自然環境。    

自然環境。


  高ボッチ山登山
         塩尻山の会ルートを歩く(10/09/21)

 高ボッチに塩尻の東地区から歩いて登りたいという人に誘われて歩いた。いまどき高ボッチに歩いて行こうとする人は珍しい。
車なら東山からものの30分ほどで山頂近くの駐車場まで行くことができるが、好き好んで歩いて登ろうとするからにはその人の熱い思いがあるのだろう。片丘地区でなく、東地区からというのも気にかかるところだ。地区の自然を知りたいということだろうか。
 
 高ボッチ高原の開発は昭和25(1950)年ごろから始まっていた。高ボッチ高原の草競馬の第1回大会は昭和26年(1951)である。高ボッチ牧場が開設されたのは昭和30年(1955)であり、松本電鉄による高原荘も設けられていた。
 私も高ボッチにはいろいろな思い出がある。中でも一番なものは、高校生のとき(1956)塩尻峠から高ボッチ、鉢伏山を経由して扉鉱泉で一泊 翌日美ヶ原に登り、三城から入山辺に降りひたすら歩いて桜橋から電車に乗り松本駅から塩尻まで帰ったことがある。二泊三日の計画が一泊二日となったものだ。そのときの仲間はみな鬼籍に入ってしまい私だけになってしまった。 当時の同級生の間では「表銀座縦走」をするのがはやりで、地元の標高の低い里山に毛の生えたような山に登るなんぞ、山好きなものがすることではないという風潮があった。そんななかで塩尻峠から美ヶ原への縦走を企てた私たちの計画は異色であったが成功した。山行中ちょっぴり仲たがいがあったが尾を引くことも無く同級会ではいつも「あのとき」の話で盛り上がったものだ。
 青年になると開山祭や青年団のキャンプ、草競馬大会などに行った。塩尻峠から歩いて荷直し峠の急坂を登ったものだった。冬山への憧れから友と荷直し峠から冬の高ボッチから鉢伏山の縦走をしたこともある。高ボッチへのスカイラインが開通し、観光定期バスが運行されるようになったのは昭和35年(1960)のことで、観光バスの運行とともに荷直し峠から登る人は暫時減少することになっていく。バスが運行される前までは塩尻峠から荷直し峠を経て高ボッチというのが主流であった。
 あの頃の高原はレンゲツツジに覆われてズミはまだ幼く、春はわらび採りの人で賑わっていた。夏はレンゲツツジが咲き。キャンプ地は決められてはいたが、好きなところを選ぶことがまだできたのである。競馬場の周辺、山荘横の台地、山荘東側の台地などや、水場が限られたため山荘に水を供給するポンプ小屋のある鞍部などが人気だった。秋はマツムシソウが咲きほこって見事で高原の広い台地を思うままに歩くことができた時代で、車やオートバイが草地に駐車しても咎められることもなかった。高ボッチ高原はまだ静かな揺籃期の時代であった。目障りな電波塔もなく、景観は今以上のものがあったといえる。

 その後自然保護運動の高まりとともに高ボッチ高原も変わっていくことになるが、車社会の到来と共に歩いて高原を訪れる人は少なくなっていった。
そんな昭和45年(1970)頃、山好きの人たち、20歳前後の若手がその中心となり「塩尻山の会」という会ができた。地元の高ボッチを見つめ直してみようと活動を始めたのである。高ボッチに歩いて登る新コースを作ろうとがんばっていた。
 荷直し峠から急坂の四十八曲がり(九十九曲がりともいう)を経ずに、歩いて誰でも気軽に登れるコースをと研究を重ねていた。その中心となったのは市役所に務めていた中島君であった。彼は小坂田公園から明神平を経て、物見山に出て、北の村界尾根を直上し、現在の中部電力の反射板に出て、沢沿いに競馬場に出るコースを計画、地権者の了解を経て、その実現に務めたのである。コースの設定から山道の整備が行われ、標識や標柱が実際に登山道に設置されたのは昭和57年(1982)であった。このコースは彼と彼の仲間の努力があってなされたもので、彼等には「塩尻山の会」としての山行もあり、その合間を縫っての活動で新しい登山道をとの情熱が実ったものであった。
 「塩尻山の会」はできたばかりのこのコースで冬山の練成訓練を行っている。男性会員は30s、女性会員は20kgの荷を背負い、全員が小坂田公園から高ボッチ山頂まで歩いている。人間は20kg以上担ぐとものを考えることはできないといわれるが、荷の重さと考えることの難しさを実感したのだ。それに参加した私も古希になり、若い彼らも還暦を迎える歳になっている。
 
 道の駅を8時出発。小坂田公園からの登山道は国道20号線の付け替えや、市民プール、道の駅、国道の退避駐車場、廃車の解体場などの開設に伴う工事で様変わりしており、往時の道筋がわかりにくい。入り口を間違えてしまうというミスを犯してしまった。なんともはずかしいが、勝手知ったところなので獣害防止の電気柵をくぐり、明神平の広い農道を歩く。畑は電気柵に囲まれ物々しいものだ。ここで働いていても収容所のようで楽しくないだろうと思えるがこれもいたし方ないのか。
 明神平を出て、東方に少し歩くと右側に「御湯立原」と記された石の碑が見える。大正8年(1919)阿礼神社史跡保存会が建立したもので、ここは神社地である明神平と阿礼神社の祖である五百渡(イオト)とのほぼ中間にあたり、湯立神事を行ったという場所である。地元では御湯立ヶ原といわれ、それがオイダッパラと訛って今に伝えられているところだ。この碑は藪に覆われ湯立神事を伺うことはできないが、五百渡を遥拝する場所として祭祀を行っていた名残りの場所である。
 登山道はほぼ平坦な山道を登るが、鏡平から追分窪の下まで立派な林道といっても良いくらいの道が続く。「塩尻山の会」の標柱は朽ち果て残っていないが、本筋をはずさないよう右よりに登ると高ボッチ線に出ることができる。
 高ボッチ線に出たところでまっすぐ物見山を直上しても良いが、「塩尻山の会」のルートはブッシュがひどいここをエスケープして高ボッチ線を歩くように設定されている。
 高ボッチ線を物見山の展望台を左に約6百bほど歩くと片丘への道路分岐があり、その入口の尾根を直上する。この尾根は昔の片丘村との村界尾根で急な登りがひとしきり続くが、後はダラダラ登りだ。登りきるとまた高ボッチ線を10bほど歩くが、標柱があるので村界尾根に戻りまた直上する。ここを登るともう代官山の直下に出る。出口の「塩尻山の会」の標柱が朽ちて倒れている。ここからも片丘への林道が左に伸びているが入り口は閉鎖されて車の進入はできない。もう標高は1350bを越えている。
 ここから代官山の東まで高ボッチ線を200bほど歩く。ここの入り口が難しいところだ。「塩尻山の会」の標柱は林道を歩くように指示しているが、代官山の東の入り口の標柱が朽ちて無いのでわかりにくい。200bを目安に左側のドイツトウヒが茂る暗い林に入るのが目印である。倒木があるがここも右よりになるべく高い部分を登るとシナノササの広い尾根に出る。かすかな踏み跡を辿ると中部電力の反射板のある広場に出る。ここも「塩尻山の会」の標柱がある。ここまでくればもう一登りである。
 ここから競馬場に通じる沢がブッシュに覆われて歩けないくらいになっている。藪漕ぎもつらいので反射板まで登り、その横を廻り、牧場の有刺鉄線沿いに歩くことにする。
 「塩尻山の会」のコースは反射板の東の沢沿いに競馬場の入り口に出るのだが、これもいい経験と思って牧場内の耕作牧野の草原を歩く。ニホンジカの落としものが沢山ある。夜の牧場は彼らの世界だろう。気持ちの良い草原歩きだが牧場の管理人にでも見つかればきついお叱りを受けただろう。
 牧場の管理小屋前には口てい疫防止の石灰が撒かれていた。牧柵の歩道を辿り電波塔の横から自然保護センターに寄る。くしくも同級生が観光客にガイドをしていたのでこれにはびっくりだった。山頂着12時40分。やれやれ到着だ。
 今回の山行は3日ばかり前にうたた寝をして鼻かぜを引き、体調は悪かった。喉に幕があるような感じで痛く、熱はないのだがセキをすると鼻のあたりが痛む。まあ、大丈夫と思ったが足取りは重かった。これは朝夕の愛犬との散歩ですでにわかっていたのだから、てどから(自己管理ができないこと・自分のせい)だ。

 高ボッチ高原の今は、自然保護ボランティアの啓蒙活動もあり草地への立ち入りは禁止されている。ロープ柵が設置され歩くところを決められ制限されている。ススキが繁茂したススキの原で、安達ケ原の鬼婆でも出そうな雰囲気だ。ヤマラッキョウや、ウメバチソウが姿を見せるがマツムシソウが見られないのが気にかかる。自然公園は保護と利用の兼ね合いが問題だが、ズミが減ってススキが増えても問題だ。過大な利用も問題だが保護に名を借りた放置だけでは草原は維持できない。高ボッチは採草地として維持されてきた歴史を持ち、入会権で紛争も起こったところでもある。人為草原の維持は難しい。いつか火入れなどの管理が必要となる日が来るやも知れぬ。
 山頂にはキイアゲハが一頭、我が物顔に占有していた。富士山もあいにくの天気でみえない。八つも見えない。諏訪湖の下諏訪側での水草の繁茂がここからも観察できるが、あれがヒシなのであろうか。もう諏訪湖の周りはたんぼが少なくなって色づいた稲の色が豊田や湖南のあたりしか見られない。かっては岡谷も黄色く染まっていたのに稲穂が諏訪湖を囲んだ時代はもう去っていったのだ。これが現在なのだ。
 30年ぶりに歩いた「塩尻山の会」のルートは懐かしかったが、人が歩かなくなると道は元の森林に戻るのだ。標柱も年月のままに朽ち、人もまたいつか朽ちていくのだと体調のせいか感傷的な気分になってしまった。

 帰りは荷直し峠に出て塩尻峠から中山道を辿り、小坂田に帰ろうと重い腰と重い足を上げた。

(2010/09/22)


  権兵衛峠からジャンボカラマツ経由茶臼山
           古希の登山 22年8月25日の記録

 中央アルプスは塩尻市から南南西に木曽駒ケ岳を盟主に並んでいる山脈である。塩尻市小野の霧訪山はその北端にあたる。
霧訪山から牛首峠を越え坊主岳、経ヶ岳に至り、権兵衛峠でたわんで、南沢山(烏帽子)から将棊頭山、木曽駒ケ岳に至る山脈であるが、塩尻市が楢川と合併したことから茶臼山 (2653m)が塩尻市の最高峰となった。

 折りしも塩尻東公民館の有志が茶臼山を目指すことを知り、この茶臼山(2653m)に、今回「古希」を記念して登ることにした。
茶臼山は、以前からあたためていた山である。萱ヶ平の古畑さんからも「いいやまだじー」と聞いていたし、塩尻市役所の上条さんからも楢川地区の詳しい地形図を頂いていた。
登らなければならない山として心の内にずっとあった山である。

 塩尻東公民館の有志パーティは、白川登山口から登るというが、「古希記念」とするには、思い出に残る山行が欲しい。
そこで、「権兵衛峠からジャンボカラマツ経由茶臼山」を計画した。
 1. 塩尻市と伊那市の郡界尾根を見たい。
 2. 奈良井川の源流域と分水界(分水嶺)を踏査したい。
 3. 古畑さん、上条さんの思いを大切にしたい。
 4. ジャンボカラマツ保存会(須山良久・会長)の活動の追体験をしたい。
という欲張った計画である。
 
 記録を紹介しょう。

山行日時 平成22年8月25日
  塩尻の自宅を4時出発。
  「権兵衛峠」5時15分到着。5時30分出発。高度計をセット
    峠で用意したペットボトル2本に水を入れる。この「権兵衛峠」の水はおいしいと評判の水だ。ここから郡界尾根の登りが始まる。

   ジャンボカラマツ分岐到着。 5時50分。ここは休まず通過する。
    ジャンボカラマツ分岐からの郡界尾根は、ほほ平坦で郡界を境に塩尻側は自然林が続き、伊那側はカラマツの植栽林。
   
   南沢山(1898)の肩(烏帽子の肩)到着。6時30分。5分の休憩。6時35分出発。
    ここから郡界尾根は、90度屈曲する。ここの道標はいまいち不適切。登ってきて左方面がルートで馬返しに至る。右に行くと南沢山。案内表示が赤ペンキの矢印で判りにくい。表示板を矢印状に削ったほうが、判りやすいと思う。
    ここから、馬返し(1927m)までは、地形図で見るとほほ平坦な道のりだが、実際は30m前後のアップダウンが続く道で地形図だけでは掴めない。
    ジャンボカラマツ保存会が、苦労して笹を切り払いした長い区間で、幅は約2メートル、その甲斐あって歩きやすい。クマの落し物がある。

   馬返し(1927m)到着9時15分通過。
    南沢(烏帽子)の屈曲点からここまで2時間35分かかったことになる。馬返しは伊那側の桂木場からのルートでここで尾根に達する。
















