あたりではどうだったでしょう。
 このころ塩尻の各村から出入できる大きな街道は中山道、北国西往還(善光寺道)、五千石街道、伊那街道(三州)があります。宗賀、洗馬近辺の村々の人たちは木曽路(中山道)を辿ってお伊勢参りができます。片丘近辺の人たちも五千石から中山道、また北国西往還に出て木曽路へと向かうこともできます。広丘各村の郷原、堅石は北国西往還から、野村、吉田もこの経路を利用したものでしょう。村々からこれらの街道に出るのが最も近いからです。
 塩尻宿から伊那街道(三州)を歩くこともできました。善知鳥峠を越え、伊那、飯田を経て岡崎や尾張名古屋へ出る道です。岡崎から東海道へ、知多や渥美半島から廻船により伊勢へという水の道もありました。
 当時は塩尻の村から伊勢参りをして帰るまで約20日から25日間といわれた旅でした。当然多額なお金が掛かります。整備された道路や宿泊施設があっても旅人は現在のお金で1日1万円ほどの出費を余儀なくされました。
 当時の人は1日40㎞を歩いたといいますが、中山道塩尻宿から京都三条大橋まで約300㎞を約8日で歩くという計算になります。京都から伊勢神宮まで約140㎞を約4日、都合12日間が標準でした。京都までいかず、名古屋から四日市に出て日永追分で東海道と別れて伊勢を目指す「伊勢街道」というルートもありました。これは、十返舎一九が『東海道中膝栗毛』で紹介しています。
 どちらにしても1日40㎞、10時間歩くと時速4㎞ということになり、8時間ならば時速5㎞となりますが、1日だけならまだしもこれを1か月近く続けるというのは並のことではありません。車になれた現代人にはとても不可能です。当時の人はこれを普通のこととして歩いていました。
 伊勢神宮に参宮する旅は一生で一番大きな旅であり、それだけに持ち帰る旅の様子や情報が日々の暮らしの糧になったと考えられます。伊勢神宮に参宮した旅日記や道中記が全国各地で数多く記されていますが、それらには伊勢参宮だけでなく、通過地の名産や近辺の名所、旧跡などを見物していることが記されています。

 道中記について東北地方の遠隔地からお伊勢参りをしたものには、天明3年(1783)秋田県の横手町では『安倍五郎兵衛天明三年伊勢詣道中記』が、寛政2年に(1790)『西国道中記』川瀬雅男 (私家版、福島県白河市)があり、文化9年(1812)「西国道中記」(福島県立図書館蔵)が、文政6年(1823)には「伊勢道中記」(福島県歴史資料館、庄司吉之助家文書)などがあります。
 天明6年(1786)奥州磐城郡泉崎村(福島県いわき市平泉崎)の大馬金蔵は「社裃代御神楽代少々懸物御座候」として、公家の仲介で内侍所まで上がり内裏見物までしたことを記しています。費用もかかったことでしょうが、大馬金蔵の思いは叶いました。
 また、新潟の庄内町(現村上市)の源右衛門一行6人は、弘化2年(1845)1月26日(新暦の2月下旬)出発し、2月6日に善光寺に詣で、名古屋(2月13日)を経て伊勢神宮に2月17日到着、参拝し、その後奈良、高野山、大坂に出て、3月4日に四国の金比羅様に詣でています。新潟に帰ってくるのは4月2日で約64日間の旅でした。この間大坂から海路で赤穂城、岡山を経て、山陽道を大阪に戻っていますが、移動距離は約1900㎞といわれ、単純に割ると1日約30㎞を歩いていることになります。彼らは歩きに歩いたのです。
 塩尻の記録では嘉永3年(1850)1月10日に出発して、2月2日に帰り、翌日御札を配った(赤羽正康家文書)ということが『塩尻市誌』に記載されていますが、経路が不明なのが残念です。原本を読んで見たいものです。
 
 近世中後期のお伊勢参りの旅は、遠隔地になるほど大変な旅だったことがわかります。このような旅が一般的に行われていたことに驚くとともに、幕藩体制の締め付けのなか、人々をお伊勢参りへと突き動かしていったものは何だったのでしょう。
 上西条上手の道しるべが出来た天保12年、幕府の天保の改革が始まります。老中水野忠邦は緊縮と風紀の粛正を図りますが失敗しました。この年信州では初めて「慶安御触書」が水内・高井・小県・佐久・更科・埴科郡に代官から布達されたといいます。幕府が農民に与えた心得条で、順法心得・耕作奨励・衣食住制限など生活の細部まで触れているものですが、村民が村政や運営について改革を求める動きが出てきた頃のことです。身分制度を維持することが難しくなり、各地で騒動が起こるようになっていました。
 松本藩では文政8年(1825)赤蓑騒動が起こります。これは世直し騒動と呼ばれ、総百姓一揆とは異質な闘争で貧民層が富裕層を対象に、酒屋や麻屋、米屋、大庄屋などを襲い165軒を打ち壊した騒動です。文政5年(1822)高遠藩領である塩尻西五千石でも、14軒、64棟を打ち壊すという洗馬騒動が起こります。
 これより以前、寛延4年(1751)松代藩で田村騒動が起こりました。宝暦11年(1761)に上田領で起こった宝暦騒動(宝暦11年・1761)は、全領の1万3000人が強訴した総百姓一揆といわれ、全国的にも知られた一揆でした。このとき一揆の要求成就を伊勢天照大神に祈願したことでも知られていますが、すでに多くの人たちに伊勢信仰が根付いていたことを表しています。翌12年には飯田藩で千人講騒動が、安永6年(1777)には幕府領中野騒動が起こります。このような総百姓一揆から世直し騒動へと時代は変っていくのですが、その世直し騒動の先がけとなった騒動は天明3年(1783)の佐久諸領・上田領での天明上信騒動でした。この時代は天災による飢饉や火事に多くの村が見舞われるなど暮らしも大変でしたが、その変化の兆しのなかで村人たちは旅に出ていたのです。

 伊勢講が観光旅行的なといいましたが、現代の旅こそ観光旅行、物見遊山の旅ではないでしょうか。昔の旅と違い好きな時に電車や車で気軽にお伊勢参りに出かけられる旅が可能です。楽から得られるものはなんでしょう。生きぬく力を持ち帰っているでしょうか。考えさせられます。
 さてさて、現在の「431県道上西条大門線」は、天保のころは「いせ道」という名で呼ばれていたことがわかりました。この道は参宮への願望を込めた伊勢神宮へと続く旅の道だったのでしょうか。道祖神に併記したのはお伊勢参りの旅の安寧を願ったものであったのでしょうか。

左の写真は伊勢「おかげ横丁」のジオラマ
(10/02/17)


塩尻こぼれ話
 D51が走ったころ


今の塩尻にないもののお話です。
昭和の時代が少しずつ遠くなっていきますが、子どもの頃の懐かしい思い出がふいによみがえることがあります。
 小学校に上がる前から蒸気機関車が引っ張る列車が好きで、畑や田んぼで見えなくなるまでみていました。白い煙や黒い煙を吐きながら山の裾を上っていくのを、ただただ見つめていたのです。蒸気機関車はあの頃の子どもたちにとって最高、最大のメカニズムの塊りでした。汽笛の音と蒸気の排気音、レールの繋ぎと車輪の音がなんとも堪らなかったのです。
 宗張(むなばり)と呼ばれている田んぼで見ていると、上の山の下の西福寺の裾を廻ってくるころから蒸気機関車が目に入ります。煙を吐きながら上の山の裾を横切って行きます。幼さかった私はまだ親の手伝いはできなかったのですが、お茶番を良くしました。祖母と一緒に畑や田で仕事をしている親にお茶を届けることですが、お茶を飲みながら貨物列車や客車を遠くから眺めていたのです。
 下西条の山崎から石川あたりまで良く見えました。それからちょっと隠れて銭宮から私たちが勝手に呼んでいた「第一トンネル」に入る汽笛の音が聞こえます。この辺りに機関車が 差しかかると祖母がいつも私に聞かせるように歌ってくれた唄が、今も心に残っているのです。

   ででぽっぽ ででぽっぽ
   なんださか、こんださか
   このさか のぼれば じこうあんがみえるよ
   なんださか、こんださか
   ででぽっぽ ででぽっぽ

 子守唄のような唄ですが難しい唄ではありません。

   「ででぽっぽ」というのは汽車のことです。国鉄に勤めていた人たちは自分たちのことを「ぽっぽや」といっていました。
   「なんださか、こんださか」は、なにもこれしきの坂、こんな坂、なにほどもない坂、という意味です。
   「このさか のぼれば じこうあんがみえるよ」というのは、この坂を上りきれば慈光庵(上西条の庵)が見えますよといっています。

 慈光庵はいま、「慈光院」と呼ばれて飯綱山の裾に立派な六地蔵がある庵です。ここを過ぎると汽車は「第二トンネル」に入って行きます。三嶽神社の「第一トンネル」を出て、「第二トンネル」に入るまで汽車は飯綱山の裾の高いところを走ります。薬師堂や宗張からみると良く見えます。
 下西条から「第二トンネル」に入るまでずっと見ているわけで、これが面白かったのです。
貨物列車が貨車をいくつ引っ張っているのか数えたり、機関車が何台あるか、繋がっている(重連)か、後ろから押しているのかなど汽車が来るたび見ていました。途中で上れなくなって石川あたりまで下がってまた上りなおすこともありました。昔は運行ダイヤが緩やかだったのですね。これは石川から大カーブになり銭宮、三嶽と勾配がきつくなるのが原因だったでしょうか。また、山崎あたりの線路端の山が火事になることもありました。石炭の火の粉が飛ぶからです。このような時は汽笛が間断なく鳴るのですぐ分かります。

 小学校も高学年になると別な遊びが待っていました。「トンネル」をくぐる(抜ける)遊びです。「第一トンネル」と「第二トンネル」をくぐるのです。これは少し度胸がいりました。近所のいたずら仲間と四、五人で下条から中条まで遠征するのです。学校では線路端で遊んではいけないといわれていましたが、この「トンネルくぐり」をした仲間が吹聴するので、負けてはいられません。そうかといって一人でやる勇気がないので仲間を誘うわけですが、皆、親や先生には内緒です。
 大人にみつからないよう銭宮の東を目指し、三嶽の森を抜けます。レールに耳をあて汽車の音が聞こえないのを確かめて「トンネル」に飛び込みます。「第一トンネル」は短く、「第二トンネル」は少し長いので思い切り走ります。「第二トンネル」を抜けると東塩尻駅です。常光寺の屋根がみえるとほっとしたものです。東塩尻駅から「第三トンネル」(善知鳥トンネル)になりますが、ここは長くて無事に抜けられそうもなく、怖いので止めました。善知鳥峠の下をくぐる「第三トンネル」を抜けたという話を聞いたこともありますが、眉唾だと思っています。
 安全を確かめてやるわけですが、子ども心の安全確認です。いまから思えばいい加減で冷や汗ものです。
 
 似たような経験をした少年たちを映画の「スタンド・バイ・ミー」でみました。暑い夏の日、四人の少年が死体探しにでかける映画なのですが。途中長い鉄橋を渡るのです。橋を渡っていると貨車が来ます。四人の少年は必死に走ります。自分もあの少年たちと同じ思いを共有したと感じられるシーンでした。
 この映画は四人の少年の成長の物語でしたが、大人であることと、少年のままでいるということはどんなことかを考えさせるいい映画でした。原作はスティーブン・キングで、懐かしい曲が流れました。

 いまは、塩尻駅を出た一両の電車がここを上り下りしています。鮮やかに塗られた車体ですが、どこか寂しげです。新しく中央線になった短絡線が町区と上西条や中西条、下西条とを隔てて、薬師堂や宗張からこれらの村落が見えなくなりました。無粋な線路は大門まで延びています。放課後歩いて見にいった塩尻駅の操車場もなくなり、蒸気機関車の汽笛を聞くこともなくなりました。景観も子どもたちの遊びも変わり、大人がお膳立てしてやって野外で遊ぶ時代です。子どもたちの「冒険」も「探検」も難しくなりました。

(10/01/29)


犬飼の清水

 一里塚を出ると東明神社の社から鞍骨坂になります。この地名もいわくありげですが、「犬飼の清水」まで結構な下りです。
 中山道を歩かれる皆さんは、標柱の建てられている場所が犬飼の清水だと思っている方が多いのですが、この場所は現国道の改修工事のさい(裏・北側へ)移されたもので、それまでは国道の北側、中山道が国道と接するところにありました。戦後間もない頃、小学校の遠足で塩尻峠への行き帰りにはここの清水で休んだものでした。
 この清水の生まれは犬飼沢がすぐ西脇を流れていて、中山道の道端の平坦面に湧き出たものと考えられます。自然の浄化作用を古昔の人たちは利用したものでしょうが、現在は涸れてしまい場所も移動して昔日の面影はありません。犬飼沢は代官山の東麓から流れ出て弘法山の東を経て高速長野道の手前で田川と合流する沢です。
 明治5年(1872)から東山の集落形成が始まりますが、本格的になったのは明治22年(1889)からといわれ、新道工事が竣工し、この犬飼清水のある付近から茶店ができ東山が開発されていきます。人は水が無いと生きられませんからこの場所から開発が始まったのは必然といえましょう。

