地元学 

風土・歳事を語りましょう


初音の作り方
  初音を作る

 お正月を前に、昔懐かしい「初音」を作ることにしました。
「初音」は竹を素材に作った小さな笛です。
 大晦日「年とり」をすませて除夜の鐘が鳴るころになると、初音売りのおじさんの声が聞こえるようになります。「はつねー、はつねはいらんかいー」が聞こえると、子どもたちは家を飛び出しておじさんを待ちます。
 子どもたちは「元旦にはお金を使ってはいけない」と聞かされていましたが、初音だけは許されていました。小さな笛ですが綺麗に作られていました。

用意する道具と材料
 竹 (直径1.5センチ〜2センチくらいの太さがとれる竹で、平の面がある竹が良い)
 鋸 (竹用のものがあれば便利だが、無くても普通の細かい歯がある鋸でも良い)
 鉈 (なた)
 ナイフ (切り出し、肥後の守、カッターナイフなど)
 錐 (つぼ錐があれば最高、ねずみ錐や四ツ目や三ツ目でも充分)
 爪楊枝(つまようじ・こだわる人は竹の枝を裂き楊枝状にして挿す)
 糸 (木綿糸)
 色紙
 糊(のり)

手順
 @ 竹の枝を払う。
 A 竹を8センチの長さで切る。
 B 竹の悍の凹んでいる部分を下にして丸い方を上にする。
 C 悍の丸い方中間4センチのところにしるしをつけ、ナイフで傷をつけ鋸で切っていく。
    最後は切り落さないよう5ミリくらいの厚さを残し吹き口の部分を作る。
 D 凹んでいるほうを上にして切り落した端から5センチのところにしるしをつけ、悍の中央に錐で穴を開ける。穴は6ミリか7ミリになるよう仕上げる。
 E 吹き口を作る。
    吹き口の部分を鉈でふたつに裂く。(中心に刃をあてDで開けた穴の前端まで達するように裂く。長さは吹き口から5.6ミリくらいまで裂く)
    爪楊枝(つまようじ)を4.3ミリに切り、楊枝の尖った方から裂いたところに差し込む。両側(右と左)に。
    木綿糸で吹き口から1センチくらいの部分を巻いてしばる。重ならないよう平に巻く(幅5ミリ)
     糸の巻き方は、穴を開けた方から一度両側の楊枝の上を通し吹き口の方から穴のほうへ向かって巻いていく。大体10回くらい巻くと5ミリになる。
 F 胴の部分に色紙に糊をつけ、一周ぐるりと巻く(赤い紙で穴の先端まで、幅2.5ミリ)
 G 色紙の金色を幅1センチに切り、貼ってある赤い紙の中心部分に一周ぐるりと重ねて貼る(好みで幅を細く何本も貼っても良い)
 H 笛にバリがないように、紙や糸の余分を切って細かな仕上げをする。
 I 出来上がり。

吹き方
 おや指と人差し指で胴の前後をふさぎ、吹くと低い音が出る。右手でも左手でもご自由に。胴の前後の指を動かして高い音をだしてみる。
 胴の部分をふさいだまま、胴の上の穴を人差し指で叩くようにしても音が出る。指を動かしていろいろやってみると音が変化することがわかります。「初音」はウグイスの声を真似たものだそうですが「ホーホケキョ」と聞こえるように吹くのは難しいものです。

 初音売りのおじさんの声を聞くことがなくなって、大晦日の除夜の鐘が鳴るころから元旦の朝の風情がなくなりました。鐘の音と初音こそお正月が来たことを伝える音だったのですが、これも時代の流れでしょうか。寂しいものです。
 この初音は地方、地方でいろいろな形のものが作られていますが、これは安曇の作り方でシンプルで素朴なところが気に入っています。松本ではより高い音が出るように穴のところに枝の細い所を使って細工をしたつくりの初音もあります。
 また胴の上に小鳥を竹で作り、接着した初音も売られていました。これは値段が高かった覚えがあります。
 いまになって考えると、初音売りのおじさんたちが、どこから来たのか、どこに行くのか、聞いておけばよかったと思っています。 
 冬の長い信州で、早く春が来るようにと願う初音の音が、お正月にあちこちで聞こえた昔が懐かしく思い出されます。

 (08/12/20)



えびす講

 11月の20日は「えびす講」の日です。
子どものころはこの日が楽しみで指折り数えて待ったものです。「えびす講」はおいべっさま(えびす様)をお祭りする日なのです。「恵比寿神」は狩衣(かりぎぬ)、指貫(さしぬき)を着て、右手に釣竿、左手に鯛を抱えて岩の上に座しているお姿から漁の神さまですが、農家では田の神様として神棚に大きな袋を肩にした大黒様と並んで飾られていました。
 大国主命(おおくにぬしのみこと)の長男、事代主神(ことしろぬしのみこと)ということになっていますが、諸説があり定かではないということです。子どもにはそんなことはどうでもよく、おいべっさまの前の晩(宵えびす)にごちそうが食べられることと、次の日にはまち(松本)へつれていってもらえることが嬉しかったものです。「えびす様」は商売繁盛の神様でもあったので、まちでは「えびす講」の大きな売り出しがあって賑わったからです。農家では、秋の穫り入れがすみ、つけものの用意をしてあとは年の暮れを待つばかりのころになります。
 
 このころは木枯らしがふき、時には雪が舞う日もあることから、買い物は冬支度のものが多くなります。特に衣服を新調することが多かったので呉服店や洋品店ではえびす講をあてこんだ売出しが多かったものです。家中のものを買わなくてはならないので主婦は大変で、子どもでも動員して荷物を運ばせたかったものでしょう。呉服店ではこたつの下掛けに都合のよい端切れや、洋品店では下着類を売り出していました。
 松本の町の商店では売り子の呼び声がにぎやかで一生懸命お客様を呼び込んでいます。お客様がおいべっさまなのです。子どもは「おいべっさまにはなんか欲しい物を買ってやるで」とか親に聞かされていますが、なかなか親はじょうずで約束は反故にされることが多く、ただまちの賑わいをなんとなくうれしく思いながら親の後をついてまわるということになります。ふだん見慣れないにぎやかな風景がなにも買ってもらえなくても楽しいものでありました。

 いま、「えびす講」は以前ほどの賑わいを見せていません。商店も商店街も元気がありません。なぜでしょうか。
「時代せぇ」といえば免罪符になりそうですが、秋の風物詩として賑わった「えびす講」が年々忘れられていきます。「宵えびす」のごちそうも私の家では小豆のあんをが入ったまんじゅうを上げたくらいで簡単なものでしたが、このまんじゅうが好物であった私には思い切り食べられるいい日でありました。「えびす様」にあまりごちそうをすると「福をくれない」といって、ごちそうをしないことで福を呼ぶ、招くことが言い伝えられていました。
 おいべっさまが帰ってきたのを祝う日が「えびす講」といわれ、それからそれぞれの家に滞在し、また1月の3日にはおいべっさまは旅に出るといわれていますが、あまりごちそうをすると「このうちは裕福だから稼いでやらなくてもいい」とおいべっさまが思うといけないので粗末なものを供えるということになります。
 現在は一年中食べられる食材が満ち溢れ、山海の珍味がたちどころに間に合い、それを食せ、綺麗なべべ(衣服)を着られるという幸福な時代です。おいべっさまに感謝しなくてはならないのに、素朴な習わしがすたれていくのが不思議です。恵みへのゆとり、心構えがなくなったせいでしょうか。もうおいべっさまにもう用がないのでしょうか。おいべっさまがお出ましになって精出して稼いでくれなくても食べられる世の中になったのでしょうか。

 今年のおいべっさまにはかぼちゃまんじゅうを上げようとおもいます。小豆は作らなかったのでかぼちゃで我慢してもらい、一年のお働きに感謝します。山に炭焼きにいくこともなく電気、ガス、石油を充分といえないまでも考えながら使うことができました。ありがとうございました。野菜は大根や白菜、野沢菜も良くできました。これからおこうこ(沢庵漬け)とおな(野沢菜漬け)を漬け、畑を耕し、冬ごもりの支度をゆっくりやってお年取りと正月を迎えようと思います。 
 
(08/11/17)
 


大晦日

 「冬至」からいろいろな歳時が続いてそれらをすませると大晦日になります。大晦日は「年取り」「お年とり」「大年・おおとし」などと呼ばれています。一年の締めくくりをする大事な日です。
 勝手場で鍋、釜を洗い、家の内外の隅々まで掃き清め、年取りの用意をします。これらは男も女も子どもも総動員で行います。おんな衆は特に忙しく歳の市で買い求めた品を整理し、年取りの献立や正月の献立の準備をします。歳の市は25日ころから29日ころにかけて立ち、年取りに必要なものや正月中使うもの、一年中使うものを売り出しているので、買い求めて用意をして置きます。いまは常に何でも売っていますからあわてることなありませんが、むかしは魚屋さんの店先には商品が山積みで、呼び声が賑やかに一日中続いたものです。魚屋が遠い地区には行商の人たちが魚や日用品を自転車につけて売りに来たものです。

 「年取り」は早いほどいいといって暗くなる前から取るところもありますが、暗くなり始めた5時ごろから取る家が多く、商いをしている家では遅くなります。 
 暗くなるとお風呂に入り、身を清めて新しい衣服や洗濯したての衣服に着替えて「年取り」を始めます。「福の神が入る」ということから家の戸や障子を開け放ち、玄関の戸も開けたままで取るところもあります。
 まず、神棚や年棚、仏壇に燈明をともし、一升枡に米を入れて恵比寿様(おいべっさま)にあげます。
 恵比寿様は大事な神様ですからいろいろなものがあげられました。鰤や鮭の尾や頭を白木の箸にさしてあげたり、お金をあげたりご飯を粗末な器であげたりします。これらは尾をあげると王になり、頭をあげると御頭(みかしら)になる。今度はよいところが欲しいといって金を貯めてくれるという縁起で、お金は恵比寿様が倍にしてくれるので沢山あげる、あげないほうがためてくれるなどや、よい器にいれてもらうなどの言い伝えがあります。またお金の代わりに預金通帳をあげるところもあります。神棚にあげた供え物をあげるのもおろすのも大人で、大人が食べるものとされ、子どもが食べるともの覚えがわるくなる、縁遠くなる、早く年が寄るといって忌まれました。

 「年取り」の献立は決まっていますが、子どもたちには「お祭り」に勝るとも劣らないご馳走です。
私の家では昭和25年くらいまで板敷きの勝手場(台所)があり、神棚の前で一人一人お膳があり、そこで年取りをしました。座敷や茶の間で取る家もありました。
 「お吸い物」は、鶏の肉に豆腐やねぎが入ったもので、鶏がないときは兎や白魚やおぼろ昆布でした。鶏や兎は28日ころ絞めたもので、弟が大事に飼っていた兎を母の祖父がじょうって(絞めて)しまったこともあります。
 「三盛」は、数の子、田作り、牛蒡でしたが、これにもきまりがあって二種は魚、一種は山のものか精進物でなければならないというものです。当時は塩の数の子が安く、ふんだんに出回っていました。塩抜きした数の子と牛蒡はともに私の好物でありました。田作りは味付けされていてもちょっとある苦味が嫌いでした。昆布巻きやだて巻きが入ったこともあります。
 「お丼」は、数の子と煮豆、なますでありました。
 「お皿」には鰤と鮭を。
 「小皿」には大根漬け(おこうこ)奈良漬けが載ります。
 「おそうざい」(煮物)は大根、コンニャク、ねぎ、、牛蒡、ちくわ、芋類、、にんじん、昆布など七種以上を入れ煮物としたものです。正月にも頂くので沢山つくりました。
 あとは「汁物」味噌汁と「ご飯」で年を取ります。父にはお酒がつき、好物の干鱈(ひだら)の焼いたものや氷頭(ひず)がつきました。
 いまから考えると質素なものですが当時の平均的な献立でした。私の家では鰤も鮭も食べましたが、これにはわけがあって、親戚が松本で魚屋さんをしていたので海のものには不自由しなかったためです。私も手伝いができるようになると松本の暮れの市に手伝いに行きました。新聞紙を切ったり、経木を折ったものです。私も好みでいえば鮭のほうが好きでそれも辛めの塩鮭だと何もいうことはありません。