   大沢口(1956m)分岐 到着9時30分 出発9時45分 「権兵衛峠」より初めての大休止をとる。ここは奈良井林道白川ルートの分岐点。
    休んでいると東公民館隊をガイドした山崎さんが降りてくる。東公民館隊は9時に「大樽小屋」に着いたとのこと。多分12時には茶臼山に到着できるとのお話。
    私は、約、1時間ちょっとの遅れだ。頂上到着は1時30分と見込む。予定は大沢口を8時30分と見ていたので南沢山からここまでの時間の遅れが痛い。

   大樽小屋  到着10時30分 出発10時40分
    帰りを想定して35リッターのザックを小屋にデポ、荷物は最小限に雨具と水筒、昼食、レーズンだけを持ち胸突八丁を目指す。
    胸突八丁を登りながら帰りのルートを考える。権兵衛峠ルートを往復する予定だったが、帰りも大樽小屋から4時間半の時間がかかる。頂上から大樽小屋まで1時間30分と見て小屋帰着3時がぎりぎりのリミットだ。長大な郡界尾根を日没前後、クマの心配をしながら歩くことは避けたい。それにスタミナが残っているか、威張っても古希なのだ。
  

   分水嶺分岐点 到着12時50分 通過。
    胸突八丁は軽量化の恩恵を受けて立ち休みのみで胸突八丁の頭まで登る。行者岩周辺で東公民館隊の声が聞こえる。もう降りて来るころだ。

   公民館隊と接触 1時10分 行者岩の下の尾根で逢う。奈良井のガイド山崎さんのことずけを伝える。公民館隊は1時に行者岩を出たとのこと。みな元気そうだ。頂上に行かずにここから一緒に帰ればと、勧められる。ここまできて登らずに帰れない。私は白川口へ下山することを伝える。

   行者岩 到着 1時20分見ながら通過。
    花崗岩の大きな岩槐が特徴だ。ハイマツの小道を茶臼山と進む。








茶臼山  到着1時30分 1時50分出発
    トタンの屋根の祠が祀られている。大きな石で飛ばされないようにしてある。昼食おにぎりとレーズンで一人きりを楽しむ。ガスで展望はきかない。大棚入山も将棊頭山、駒ケ岳も見えない。残念だ。駒ケ岳は私の初めての冬の単独行をした山だ。  

   分水嶺分岐点 2時20分通過
    単独の気安さからここから将棊頭山に登り、西駒山荘で泊って明日ゆっくり帰ろうと思ったが、こんな装備で小屋番に説明するのが大変だと思い止めた。

   大樽小屋 4時到着。4時10分出発
    帰りのコースを決めたので、津島神社を覗き込んだりしながらゆっくり下る。転んで脚でも折ったら大変だ。単独のしかも老人では何をいわれても弁解できない。
    デポしたザックをまとめ白川口の大沢口に向かう。公民館隊はもう白川の駐車場に着いているころだろう。

   大沢口 4時30分到着
    私の車は権兵衛峠にあるから、萱ヶ平近くまで白川沿いに林道を歩かなければならず、それから峠までまた、約400mの標高差を登らなければならないが、暗闇の郡界尾根で事故でもあればどうにもならない。白川沿いに栃洞沢の出合までただひたすら歩くのだ。ここも下りは要注意だ。老人は疲れもあるし転倒してはならない。

   白川口駐車場 5時30分到着
    途中で渓流から水を補給する。ここから白川林道をひたすら歩く。車の道を歩くのは好きではないが、今回はどうしようもない。安全が第一なのだ。それにしても道路はくねくねと屈曲を繰り返し標高がちっとも下がらない。林道脇の番号表示が若くなるのが慰めだ。
    雷がなり、黒川橋あたりまで来たら大粒の雨が降ってきた。林道脇の林業作業小屋で雨宿りする。あたりは薄暗い。ヘッドランプと電池を準備して備える。

   白川橋 7時20分到着 
    もう闇夜の林道をランプを頼りにひたすら下る。白川橋は昔車で入ったことがあり懐かしい場所だ。高度計は1250を指している。栃洞沢の出合はもうすぐだ。
    萱ヶ平への分岐を見落としてしまった。注意していたつもりなのに、疲れからか足元を照らすのにかまけて通り過ぎてしまっていた。これは痛かった。
    こうなるとヌルデ下の国道361号線の林道入り口まで歩かなくてはならない。

   林道入り口 8時00分到着
    国道361号線に出た。標高は1170を指している。ザックを草むらに隠し、水筒だけを持って権兵衛峠の車を目指す。標高差360m余りの登りだ。高度計を見ながらひたすら旧国道を登る。国道は山の斜面を横切っていて6キロ余りの距離の割りに高度は上がらない。足取りも重くなり距離も高度も稼げない。
    峠到着を10時と見込んだが、このペースだと10時半に着ければいいほうとあきらめる。ただ無心に登る。どっちにしても前に脚を運べばいつか着くのだ。ガードレールを背にほとんど15分おきに3分の立ち休みをする。車の有り難さがわかる。

   権兵衛峠の車に到着10時40分。出発11時
    実働時間 18時間弱。
    水場の水を汲みに車から往復する。権兵衛峠の水はおいしい。たらふく飲んだ後、ボトル2本を一杯にして明日の朝はなにが何でもこの水でお茶を飲むぞと決める。

   自宅着26日 零時30分 歩きに歩いた古希老人の1日だった。思い出が出来、満足でした。

 振り返って
 大休止をしなかった割に最後まで歩けたが、帰りの大沢口から白川林道歩き、国道361号線道路歩きは堪えた。日没以後は周囲を確認できず現在地を知ることが難しい。 これは郡界尾根を帰りに登っていたら致命的であったろう。帰りのコースを早めに決めたのが良かったが計画に問題は残る。日帰りは無理がある。
 昼食はおにぎり2ヶであったが、行動中 レーズン、小魚アーモンド(つまみ用)カンロ飴、かりんとうを食べた。水は多飲(ペットボトル1リッター4本)した。午前中はセブンイレブンで買ったアクエリアスの凍結ボトルを1本飲用した。ポカリスェットの凍結ボトルはないという。疲労防止のドリンク(薬用)も4本飲用した。

 国土地理院の地形図と楢川村の詳細全図での標高記載が違う。何に起因するか不明だが、森林管理署の地図を楢川村が採用したせいか?。
 権兵衛峠からジャンボカラマツ経由茶臼山の日帰り山行は、帰りは桂木場とするか、白川経由だったらゲートがしまる前、午後5時前に車の用意が必要だ。これは白川口駐車場に着いていなければならない時間だ。林業関係者は5時になるとゲートを閉めるため迎えの車は留意したほうが良い。
 権兵衛峠に自家用車を置いて往復するのはよほどの健脚の人に限る。大樽小屋から権兵衛峠まで往復9時間は見たほうがいいだろう。ここは登りも下りも同じ時間がかかる。大 樽小屋から茶臼山往復に4時間と見て合計13時間かかると思って欲しい。大樽小屋を利用して一泊二日であったら楽勝だ。

 最後にこのコースを整備したジャンボカラマツ保存会(須山良久・会長)の労苦に感謝したい。整備を始めたのは2002年7月、復元整備完了は2007年であった。いい道でした。

 (10/08/26)
   


  塩尻のヒメギフチョウ生息地を考える


 春の女神といわれるヒメギフチョウが話題になる季節になりました。
ヒメギフチョウはご存知のように春、一度だけ出現する蝶ですが、この時期になると、「どこにいるのか、教えて」という問い合わせがあちこちからあり、対応に困ってしまうこ とがあります。一度見て見たいとの気持ちは良くわかりますが、公表すると細々と生きている種がより少なくなるという危険性があるからです。
 見て見たいという人の真意がよくわからずに、生息地を安易に教えてしまうと絶滅に手を貸すことになる可能性もあり、その人から何故見たいのか、知りたいのかをよく聞いた上で対処する必要があります。
 今まで何年も塩尻市でのヒメギフチョウの生息地を見てきましたが、すでに知られている場所ほど採集圧があり、食草が根こそぎ掘り取られたり、産卵した葉を摘み採り持去るなどした跡を見ることが多くなりました。野生生物にとって人間というのは最大の敵なのです。現在の絶滅の恐れのある野生生物の多くは、人という種によって要因が引き起こされていますが、その反面絶滅の危機に瀕した生物は人の手によって保全されるというのも事実なのです。このことから具体的に何をしたらいけないか、何をすれば守れるかを考えた上で人は行動するべきでしょう。
 
  ヒメギフチョウの生息地を知るにはどうしたらいいのでしょうか。
そのためにはまず、ヒメギフチョウの生態を知り、そのうえで生息場所を探すということになります。
 蝶は卵から幼虫、蛹、成虫という完全変態をしますが、ヒメギフチョウの成虫は年1回、春早く4月中旬ころ出現し、最も多く見られるようになるころは4月下旬から5月上旬になります。
 羽化して成虫になると、すぐ交尾をして産卵しますが、幼虫のえさとなるウスバサイシンが開葉するのもこのころになります。ヒメギフチョウはその生活環を、食草となる植物の成長に合わせていると考えられています。塩尻近辺では里のソメイヨシノが開花し、里山のヤマブキの花が咲き、ヤマザクラが咲くようになると出現期を迎えます。
 このころになると里山ではスミレ類、カタクリ、モミジイチゴなどが咲くころでこれらは成虫の吸蜜植物となります。
 このような里山がヒメギフチョウの生息する環境となりますが、カラマツと混交した落葉広葉樹林で春先明るい山林が発生地になります。スギやヒノキに代表される植栽林は、単一で成長が進んだ樹林ほど林床が暗く、食草があっても発生することは少ないものです。成虫になって交尾をし、明るい林があり、吸蜜植物が咲き、幼虫のための食草が確保される場所があれば、ヒメギフチョウにとって良好な生息環境が揃うということで、彼らにとって好ましい環境となります。
 
 いま里山の環境は危機的といえる状況にあります。
薪炭林としての役目が終わったいま、最も身近な里山が手入れもされず放置されています。植栽林も植えた当初5-6年は下草刈りなどが行われて良好な環境ですが、その後の維 持管理がおろそかになっています。下草が定期的に刈られていると林床が明るくなり、ヒメギフチョウにとって棲み易い環境となりますが、現実は厳しく林床が暗く、藪に覆われているところが多くなり、生息地で以前いたものがいなくなってしまったということが間々見られます。人が手を入れないということだけで大きな打撃を受けているのです。林床に陽が射さないと吸蜜植物の生育もおもわしくなく、食草も衰退していきます。
 このようになってしまった生息地は塩尻市でも各所にあり、今後が心配されますが、私有地の山林がほとんどであるだけに、人手を出して整備するということが簡単にできず憂慮しています。昔の手の入った山林の状態にするには、人的・資金的に困難な状況に置かれているというのが現状なのです。このような生息地を明らかにして保全に努めるというのが筋でしょうが、産地を公表すると、採集圧など新たな心配が生まれてくることが多く、ヒメギフチョウに限らず希少種の蝶の保護には神経を使うことが多いのです。
 採集については、知られた産地に集中することが多く、5月の連休には成虫個体の捕獲や、卵を始め、幼虫の捕獲、飼育の為の食草の採取、堀採りなどが行われているのが現状 なのです。これらの圧力が一つの産地に集中すると、その産地は壊滅的な打撃を受けることになり衰退に拍車をかけることになります。インターネットなどで営利目的で同好者に成虫を販売する、幼虫を食草ごと売る人もいて良識に期待するばかりではもうどうにもならない状況にあります。国や地方の行政がさまざまな啓蒙活動を行っていますが思うように進んでいません。

 里山の未来は明るいものではありませんが、里山でひっそり優雅に舞うヒメギフチョウを探してみたいという人が増えてくると新たな希望を抱くことができます。
ヒメギフチョウは里山の環境指標となる生物で、里山が管理されていると増え、荒れてくると衰退する生物といえるのです。燃料が薪炭のころは4-5年のサイクルで里山の伐採、萌芽が繰り返され、良好な環境が維持されてきました。ヒメギフチョウにとって良い環境は人間にも望ましい環境となるからです。人と里山、生き物が共生していく社会ですが、ヒメギフチョウの生息地を探してみることで、これらのことを考えてみていただけたらと思います。
 塩尻市域でヒメギフチョウの生息地を探して彷徨した記録ですが、産卵を確認した場所は次ぎのようになりますが参考にしてください。なお採集圧を避けるため小字は省略しました。
 高ボッチ(2ヵ所)崖の湯(3ヵ所)、塩尻峠、東山(2ヵ所)、みどり湖(2ヵ所)、金井、上西条、下西条(2ヵ所)、桟敷、片丘中挾、宗賀床尾、宗賀本山、洗馬芦ノ田 北小野(2ヵ所)楢川(3ヵ所)ですが、このなかで40年ばかりの間に数が減って元に戻っていないところがあり、また知られたために失われてしまった生息地もあります。この中には自分だけの場所と決めたところも入っています。
 「なんだ、これではわからない」といわれてもこれ以上お教えすることはできません。
 見つけるコツはあります。ただひたすら春の里山を歩くことです。山菜採りでも野草を訪ねることでもいいので身近な里山に分け入ってみることです。フィールドを歩く中で偶然出会えたら幸せと思いましょう。出会える確率は里山に入る回数と正比例しますからせっせと通うことが一番です。見つかったらその生態を観察することをお薦めします。採集者は大勢いますが、野外での生態を地道に観察する人は少ないのです。
 
