里山を考えます。    

里地・里山の現状を見て考えます。


  イロハモミジを植えました。

 11月14日、「みどり湖一五会」は一時坂の南斜面に「イロハモミジ」を50本植えました。私も会員の一人として参加しました。
みどり湖の一時坂というのは、市の社会福祉センターの北側にある坂道です。いっとき辛抱するだけで越えられる坂という意味で、古くからこう呼ばれています。元は金井地籍でしたが、みどり湖区ができてからは、この名で呼ばれることは少なく、みどり湖区民もほとんどが知らないという地名です。
 昔、歩かれたところの地名は歩く人が少なくなると、だんだん忘れられて味のある名前がなくなっていきます。現在では建物の名で「福祉センターの坂」などと呼ばれていますが味気ないものです。
 この坂の南斜面に「イロハモミジ」を植えようと「みどり湖一五会」が取り組むことになり、今年の春から準備を進めてきました。

 この事業の目的は、まず地域の活性化にあります。
みどり湖区は、みどり湖にもっとも近いところにありながら近年空き家が目立つようになり、自治体の活動も前年度の事業を踏襲するという活動で元気がありません。「みどり湖一五会」は、このような地域の現状を打破したい、みどり湖の自然環境を考え新しい事業で地域の活性化を図れたらと会員が研究してきたものです。
 みどり湖はミズバショウとヘラブナ釣りで塩尻市の観光スポットとして知られていますが、通年のとりくみに欠けている嫌いがありました。春から秋にかけてみんなが楽しめる場所、憩えるところにしたい気持ちがありました。将来的にはみどり湖を取り巻く周辺一帯に「イロハモミジ」を植える計画です。
 
 この事業の実施にあたり、会として塩尻市の「協働のまちづくり提案公募事業」に応募し、審査を経て6月中旬に採択されました。審査会では「なぜ”もみじ”を一面にと樹種にこだわったのか」と選考委員からコメントをいただきました。
 選考委員のいう「”もみじ”」云々の質問は、会が事業名を「みどり湖周辺をもみじ山に染める」としたことからきたものですが、普通広義で「もみじ」というと秋の紅葉のすばらしいものをいうことが多く、カエデやナナカマドやハゼ、ヌルデやツタウルシ、コシアブラなどの樹木や草本なども仲間に入りますが、この質問をした委員は樹種といっていますから、モミジ=カエデのことを指していると考えたのでしょう。会の「もみじ」がとんだ波紋を呼びました。

 「イロハモミジ」はAcer L.カエデ属には入ります。一名「イロハカエデ」とよばれ、山中にごく普通で単にモミジといえばこれを指すことが多いものです。「カエデ」の分布は北半球の温帯に分布することが知られ、日本では20種余りが産します。葉型の変化もさまざまで古くは「万葉集」の頃には「カヘルデ」と歌に詠まれています。観賞用として愛され園芸品種は200種を越えるといわれています。
 「イロハモミジ」の学名はA. palmatum Thunb. var.palmatum で、本州、四国、九州が分布地になります。葉は4〜7cmで小さく、5〜7分裂する円形掌状(手のひら状)になります。これがいろはにほへとと数えたことから名が付けられたともいいます。花は4〜5月に咲き果実はプロペラ状の小さな実を付けます。「タカオカエデ」とも別名で呼ばれ、京都の高雄に多いことからといわれています。
 園芸品種には、紅葉がきれいな「ちしお(千染)」や、覆輪が入る「ひがさやま(日笠山)」点斑や布斑が美しい「こもんにしき(小紋錦)」などがあり人気です。園芸品種は春の発芽や枝垂するものなど葉や枝の繊細さが特徴となるものです。

 会がカエデにこだわったのは、代表的な「イロハモミジ」が湿度の高い環境での生育に適しているからです。みどり湖は「もや」が春や秋になると立つときがあります。湖を覆う「もや」の景観が、「イロハモミジ」の春の芽吹きと秋の紅葉に情緒を与えてくれたらいうことはありません。絵になる風景が現出し、春のサクラの花が年々衰えているだけに、訪れる人が「イロハモミジ」のあるみどり湖を楽しんで貰えたらと考えました。住んでいる身近な環境であるみどり湖の周辺を整備をすることによって、より豊かな環境になる、憩える場所となることを願いました。
 用地の環境も「イロハモミジ」に必要な日照を十分確保できますし、土壌もカエデに適した腐食質壤土で問題はありません。管理にあたっては現場に近いことで、病害虫の発見、発生にすばやく対処することができます。
 カエデの害虫には春から秋にかけてのアブラムシ、ケムシ、ミノムシがいますが、大敵はキクイムシやカミキリムシです。特にカミキリムシは要注意です。山に近いだけに防除を徹底したいことです。病害は黒紋病や白紋羽病が心配されます。
 カエデは適切な管理さえすれば手間のかかる樹木ではないので、5〜6年たてば見事な紅葉を楽しむことができそうで、将来が楽しみです。会員の笑い話ですが「その頃にゃ〜俺たちはいねじぃ〜」がありました。それでも植えようとするのは会員のロマンでしょうか。植えた人たちが楽しむ時間が少なくても次代の人の心に残すことが大切だと思います。
 
 ネックとしては、植栽の用地は現在サクラが植わっていますが、昭和40〜50年代初め(1965〜1976)に植えられたもので手入れがなされずに放置されていたため、テングス病や幹や枝が腐って故損した木もあります。市有地ですが、農林課、観光課、建設課、長寿課などの管理部署が異なり、利用や管理目的がそれぞれ違うという複雑な形態になっています。誰のものでもないサクラ、地域の人も守ろうとしなかったサクラ、要は「みどり湖」周辺を市がどうしたいか、どうするのかの展望を開いてこなかったことが、ここのサクラの衰退に現れています。会ではこの現状から数年前からサクラの寿命が尽きたものを伐採したり、枝の切除、剪定を行っていますが、サクラが接木された園芸品種だけに永く持ちそうにないことが気がかりです。
 今後会として将来にわたって「みどり湖周辺をもみじ山に染める」事業を継続するには資金面が課題です。作業は手弁当でも事業補助の手立てを、市の「協働のまちづくり基金」に頼るばかりでは、基金自体が継続される事業なのか、縮小されるか判らないだけに、今後の課題となりそうです。このことは公募事業の公開審査会に出席してみて、担当する市民活動支援課のお話からも伺えました。今般の経済状況の中、基金の原資である寄付金がなかなか集まらないという状況にあるようです。
 その後、申請した団体全部が申請額と査定結果が同額という結果を知らされ驚かされました。減額された団体はありませんでした。「協働のまちづくり基金」は、市民や企業の寄付から成り立っていますが、公益性のある、まちづくりにつながる事業に市が補助金を交付する審査会にしては余りにも総花的の査定では無いかという印象を持ちました。
 これから来春に向けて、事業報告書の提出と23年の3月には公開報告会が予定されています。「みどり湖一五会」の「みどり湖周辺をもみじ山に染める」事業が、採択された事業となりえたか、自己満足だけの事業でなかったか、他人の目で会として問う、問われることが迫っています。

(2010/11/23)