 数の子、田作り、煮豆は、まめで数々の田や畑を作るように、大根は、福大根といい細かに切らず輪切りにする、ご飯は自分の歳の数だけといい、軽く盛ったご飯を何杯もおかわりするのが良く、沢山食べると年がよらぬ、背が伸びる、力が出るという縁起がありました。
 生きものにも年取りが来ます。飼っている牛や山羊、豚、鶏や兎などにも「年取りだぞよ」といって、屑米や麦を沢山煮たものや生の米やご飯をあげます。犬、猫にはご飯に田作りをあげます。蔵のねずみも例外ではありません。「ねずみの年取り」といって藁の上に餅や頭附きの魚を乗せておきます。これをしておくと一年中ねずみは悪さができないというわけです。ところによっては「蛇の年取り」といって一升枡の上に田作りを乗せて、屋敷の石垣の上にのせたといいます。

 向山雅重という民俗学の先生が「農村の食生活」という題で、江戸末期の上伊那郡中川村片桐の林家の年内行事をまとめた文を読みますと、林家の年越しの献立は次のようなものです。時代は天保15年(1844/12月2日に弘化と改元)で、年越しは日暮れにとり、
 「飯」 白飯
 「汁」 大根
 「お平」 里芋、牛蒡、大根、人参、豆腐
 「皿」 鰤、酢大根
 「酒肴」 田作り、数の子、酢大根の三種に限候
と記され160年ばかり前の料理のようすを伝えています。この林家は江戸初期にすでに栄えていたという家(地主)で、天保ころは奉公人も置いて手広く経営をしていたといいます。大きな農家ですが、常の食は米に大麦、大根の干し葉をくわえた「麦ひば飯」を基調に食べていたといいます。

 「年取り」の魚はこの辺りでは鰤が使われます。
 なんでも関西風な慣わしといわれていますが、「お大尽」ならいざしらず誰でも食べられるものではありませんでした。「今年は鰤がかえるかえー」などと暮れになると話しになったものですが、「今年も鰤が買えたわぃ」と話せるようになるにはどこの家でも苦労があったものです。今では年中鰤が店に並んでいますが、年に一度「年取り」に食べるのがやっとで、それも買える資力が必要でした。
 戦後、鉄道や車での輸送がされるようになるまで、日本海で獲れたブリを信州に輸送するには、能登(能登ブリ)で獲ったブリや富山(越中ブリ)のブリは氷見から神岡を経由、高山に出て、高山の市から信州の商人に渡り、ぼっか(歩荷)の背で野麦峠を越えると飛騨ブリになり、松本の平らに着いたものですが、職人の日当が一日米三升くらいの時に「ブリ一本、米一俵」といわれたといいます。そのため大変高価なものになりました。
 木曽地方へは三つの道があったと思われます。一つは高山を出て野麦峠から川浦を経て寄合渡へ、境峠を越えて薮原に出る道と、もう一つは、長峰街道と呼ばれる道で、県境の長峰峠から関谷峠を越え、西野峠を越え開田を経て木曽福島に出るものです。また、川浦から月夜沢峠を越えて開田に出て木曽福島の道もありました。どちらにしても雪の深い道をいくつもの峠を越えてブリは木曽に入ったのです。伊那へは権兵衛峠を越えて入ったといわれています。
 松本に入ったブリが塩尻を経て、塩尻峠を越えると松本ブリになって諏訪地方に運ばれました。新潟県の糸魚川のブリは糸魚川ブリと呼ばれ小谷を経て、糸魚川街道を遡り大町や松本に運ばれました。松本は飛騨ブリと糸魚川ブリの集まるところでもあったのです。これらのブリは内臓を抜いた状態で塩をふり込み輸送されますが、松本の暮れの市に着くころにはうまい具合に塩が沁みこんでおいしく頂けるといいます。これはブリのうまみ成分のヒスチジンやトリメチルアミンオキサイドが変化しないようにするための処置です。
 ブリは名が変わることから出世魚として尊ばれた魚ですが、関東ではワカシ、イナダ、ワラサ、ブリと変わり、関西ではツバス、ハマチ、メジロ、ブリと変わります。 現在では養殖技術が発達して一年中食べられますが、天然ブリは「寒ブリ」と呼ばれ12月から2月にかけての厳寒期が旬で、一番脂が乗る時期でもあります。いま、ブリの呼び名で関東地方で関西風にハマチと呼ぶと養殖ブリの俗称になるといいます。
 今年の富山の鰤はどうでしょうか。富山県では今冬不漁の日が続き、暮れの市を控えて販売する人たちは価格を抑えようと懸命でしたが、ここにきて氷見市の氷見漁港で28日1220本、29日約800本、二日間の連続大漁で合計2000本以上が水揚げされました。関係者はホッとしているといいます。ブリは夏から秋にかけては北海道周辺ですごし、11 月に入り水温が下がると南下を始めるといいます。海水温が1度上昇しても影響があるといわれていて、今冬は日本海の海水温がなかなか下がらずブリの回遊が遅れたのが原因ともいわれています。

 鮭を年取り魚にする地方は北信、東信地方に多く、信濃川、犀川やその上流となる千曲川沿いの村々で食べられています。かって鮭は信濃川から産卵のために遡上して来ました。明科あたりまで来てサケ漁も行われていました。古くは平安初期に塩引き鮭を献上していたという記録があることも知られています。鮭は全部食べられ、栄えるに通じる、すぐ大きくなるという縁起を担ぎ、年取り魚として利用されました。暮れには「新巻鮭」がお歳暮の定番でしたが、この新巻は脂肪の減ってきた産卵期の鮭をおいしく食べる方法で、鮭の内臓を抜き塩をふって熟成させた保存食ですが、こうするとタンパク質がアミノ酸に分解して旨み成分が増すといわれています。

 「年取り」がすむ部屋の掃除をしてこたつを囲みます。
 いまではテレビをみながらの年取りが普通で、それが除夜の鐘が聞こえるまで続くのですが、昔はラジオを聴くかこたつでいろいろな話をしたものです。こたつの上にはみかんや干し柿が並び、子どもたちは、かるたや双六、お多福面やひょっとこ面の遊び、トランプや花札も大人に混じってやりました。これらの遊びは普段やらないもので、年取りの晩だけは遅くまで起きていても、しかられることがないので遊びの総動員です。遊びに飽きると正月に使う凧の調子やこまの具合を確かめます。
 11時ごろになると蕎麦を食べます。「年越しそば」「晦日そば」などといわれる蕎麦です。子どもたちもこのころになると疲れてきますが、福が来るという「福茶」を飲んでがんばります。このころから氏神様にお参りに出かける人たちの、下駄の音が聞こえるようになります。
 除夜の鐘の音が聞こえ、「初音」売りのおじさんの「はつねー、はつねはいらんかいー」と吹く初音が聞こえるようになると、もう元旦です。「初音」は竹でできた小さな笛ですがうぐいすの音がでます。元旦にはお金を使ってはいけないといわれていましたが、初音だけは買っても許されました。現在では「初音」売りが廻ってくることはなく、晦日の情緒が大きく損なわれているように思うのは私だけでしょうか。古い年から新しい年へのちょっとの時間に鳴る初音は、新年への期待と希望を込めた音のように感じるのですが・・・。

 この12月25日の市民タイムスに興味深い記事が載っていました。「年越し料理松本の今昔」というもので、150年前(安政期1854-60)の和田・境村の農家の年取り料理を、松本広域調理師会が再現、現代の一般的な家庭の年取り料理と対比させてみせています。
これによると
 「吸い物は」雉、芹、こんにゃく
 「硯ふた(すずりふた)」ごぼう、みかん、えび
 「皿物」 鰤、数の子、茸、豆、氷とうふ、えび、ふき、ゆり
 「雑煮」 人参、牛蒡、昆布、かんぴょう、えび
 「そば」 薬味ねぎ、のり、ふ、ちんぴ
 「餅」 砂糖、黄な粉
 で、このなかの「えび」は諏訪湖で現在も獲れる「川えび」ではないかとしています。これからみると、当時の和田ではご飯を食べずに餅、雑煮、そばを食べていたことがわかります。「吸い物」の「雉」については触れていませんが、「雉」と言っても雉を使っているわけではなく、鶏肉のことを指したものと思われますが、どうでしょうか。教えていただきたいものです。この料理は和田でも裕福な農家(お大尽」の献立と記事は紹介しています。
 現代の料理として
 「三盛」 田作り、切りイカ、だて巻き、寄せ
 「前菜」 数の子、伊勢エビ、昆布巻き、くわい芋、黒豆
 「吸い物」 ハマグリ、タケノコ、板付き、ミツバ
 「茶わん蒸し」 卵、ブリ、ギンナン、板付き、ミツバ、タケノコ、エビ
 「刺し身」 マグロ、イカ、甘エビ、ホタテ、イクラ、つま、ワサビ
 「煮物」 大根、ニンジン、サトイモ、ブリのあら、ゴボウ、ちくわ、こんにゃく
 「焼き物」 ブリ
 「揚げ物」 エビ
 「酢の物」 大根、レンコン、ニンジン、酢ダコ
 「雑煮」 もち、ブリ、キノコ、板付き、三つ葉
 「果物」 柿、クリ、地豆
 「菓子」 まんじゅう、せんべい、もなか
 を紹介しています。
 現代の一般的な家庭の年取り料理としていますが、大家族の家が少なくなったとはいえ、これらを全部つくるとなると大変なことです。まあ、全部できあいを買ってきて盛り付けだけすれば楽ですが、お金もそれだけかかります。これも現代の「お大尽」のやりかたでしょう。
 こうやってみるとやはり現代の料理がいかに多くの食材でつくられているかわかります。150年前の和田の農家では、鰤、えび、数の子、昆布などは購入したものでしょうが、そのほかの食材は自分の家で採れるものばかりです。上伊那の農家も鰤や数の子、田作り以外は自給のものです。現代の人々は山海の珍味を並べ、神様もびっくりするほどの料理を食べていることになります。
 どちらを良しとするか人それぞれですが、自然の恵みと、一年無事に過ごせた感謝の気持ちを晦日の日には持っていたいものです。

 (07/12/30)


 松飾り

 迎えた松を飾ることを「松飾り」といいます。
「松飾り」をする日は27、8日ごろか、大晦日の早朝に行う家が多く、男が飾る役になりました。
男は、「松迎え」で迎えた松を「あしを洗う」とか、「ハカマヲはかせる」とかいって根元のほうを一尺くらい皮を剥き、注連、紙注連、藁5本ほどで穂先のほうを編み垂れ藁、、やすを用意します。「やす」は「おやす」「やすくび」「おわん」「わん」などといわれ、藁を碗状に作ったもので、これらはあらかじめ用意しておきます。
 