 ヒメギフチョウは、春のニュースとしてマスメディアに取り上げられることが多く、飼育されたヒメギフチョウを自然に帰すというようなことを興味本位に取り上げたものがありますが、止めて欲しいものです。飼育者が良いことをしているとばかりに保護、保護といって飼育したものを放蝶されると別な問題が持ちあがってくるからです。
 ヒメギフチョウは自然界の中では、産卵されてから成虫になるまでに90%〜95%が天敵や病気などが原因で淘汰されますが、飼育するとほとんどが成虫になります。ビニールハウスや寒冷紗で囲われて飼育され、羽化したひ弱な成虫が自然に放たれても生き延びることは難しいのです。またその地域で生まれた個体でない場合は、遺伝子のかく乱ということが起こり、その地方固有の遺伝子を持つ個体が、ほかの地域の個体の影響を受けることにもなります。

 ヒメギフチョウは一年に一度しか姿を現しません。それも短い春にひととき華麗な姿を見せ消えていきます。人は百年も生きられますが、短い生をいのちを繋ぐために生きる里山の小さな生き物を見守りたいものです。

(10/04/24)
 


  穂高岳が見える町を大事にしよう

 塩尻市は「穂高岳」が良く見える町です。なかでも塩尻東地区の東部にある柿沢区やみどり湖区、片丘地区の「しののめの道」からの眺望が特に優れています。

 「穂高岳」とは最高峰の奥穂高岳のほか、前穂高岳、涸沢岳、北穂高岳、明神岳、西穂高岳などよりなる岩峯群の総称です。一つの山塊の総称ですから「穂高岳」という固有の山があるわけではありません。この地方では西に聳える山は、里山を含め「西山」(にしやま)と呼ばれてきました。「穂高岳」が記録に出てくるのは松本藩が享保年間(1716-36)に編纂した『信府統記』が最初だといわれています。
 古来よりこの里で暮らす人々は「穂高岳」を見ながら育ったのですが、西の方に聳える高い山として、信仰の山、農作業の観天望気の対象としてこの山を見ていました。入り会いした里山と違い「奥山」は暮らしに直接関係ないかぎり、特別に山の名を意識する必要が無かったのです。江戸時代に書かれた『塩尻宿明細書上帳』には西に聳える山を今と違う山名で呼んでいることからも窺えます。昔の人は山の名なぞあまり苦にしなかったのでしょうね。
 近代初期になると探検登山が盛んとなり、各地の峰峯が登られるようになります。「穂高岳」も測量のために前穂高岳が初めて登頂されます。また、英国人のガウランドやウェストンなどによって広く紹介され、暮らしや信仰によらない、「登山」というただひたすら山に登るという行為が行われるようになりました。大正中期にはスポーツ登山の時代を迎え、大学山岳部を中心とした登山がさかんに行われるようになって、未踏の岩壁や厳冬期の登攀が実践されていきました。この大学山岳部の登山を追うように一般社会人山岳会の登山も行われ、より難しいルートから登るということが追求されるようになります。「穂高岳」はその登山という行為の揺籃の山といっていいでしょう。
 第二次戦後、登山ブームが起こります。登山の大衆化といわれ、一部の大学山岳部や社会人山岳部などの山から、誰でも登れる観光としての登山がさかんとなり登山の形式も多様化していきます。「穂高岳」もアルピニズムを追求する先鋭化した登山からハイキングまで、多様な楽しみ方がされるようになっていきます。

 「穂高岳」は塩尻市からほぼ全容を眺めることができますが、この里に住みながら余りにも身近なため、意識して眺めることを忘れてはいないでしょうか。立ち止まって目を向けて見ませんか。夏の荒々しい山容から冬の厳しさを感じさせる姿まで春夏秋冬、「穂高岳」は見る人の心を映して楽しませてくれます。私自身、西山の奥に聳える山をいつの日か登ってみたい、あの西山の頂の向こう側を見てみたい、と子ども心に幾度か想ったことがあります。
 山好きな人は攀じた岩壁に若き日の自身を重ねる人もいるでしょう。登らずとも絵画や写真の素材として視線を向ける人もいるでしょう。
 青春の日、二人で歩いた小道を想い重ねる人もいるでしょう。
 昨年の12月、こんな「穂高岳」を語る会が東地区センターで開かれることを知り出席してみました。塩尻東公民館主催で開かれた小集会でしたが、30人余りの出席者それぞれが穂高への思いを語り合いました。
 病院のベッドから見た穂高に勇気づけられた。
 通勤時に電車から見る穂高が忘れられない。
 佐久から広丘に嫁に来たが穂高が見えるとは思わなかった。井上靖の「氷壁」が好き。
 穂高の山の歴史が知りたい。
 松本の今井から参加させてもらった。穂高が大好き。
 昔登った山で懐かしい。
 仲間と写真を撮りながら穂高に登った。
 穂高のビューポイントが塩尻には沢山あるので知ってもらいたい。
 松本では見られない穂高の良さを塩尻で知った。
 塩尻中学にあるという吉江孤雁の碑の短歌が気になって調べている。
 穂高がきれいだからここに引っ越した。
 いま、電気の鉄塔が景観上気になるが、それはそれで丸ごと受け入れることが必要でないか。
 山歩きを始めた。穂高を登りたい。
 この景観を地域づくりに活かせないか。
 遊休農地にベンチを置いて景観を楽しむ方法ができないか。
 塩尻市はもう少し景観としての穂高岳を売り込む必要がある。
 しののめの道や松本カントリーのクラブハウスから見る穂高が素晴らしいので是非見て欲しい。
 写真撮影が趣味で穂高に懸かる月を狙っている。1月1日は満月なので期待している。皆さんも見て欲しい。
などなど、若い世代の人が少なかったのですが、女性参加者が半数で、参加した皆さんがそれぞれの穂高を熱い思いで語りました。スピーチ時間は3分間という制限がありましたが、全員が話し終わると終りになってしまうという会でしたが、今後このような企画を続けて欲しいと願うものです。会場には穂高の写真が飾られお茶を飲みながらの楽しい集会でありました。
 なお、この集会を企画されたのは「穂高岳の会」で毎月第2火曜日午後7時半から市の文化センターで例会を開いているそうです。穂高が好きな人の参加を求めています。

 今回、あたりまえの風景として見過ごされていた山々を取り上げ、みんなで再確認するという試みを立ち上げてくれた塩尻東公民館と「穂高岳の会」の皆さんに感謝したいと思います。このような小さな試みが大きな輪となるよう、市全体に広がるような取り組みを山好きな一人として願っています。「いまあるもの」に「あるもの」を足して地域全体が元気になればと思います。具体的には市全体での活動が求められますが、穂高岳が見えるポイントを市全域から拾い上げ、その地域を紹介するなぞ、訪ね歩く人がまた来たいと感じていただけるような環境づくりが必要だと感じました。
 塩尻市の東部の山沿いの道から見る「穂高岳」を始めとする山々と村落、市街地を望む景観は何ものにも変えがたいものです。いま、あるものを大事にして活かす工夫が求められています。

(2010/01/20)


  クマとカモシカの落し物

 「落し物」といっても人間が大切なものを落としたりすることではありません。
 動物の「落し物」の代表的なものは、動物の「うんち・ふん」ですが、そのほかに尿や体毛、分泌物などがあります。山に入るとすぐわかるのが「うんち・ふん」なのです。最近は里山と呼ばれる身近なところで「落し物」をよく見かけるようになりました。人が里山で活動していたころは、里山に動物が近づくことはめったにありませんでしたが、このごろはサルを始めイノシシ、カモシカ、ニホンジカ、キツネやタヌキまで見られるようになり、人と野生動物との領分が重なってきたのが感じられます。その反面どこでも見られたノウサギの「落し物」が少なくなって、雪に付けられた足跡も少なくなりました。厳しい食物連鎖の世界ですからこれも仕方がないことでしょう。

 この「落し物」の「うんち・ふん」を調べることでいろいろな情報がわかります。動物の種類やその数、生息圏、なにを食べているか、その大きさはどのくらいかまで、おおよそわかることが多いのです。
 手始めにペットとして飼われている犬や猫のウンチを観察して、野山にでる事をおすすめします。何故かというとふんの大きさと形でどのくらいの大きさの動物かおおよその判断ができるからです。論理的でないとお叱りを受けそうですが、似た動物キツネやタヌキ、アナグマなどや、イタチやテンなどの小型の動物のふんと比較ができます。ふんの最初と最後のようす、千切れかたまでわかります。
 冬は足跡と落し物を観察するには一番いい季節です。雪の上にはっきりと残っている足跡から種類を特定できますし、落し物の状態、柔らかいか、硬いか、凍っているかなどから、いつごろのものか、落とし主はだれかがわかります。ただ、猟期ですからそれなりの注意は必要です。目立つ色のものを着て入ること です。
  
 写真はツキノワグマの落し物です。
 見つけた時の状態はカラマツの葉に覆われ硬く凍っていました。かなり古いものと考えられます。匂いはなく、黒色で、ほぐすとどんぐりや種子らしい残骸が出てきました。かなりの量がありました。この状態から観察するとカラマツが葉を落とす前にここで用を足したのでしょう。落ち葉がそれを物語っています。多分夏の終りころのものと考えられます。見つけた場所は市の天然記念物となったウラジロ大樹群の傍です。この近辺大芝山や西原野山のあたりはクリやコナラなど落葉広葉樹が多く、普段人が入るような場所ではありませんが、登山やきのこ採り、山菜採りなどで遭遇する危険はあります。クマの移動距離は1日約10`四方といいますから、山の神近くに出ていたクマ注意の看板もうそではないようです。看板が出ていたらかなりの確率でまた出ると思った方がいいでしょう。こんな場所でクマとバッタリあいたくない場合は、存在を知らせる鈴や、大声やラジオなどの音を出すことで、彼らに先に気付いて貰うということが必要となります。姪の旦那が霧訪山の登山の帰り、大芝山で出会って危うく難を逃れたといいます。大芝山や大仙内に建ててある道標にもクマがいたずらした跡が随所にあるのでこの方面は注意が必要です。
 クマは冬ごもりが終り、春になると採食活動を始め、若葉や若芽を食べるようになります。大芝山周辺はマンサクやアブラチャン、クロモジやブナなどがあるのでこれらを食べているのでしょう。人間が山菜採りにでかける5月から6月になると、フキやウワバミソウ、セリやタケノコなどを食べるので、クマと人間が遭遇する危険が高くなります。6月から7月は繁殖期になりクマの気持ちも高ぶっています。春から夏がこの方面では要注意となります。クマが行動する時間帯は昔から黎明薄暮(早朝と夕方)といわれています。塩尻市でもここ数年、みどり湖に近い家庭菜園や楡沢に置いたミツバチの養蜂箱が荒らされたりしました。宗賀では牧野の養鶏場で金網を破って一羽を失敬するなど悪さをしています。出没が多い早朝と夕方は山ぎわの林道など歩かないなどの注意が必要です。
 いまのところ東地区の善知鳥峠周辺の山、上条から中、下西条の山林、尾根を越えた宗賀の尾沢、牧野などの山すその林道などで、「落とし物」を見たら会いたくない人は登山、山菜、きのこ採りなどを控えたほうがいいと思います。
 クマ自身は別に悪いことをしているわけではありません。ただ、食べ物を探しているだけですが、最近は手軽に手に入る人里に出没するのが問題になっています。木の皮をはぐシカやクマによる林業被害が増えたほかに、秋、人里のカキやクリを狙い、また、キャンプ場で残飯などをあさるのも簡単に食べものが手に入るからです。県下でもここ数年目撃数が800件を越えていますが、奥山というところではなく、人里で目撃されています。奥山や里山が人の手が入らず荒れてしまったのが原因ともいわれています。このためクマを人里から遠ざけるために、大北地方(大町・北安曇)で、村有地に餌場のドングリ山をと、クヌギやコナラ、ミズナラの播種やブナの苗木を植える取り組みを行うところも出てきました。クマは冬眠に備え、秋に堅果類を食いだめしますが、山の堅果類が 不足の年は、えさを求めるクマが人里へ出没する最近の傾向を阻止するクマのレストランみたいなものです。これに象徴されるように奥山や里山が林業の不振とともに、人の手が入らず荒廃したのが原因といえましょう。