  ウラジロモミ大樹群をみる

 春のような天気に誘われてウラジロモミの大樹群を見に行きました。
 いままで春になると下西条の山にヒメギフを探しによく行ったのですが、お目当てが違うと他のものが目に入らずどうも駄目ですね。今日はほかのものに目移りしないよう一直線にウラジロモミへと急ぎました。JRの辰野線のレンガ橋を抜け、山の神植物園、たまらずの池を左にどんどん進みます。
 この辺はヤマブキやモミジイチゴが咲くころになると綺麗な林道で好きなところです。

 たまらずの池のところに霧訪山への道標が建っていますが、それを左にみて奥に進みます。ここは林道矢沢線といい、矢沢川沿いにつけられた道です。林道 は徐々に上りとなり、道が大きく左にカーブし矢沢川の源流を跨ぐと、車が10台くらい止めることができる広い場所があります。林道はまだ少し続きますが矢沢川を跨いだ地点ここで車を止めます。地図で確認すると、ここは霧訪山の頂上から北西に下西条側に張り出した一番大きい尾根の末端になります。残念ですがここから霧訪山は見ることはできません。

 広場の南、矢沢川の源流に向かって川沿いに入ります。100bばかり進むと堰堤が見えます。堰提の手前20bほどのところに安曇野2号線NO.33と記された鉄塔巡視路の黄色い標識が建っています。ここで右に折れプラの杭で造られた5段の階段を上ります。ここが入口です。
 見過ごして堰提まで行ってしまっても心配することはありません。堰提の右をまっすぐ登り、すぐ右側のくぼみを登ってもウラジロモミ大樹群に出ることができます。
 入口の周囲はスギの林で、スギに目印の赤テープが巻かれていますから、それを目当てに進むといいでしょう。少し南にトラバース(横切る)気味に進みます。左に赤テープがヒノキやサワラに巻かれ、右に青色のビニールテープが目につくようになると、もう大きなウラジロモミが目に入ります。入口から5分ばかりという近さです。
 
 ここは東向きの斜面で30度を越える傾斜地です。
 付近にはヒノキが植えられウラジロモミの幹には番号がつけられています。その番号を頼りに見て回るのもいいでしょう。一番大きい樹はHと書かれている樹です。この樹を入れて都合Lまで番号がつけられたウラジロモミがあります。ここが下西条の「ウラジロモミ大樹群」ということになります。
 「ウラジロモミ大樹群」
 1.塩尻市指定天然記念物 指定年月日 平成 20/01/18
 2.所在地 塩尻市大字下西条855−5 標高910-920b
 3.胸高幹囲165cm−453cm、樹高20m−39m、13本
 4.樹齢推定約200年。
 というのがこの「ウラジロモミ大樹群」の戸籍になるのでしょうか。
 所在地は、林道矢沢線の途中に県の長野県土砂流出防備保安林の看板に、字西原野山855-5と記されていて外2筆となっていましたが、多分間違っていない林地番だと思います。ちなみに西原野山の標高は1044bと記載されていました。所在地の標高は国土地理院のデータから私が割り出したものです。

 ウラジロモミは、マツ科モミ属で学名はAbies homolepisで、常緑高木です。写真で見る通り幹は直立し、横枝が水平に広がって出るのが特徴です。成木の葉 は平べったくて先が丸まって(凹頭)います。裏面ははっきりとした白色の帯が両側にあります。
 モミとウロジロモミの見分けは、葉だけ見ただけではよく判りません。モミにも白色の帯があるからです。よく、若い枝の無毛なのがウラジロ、モミには毛があるといわれますが、幼木が混じっている場所でもない限り比較して見る事はなかなか困難です。若木ならいざ知らず大木だと手が届かず大変です。そんなときは下を見ましょう。モミ属は種子を抱いた苞鱗片を落とすのでそれを探して見たほうがいいと思います。
 ウラジロモミは苞鱗片が突きでない、モミは突き出ると覚えておいたほうがいいでしょう。現にこの場所にもモミとウロジロモミの大木があり、下にたくさんの鱗片が落ちていて観察にはもってこいの場所です。八ヶ岳などで見られるシラベ(シラビソ)の苞鱗片はわずかに突きでます。アオモリトドマツ(オオシラビソ)は突きでません。

 さて、樹齢推定が約200年といわれているこのウラジロモミ大樹群はいつごろ生まれたのでしょうか。200年前といえば西暦1800年ごろになります。時代は享保から文化・文政の時代に入ります。何でも山焼きの火入れを免れたものだといいますが、当時の村のようすなどからみるとこれは少し疑問に思え ます。このあたりの事情はどうであったのでしょう。
 この下西条字西原野山855-5というところは現在市有林になっていますが、ウラジロモミが生まれた時代以前から里山として利用されてきたところです。里山を入会慣行がある又は入会慣行があったような森林と定義するなら、まさにその里山の場所なのです。
 堀内千満蔵さんの『塩尻地史』は、その中の第拾三條、西山沿革史のなかで、「土地台帳には大字下西条第八百五十五番イ号、ロ号、字西原野山山林反別二百三十九町六反一畝拾歩の土地を西山というのである」として、「東山に対して西山と約昌されている」と書いています。ここの西山にウラジロモミ大樹群の 誕生が始まります。
 堀内さんはここで起こった入会を巡っての山論を詳しく紹介しています。これを簡単にまとめますと
 [元禄14年(1701)に元禄の訴訟が起こります。訴訟方は大門、大小屋、長畝、堀之内、桟敷の五か村と相手方は中西條、下西條二か村です。裁許の詳しいことは省きますが、これ以後、西山を巡って宝永になると下宿(しもしゅく・日野屋と大本の小路下の塩尻宿)と中条、下条との出入があって、宝永4年(1707)に西福寺や長福寺と他の七か村の名主が立入仲裁して示談となりました。
 宝暦6年(1756)になると宝暦の訴訟が起こります。これは宝暦13年(1763)まで続くという大訴訟でした。下條村と入会村六か村が喧嘩沙汰の末、親戚づきあいもしないという状況になり、また中條村が抜け下條村に加担するという状況で、江戸評定所へ廻されるという大変な騒ぎでしたが、宝暦13年裁許となります。この裁許は元禄の裁許を裏書したものといわれ、
 下條中條村は地元に相違ないので勝手次第に山稼ぎを。
 外五か村は、刈敷は五月中二十一日前より、もや木は九月一日より刈取りなどのほか、下宿や塩尻宿の本陣、問屋の入会を五か村同様認めるなどを裁許した。]というものです。