犬飼の清水も地名として残っていますが、このほかに犬とつく地名は犬飼原、犬飼沢があります。
 犬飼の清水は犬飼原の南端にあたりますが、現在塩尻青年会議所の「伝説犬飼の清水」の標柱が建っています。この伝説とは次ぎのようなお話しです。
 『徳川時代。ある公家様の行列が 塩尻峠を越えるため、塩尻宿を出発した。柿沢村を通る頃から、お公家様の愛犬が急に苦しみだした。さては病気かといろいろ手を尽くしたけれども、一向に良くならなかった。手当ての方法がないものかと付近を探したところ、清水が湧き出しているところをみつけ、天の恵みと犬に飲ませたところ、不思議にも病犬はみる間に元気になり、お公家様は大喜びで、この清水に「犬飼の清水」と名付けたという』というものです。

 では「犬飼の清水」「犬飼原」「犬飼沢」の「犬飼」とはなにから付けられた名前でしょうか。
 この東山の一角に付けられた地名「犬飼」からつれて考えられるものについて「犬養」「犬甘」「犬飼」があり、まず「犬養」ですが、大化前代の部で犬養部は犬甘部ともいって、番犬を飼養し、屯倉や倉庫・営門などの守衛に奉仕した人たちのことですが、猟犬を飼育・訓練して狩猟に奉仕していたとする説もあり、「犬飼」とは犬飼人・犬牽・犬引ともいって、鷹狩に使用する猟犬を飼育・訓練した人たちのことです。承和元年(834)12月22日付太政官符によれば令制下では兵部省の主鷹司に隷属していた人たちといわれます。犬は人と共生してきた生き物ですが、番犬、猟犬として、また中世から近世まで食用にも供されました。東山のこの原でなんらかのかたちで犬と繋がりの深い人たちが力を持っていたのでしょうか。
 これらのことについて歴史研究家として名高い一志茂樹氏は、『信濃』第3次第3巻「信濃上代の一有力氏族(1)(2)-犬甘氏について-」で詳しく論述されています。要約するにも難しい論文で私には手に負いかねますが、辛犬甘(からいぬかい)氏が定着した辛犬郷から筆をおこし概要まで考察、論究されています。氏の論文の六の概要から要点だけ紹介してみましょう。
 「・・・松本平地方には早くから安曇氏が拠り、奈良時代に中央の安曇氏の勢力が衰えるに及んで信濃の安曇氏にも影響し、辛犬甘氏の薹頭が考えられるようになった。辛犬甘氏はもと安曇氏に附せられた帰化人による部族で恐らく飛鳥時代を遡るころ信濃に定着し、松本市の近くに辛犬郷を建郷していた部族である。犬甘氏(辛犬甘氏と同じ)はその後土着の国衙の要人として勢を張り、村井氏を南に、細萱氏を北に、その他多くの分系により、中世前期を通じて、松本平における肥沃な水田地帯を占有し、牧場の利益を確保し、信州における有力な氏人として栄えるに至ったのであるが、小笠原氏が信濃守護として松本に入るようになってから、漸次勢力を失って、これに使ふるに至り、ついに元和三年小笠原氏に従って信濃を去った。・・・」
 氏は、また「犬甘」の姓について「犬養」「犬飼」などにふれ詳しく論究していて、当時の安曇郡、東筑摩郡のようすを知るには恰好な論文です。是非読んで欲しいと思います。「小笠原貞慶から犬甘半左衛門久知にあてた犬甘氏関係文書を通じてみると犬甘半左衛門を犬飼半左衛門として必ずしも一定していない。」としながら「犬飼」と記しているのは「春秋宮造営之次第(長享二年書寫)以下下諏方春秋宮造営帳(天正六年)の類はすべて犬飼と記している。」とし、例を引きながら「混乱がみられるが犬甘と書くのが正しく、時に犬飼と記したことはあっても、犬養の文字を使用した例は全く見当たらないということで、ここに氏族的考察上重要な鍵があると見なければならない」としています。
 
 ここで私がふれた塩尻峠(西峠と東峠)の中で『塩尻地史』の堀内千萬蔵氏は「東山の山腹には小笠原方の犬飼左衛門(犬甘半左衛門)がいて常備警戒していたが、武田方の下条九兵衛に討たれた」と記しています。『塩尻地史』は私が好きな書物で、冒頭の凡例に「地理は空間であり、歴史は時間である。二者は離れべからざる物である」という成句が好きで読んできました。が、この犬飼左衛門(犬甘半左衛門)が犬甘半左衛門久知だとすると疑義が生じます。
 犬甘半左衛門久知という人は、小笠原長時に使えた犬甘大炊助政徳を父に持ち、その次男になります。兄の治右衛門政信は長時の子貞慶に従い、木曽義昌と本山に戦って討死したのでその跡目を継いで貞慶に使え、城代や侍大将となった人です。その後、貞慶の子秀政に使え筆頭家老になり禄高千六百石となります。
 つまり、これらのことから塩尻峠の前哨戦で下条九兵衛に討たれてしまうと秀政に使えることができなくなるので、『塩尻地史』が誤っているか、犬飼(犬甘)でも別人ということになります。犬甘氏は分系が多く、鎌倉時代、東筑摩に勢力が及んでいたので、この塩尻の犬飼原にも土着した犬甘氏がいた可能性もありますが、土着しないまでも統治のため派遣された人たちが犬飼原、犬飼沢辺りに居住していたと考えることもできます。
 また、「犬追物」(註1)といい、馬場に犬を放って騎馬で追いかけ、響目矢(ひさめや)で追物射にする武芸で、流鏑馬・笠懸とともに馬上の三物といわれ、鎌倉時代には作法も整備され大規模に行われたことから、弓馬礼法の流派である小笠原流が広まり、信濃でも室町末期には長時・貞慶が故実書を著しています。この武芸をするために犬飼原で垣をめぐらし、犬を放って馬上から射るという修練を、犬甘氏が小笠原氏のために犬飼原で行っていたのではないかと考えることもできます。
 この「犬飼の清水」「犬飼原」「犬飼沢」の西に「代官山」と名付けられた山がありますが、何故代官山と付けられたかまだはっきりわかっていません。中世から近世に何らかのかたちでここを納めていた代官がいたのでしょうか。いたとすれば誰だったのでしょうか。現在、この山は塩尻宿のあった塩尻町村(しおじりまちむら)が、町区となってここを所有、管理しています。

 難しいことはさておき、「犬飼の清水」や「犬飼原」、「犬飼沢」の名があるここは、入会(入相)で、近世、諏訪の村々の百姓と塩尻の百姓が争っていたことはすでにお話ししました。寛文5年の(1665)の御墨引き以後も、四沢山山論や勝弦新開での生きるための争いごとがありましたが、当時の農民には今の私たちに無い根源的な活力を感じます。村境、郡境までも自分たちで勝ち取ろうとする力は今の私たちにありません。行政にすべてお任せして日々平穏に暮らし、陰で文句をいうくらいになってしまいました。昔の人が見ていたら恥ずかしい限りです。
 近代に始まる東山の開発は形を変えてこの犬飼清水の周辺から始まることになります。明治3年(1870)に東山の新開を願い出るものがありましたが、入会の村々では採草地であるとして故障を申し立てています。その後明治5年から開拓が始まり、人家は明治8~9年ころより出来始め、明治15年頃にはまだ10戸ばかりでした。 明治の中頃から東山の原野を塩尻の村々や力のあるものが買い取る騒ぎが起きるようになり、押領、侵略などが大正初年ころまで続きました。幕藩体制のころとは大きな様変わりです。明治22年新道の開削工事が竣工すると犬飼清水付近へ塩尻を始め、諏訪、松本、伊那方面から移住する人たちがあり、明治30年ころには30余戸となりました。道路の開発がこの東山地区の集落形成に大きく寄与することになります。
 近代からの開発のスピードは昔の比ではありません。あっという間に景観や生活が変わり、過去に目を向ける時間さえ奪って行きます。私たちは昔を懐古するだけのために街道を歩くのではなく、ちょっと立ち止まって目を瞑り心を戻して今を生きるすべを、過去の歴史の中から拾い上げることが必要ではないでしょうか。「温故知新」ですね。

註1 いぬおうもの「吾妻鏡」承久4年(1222)2月6日条が初見。

(09/11/01)


塩尻峠「親子地蔵と一里塚」

 御小休本陣を過ぎて峠道が屈曲、下り坂になると道の北側に二体の地蔵菩薩が建っています。「親子地蔵」と呼ばれています。
左の地蔵には享和元年(1801)五月の記銘があり右の地蔵にはありませんが、二体同時期に建てられたものでしょうか。言い伝えによると天明3年(1783)の飢饉の時、塩尻峠を越えようとして餓死した人々の冥福を祈り供養のため建てたといわれています。その後、頭部が失われ「首なし地蔵」と呼ばれていましたが、戦後(1945)になって東山区の有志により頭部が改めて作られたといいます。地蔵の脇に明治10年(1877)に建てられた「馬頭○○○」と書かれた石碑が1基あり、これは風化は進んでいます。
 この地蔵の脇に、塩尻青年会議所と塩尻史談会が建てた三角柱の案内標があり、この標柱には「伝説夜通道」と書かれています。説明には「いつの頃かある美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり、男と会うため毎夜この道を通ったという」と記されています。
 この「夜通道・よとうみち」の伝説(註1)を要約して紹介しましょう。次のようなおはなしです。
 「・・・いつの頃か、片丘辺のある村に一人の美しい娘があった。岡谷の男と親しい仲になって恋しさのあまり、逢いたい一心から道の遠いのも恐ろしいのもかまわずに、毎夜毎夜この道を岡谷まで通いつめた。鳥の鳴かない日はあってもこの女がこの道を通らない夜はなかった。男は、初めのうちは逢うことを楽しみにしていたが、女一人で三里の夜道をどのように来るかと不思議に思うようになった。そこである夜、途中に隠れて藪陰から女の通るのを待っていた。そして、その女の通る姿を見て吃驚仰天した。女は体に白衣を着、髪を振り乱して長く垂らし、頭に枠をのせ、それに幾本かの蝋燭をたて、口に櫛をくわえて、シャシャシャシャと大蛇が草の上をすべるような音をたて、小走りに通るのであった。知らない前ならともかく、この姿を見た男は恐ろしくなって、そのままどこかへ逃げ身を隠してしまった。間もなく女もこの世から姿を消してしまったとのことである。」
 不実な男と一途な女の悲しく切ないお話しです。