 用意がすんだら松を飾ります。
 門松は木戸口(玄関)に立てますが、若松(芯松)で三、五、七段の松を使い、あしを洗った松を、新しい松で皮をむいた杭に結び木戸口の両側に立てます。両側の松のあいだに注連を張り、三段切りの紙注連、垂れ藁を三、五、七の奇数で飾ります。狭い木戸口だと三を、広ければ七というわけで、按配して飾ります。
 一本松で飾る場合は、注連に三段切りの紙注連一枚と三本の垂れ藁を付け、丸くして輪注連にして松の高い段に結び飾り立てます。
 注連縄は左なひ(ひだりない)で、右手を下にしてなふものですが、今年とれた藁をつかいます。これもつくる前日に「せんば」で扱き(こき)で葉鞘をすぐって塩で清め、軽く打って濡れたござに包んで置きます。注連縄をなふ時も身を清めたといいます。ところによっては餅米の長い藁を好んで使うという地区もあり、昔ながらの餅米を作っています。

 「やす」のなかに、洗米、洗米にたつくりをのせる、ご飯などを入れ上げるわけですが、元日の朝だけ、元日から4日の朝まで、また、3日まではご飯、4日から洗米、7日の朝まで洗米など地域によって違います。供えたものも3日まで下げない。6日まで下げずに7日の七草に入れるなどのしきたりを守るところがあります。

 年神様を飾る場所はむかしはは床の間(とこめぇ)に飾る家が多く、天照大御神と豊受大神の掛け軸を飾りその前に飾りました。松を両側に注連を張り、神注連と垂れ藁をして「やす」はつけず、その前に三寳、またはお膳をおき洗米を蒔いて飾ります。両脇にはお餅を上げ、柿、栗、昆布、みかん、お頭附きの魚を置きます。お神酒は神酒すゞに入れてその口に松の枝を指します。ろうそく立ては大根を輪切りにしたものを使います。吊り棚をやくやく床の間に作った家もありましたが、いまはほとんど行われていません。現在では神棚ですませる家が多くなり、神棚や床の前もない家では省略されています。

 年神様に供える餅は「おそなえ」「おかざり」「かがみもち」「ふくで」などといいますが、このお供えの餅は餅搗きのとき一臼目の餅を使うというところが多く、数も神様の数だけ、三、五、七、九、十二飾りつくるなど特別決まってはいません。神様や内飾りの松に合わせた数だけ、お供えをつくったものと思われます。
おそなえは紙を一枚敷き、大小二つを一重(かさ)ねにして上にみかんを載せるところや、昆布、ゆずり葉、串柿などを乗せるところがあります。餅の大小については、同じ大きさでも上が小、下が大といってこれは月、日をかたどったものだといわれています。

 「松飾り」をする場所は玄関、床の前、神棚、のほかに井戸、蚕室、物置、味噌部屋、便所、牛小屋などの端小屋、戸口のあるところには全部飾りました。犬小屋や豚小屋も例外ではありません。そのため注連縄や垂れ藁、やすを沢山つくったものです。仏壇は飾る家と飾らぬ家があり、注連、神注連も飾る家と飾らない家があり、家によってさまざまです。
 この松飾りも禁忌があり、あらみたまの場合は飾らぬ、火事になるから門松は飾らぬなど、また、松の替わりに柳を飾る地区もあり、いまに続いています。

 ある時期、森林を守るといって松を伐ることも、飾ることもしないという申し合わせを行政がした時代がありました。自治体や公民館が紙に印刷した門松を配布するというもので、みなそれに倣ったものですが、いつの間にか元に戻ってしまいました。これなどは古くから続いてきた伝承行事を、新しいお上がさし繰るものでしたが、右に倣えという怖さがありました。一概に松を「伐るな、飾るな、これにしておけ」というお達しが長続きするわけはなく、尻すぼみとなり消えていったのは必然でしょう。今では市販されている門松は竹、梅、南天を配し、根元を櫟や楢で丸め、飾り立てられた豪華な門松が売られていますが、なぜか心に響くものがありません。
 むかしの人は松を上手に利用し、決して山を痛めるような伐り方はしませんでした。松を見て抜きぎりをし枝を払ったものですが、社会の構造も変わり、歳時習俗の伝承がされなくなると、山に入らなくなり、お金さえだせば何でも間に合う世の中になりました。
 年末の歳時は「松」にしろ、「餅」にしろ古き農耕の祭事を色濃く残すもので、稲の民が神に祈った行事です。知識として頭だけで理解するでなく、体を使って注連をなひ、松を飾ることをやられてみたらいかがでしょうか。現在の社会、地域のありようを探るためにも習俗の文化に触れてみていただけたらと思います。

 (12/27)


 餅搗き

 「煤掃き」「松迎え」が済むと一気に正月が近づいてきます。
 「餅搗き」までに「事納め」を済ませた年男たちは餅搗きの準備に入ります。この「事納め」は本来旧暦の12月8日に行われているものですが、この辺では暮れの28日に「事納め」をするところが多く、農家では一年の締めくくりの日で農作業を終える日でもありました。農具のまんのうや鍬をきれいに洗い、牛や馬に手を入れ敷き藁を替えたり小屋をきれいにする日で、これが終わると魔よけといって糠と胡椒(コショウ)を焚きます。
 おんな衆は針仕事で使った針を豆腐やコンニャクに指して仏壇にあげ、線香を焚いて一年間の供養をします。ところによっては産土様や道祖神に「御礼詣り」をする日でもありました。
 南安曇郡(安曇野市)の村では「お八日」(おはちんち)といって毎月八日、十八日、二八日に産土様にお詣りするという行事がありますが、この「お八日」も魔よけ、悪病除に関係があるように思えます。
 全国的には「事八日」といわれ、各地で二月と十二月の八日に重きを置いた行事が行われています。二月の八日は「事始め」十二月の八日は「事納め」といい、県下でも上伊那や諏訪では「おことようか」「さんよりおくり」下伊那では「ことのかみ」「むじつこう」と呼ばれ、餅を搗いたりヌルデの木の刀や餅を道祖神に供えるとか、紙旗やさしもの神輿をつくり鉦太鼓を叩いて村境いまで送ったといいます。

 「餅搗き」はこの「事納め」と一緒に行われることが多くなりました。
 南安曇の村々では暮れの25日ころから(穂高町)27日ころ(小倉)30日ころ(梓)と地域によって違いますが、おおむね28日から31日のあいだに搗かれるようです。餅を搗く日については、28日は開くので縁起が良い。29日は苦餅(くもち)といってこの日に搗くと一年中くよくよするから縁起が悪い。6と9のつく日は搗かない。7にあたる日も搗かないなど縁起を担いで行われています。
 塩尻市では、28日か30日に搗く家が多く、29日は苦が重なるといって搗かないということですが、片丘では28日か30日に搗く家が多く、忌まれている29日も二九餅(ふくもち)といって好んで搗く家もあるそうで、おもしろいことです。
 奈良井では25日から30日で29日は搗かない、平沢では28日か30日で一夜餅と苦餅は搗かない、贄川では25日から28日ころまでに搗き、28日は「八」がつくから好まれ、29日は苦餅だから嫌われたといいます。川入の羽渕では26日から30日のあいだに搗き、29日は搗かないといいます。

 餅を搗くしきたりについても各地で違います。南安曇郡と塩尻(旧塩尻町町区))では次のように行われています。
餅米については。
 二日前・前日に洗って蒸すまで水に浸しておく。(梓)
用意は。
 すべて主人、主婦がする。(穂高全域・高家・明盛・温・小倉・梓・安曇・塩尻)
 特別決まっていない。
餅搗きの臼の下は。
 昔はあらごもを敷いたが今は略して臼の下、周りに十文字に藁を敷く。(温・塩尻)
 臼の下に藁を敷く。(片丘・塩尻)
  この藁を敷くというのは笑々(わらわら)といってお祝いの餅には必ず敷き、不幸の時の餅には敷かぬといいます。
搗き手は。
 主人か役男。(穂高町・西穂高・豊科・高家・明盛・梓・塩尻)
 あらみたまのあるときは主人は搗かぬ。(西穂高)
 小さい杵を使い三人でもやい搗きをする。(有明)
手返しは。
 でんげえしは若いもの。(穂高町)
 両親のある女。(豊科町)
 おんな衆。(明盛)
 主婦。(有明・塩尻)
 祖母。(南穂高・高家・梓・塩尻)の仕事である。
  手返しは必ず上下へ。(西穂高)
時間は。
 早いほど良いといって一番鶏が鳴くと搗きだし夜明け前に三臼か五臼搗く。(穂高町)
 未明から搗きだして午前中に終わるようにする。
 一日中搗く。(西穂高・塩尻)
 すべて祝いの餅は午前中に終わるようにする。(西穂高)などなど、餅搗きといっても大変なもので、繋がりのある狭い平らでもこれだけの違いがあります。南安曇と塩尻だけですが、ここに松本や北安曇を加えたらもっとあるでしょう。塩尻では朝から主人が用意し、臼の下に藁を敷いて、主人か長男が搗き、手返しは主婦か祖母で一日かかるというのが、塩尻の餅搗きのようです。

搗く数と種類は。
 月の数だけ搗く。旧暦で平年は12臼、閏年で13臼搗く(穂高町・西穂高)
 いく臼といわず、正月中食べられるだけ搗く(温・塩尻)
 節季餅に半臼は忌む(西穂高)
餅搗きの時の朝食は。
 一臼目(有明・西穂高)
 三臼目(有明・南穂高・穂高町・明盛)
 きまりはなく朝食の時期の臼で(穂高町・高家・明盛・温・小倉・塩尻)
 朝食は餅搗き祝いといって汁粉餅かお雑煮、手餅(丸くちぎって餡をつけたもの)をこしらえる(穂高町・高家・明盛・温・小倉・塩尻)
餅の形は(種類)平らにのしたものと蒲鉾形があるが。
 蒲鉾形は、硬餅(こわもち)と(梓・塩尻)豆餅(西穂高・高家・梓・塩尻)に限る。
 節季餅(歳の暮れに搗く餅)には硬餅を搗かぬ家がある(南穂高)
(南安曇郡郷土調査業書 昭和10年発行に一部改編・加筆)

 私の家では、臼の数はおおがない(大家内・七人))でしたがいつもは五臼でした。たまに7臼のときもありました。餅はのし板の上で延しますが、広がった餅をおく場所が要ります。この用意も大変で、少し硬くなるまで置かないとどうにもなりませんから、母や祖母は大変だったと思います。蒲鉾形の豆餅、青海苔餅も作りました。餅米と粳米を半々にした硬餅もありました。これらは今でいうおやつになったものです。
 父も「餅搗きの日が「煤掃き」「松迎え」と重なってしまうときには、長男である私に「煤掃き」「松迎え」をさせました。松を迎え担いで家に帰ると温かいお餅が待っていてうれしかったものです。
 朝食や昼食は手餅で餡やごま、きなこで食べたり雑煮で頂きました。父と交替で搗くときもありましたが、家の杵は大きく持ち上げると重くてふらふらとして、手返しをする母や祖母に怖がられたものです。疲れると下の弟たちも搗きました。
 母や祖母は安曇から嫁いできましたから、餅搗きや一年の年中行事も安曇のしきたりを色濃く伝えてくれました。母の父、祖母の兄も私たちの家を幾度も訪れ、私たちも母や祖母の家を訪ねたとき、安曇野の暮らしを伝えてくれる人でしたが、もう少し聞きたいと思うころには逝ってしまい、寂しい思いです。
 世の中というのはおかしなもので、ものが豊かになっても人の心が満たされるというものではなく、歳を取るほどに妙に心に残ることがあります。むらに住んだ母の父やその兄弟、祖母の兄弟が日々の暮らしのなかでしつけられ、うけつがれたものを、祖母や母や父が受け継ぎ、私たちに継いだのに、私たちが次の世代に伝えていけるか、難しい時代になってしまいました。
 むかしを振り返り、懐かしむだけではすまないものがありますが、しきたりや約束事のなかに、いまに通じる心や知恵がたくさんありました。記憶がしっかりしているうちに少しずつ伝えたいと思っています。