 クマの落し物の近くでニホンカモシカの落とし物がありました。カモシカの落し物は右の写真になります。
 カモシカはみどり湖近辺では普段にみかけられる動物になりました。東山から金井、善知鳥峠から下西条、尾沢から平出まで南から西山にかけてと、東山一 帯でごく普通となりました。私もよく犬をつれて散歩に出ますが、よく出会います。犬も馴れたもので吠えもしませんがカモシカもじっと立って見ています。
 みどり湖の北側の散策路を子どもを連れたカモシカが歩いていたこともあります。ほんとに身近になった野生動物です。最近では平出博物館の復元家屋に上 った写真が公開されたりしていますが、カモシカが身近になったことはあまりいいことではありません。
 大昔、万葉集の時代には里の林にごく普通だったといいますが、本来は標高の高いところで生息することができる適応力を持った動物なのです。家族以外群れを作ることはしませんが、マーキングといって眼下腺からの分泌液を木や岩にこすりつけて縄張りや仲間への目印にします。草食動物ですが山が荒れ、草がなくなると食餌し易い場所に移動するため里に近いところに出没するようになります。
 カモシカの足跡はニホンジカの足跡とよく似ていて判別が難しいものです。カモシカはウシ科でニホンジカはシカ科ですが、よく似ていて足跡だけで区別できないときは、落し物が役にたちます。カモシカの落し物は写真のようにまとまっているのが特徴です。これは腰をかがめてすることでこのようになります。
ニホンジカは歩きながら排泄するためパラパラと落ちていてまとまっていません。落し物自体はカモシカもニホンジカも似ていますが、俗に「ためふん」といわれる状態になっているのはカモシカです。好きなところだと何回も同じ場所でするのでうず高くなることがあります。
 食べ物は草や落葉樹の芽や葉で木の実も食べます。植林されたヒノキの幼木を食べたりするので嫌われますが、本来は好奇心が強くおとなしい生き物なのです。このような性質を人に見抜かれ狩られて乱獲され、一時は絶滅寸前まで追い込まれたのですが、昭和30年には特別天然記念物に指定され、長野県の県獣として愛されています。
 北アルプスの山案内人として有名な上条嘉門次や小林喜作も猟師としてカモシカを狩ったことで有名ですが、喜作はカモシカを追って大正十二年三月、黒部棒小屋沢で雪崩のため亡くなっています。
 カモシカは高山の傾斜のあるところでも姿に似合わず俊敏に動くことができますが、それはひずめと足の筋肉が強いことにあるといわれています。そのカモシカでも雪崩などで死ぬことがあります。私も辰野の横川の黒沢山の奥で4月食い荒らされたカモシカを見ています。雪崩で死んだカモシカの死体をクマが食べたのでしょう。ササの上に散乱していていました。
 鹿島槍の天狗尾根に1月登った時、向かいの北壁よりの小さな尾根、雪崩が起きるとカクネ里まで持っていかれそうな所に、カモシカがじっと立っているのを見ました。声をかけても動きません。寒風の中なにを考えて立ち続けているのか動物の哲学者のようでした。「孤高の人」という感じでほんとにこんなところにもいるのだと思いました。
 交通事故で死んだカモシカをかたずけたこともあります。大変な目にあいました。当時県の自然保護指導員をしていて、牛伏寺のダムの上の林道端にカモシカが死んでいるのを見つけ、牛伏寺の電話を借りて、地方事務所に連絡したのですが、手続きがあるといわれ松本の警察署の駐在さんが来て、もろもろの手続きと書類、穴を掘って埋めるまでを写真で記録することになりました。何でも特別天然記念物だから、死んでいてもおろそかにできないということでしたが、一頭のためにまる一日駐在さんと二人で作業したのです。カモシカの苦い思い出ですがこんなことでカモシカを守っていることになるのでしょうか。
    
 動物たちはいろいろなサインを私たちにくれますが、受け取るほうはどうでしょうか。山を汚していないでしょうか。動物たちが生きるための世界を奪ってはいないでしょうか。

 (09/02/24)


 種子の性質

 3月に入ると気温も少しずつ上がり、ことに日の長さが日、一日と長くなるのが実感できるようになりました。
このあたりではまだ上雪が来るので油断はできませんが、南の方から春の息吹がだんだんと伝わってきます。もう春は目の前です。もう農家では畑を耕起して種蒔きや植え付けの準備に入っています。

 植物の種子は子孫を残すためにできるものですが、理科や生物の授業では「種子は胚珠の成熟したものであり、養分を貯えて休眠した幼植物」などと定義されます。種子が最初のスタートというわけではなく、受精した卵細胞が最初のスタートになります。
 この種子を播くことから農家や家庭菜園の作業が始まります。

 農作物の種子は私たちの祖先が先史から選抜してきたもので、播くとすぐ発芽する性質を強く持っています。
これは成熟した種子の休眠期間が一定の条件にあえば破れるように、発芽が均一で、種固有の特性を持った、病害虫に強いものを代々えりすぐってきたからです。
 このような農作物の種子に比べ、野山の植物には一斉に発芽するというものは少ないようです。
身近なハコベやナズナ、イヌタデなどはいくら畑をきれいに除草しても次から次と埋もれた種子が発芽してきます。これらは一度に発芽せず、すこしずつ発芽することで子孫を残す彼らの戦略といえましょう。「畑はとっても取っても草がでる」のです。

 山のアカマツなどではどうでしょうか。
アカマツは裸子植物で、ごく普通にみられますが、種子が撒き散らされるまで時間がかかっています。新芽の頂上に雌花、新芽の基部に雄花がつきます。雌花が受粉して成熟した球果になるまで1年半以上を要します。受精は球果のなかで約1年後に行われます。
 山に行かれたら「マツか・・」などと思わず観察してみてください。緑色の硬い球果がついています。これは前年の雌花でこの中で種子が育っているのです。前前年の球果は褐色ですが、すでにりん片が開いているものはもう種子が出ています。これが「マツボックリ」まつかさと呼ばれているものです。
 アカマツの種子は日陰ではなかなか発芽せず、ずっと待機していますが、森林が伐採され陽が当たるようになると跡地に芽生えてきます。まつかさに陽があたっただけで発芽するといわれているくらいで、よく山際の道路沿いの明るい土手などに揃って生えているのをみることができます。このためアカマツは陽樹植物といわれています。

 種子の寿命はどのくらいあるのでしょうか。
寿命の長いものとして有名になったものにハスがあります。千葉県千葉市の落合遺跡で発掘され、大賀一郎博士(東京大学農学部教授)によって発芽・開花したハスは「大賀ハス」と命名され、1954年(昭和29年)に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物に指定されました。このハスの実は弥生時代後期(約2000年前)のものであると推定されたのですが、種皮が厚いうえかたく、胚が乾いていて胚の貯蔵物質を少ししか消費しないという性質を持っているうえに、埋没した環境が温度が低く、水分が少なかったことが長命につながったといいます。
 千年以上二千年も生きる種子がある反面、短命な種子もあります。ヤナギやドロノキの仲間は寿命が短く一週間くらいで死んでしまいます。上高地のケショウヤナギも産地が限られるのもこのことが原因といわれています。このように短いものに樹木ではハンノキのほかニレ、草本ではシオガマギク・ムラサキケマン・ママコナ・コゴメグサなどがあります。
 農作物の種子では長命なものにはトマト・ナス・スイカが6年以上、短命な1年か2年くらいのものにはネギ・タマネギ・ニラ・ニンジン・ミツバなどがあります。
キャベツ・ハクサイ・カブ・ダイコン・レタス・ピーマンなどは3年から4年といわれていますが、長命なものでも高温多湿などの環境におくと寿命は短くなります。これは胚の貯蔵物質(養分)が消費されるためで、冷蔵庫や風通しの良い冷暗所で貯蔵・保管すると養分が抑制されることになります。どちらにしても時間が経てば胚の栄養分がなくなるわけですから発芽率は悪くなります。

 種子の発芽は。
 種子の発芽には温度と水分と空気が必要ですが、光が条件になっているものもあります。光を嫌うもの(嫌光性種子・暗発芽種子)と光が好きな種子(好光性種子・光発芽種子)があります。家庭菜園などのときに知っていれば助かります。
嫌光性種子にはダイコン・ネギ・トマト・ナス・タマネギ・スイカやカボチャがあります。覆土は種子の2−3倍とします。 
好光性種子にはシソ・ニンジン・シュンギク・インゲン・ミツバやセルリー・レタスがあります。樹木ではシラカバやハンノキ・ヤシャブシなどがあります。これらは種子を押えておく程度か軽く鎮圧して薄く敷きワラをしておくだけにしておきます。 
 種子の中には変わり者がいて樹上で発芽するものがあります。ヤドリギなどは球状の果実をカラスが食べ、粘りつく果実を樹皮などでふきとったり、樹皮に排泄したふんのなかに種子があると発芽します。ケヤキやクリなどに半寄生して成長します。大門神社のケヤキにはいまたくさんついています。熱帯地方にあるヒルギも樹の上で胚珠が成長し、親から養分をとって大きくなり、根が水に届くと親から離れて泥の中に落ちるという「親離れ」をする植物です。
 温度については比較的低い温度で発芽するものに、ホウレンソウ、レタス、セルリーなどがあり、5度くらいから発芽をはじめるといわれています。農作物の種子の大半は20〜25℃が発芽適温となりますが、高温でも平気なのはスイカ、トマト、ウリ類、ピーマンやトウガラシなどがあります。
 発芽適温が20〜25℃ですから、春蒔きのものは朝低く昼は高く、夕方また低い温度になりちょうどよい温度カーブになります。この温度変化が発芽に好影響を与えるといいます。早蒔きしてトンネルなどで被覆する場合は日中は開けてやることが必要です。
 秋蒔くダイコンはこのあたりでは8月のお盆が目安といわれています。お盆を中心に蒔いたものはいいダイコンになりますが、遅れると気温が低下して発芽に日数を要するようになり肥大することが遅くなるためです。「秋の一日は春の十日」ということわざがあり8月いっぱいに蒔くことをお薦めます。ノザワナは適応する幅がダイコンより広いので9月20日ころまでは大丈夫です。
 最近は秋遅くまで暖かいということがあり、地球温暖化の影響かと騒がれていますが、こんなことが続くと大変なことが起こりそうで心配です。
 
 種子蒔きの時期は目の前ですが、種子の性質の基本を押えておくと菜園づくりに助かります。

 (08/03/12)


  イチョウとぎんなん

 何か変な臭いがしてむかし嗅いだにおいだと思ったらぎんなんでした。
 今は塩尻東小学校といいますが、むかしは塩尻小学校で校門をくぐるとすぐ左にイチョウの木がありました。それより大きな木が校庭を見渡せる一段高いところに植わっていました。運動会も終わり秋になるとこのイチョウが種を落とし、それが腐ると遠くからでもわかるような臭いがしたものです。
 臭いはひどくてもこのぎんなんを拾うのが面白く、学校へいつもより早く行ったり、帰りに拾ったりしたものです。

 イチョウは街路樹として植えられることが多く、接木で養成された雄樹が使われます。放任しておいても円錐形の樹形を維持できるのと、秋には輝くような黄色に染まる葉が美しく、病虫害や風害、火に強くまた樹齢が長いことなどが好まれ、街路、工場、社寺など延焼を防ぐ目的で植えらました。種のなる雌樹はくさいのとまたかぶれることから嫌われています。
 
 イチョウは一科一属一種で現存する化石植物として有名です。なんでも古生代末期(2億年前)に祖先が認められ、中生代に繁茂したといいますから、これはかなり大変なことで原始的な要素を沢山持っている植物です。恐竜が栄えた時代ですが、植物食の恐竜は裸子植物であるイチョウを食べ生活したことでしょう。東シベリヤでジュラ紀のイチョウの化石が発見されていることから動物、植物ともによい時代であったことでしょう。
 属名はGinkgo L..(ギンクゴ属)イチョウ属といい、これには面白いいわれがあります。かのシーボルトがイチョウ(銀杏)のことを報告するとき、手書きでGinkyo(日本音 ギンキョウ)と書いたのですが、yがgのようになり学名がGinkgo(ギンクゴ)となってしまったということです。原産は中国ですが、日本に渡来した時期は鎌倉時代といわれていますがはっきりとわかっていません。
 Ginkgo bilobl L..がイチョウの名前になります。種名のビロバは2浅裂の意で葉の切れ込みのことをいいます。ご存知のように雌雄異株で雄の花粉は雌花に入って精子を生じることで知られていますが、この発見者は東京大学の平瀬作五郎で小石川植物園で発見、明治29年(1896)に発表しました。この発見は顕花植物で精虫(精子)を発見した最初のもので、植物生理学上大きな貢献をした発見といわれています。
 イチョウは古い形態を持っていることと巨樹になることから全国各地で文化庁の植物天然記念物の個体として指定されています。
指定された全国のイチョウは
 青森県十和田市 - 樹齢1000年 法量のイチョウ
 青森県西津軽郡深浦町 北金ヶ沢のイチョウ
 岩手県二戸郡一戸町 実相寺のイチョウ
 岩手県久慈市 長泉寺の大イチョウ
 宮城県柴田郡柴田町 雨乞のイチョウ
 宮城県仙台市 苦竹のイチョウ
 千葉県市川市 千本イチョウ
 東京都港区 善福寺のイチョウ
 富山県氷見市 上日寺のイチョウ
 岐阜県高山市 飛騨国分寺の大イチョウ
 岡山県勝田郡奈義町 菩提寺のイチョウ
 山口県山口市 龍蔵寺のイチョウ
 徳島県板野郡上板町 乳保神社のイチョウ
 高知県土佐郡土佐町 平石の乳イチョウ
 佐賀県西松浦郡有田町 有田のイチョウ
 熊本県阿蘇郡小国町 下の城のイチョウ
 熊本県下益城郡城南町 下田のイチョウ
 宮崎県西臼杵郡高千穂町 下野八幡宮のイチョウ
 宮崎県宮崎市 去川のイチョウ
 宮城県西臼杵郡高千穂町 田原のイチョウ
で合計20本が指定されています。なかでも岩手県久慈市(門前字沢川地区)長泉寺(曹洞宗)の大イチョウは樹齢1100年といわれ、昭和6年(1931)2月20日文化財に指定されました。調査をしたのは三好学で日本一と折り紙をつけたそうです。このイチョウは近年、平成11年10月28日台風並みの風と大雨により枝の一本が折れるという難にあっていますが、それでも地上から1.5mのところで幹周が14.7mに及ぶといわれています。
 国の天然記念物に指定されなくても日本各地に大きなイチョウがあります。わが長野県では飯山市(瑞穂字神戸)の神戸のイチョウが長野県指定天然記念物(1962年9月27日指定)となっています。このイチョウは樹高は36m、目通り幹囲11.0m、樹齢は600年に及ぶといわれ長野県内一の太さを誇っています。
 このはか、松本市入山辺の千手(せんぞ)のイチョウ、同じく四賀の横川のイチョウ、生坂村の乳房イチョウが県指定天然記念物になっています。樹齢六百年近いとされる阿南町新野の「十九庵の大イチョウ」も有名です。