 堀内千萬蔵氏の『塩尻地史』は「ヨトウ道」を「夜通・夜盗」などと書くとして、「東山山脈の山腹を横伝いに通ずる道で、熊井の蓬堂(よもぎ)より本村地籍二本櫟(くぬぎ)の南で、四澤川を渡り、長者平の東辺を経、今の東山部落を斜断し田川の源流を亘り、筑摩地村勝弦の十五社平に達するというのが之である」としています。
 大正14年に書かれたこの書は、「今人の謂う所のヨトウ道は南端が西峠を越え諏訪へ通じ、北端は物見山・のぞき・先達ヶ原へ登る道筋を通称するのであるが・・・」として、この道に対して、「前記の道筋を古道として自信するのである」と自説を述べ、この「ヨトウ道」は五百渡道の転訛で、一名「ふかうけ道」とも呼び、「ふかうけ」が地名であったと記しています。
 「伝説夜通道」で女が通った道は、北端は片丘ですが、南端が違います。恋しい男のもとへ片丘から十五社平へ、勝弦峠を経て岡谷へ抜けたのでしょうか。岡谷の男は罪なことをしたものですね。この十五社平という地名のところは現在塩嶺高原の別荘地になっているところで、無線中継所のある勝弦山のピークの西側になります。
 夜通道は、親子地蔵の端から塩尻峠の東峠と西峠の間の塩嶺閣の小さな池の南端を通っていたという古老の話しも聞いたこともあります。これだと西峠(国道20号塩尻峠)に通じていたということになり、『塩尻地史』でいう「今人の謂う所のヨトウ道は南端が西峠を越え諏訪へ通じ」という道になります。
 以前「岐蘇古道」を歩いた経験から考えますと、いにしえの人は、等高線沿いに山の中腹を歩いています。ここもいのじ山の山腹を横伝いに古道が通っていたのでしょう。片丘の東山山麓から原始・古代の遺跡が多く見つかっているのも故なしといえましょう。十五社平への道沿いに青木沢遺跡もあります。伝説から離れて考えても興味深いものがあります。この「夜通道」は「夜盗道」で、近世の頃塩尻宿にあった「口止番所」を通らずに片丘方面へ抜けるために、ここを利用したことから呼ばれたという説もあります。人が近づかないよう怖い話を流布したものでしょうか。
 この道で実際に元禄年間に「南塩差留刃傷」という事件が起こっています。
 この事件は元禄10年(1697)の11月、諏訪領東五千石の熊井村の中馬馬方7人が、甲州からの戻り荷に塩を付けて村へ帰る際、「ふかうけ道踏分之所ニ而」 松本藩塩尻番所の足軽衆弐人にみとがめられもめごととなり、一旦事は双方立別れとなりましたが、足軽衆が番所へ走り帰り加勢を頼み、四人が人足大勢を連れて熊井村の松木河原で待ち受け再度もめごととなり、あげくに熊井衆が棒を持って手向かったため、足軽衆が刀を抜いて三人に手を負わせ壱人を切殺した一件です。
 これは松本藩が千国街道と北国街道から入る北塩のみを許可して、南塩の移入を禁じ、塩尻・本山の口留番所で厳しく監視していたことから起こった事件ですが、諏訪高島領と松本藩領の領域が東山で入り組んでいたこと、番所を通らず脇道が利用できたこと、高島領では南塩を禁じていなかったことにより起きたものです。
 ここでいう「ふかうけ道踏分之所」とはどこでしょうか。
 馬方たちは「南塩差留刃傷一件馬士口上書」(註2)で、この道は昔から通っている道で「新規ニ留被申段難心得由申候得物、・・・」といっているので、普段通いなれた道であり、いっとき松本領内を通過するだけで高島領の分領である自分の村へ塩荷をつけて帰るのに、松本領の番所の役人に荷物について文句を付けられるいわれはないと馬方衆は思ったのでしょう。
 『塩尻市誌』では馬方が「荷直し峠を下り、ふごけ道を通り村へ帰ろうと・・・」と記していますが、これだと下諏訪から今井へ出て荷直し峠という道順になりますが、この道は遠回りで馬方衆がわざわざ横河川を遡り荷直し峠を上り下りして、村へ帰る必要があったか疑問です。それとも塩尻峠から東山の尾根伝いに荷直し峠に出たものでしょうか。彼らが近道の中山道の塩尻峠は通らず、『塩尻市誌』のいうようなこれらの道を辿るのは不自然ですし、返答書である「塩尻宿熊野井村 丑霜月廿六日津留出入」では、塩尻番所の役人はくけ道を打廻に出ていて弐人は上道、弐人が下道を廻っていて、上道の者が馬方に出会ったと述べています。この上道を『塩尻市誌』は東山を縦に区切る道、荷直し峠にあてたものでしょうが、これだと下の道は東峠か西峠ということになります。また「ふかうけ道」に接続する東峠の道筋を上道、小笠原秀政が移す前の西峠の道筋を下道とみることもできますがどうでしょうか。
 横道として区切ると「ふかうけ道」が上道となるでしょうが、では下道はどこかにあったのでしょうか。「ふかうけ道」より下で(西)というと、柿沢の八幡社のある丸山の西すそから四沢川を渡り町狩りを経て、池の入から経塚山に至る山合いの道を抜け、長畝、桟敷の東にあたる栗木沢、芦沢のすそをへ、入道から熊井に至る道が下道だったのでしょうか。口上書も返答書も上道、下道を詳しく書いていないので判りません。
 前記、口上書で「・・・十一月廿六日之昼八時分ふ高下道を罷帰所候ニ、塩尻之道とふかうけ道之踏分ケ之所江 塩尻町御番人之御足軽衆・・・」と出てきますが、熊井の馬方衆は中山道塩尻峠(東峠)を下り、東山の一里塚の西の辻でふかうけ道に入り熊井に抜けたのではないかと私は推測したいのです。
 「塩尻之道」を塩尻宿に向かう道(中山道)と解釈して、ふかうけ道の踏分(分岐点)は、東山の一里塚の西の辻になるところで、塩尻番所の足軽衆が走り帰って加勢を連れ、熊井の松木河原で待ち受けていたことなどから、距離・時間などから考えてもこの辺りではなかったかと推測するものです。
 『片丘村誌』は踏分の場所について言及していませんが、「北熊井区誌』は[「ふかうけ道踏分け(犬ッ原)」で松本藩の足軽二人に塩を渡すように言い渡された。]と記していて、踏分が犬ッ原であるとしていますが、犬ッ原は高島領ですから、松本藩の役人が直ちに荷物を改め押さえることは無理があります。熊井村の四、五十人が出て手向かったという松木河原という所は、現在の南熊井の松木原とよばれている場所で、長野県畜産試験場の西にあたります。

 この事件は翌元禄11年(1698)馬方の妻が下手人を求めて江戸の評定所へ訴え出ましたが裁許になり、諏訪領五千石の村々は諏訪領の役人の手形を番所に差出して喰塩や・諸荷物を運ぶことを許され、脇道の通行は一切ならないことを申し渡されましたが、塩尻番所経由なら荷物や南塩が公然と運べるようになりました。
 『信州塩尻赤羽家元禄大庄屋日記』でも、このもめごとを書留めていますが、裁許ののち、松本藩の御殿様が喜んだことや、この事件に関わった藩勘定奉行を加増して郡奉行に、足軽を徒士に昇格、出府した百姓や塩尻宿の名主まで行賞したことを克明に書きとめています。
 「殿様事ノ外御悦被遊候」とは、松本藩はこの裁許を勝ったとみたのでしょう。これは南塩の脇道通過を防ぐこと以上に、馬方の妻が下手人の引渡しを求め、評定所が訴えを斥けたことに対するものであったと思えます。それにしても下手人の引渡しを求めた馬方の妻や子、二人を支援した熊井村の名主たちは勇気があったといえます。
 高島藩も郡奉行を三人も出府させ松本藩に対抗しますが、判決は以外な結果で自領の領分の村へ塩を運ぶにも手形が必要になりました。松本藩は安永6年(1777)これまでの南塩の売買停止の所を、金200両上納させることで南塩・江戸塩勝手次第とし統制を緩めることになります。
 この南塩が通った「ふかうけ道」は現在、高ボッチ林道として山すそを横切る道がほぼ、その道筋にあたるといわれています。
 
 親子地蔵から歩き出すとすぐ松井沢の橋がありその手前の北側に松があります。勘定奉行石谷備後守の命により、明和5年から7年(1768-1770)にかけて松本御預役所が監督して、掃除丁場の村々が峠下の北側に松苗1200本を植えたという松で、塩尻峠下で残っているのはここの松だけといわれています。
 街道の並木は東海道に比べ中山道は遅れたといわれていますが、塩尻宿でもたびたび督促を受けたことが「塩尻宿御用書留帳」からも窺えます。植えたあとも風折れや根返し、立ち枯れの有無を奉行所へ報告、新苗を植付けたことがわかっています。幕府も維持管理に努めるよう御触書を度々出し、かつ取締の役人をして見廻りすることをしています。
 天保14年(1843)に、御見分勘定飯田文右衛門様宛てに塩尻宿と10か村で書上書を提出しましたが、それには「往還並木 但北側弐千弐百拾五間百姓持林並入会秣山之儀に付土手敷地相譯不申候」として「往還通表一側成木 松木六百六拾三本 但目通五尺廻より弐尺廻迄 長七間より弐間迄」と書上しています。今から166年前の記録ですが、このほかのことを事細かに書上、立枯れ古枯の分の植付けや間遠の所への補植をするとし苗木小苗も根廻して常に備えるとしています。
 この中山道の掃除丁場の村々は峠下から道路手入れを行っていたわけですが、一定の区間を村に割り当て一切の責任を負わせるもので享保3年(1718)道中奉行から申し渡されました。塩尻宿のほか八か村がこれに関わり、掘之内村が峠の峯百二十六間を担当、それぞれの村は江戸の方(江戸に向かう側)を担当しました。その後宝暦年間頃(1751-1763)北小野村がこれに割り当てられ柿沢より縁並迄を担当することになり、以前の掃除丁場が増減するということになりました。この時は塩尻宿のある塩尻町村は免除されています。掘之内村、柿澤村、金井村、桟敷村、長畝村、大小屋村、中西条村は増え、下西条村は江戸側と大小屋下より田川迄と決められました。この課役は百姓にとって大きな負担でした。
 この松の並木は明治20年(1887)の新道工事で中山道の道筋が重なり合うので伐採され払下げされました。その記録(註3)によると計18本で、大きいもので目通り六尺五寸、小さなものは弐尺弐寸でした。その後、残った松も明治31年の塩尻尋常高等小学校の改築の際伐採されています。
 このことから現在残ったとされている松は、当時の生き残りとされていますが、胸高周囲が134㌢で直径は42㌢余りと小さく、明和の頃の最初に植えられたものではなさそうで、おそらく江戸末期以後植えられたものか、伐採当時貧弱なものが残されたものかと考えます。
 松の寿命がどのくらいあるのか現代の科学でもまだはっきりわかっていないようですが、樹齢は年輪を調べることで特定できます。立木の年輪は普通、成長錘(せいちょうすい)という丁字型をした錐を使います。樹皮の部分から中心に向けて円筒状の穴を開け、なかの材を採取する道具ですが、計算が難しく実際より高齢に推定してしまうといわれています。ちなみに樹木の太さは日本(北海道を除く)では地上1.2㍍と決められ直径で表すという世界共通のルールがあります。欧州では1.3㍍でアメリカでは1.37㍍を採用しています。直径で表すのは木材の体積を早く正確に知るために行うもので、長さを乗じて幹の体積を求めるのに都合がいいからです。林業の専門家は輪尺というノギスのようなものさしをや、直径巻尺を使います。
 樹齢がわかればこの松が植えられた時代がわかりますが、峠付近の山に同程度の太さの松もあり、松井橋の東にある松が「中山道の並木の松」と特定できるほどの資料がないので、ここは「街道沿いの松」としたいところです。

 松井橋は現在コンクリートの橋になっていますが、気無しに通れば在ったかなと思うような小さな橋です。この橋は板橋で掃除丁場に割り当てられ普請をしていました。このあたりは入会(入相)で諏訪側との争いが頻繁に起こったところです。寛永17年(1640)には諏訪百姓と塩尻の百姓があらそう「鎌喧嘩」が起こりました。諏訪側の鎌63丁を取押さえ、3丁を証拠として留めおき60丁を返したという争いでした。
 明暦3年(1657)には、徳川将軍家御台所の中仙道下向あり、諏訪・塩尻の沿道の村々道普請工事を仰せ付けられ、松井沢橋をめぐり双方「わが郡内なり、わが地内なり」と主張して争うということがありました。
 寛文4年(1664)には、鷹司卿姫君が徳川綱吉へ降嫁の折、中山道を通行、このとき諏訪郡村々の百姓が塩尻峠の道普請を妨害して、塩尻百姓と大喧嘩となり、この松 井沢の板橋を諏訪側が柴橋に架け替え、翌日にはまた塩尻側がこれを引き崩し板橋にし、翌日また諏訪側が柴橋に、御通輦の前日夜、塩尻側が大勢を出して板橋に架け替え、そのまま警番をしたため諏訪側では手出しができず、御通行になったといいます。これが9月7日のことで、その後12日にまた諏訪側が柴橋に架け替えたという騒ぎですが、翌5年双方とも領主へ訴え出て1月江戸奉行へ出訴することになりました。
 どうも諏訪側は寛文5年(1665)の評定所によって、裁許状および絵図面が双方へ渡され、筑摩郡と諏訪郡の境界を峠峰通りとし、峠峰通りから犬飼清水までの山野は塩尻・諏訪双方の入会山とする裁許まで、松井沢は自分たちの領分と思っていた節があります。諏訪側の主張は慶長6年(1601)の大久保長安の犬飼の清水までを郡境とする定めを根拠にしたといわれています。
 この寛文5年の裁許で塩尻側は境界論には勝ち、入会権では諏訪側に負けたわけですが、どちらの側にしても秣場として入会うためには必要なところであったということがわかります。これが「塩尻10か村と諏訪郡9か村との塩尻峠入会争論」といわれるものです。
 この橋の下を流れるのが松井沢ですが、田川の源流となります。松井沢は、松井山の東麓の蛙池(かえるいけ・げえろいけ)から流れる小松井澤と大松井澤が合流したものですが、峠直下では唯一の沢です。松井澤は南下して国道20号の東山橋の下を流れ、高速長野道の塩嶺トンネルの塩尻側入り口手前に架かる高架橋のある鱒の京と呼ばれる地名のところで青木澤と合流し田川になります。
 余談になりますがこの松井沢は、古来より諏訪家の練武場として的射(まとい)澤と称したということで、この北側の山は堀内千萬蔵氏が「松井山」と名付けたということを『塩尻地史』で伝えています。
 