 堀内さんの『塩尻地史』から離れてもう少し当時の入会の様子を探ってみましょう。
 明和八年(1771)三月に中西条村は「筑摩郡中西条村差出明細帳」を提出しますが、その中に西条入野山の入会について書き記しています。反別は二百三十九町八畝歩と『塩尻地史』とわずかに違いますが、下西条村と當村(中西条村)とが山元で何にても勝手仕方に取り候、山の口は両村にて明け申し候、大門村 、大小屋村、堀内村、長畝村、桟敷村五か村は、もや、刈敷ばかり取申し候、塩尻宿問屋八郎左衛門と丸佐衛門両人は、訳御座候にて五か村同様に入会来たり申し候、最も本家壱幹の外は入申し候、塩尻宿下町之儀は十月より翌三月まで毎月壱日より二十一日まで、もや計り歩行而取為馬を入れ不申し候。と細かく記しています。下西条村の宝暦10年(1760)の「明細帳」も訴訟中ということがありますがこれとほとんど同じ内容です。以後下西条村では享和元年(1801)にも明細帳が作成されています。堀の内、長畝、桟敷 大小屋、塩尻町村の各村でも明細帳が伝えられていて、検地帳や新切帳などとともに、このような文書は村にとって公共的なものとして、村の役人に引継がれ管理され、西原野山の入会についても書き記されていきます。もう行政機能としての村が動き始めていました。
 当時の村のようすはどうだったでしょうか。この前後の各村の家数と人数を比較してみることにしましょう。
享保11年(1726)の「塩尻組人数家数書上帳」によると
 大門 58軒281人
 中西条 26軒166人
 下西条 62軒312人
 堀之内 48軒190人
 大小屋 14軒84人
 長畝 25軒169人
 桟敷 55軒219人
 塩尻町 116軒770人
 合計で家数が404軒、人数は2010人となります。これから110年後の
天保7年(1836)の「南4ケ組村高家数人別取調下帳」では
 大門 66軒303人
 中西条 28軒134人
 下西条 76軒371人
 堀之内 50軒230人
 大小屋 21軒91人
 長畝 54軒254人
 桟敷 58軒260人
 塩尻町 173軒816人となります。
 合計で家数が526軒、人数は2459人となります。
 110年の間に家数で122軒、人数は449人増えました。現在から見ると微々たるものですが、当時の情勢などを考えるとこれでも大変な数字です。大百姓と小百姓の階層分化が進んだなかで、この人たち全員が西山に入る権利があったということではありませんが、小百姓として入会の山から肥料とする刈敷や馬屋肥えの採取、秣(まぐさ)などを得ることは生活そのものでありました。
 そのため各村は東山や西山などの入会権に敏感で、生活を守るために権利の侵害には神経を尖らせたのも無理もないことだと思います。宝暦以後は明治になるまで大きな山論は起きずに守られ、西山への山手米は課されることはありませんでした。
 西山は明治維新後官有林に編入されます。長野大林区署の官有地となって入山が厳禁されたため、かえって民有地の山林が草木の採取のため荒れるという現象がおきます。ウラジロモミにはこれが幸いとなりました。明治38年に政府から払下げ通知があり、七区(七か村)と一宿は明治39年払下げを受けます。七区(七か村)と一宿は、立木の売却で費用を引当てしましたが、矢沢の奥は残され入林禁止区域となって保たれることになりました。また、渓水の水より30間は保安林として残されました。その後、市有林となったものですが、現在は長野県土砂流出防備保安林として指定され続いているということになります。
 
 塩尻市はここをどうしようと考えているのでしょうか。現状維持かそれとも手を加え整備して活用するのでしょうか。周りを見るとテープが風にゆれています。保安林ですから整備をするにも大変でしょう。
 活用するならもう少し落葉樹を増やし林を明るくしたいものです。傾斜があるのでこのまま大勢の人が入るとあちこち崩れてしまいそうな感じです。それではと立派な遊歩道なんか造られると興ざめですが。興ざめといえば「あの番号は何とかならなかったねぇ」と地元の人がいっていました。多分指定の時に見い出しのためにマーカーで付けたものと思いますが、番号は消しておいて欲しいものです。
 里山は生活のために必要だったからこそ、出入や訴訟で争い、みんなで利用するためのルールをつくったのですが、過度の収奪を防ぐ狙いもありました。現在は立木価格の下落、薪炭材の減少などで林業に従事する人が少なくなっていますが、このところの景気悪化でまた林業の担い手を希望する人が増えたといいます。里山が必要とされる時代がまたくるのでしょうか。
 春のような陽だまりのなかで、大きなウラジロモミを見ながらいろいろなことを考えてしまいました。 
 
(09/02/19) 


  からたきの峯を登る
 
 塩尻市の環境保全課と塩尻市の自然保護ボランティアが計画した秋の自然観察教室に参加しました。原生林を見に行こう「からたきの峯市民登山」というものです。
15日朝7時、市役所前から市のバスに乗せていただいて登山口まで向かいます。
 今日は「敬老の日」で何か自分に記念になるものを贈ろうと、この催しがあることを知り応募しました。参加者はやはり私くらいの世代の人が圧倒的に多く、また、女性が多かったのにはびっくりでした。それも二十代から六十代までもれなく参加しています。男性陣は五十〜六十代以上のの人たちがほとんどで若い人は市の関係者くらいです。

 萱野の駐車場で開講式をし諸注意を聞いて班編成を行い、自然保護ボランティアの方がリーダーとなって8時05分に歩き始めました。ざっと数えたところ30名くらいの人たちがいます。
 登り口をどこにとるかちょっと心配でしたが、林道のゲートの方に歩き出したので一安心です。ここは歩き始めに電力会社の鉄塔巡視路に入るとショートカットできますが、いきなりの急登でリズムがとりにくいのです。色付きはじめたミズナラやヤマハギ、キリンソウ、オトコエシ、ハハコグサなどの花を見ながら林道を進みます。もうヤマホタルブクロは花が終わっています。林道沿いにはヤマイグチが顔を出しています。50分ほど林道を等高線沿いにだらだらと登ると新池の入口に着きました。私の高度計は1400mを指していました。

 小休止をしてここから新池までカラマツの植林されたなかを登ります。両側はシナノザサが繁っていてジグザグに高度を上げていきます。タニソバやタチツボスミレ、チジミザサ、ツルリンドウなどが目につきます。急な坂道ですが林道歩きが幸いして余り苦しくありません。もう少しで新池というところで突然小休止になりました。楽になったところでの休みは私には不本意なことでした。リーダーの判断のようですが、ここは我慢して歩き続けた方が樂なのですが団体行動の登山になると、私だけ歩くわけにもいかずおとなしく休むことにしました。

 9時36分、小休止から5分ばかりで新池に出ました。標高は1580mです。ここで10分の休憩をとるとのこと。
小さな鳥居があり、傍らに石のお社があります。一緒に登ってきた洗馬小曽部の興龍寺の方丈さんがなにやらやっています。洗馬公民館の若い主事さんが手助けしています。興味があったので方丈さんに聞いてみました。お社の中には「八大龍王神」と「大山住命」「日本総守護大山祗神社守護」が祀られているとのことで、お社の大きさは高さ52aで奥行が32aとのこと、洗馬長崎の荻原亀三郎さんが彫ったものと聞かされました。方丈さんは「年寄だが、からたきの峯にあるという「馬頭観音」を見たくてきょうは来た」とのお話でありました。
 この新池(天池)にはヒツジグサがありますが、以前、林業指導所にいた大木正夫先生と来たときより大分減っています。ミツガシワに押されてこのままでは消滅しそうな状況です。大木先生も当時から心配していましたが現実になりそうです。ミツガシワも種子の化石が漸新世から沖積世にかけて発見される古い植物として有名で、限られた湿地に残存的な分布をすることから、これも塩尻にとって大切な植物なのでどちらも残したいものです。どうするか今後の活動が待たれます。