 (07/12/26)


松迎え

 12月の暮れも押しせまると松迎えになります。
 田んぼや畑の始末も済み「冬至」も終わり「煤掃き」が済むと、松迎えの日が近づいてきます。お正月はもう目の前ですが、正月を迎える行事「松迎え」があります。

「松迎え」というのは正月の「松飾り」に使う松を山から迎える(伐ってくる)ことなのですが、ただ伐ってくるのではなく、こまかなしきたりがあります。
 町の家々では歳の市で用意すればなんのこともありませんが、村々の人は山に入って松を伐ります。これを「松迎え」「お松迎え」「若松迎え」「お松伐り」「若松伐り」などといいます。
 「お」とか「迎え」のつくように、松は正月行事に欠かせないもので、「おまっつさま」と呼ばれ、松と一緒に正月がやってくると考えられていました。このため山に入る日もいつでもいいというわけにはいきませんでした。
 松を迎えにいく日について、昔は干支(えと)や星によって日を選んだといいますが、古いしきたりを守っているところでは12月13日に行うという家が多く、この日はまた煤掃いの日でもあるのですが、13日なら日を見る必要がなかったといいますから、この日が松迎えの日だったと思われます。
 現在では13日のほかに25日、28日、30日に迎えるという家が多くなりましたが、決まっていないというところもあります。塩尻では28日ころに行うところが多くみられます。
 松迎えにいってはいけない日として、12月29日の「苦松」30日は「一夜松」31日の「日切松」などと呼ばれ、この日にいくことは忌(いや)まれていました。29日は9を苦、30日は一夜限りの松、31日は日切れの松というわけですが一夜松と呼ぶところもあります。また、30日に迎えるところもあります。このようにまちまちなのは旧暦と新暦が混在していて、旧か新か日が正しく伝えられなかったこともあります。旧暦だと12月30日が存在しない年もあります。
 松を迎えに行く人は家の主人(家長)か、相続する人(長男)が迎えるということで誰でもいいというわけではなかったということです。

 松はいまのような枝松ではなく若松で、若松というのは幹から伐るものを指します。若松の三かい、五かい、七かいの奇数のかいが好まれ、八かいの松を伐りだしてくる人もありました。持山ならいざ知らず他人の山から伐りだしてくるために、持主との故障が多く枝松でなければならぬというお触れがでたり、決まりができました。
 このため、若松を家に迎えるしきたりも薄れ、松を根元から先まで縄で巻き立て運ぶ方法や、松の腰伸ばしのやりかた、迎えた松は土に付けず、頭は北に向けず、明けのかた(その年の年神様のつかさどる方角)に向けて置く、立ててからは倒してはならぬなど、地区地区で続いたしきたりが忘れられていくことになりました。
 現在は枝松で行うところが多くなりましたが、それも歳の市でという人が増えています。昔の通り山へ迎えに行く風習が残っているのは、町から離れた村落などで昔ながらの松迎えが続けられています。
 塩尻市の片丘では昔は13日、現在では28日ころから迎えるのが一般的で、31日に迎えすぐ飾るというところもあり、三段、五段、七段と奇数段を迎えるといいいます。片丘と同じく塩尻の東の地区では階といわず段が使われ、三段の枝松が主流になりました。
 同じ塩尻市でも楢川の川入の村落の羽渕では15日に、萱ヶ平では27、28日ころ、番所では31日に松迎えをして31日の朝飾るといいます。
 宿場の風情を残した奈良井はどうでしょうか。奈良井では日や方角は決まっていないといい、12月の10日過ぎころから採ってくるそうで、「おおまつさま」と呼ばれ、三階か五階の芯松を使うといいます。この松は30日に立てられ31日には立てないということです。
 平沢では28日から30日ころまでに迎え、贄川では28日ころ飾るのでそれより前に、明きの方角(その年の年神様のつかさどる方角)から三あるいは五階の松を迎えるということです。

 松を飾るのは早いところで28日ころ、遅いところで31日となりますが、それまで松は薪の上や菰(こも)の上の清浄なところに置き、洗米と塩、たつくりを入れて供えたといいます。松は年神様が宿る木として大切にされました。
 松ではなく「柳」を迎えるというところが塩尻市の小曽部にあります。祝地(ほうじ)の村落の一部ですが、松の葉で目を突いたことから、同姓の家々で柳を迎える決まりになりいまも続いています。また、片丘でも柳を迎えるところがあります。

(07/12/24)


煤掃き

 煤掃きは「煤払い」「煤節句」ともいわれ新年を迎える行事として行われました。正月を迎える最初の行事がこの「煤掃き」です。
昔は勝手場に神棚があり、かまどや囲炉裏の煤がたまったものですが、現在ではかまどや囲炉裏がなくなり、それにつれ煤を払う行事も見られなくなりました。
旧暦の12月13日、14日に行われていましたが、いまでは日は一定せず、12月の大安の日に行うというところもあります。このようになったのは住環境の変化によるものが大きく、煤が出るようなことがなくなり、年に1−2回春と秋の大掃除ですませてしまうことが多く、また、神棚を置かない家も増え、本来の年神様を迎えるための行事が忘れられてしまったことがあります。
 新しい神札(おふだ)がくると古いおふだと変えて、五穀豊穣を願って神棚や甕や荒神、仏壇などを煤掃いした宗教色の濃い行事でしたが、今ではお寺とか神社、お城などで行う行事として報じられています。善光寺と松本城の煤払いは、毎年12月28日に行われます。
 
 煤掃きには竿の先に青い竹の葉や、笹の葉を付けた箒で煤を払います。いまでいう竹箒ですが煤やクモの巣などを払います。この煤掃いの終えた夜は「よごれ年」といってスルメやサンマ、鰤などで年を取ったといいます。また、「奉公人の年取り」「作男の年取り」ともいわれていました。これは雇用契約をしなおす日、奉公人の出替(奉公人の交替)の日でもあり、当時、南安曇郡の村や明科町、東筑摩郡の生坂村で行われていたといいます。
 塩尻市奈良井ではちょっと変わった煤掃いがおこなわれています。13日ころから随時都合の良いときに朝早く表の道で畳を叩くといいますが、なにやら大掃除に似ています。

 一般の家と同様に産土様の煤掃きも行われました。
「産土様」というのは自分が生まれた土地の神様で、氏神様になりますが、この「産土様」の煤掃きを神官と氏子総代、耕地総代などが行います。神殿を清め、七五三を張り、松を飾り燈明をあげるのは氏子総代、耕地総代で、神官は神酒を供え、祝詞をあげます。
 この産土様の煤掃きは「大祓」といい、阿禮神社では12月28日に行われています。全建造物の屋根、境内を清掃し榊を飾ります。これに先立って12月10日には「大麻・神符頒布祭」があり、伊勢神神符、阿礼社神符、荒神様神符、秋葉神社神符を氏子尊崇家への総代受取があり、総代が氏子家庭を訪問、頒布しますが頒布完了まで一週間ほどかかるといわれています。なかでも阿礼社神符は氏神様のおふだで、家内安全、家内息災、招福繁栄を込めた最も身近なおふだです。
 塩尻市の町区では阿禮神社が産土様で氏神になるため、大麻や神符を頂いたあと煤掃きをして神棚に納めるというのが一般的で、このため12月の20日前後に行う家が多いということになります。新しい神符を頂くということは、年神様を迎えるということですから、煤掃きをして清浄なところへお越し願うということであるわけです。
 この日変えた古いおふだ(神札・神符)や煤掃きで使った笹は、三九郎の日までとりおいて焼いてもらうことになります。

 (07/12/23)


冬至かぼちゃ

 一年で最も昼の時間が短くなる「冬至」が近づいてきました。最も太陽が南寄りになるこの日は、各地にいろいろな風習や言い伝えを残しています。
 日の短いことを太陽の力が衰えると思い、火を焚いて日の神を呼び戻す祭祀や、身の穢れを洗い清めるために「ユズ湯」に入り、からだの悪いものを払ってくれるコンニャクを食べたあと、かぼちゃを食べる風習があります。
 日本だけでなく西洋でも、火を焚いて太陽の復活を願った土着の行事が、後に宗教指導者らによってキリストの誕生を祝う日とされ、クリスマスとなったといわれています。

 冬至の習俗
 風習や言い伝えは伝えられていくものなのですが、自然と最も触れ合う農家でさえ昔からの習慣が廃れ、伝承されることが少なくなってきました。
おもしろい話があります。「冬至」には「冬至の神様」がいて、この神様は麦が好きなのですが、犬が嫌いで戌の日がくるとどことなく去ってしまうことから、冬至の日から数えて戌の日が早くこないと麦をたんと(沢山)食べられてしまい、冬至の日から数えて次の戌の日が早くくると米は豊作、早くこないと凶作になるという諺がありました。(温村や豊科・現、安曇野市) 今年は冬至のあとの戌の日は30日ですから、8日ということになり早くこないということで、「冬至の神様」に麦をたんと食べられて来年は不作と言うことになります。
 冬至10日を越すならば、牛馬売って殻を求めろ。
 早く去ってしまうと米作がよく、長ければ米作がわるい。
 11日居れば食べ残すといって米作がいい。といわれました。
昔は田に麦を作って春収穫し、麦の殻(から)を田に鋤きこみ肥料にしたことから、こんないいつたえや諺が生まれたものでしょう。麦のできが米の作柄を左右した時代です。

 また、南安曇地方では、茄子の木(枯れた茎)、胡椒、糠、豆がらなどをかぼちゃを食べる前に木戸口で焚く風習がありました。これも太陽の力を受けて育った夏野菜や豆の稈を焚くことによって衰えた太陽を暖め、日の神様に元気になってもらうための儀式だといわれています。これを焚くのはあまり冬が厳しくならないよう凍みないように、病気(風邪・中風・厄病)の魔除けや、鼠が家に入らない、作物がよくとれるようにとのまじないであったといわれていますが、行う家庭は少なくなりました。 茄子の枯れた枝と豆がらを使い、囲炉裏でかぼちゃを煮てたべると中気にかからぬといわれ、煮たかぼちゃは恵比寿大黒(田の神様)神棚、佛壇(ののさま・のんのさま)、床前(とこめ)の四ヶ所に供えてから食べるなど、約束ごとが残っているところもあります。こんにゃくを食べることも私の祖母が生まれた高家村(現、安曇野市高家)では、食べるとお金に困らないから食べろといわれたそうです。
 