 松井橋を渡ると一里塚は目の前です。
この一里塚の制度が確立されたのは慶長9年(1604)で、徳川家康が秀忠に江戸日本橋を起点に増築させたといわれ、道の両脇に塚を築き木を植えたもので大久保長安が統括したといわれ、この塩尻峠の一里塚は慶長19年(1614)小笠原秀政が造ったものであろうと『塩尻市誌』は述べています。現在は塩尻市の史跡に指定されていますが、松はなく塚一基だけが残されています。当時の道は今の道より低く、旅人は塚を見上げるように見たことでしょう。
 一里塚は旅の目安となりましたが、度量衡統一の目的もあったといわれています。塚上には多く榎が植えられましたが、関東では松、杉も植えられたといいます。明治以後里程標の設置や道路の拡幅などで失われていきました。享和2年(1802)の太田南畝の『壬戌紀行』にはこの一里塚の記述があり「左にいの字山というあり。げにもいの字の形したり。芝山なり。一里塚をこえて小流あり。板橋わたりて立場あり。」と出てきます。塩尻宿の東端にあったという一里塚は書いていないので、このころすでに無かったも知れません。幕府の街道への締め付けが緩くなっていたのでしょうか。観察眼に優れた南畝が平出の一里塚と塩尻峠の一里塚を書いて、塩尻宿東の一里塚を見落とすことなぞなかったはずですが書き落としをしたのでしょうか。『壬戌紀行』は景観や地名・名品を地元の人が顔負けするくらい詳しく紹介しています。太田南畝は幕府の役人でしたが、文才に優れ多彩の才能を持った人で、本名は直次郎といい、別号は蜀山人(しょくさんじん)・四方赤良(よものあから)などを使いました。

註及び参考文献
 註1『塩尻の民話と伝説』 塩尻史談会編集
 註2「南塩差留刃傷一件馬士口上書」 大和恒文氏所蔵 県史近世(史料編)所収
 註3「塩尻峠新道開鑿線路へ係ル国道筋並木伐採調」塩尻市蔵

 「塩尻宿熊野井村 丑霜月廿六日津留出入」 古沢欽子氏所蔵 県史近世(史料編)所収
 「元禄十一年八月 出穀・南塩御法度請書」 筒井寿美雄氏所蔵 県史近世(史料編)所収
 「元禄十一年十二月 南塩刃傷事件裁許状」 大和恒文氏所蔵  
 『信州塩尻赤羽家元禄大庄屋日記』 横山篤美著 慶友社
 『塩尻市誌』塩尻市
 『片丘村誌』 片丘村誌刊行会
 『北熊井区誌』 北熊井区誌刊行会
 
(09/10/25)


中山道塩尻峠の御小休本陣

 江戸時代「中山道」と呼ばれた街道は「塩尻峠」を越えて塩尻宿に入りますが、この峠はご存知のように現在の国道20号線の「塩尻峠」ではありません。現在の峠より北を抜けていますが、諏訪側の下諏訪宿から塩尻の柿沢村までは人家がなく、旅人やここを参勤交代で通過する大名は難渋したといいます。そのため諏訪側の今井村が間宿の役割を持つようになり、御小休(おこやすみ)本陣ができました。塩尻側にも塩尻峠下に御小休本陣ができました。
 塩尻側の御小休本陣は、記録によると宝暦4年(1754)(註1)とも、宝暦14年(1764)(註2)に設けられたともいわれていますが、どちらにしても「中仙道」(註3)が塩尻峠越えに変わったのが慶長19年(1614)ですから、この間難渋したことが窺えます。
 立場というのは人足が杖をたて、駕籠や荷物をおろし休んだことによるといわれていますが、宿のはずれや間の宿、休息場所がなかった峠道では有難いものだったでしょう。この立場(茶屋)について幕府は、茶屋が婦女をおいて開放的になるのを憂い、延宝6年(1678)新規の茶屋は禁止するなどしましたが、規則は守られず、正徳2年(1712)と享保8年(1723)、文化2年(1805)と次々に禁令を出しました。

 この茶屋について、『塩尻市誌』がどのように記しているか見て見ましょう。
1.『塩尻市誌』の別冊年表によると元文5年(1740)に柿沢村の平右衛門が峯の茶屋を建てるというのがみえます。
2. 同じ『塩尻市誌』の別冊年表で、宝暦年中(1750.10月ー1764)に柿沢村の源次、塩尻峠に茶店を開き、酒・飯を商うと出てきます。
3. 次に『塩尻市誌』の第4巻民俗では、御小休本陣は宝暦14年(1764)に柿沢村の庄屋の弟吉次郎が開きとなります。
4. 同じく『塩尻市誌』の第2巻歴史では柿沢村の名主の弟吉次郎が寛政8年(1796)茶屋本陣を開き、となっています。
5. また、『塩尻市誌』の別冊年表「集落の歴史東山」の項では宝暦1.4月柿沢村の庄屋の弟吉次郎が茶屋を始め、寛政8年(1790)に再建し茶屋本陣となると記しています。寛政8年は1796年になるので西暦に誤りはありますが、吉次郎がという部分は一致しています。
  また、一村の長を西日本では庄屋、東日本では名主と呼ぶことが多く、また私領を庄屋、幕領を名主と呼ぶともいわれていますが、ここでは統一されていません。
 『塩尻市誌』のような郷土誌は、郷土の歴史を学ぶ人にとって分かり易い入門書的なものであるはずですが、判りにくいものになっているのが残念です。
これは市誌が分担して執筆されるため整合していないということなのでしょうか。村に残された一次史料を提示してくれるとありがたいのです。柿沢村の明細帳は享保18年(1733)と安永2年(1773)が伝えられていますが、御小休本陣(茶屋本陣)が載っているか一度調べてみたいものです。

 さてここに、三人の名前が出てきます。柿沢村の平右衛門と柿沢村の源次、柿沢村の吉次郎という人物ですが、それぞれ峯の茶屋を建てたり、茶店を開いたり、茶屋本陣を開いたり、再建したりしていますが、現存する御小休本陣は、吉次郎が主屋を寛政8年(1796)(註4)に普請をしたという記録が残っていて、代々の当主に引き継がれているとのことですから、まず、間違いのないところですが、平右衛門の峯の茶屋と源次の茶店が峠のどのあたりで営業していたのか、峯の茶屋の峯が現存する御小休本陣なのか、三人の茶屋の建てられた年代が接近しているだけに気になります。
 平右衛門が建てた茶屋が中絶し、吉次郎が開いたが、いっときで中絶、あらためて再建したと見ることもできますが、源次の茶店が塩尻峠とだけになっていて、どこか場所が特定されていないので、どこに建てられたか分かりません。新茶屋という呼び方をされるところが源次が開いた茶店だったでしょうか。吉次郎の御小休本陣と平右衛門の峯の茶屋と源次の茶店が、同時期ともいえるころ、別々に峠にあったとしてもおかしくはないのですが、どうでしょう。

 生活や茶屋を営むに必要不可欠な水をどこで汲んだのでしょうか。
 塩尻側の峠下で水に不自由しなかったのは現存する御小休本陣です。主屋の東の池に流れ込む水は、湧水で結構水量もあり、井戸も穿されています。この井戸は享和年間(1801~1804)に掘られたということですが、吉次郎が普請後に開穿したものでしょう。塩尻峠付近で水が確保できるのは、犬飼沢と松井沢、それに御小休本陣のあるところです。このあたりで、むしろ張りでもして簡単な茶屋を営んだ人がいたのでしょうか。それにしても食べ物はすべて柿沢村から人力や畜力、車などで運ばれたものでしょうが、このあたりは人家が無く、塩尻の村々の入会(入相)地で山林原野でしたから心細いものがあったと思います。
 御小休本陣の西南に御小休本陣の上条家で耕作している畑がありますが、この畑はいつ頃開かれたものでしょうか。
ちなみに柿沢村の慶安4年(1651)の「水帳」(註5)を見ますと「いのじやま」に見付畑と林畑がありますが、「いのじやま」という地名は、中山道を挟んで東は御小休本陣から南北に広がり、西は一里塚までの範囲で、見付畑というのは検地帳に記される名称で、荒地で下々畑より生産力が低い畑で、荒地や原野のなかからみつけたという意ですが、吉次郎が主屋を建てた寛政8年(1796)に、「いのじやま」に見付畑や林畑があったということは興味深いことです。この安永の筆(安永竿)は、『塩尻地史』によると「表面新開として、実際は開墾などせず・・・」(註6)と記述されています。同じく『塩尻地史』は塩尻峠峯の茶屋の項で、吉次郎の開業にふれ、「道中奉行より柿沢村名主への勧奨で中絶した茶屋を開業し、峠での生活上安永の筆の内柿沢村請の内にて吉次郎へ一町歩の新開を許したが、安永9年(1780)検地の際に新開の証文を吉次郎が紛失したのを入会の名主一同が吉次郎の開墾を認めないと言い出し、某某の立入で、内四反二畝十八歩(2筆)を認めることに示談した。これが字「いの字」といへる筆である。誠にむごいことをしたものだ」と記しています。
 いずれにしても柿沢村の平右衛門と柿沢村の源次、柿沢村の吉次郎は、中山道塩尻峠の茶屋の開拓者です。旅人の難儀は茶屋の開設によって和らぎ、ここで体を休めることができるようになったのです。 
 
 峠の名は行き先の名を付けたといわれていますが、諏訪側からの急坂を登ると郡界である塩尻峠の頂上に出ます。ここからなだらかな坂を下ると『塩尻市誌』でいう茶屋本陣に出ますが、茶屋本陣の周辺には石造物や大きな石の伝説があるので、急ぎ足で通りすぎずゆっくり見学することをお奨めします。
 大きな石がまず目に入りますが、この石には伝説があって宗良親王がこの石に御座して軍を指揮したことから付けられた「御座石」と呼ばれている大石です。正平10年(1355)の桔梗ヶ原の戦いのことでしょうか。まずは気楽に座って往時を偲んで一休みです。
 この石の東に階段があり、その上に大きな馬頭観音の文字碑が見えます。刻字は天保15年(1844)6月松本平仲馬中 塩尻宿中で、高さ2㍍ほどあり、その脇に小さな石仏がありそれには天保13年(1842)9月18日と刻字された馬頭観音像が置かれています。
 物資の流通を担う中馬は、伝馬に比べ付通し運送をするため、運賃が安く、荷痛みが少なかったため繁盛し、素通りされる宿場としばしば紛争を起こしていましたが、この碑が建てられたころも五千石街道をめぐる五千石の村々と、村井宿の争いが裁許にならず、まだ納まっていなかったわけですが、弘化3年(1846)解決することになります。このような背景のなかで、裁許の2年前に松本平仲馬中、塩尻宿中で碑を建立したのはなにかわけがあったのでしょう。
 これについて『塩尻地史』は、「天保15年塩尻町より塩尻峠へ馬頭観世音建碑に就き 掘之内、金井、柿沢より故障申立 訴訟に及ばんとしたが立入人あって示談上 建碑を承認した」と紹介しています。この塩尻町というのは塩尻宿のある塩尻町村のことです。一つの馬頭観音の碑でも物語があることがわかります。