 変種にvar.epiphylla Makino オハツキイチョウがあります。このイチョウは変種名のエビフィルラ(葉上生の意)が指すように葉の上に種子(ぎんなん)ができるものですが、かなり変わった植物といえます。このため各地のオハツキイチョウは国の天然記念物に指定されています。なかでも大樹で有名なものは、水戸市の水戸八幡宮のもので樹齢700年、樹高35m、幹周り6mといわれ、昭和4年4月2日に指定されています。長野県のおとなり山梨県の身延町には国指定の天然記念物が3本あり、身延山上澤寺(じょうたくじ)のものは、日蓮上人が手にしたぎんなんの杖を地に挿したところ根付いたものといわれ、根元の周囲7・57m 目通り幹囲6・60m樹高23・00mあります。このほか本国寺のオハツキイチョウは、根元の周囲6・42m 目通り幹囲5・40m 樹高24・00mで、八木沢山神社境内のオハツキイチョウは、葉に葯がつく雄木で根元の周囲3・94m 目通り幹囲3・00m 樹高25・00mで、昭和15年7月12日指定されています。上澤寺と本国寺の指定日は昭和4年4月2日ですから水戸八幡宮と同時に指定されたものと思います。
 現在全国で7つが指定されていますが、上のほか山形県鶴岡市早田、福井県大飯郡高浜町杉森神社、滋賀県米原市了徳寺のオハツキイチョウが指定されています。指定されていないものでも奈良県・額井の樹齢600年のオハツキイチョウのある戒長寺や、同じく伊賀市の霊山寺のオハツキイチョウなどが有名です。長野県では小川村の下北尾のオハツキイチョウが県指定天然記念物(昭和48年9月13日指定)になっています。

 イチョウは樹齢が長く巨木になることから社寺に植えられ、信仰の対象ともなり大切にされてきましたが、趣味の世界でも珍重された品種があります。
盆栽として種を沢山生らしたり、葉の斑を楽しむことが盛んになり、なかでも斑入り品種が珍重されました。この品種はforma variegata Carr. フイリイチョウと呼ばれるもので、品種名のvariegata(ワリエガータ)は、斑紋のあるの意で葉に斑の入るものを指しますが、江戸時代文政11年(1828)に水野忠暁が編んだといわれる『草木錦葉集』という本は、世界的にも珍しい斑入植物のみの植物図譜なのですが、そのなかに「白布いてう、金王いてう、勝之助黄布いてう」の三種の記述があります。すでに江戸時代にイチョウの斑入りが蒐集家の間で栽培されていたのです。現在でもこれらのイチョウは好事家の間で栽培、挿木苗が販売されています。フイリイチョウは茨城県鉾田町の「無量寿寺の斑入りイチョウ」が町天然記念物として、また熊本県南阿蘇村八坂神社のフイリイチョウも知られています。ふるさと塩尻市ではイチョウ、オハツキイチョウとも国、県、市の植物天然記念物に指定されたものはありませんが、下西条の西福寺には二本のイチョウがあり、うち一本は目通り幹囲2.32mというものがあります。

 イチョウの語源については貝原益軒が編纂、宝永7年(1709)に刊行した『大和本草』(やまとほんぞう)のなかで「一葉の意なるべし」とあることで一葉説が一般的で「いてふ」と書かれていたのですが、国語学者の新村出(広辞苑)や大槻文彦(言海・大言海)は中国名の鴨脚(北音ヤーチャオ)からでたものとして「いちゃう」(大言海)と改めました。種の「ぎんなん」は北音の「ギンアン」に由来するとし、漢名の「公孫樹」は後世の異名で、イチョウの種は蒔いてから孫の代にならないと種をみることができないという意味といわれています。この辺りの詳しいことは『大言海』で調べてみると面白いでしょう。

 イチョウは街路樹として使われていますが、これは樹形がよいのと災害に強く、四季折々の美しさがいいからといわれています。秋には葉緑素が抜け葉黄素が残るため目の覚めるような黄葉になります。このため日本各地で街路にイチョウが植えられ、並木として有名なところが多くあります。
 なかでも四並列に植えられた明治神宮外苑のイチョウ並木や東京大学のイチョウ並木、旧都庁のイチョウ40本を移植した練馬区光ヶ丘公園の並木、八王子追分から高尾までの約4kmにわたるいちょう並木など、東京都は都の木としているだけあって見事な並木を育てています。欧陽菲菲の「雨の御堂筋」で有名な大阪の御堂筋の並木、名古屋桜通の並木、北海道大学の北13条通りの並木、姫路大手前公園の並木などが有名なイチョウ並木の名所です。

 わが塩尻市では、塩尻市役所西の街路に見事なイチョウ並木があります。市役所を中心にみどり町の信号機から国道19号線市役所口スタンドまでのあいだがイチョウ並木となっています。ここには89本のイチョウ(07/11/10現在)が街路をはさんで対称に植えられ、レザンホール西の信号機に並木町と表示されています。なおここから東西の街路には、シラカバが街路樹として植えられています。欲をいえばこの周辺一帯にイチョウが植えられていたなら、県内有数のイチョウ並木として有名になったのにと残念でなりません。

 落葉樹の並木は落ち葉がくせもので、この清掃も大変です。地域の力が落ちていると「きれいでいいけれど片付けは嫌だ」になりかねません。特にイチョウは葉に油脂があり、そのままにして置くと車がスリップすることがあり、安全のため坂道や交差点などに植えないことが肝要です。また葉は各種の成分を含むため虫除けに使われました。私も本の栞として使った覚えがあります。最近ではサプリメントの材料として、またドイツの製薬会社では葉に含まれるギングゲチン(フラボノイド)を血管調節の薬に活用しています。
 葉をデザインしたものに校章や紋章があります。東京大学の校章、大阪大学の校章、大阪府立大学の校章、熊本大学の校章などが有名で、紋章には立ち銀杏の丸、三つ銀杏、対銀杏、銀杏巴、三軸銀杏、五軸銀杏、二つ追い銀杏など多くの紋章に使われています。

 イチョウを盆栽として愛でる人もいます。
 接木繁殖で春先芽が膨らむ前に切り接ぎで育てます。大樹の風格を出すまで年月がかかるためあまり手がけている人はいません。移植には強く、葉刈りや芽摘みをして育てます。雄木を盆養する人は少なく、雄木に結実を確認した雌木の穂を接ぎます。実もの盆栽として「実成イチョウ」と呼ばれています。
 イチョウの種子の雌雄の判別を判定するには、染色体の形態によることをアメリカのG.L.Lee(リー)が発表しました。これはイチョウは雌雄とも2n=24であるが、雄は24のうち付随体を持つ染色体が3個、雌のほうは24のうち付随体を持つ染色体が4個あるので判別できるということを研究したものです。
 性別の判定は従来から信じられている方法は、枝の姿で判別するものでした。雌木のばあい、枝が立ち(直立する)葉は若木のほかは分裂せず、雄木は枝が下垂(横に広がる)し葉は多数分裂するといわれていますが、この説と反対に雌は枝が広がり、雄は立つという説もあり混乱しています。どうも種がなればわかる木も小さなうちは難しいということなのでしょうか。
 イチョウは充分な広さがないと庭に植えても本来の樹形を生かせません。狭いところでは幹吹物、刈り込んで苅込物として楽しんでいる家を見かけます。これらは強い萌芽力と刈込みに耐える力をうまく使ったものです。拾ったぎんなんを春播くと大体2ヶ月で発芽します。発芽したら2−3年台木になるように育て、雌を切接ぎします。庭園業者は根接ぎをして雌株を作るということです。これでぎんなんの成る木ができるというわけです。

 イチョウの種子「ぎんなん」は料理にも使われます。
ぎんなんはやや楕円の実をつけますがこれが種子です。二層になっていて外種皮は多肉で柔らかく熟れて落ちると特有の臭いを発します。内種皮は木質化して硬く、これを割ってなかの胚乳の部分を食用とします。胚乳にはでんぷんやたんぱく質のほか各種の有機酸が含まれていてこれがうま味となりますが、生で食べたり、調理したものも食べ過ぎると命とりになります。ぎんなんの中毒は今のところどのようなメカニズムで起こるのかわかっていません。ただ、ぎんなん中毒は2歳から13歳くらいまでの子供に多く、嘔吐、呼吸困難や停止、意識混濁、間代生のけいれんなどを繰り返すといいます。食べた粒数ではないということなので特にこどもなどに食べさせるときは注意が必要です。外種皮にはギンゴール酸とビロボールが含まれているためかぶれます。拾うとき素手で扱うには注意したほうがいいでしょう。このぎんなんはかぶれるなどの嫌なことがありますが、古来より生薬として鎮咳に使われました。
 ぎんなんは茶碗蒸しが最高でしょう。熱く蒸されたぎんなんを探す喜びがあります。茶碗蒸しはぎんなんが入っていないと画竜点睛を欠きます。お酒のつまみには内種皮をフライパンで軽く炒ると割れますから、なかの胚乳を熱いうちにちょっぴり塩をつけながら頂きます。これが以外にうまいのです。
 ぎんなんをにんじんやきりこんぶ、ごぼう、くるみ、小豆などと混ぜ具をつくり、もち米と蒸す五目おこわがあります。これも季節の野菜の味がしておいしいものです。また炊き込みごはんの具としても使われますが茶碗蒸しのような定番料理ではありません。

 イチョウには人それぞれ思い入れがあります。幼き日のことだったり、輝るような黄葉の彩りに、また、落ち葉の片付けに悩まされたり、生薬やサプリメントに、はたまた料理の素材として見る人もいるでしょう。恐竜の世代からの植物ですが人に利用され、信仰の対象にもなるイチョウには生きつづけた長い歴史があります。あらためて身近なイチョウの樹をみなおしてみませんか。

(07/11/13)


 きのこのはなし 
    

 塩尻市大門の秋祭の花火の音が聞こえるようになると、きのこの季節に入ります。
食べられるきのこで早いものはアミタケです。例年9月の20日前後が旬となりますが、今年はどうも遅れ気味のようです。これは例年になく残暑が厳しくまた、雨が少ないのが影響を与えているようです。「地球温暖化のセイせー」という人もいますが、きのこ採りにとってどうも思わしくない天気です。

 秋のこの頃は彼岸、秋祭りと人寄りが多く話題にのぼるものは、農作物の出来ぐあいだったり、野の幸、山の幸の話が多くなります。秋祭りがこの時期に多いのも、収穫前の猫の手を借りたいほどの忙しさをひとしきり忘れ、秋の豊かな恵みを乞い願うための儀式でもありましょうか。
 きのこ、山栗、木の実、などが実って、里ではぶどう、なし、りんご、柿などが日増しに色ずき熟れていく季節を、昔の人は「おてんとさまが舞を舞う」といったといいますが、けだし名言ですね。

 この辺では雑キノコを総称して「もだきのこ・むだきのこ」といいます。
 マツタケなどはきのこ採りのプロが採るもので、きのこ採りの専門家といってもいいでしょう。雑キノコは誰でも採れるので素人のもの、アマチュアのものといってもいいと思います。
 きのこを探して林のなかをあちこちと歩くのは楽しいものです。下生えのツツジやススキをこねたりして探す楽しさはマツタケ狩りとはひと味違った面白さがあります
。地のきのこは食味など個性のあるきのこが多く、地方地方で大事にされているきのこは方言で呼ばれています。
 ナラタケやナラタケモドキは「もとあし」と呼ばれ、、アミタケは「あみじこ」、クロカワは「うしびて」ハナイグチの類は「りこぼう・じこぼう」秋遅くカラマツ林に群生するキヌメリガサは「こんきたけ」ショウゲンジは「こむそう」などと呼ばれ親しまれています。