 新池を9時46分に出ました。お社の後ろから尾根を登ります。でだしからの急坂で休んだ体がこたえるところです。ここが今日一番の登りです。1691mの尾根のピークまで一直線の登りで高度がぐんぐん稼げます。途中1か所展望がきく場所があり、塩尻の市街が見えるところがありますが、ひたすら足元だけを見ながらリョウブやサワフタギの潅木の間を登ります。10時ジャストにピークに出ました。アカマツが立っています。ここで小休止をとり、ここから左に朝日村との村界尾根を辿ります。平坦な道を進み体も樂になりました。サルオガセやナナカマドがちらほら見えるようになると舟窪と呼ばれる1722m峰に出ます。この舟窪は「塩尻市地名地図」にも載っていない地名なのでいつ頃から呼ばれているのかはっきりしませんが地名として付けられたものなのでしょうか。
 この1722m峰からまただんだんと登りとなります。植生もブナーチマキザサ群集と呼ばれるものに変わっていきます。ブナが現れ、ミズナラやウダイカンバ、ウラジロモミがみられ、ドウダンツツジなども現れます。林床はシナノザサが繁っています。ここからからたきの峯までは注意して観察することをおすすめします。ダケカンバやトウヒ、コメツガなどのコメツガ群集と呼ばれる植生と入り混じった景観です。だらだら登りが思ったよりきつく感じられる頃ですが足元ばかりみていないで周囲を観察することも必要です。最もシナノザサを刈払った登山道で葉や稈で滑りますから要注意ですが・・・。このあたりのことを笹の原というそうですがここも「塩尻市地名地図」にはありません。舟窪と同じくいつ頃からよばれた地名でしょうか。

 最後の斜面をひと登りすると頂上です。11時05分到着です。
萱野の駐車場からちょうど3時間の行程でした。からたきの峯は1857.7mの高さがあります。楢川村と合併するまで塩尻市の最高峰でしたが、合併したことによって茶臼山(2657.21m)にその座を明け渡しました。頂上はあまり広い所ではありませんが二等三角点があり、それに沿うように洗馬地区からたきの峯トレッキング記念の標柱が建っています。
 頂上には三体の石造物があり、向かって右から「馬頭観音像」があり天明八戌申天二月六日と記され、高さ五十aで幅は三十aの像があります。これが興龍寺の方丈さんがみたかった馬頭観世音でした。方丈さんは「馬のようにみえないなあ、猫のように見えるが牛かもしれねえな」といいながら仔細を調べていました。「馬頭観音像」といえど馬だけでなく牛の守護仏でありますから、ここで亡くなった牛馬の弔いをしたものと思われます。馬は山に弱いことからこの付近で木の搬出で活躍した牛の可能性があります。
 「御嶽山三社神社」の碑には文久元年六月吉、神力講中と記されています。当時の講中の人々が建てたものでしょうがここで御嶽を遙拝したものでしょう。その隣の「駒嶽神社」も年代は記されていませんが、神名山建者也と記され同じくここで遙拝したものと思われます。
 頂上からの展望はあいにくで雲が多く持ってきた双眼鏡でも山の姿を望見することはできませんでした。美ヶ原や蓼科山、甲斐駒、千丈がちょこっと頭を出しているだけで残念でありました。穂高が見えないかと西のほうへ2bもあるシナノザサをかきわけ進んでみましたが雲に隠れてこれも見えませんでした。「快晴の時は一年に3〜4回しかねえじ」と教えてくれた洗馬の人のことを思い出しながら、私の好きなブナがありブナの枝分かれした大木を見て我慢しました。頂上からすぐ近くにチョウセンマツの群落をみることができます。見事なマツ林です。

 昼食をすませて「からたきの峯」と山名がつけられたのはいつ、誰が、どのようにしてつけたのか考えて見ました。
 「峯」はわかりますが「からたき」とはなにか気にかかります。「タキ」は柳田国男と倉田一郎の『分類山村語彙」によれば断崖をタキと呼ぶ地方は中国以西に多いと述べていますが、ここは中部地方です。当て嵌まるのでしょうか。
 「からたき」とは何か、「たき」は滝の意でしょうか。本沢の源流に位置する「からたき」と本沢の下流にある「しらたき」は相互に関係があるのでしょうか。「からたき」は涸れたたき(滝)でしょうか。涸れは水が尽きた状態を表し「から」は水のまったくない状態、空(から)のことでしょうか。「滝ノ入沢」が突き上げていますがこの沢の涸れた源流部の山の峯という意なのでしょうか。
 「からたきの峯」は「御嶽様」とも呼ばれたといいますがこれは遙拝所として敬われた名残でしょう。「しらたき」も「権現ノ滝」と呼ばれていましたが、これも「しらたき」と呼ばれるようになっています。宗教語でこう呼ぶのでしょうか。どうもよくわかりません。疑問だらけです。
 楢川からは橋戸沢沿いに橋戸林道が奥深く入り、楢川の地図では橋戸と呼ばれ標高は1857.72mと記されています。楢川でここを橋戸というのは何故か、これも突き止めてみたい気がします。
 あれやこれや考えているうちにあっという間に昼休みは終わってしまいました。みんなで記念写真を撮り12時20分下山にかかりました。天気も大崩れすることなく楽しい山旅でした。この登山道を維持管理して下さっている洗馬区の皆さんや自然保護ボランティアの皆さんありがとうございました。

(08/09/18) 


  雷雨の被害
 
 7月26日午後7時頃からの雷雨で柿沢地籍の田畑が被害を受けました。
 一夜明けて散歩に出て畑をみると大変なことになっていました。上の畑から雨水と共に表土が流れ、土手が大きく削られ深い溝がきざまれています。雨水がここを流れたのでしょう。畑にはこぶし大くらいの石がちょうど河原のように堆積しています。朝食もそこそこに畑に出ることになりました。

 よくみるとどうも雨水は土手の一番弱いところを狙ったようです。
 ここは柿沢の大原という地籍で通称永井坂と呼ばれていますが、10度から20度前後の角度で国道153号まで傾斜しています。雨が降ると水は低きに流れますから、大雨ほど下の方は大変なことになります。ここ柿沢は田川と四沢川に挟まれた地籍ですが柿沢統と呼ばれる畑土壌に属し、畑や田んぼの土壌は黒ボク土です。ところどころ以前からの雨や風で流亡したところは薄くなり、火山灰の層が出ているところが見受けられます。傾斜の強いところは赤土と呼ばれる赤色土が出ています。

 一通り石を拾ったあと付近を見て歩くことにしました。
 田んぼの土手が大きく崩れたところが私の畑の近所だけで11か所ばかりありました。旧中山道を越え、国道20号線までの間も崩れた土手がみられます。柿沢の人たちも市の農林課の人と被害の調査にあたっています。
 幸い私の畑は石拾いだけですみましたが、田んぼの土手が欠けたところではこれからイネの管理が大変です。早稲の品種では幼穂形成期が始まっているからです。柿沢のような高冷地でもコシヒカリなどが作付けされていて全体に幼穂形成期が早くなっているからです。ぶんけつが終ったこれから幼穂形成期〜出穂開花期がイネの管理の本番なのです。