 和の宮が将軍家茂に降嫁したのは文久元年(1861)でしたが、11月5日、本山宿を出た東下の一行は洗馬宿で小休、塩尻宿で昼休して下諏訪宿へと向かいます。この通行のために掃除丁場の臨時掃除や助郷役で領民が動員され、街道周辺の大名も警護、もてなしに大きな負担を強いられました。総員で3万人にも達したといわれる空前の大行列がこの峠を越えて行きました。その際の庭が「御茶所」として、また井戸は「御膳水の井戸」として茶屋本陣に伝えられています。この茶屋本陣のあるところを御幕場というのも多くの大名や姫君、例幣使や茶壷道中がここで休んだ名残りでしょうか。
 姫君や大名のほかにここを幕末に通過した軍勢があります。慶応4年(1868)戊辰戦争を戦う岩倉具定総督が指揮する東征軍は、江戸へ向けて進軍するなかで、3月1日洗馬宿を通過、塩尻宿で休憩して下諏訪宿に向かいますが、総督の随員だけで200人を越え、1600人余りが休憩し、塩尻組の村方の男子は人足として駆り出され、塩尻宿で荷物運送にあたったといわれています。松本藩は帰順と決め、藩主の戸田光則が本山の総督本営に赴き、お祝いを述べましたが、藩の判断が少し遅すぎたのを咎められ謹慎を命ぜられてしまいました。
 明治に入って13年(1880)明治天皇の御巡幸がありました。この御巡幸の際、塩尻峠嶺上で御野立遊ばされましたが、茶屋本陣には御小休にならず、塩尻宿で御昼食、馬車に召し換え松本に向かったのですが、茶屋本陣を通過したのは午前10時頃なりと上条家では記録しています。茶屋本陣は当日風雨ならば御小休所となることが指定されていました。後日、御小休ありたるものと見做して茶屋本陣はお茶代を戴いています。茶屋本陣前には、昭和12年(1937)4月3日建設の明治天皇塩尻嶺御膳水の記念碑がありますが、これは塩尻嶺で御野立されたとき飲まれた水の意で、碑の後ろに屋根をかけた井戸がみえます。
 塩尻村は500人に及ぶ御巡幸に先立ち、戸長が御請書を長野県駅逓掛に差出していますが、この内容は人足200人、馬22疋、人力車35輌、荷車26輌を旧村々に割振り、提供すること約束しています。村の支配層はさておき、農民は大きな通行がある度に駆り出され苦労したことが窺えます。
 この御巡幸を報じた記事(註7)のなかに「紅白の旗をたて新路開鑿の線を標し・・・」と出てきますが、すでに塩尻峠の新道開鑿の測量がはじまっていたことがわかります。この新道は明治19年(1886)起工、明治22年(1889)開通することになり、長野県の七道開鑿のさきがけとなるもので、これ以後人の流れは新道へと変わって行くことになります。この中山道が通る一帯の野山は市の東方に当たるため東山と総称され、諏訪側との入会訴訟がたびたび起こったところですが、東山地区は新道開鑿後犬飼清水の付近から集落の形成が本格的に始まります。

 目を転じてみましょう。井戸の北に鳥居が見えますが、ここは上條家の氏神を祀ってあるお社があるところです。
 山口青邨の「野沢菜の紫ならんとして冬に」の句碑も建てられていて(S.40.11.句) 夏草諏訪支部外 有志一同と彫られています。この茶屋本陣が開かれた以後、著名の文人がここを通過しています。塩尻に縁の深い菅江真澄は天明4年(1784)洗馬村から下諏訪秋宮まで往復、享和2年(1802)には太田南畝が、中山道を洗馬方面から下諏訪へ、渓斎英泉や谷文晁などの画家、このほかに多くの歌人、俳人がここを抜けたのでした。
 茶屋本陣の門脇にはシャクナゲ、コウヤマキが植えられ、庭にはクヌギやコウヤマキ、カエデ、イチイ、ツツジ、ドウダンツツジが植えられているのが見えます。池は2間4間くらいで水は中山道の道下を横断してパイプで池に落とされています。飲んでみると柔らかい感じのする水です。カエデとヒノキが池の脇に植えられていて秋にはこのカエデが綺麗に色づくのが見事です。

 この御小休(おこやすみ)本陣のことを茶屋本陣といういいかたをしますが、なにかしっくりこない呼び方です。私は御小休本陣といういいかたが好きですが、あなたはどうでしょう。御幕場(おまくば)というのも、幕で空間を仕切るさまが目に見えて当時の雰囲気を感じさせる呼び方でいいですね。 
 茶屋本陣から歩き出すと南の畑の無粋な鉄塔越しに中央アルプスが見えます。見逃さないよう見てください。親子地蔵、一里塚の跡はもうすぐです。

註1 『長野県の地名』平凡社
註2 『塩尻市誌』第2巻 民俗 塩尻市
註3 「中仙道」の仙の字が山になるのは享保元年(1716)『東筑摩郡 松本市・塩尻市 誌』
註4 「上条家文書」上條益司氏所蔵
註5 「柿沢村熊谷家所蔵文書」写真参照
註6 『塩尻地史 全』堀内千萬蔵
註7 「東海 東山巡幸日誌」三等編修官 久米邦武
参考文献
『読史備要』東京大学史料編纂所
『塩尻町誌』塩尻町編纂
『東山沿革史』東山沿革史編集委員会 東山開墾百年祭実行委員会

(09/10/18)


塩尻峠(西峠と東峠)

 塩尻峠は中世のころ諏訪郡と筑摩郡を分ける峠でした。
峠の名前は越えて行く先の名をつけたということから、諏訪から松本盆地に入る峠を「塩尻峠」と呼びました。塩尻は松本盆地の南にあたり、古くから交通の要衝として開けていたわけです。中世には鎌倉街道が甲州経由で通じていましたが、鎌倉に政治が移っても主要道路は木曽路であり、京都に向かう道として利用されていました。
 諏訪から松本盆地に出るには塩尻峠が最も近く、また塩尻から諏訪に出るにも早いため戦略上重要な峠でした。

 中世までの塩尻峠は西峠といわれ、現在の国道20号線の塩尻峠の頂上があるところで、尾根の最低鞍部(コル)となっているところです。この峠が有名になるのは武田晴信と小笠原長時の戦いでした。両者がそれぞれ峠を越え、小競り合いを繰り広げた場所ですが、晴信が信府(松本を中心とした地域)に初めて浸入したのは天文14年(1545)6月でした。この時、武田方は福与城を落とした余勢で箕輪から塩尻に浸入するのですが、「熊野井ノ城自落、子刻十五打立、小笠原ノ館放火」『高白斎記』として15日桔梗原で勝鬨を挙げています。このとき経路は箕輪から善知鳥峠を越えて浸入したといいます。
 両者が激突したのは天文17年(1548)7月19日の戦いです。
 この年7月に入り、諏訪郡の西方衆が長時と通じ、武田方に反旗を翻します。19日のこの戦の様子は『神使御頭之日記』は勝筆で一戦と記し、『高白斎記』(註1)は塩尻峠と記し ていますが、「塩尻峠から勝弦峠の広い範囲で展開された」(註2)というのが定説になっています。

 私なりに当時の様子を想像してみましょう。長時はどのように考え布陣したのでしょうか。
 長時は林城を本拠地にしていますが、西峠から勝弦峠を押さえて信府への浸入を防ぐため陣を峠に置いたのでしょうが、ここに五千の軍勢を張り付け、長時が指揮する陣所(本営)はどこにおいたのでしょうか。まさか、峠の尾根上に置いたとは考えにくいのです。それでは武田方に挟撃され易い場所になるからで、退路を断つことになります。
 これは塩尻側の地形を見ると良くわかります。
 塩尻の桟敷から長畝、柿沢などの村々から塩尻峠に至る台地は、峠の最低鞍部に向かって緩やかな上りとなっています。柿沢から東山までは扇状地であり、柿沢村はまだ現在のように形成されていず、東山はまだ原野でありました。兵站線を確保するには障害物がなく開けていて都合の良い場所です。『塩尻地史』は天文16年(1547)武田方の多田三八が夜半間道を迂回して、小笠原方の神田将監を襲い、将監は討死、この神田将監の営所は高須城ならずやと記し、このころ東山の山腹には小笠原方の犬飼左衛門(犬甘半左衛門)がいて常備警戒していたが、武田方の下条九兵衛に討たれたと記して、犬飼澤、犬飼清水、代官山、的射澤の名残れりとしています。この時期武田方と小笠原方は双方情報索敵活動をしていたと考えられます。高須城の跡と見られるところは桟敷にあり、在地領主の居城と推測されていますが、小笠原の兵站基地ではなかったかという説もあります。軍を動かすということは多くの兵員や補給をつかさどる人間が必要です。将兵は「一所懸命」でも狩り出される住民はたまったものではありません。
 もう一つ金井から現在のみどり湖、田川浦を経て西峠に出る道があります。国道153号線から見える谷戸地形を辿ると、東山霊園の北側から西峠に出ることができます。ここは西峠からの残丘尾根と勝弦山の西尾根に挟まれた狭いところですが、西峠から逆にここを田川沿いに下ると金井まで出ることができます。多田三八が神田将監を襲うに使った道はここでしょうか。それとも勝弦峠だったでしょうか。田川浦から西峠の道は現在、上部を中央高速長野道が通過していて、塩嶺トンネルを出ると田川浦でカーブし永井坂へと抜けています。
 塩尻の大門方面から勝弦峠に行くには金井から石原坂、堤平を越えて勝弦に出、樋沢を経て勝弦峠となります。勝弦平は近世になってからの開発で当時は人家はなく山林原野でした。勝弦峠の北には勝弦山(1129m)がありここをピークに、西に伸びる尾根(田川浦と勝弦を分ける尾根)があり、岡谷市との境界になる南に伸びる尾根の鞍部が勝弦峠です。ここから尾根を少し下ると小野峠(三沢峠)になります。
 この勝弦峠に登るには岡谷側が短く(近く)、塩尻側は長い(遠い)のですが、武田がここを押さえると峠を下り金井に出て小笠原の背後に廻りこめます。小笠原にとってウィークポイントの峠です。このような地形は、守るに不利な地形で攻撃には得手となります。武田の陽動隊や別働部隊がここから兵を送り込めば容易、かつ短時間で小笠原を挟撃できます。
 長時は以前の数度の戦の経験から、武田方が善知鳥峠や勝弦峠を越えて自軍の後ろに出て背後から挟撃してくるのを警戒するあまり、自身の陣所は柿沢の永井坂付近か、柿沢の丸山、金井の八幡神社跡あたりに置いたと考えますがどうでしょうか。ここらの地はどこから攻撃されても松本まで退くことができます。
 地の利のほかに水の問題があります。馬と軍勢が多数のほど、その確保が問題になります。諏訪の西方衆は反旗を翻したのが7月の10日ですから、その前後に小笠原が陣したとしても短期間の陣立ではなかったはずです。塩尻側の西峠一帯で水が確保できるのは峠近くの松井沢、青木沢、犬飼沢と下がり、これらの沢は田川の上流となるところです。四沢川は柿沢の東、権現山の南麓から柿沢の北を流れ永福寺前を下ります。これらから峠下の田川の沢沿いか、四沢川に近い永井坂に長時の本営があったとも考えられます。勝弦平から勝弦峠一帯は相吉川の源流にあたりますが、湧水地であり流量は少なく沢水を期待することはできなかったため、主力をここに置くことはなかったのではないかと考えます。 岡谷側の「塩嶺閣」の傍に小さな池がありますが、ここでしょうか。この池はいつごろできたのでしょう。岡谷市商業観光課に問い合わせしたところ「塩嶺閣は大正4年にできたが、池は岡谷市史にも記載がないので分からない、多分そのころ改修されたものと思う。明治以前からあったのでは」という回答でした。関心を抱く人がいないと小さな池の存在もないがしろになるということですね。この池が中世すでにあったと仮定すると面白いのですが。

 岡谷から高雄山の東を抜けると勝弦山は目の先です。長時は警戒する余り、主力を西峠から下げた位置に置き、包囲されるのを防ぐために、先鋒隊だけを西峠から勝弦峠にに出していた可能性もなきにしもあらずですが、『守矢信美訴状覚書案』で「峠の御陣には武具致す人一人もこれなく過半は起合わざる躰候」とあり、武田方の朝懸けで峠周辺の尾根上で前線を死守できなかったことが致命傷となりました。卯刻といいますから朝五時から七時です。
 このような尾根を境とする戦闘は、一ヵ所を抜かれると退路を断たれるため浮き足立ち総崩れになります。廻りこまれないよう勝弦峠を押さえ、善知鳥峠にも軍を割き、主力が西峠一帯で尾根に一歩も許すまじと諏訪に追い落とす勢いで戦ったならば勝機はあったかと思いますがどうでしょう。攻撃に勝る防御なしですが、『塩尻地史』は軍後から三村長親が手兵千五百を以って長時を襲ったとしています。裏切りが起これば勝てるわけはなく、これも武田の調略といわれています。
 敗因は長時の人望・戦略のなさ、後手に廻った戦闘の経緯、家臣団のまとまりのなさ、離反、があったためとされていますが、広い範囲での戦いは武士団に脆さがあると一気に崩れてしまう怖さがあります。武田の戦法は密集の突撃攻撃が得意の軍団ですから、突破口が空いてしまうとそこからかきまわされるということになります。武田の騎馬がこの東山から柿沢、金井にかけて駆け回った戦いだったでしょう。定説は尾根筋の広い範囲の戦闘としていますが、狭い尾根での面的な広がりを持つ戦闘ではなく、尾根筋を突破した点的な戦闘であったと考えます。『塩尻地史』の「勝弦から永井坂までの戦場なりしならん」説があり、『神使御頭之日記』から引いて、勝寉(筆)を勝鶴の誤写ではないかとしています。これを勝弦峠とみるか、勝弦山の尾根と見るかで解釈の分かれるところです。この戦いは尾根筋の第一線である西峠(塩尻峠)・勝弦山西尾根の戦線が崩れ、敗走しているところを味方に裏切られ、峠下の永井坂近辺で敗走したと思えるのです。それにしても軍の後ろにいた将に離反されたのではどうしょうもありませんね。
 この塩尻峠の戦いは19日の早暁に始まり短時間で終わり、討死者は「上兵共に千余人」(註3)にのぼったといいます。『高白斎記』は「小笠原長時責破り數多被為討捕候」と簡潔に記しています。この戦いの以後小笠原は没落していくことになります。