 雑キノコの採れ場所はマツタケほど秘密性はありません。
 マツタケのありかは「親子でも教えない」というほどで、お他人さまに教える人は皆無といっていいでしょう。雑キノコは気軽に「あの山のあの尾根セー」とかもっと具体的に「あの鉄塔の下セー」などとなります。雑キノコでも「シメジ」や「クリタケ」「クロカワ」辺りになると正直に話す人が少なくなり、人気度がわかって面白いものです。
 毎年、出る場所は決まっているので早いもの勝ちで、人より遅くなるとろくに採れない。根気よく足を運ぶより仕方がない。そのため、きのこ採りは「閑人・ひまじん」と呼ばれ、休みのとれる人が有利であるということになります。採られることを防ぐため「持山・もちやま」では「とめやま」にすることがありますが、マツタケやまのように「とめ」て他人の入山を禁止することは雑キノコの出る山の場合ほとんどありません。
 最近は里山が荒れて雑キノコの出る環境が悪くなり、以前ほど採れなくなり市場などでも入荷が減っているといいます。その分高値で取引されるようになり、地の料理などを提供するところでも苦労しているようです。どうも藪を切り払うなりして、人がもう少し手をいれないといけないようです。

 「もだきのこ」はうまいものです。
 昔から「匂いマツタケ、味シメジ」といわれていますが、雑きのこは個性のあるきのこが多いので、持ち味を生かした料理が喜ばれています。
 香りを生かす「コウタケ」や「クロカワ」はタレを用意してツケ焼きや、秋の大根を利用したおろしあえなど美味でしょう。うどんには「もとあし」と呼ばれているナラタケやナラタケモドキ、「あみじこ」のアミタケなどが合います。みそ汁にはアミタケ、ハナイグチの小さなもの、ヌメリスギタケや天然自生ナメコ、キヌメリガサなどぬらめきを持つきのこを入れるとまたなんともいえないものです。ぬき菜(野沢菜)や豆腐などが一緒に入っていれば最高です。
 シメジはちょっと高級ですから味ご飯にして楽しみましょう。マツタケに比べ雑きのこは遠慮なしに食べることができますが、きのこは消化が悪いのでほどほどが肝要です。自分の足で採ってきたものは戴きものと違って一味違うものです。
 食べ切れないときは湯がいて塩蔵したり、乾燥して保存しておけば季節外れの味を楽しめます。
 
 毒のあるものがあります。気をつけましょう。
 この時期新聞などで必ずといっていいくらい、きのこによる中毒事故が報道されています。最悪、死に至るきのこもありますから採取にはそれなりの知識が必要です。
 要は知らないきのこは採らない、食べないが原則です。「それじぁーとるものがねぇー」といわれそうですが、毒のあるきのこは少ないので、食べられるきのこより毒のあるきのこを覚えたほうが良いといわれています。それでもわからないきのこがあったら、そのきのこを持ち込んで鑑別してもらうことをお薦めします。きのこが新鮮なうちに、どんな場所でどんな風に生えていたか、一言添えて見てもらいましょう。塩尻でも県の林業総合センターなどで鑑別の講習会や、保健所、地方事務所などで、きのこの展示会が行われ、啓蒙指導しています。また、地域には「きのこ名人」と呼ばれる人が必ずひとり、ふたりいるものです。名人は先人の伝承と知識、経験を受け継いでいます。聞いてみることで自分の目を養うことができます。迷信、俗説などに惑わされないようにしましょう。

 秋晴れの一日、のんびりきのこを探しに出かけて見ませんか。

(07/09/30) 


ほたるまつり

 塩尻東地区地域づくり連絡協議会の主催による「ほたるまつり」が6月23日(土)午後5時から9時に渡って行われた。
会場の地区センターは東地区の大勢の人で賑わった。
 オープニングは塩尻中学校のブラスバンドによる吹奏楽で始まり、くるみコーラスと東児童館のコーラスが花をそえた。売店も出現、矢沢加工所の農産加工品、長畝生産組合の農産品、笑亀酒造の限定日本酒「ほたるまつり」が販売された。

 6時半からは塩尻自然博物館の小林比佐雄館長の「ゲンジボタル」の講演が行われ、子どもを含む大勢の人たちが耳を傾けた。
プロジェクターに映し出されるゲンジボタルの生態に、子どもたちは熱心に聞き入っていた。小林館長は地区の「ほたる」保護について、出来る限り自然に見守って欲しいと述べ、人為的に他から持ち込む増殖に注意を促した。
 講演終了後、塩尻星の会の百瀬雅彦さんによる星空観察が行われ、午後7時半頃から「ほたる散策」を開始、おのおの四沢川、田川などにキャンドルによるみちしるべを辿り散策に散った。
 
 ときならぬ騒ぎにさぞ「ほたる」もびっくりしたことだろう。私も大勢の人に混じって田川、四沢川を巡った。ほたるの少なさに淋しさを感じた。いまから60年を超える前、阿礼神社の祭囃子の練習の音が聞こえるなか、田んぼに振り払うほどいたほたる・・・あの美しさをを思い出しながら歩いた。
 
 往時の風景を感じさせるものがない。
くねくねと曲がった小川、小川にいたドジョウやメダカ、田川や四沢川に架かる木橋、田んぼに至る草に覆われた小道、川に生えていたクルミや栗の木、大きく魔物のように夜の空に聳え見えていた飯縄山、見上げると降るように光を放っていた天の川・・・その全てがない。いま、往時を偲ばせるのは薬師堂の佇まいだけである。

 ほたるは家の中まで飛んできた。
縁側で涼んでいると、休んでは光るほたるに幼心にも特別の思いを感じたものだ。ほたるには人になにかを感じさせる力がある。闇に光るほたるに、はかなさとあやしさを感じるのは人の思い込みだろうか。ふしぎな曲線を描くほたるに人はなにかを託すのだろうか。
 宮本輝の小説に「蛍川」がある。昭和52年「文芸展望」に発表されたもので第78回芥川賞を受賞した作品だが、ほたるをあやしくもおそろしく描いている。
 『・・・蛍の大群は,滝壺の底に寂寞と舞う微生物の屍のように,はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱と化し,天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた。四人はただ立ちつくしていた。長い間そうしていた。・・・』
 昭和37年の富山市を舞台に、中学3年生の少年の眼を通して大人の世界を描いたものだ。少年の思春期の心のゆらぎと彼を取り巻く大人の社会を、叙情的にそれでいて鋭利に綴っている。

 外田橋から宗張、金井に懸けていたほたるが少なくなったのは構造改善事業と国鉄の短絡線の工事が行われたことが大きい。
国や地方の行政があっという間に風景を造りかえる。いまのほたるはそのなかを生き抜いてきた。ほたるの天敵は人間だ。
 以前、ここのほたるを観察しょうと構造改善前に最後の観察会をしたのは1985年(昭和60年) 7月18日だった。「塩尻自然に親しむ会」と「塩尻山の会」が主催したものだが、市民とあわせ40人に満たない小さな観察会だった。
 すでに、国鉄短絡線ができ、辺りの様相が変わり始めていた。田用水の小川はまだ残っていたが、ほじょう整備が行われれば四沢川、田川が移しかえられ、ほたるには壊滅的な打撃になる。沢山いるほたるを観察出来る最後の機会だった。参加した人は皆、服にまとわりつくようにいるほたるを心配した。

 こんなお祭り騒ぎをしてもほたるが増えるわけではない。
 講演で小林館長が「自然に見守って欲しい」といったことを考えながら、キャンドルの灯った固いアスファルトの道を歩いた。
 (07/06/27)


 「オオルリシジミを増やそう」について

 塩尻で最近変な声が聞こえてくる。
ある地区での「オオルリシジミを増やそう」とする取り組みである。地域づくりや地域活性化のためにオオルリシジミを地域のなかまで増やそうとする試みだという。オオルリシジミが少なくなったから保護し増やそうとするのか、いないから昔のように復活させたいのか不明だが、どちらにしても「ちょっと待っとくりゃ」といいたい。

 「ちょっと待っとくりゃ」の理由を書こう。
 
 オオルリシジミは塩尻町誌によると「六月上旬より七月上旬にかけてクララの多い金井ー青木巾ー上西条方面の田畑の間や路傍その他の草間に極めて多数発生」したチョウであると紹介し、塩尻市誌では絶滅は時間の問題として、細々と片丘の一部と北小野相吉に産するとしている。現在の状況は、塩尻市版レッドデータブックではCR(絶滅危惧IA類)に区分、評価されている。
 これはごく近い将来における野生状態での絶滅の危険性が極めて高い種ということであり、「塩尻市では1960年代の半ばより姿をみません」と市版レッドデータブックに記載されているチョウである。 長野県ではEN (絶滅危惧IB類)に区分されIA類ほどではないが、近い将来における野生状態での絶滅の危険性が高い種として、また、環境省ではCR (絶滅危惧IA類 )とEN(絶滅危惧IB類) に区分されているチョウである。

 塩尻市で現在見かけられないチョウをどうやって増やすのか。
塩尻市でチョウの研究をしている人たちは、以前からの知見を多くもっていて、生態や生息場所も知り尽くしているといっても過言ではない。その人たちの見ませんということ(意味)をもう少し素直に考えるべきではないか。これは専門家の意見を聞けといっているのではない。見ませんということが絶滅したということにはならないが、40年近く見ないということは、いないといっていい状況なのである。塩尻市版レッドデータブックはCRにしたが、EX(絶滅)でも不思議でない状況なのだ。増やそうとしている人たちが、塩尻市でオオルリシジミを確認した情報があったり、捕獲または飼育しているなら是非きちんと公表して欲しい。市でも情報を求めているし、生息しているならいるで、市の自然博物館で公表する手順や保護を相談するといい。発表されれば県内や全国の研究者も喜ぶだろう。

 長野県内では二ヵ所でこの「オオルリシジミ」を保護しようと取り組んでいる地域がある。
東御市と安曇野市である。ここでも絶滅危惧T類に指定されているが、現にこの地区では生息している。絶滅寸前の細々と生き抜いたチョウを、このままでは絶滅してしまうと、地域の人たちが協力して増やそうと取り組んでいる。オオルリシジミの食草クララを増やし、最初は飼育から始め、繁殖に人間の手を貸している。小学校でも理科クラブが生息地を復活したいと、大人の手を借りて保護活動に取り組んでいる。これらの活動は衰退した絶滅寸前の種と生息地を、元のように盛んにしたいとの願いから始まったものであるが、これは地域の生態系に組み込まれた種がいた(確認でき、捕獲し、保護できた)からできたことなのであるが、100%手放しで喜ぶわけにはいかない事情も背後にはある。安曇野市では心ないマニアから採集を防ぐために、生息地は民間のガードマンによる警備がされているという。これは悲しい話である。

 かく乱を起こすような取り組みをしないでほしい。
 地域でみかけられないなら、よそからオオルリシジミを移入して育てればいいと考えがちだがこれは止めて欲しい。すでに外来の植物や動物が地域の生態に影響を与えてることが問題とされている。外来の動植物だけでなく、よそのオオルリシジミを移入するとそこの地域固有の遺伝子のかく乱が起こったり、病気、食害、生物相互の関係にかく乱を起こすからである。塩尻市のオオルリシジミが見られなくなったのは農薬の散布、生息場所の環境の変化、食草であるクララの減少など複雑な要因が絡み合っているといわれるが、まだはっきり解明されていない。
 このようなことはメダカでも起こっている。水田の構造改善事業で小川や水路の改修が行われ、メダカの生息環境が奪われてしまっことが大きい原因といわれている。これを憂いてメダカの増殖に取り組んでいる団体があるが、よそから移入することにより遺伝子のかく乱が起こるとして問題になり、異なる地域間で移動しないようにしてかく乱の起こるのを防いでいる。
 ホタルなどもそうだ。地域のホタルなら問題はないが、少なくなったといって遠くのホタルを移入すると、地域固有の発光間隔を持ったホタルとのかく乱が起こることから、地域差の境界がはっきりしないという問題が起きてしまう。塩尻の東地区のホタルの取り組みはこの点をクリヤーしているので問題はない。
 現在は、かく乱を防ぐ取り組みが各地で行われている状況なのである。市の自然博物館でも細心の注意を払って展示した水生昆虫(生きた標本)が外(地域)に逃げ出さないよう措置し、神経を使っているのである。

 食草のクララの増殖について。
 オオルリシジミの食草であるクララ(マメ科・クララ属)をポットに植え、増殖しているというが、どこの種子であろうか。
青木巾でクララはわずかに見られるが、青木巾で増やすのなら青木巾の種で増殖を図るのが基本的なやり方だ。青木巾の自生地の特性を持った種子を育てるということでなく、別のある土地から種子を採取して、育てた苗を、青木巾や別な土地に植えることは、遺伝的な撹乱を起こす可能性が大きい。これは賛成できない。
 同一の株からの採取した種は単一の性質を持っていることが多いといわれるので、なるべく多くの株から種子を採り、病原菌などに抵抗できる方法が必要だろう。
 クララの衰退も人為的な影響が大きいといわれている。田のあぜ、土手や巾、堤防などの草はらに多い植物であるが、構造改善の影響で土手が改変され減少している。塩尻では山間の東山の水田の土手や農道沿いの土手、溜池の堤防などで見かけられる程度になってしまった。根を漢方に利用されクラクラするほど苦いことから名が付けられたという植物であるが、他の場所に植えようとする場合、もともとその土地に生えていない植物の移動、移植ということになり、植物相の混乱を招くことになるので気を付けなければならない。、