 かぼちゃは畑にあるときから大体のめぼしをつけておきます。つる上げするときに一番良いものを冬至に食べるかぼちゃとして別にして置きます。昔は一代交配(F1)のかぼちゃがなかったため、種子は栽培した中から良いものを選んで来年用に採りおきしたものですが、冬至かぼちゃから種子は採らないというのがきまりで、採ると実が落ちるといういいつたえがありました。
 この辺ではかぼちゃと小豆、小麦粉を団子状にしたものを食べます。これは「かぼちゃだんご」とか、「すすりだんご」「いとこ煮」(大北・大町北安曇)といっています。
 作り方は 
 かぼちゃを煮る。
 別な鍋で小豆を一晩水に浸してやわらかくゆでる。
 かぼちゃが煮えたら、小豆の煮えたものをつぶして入れる。
 ボールのなかで小麦粉をぬるま湯でこね、ちぎって団子状にしてかぼちゃの鍋に入れかきまわして出来上がりです。
私の家では冬至の夜食べましたが、前の晩に煮ておいて冬至の朝食べるというところもあります。昼に食べるというところもあります。どちらにしてもかぼちゃはすぐ煮えますからそんなに手間のかかるものではありません。ただ、刃の薄い包丁などは硬いかぼちゃには手を焼きます。刃こぼれしたり滑って怪我をしますから、かぼちゃを切るときは出刃包丁などの厚い刃を持つもので切ることをおすすめします。また小麦粉の団子を入れずに粥仕立てにすると、かぼちゃや小豆の程よい味が効いておいしくいただけます。
 かぼちゃは冬至の日を境に食べるものではなく、冬至を過ぎてから食べていたり、かぼちゃを年越しさせると、病気になる、中気になる、火事になる、頭が禿げるとかいわれ、貯蔵するものではないようです。これはかぼちゃは戸外で貯蔵するにも寒さに弱く、室温ではなかから腐ってくるのが早いために、冬至の日を最後の利用の場としたのでしょう。
 かぼちゃは食物繊維が豊富で、βカロチンやビタミン類などを多く含み、タンパク質や脂肪にも富み、カロリーの高い栄養価の高い緑黄色野菜です。一年間忙しく立ち働いた体をいたわり、体力を甦らせてくれるものとして、この時期にかぼちゃを食べることを考えたというのは理にかなっていることになります。

 カボチャの種
 カボチャはウリ科カボチャ属で、基本的な三種、セイヨウカボチャ、カボチャ、ペポカボチャがありますが、わが国への渡来はトウナスと呼ばれる C.moschata Duch. が、カボチャとして最も古いといわれています。カボチャの伝来については『大和本草』では慶長、元和年中(1596-1683)で、スイカより早く渡来し、種子が植えられたのは京都で延宝、天和年中(1676-1683)だということですが、他の書物によれば天文年中(1532-1554)に豊後の国に始めて来船した西洋人が種子を持ち込んだのが最初といわれています。このカボチャはセイヨウカボチャ(C.maxima Duch.)に対しニホンカボチャと呼ばれています。種名のmoschata (モスカータ)は、麝香に似た香りがあるという意味で、漢名は南瓜が慣用さています。原産地は諸説ありますが、中米、南米北部といわれています。
 セイヨウカボチャは C.maxima Duch.で種名のマクシマは最も大きいの意で、原産地は中南米といわれています。ペポカボチャは、C.pepo L.で一名ナタウリと呼ばれ、種名のペポはウリ状の果という意味で、原産地はメキシコ北部、北米西部であるといわれています。
 主に食用とするのはセイヨウカボチャやカボチャで、ペポカボチャは未熟果を食用や家畜の飼料、鑑賞用として利用しています。

 カボチャの品種
 冬至にはカボチャとセイヨウカボチャのどちらを食べますか。
 カボチャと一般に呼ばれているのは、果実が平べったくて(扁球)、表面はでこぼこ、不ぞろいな縦の隆起(溝)があり、果梗が果実と接する部分の座が広いニホンカボチャと呼ばれるもので、食用として改良された品種が多く、その系統に六つの型があります。菊座南瓜型(東京都原産)三毛門南瓜型(福岡県原産)居木橋南瓜型(東京都原産)岡山南瓜型(岡山県原産)見付南瓜型(静岡県原産)西京南瓜型(京都府原産)で、それぞれ特徴のある品種が作り出され、地方品種として栽培されています。
 このニホンカボチャは150品種近くあるといわれ、品種が多いため同名異種、異種同名のものがあることでも知られています。変わった形(ヒョウタン形)で有名な「鹿ケ谷」は京都の伝統野菜で西京南瓜型です。

 セイヨウカボチャは、ニホンカボチャに比べやや球形、隆起(溝)は目立ちません。でんぷん質で糖分が多く、甘味がニホンカボチャより強く、貯蔵が効き、包丁が入りやすく、調理する時も短時間で煮えるため最近人気が出てきました。飴やお菓子の原料などにも使われ「みやこ」「大浜みやこ」「えびす」「ぼっちゃん」「雪化粧」「東京かぼちゃ」「黒皮甘栗」など、加熱すると栗のようなホクホク感があるため「栗かぼちゃ」と総称されることもあります。岐阜県高山市丹生川町の「すくなかぼちゃ」も地場品種として知られています。このように品種の多いことで消費者の嗜好がセイヨウカボチャに向っていることがわかります。またハロウィンに使われる大型かぼちゃもこの系統です。

 ペポカボチャは繊維質が多く甘みが少ないので食用としての利用は少なく、形がユニークで変化に富むため、ハロウィンの飾りつけなどに利用されています。ソウメンカボチャ(いとかぼちゃ)として有名な「金糸瓜」や「錦糸瓜」と呼ばれる品種は茹でて、冷水で果肉をほぐすと色が黄色のソウメンのようになり、それを三杯酢や麺つゆ、洋風のあえものなどにして食べます。にしき(錦)カボチャはリンゴ大で非常に小型で、品質は良くありませんが肉詰め料理に使われます。これらのほかズッキーニ、スキャロープなどもペポカボチャのなかまです。

 かぼちゃの栽培は比較的簡単で作りやすいものです。病虫害の発生も少なく、耐暑性もあり乾燥にも強く畑の隅でも充分育ちます。出荷する農家では適心や整枝をしてつくりますが、家庭菜園などで収量を気にしないのなら放任しても心配はありません。かぼちゃは雌雄異株で自然状態では虫媒により受粉します。最近のようにチョウやハチが少なくなると落果が多くなりますが、人工交配をしてやれば着果が良くなります。雄花の花弁をとり、果梗と雄蕊だけにして葯(やく)を雌花の柱頭にこすり付けます。あとは雨にかからぬよう花弁を楊枝くらいの枝で閉じるか、葉を引き寄せてかぶせるようにしておきます。交配させるには同じ株より違う株から 採った雄花のほうが適しています。品種の違うかぼちゃを並べてつくるのも良い手です。
 かぼちゃは交雑しやすく、おいしいかぼちゃと思って種子を採って作ったら、まずかったということが良く起こります。特に一代交配のかぼちゃは先祖がえりをするので一代交配(f1)の品種は毎年新しい種子を買うことを薦めます。現在は品種固有の特性を維持した種子が安く手に入りますから、採種することが少なくなりました。
 かぼちゃは肥料を好みますが、窒素系の肥料は少なくし、燐酸、加里を多くします。肥料袋の成分を確認して10-15-15くらいのものをつかいましょう。窒素が多くなるとつるや葉ばかりが茂って落果が多くなります。
 かぼちゃの生産で、ふるさと塩尻市で市場から高い評価を得ている「栗かぼちゃ」があります。JA塩尻市では産地化しようと平成16年から取組を始めています。13年から栽培試験を行い、16年度、栽培面積は130a 栽培戸数は25戸となりましたが、市場の需要1万ケースに対し2千ケースの出荷で希望に応えられない状況といいます。19年現在では1220ケースと減少していますが、片丘、広丘地域の農家で栽培され、若干栽培戸数も増減しているとのことですが、長野、東北、北海道は昔からセイヨウカボチャの産地ですから、郷土の野菜として、塩尻市の農協の取り組みを応援したいものです。県下では小諸市で平成11年度から「ゆきこ南瓜」の生産を始め、拡大を目指しています。

 夏の輝くような陽を受けて育ったかぼちゃを、冬至の日にいただく習慣は、食べれば病気にならない、中気にならないといわれて続いてきた食の文化ともいえるものです。健康であるために、また楽しく食べるために工夫をしてきました。伝えられ習い覚えた習慣を次代にまた、語り伝えるために冬至の日にはかぼちゃを食べてみませんか。私の家では二つのかぼちゃで「かぼちゃだんご」をつくります。「ぼっちゃん」かぼちゃですが、今年最後のかぼちゃ料理になります。

(07/12/18)


阿禮神社のまつり唄
 
 阿禮神社の「まつり囃子」を練習する音曲が聞こえるようになりました。
阿礼神社のお祭りでは「本囃子」と、若い衆が舞台を曳きながら唄う「雑囃子」があります。この「雑囃子」に『里謡』と呼ばれる唄が多く、各地区の舞台で面白く唄われています。また明治年間に唄われた今でいう流行歌が、舞台を曳航する景気づけに雑囃子の音曲とともに唄われていました。
「奴さん」「ハイカラ節」などが代表でしたが、昭和35年ころまで正確に唄われた唄も昭和の時代が遠くなるにつれ、最近はほとんど聞くことが少なくなりました。
 「奴さん」「ハイカラ節」は明治41,2年ころ全国を風靡した唄ですが、宮本の舞台、室町の舞台などで今でも若い衆に唄い継がれています。特に「ハイカラ節」は曲のノリがよく、宮本の若い衆には好まれた唄です。

 曳航の際、停止した舞台を動かすには「さいはらい」を振る指揮役とお囃子が合っていないとうまくいきません。
 「あれわーいさんのうえーい」または「あーれはさんのうえー」の掛け声とともに、曳き子は引き綱を握り舞台を曳く準備体制に入ります。「あら、てぃこしょ」の掛け声で引っ張りだします。 舞台がスムースに動き出しゆるやかな巡航速度になると「ハイカラ節」が飛び出します。

 「ハイカラ節」の歌詞は

 ちりりん、ちりりんと出て来るは、
 自転車乗りの時間借り、
 曲乗り上手と生意気に、
 両手放した洒落男、
 あっちへ行っちゃあぶないよ、
 こっちへ行っちゃあぶないよ、
 あぁ あぶないと言ってる間にそれ落っこちた。

 というものですが、曳き綱を左右に道幅いっぱいに揺らしながら唄います。舞台が停止したときもこの唄を唄ったものです。采配(さいはらい・おんべ)を持った若い衆は左右の脚を上げながら調子をとります。

 しなしな、しなと出て来るは、
 都に名高き御茶ノ水、
 高等女学校のスチューデント、
 腰にはバンドの輝きて、
 右手に持つはテキストブック、
 左(ゆんで)にシルクアンブレラー、
 髪にはバッターフライスホワイトリボン。

 明治の時代に唄われた流行歌(はやり唄)がなぜ舞台の曳航歌として唄われるようになったのか定かではありませんが、これは私の推測ですが、明治・大正時代の若い衆が遊郭や宴席で当時流行した唄を、ノリがいいからと曳航時にも唄ったのが始まりでしょうか。阿禮神社が発行した『延喜式内 阿禮神社』によると、三味線が登場すると芸者が揚げられ「おはやし」に一役買ったということがかかれていますが、祭りに花を添える舞台を、参加した若い衆がより賑やかに斉唱、祭事を盛り上げ、事の成就を願ったとみるべきでしょうか。
 芸者が揚げられたのは大正の初期頃で、各部会(各地区の祭りを司る))で揚げられるようになったといいますから、さぞ賑やかで華やいだものだったと想像できます。若い衆も芸妓の三味線にあわせ高唱したものと思います。この賑やかな空気を伝えるべく、当時の若い衆が昭和の若い衆に口伝えに教えたことでしょう。現に昭和35年ころ、薬やのおいちゃん(上条薬局)が、歌詞を謄写版で刷って配ってくれたことがありましたが、宴席遊びの経験がなく昔の七・七または七・五調の歌詞に覚えがわるかった私は、いいかげんにしておいたのでこれを無くしてしまいました。
 明治初期の「トコトンヤレ節」「ぎっちょんちょん」「よさこい節」「こちゃエ節」などや、明治中期の当時の雑謡を取り込んだ「東雲節」や「奴さん」などを、身振り手振りで教えてもらった覚えがあります。なにしろこの歌詞は笛や太鼓、手持ち鉦によく合うのです。薬やのおいちゃんも亡くなりもう一度教えてもらうこともできず後悔しています。