 塩尻峠は近世に入ると西峠から東峠に変わります。
 慶長6年(1601)大久保長安は木曽贄川より伊那小野を経て、下諏訪まで街道を通じさせようと小野新町を開かせます(註4)。翌慶長7年(1602)徳川家康は中仙道の伝馬・駄賃の制を定めたことから、この小野宿に出る道は実質的に中仙道としての機能が始まります。この贄川から牛首峠を越え小野宿に出る道は、慶長18年(1613)大久保長安の死とともに廃止され、松本藩主石川康長も連座して失脚することになります。石川康長のあと藩主になったのは小笠原秀政でした。
 小笠原秀政は幕府の命を受けて、慶長19年から街道の整備と宿の設定を始めることになりますが、新たな道は下諏訪宿から塩尻峠を越え洗馬宿、本山宿、贄川宿と続く路線でした。この年、西峠にあった浅間神社(境の宮)を東峠に移したのも秀政でした。これ以後浅間神社は現在旧道と呼ばれている中仙道塩尻峠の峯に鎮座することになります。
 この浅間神社は村境い争論や東山の入会争論に重要な役割を果たすことになるのです。郡境が確定したのは寛文五年(1665)(註5)で、塩尻峠の峯通りが郡境となり、浅間の宮が境となり、塩尻峠から犬飼清水までの八町五二間の山野が塩尻・諏訪側双方の入会地として、入会地内の開発、新林をつくることを禁止した御八判という裁許状が下りました。
 御八判は、幕府評定所奉行八名が捺印してあるもので、表に裁許文、裏に地図を記したものですが、この裁許が後の勝弦平の入会と開発、四沢山の入会争論などを生むことにもなりますが、浅間神社はこれらの争いを見つめてきたのです。明治天皇の御巡幸を記念する碑が大きいので見落されがちですが、小さな石の祠があるので見ていただきたいものです。浅間神社の前を通る「中仙道」は享保元年(1716)から仙の字を山に改められ「中山道」になります。

 塩尻峠は諏訪湖の眺望にすぐれ、多くの文人、画家がここを訪れています。貝原益軒は貞享2年(1682)『木曽路之記』で「塩尻嶺有。坂有。坂の上に社有。・・・」と記し、また、太田南畝(蜀山人)も享和2年(1802『壬戌紀行』)を著し、塩尻峠から見た諏訪湖を漢詩で紹介、渓斎英泉は天保6年ー10年(1835-39)ごろ『木曽街道六十九次』を表し、峠から見た諏訪湖を描いています。 
 現在の塩尻峠は昔の西峠ですが、国道20号線が通り、東峠は中山道塩尻峠として御巡幸にちなんで「塩嶺御野立公園」と呼ばれています。国道20号線の塩尻峠を境に北は八ヶ岳中信高原国定公園の内に入り、南は塩嶺王城県立公園として指定され、塩尻市、岡谷市、辰野町にまたがっていて多くの観光客を呼んでいます。
 昭和30年代の塩尻峠は眺望と夜景、桜の名所として近隣から多くの人が訪れましたが、近年は落ち着きのある静かな環境を取り戻しています。「小鳥の森」として県の指定を受け、バードウォッチングの名所として探鳥会も催されています。「日本の音風景100選」「関東富士見百選」にも選ばれています。塩尻市ではここを「塩尻30選」に指定しました。

 註1 『高白斎記』信濃史料所収 「・・・翌十九日卯刻塩尻峠ニタテコモリ、小笠原長時責破り數多被為討捕候、・・・」
 註2 『塩尻市誌』塩尻市編纂
 註3 『神使御頭之日記』信濃史料所収「・・・某日武田殿・小河原殿・於勝寉(筆)一戦候而武田殿討勝、小笠原衆上兵共ニ千余人討死候」
 註4 『木曽舊記録』大久保長安覚書案 信濃史料所収 
 註5 「寛文五年九月 塩尻峠領界山論裁許状」川上善圀氏所蔵 県史近世(史)所収

(09/10/06)


上西条鶴の宮の石造物

 上西条地区のみどり湖駅に近いところに「鶴の宮」と呼ばれているところがあります。中馬の道といわれた伊那街道(三州街道)が、塩尻宿から金井を経て劔の宮を通り、善知鳥峠へと抜けていましたが、「鶴の宮」はその道沿いにあります。古代では「東山道」が、善知鳥峠から西側の山の麓を強清水に出て金井に向かったと推定されていますが、ここは早くから開発が進んでいた地域でした。
 この歴史の古い道沿いに石造物がまとめて置かれています。ここを「鶴の宮の石造物」(註1)と呼ばせていただきたいと思いますが、「鶴の宮」とは、いつごろからこう呼ばれていたのでしょうか。「鶴の宮」という宮とおぼしきものががここにあったのでしょうか。「劔の宮・つるぎ」が「つる」と語尾だけ省かれて「つるの宮・鶴の宮」となってしまったような気もしないではありません。上西条の古い地名に「鶴の宮・つるのみや」というところがないのです。興味は尽きません。

 ここで、目を引くのは六地蔵塔です。
 六地蔵は寺院・路傍・墓地などに安置されている宝珠(ほうじゅ)、宝印、持地(じじ)、除蓋障(じょがいしょう)、日光、壇陀(だんだ)の六体の地蔵菩薩の総称ですが、釈迦入滅後の無仏の世の衆生を救済するため、六道にいて衆生のあらゆる願いを聞き届けてくれるといわれていますが、ここの六地蔵は1基の石幢に刻まれていて珍しいもので是非見て欲しいものです。残念なことに建てられた時代は刻字が風化して判読できませんが、奉追立〇〇十一〇〇と刻字されています。死者の供養(追善)のため、ここに建てたものでしょうか。
 この場所には天明7年(1787)の南無阿弥陀仏の名号塔もあります。
 阿弥陀信仰がこの地方で盛んとなったのはわけがありそうですが、上西条村は天明3年(1783)凶作で、田方面積16町歩あまりのうち、作柄が皆無という状態の田方は5町8反に及びました。3分の1がなにもとれなかったということになります。近辺の村々でも飢餓に見舞われ、餓人も出るという状況のなか、他の村々とともに困窮お救願を松本御預役所へ出しています。7月には、浅間山の大噴火があり死者が2万人余という惨事が起こりました。8月には東筑摩郡内で雪が降り、10月には佐久の平賀では騒動が起こるという世情で、村人の暮らしに衝撃を与えたことが窺えます。
 この天明の飢饉は2年から7年までといわれていますが、幕領、私領を問わず飢餓対策がとられ、村々も倹約定書や凶作定書をだすなどして乗り切ろうと必死になっていました。
 文化期になると念仏供養塔が文化10年(1813)上西条邑(むら)女講中で建立され、文化14年(1817)上西條村中で建てた徳本上人の名号塔もあります。この文化期も塩尻市域は自然災害に見舞われ、ほとんど毎年のくらい冷害や大雨、旱魃などに悩まされ、不作という状況になります。徳本上人の名号塔が建てられた文化14年も、上西条村は一村で検見願い(註2)を出しています。徳本上人は文化13年(1816)塩尻で布教したといわれていますが、上西条村のなかまうちで講があり名号を碑文にして建立したものでしょうが、苦しいなかにも信仰をよりどころとする気持ちが窺えます。
 文政期になると文政2年(1819)石灰小屋から出火、24軒が類焼し、常光寺と宮、堂2堂を焼くという火事が上西条村にありました。この災難にあった堂と宮は明和8年(1771)の『上西条村明細帳』に書かれている阿弥陀堂と観音堂でしょうか。宮というのは劔の宮でしょうか。類焼した家々や寺院をどう再建したのでしょうか。
 上西条村の家数と人数については、享保11年(1726)家数40・人数253人と報告され、100年を経た天保7年(1836)には、家数75・人数309人と報告されていますが、この家数の変化をどうみるか考えなくてはなりません。塩尻11か村のなかのほとんどの村で、この間家数と人数は横ばいといっていい微増ですが、家数が倍近くになっているのは上西条村と長畝村だけです。人数から家数を単純に割ってみると家族員数は享保11年は6名余、天保7年では4人余となりますが、この間この地区で分割の相続や分家などがおこなわれたものでしょうか。火事が尾を引いているのでしょうか。何かわけがありそうです。
 上西条村は文政4年(1821)の旱魃と文政8年(1825)凶作に、またまた見舞われます。特に文政8年の凶作では田方の作柄皆無が6町6反歩余りという天明3年の凶作を上回るものでした。当時の村人の食は自給自足が原則でしたから厳しいものがあったといえましょう。
 ここ「鶴の宮」には文政13年・天保元年(1830)に建てられた上西条女人中の名号塔もありますが、子どもたちを困窮の際、どう育て守ったのでしょう。苦しさを乗り切り、気持ちにひとくぎりつけようと、女性のみで建てたものでしょうが心根が偲ばれます。
 このように上西条村は明和から天保ごろまで、約70年間というもの厳しい状況が続いたのですが、人生50年といわれた時代に、このような状況の中で村民はほぼ一生をすごしたということになります。
 
 「鶴の宮」には六地蔵塔や名号塔のほかに、観世音菩薩百番供養は安永7年(1778・願主講中)建立や、順礼塔で文化戌辰(文化5年・1808)願主小澤忠右衛門などの石造物が建てられています。
 鶴の宮の石造物はどれも1㍍から1,5㍍の高さを持つものですが、石ですから重量もありお金だけで建てられるものではありません。当時の人々がどのような気持ちで災いに耐え、乗り越え、なかまうちで気持ちを通わせこの石造物を建てたか、もの言わぬ石造物の息づかいなどを読み取りながら、次代に伝えていくことが大切ではないかと思うのです。
 

註1.「鶴の宮」という所在地は『塩尻市の石造文化財総目録』塩尻市教育委員会による。
註2. 検見願(けみねがい)破免ともいう。定免制が施行されている村で風水干損などにより作物に大きな損害があった場合、その年に限って検見を行って年貢率を引き下げること。(日本史広辞典・山川出版社)

(09/09/14) 


歴史マップが・・・

 4日の日、塩尻東地区地域づくり連絡協議会歴史・文化部会(小松 博・部長)の歴史マップの編集作業と校正作業が終了しました。
東地区地域づくり連絡協議会のなかで、歴史・文化部会が立ちあがったのが2006年の12月でしたが、「塩尻東地区の歴史と文化を学び、後世に伝えていこう」を活動のテーマにしてスタートしてから三年目、くしくも塩尻市制50周年を迎えるこの秋、「塩尻東歴史マップ」として発行できることになりました。9 月の下旬には東地区の各戸へ配布されることになり、企画・編集から発行まで委員としてこの作業に関わりいろいろ勉強させていただきました。

 「塩尻東歴史マップ」は東地区13の地区の歴史をイラストと説明文で紹介したものですが、単に歴史や文化を紹介するためだけのものではないのです。地域が元気になるよう、地域づくりの助けになるように考え出されたものです。
 「地域づくり」はそこに住んでいる人たちが豊かな気持ちになり、地域の活力が生まれる取り組みが必要とされていますが、このマップが地域が元気になる方法の一助になればと思います。
 これからマップを基に具体的な取り組みがスタートするわけですが、先人が残してくれたものに、あるものを足して東地区が元気になる活動ができるか、考えていかなければなりません。「塩尻東歴史マップ」はそのスタートの一歩なのです。
 とかく現代の多様な暮らしに慣れた目には過去の暮らしに思いが及ばず、目を向けることは少なくなりました。路傍の石仏一つにも建立した当時の人たちの暮 らしが宿っています。構造改善事業で景観が変わろうと昔から営々と耕した田や畑は今に伝わっています。いま、目に映っている環境は突然現れたものではないのですが、私たちは過去の歴史や文化を今に生かし、未来へと続けて行かなければいけません。過去の歴史や文化を懐古するでなく、現代に生かしてこそと考えますがどうなるでしょうか。これからの東地区地域づくり連絡協議会の活動の取り組みが問われているといって過言ではないでしょう。
 すでに、案内標識(標柱)の統一とかが囁かれていますが、標柱が地区内で統一されると景観上はきれいになりますが、住んでいる人たちの気持ちがそれにこもっていないと「魂を入れず」ということになります。目に見えるものには力を注ぎますが、見えないものに力を注ぐことが少ないのが問題なのです。
 地域の現実の姿と望ましい姿の構想がないまま、飛びつくことは避けたいものです。