 私なりにこの土手崩壊の原因を考えてみることにしました。
 どうも夕べの雷雨は潅水した田んぼにのみきれない量の水を提供したようです。気温の低いときは深水にして保温に努めますが、柿沢は早朝気温が下がりますからどうしても平地のような掛け流しができません。そのため朝早く水をいれ、止めて日中保温するということになります。浅水だと田んぼはダムのような働きをしますが深水の時はどうしても制限ができてしまうのです。
 幼穂形成期の溜水した田んぼに溜められないほどの雨が降ったことがどうも一番の原因のようですが、これは用水路にも関係があります。今は用水路から一枚一枚の田んぼに水が入り、あまった水はまた一枚一枚用水路に戻されます。用水路いっぱいの水が流れると田んぼの水は用水路に戻ることができません。流入することができないのです。水は出口を探して土手を乗り越え弱いところから崩れたようです。いまの田んぼの畔はむかしのように泥で塗り固めたものでもなく、また畦畔ブロックも使わないでシートだけですませているところやシートすらない田んぼもあります。モグラやネズミの穴から水が漏れていることなどザラで弱いのです。
 それと構造改善事業でつくられた堰(田用水を供給する用水路・せんげ)が機能していないということです。パイプラインのような三面張りのコンクリートの現代の小川が問題です。かっての構造改善事業以前の田と小川(用水路・せんげ)は自然の地形に組み込まれたものでした。細い小川が田んぼを取り囲むように流れ、小川にはフナやカニやドジョウ、ドンビキ(トノサマガエル)カワニナなど多くの生き物が住んでいました。小川の底は土でしたから漏水を防ぐため、春早くにはせんげさらいが行われ、揃って作業に精を出したものです。
 その小川がコンクリートの用水路に変えられたのも農業の近代化をうたった構造改善事業のおかげなのです。農家にも機械力が導入され、曲がりくねった農道も直線になり舗装されました。それが一旦事あるとうまく機能しないのです。
 大雨が降ると水は三面張りの水路の中を鉄砲水のように一気に分水枡まで走ります。なにしろ直線ですからのみきれない分は溢れます。柿沢でも分水枡の下の土手が崩れているのが見受けられました。これも構造上の欠陥があります。分水枡から枝別れする水路が細いため想定した水量以上の水がくると枡で分水できないのです。傾斜のきつい水路とそこに流れ込む農道を流れる川のような水に対応できないのです。
 もうひとつ、作付けしていない畑、休んでいる畑からの水です。放棄し原野になりつつある畑は草が繁って雨にも対応力がありますが、作付けもせず、ただトラクターで起こしているような畑は保水力が落ち表土とともに流れるのです。なにも作っていませんから雨は表土を叩き、傾斜地を流れ下ります。肥料分のある大切な表土が流亡してしまうのです。手仕事の農作業をしたころは休む間もなく畑にはいろいろなものが作付けされ土壌は保全されましたが、いま専業農家では単作で収穫してしまうと次のものを植えるまで耕したままで畑を休ませる時間があります。このようなときに大雨が降ると豊かで大切である土壌の流亡がおこるのです。
土から生まれたものは土に返すという循環を実践した昔のお百姓がみたら仰天するでしょう。
 

 農家の人がいっていました。
 「自然のこんだで、しょうがねぇーじ」といいましたが私はそうとおもいません。確かに雷雨は自然のなせるわざですが、どうしても構造改善事業のほうへ頭がいってしまうのです。むかし、田川や四沢川の川沿いの田んぼは大雨の度に決壊の危機にさらされましたが、木流しなどで対応し守ってきたものです。小さな川ですが淵や瀬がありました。田んぼに入る小川は曲がりくねり溢れても農道を越えまた次の田んぼに流れ込み、畔を越えても崩れることはありませんでした。畔は大豆などが植えられそれなりに補強されていました。農道に降った雨も地下に浸透、涵養することができました。
 いま水路は人では持ち上がらないようなコンクリートの厚い蓋がしてあり、水は大地と分離され閉じ込められて運ばれる物になりました。かっていた生き物をみることはなくなりました。農道は舗装され雨が降ると川になります。
 構造改善事業の功罪を考えるとき農地をつくり変え、生産性だけを目指した矛盾がこの雷雨の結果に現れているような気がします。
 圃場は整然と区画整理され、機械化、単作経営化された現代の農業の基盤の弱さをひとしきりの雷雨が教えてくれたようなものですが、農民が依ってたつ農地、土が簡単に失われるようなことに暗澹とした思いを感じています。

(08/02)


  新緑の川入地区羽渕で

 お手伝いしている廃食用油の収集で新緑の羽渕に行ってきました。
廃食用油の収集の作業は午前8時までにタンクを配置して、10時に回収を始めるというものですが、羽渕は塩尻市の最南端の集落になります。
 一度大門まで戻るというのは時間的にも厳しく、エコを考えると得策ではありません。そこで回収の時までの待機の二時間を利用して付近を散策することにしました。
待機時間の自然観察としゃれ込んで運転手の君と親子よろしく歩いてみました。

 ここ川入地区は奈良井川最上部にあたる谷中にあり、奥に萱ケ平の集落から清高寺までの地域を総称する地名です。奈良井ダムもこの地区にあります。新しく開いた権兵衛トンネルもこの地区のほぼ真ん中を抜けています。羽渕から姥神峠を越すと神谷(旧、日義村神谷)に出られますが、羽渕の人はただ、峠と呼んでいます。
 川入地区の中心部が羽渕の集落ということになりますか。

 羽渕の集落は階段状に民家が並んでいます。その間を縫うように細い道が続いています。この道を辿ってみることにしました。
民家の間を抜けるような細い道は屈曲をして、高みに登るような道です。初めて市街地の裏小路を歩くような気分と、親しんだ田舎の小道を懐かしさを覚えながら歩く、そんな感じの道です。よそよそしい垣根や塀というものががなく、庭先をちょっと失礼して遠慮がちに歩くようなそんな道です。 
 運転手の君は元、小学校の音楽の先生で気分がよいのか、唱歌を口ずさんでご機嫌のようです。聞いていると塩尻小学校の校歌になり、私もついつられて歌うことになりました。
 そんな気分で集落を水平に横切る真ん中の道を進むとちょっとした沢に出ました。
沢の上には観音堂があり、少し下がると沢に出ます。観音堂と沢の間には大きなトチノキが茂っています。沢の周辺にはワサビやウワバミソウが顔を見せ、ネコノメソウがはえています。この観音堂はかなり古いものですが中を窺うにもビニールで目張りをしてあり見えません。外に百万遍の供養をした塔がありました。さわに降りると沢を跨ぐように「行場」と思われるものがあります。ちょっとみると休憩所みたいな感じですがどうも休憩所ではなさそうです。ここで昔、行を行っていたのだしょうか。
 観音堂の左に細い道があって、二十三夜塔がありそこを辿ると裏手は墓地になっていて傍にニホンサクラソウが咲いていました。どうもここは畑だったようで、いろいろな花が植えられていました。

 羽渕は垣根や塀がなく、道から敷地内の様子が丸見えです。奥行きが無いのは階段状の地形を削って母屋を建てたせいでしょうか。道に対して平行に横に建てられた家が多く、二階部分が低いのは蚕を飼うための造りのようです。本棟造りで造られた家もありますが、平野部の豪農のような華やかさのあるものではありませんが、どこか心が和むような建物です。
 屋根はほとんどトタン屋根で、壁は板壁の家が多く、土壁は一軒もありませんでした。板壁には薪がきちんと割られて積み上げられていました。空家と思われる家もありますが、どうも家は住む人がいないとうら寂しくなるものです。