 地域づくり・地域活性化への取り上げに使ってくれるな。
 オオルリシジミを町づくりや地域活性化の道具として使うことには反対である。
絶滅を危惧される種を保護しよう、増やそうという取り組みは塩尻に限らず、あちこちで聞かれる。美談として報道される場合も多い。メダカやホタル、ドジョウ、オキナグサなど野生の動植物が人集めの売り物にされている。地域の活性化には一役買うだろうが、そんな取り組みでいいのだろうか。
 かって飯田市ではギフチョウの保護に、地域の人たちと小中学生が協力して取り組んだことがあった。それは生息している環境が開発によって破壊されることになり、やむを得ず生息地の移動という手段をとらなければならなったからである。食草の移植もなされ幸い成功したが、見に行って感激した。一山超えたところまで、食草を運び地域全体で見守っているからである。子どもからお年寄りまで、小さな生き物に注ぐ愛情が散策路から伝わってくるのだ。飯田市には自然を大事にしようとする素地があり、地域全体で取り組む情熱がある。
 地域づくりはその地域にあるものでやることが大切ではないだろうか。地域づくりで成功しているところは地域のあるものに、他のあるものを足している。
オオルリシジミの場合、地道な取り組みがいままでされていたのだろうか。生態の研究やクララの分布、生息環境の調査、衰退の究明など課題があったはずだ。いろいろなことの結果があって、オオルリシジミに取り組もうとするなら理解もできるが、人集めのおもいつきでは困る。ただの善意でも困るのだ。

 オオルリシジミを他の地区からの安易な導入で進めようとしているなら考え直して欲しい。クララを含め遺伝子かく乱につながることだけは避けたいからだ。

 では今後どうしたらよいか。
 これ以上の種が市版レッドデータブックに載らない方向を考えるとしよう。なぜ姿を見せなくなったか考えてみよう。
まず、生態系への大規模な開発を避けることが必要だろう。自然環境の変化を小さくし、農薬などの環境汚染や地球温暖化などの対策を取らなければならない。生物がお互いに相互依存できる環境をつくらなければ、絶滅危惧種が増えるばかりだ。人間といわれる生き物が生まれてこのかた、絶滅した種が多いのは人間の身勝手な行動によるものが大きいからだ。地域の身近な自然を見直しながら、ちょっと不便でもライフスタイルを変えていく必要がある。

(07/04/23)


   黄砂舞う

 四月一日は、なんとなくはっきりしない景色だと思ったんですが黄砂でした。黄砂が舞う頃は天気が悪く、なんとなくすっきりしない気分になります。
大芝山の稜線から上野山をかすめ大門のあたりがよく見えません。毎年春になると霞んだような黄砂の風景が広がりますが、岩垂原の砂塵嵐は低く平野をおおうように流れるのですが、黄砂は天空まで霞んだようになり穂高も常念も鉢盛山もはっきりと見ることができません。ちなみに松本で視程8`、長野市で3`となったということです。
 黄砂は、東アジアの砂漠域(ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠)や黄土地帯などから、強風で舞い上がった黄砂粒子が偏西風に乗って日本に来るものですが、春先の低気圧の通過時に多く、ここ数年黄砂による煙る風景が見られるようになりました。
 黄砂を春の訪れと俳句なぞ、ひねくり回しているうちはいいんですが、地球環境から見るとあまり喜んでばかりいられないようです。発生域を抱える中国では黄砂の原因となる砂塵嵐で死者や家畜被害が出て、大きな社会問題となっています。視程0bで自分の手先も見えないというような砂塵で、岩垂原の砂塵のとてつもなく大きくしたものが吹くわけですから大変です。呼吸器科や眼科の患者が急増したとのことです。中国のお隣、韓国ソウル市では環境基準値を超えた場合、住民に外出禁止令を出すなど法整備を進め対処しています。日本では大きな粒子は落ちてしまい細かなものが運ばれてきますが、洗濯物が黄色くなったり、車が汚れたりしますが、農作物への被害や人体への影響などまだはっきりと確認されていません。塩尻市でも電子機器の製造業が盛んですが大丈夫でしょうか。 
 発生のメカニズムについては、日本や中国で多くの研究者が取り組んでいますが、まだはっきりと解ってはいないようです。黄砂粒子の地球規模での気候への影響も近年問題とされ、その研究が進められていますが、早くわかって欲しいものです。
 シルクロードに憧れ、中国東部やチベットやスウェン・ヘディンに憧れるだけだった私には、黄砂には特別な思いがあります。残り少ない命には害はなかろうと、黄砂を飲み込もうと口をパクパクさせた一日でした。
 「黄砂来て 見果てぬ夢が 舞い落ちる」
 「黄砂舞い シルクロードも 口のなか」

(07/04/02)


  マンサクの花
 マンサクの花が咲き始めました。
あちこちで咲いたという便りを戴いていたのですが、ここは寒いのか咲き始めたのは3月に入ってからでした。
 マンサクは早春、他の草木がまだ花を咲かせない頃、まずさくことから「まんさく」とよばれたとも、この花が沢山咲くと豊年満作になるということから「満作」と和名を付けられたといいます。落葉小高木ですが、大きくなると10bを超える大木になります。里山では薪炭林として刈られたせいもあり、あまり見掛けませんが、マンサクの変種、シナマンサクが庭園の植裁樹として植えられています。
 花弁は4枚で鮮やかな黄色でやや、ちじれます。腺状披針形と呼ばれる針状の細い花を1−2a、葉が出る前咲かせます。葉はタンニンを含み、漢方薬として収斂吐血剤として使われています。
 マンサク科はマンサクとシナマンサク、アメリカマンサクに分けられますが、変異が多いので花のないころ庭を彩るマンサクは庭園樹として人気者です。仲間には、アテツマンサク(備中、岡山)オオバマンサク、マルバマンサクがあり、マルバマンサクにはウラジロマンサク、ニシキマンサク、アカバナマンサク、シダレマンサクなどの品種があります。
 マンサクより早く咲く(1−2週間)シナマンサクは小坂田公園に植えられています。シナマンサクはマンサクと交配されて園芸品種が作られています。ダイアナ(Diana)やウォーター・ビューティー(シナマンサクとニシキマンサクの交配種)などが知られています。
 春早く山に行くことはないでしょうが、自生のマンサクを見るならこの辺りでは大芝山の尾根筋が良いでしょう。良く見かけられます。あまり大きな木はなく、淋しいですがブナなどもありますから楽しめます。また、辰野町の横川渓谷沿いにも自生しています。
 マンサクは庭園樹としてでなく、いけばなの材料としても高い評価を受けていました。これもなにもないころ花が見られることが珍重された理由です。促成といって普通に咲く時期より早く出荷され、お正月のいけばなの材料でありました。主に名古屋・静岡近辺から入りましたが、一丸(ひとまる・一束5本×12束)が2万円位したものです。最近ではセリがコンピューターシステム化され、セリ単位が変わって本数単位になるところもあり、従来の枝物の荷造り「枝折(しおり)技術」がなくなっていく産地があるとのことですが、芸術品ともいえる枝折(しおり)の美しさを残して欲しいものです。 繁殖は実生でもできますが、すぐ楽しめることから接木が行われています。台木はイスノキやマンサクの実生苗が良く、3月中頃までに済ませます。移植は落葉後すぐ行います。

 塩尻市の市天然記念物に指定されているベニマンサク、一名マルバノキはマンサク科ですが、属名をディサンツス(Disanthus)といい、花が二つずつ背中合わせにくっついて開花します。マンサクは黄色ですがベニマンサクは暗紅色で、落葉するころ咲くので一度に紅葉と翌年成熟する果実を見ることができます。D.cercidifolius Maxim が学名ですが、種名のセルシディフォーリウスはハナズオウ属に似た〜意ということから葉はハナズオウに似た丸い葉を持っています。宗賀の本山から近くの釜之沢に自生しています。

 早春に咲く花は黄色の花が多いといいます。マンサクの少し変わった花を観察して見てください。

 マンサク(マンサク科)
 H.japonica Sieb. et Zucc. 種名のヤポニカは日本産の〜意

(07/03/13)


「輪かんじき」考
  冬の山の雪中歩行用具
 輪かんじきとは積雪のなかを歩くとき、足を踏み込まぬため、靴や長靴、わら靴などの下に履く用具である。「わかん」と略称される。
積雪が少ない地方では使われていないが、多い地方では冬の山を歩くには無くてはならないものである。軽く携帯に便利なことから、冬山登山、狩猟、冬の山仕事に欠かせず愛用者が多い。最近では冬の野外観察などでも使用されていて、スキーなど使えない場所でも荷にならず重宝する。日本古来の雪中用具でもあり、使い方を知っていても損なことは無いと思うので、形式、構造などを交えて紹介してみたい。
 
 1.形式、構造
 輪かんじきの形式としてはその構造により、単輪のもの、復輪のもの、すだれ状に編んだものと大きく三つに分けられる。
地方により、また使い方によっていろいろ変化した形式があり、ひょうたん型や「スカリ」と呼ばれる大型の復輪のものも使われている。この辺りで使われているものは復輪のもので、二本の材を向き合わせ、中央側面で結びあわせたもので楕円形に近い。材の加工条件や使うところによって矩形、舟形、丸形のものもみることがある。
 輪
 前の輪を後の輪の外側に出すものが多く、前後同一の材で作られることが多い。地方により前後の材をわざと異なったもので作り、後の輪を重くするという作り方をするが、これは踏み込んだとき体重が前のほうにかかるのを防ぎ、平均をとるためと思われる。矩形のものは後の輪のほうが長いのでやはり後が重くなる。これは乗緒の部分が中心となるので、この部分を中心に吊り下げてみると良くわかる。
 輪になる框(かまち)の材にはエゴノキ(ジシャ)、クロモジ、アオダモ、ハゼ、ヤマグワなど一般に堅くて腰があり、粘りのある材が使われる。
 爪
 山で山仕事や狩猟、登山など山の斜面で使うものには爪が付いている。これは滑り止めの爪であるが、カシ、ナラ、クリ、イタヤカエデ、ニレ、ノリウツギ、ヒノキなどを使って作る。形状はいろいろで細く長いもの、太く短いもの、その中間のものとさま ざまであるが、楔状で側面の連結部分で止めるので抜けないよう溝を切ってあるものが多い。
 乗緒
 乗緒は現在6ミリ位の麻縄が多いが、古いものではアケビ、サルナシ(シラクチ)など蔓ものを使ったものをみることもある。
これらの蔓は使う前に、一日くらい水に漬け「しめり」をくれ使ったという。また、乗緒は体重がもろにかかるため、皮の紐を使うと頑丈で、長持ちするので猟師などは好んだという。
 乗緒の渡しは二本渡し、三本渡し、またこれをぐるぐると捲いて補強してあるものなどがあり、使う人が使い勝手の良いように工夫されたものが多い。これは乗緒が切れると用をなさないため、直接体重を支える乗緒の作りは入念になる。乗緒のほかに並行して足のつま先を入れる補助紐を付けて、つま先が下に沈むのを防ぎ、輪かんじきを締める際、からげの支点とする作りもある。