 いまでも懐かしいこの音曲を聴くと阿禮の祭りの血が騒ぎます。宮本の舞台や室町の舞台ではいまでもかすかに唄われていますが、堀の内の舞台では聞かれません。無理もないことですが時代は平成です。若い衆も平成生まれが多くなりました。流行り唄も最近のものが歌われて年寄りには一抹の淋しさがありますが、これはこれでしかたがないことでしょう。

 今年の祭りは7月7日と8日に行われます。出掛けて「ハイカラ節」を聞いてみませんか。明治・大正の浪漫と響きを感じてみませんか。お薦めは室町の舞台です。
 
(07/07/05)
 


タニシの思い出

 「タニシ」って知っていますか。
 こんなことを聞けばしかられそうですが、いまの子どもたちは知っているのでしょうか。
子どもたちは、春の田植え休みがくるとなんとなくそわそわします。田植えの手伝いもしなければいけないし、遊びたいし、宿題もしなければいけないし、いまも昔も子どもは大変でした。

 畦を塗り、荒くれがおわり、代かき、田植えと急ピッチで作業が進みます。子どもも田植えの戦力ですから、苗運びやお茶の用意で大人の手助けをします。田植えは一 種のお祭りのようなものです。大勢の人たちがお手伝いに来て田んぼの畦でとるお茶や、おこ昼はいろいろな食べ物が出て楽しみでした。ごま塩のおにぎり、きな粉むすび、だいこんのお漬物、塩の丸いかに昆布、身欠きにしんやほたるいかの煮付け、ふきやわらびや筍の煮もの、季節の料理が並びます。忙しいながらの食のご馳走です。
 子どもたちは手伝いの合い間にタニシ(つぶ・つぼ)を探します。植え付け前の線引きした澄んだ田のなかにはタニシがいます。それを採って田植えびくに入れます。

 採ったタニシは一昼夜くらい水につけて泥を吐かせます。きれいになったタニシは味噌汁に入れます。これが以外においしいのです。大きなタニシは子があって口のなかでジャリジャリするので、なるべく小さなタニシを楊枝や箸の先で殻から引っ張り出して食べます。特に秋のタニシの味噌汁は秋ダイコンと相性がよく美味なものです。殻に吸い付き味噌汁を吸ったものです。また、タニシを煮て、中身を出し黒豆と煮付け(砂糖と醤油)たものもよく食べられました。
 タニシはジストマなどの寄生虫がいるのでよく熱を通さないといけません。まあ、よほど度胸のよい人でないと生では食べませんが・・・

 タニシは少なくなりました。その原因は農薬の影響(除草剤)やトラクターによる深耕の影響が大きいといわれています。それと、せんげ(田に水を引く小川)がコンクリート化されたのもいけません。トラクターで秋、水田を起こされると生き残ることが難しくなりました。昔は早春の田起しだけでしたが、続けて二度も耕起されると乾燥に強いタニシでも生きていくことが難しく、今のの水路では生息できないのです。稲刈り後の乾いた水田の足跡のくぼみの中に隠れたり、小川の僅かな溜まりで春を待ったタニシでしたが、除草剤や機械化・省力農業には弱いのです。
 塩尻市には「マルタニシ」と「オオタニシ」が住んでいますが、マルタニシは塩尻市のレッドデータブックでは(EN)絶滅危惧IB類です。これはIA類ほどではないが、近い将来における野生状態での絶滅の危険性が高い種となって、田んぼや小川のどこにでもいたタニシが生息が珍しい部類になってしまいました。溜池にいたちょっと大きいオオタニシは(NT)準絶滅危惧となっています。

 信州ではタニシのことを「つぶ」と呼ぶのは塩尻や安曇地方が多いです。「つぼ」と呼ぶのは南信の下伊那郡の県境、木曽の岐阜県境の村で呼ばれています。

(07/05/10)


凧あげがみられない

 正月から気を付けていたのですが、凧あげをしている子どもたちがみられません。
年々、凧あげをしている子どもが少なくなって今年は一人みただけです。去年は三人、淋しいものです。私の子どものころは学校で、「角凧」の作り方を授業で教えてくれました。横50a、縦70a位の凧です。竹を細く割り、ひごを作り和紙を貼って作りました。雑貨屋さんでも今でいうキットを一揃い売っていましたが、凧糸を買うくらいで全部自作があたりまえでした。糸は裁縫に使う木綿糸だと弱く、売っている凧糸は丈夫だったからです。友だちの凧を絡ませて糸を切るのが面白く、それで蝋を塗ったりして工夫して使いました。凧の緒は新聞紙か、障子を貼り変えたとき出る古い障子紙が緒になりました。これもあげてみて長さを調節します。全体に風のあたる面積が大きく、かつ軽くて丈夫な凧を目指したものです。
 正月前にはみな用意ができ、正月休みを楽しみに待ったものです。
あげる場所は、電線や樹のないたんぼや、校庭がほとんどで、町区だと鎌田屋のたんぼや市長さん(おおしも)のたんぼであげたものです。どんな凧でもすぐあがるかといえばなかなかそうはいかず、難しいものです。
 糸目
まず、糸目の調整があります。これが思いのほか難しく、何回か調整しないとうまくあがりません。コツは凧糸の延長方向が凧の重心より上を通るようにします。そりをつけて、このとき凧の左右のバランスを良くみます。ゆがまず、凧の姿勢がうまく保たれていることが大切です。
 風が重要です。
風がまったくない日に凧あげをする人はいませんが、凧によっては風が強すぎるとかえってあがらないことがあります。この辺では正月ころの風は凧あげにいい風が吹きません。むしろ正月が終わり、天気が冬型に安定し季節風が吹き出す小寒、大寒あたりが凧あげにはいい時です。揚力をつけるために風が強い時は糸目を前に、弱い時は後にずらすなど調整します。
 翼面荷重
風によって凧に生ずる揚力が凧自身の重量を上回るように、作られていないとうまくあがりません。作った凧に合った風が吹いていないと凧はあがらないということです。翼面荷重といいますが、これは次のような式で表されます。
 翼面荷重=凧の表面積(cu)÷ 凧の重量(g)×100 です。
 翼面荷重が大きくなるほど風速が早くないとあがっていきません。つまり強い風が必要というわけです。翼面荷重が小さなほど弱い風であがります。

 凧あげをすると普段余り意識していない風を感じます。風の向きや風速などがわかるようになり面白いものです。冬の季節風は冷たく手も凍えますが、庭などに植えてある樹木などでどちらの方向から吹くかわかります。冬の塩尻(町区あたり)は北西の季節風が多くなります。風速は煙や木の葉、枝のゆれ具合などから判断できます。顔に風を感じ、木の葉や枝がたえず動き、ほこりが舞い上がるくらいの風、毎秒1.6−7.9くらい(風力階級2−4)の風が子どもたちの作る凧には最適な風です。
 凧あげはいろいろなことを子どもにつたえてくれる遊びですが、自作されることも少なくなり、たんぼで子どもたちの声を聞くことが無くなりました。

(07/02/01)


三九郎(さんくろう)の唄

 三九郎は小正月の行事で、子どもたちが楽しみにしていた行事です。

 お正月を飾る松飾りは「内飾り」と「外飾り」があります。この松飾りを下げることを「松送り」といいます。「内飾り」は十五日に、「外飾り」は七日に下げるのが決まりでしたが、最近では三箇日がすぎると下げる家が多くなりました。
 この「松送り」を焼くのが「三九郎」です。塩尻では「三九郎」と呼ばれますが、安曇地方では「せえの神」「どんど焼き」「左義長」などと呼ばれ、明科や四賀辺りでは「おんべ焼き」「どうろくじん」などと呼びました。
 
 昔は七日の晩と、十五日の晩と行なわれたようですが、1950年(昭和25年)頃は、十五日の晩一度になっています。これは松送りする日がまちまちになったことと、七日の松送りを取り置きしておき、正月14日の「若年」(わかどし)を祝い、「物作り」が終わってから一緒にということがあるのでしょう。

 正月十五日の朝は、子どもたちは大忙しです。
お粥を食べてから松飾りを送ります。リヤカーや荷車で各戸を廻り、注連や、やすなど一緒に松飾りを集めます。これを三九郎の小屋に挿しこみ、夜火をつけます。三九郎の小屋は早い地区では12月の暮れ、遅い地区でも三が日があけると作りました。みな、他地区より大きいものを作ろうと、子どもたちは頑張ったもので、泊まれるようにござやわらを敷いた小屋まで作ったものです。町区のしも町(宮本)の三九郎は、薬師堂の西、広瀬のたんぼや増田屋のたんぼがよく使われました。ここからは下条、中条、上条の三九郎小屋がよく見えたものです。他地区の小屋を壊しにゆくということもあり、壊されないよう各地区とも番をすることもありました。
 夜になり、子どもを始めみんなが集まったところで、二十歳前の若い衆のリーダーが火をつけます。
火があがると子どもたちは三九郎の唄をうたいます。

 「さんくろやぁーい 
    くろさんやぁーい
 かかさのべっちょう、なんちょうやいー (なんちょうだぁいー)
 まぁわーり、まわりにけがへえてー
 なかが、ちょっとへぼくんでー  (ちぼくんだぁー とか ちょぼくれて)
 あっというまにとびこんだー
  わぁーい、わぁーい」

又は、
 
 「さんくろやぁーい 
    くろさんやぁーい
 ゆうべうまれたぁー
 かめのこは、とっさのちんぼにくっついてー
 かかさ、なきなき、いしゃよばりー
 いしゃのくすりは、きかなんでー
 たぬきのきんたま、きいたとさー (かかさのべっちょうが きいたとさー)
  わぁーい、わぁーい」

 などと唄いました。子ども達には意味などわかろうはずもなく、青年のお兄さんの後を追いかけるように唄いましたが、なぜか、気恥ずかしかった覚えはあります。覚えているのはこの唄くらいですが、松塩地区では、地区ごとに文句は微妙に違うようです。
 いま、こんな唄を子どもに歌わせたら、親やPTA、青少年育生会とやらの、皆さんに叱られそうですが、教えて一緒に大声で叫びたい気持ちはあります。
 三九郎の唄を歌うことで、ちょっぴり大人の仲間入りが、できたような気分でうれしかったものです。
 
 いまの三九郎は静かで、なんだかおかしいな感じです。元気がありません。しかたなく大人につきあっているような、覚めた感じの子どもが多いように、いつも観ていて思います。大人がやれと言っているから、しかたなくやっているという風にみえます。
なんでも子どもにお膳立てしてやらせる大人も悪いでしょう・・・ね。子どもたちにまかせればいいのに・・・
 小正月の行事も廃れ、伝えていくことの難しさを感じています。

(07/01/08)