 一時間ほど巡って歩きましたが、家の前で軽トラに薪を載せたご老人に会い、話を聞くことにしました。
一通りの挨拶のあと、この薪は何にするのか訊きました。
薪は冬の間焚く分を今から用意している。
高齢なので一日に5.6束しかできないが、張合いがあり、達成感があるので薪を作ることが好きだ。毎日薪作りだ。あとは何にもしない。
薪を束ねる針金は冬の間に自分で作っておく。
薪で焚いた火は暖かい。
薪は売ることもできるが、楓やもみじ、楢など硬い材でないと高く売れないので今はしていない。
カラマツの薪は安いが自分で焚くにはこれでいい。
1人で生活していて気楽だが、子どもが心配して食べる物やなにやら持って来てくれるのがうれしい。
ここ(羽渕周辺)は全部で40戸くらいあったが、いまは20戸ばかりになってしまった。 
昔は、米や味噌がなくても貸してもらえたが、いまは変な世の中でそうもいかない。
あに(私のこと)なんかまだここ(羽渕)では洟垂れ小僧だ。わしは85歳(大正14年生まれ)
区(羽渕区)の役員は高齢で来年役員が決まるかどうかわからない。困ったもんだ。
 トタン屋根がなぜ木曽は赤いのかと訊くと
ありゃ・・さび止めで安いし、昔は板をへいで高かったから、みんなトタン屋根になってしまった。安いからいいじゃねえ・・。 
 こんな話をしている最中に足が悪い御婆さんが声を掛けてきました。
家へ寄って「お茶を飲んでケ」というお誘いでありました。
入れて待ってるといって、どこですかと聞く間にどんどん行ってしまった。
ご老人(折橋さん)に聞くと
「あのうちは折橋さんといってハイ、おれの家の斜め前だわ、あれは脚が悪くても働くぞ」という。

 折橋さんにお礼をいってもう少し廻ることにしました。
集落の下まで出て南側から入ることにし、道祖神をみながらゆくと家の前で片付けをしている私ぐらいの年配の人(60代後半の人)に出会いました。
「なにをしているだい」と訊かれ、廃食用油の収集の話をすると「俺も塩尻だじ」というので、合併したから塩尻というのかと思っていると、広丘堅石に住んでいるといって逆に「どこだい」と訊かれた。
 昭和48年頃、過疎化と子供の教育のためにやむを得ず、塩尻に敷地を買い羽渕を出たという。
昔は営林署の仕事が多く、ここから見える林道からたくさんの用材を搬出し、ここの(羽渕)人たちは良かったもんセ。と景色を見ながら話してくれました。
ただ、分教場まで通うのが大変だったといいます。
 今日は久しぶりに家を掃除にきたといい、2−3日泊って帰るという。ここが好きで永くいたいが、余り永く泊っているとつれあいがが心配するのでと、残念そうでありました。
 この家でも薪がうず高く積んであり、青大将がここで剥けてといって抜け殻を見せて戴きました。このお宅は古畑さんといって前の道を歩き、水場・津島社を経て登ると姥神峠に至ります。

 車に戻ると折橋さんの御婆ちゃんが待っていてどうでもお茶を飲んでケという。
余り遠慮しても悪いと、あがりこんでお茶を戴く。まだコタツがあり、独活(ウド)を味噌で煮た煮物がおいしく、折橋さんのお話を聞きました。
 働きすぎて脚を悪くしたこと、それでもまだ、働きたいこと。
 塩尻市と合併してから福祉事業は楢川村の時のほうが良かったといわれて、どきっとしました。
 折橋さんの旦那さんも一緒で、ミツバチの蜜の採取方法などをお聞きしました。地みつで自分で飼っているということ、いま巣箱を造っているとのことで、ホウノキの大木を鉈一丁で刳り抜いているところでありました。鉈は土佐の細身の刃物で、髭も剃れるくらい研がれていました。こんな鉈はいままで見たこともありませんでした。
 縁というものは恐ろしいもので、私の近所に折橋さんの御婆ちゃんの友だちがいて、ことずけをして欲しいと頼まれてしまいました。何でも小学校の同級生とか。
運転手の君も、御婆ちゃんのお友達のお孫さんを教えたことがわかり、一同寄寓にびっくりでした。

 待機時間の二時間はあっという間に過ぎましたが、心温まる時間でした。また来たい、時間をかけてと思いました。
ここで生活している人にとって、たまに来る私たちみたいな通過者をどうみているのでしょうか。以前、萱が平でも似たような思いを感じたことがあります。
 古畑さんのようにふるさとに帰りたいという気持ちがわかるような、それでいて痒いところに手が届かないようなわけのわからない感情を持ちます。
 どこに住んでいようと生活は続きます。豊かな暮らしとは物に溢れた社会ではなく、つつましくも心豊かな社会を・・・と願うものですが、いま、豊かな暮らしができるということが、考えられていないような、できないような社会になりつつあるのを感じた一日でした。

 (08/06/01)


早春に咲く花

 早春に咲く花といえばなにを思い浮かべますか。フクジュソウやタンポポの花ですか。それともウメの花、コブシやレンギョウ、オオバイなどの木本の花ですか。いや、セツブンソウやアズマイチゲだという方もおられるでしょう。
春の花で目立つのは黄色が多いようにみえますが、特別理由があるわけではありません。身近なところに咲くので目につくことが多いだけです。
 野の草で早くから咲くものにナズナやハコベがあります。散歩道でちょっと気をつければ見ることができます。オオイヌノフグリの澄んだ青色の花も目につくでしょう
。これらのどの花も春になるといっぺんに咲くわけではありません。

 春に花が咲くしかけ
 早春に咲く植物は前年に花芽をつくって春の来るのを待っています。これはナズナなどの草本やコブシなどの木本も同じです。植物は日長と温度の変化から,季節の移り変わりを知るのです。春に咲く花の多くは,冬の低温と、春になって日が長くなることが引き金となっています
 春早く咲く植物は、この冬を越すということが大事なのです。一度必ず低温にあわないと花を咲かせるしかけが動き出さないからです。このような性質を利用しているものに正月用の寄せ植えのフクジュソウの花や、ウメの花、ヒガンザクラの花があります。フリージア、テッポウユリ、ラナンキュラス、アネモネなどもそうです。これらを季節外れに咲かせるにはどうしても一度寒さにあわせないといけません。寒さが引き金になってそこから温度をあげてやると花芽が動き出し、適温になると花が咲きます。春早く収穫する果実、イチゴや促成のブドウもこれを利用したものです。
 このように自然の再開に任せず人為的に低温環境にあわせたり、一度高温環境に置いた後に低温にするなどの手段で活動再開を促すことを「休眠打破」といいます。
花芽は休眠打破のあと温度の上昇とともに生長して開花し、その発育速度は温度が高いほど速くなります。つまり花の咲ける温度になることが必要なのです。
 これは植物によっても違い、また、同じ植物でも地域によってこの反応が違ってきます。いい例はフクジュソウです。四賀の赤怒田のフクジュソウや辰野町沢底のフクジュソウは2月末から3月上旬には開花しますが、塩尻ではずっと遅く4月になります。私のところでは4月末から5月の連休にならないと咲きません。
 雪の中でも花を咲かせるものはフクジュソウのほかに、フキ、エゾエンゴサク、ナノハナなどがありますが、塩尻の厳しい寒さのなかでは雪の中から花が咲くということはありません。咲いたあとに上雪(かみゆき)が降ってあたかも雪の中から咲いたように見えるということはままあります。
 コデマリ・ユキヤナギ・アジサイ・エニシダ・バイカウツギなどの花は、秋10月頃低温で「花芽分化」するもので、レンギョソウ・ツバキ・ツツジ・ジンチョウゲ・サクラ・ボタン・クチナシ・カイドウ・ウメ・モモ・ドウダンツツジ・アセビなどは6月から8月の高温のときに花芽分化するものです。