 ともかく「塩尻東歴史マップ」はできました。
 作製する作業のなかで現地を歩き、実際のようすを知ることができました。東地区13の地区の実態はさまざまで、生活の基盤である地区のなかで施設、財産、祭り、行事などを共有し歴史と伝統を築いてきた古くからの地区や、新興住宅団地を母体とする地区では活動を模索している地区もあり、東地区といっても一括りにできない難しさを持っています。東地区が13の区の連合体である以上、一体化して地域づくりを進め活性化するにはそれなりの目標がなければなりません。
 「塩尻東歴史マップ」は歴史・文化という切り口で、各地区にある素材を拾い上げたものですが、今後は素材の整理・分類をして、社会や地区の動向・変化を 予測、見定めながら地区の望ましい姿を構想し、活かすという作業が必要かと思われます。それを東地区地域づくり連絡協議会がやるのか、歴史・文化部会でやるのか、13の地区単位でやるのか、はっきりしていないのが悩ましいところです。今後自主団体や行政・行政関係組織、職域団体を巻き込んでの取り組みがどのようになされるかが正念場です。
 マップは東地区の皆さんにはじきに届くと思いますが、このホームページでも独自に東地区の歴史・文化を順次紹介していきたいと思っています。

(09/09/07)
 


上西条の強清水と上西条神社

 上西条の「強清水」と「上西条神社」に行ってきました。
「強清水」と「上西条神社」は同じ場所にあるので好都合です。「強清水」は地元の人たちはすぐ読めますが、何でも難読地名に入るそうで、初めての人はなんて読むのか戸惑うようです。正しくは「こわしみず」と読み、権現さまの清水とも呼ばれています。
 「強清水」と「上西条神社」は上西条区の東端に位置しています。上西条区の東を伊那街道が抜けていますが、この伊那街道は三州街道などと呼ばれていて、塩尻から飯田までは、古来の「東山道」の道筋を辿っていますが、近世には中馬の道として中山道の脇往還の役目を果たしていました。この伊那街道が権現山のふもとをかすめ、善知鳥(うとう)峠へと抜ける道沿いに「強清水」と「上西条神社」があります。
 
 上西条大門線と呼ばれる431県道の交差点から、わずかに上ると右側に鳥居が見えます。ここが「強清水」と「上西条神社」です。
上西条神社は、大正11年11月に強清水にあった「清瀧社」に、信陽峯神社、山神社二社、剣宮(剣社)を合祀して「上西条神社」になったものですが、各社にはそれぞれ由緒があり、岡象女命(みずはのめのみこと)や大山祗命、日本武尊、素戔嗚尊、倉稲魂命などの神々を祭神としていたということで日本武尊の伝説も伝えられています。「清瀧社」の祭神は、岡象女命(みずはのめのみこと)という水の神様を祀っていますから、ここに「強清水」があるのもうなずけます。古来ここは、西条と呼ばれていたところですが、地区の大切な水を守るためにお社を建てたのでしょう。
 ここに合祀された「信陽峯神社」は、祭神を五社祀っていたといいますから、ここの地の産土神を祀る社は「信陽峯神社」であったと思われます。通常、産土神は五柱を祀る場合が多いからです。

 鳥居をくぐり、権現川を渡って神社に入ります。
 神社のすぐ南に強清水の一の池が見えます。大きな水神様の碑が目につきます。ちょうど地元の人がいて、いろいろな話をお聞きすることができました。
 ここを「強清水」と思わず、上西条大門線の道端の水の出口を「強清水」と思っている人が多い。案内の標柱がいけない。
 国鉄の短絡線の出来たとき、出水した余水を裏の山からパイプで入れている。
 権現山が崩れて石が落ち、池が埋まってしまい、前はもっと広かったが今は浅くなり狭くなってしまった。
 昔は酒屋が大きな桶でここから水を運んで酒を造った。
 権現山の上には稲荷社があり、市の水道施設もある。
 区で水の利用の仕方の看板を去年(平成20年)作ったが、厳しすぎると批判を受けたので直すというはなしもあるようだ。
 魚は見ない、昔、田鯉(たごい)を池に入れたら片目がつぶれてしまった。
 ここの水は中西条にも分けてやっていて大切な水だと聞かされて育った。水の量は変わらない。
 権現川は普段は水が少なく、雨が降ると増水する。
などでしたが、その最中にも二組、3人の方がボトルで水を汲みにきました。大門と松本の方たちで、何に使うかお聞きすると、いろいろに使うということで、詳しい話は聞けませんでしたが「おいしい水だ」ということでありました。
 「強清水」の水は、善知鳥峠から大芝山にかけての石灰岩分布地帯からの湧水ですが、善知鳥峠の石灰岩から二畳紀中期のサンゴ化石が発見されたことから、このあたりは2億6千万年前ごろは海であったことがわかります。霧訪山、大芝山、権現山一帯は中古生層の山地になり、高ボッチは新第三紀・中新世高ボッチ累層(1650万年前)が乗っているので、高ボッチより古い山地ということになります。
 「強清水」は、権現山のふもとにあり、権現山の石灰岩の中を地下水が流れ、その先端が平地面と交わるところで湧きでたのが「強清水」ということになります。

 「強清水」の水質はどうでしょうか。『塩尻市誌』によると
「強清水」の水は、pHが高く7.7-7.8 といわれ、市内の公共用水源の中でも最も高い。
 硬度は80.0から86.0㎎/㍑で市の公共用水源の4倍以上の値を示す。
 硝酸態窒素は0.67-0.69㎎/㍑で市内の公共用水源の中でも最も高い。
というのが特徴だということですが、硝酸態窒素は厚生労働省の水道水の基準10mg/㍑以下を大幅に下回っていますから、まあ安心していいでしょう。
厚生労働省の「おいしい水」と呼ばれる水質要件7項目の基準は 
 蒸発残留物  30~200㎎/㍑
 カルシウム・マグネシウム等(硬度 10~100㎎/㍑
 遊離炭酸  3~30㎎/㍑
 有機物等(過マンガン酸カリウム消費量)  3㎎/㍑以下
 臭気強度  3以下
 残留塩素  0.4㎎/㍑以下
 水温  20℃以下
となっていて、水道水の基準とはまたちょっと違いますが、水温は15℃が飲むのに適温といわれています。
「強清水」の水は、おおむね世間でいわれる「うまい水」の値に入りますが、中硬水ですから和食の鍋物や、濃いコーヒーが好きな人には向いている水だと思います。塩尻市では「ふるさとの水20選」に選定していますが、1日あたり610立方㍍を上西条浄水場で取水しています。
 最近の報道によると、塩尻市では上西条浄水場のミネラル分の多い水道水をペットボトルに詰めて、「大分水嶺の地下水」としてイベント会場などで配布することを検討中といいます。県下では長野市が早々と商品化して「戸隠の水」として売り出しています。また全国では50あまりの地方自治体が、水道水を販売しているということで、横浜市では500ミリ㍑、120円のボトルを、年間200万本も売り上げ、全国トップだといいます。
 このように自治体が水道水を商品化するのは、年間給水量が減っているうえに、給水設備の更新や浄水場のなどの設備の改良などの財源の確保、少子化による水道料金の値上げまで、水道事業への消費者の理解が欠かせないためといわれています。なんだか「うまい水」にも裏がありそうですね。
 
 「強清水」の水で頭の体操もできそうです。
 湧水ですから湧出量がどのくらいか、いつも同じか、地下水位と湧出量との変化は、地下水温や湧水温の変化は、一の池や二の池の生物はなど、水汲みにきたついでに調べると面白そうです。
 「強清水」の名のいわれについても[強い水(硬い水)]の意だとか、[親はもろはく、子は清水]親が飲むと諸白(上等な酒)であるが、子(こ)が飲むとただの清水だとか、旱魃にも枯れない清水(強い・こわい)など諸説があります。
 「強清水」という地名や清水は、神坂峠や霧ヶ峰にもあります。どちらも古代東山道に関係があり、諏訪は一時期信濃国から分立して諏方国となり、また信濃国に復していますが、諏訪郡から天坂(あまざか・現雨境峠)を経て佐久に出たといいます。須芳山嶺道は古代東山道を改修したものといわれています。また、大門峠から長久保に抜ける小茂ケ谷の強清水も信玄伝説で有名になりました。青木村にもあります。山が好きなら八ヶ岳のオーレン小屋のオーレン強清水を戴くのもいいでしょう。
 
 上西条神社の西の権現山の上に稲荷社があるというので登ってみることにしました。神社の裏から直登します。ものの10分ばかりでお社のあるところに出ました。小さなお社があり稲荷社ではなく、秋葉社のお社でした。木の鳥居は裏の山の方に向かって建っています。この秋葉社はどうも裏の山の方から参拝するのが本当のようです。すぐ端には上水道の建屋がありましたが、地元の人の話に出て来た余水を、ここから強清水に落としているのでしょうか。いつか確かめて見たいものです。

(09/03/20)


英泉と塩尻峠

 「塩尻峠」から諏訪湖を描いた浮世絵師に英泉(えいせん)がいます。
 『木曽街道 塩尻峠 諏訪ノ湖水眺望』は、季節は冬、諏訪湖に御神渡ができ、湖面を歩く旅人や、街道を馬を引く人々などを配して、中央に富士山、八ヶ岳の山々の風景が描かれています。多少デフォルメされていますが、昭和20年代まで、峠では実際にこのような風景をみることができました。 
 彼は渓斎(けいさい)と号し、美人画や春画で知られていましたが、天保6年ー10年(1835-39年)ごろ『木曽街道六十九次』を出します。版元は竹内孫八ですが、竹内は歌川広重の『東海道五十三次』の成功をふまえて新たに企画したといいます。英泉は全72図のうちの24図に筆をとりましたが、なんらかの事情で手を引き途中から広重が引き継いで描いています。
 風景版画は18世紀半ばころからおこり、葛飾北斎や歌川広重によって、諸国の名所が紹介され盛んになりました。英泉は風景版画では歌川広重ほどには人に知られていませんが、美人画絵師として名を成した人でした。『木曽街道六十九次』で塩尻市に関係するものには、塩尻峠をはじめ『木曽街道奈良井宿 名産店之図』があります。贄川、本山、洗馬は広重が描いていますが、隣の薮原でまた英泉が『木曽街道薮原 鳥居峠硯ノ清水』を描いています。

 葛飾北斎や歌川広重、渓斎英泉など浮世絵で名を成した人たちが活躍した時代は、文化・文政期(1804年~1829年)になり、化政文化が花開いた時代でした。地方では町や村で地域の文人と呼ばれる人たちによって、医術、国学はもとより俳諧や和歌、書や画が嗜なまれた時代です。塩尻でも洗馬 を中心に俳諧が盛んになり、新倉百山や新倉兎国など、多くの俳人が出たのも菅江真澄の影響が大きいといいます。
 寛政末から文化期にかけて、幕府政治は緊縮財政策が続きましたが、蝦夷地の経営に失敗、ロシアとの対外紛争の危機など対応に追われ、幕府財政は破綻寸前という状況で緊縮財政が行き詰まってしまっていました。これを乗り切るため幕府は貨幣改鋳策を採用したのですが、一時的に財政は潤ったものの世間の評判は悪く、物価が高騰、藩領の財政は逼迫、不正が横行するという事態になりました。後の天保8年(1837)に起きる大塩平八郎の蜂起は不正無尽を暴いたものでした。
 文政元年(1818)にはイギリス人ゴルドンが浦賀に来て貿易を要求し、その後相次いだイギリスによる事件がおきたため、幕府は異国船打払令をだすという攘夷主義的な政策が強くなっていった時代です。徳川家斉が死去すると家慶と老中水野忠邦らは天保の改革(1841)年を断行します。
 
 このころ出たものに『江戸名所図会』があります。これは天保5年(1834)から、天保7年(1836)にかけて江戸や武州の地を紹介した地誌ですが、著者は斎藤月岑(げっしん・幸成)という神田雉子町の名主でした。おなじころ鈴木牧之の『北越雪譜』が天保8年(1837)刊行されます。牧之は雪国を風雅、文雅の対象とみないで、雪の国の難儀や生活をそこに住む人の目で確かな観察で描いたものでした。このころは地誌と呼ばれる書物が多く刊行された時でもありました。
 幕府は17世紀後半から出版を規制していましたが、天保の改革で天保13年(1842)統制を強め、検閲制度を導入、風俗、人の批判をしたためたり、好色画本の刊行などするものを取締りました。本居宣長や平田篤胤らにも目を向け、錦絵なども禁止されました。これは江戸の人口が増加したことによるさまざまな弊害が起こっていたことによるものです。幕府は風紀粛清や経済統制を図り、人を農村に帰して農村の再建を図る人返し策をとりますが、うまくいきませんでした。