清沢先生と作った「屠蘇散」     
          今井公民館講習会


 暮れも押し迫った12月26日、今井公民館の「手づくりお屠蘇を作る会」に参加した。
 講師は清沢由之先生で、以前大町の山岳総合センターの講習会で、何回かお世話になった先生である。
先生はいま、大町山岳博物館嘱託学芸員のお仕事や、松本ナチュラリストクラブの会員として、各地で観察会や生涯学習活動の講座などで活躍されていている。今回は「屠蘇散」を作るというので、楽しみに参加した。

 先生に挨拶し、資料づくりを手伝い、1時半「手づくりお屠蘇を作る会」が始まった。
先生のパワフルでユーモアあふれる講義はいつ聞いても楽しい。何か元気がでてくる。20人位の出席者を前に、まずは「西鶴の諸国咄し」の「大晦日はあわぬ算用」から始まった。次はO・ヘンリーの「桃源郷の短期滞在客」と続き、朝日村の昭和20年頃の年の暮れの「ウサギをじょおる」話など、参加者を師走の慌ただしい空気から引き離し、温かい世界につれ戻す。
 先生は国語を教えていただけに造詣が深い。参加者に読むなら古典をと、万葉集、今昔物語、芭蕉、西鶴の本を薦められた。私も今昔物語など面白いと思っていただけに、わが意を得たりという気持ちになった。

 先生が持ってきた薬草の原料を、薬研(やげん)やで擂りおろす。「屠蘇散」を作る準備に入る。
「屠蘇散」とは、いくつかの薬草を調合してお酒に漬けられるようにしたもの(粉末状にして紙袋に入れてある)で、これを入れた「屠蘇酒」の歴史は古く、中国から伝わったものという。中国の三国時代、華陀という名医が発明したもので、一家に病なく、一村に災いなしといわれるほどの効用があったといわれている。
 日本で「屠蘇酒」を飲む習慣は、平安時代の始め頃、嵯峨天皇が弘仁2年、朝廷行事にとりいれ、それ以後広まったといわれ、「屠蘇酒」の「屠」は邪気を払い、「蘇」はよみがえるという意があるという。
 先生のこんな話を交えながら作業はどんどん進む。
 薬研で擂る人は大変だ。安定していないと疲れる。あまり細かくしないほうがいいようだ。電動のミキサーやミルなどは細かくなりすぎていけないと先生は言う。
今回は、ウイキョウ  セリ科       実
     カンキョウ  ショウガ科     ショウガの根
     キキョウ   キキョウ科     桔梗の根
     ケイヒ    クスノキ科     ニッケイ シナモン 幹や枝の皮
     サイシン   ウマノスズクサ科  ウスバサイシンノの根
     サンショウ  ミカン科      サンショウの果実の皮
     ソウジュツ  キク科       オケラの根(中国産ホソバオケラ)
     チョウジ   フトモモ科     丁字の蕾
     チンピ    ミカン科       ミカンの皮
     ビャクジュツ キク科       オケラの根日本産オケラ?
     ボウフウ   セリ科       浜防風
     ダイオウ   タデ科       中国産 根茎
の12種の薬草で「屠蘇散」をつくるわけである。薬局で販売されているものは、五味、七味、八味、九味といろいろあるようであるが、八味が一番多いという。「今日は十二味でそれだけ長生きできる。今日、きたしょうはいいしょうだでとくべつだ」と先生は言う。。
 擂りおろした十二種を別々にトレーに入れ、それぞれの匂いを嗅ぐ。どれも特有ないい匂いだ。
部屋の中はミックスした匂いで一杯である。全身薬草浴をしている感じである。
嗅いだところで全部を混ぜ合わせ、調合する。ひとり一人に小分けして茶漉しパックに入れ、最後に手づくり屠蘇散の紙袋に入れる。「屠蘇散」の出来上がりである。

 部屋の片付けをして先生のまとめを聞く。
 「屠蘇散」は飲む6−7時間前に日本酒に浸し、味醂か砂糖を好みで加えて、飲むときは若い人から順にというのが習わしだという。今日作ったのは、一合徳利に丁度の量、約5cであるとのことで徳利まで頂く。いたせりつくせりだ。
 最後に「しあわせな年を迎える「屠蘇酒」を飲んで来年も頑張りましょう」と結ばれた。
 先生の奥さんのご好意でお茶とおやき、キノコ汁、お漬物を全員で戴く。別室で用意されていたもので、なんとも嬉しい。お茶はメグスリノキ、おやきは野沢菜、キノコ汁は各種入り、お漬物は野沢菜、セロリーの粕漬け、蕪のお漬物とおなかも一杯だ。

 午後四時終了。メグスリノキのお茶のほのかな匂いを楽しみながら、豊かな気持ちで帰途に着いた。
清沢先生、今井公民館の皆さん、教えていただき、ありがとうございました。今度は自分で作ってみます。

(06/12/27)


お雛さまの飾り方

(下諏訪かめや聴泉閣のひな飾りのようす06/02/19)    
 今日はひな祭りです。「桃の節句」「弥生の節句」ともいわれ、女の子の成長や幸福を家中で祝う行事ですが、この辺では一ヶ月遅れの4月3日に行います。
 御雛さまを飾る日は大安・友引の日がいいといわれ、「早く飾って早くしまう」ものとされていますが、赤い毛氈(もうせん) の雛壇にお雛さまが飾られると、その部屋がなんとなく華やいだ部屋にみえるのが不思議です。どこの家でも床の間の前に飾るのが普通で、飾り付けのときは男の子でもわくわくしたものです。

 お雛さまの飾り方は決まりがあります。あまりにもばらばらだと見てくれの悪いものです。知っていれば損なことはありませんのでお付き合い下さい。
飾る場所が決まったら雛壇を組みたて、毛氈の上にお雛さまを並べていくわけですが、上の段から飾り付けます。

 一番上の段に向かって右側に女雛、左側に男雛、その外側にぼんぼり(雪洞)を置きます。金屏風は後ろに、桃の花のお飾りは男雛と女雛の中央手前に飾ります。

  男雛と女雛の左右については諸説があるようで、どちらが正しいというものでなく、どっちでも良いようです。
 もとは、男雛が向かって右側にいるのが当たり前だったのですが、これは平安京の紫宸殿の天皇、皇后の玉座の位置に基づいているといわれ、天皇の玉座が右側ということでそれに習ったものですが、いつのころか天皇のお姿が始めて新聞に載ったとき、天皇が左にお立ちになったということで、以来関東地方では男雛は左、女雛は右ということになりました。関西特に京都では今でも「向かって右が男性、向かって左が女性」で雛を飾るそうです。
 歌舞伎の上手は右、下手は左、床の間付きの宴会場でも右が上座ということになっていますが男社会の名残りでしょうか。右側に女雛というのは近年の女性の力強さをなんとなく感じさせます。
 まあ、硬く考えず好きなほうで飾りましょう。

二段目は
三人官女を飾ります。
 三人官女は御殿(内裏)でお世話をする人たちなので履物を履いていません。「小袖袴」といって白の小袖と緋色の長袴の官女(三白)です。最近では打掛を着せた(掛付)豪華な官女が多くなりました。
 おはぐろ(鉄漿)の官女(座り姿)で、三宝や嶋台(しまだい)といって松竹梅の飾りのついた台を持っています。を真ん中にして立ち姿の官女を左右に並べます。向って右から長柄の銚子、三方、加えの銚子(正しくは提子)の順に飾ります。
最後にそれぞれの官女の間に紅白の丸い餅が載った高杯(足の長い皿)を置きます。

 おはぐろは平安時代、貴族女子の成人の儀式として定着したといわれています。男性でも平安時代末期には貴族、武士にもおはぐろが広がったようです。 
 そして、江戸時代おはぐろ(鉄漿)は女性の年齢や職業、既婚・未婚などの身分を表す特徴的な化粧でした。鉄漿付式(かねつけしき)は、女性の成人式でした。このとき成年に際して立てる仮の親のことをかねおや(鉄漿親)といいます。男子では元服で烏帽子親【えぼしおや】を立てるといいました。
 つい最近まで結婚式(祝言・しゅうげん)には人を選んで仮の親、かねおや(鉄漿親・(はねおや)安曇野の方言)をつけ、結婚する二人の将来の世話や相談を依頼したものですが、今では仲人(お仲人・なこうど・媒酌人)となりかねおやの習慣もほとんど見ることがありません。

三段目は
五人囃子を飾ります。
 これも順序があって向かって左から「太鼓」、「大鼓または大皮」、「小鼓」、「笛」、「謡」と並べます。
つまり音の大きいものほど左で右にゆくほど小さな音になります。能の囃し方の並び方と同じです。それぞれの道具を間違えないよう持たせて上げましょう。

四段目は
隋臣(ずいじん・ずいしん)と呼ばれる左大臣、右大臣を飾ります。
 ふつうひげの老人が左大臣(向かって右に置く)とされます。左大臣は「一の上〔いちのかみ〕」と呼ばれ官中のことをすべて統領したことから来たもので右大臣より上位です。
右大臣は(向かって左に)置きます。右大臣は左大臣の補佐的役割を果たす官職です。
 左大臣、右大臣はとても上位の官職なのですが、なぜか雛飾りでは弓・背の矢・手持ちの矢などを持っています。そんな格好をする官職でないので隋臣(ずいじん・ずいしん)と呼ばれる衛仕で「武官」の左近衛(おじいさん、四位 の身分)、右近衛(若者、五位の身分)と思ったほうが良いでしょう。背負い矢は、向かって右の肩から先が見えるように飾ります。
 順序は向かって左から右大臣、膳、菱台、菱台、膳、左大臣になります。

五段目は
仕丁(じちょう)を飾ります。
 向かって左から右近の橘、仕丁 (台傘)、仕丁(沓台)、仕丁(立傘)、左近の桜の順序で飾ります。京都御所にある「左近の桜」「右近の橘」を模しているとされていますので、雛壇のほうから見ると左近の桜が向かって右、右近の橘が向かって左となります。間違えないよう飾りましょう。なお、仕丁は京都では、箒・熊手・ちりとりを持つ雛が多いとのことです。

六段目は
お道具類をかざります。
 これは嫁入り道具と言っていいでしょう。
向かって左から箪笥、挟(はさ)み箱)と長持、鏡台、針箱、御殿火鉢、 茶棚と並べるのが一般的なようですが、好きな順序で自由に並べても良いと思います。小さな子どもがいつも遊んでいるものや大事にしているものを飾ってやると喜ぶでしょう。

七段目は
向かって左から駕籠(かご) 、 重箱(じゅうばこ)、 御所車(ごしょぐるま)の順に飾ります。

 七段飾りの飾り方を紹介しましたが、これが正解というものではありません。上の写真の「下諏訪かめや聴泉閣のひな飾りのようす」を見ていただいてもわかるように、飾り方が違いますが、それはそれで良いと思います。要は飾る心ですから思いがあれば順序などは気にしないことです。
 最近ではお雛さまを買うと「お雛さまのの飾り方」のビデオがサービスされるとのことで便利な世の中になりました。「ひな祭り」は女の子の健やかな成長や幸福を願い家中で祝う行事として江戸時代から続いていますが、祖母や母の持ってきたお雛さまを見よう見真似で飾り、「甘酒」を楽しんだ幼き頃が思いだされます。いつの時代でもひな飾りは親の心を伝えてゆくものと思います。

(06/03/03)