 花を咲かせるにはエネルギーが必要です。
このエネルギーを貯えるには充実した形態をもっていないと花を咲かせることはできません。草本なら発芽して3年目ぐらいになると花を咲かせるエネルギーが貯えられ立派な花を咲かせることができます。山野の自生する草本は厳しい環境におかれていますが、エネルギーの貯蔵が効率よくできるようになっています。栽培されている草本の中には株分けなどを忘れていると、十分なエネルギーを吸収できず花が少なくなったり、咲かないものもあります。
 また花が咲いては困るものもあります。タマネギなどが代表とされますが、早く蒔きすぎて大苗になったものを植え付けると、玉が取れず花が咲いて(抽苔・ちゅうだい)してしまいます。これは本来、玉が肥大して休眠に入るべきものが、春先の玉が太る前に花を咲かせてしまうからです。このため昔から「鉛筆以上の太さのものは植えるな」といわれてきました。ネギなども太い充実した苗を植えるとぼぼ(抽苔)が出ます。種子を採るには秋残して一冬おくと抽苔して簡単に種子を採ることができます。
 ダイコンなども秋収穫せずに畑におくと、春温度の上昇とともに抽苔し開花します。これも低温にあったため花芽ができるからです。
 どちらにしても開花のためには、成長期に光合成を十分行って、植物体に高エネルギー物質や炭水化物がたっぷり蓄えられていなければなりません。このため早春に咲く花は開花のエネルギーを蓄えられる条件の良かった日当たりのよいところから咲き始めます。だから早春の花を楽しむには日当たりがキィーワードです。そんなところを見つけて楽しんでみてください。

 (08/03/06)


 アケビ

 みどり湖の山すその林縁を歩くとアケビが顔をのぞかしています。
 もう早いものは熟れて下に落ちています。子どものころ、山に近いところに住む同級生がアケビの実を学校に持ってきて見せびらかしたものです。この果実は熟すと縫合線に沿って裂け、特異な姿を見せる果実です。
 アケビの名は「開けつび=口を開けて中の肉をみせるような果実」の性質をいったものといわれていますが、果肉が熟むと甘く、ねっとりとしたもちのような果肉を口いっぱいにほおばったものです。種子は果肉に沢山含まれていて噛むと苦いので吹き飛ばしたものですが、思ったより食べやすいものではありません。

 アケビはアケビ科アケビ属(Akebia Decne.) で属名(アケービア)は和名からきています。わが国では山野に自生していますが、観賞用として生垣、棚などで栽培されています。
 山でごくふつうにみられる植物で、葉に切れ込みがないアケビと切れ込みのあるゴヨウアケビ、ミツバアケビと大きく分けられます。アケビは雌雄同株で両方の花が咲き、雌花には雄しべの名残り(雌しべの下に雄しべ)、雄花には雌しべの名残り(雄しべに囲まれて雌しべ)をとどめています。これは植物の退化器官の例として観察会などで進化の教材としてよく紹介されます。

 アケビの学名はAkebia quinata Decne. で種名のクィナータは五つの葉の意で、導管が空気をよく通すため「木通」「通草・あけび」「山姫・やまひめ」「木通蔓・あけびかずら」「朱実・あけみ」などと呼ばれ、『延喜式』の諸国貢進薬子のなかに蔔子とあるのはアケビのことといわれています。生薬名は「木通・もくつう」で木部にアケビンを含むので利尿剤、鎮痛排膿、通経などに用いられました。漢名は「野木瓜」です。アケビの変種にはフタエアケビ、シロバナアケビ、アオアケビなど変わりものや栽培種があります。
 アケビの新芽は古来より食用になりました。京都の鞍馬本町の名産「木芽漬」はアケビの若葉とスイカズラの葉を塩漬けにしたものですが、江戸時代の教科書「庭訓往来」に諸国の名産品として載るほど有名でした。この「木芽漬」はいまでも販売されています。若芽をゆでて苦味をとりおひたしなどにしたり、揉んで乾燥してものはお茶の代用などにして利用されています。 また、古い記録はありませんが染色にも利用され、秋(8月下旬ー10月上旬)に茎葉を採取、細かく刻んで水から煮出して染液をとり、錫や銅、鉄媒染で好みの色に染めることができます。

 ミツバアケビの学名はAkebia trifoliata Koidz. で種名のトリフォリアータは三つの葉の意です。果実は最も大きくアケビと同じく食用となり、木部もアケビ同様薬用として利用されました。蔓はアケビより細く、細工ものに使うに都合がよいため使われているのはこのミツバアケビです。主に籠などの製作に用いられています。変種にはマルバミツバアケビがあります。

 ゴヨウアケビはアケビとミツバアケビとの雑種で両方の形質を持っています。小葉は3−5枚で長野県で多い種です。学名はAkebia pentaphylla Makino. で種名のペンタフィルラは5葉の意です。クワゾメアケビという変種はアケビに似て葉に切れ込みがない縁辺全辺(全縁)の葉をもつ種です。

 栽培はいたって簡単です。
 土壌は選びませんが腐葉土が沢山入った土が好きです。盆栽にする場合は黒土1に腐葉土1、赤土0.5に油粕、骨粉を混ぜ植えます。アケビは自家不和合性(同じ株の雌雄間では受精が起こらない)が強いので、果実を楽しむには一株でなく、異なる株を一緒に植えてやり、人工受粉をすることも実をつけるコツです。日陰を好むので、花どきには覆いをしてやるとよく実がつくようになります。剪定は春が良いでしょう。冬季は花芽が包蔵されているため見えません。
 繁殖は実生、挿木、取木などで簡単にできます。

 アケビを調理して食する地方は東北地方が多く、さまざまな料理が食卓を賑わせています。特に山形県は「あけびのくるみ味噌あえ」「アケビの蒸し焼き」「あけび味噌」「あけびのぬたあえ」「干しあけび煮」「干しあけびのあえもの」「あけびと味噌の炒めもの」などいろいろなあけび料理があります。
 秋田県には「あけびずし」があり、あけびの皮を米のとぎ汁で煮て冷まし、もち飯を詰めてすし桶に並べ漬け込み、つけて3、4日から一週間前後が食べごろという野趣いっぱいのすしがあります。また、「あけびの塩漬け」「あけびのあえ物」「あけびのでんがく」「あけびの味噌焼き」「あけび袋詰め」など山形県に負けない料理を誇っています。
 これら東北の県に比べ、わが長野県はさびしいものです。昔から生食はしたようですが、加工・調理して食べたようすがありません。最近になって皮を煮込んだり、炒めたりすることができるようになりましたが、どうもあけびの料理では長野県は遅れているようです。

 学校の往き帰りにあけびや、やまぶどうを探し食べながら歩いたころは、遊びながら木の実の収穫の適期を学び取っていたものでした。「あそこの、あのそばに、いつ」とそれぞれ友達にもに教えないおとっときの場所がありました。秋はこのほかに、くり、くるみ、ぎんなん、なつめなどが実り、自分たちのおやつとして、食べきれない分は家に持って帰り、喜ばれほめられて収穫する喜びも知ったものです。