 『木曽街道 塩尻峠 諏訪ノ湖水眺望』を、英泉が描いたころの時代背景はこんなようすでしたが、英泉やほかの絵師たちが描いた美人画や江戸の近隣のようすを伝える『江戸名所図会』などは、地方に住む人たちにとって魅力的な情報でした。そこから着物の柄や大首絵から化粧やかんざしまで、極彩色の絵からあらゆる情報を受け取っていました。都市の流行を村に伝え、地方の人たちの想像を掻き立てていたのです。このため農村を離れ都市に向かう人を増やす要因とみなされていました。
 この時代から幕末、明治へと短い時間が過ぎます。化政期は江戸に咲いた最後の華やかな時代でもありましたが、天保の改革の失敗で幕府の権威は失墜、幕末へとなだれ込んで行きます。

 (09/02/13)


「狐塚」と「塚田の塚」そして「紀常塚」
 上西条の古墳を訪ねる

 塩尻東地域づくり連絡協議会歴史・文化部会は現在東地区の歴史マップ作りをすすめています。
この作業の一環で各地区にある遺跡や遺物、旧跡や建造物、石造物などの調査を行っていますが、マップに落とすこれらのポイントを正確に知ることが必要なことから現地に行って確認をすることにしました。今回は上西条区にある古墳時代の「狐塚」と「塚田の塚」「紀常塚」を訪ねることにしました。

 上西条というところは東地区センターの東南にあたり、善知鳥峠に向かう国道153号線を挟んで西を中西条区、北は峰原区・金井区に接しています。田川の左岸の台地に位置して、古代は東山道が江戸時代には伊那街道(三州街道)と呼ばれる道筋にあったところです。
 上西条は早くから開発された地区で、縄文中期から弥生時代にかけての遺跡や遺物、集落址が「焼町遺跡」「峰畑遺跡」「剣の宮遺跡」などから発見されています。
 「焼町」は現在の松原団地付近、「剣の宮」(つるぎのみや)はみどり湖駅周辺から東保育園や峰原団地のあたり、「峰畑」はみどり湖駅の東から153号線を越 えみどり湖入り口に至る範囲になります。いずれも標高は750㍍から800㍍の間にあります。

 『塩尻市誌』で下調べをすると上西条には、南部山麓の古墳として「狐塚」と「塚田の塚」「紀常塚」の三つの古墳が記載されていますが、現地を歩いてみておかしなことに気づきました。
それは
1.「狐塚」は〔四沢川左岸台地上に位置する。『塩尻市誌』〕と記述。〔『塩尻町誌』では上西条字紀常塚 狐塚〕と記述。
2.「塚田の塚」は〔上西条のワデ地籍にある。『塩尻市誌』〕と記述。〔『塩尻町誌』では上西条字ワデ 塚田の塚と記述〕〔『長野県町村誌』では字塚田、本村より午の方上西条部落にあり・・・上に小祠ありと記述〕    
3.「紀常塚」は〔西条城山の麓に築かれている。石室の一部が露出・・『塩尻市誌』〕と記述。〔『長野県町村誌』では字記常塚、本村より巳の方〕と記述。
 
 まず、1.の「狐塚」ですが、四沢川左岸台地上ではなく、実際は田川の左岸台地上にあるのでこれは『塩尻市誌』の誤りでしょう。ここは『塩尻町誌』では上西条字紀常塚 狐塚としていますが、『塩尻市誌』の地名地図で狐塚という地名で記載されている地籍にあります。『塩尻町誌』の付録地図(昭和10年)では地名の記載は無く、塚の符号がついています。この『塩尻町誌』の付録地図は大正7年の『塩尻村全図』をなぞっていますから、当然大正7年の『塩尻村全図』にも地名として記載されていません。
 ここでつぎのような疑問が生まれてきました。
 『塩尻町誌』で字紀常塚と載せられているのは、『塩尻市誌』の地名地図で狐塚と書かれている地籍ではないかということです。『長野県町村誌』は各村が当時の県に提出したものをまとめたものですが、塩尻村は明治9年に提出し、字紀常塚として「何氏の墳墓なるか不詳」としていますが、場所は本村より巳の方としています。巳の方とは南南東の方角ですから狐塚と呼ばれている地籍になります。つまり、『塩尻市誌』の地名地図ができるまで字は紀常塚であった可能性が高いとみましたがどうでしょうか。

 では、3.の『塩尻市誌』の西条城山の麓の「紀常塚」はどうでしょう。西条城山の麓にあるのでしょうか。
 現地のそれらしい場所を探すと、慈光庵と呼ばれている小笠原氏の城主居館跡が目に入ります。ここは今でも大手と呼ばれていますが、そのすぐ東に墓地がありその山の中にお稲荷さんの祠があります。慈光庵の庵主さんにお聞きすると小沢さんという家で今もお祀りしているそうで、お社の稲荷社を拝観すると稲荷神の使いとされる狐が沢山飾られています。稲荷社の裏は掘割りが東西に伸びています。ここが『塩尻市誌』でいう「紀常塚」という古墳になるのでしょうか。
 とすると『長野県町村誌』で巳の方としているのが引っかかります。塩尻村からみるとここは午の方角になるからです。それともここではなくて別の場所でしょうか。
 字名の紀常塚・または記常塚を土地台帳で調べると上西条に狐塚という地名はあっても、字紀常塚(きじょうづか)という地名が見当たらないのです。中・下西条にもありません。そこで現在この地に住んでいる人に「紀常塚(きじょうつか)という古墳はどこにあるのでしょうか」と聞くことにしました。以外にも2.の「塚田の塚」を「紀常塚」だと教えてくれた人がいましたが、2.の「塚田の塚」の所在地はワデという地名のついた字のところにあるのですから「紀常塚」であるはずがありません。
 探し歩いた「紀常塚」という古墳は、「狐塚」と同じではないのかという疑いが濃くなりました。
 『長野県町村誌』では、字記常塚に墓があるとしていて、字狐塚という名は記載されていません。『塩尻町誌』では、記が紀に変わっていますが、上西条字紀常塚 狐塚として出てきます。字名の紀常塚が墳墓の「塚」として間違われ「紀常塚」となってしまったのではないでしょうか。字は平たくいえば村の中の区分にあたりますが、「紀常塚」(きじょうつか)は、当て字くさいのですが「きつねつか」とも読めないことはありません。
 『塩尻市誌』によると「紀常塚」と「狐塚」の古墳は共に明治初年に発掘され、「紀常塚」からは直刀二、轡一、鉄環二、勾玉二点が出土、「狐塚」からは瑪瑙の勾玉と須恵器が出土したといいます。出土した場所も遺物もそれぞれ別な古墳と考えられて『塩尻市誌』もその立場を採っていますが、明治の初めのことゆえ現在の詳細な発掘報告書などのように、いつ、どこで、誰が、なにを、どのようにが検証できないのが残念です。「紀常塚」と「狐塚」が同じ塚で、明治初年のころ時を違え別々の人が発掘、出土品を発表したと考えることもできますがどうでしょうか。この仮説は発掘現場が同じという想定の上に立っていますが、それぞれが違う場所ということになるとこれは崩れてしまいます。
 
 2.の「塚田の塚」は『塩尻市誌』も『塩尻町誌』でも一貫してワデにあると記載しています。ワデにある塚は「塚田の塚」ということになります。『長野県町村誌 』では字塚田としていますが、本村より午(うま)の方としていることから、塩尻村から南の方角にあたることになり、上に小祠ありということからワデにある「塚田の塚」とみていいでしょう。
 上西条の地名を調べると、田川沿いに塚田という地名が出てきますが、ここは田が周りを囲み、南を田川端、北は宗張、東を姥田、西が道上と呼ばれる地籍と接しているところです。宗張と田川端は、ともに昭和61年の圃場整備事業の際、発掘調査が行われ、縄文前期の住居址が発見され、弥生後期、平安の時代に栄えたところとして注目されました。塚田は「田河の造」(たがわのみやつこ)の宗守豊人の関係から古墳があるのではと期待されましたが、古墳の痕跡はなかったといいます。

現地を歩く 
 「狐塚」は、みどり湖駅から鉄道を跨ぐ橋を渡り、峰原団地の東南にあたる段丘上の畑の隅にあります。このあたりの地名は狐塚といいます。国道153号線から入 るには塩尻方面から左折して、みどり湖に入る道に入ってすぐ右折すると153号を跨ぐ橋があり、橋を渡った左側の畑の向うに小高い林が見えます。鉄塔の無いほうの林が「狐塚」です。153号線からは若宮窪と呼ばれている溜め池のあるところからも行くことができます。
 「狐塚」は明治の初年に発掘され、瑪瑙の勾玉と須恵器が出土したといいます。ほぼ円形の塚で周囲は50㍍くらいあります。中央に石室があったと思われる長さ5㍍、幅2㍍の大きな穴が開いています。石室の石は天保10年に搬出されて旧家の庭園に使われたといい残っていません。穴の南に古い木の切り株が二株あり、塚にはヒノキが植えられていて枝打ちした枝が一面散乱しています。塚の北側は畑越しに峰原団地が望め、真新しい家が並んでいるのが見えます。塚のすぐ南側に農道があり若宮窪を左に、右に峰原団地を見ながら進むと剣の宮・みどり湖駅に出ることができます。
 「狐塚」から望む景観は近年大きく変わりました。国鉄短絡線の開通、峰原団地の造成、市道改良工事によって様相が一変しています。「焼町遺跡」「峰畑遺跡」「剣の宮遺跡」は、これらの工事による発掘調査により、多くの土壙と方形柱穴列などの新たな発見があり注目されました。現在は埋め戻されていますが、この狐塚の北側の畑にはまだ多くの遺構が眠っているのです。

 「塚田の塚」は、常光寺のすぐそばにあります。上西条公民館の斜め前に消防4分団上西条分団の屯所があり、その裏が「塚田の塚」です。屯所の東に小さな畑があり、屯所との間を入ります。ここがワデと呼ばれているところで、大きな石が目に入り、祝殿が建てられています。石灯篭には文化13年丙子12月吉日 小松弥曽右衛門と記されています。小松家の祝殿でありましょう。北側は矢竹が密集し傾斜して落ち込んでいます。祝殿の建屋を支えるように西裏に大きな石があります。長さ2㍍幅は1㍍くらいあるでしょうか。塚の北よりにツガの大木があります。
 この塚も明治初年に発掘され、直刀・轡・金環・勾玉が出土したといいますが、ここは祝殿の趣が濃く、往時を偲ぶには想像力が必要です。ワデにある塚をなぜ「塚田の塚」と呼ぶのか、塚名が先か、字名が先か解けないのが残念です。

 「紀常塚」については前述の通りですが、これについて堀内千満蔵氏の『塩尻地史 全』は宗張にふれて「宗張の南方十町餘一小丘の嶺に狐塚 紀常塚とも書く と称する巨大なる古墳の存在せる 何となく宗守氏と・・・」と記し、狐塚紀常塚とも書くという個所が尾を引きます。私も訪ね歩いて「紀常塚」と「狐塚」は同じ古墳ではないかとするものですが、『塩尻市誌』でいう「紀常塚」が、西条城山の麓に築かれていて、その址が特定されているなら「紀常塚」と「狐塚」が同じではないかという問題はすべて氷解するものと考えています。
 この私の疑問を市の古文書室の岩垂俊雄先生にお聞きしたところ、快く平出博物館を紹介していただきました。いま、平出博物館で調べて戴いています。近いうちに詳細がわかると思います。

まとめ
「狐塚」と「塚田の塚」は、この地区を開いた有力氏族のの墳墓であるといわれていて、勾玉、直刀、轡(くつわ)などが発見されています。縄文前期から縄文中期・古墳時代にかけてこの田川の左岸段丘上や右岸に多くの集落があり、ここで人々が生活をしていたことがわかっています。山から里へ、採集から農耕へと暮らしが変わってきたのですが、その暮らしを偲ぶよすがは、遺跡と呼ばれそこから出土するさまざまなものから学ぶことになります。文書が残っていない時代ですから遺跡や遺物で原始・古代を知るのですが、今回あらためて地名というものの大切さを学びました。由緒ある地名が明治以後消えたり改変されたりしてきました。塩尻市も例外ではありません。地名は過去を知る手がかりになるものです。これを失うと地区の歴史・文化をも失うということになるのではないでしょうか。
 小さな字名でも大切に守りたいものです。
  写真は上から「狐塚」「塚田の塚」「紀常塚」とおぼしき稲荷社
 (09/01/16)

追記
 「狐塚」と「紀常塚」は同じ塚でした。
 平出博物館から教えていただきました。結果は「狐塚」と「紀常塚」は同じ塚である可能性が高いということでした。
『塩尻市誌』の「紀常塚」の記述は〔西条城山の麓に築かれている。石室の一部が露出・・〕になっていますが、この西条城山の麓というところが、広く解釈できるためということです。今後なお詳しく調べてみるということになりました。
 上西条の古墳については私自身なお疑問に思う個所があり、今後も調べてみようと思っています。まずはお知らせまで。
(09/02/09)