冬の子どもの遊び  下駄スケート

 冬の遊びとして「下駄スケート」がありました。
小坂田(おさかだ)の池が凍ると「下駄スケート」を持ってみんなで行ったものです。冬の遊びは雪が積もると「そり」やかまくら、雪合戦、晴れて凍みるとスケートをするのが普通でした。
 スケートは小学校の体育の授業でも行なわれ、毎年2月頃になるとスケート大会が行なわれました。大会の日は先生に引率され「小坂田の池」まで歩いたものです。

「下駄スケート」というのは下駄に鍛冶屋さんに打たせた鉄の刃をつけたものです。当時(1950年・昭和25年)は、いまのような靴スケートがなく、みな下駄スケートでした。
 鍛冶屋さんは当時堀の内に2軒(1軒は同級生の家)下大門に1軒、大津屋さんの近くに1軒、昭和電工の傍に1軒、ありました。農具や牛、馬の蹄鉄などを作っていましたが、スケートの刃はそこに頼めば作って貰うことが出来ました。
 鍛冶屋さんで作るスケートは刃を支えるステー(支柱)が2本のもの、3本のものがありました。当然値段も違うのですが、スピードを求めて、ブレードの支柱の数は二本、から三本になり、それぞれ2本刃(にほんば)3本刃(さんぼんば)などと呼ばれていました。刃の先を丸く曲げたものや真っ直ぐにしたものなどがあり、下駄に刃を止める方法はねじが多かったように思います。

 足と下駄の固定は足袋を履いたうえで真田紐で結びます。結び方は脱げないように下駄の緒と足首をぐらぐらしないよう固定します。ステー(支柱)の隙間などに紐を廻しきつく縛りますが、たいてい少し滑ると緩むので縛り直します。紐はミツワ運道具店などで買って来たものですが、自分で油などを塗り、締めやすく氷がついて凍りつかないよう工夫しました。
刃のメンテナンスも大切でした。エッジを立てるためにやすりで平に削ります。鼻緒が切れると下駄やさんで交換してもらいました。

 スピードを競うのに飽きるとちょっと違った遊び方をしました。
鬼ごっこをしたり、大勢で半纏をつかみ連なって滑ることや、押してもらって距離伸ばしや、リンクを整備する竹ぼうきと氷の塊を使って、アイスホッケーのまねごとなどをして遊びました。

 池や堤がない地区は、田んぼリンクで遊びました。田んぼに水を張り凍らせてリンクにしたものですが、どこでも大勢の子どもで賑わいました。当時の子どもたちは冬でも戸外で遊ぶため、ひびやあかぎれのある子がいっぱいでした。とにかく元気で遊んだものです。

 諏訪、岡谷、蓼科など古くからスケートに取り組んでいた地方からはオリンピックに出場する選手もでました。長野県は北海道と並んでスケート競技が最も盛んな県となりました。
 塩尻でもみどり湖が1952年竣工し、みどり湖にリンクができ体協の皆さんの力もあって盛んになりました。
今年のトリノオリンピックには地元で小沢美夏(上西条・阪南大)さんがショートトラックで出場します。小沢美夏選手は塩尻東小から塩尻中へ進みました。本当に身近な選手です。ソルトレーク五輪では残念ながら出場機会がありませんでしたが、今度は郷土の選手が元気で活躍する姿を見られそうです。みんなで応援しましょう。
 
(06/02/08)


冬の子どもの遊び そりすべり

 私が子どものころ(1950年・昭和25年頃)のお話です。
 冬休みになると誘い合ってそりすべりに行きます。
近所の田んぼの土手や、山沿いの傾斜のあるところが遊び場です。皆それぞれのそりを担いで行きます。
そりは大概父親や、おじいちゃんが作ってくれたものです。滑りやすいようにそれぞれ工夫されていて自慢したものです。ろうそくの蝋を塗ったり、竹を張ったり、油を滲み込ませたり、戸のレールを切ってネジで止めたものもありました。二人乗りのものもありました。サクラの木やクリの木などが主に使われましたが、今考えると手近にあったからだと思います。
 大抵いつもの場所で滑りますが、長い距離を滑りたいときは遠出をします。

 小坂田の「秋葉さま」(あきやさま)の北西斜面は人気でした。
距離が長く100bはあったでしょうか。スピードを競うには傾斜もあって町区、長畝、堀の内などの地区から大勢滑りにきて賑わいました。短いコースもあって低学年の子どもたちでも滑ることができました。そりすべりは下まで滑るとまた、えっちらおっちら登らなければなりません。登る坂も急坂です。小松を掴みながら登り、また下まで滑るの繰り返しです。
途中でそりごと投げ出されたり、乗り手の無いそりが下まで滑っていってしまい、取りに行くのも大変です。
 そりすべりのスタイルは長靴、はんてん、帽子、手袋(軍手)というものでそりの上に敷く布団又は、「さんだわら」は必需品でした。足を伸ばせる長いそりはしっかり足を伸ばし踏ん張ります。短いそりは足を伸ばせませんからどうしても窮屈な姿勢になってしまいます。頭を後ろに重いきりそらしてスタートします。たずなで舵を取ったり、足を使ってスピードの調節をします。度胸のある子はそのまま下まで滑って行きます。
そりだけでなく「さんだわら」のまんま滑ったり、肥料の紙袋を使ったり、ボール紙を見つけて滑ったり、滑りそうなものならなんでも、さまざまなもので試したものです。
 半日くらい滑っているともうびしょ濡れになります。午後3時ころになり風が冷たくなるとだれかれとなく帰り支度を始めます。

 そりすべりは昔の子どもたちにとってスポーツであって、子ども同士の連帯を育むものであり、地区を越え学年を越えた社交場でもありました。大きい子は小さな子の面倒をみ、ルールなどを教えたものです。

 父親、お祖父さんとのふれあいもありました。
そりの出来具合、工夫改良も子どもたちと共有したものです。いまのプラスチック製のそりは素材も、子どもたちとの繋がりも無機質なものです。買ってきて与えればそれでオーケーで、画一的でそりの性能も手を加える必要はありません。昔の子どもが見たら多分、バカにしたでしょう。「そんなもの、よくねーわ」と。
 ひとり一人のそりは自分だけの物であり、大切な物でした。身近な人が思いを込めて作ってくれたものであり、工夫改良したそりだったからです。みんな大事にしていました。
 
(06/01/15)


端午の節句
 最近は5月5日が終わると端午の節句が終わったということで「こいのぼり」などは直ぐかたずけられてしまい、月遅れの6月まで飾る家が少なくなりました。
 初節句のある家では庭にのぼりを立て、家の中に武者人形の飾りをします。
大きなのぼりや吹流し、大小の鯉が五月晴れの空に舞う姿は勇壮なものです。このあたりでは、家の玄関口の軒に束にしたショウブとヨモギをさしましたが、いまはほとんど見かけません。これも新暦の5月に行う事が多くなったためと思います。 もっとも、ショウブやヨモギは新暦の5月ではまだ小さく飾るほど大きくなっていませんから無理もないんですが・・・・。
 ヨモギはどこの土手にもありましたがショウブは探して歩かないと見つかりません。ショウブは菖蒲湯に入れるためにも必要なものです。
お風呂にいれるために私の家では中西条の油やさんに特別に栽培して貰っていました。
「アヤメ」のことを「ショウブ」という人もいますが正しくありません。「ショウブ」はサトイモ科で長い葉を持ち中脈が目立ちます。この辺では6月の終わりから7月、花を咲かせますが肉穂花序と呼ばれるもので目立つ花ではありません。
 「アヤメ」はアヤメ科の植物で葉と同じくらいの花茎を伸ばし、外花被辺の基部に黄色と白の網目状の模様をもつ紫青色の花です。よく生け花などにつかわれます。
「ショウブ」は香気があり、そのため邪気を祓う意味から菖蒲湯に入ることが良しとされたのでしょう。

 カシワモチも子どもたちにとってご馳走でした。カシワの葉で包んだお餅で中にあんこが入っているものです。これも最近ではスーパーなどで売られていますが昔ながらの武骨なカシワモチと違い洗練されたものでなにかしっくりとしません。
 カシワの葉も新暦の5月ではまだ、萌え出たばかりで使えませんから、これも新暦で行うには無理があり家庭で作られなくなった理由でしょう。
お隣りの薬やさんのところに大きな樹があり大事にされていましたが、カシワモチを作るというと気持ちよくわけて戴くことができました。また、カシワの葉を用意できない家では「まんじゅう」が作られ、これもご馳走でした。

端午の節句は子どもにとって普段食べることができないものをたんと(腹いっぱい)食べた楽しい日でした。


春の子どもの遊び その1 摘み草
 昔の子どもはいまの子どものように物に恵まれていなかった。
テレビも無く、ましてやゲーム機やパソコンなど思いもよらぬ時代である。娯楽といえば学校でナトコ映画が巡回してきてアメリカなどの家庭生活を見せられたくらいである。図書館などもなく、おもちゃの類にいたっては現代の比ではない。ラジオも戦争中のもので並四受信機と呼ばれたものであり、それで新諸国物語の「笛吹き童子」や「紅孔雀」を聞くのが唯一の楽しみで、日暮になると「あばなー」といって一目散に帰ったものである。。
そんな時代であっても農村の子どもたちは元気いっぱい自然に溶け込み野山で遊んだ。そんな遊びを記憶を辿り紹介してみたい。

 春になるとまっ先にするのがフキノトウを採ることである。田んぼの土手を駈けずり、フキ味噌にしてもらうために「フキボコ」を採る。大人は春の農作業に忙しくそんなことにかかずろっていられない。
 お彼岸も過ぎるとヨモギとツクシだ。
ヨモギは萌え出たばかりは銀色に光って綺麗だ。土手でさんざ、チガヤの枯れ草で「尻すべり」などをしたあと帰りに採る。草餅にしてくれるのは「おばあさま」のいる家で農作業の留守を守っていて、手のある家でないと難しい。
 女の子は「ツクシンボ」を採る。ツクシは出たばかりのものは硬くて苦いのであるていど茎が伸びてから採る。ツクシは頭があると苦いので頭を取り、はかまもはずしてたば(束)にし、持ち帰り利用する。卵とじや三倍酢にしてもらう。ツクシは酢であえると淡い紅色になるのが不思議だった。
 摘み草はセリやタンポポ、ヨメナ、ノカンゾウなども採る。ノカンゾウは酢みそあえにするとうまい。
 5月の始めになるとワラビ採りだ。
山の日向斜面にワラビが出る。鉄塔のたたっているあたりを狙って登って採る。人より早ければ沢山採れるがなかなか思うようにいかない。日影のものは痩せていてひょろひょろ長い。
 近所に山菜採りの名人がいて時期になると採ったものと商品とを物々交換する人もいた。「やまこ」のおばぁちゃんは山菜採りの名人だったなぁ。キノコ採りも上手だったし。
 田仕事のお茶の煮ものとして身欠きニシンとワラビは相性もよく、それに筍でも入っていれば最高で、ワラビは沢山採ってくるとおばあさまに喜ばれたものである。 ゼンマイもめっけたら一緒に採るがゼンマイは生えている場所が違うし、あとがめんどうなので嫌われる。
 ワラビと同じくらい忙しいのが「たらの芽」採りである。これも人より遅れると二番の芽が伸びるまで待たねばならない。この場所は友達にも親兄弟にも内緒にしておく。
芽の大きいものが沢山採れるとてんぷらや酢みそ、ごまあえなどにしてもらう。
 農作業に忙しい大人に代わって、子どもの遊びが結構暮らし(家計)の役にたった時代であったように思います。