 2.使用法(履き方、歩き方)
 鈴木牧之(注1)の「北越雪譜」に雪中歩行の用具として「かんじきは古訓なり。里俗かじきといふ。たて一尺二三寸よこ七寸五六分形図の如くジャガラといふ木の枝にて作る。鼻は反してクマイブという蔓、又はカズラといふつるを用ふ。山漆の肉付の皮にて巻かたむ。是は前に図したる沓の下にはくもの也。雪にふみこまざるためなり。」と記し挿絵も描かれているが、続けて「百樹曰、余北越に遊びて牧之老人が家に在し時、老人家僕に命じて雪を漕形状を見せらる。京水傍にありて比図を写り。穿物は橇。縋なり。戯に穿てみしが一歩も進ことあたわず。家僕があゆむは馬を御するがごとし。」とその歩行の難しさを記している。
 履き方
 履き方は乗緒に足を載せ、紐で足の部分を乗緒に結び付けるのだが、使用中に緩んだりはずれないように気を付けて締める。
締め方はいろいろあり、「わらじ」を履くように結ぶ人から、乗緒にリングを付け紐をくぐらせ使う人もいる。 紐は一本で締める。平織りの真田紐、6−7ミリの麻縄、ロープなどで締めるが濡れると麻縄などは締まり、また凍結すると解けないので注意する。合成繊維のロープ、特にナイロンロープは凍結することはないが、緩みやすく結びかたに気をつける。
 乗緒に足を載せる場合、前輪につま先がかかると取りまわしが悪く、足の返りも悪くなる。輪かんじきの大きさも関係があり、防風用のオーバーシューズや、スパッツなどを履いて前輪とつま先が、5センチ位の間隔があるよう余裕が欲しい。
 矩形に近い輪かんじきは踵の部分が多く空く。なるべく足の大きさにあったものを履くのが足の返りも楽だし、足首などを痛めない。履く前には乗緒、框の接合部分、滑り止めの爪などを点検し、緩んでいるような部分は締めなおしたい。
 特に爪は体重がかかり壊れやすいので欠けたりしていたら交換などしたい。
 歩き方
 ここでは、冬山登山に使うことを前提に記してみたい。
歩き方は普通の歩行姿勢で歩くと足が擦れ合ってしまうので、股を広げたガニ股歩行をする。平地で積雪が少なく軽い雪だと、それほど意識しなくても股を広げて歩くということもなく、足も簡単に前へ抜ける。
 斜面、又は膝上くらいの雪になると、後へ抜いてから外側に廻して前方に踏み出すことになる.。リズムが大切でリズムに乗らないと、自分で自分の輪かんじきを踏み付けて、いたずらに体力を消耗することになる。要はよく雪の状態を観察することが大切で、クラストした雪でない限り爪の効果はないので、裏返しにしてに爪を上面にして履いてもよい。
 股くらいまで潜るようになると、体力が頼りになる。
足が上がらないので手、膝、腰を使い雪をかき分けるように進む。股以上のラッセルは技術より体力と慣れである。一人だと無理をせず、小休止を早め早めに取りたい。大人数の場合は先頭者が横に一歩出て、後続者と交代し、最後尾につけばリズムを崩すことなくスムースにラッセル交代ができる。先頭者の消耗が激しいので、時間や距離で交代するのではなく、斜面、体力などを勘案することである。後続者は踏み跡を忠実に追って歩くことが、早く進むコツである。
 雪が腰までくるとなにか掴まるものがないともう歩けない。ストックなどを支点に身体を全面に押し倒し、身体全体で押し分けないと進めない。「コスキ」などの道具が欲しいところだ。
 ラッセルは見た目以上に疲れるので無理をせず、リズムを大切に、早めに交代なり休みをとることである。
 斜面は辛くても直登することである。
雪崩そうな斜面は絶対に横切ってはならない。積雪の状態をよく見てコースを決めたい。粉雪のような軽い積雪の場合は崩れるばかりでなかなか前に進めないが、膝で押さえつけたり、輪かんじきで均して段を作るようにして登ったほうがよい。要はあせらな いことだ。
 下降も最大傾斜線を直に下降する。
足を雪面に垂直に置き、体が前傾、後傾しないよう傾斜線に垂直に立ち、重心の位置に気をつけ下る。輪かんじきの紐に足を取られないよう緩んでいたら締めなおす。輪かんじきを履いている場合、踵から踏み込むとバランスを崩すことがあるので注意したい。リズムカルに足を抜かないと重心が崩れ、頭から飛び込むことがよくある。重荷だと起き上がれないし苦労するから気を付ける。雪の状態を見ることは登りと同じであるが、凹凸の状態、表面と内部、周囲など下降時は特に観察が大事である。
 斜面のトラバースは輪かんじきでは難しい。
雪が少ないと楽だが、膝を越すようになるとよほど慣れていないと苦労する。山側の足が抜きにくく、前に出すとき谷側の足に引っ掛けやすく出しにくい。急斜面をどうしても横切らなければならない場合、ストックなどで進む足の反対側に支点を作り、体重をあずけ前進するか、身体を山側に正対させて横ばいに一歩、一歩ずつ交互に進む。また、ストック、ピッケルなどを支点にぐるりと一回転して進む方法もあるが、緩斜面では疲れ急斜面ではバランスを崩しやすい。
 樹林帯では樹の根元を歩かないことである。落ち込み易く、落ちると輪かんじきが邪魔になってなかなか抜けられない。胸あたりまで埋まると笑いごとではなくなる。荷のあるときは外し、雪を手で掻い込み抜け出さなくてはならなく、単独行の場合は特に気を付けたい。
 輪かんじきの手入れ。
手入れは框、爪の部分には亜麻仁油を塗り、乗緒や紐、麻縄などには雪の付着を防ぐため防水剤やワセリン、パラフィン(蝋)などを塗っておくのがよいだろう。油はスポーツ店、釣具店などで買える。
 使いこむとだんだん味が出てきてオフシーズンには部屋の飾りにもなる。優れた民芸品でもあり地方地方で形も違い、集めてみるのも楽しいものである。最近のスノーシューなどと違い素朴な味わいがある。
 輪かんじきは日本古来の雪中歩行用具だが、雪に対する知識がなければなかなかその技術を生かすことが出来ない。ラッセルの身にしみる辛さ、寒気、雪の変化、雪崩の脅威など冬の山が持つ危険を認識して、装備の機能を使いこなし、楽しい山歩き、山登りをして欲しい。
 
一口知識
「コスキ」 幅広の板で作ったシャベル状の雪落とし用具。飯山地方では「コーズキ」小谷地方では「コッパ」という。
「トラバース」岩壁や氷壁、尾根の斜面を横断すること。足の運びが難しい。
「クラスト」 風とか太陽の輻射熱によっておこる雪の硬化。条件によって雪の状態はさまざま。
(注1)「北越雪譜」天保八年から十二年にかけて売り出された越後魚沼の雪国の生活を記した博物誌。著者は鈴木牧之(1770−1842)名は義三治 俳号は牧之。


(07/01/26)


庭にアサギマダラがやって来た。

 家の庭のフジバカマにアサギマダラがやって来た。
アサギマダラは長距離を移動するチョウとして有名だが、昼休みに庭に出てフジバカマの花の上にとまっているアサギマダラを見つけた。比較的新鮮な個体でオスであった。
 この辺では高ボッチ高原や里山の林道沿いの標高の高い所でよく見かけるが、里の家庭の庭にはめったにやってこない。なんだか嬉しくなってひとしきり観察することにした。
 フジバカマの花の周りをふわふわと緩やかに舞い吸蜜と休息を繰り返している。マーキングされていないので捕まえてマーキングしようかと思ったが、なんだかその場のおだやかな空気が乱されるようで止めた。
 昨年、高ボッチ高原で草競馬のおり、ヨツバヒヨドリで吸蜜していた個体を手で捕まえマーキングし、放したことがあったが残 念ながらどこからも連絡が来なかった。

 このほど(9月17日)、安曇野市の国営アルプスあずみの公園でアサギマダラのマーキング調査が行なわれたが、放したチョウがどこで見つかるか楽しみである。なんでも二年前に行なわれた調査では、あずみの公園で放されたものが鹿児島県・喜界町(喜界島)で見つかった記録があるとのことで、南下距離は約1100キロにも上る。
 また、鹿児島県喜界町(喜界島)から北上した個体が、長野県根羽村茶臼山で捕獲された記録もある。この記録は2004年5月5日喜界島で放たれた個体が、2004年7月4日に根羽村茶臼山で捕まったものだ。移動距離は約1057キロ、移動日数は60日ということになる。
 2003年には沖縄県宮古郡伊良部町白鳥海岸付近で捕獲されたアサギマダラは、長野県白馬村白馬五竜スキー場でマーキングされたもので移動距離は約1781キロ、移動日数108日であった。これは2003年の国内移動距離最長記録といわれた。

 アサギマダラはこのように長距離の移動をするが、その謎を解こうと多くの研究者がその生態に挑んでいる。メディアでも今年の8月22日、午後7時半からNHK総合テレビの番組「クローズアップ現代」で「海を渡る蝶/アサギマダラ・2000`を旅するチョウの謎」と題して放送された。
 興味深かったのは「海の上に浮いていた」という漁師の話で、魅せられた漁師はアサギマダラの生態研究にのめり込むことになってしまったという。この鹿児島県喜界町(喜界島)は春、数万という大群が発生するとのことでマーキング調査のために大勢の人が訪れるとのこと、島の活性化に何が幸いするかわからない。
 大町市の中綱湖畔でも、古川さんという人がアサギマダラの中継地として自宅横にフジバカマの花畑をつくり、調査しているというが、頭の下がることだ。視点を変えればアサギマダラとフジバカマで「人と人の交流」や「町づくり」もできる。
 アサギマダラは春は北上し、秋に南下をする蝶といわれているが、塩尻市でもヨツバヒヨドリやヒヨドリバナの咲く高ボッチ高原や小曽部谷、東山から四沢、片丘から高ボッチ間の林道で優雅な姿が見られるので一度マーキングに挑戦されてみてはいかがでしょうか。
 マーキングの方法は細い油性のフェルトペンを使い、翅の裏側(翅をたたんだときに外側になっている方)に記号や日付を書いて放してやる。
 私の場合は
nagano.shiojiri .
takabo.no.1
05.08.06.
名前.
tel.を書く。
これは長野塩尻高ボッチ高原で、8月6日、1番目に放したもので見つけた人は私に電話を下さいというものである。
人により記入方法は違い、4枚の翅全部に記入する人もいる。新鮮な個体だと良いがボロボロの個体もいるのでそこは適宜行う。
再捕獲されると連絡が来るので自分のフィールドノート(覚え)と照らし合わせて見る。
 簡単だが高ボッチ高原あたりで網を振り回していると、自然保護ボランティアの方やレンジャーの方に注意されるということもあるのでその際は説明したほうがよい。

 家の庭のフジバカマは私が鳥や蝶が来るようにと植えたもので園芸用の斑入り品種である。野生のフジバカマはいま少なくなって、環境省のレッドデータブックでは絶滅危惧II類(VU)に指定されている。秋の七草の一つだが奈良時代に中国から帰化した植物だといわれている。

(06/09/23)


寒波と雪

 (みどり湖の結氷05/12/22)              
寒波の襲来であちらこちらが大変なことになっています。
 飯山市(7日午前5時、214a)下水内郡栄村などの県北部では過去20年間で最大といわれる積雪量(6日午前8時、
378a)となり、生活道路が通行止めとなり孤立、自衛隊が除雪のため出動する事態になりました。
 昨年の年末からの度重なる寒波の襲来は、南国にも雪を降らせ鹿児島市で11cmの積雪を観測、88年ぶりに12月の積雪量の記録を更新、種子島でも雪が降り、12月での降雪は40年ぶりだそうで、屋久島前岳でも積雪が観測(05/11/22)されたとのこと。珍しいことです

 今年の寒波は気象庁によると、日本列島の冬季の寒暖は、北極周辺の高緯度地域の海面の気圧の変動によって、寒気が蓄積と放出を繰り返す「北極振動」と呼ばれる現象の影響を強く受けるとされ、一般的に「寒波」とは、北極振動によって放出された寒気が蛇行した偏西風に乗って南下して来ることを指しますが、今年は偏西風が例年より緯度が下がっているということと、北極付近の気圧が高いため、日本付近の気圧は低くなり、寒波が訪れやすくなっているといい、周期的に繰り返す可能性があるといわれています。
 また、日本海周辺の海の水温が平年より1、2度高いことが原因とみる説もあります。北大大学院の渡部雅浩助教授(気候力学)は、「11月下旬から中緯度地域で気圧が低い状態に入り、大陸から日本海に乾いた冷たい空気が入りやすくなった。海水温が高いと、水蒸気の量が増え、雪をもたらす雲も発達する」と説明しています。
 欧州にも寒波が襲来、イギリスでは交通網が大きく乱れ、ポーランドでは23人が凍死、インドでは北部で厳しい冷え込みで、首都ニューデリーで8日、早朝0.2度まで下がり、観測史上2番目の寒さを記録、路上生活者100人以上が凍死しています。インドの寒さはヒマラヤの降雪がいつもより多く、そこに北西からの強い風が吹き込み北部の気温を下げているということです。
 日本では、昨年12月以降の大雪による死者は11日午後9時現在(共同通信調べ)の集計では17道県で76人に上がっています。また、住宅の被害は総務省消防庁の調べでは11日午後3時で全壊6棟、半壊2棟、一部破壊は15道府県で949棟に上がっています。死者や家屋の倒壊は積雪の多さに加え、過疎化と高齢化による要因もあるといわれています。

 松本・塩尻地方は寒さが厳しいところです。全国的に大雪となるなか積雪は平年並みで少ないのは、冬型の気圧配置が強くても三千b級の山々がブロックしてくれることが大きいようです。偏西風による大雪はあまりありませんが、北アルプスを越えて吹き降ろす荒天の風は平地で冷え込み、晴天の日は放射冷却現象とあいまって氷点下10度前後にもなり、厳しさは東北地方北部、北海道並みになります。
ちなみに、塩尻市塩嶺高原(標高970b)で、−21度を記録(1984.2.19)したこともあります。この年は異常気象と呼ばれた年でありました。このときは冬日の連続日数が84日に渡りました。
 真冬日(最高気温が0度C未満の日)、冬日(最低気温が0度C未満の日)が連続して続く今年は、寒冬(冬期3ヶ月の平均気温が平年と比べて低い時)になるやも知れません。ここ数年の暖冬になれた体にはつらいことであります。「北極振動」の周期が短いことを祈るばかりです。
 松本・塩尻地方に雪が多く降るときは、東シナ海低気圧が本州南岸を発達しながら北東に進む場合(南岸低気圧)で太平洋側に大雪を降らせるときです。
これは「カミ雪」(カミユキ)と呼ばれますが、例年、2月上旬から3月にかけて中南信地方に大雪を降らせます。昨年は4月始めに雪を降らせました。
重い雪で嫌われますが春が近いことを知らせてくれる雪です。

(06/01/12)