(07/10/20)


 ミミズが死んでいる・・・

 散歩の途中、ミミズが沢山死んでいるのを見かけます。
今年の夏は猛暑日が続き、朝から気温はうなぎのぼりです。愛犬の「りんたん」も散歩に連れ出しても余りうれしそうではありません。
 畑や田んぼの土手近くのアスファルトで舗装された農道にミミズが連日、死んでいるのを見ます。ためしに数えてみたら、10bの間に26匹も死んでいました。
まだ死んだばかりのミミズもいますが、干からびて棒のようになった個体や、半乾きの個体が横たわっています。

 陽に照らされた暑いアスファルト道にどうしてミミズは出てくるのでしょうか。不思議です。
自殺行為にもみえる行動をなぜとるのでしょうか。
 今年ばかりでなく、去年もその前の年も見られました。決まって暑い夏の盛りにいろいろなミミズの干からびた体を見るのです。

 ミミズは土を食べ、団粒構造にして排泄するという特技があり、昔から農家の人たちには、ミミズのいるところほど良い土壌になると言い伝えられて来ました。私のささやかな采園にも沢山のミミズがいます。
 ミミズは本来土の中や落ち葉、植物の堆積した下などで生活をしています。土や腐葉したものを微生物と一緒に食べ、団子状のうんちを出して土を改良しているのです。これを利用して食品残渣など生ごみを分解する手だてとして、ミミズを活用してコンポストなどでリサイクルする取り組みもなされています。

 
 日光浴は大嫌いなはずなのに、よりによって高温化のアスファルト道に出て来るのがわかりません。
あちこち本を漁って調べて見ましたが、答えがみつかりません。なかなか難しい問題です。自殺行為ともとれる行動は、なぜ起こるのでしょうか。

 そのT、ミミズは一般的に表層生活型、表層土生活型、下層土生活型に分けられていますが、生活や活動の実態はあまりよくわかっていません。ミミズは春から夏の間は夜間に活動することが知られ、急激な気温(地温、室温)の変化や降雨などがあると移動(逃避)行動を取ることがあるということ。

 そのU、表層土生活型のミミズは0aから10aくらいの土の中で生活していますが、初夏から初秋にかけて受精・産卵・孵化すると、役目を終えた成体のミミズは環境に対する適応力がにぶり、幼体を土中に残し移動行動を取ることもあるということ。

 そのV、土中で酸欠状態になってしまい、逃れるために徘徊、移動中に干からびて死んでしまう。これも可能性が高いのですが、酸欠時の行動や死んでいるミミズの移動時間や距離が分からないので確信が持てません。

 
 どうもアスファルト道で死んでいるミミズはこれらに関係ありそうですが、簡単にこうだと言い切れるものではありません。それは死んでいる個体を観察するといろいろなミミズがいるからです。生体重の大きなものから小さなもの、種類の違うものなどが混じっています。どうもまだすっきりしません。日中、光を浴びて活動することが嫌いなミミズが、土中から這い出し身を焼き尽くすのかは謎のままです。
 どうも夏休みの宿題になりそうです。

 (07/07/13)


 ヒメギフチョウと里山

 暖冬といわれその影響が心配されています。塩尻市でも、今まで越冬出来なかった蝶が、ここ数年みられるようになりました。春の到来がここ数年早くなっていることが気がかりです。このぶんだと桜前線の到来も早まるでしょう。
 里山の残り雪が消える頃になると、山が笑う季節になります。この頃の山は生命感が溢れ、気持ちも弾みます。
 そんな頃、春の女神、春の女王と呼ばれているヒメギフチョウが里山を飛び始めます。塩尻でも四月の中旬から五月にかけて、スプリング・エフェメラル(春のはかない短命な生き物)の代表とされるヒメギフチョウを見ることが出来ます。
 黒と黄色の縦縞模様を持つ蝶ですが、里山の日だまりのカタクリやスミレなどの花によく訪れます。この頃はタラノメ、ワラビなど山菜とりで里山に入る機会が多いので、運がよければヒメギフチョウに遇えるかも知れません。

 身近なありふれた里山でヒメギフチョウが見られるというのが、塩尻のいいところです。
ヒメギフチョウは環境指標昆虫として、その地区の環境のありさまを語ってくれる昆虫です。いなくなった、少なくなったなど、環境省の緑の国勢調査で仲間のギフチョウやオオムラサキなどと共に、調査されています。
 地区の環境が悪くなると、いくら彼らを保護しようとしてもうまくいきません。生息できる環境を残すことが大切なのです。ホタルなどもそうですが、1985年(昭和60年)頃には沢山いたホタルが、土地改良整備事業で今までの生息環境を失ってしまい、衰退しましたが、最近の保全活動で何とか回復しているのがいい例です。ホタルの天敵は人間なのです。農薬、水質汚濁、河川改修、圃場集配水路などが彼らの場所を奪ってしまったのです。オオルリシジミという蝶がいますが、塩尻では絶滅してしまいました。私が子どもの頃、青木巾という土手で見かけることがありましたが、もういません。これも農薬の一斉散布や環境の変化が原因といわれています。
 そんななかでもヒメギフチョウは健在です。
ヒメギフチョウは生息する場所が里山で、一年一世代で、蛹で冬を越し、四月のなかごろから羽化、成虫になり産卵して、孵化、幼虫となり、また蛹になるのが六月いっぱいという短い生活環を持っていることや、農薬の散布もなく、人目に晒されない場所で、あまり採集圧力がかからないということが、彼らを絶滅から守っています。でも、安心してはいられません。
 
 ヒメギフチョウの生息地の環境が比較的よく保全されている場所では、今後増える可能性がありますが、最近の里山の現状をみると楽観出来ない状況にあります。里山が荒れてきたからです。
 価値を生まないとして里山は手入れがされなくなりました。お金をかける人が少なくなりました。国産材需要の減少、人件費の高騰。機械化、従事者の高齢化、林業が抱えている構造が悪循環となっています。維持管理がされず荒廃した里山が広がっています。由々しき状況になりました。
 ヒメギフチョウが好む環境は手の入った明るい里山です。雑木林やそれを取り巻く二次林、カラマツなどの植栽林です。スギやヒノキ林などの一斉林では林床が暗く、彼らが好む食草や吸蜜植物があまり育ちません。混交林も手が入っていないと一斉林となんら変わりません。手の入った混交林が必要なのです。現在の林業経営も混交林を目指していますから、人間にも昆虫にもよい環境が得られそうですが、なかなかうまくいきません。
 ヒメギフチョウが生息する山林が個人の持山である場合、山の手入れが滞っていても勝手に第三者が手を入れることはできません。所有者の権利という大きな問題があります。自力で維持管理をしている山林で、たまたまヒメギフチョウが生息していればいいのですが、維持管理ができない、そのノウハウがない、お金がない、不在地主で遠い町に住んでいるなど、山は持っていたいが、維持管理には関心がない人たちの山などに生息する場合には、衰退する可能性が大でしょう。
 ヒメギフチョウの今後を考えることは、里山の今後を考えることと繋がります。昔は薪炭林としてエネルギー供給に役立ったのですが、国産材の木材需要の減少と高度成長のさなか、農村から山を守る労働力が他の産業に流れたりして、里山は見捨てられてしまいました。緑の大切さが叫ばれている割に、実際に里山を歩いてみると個人の持山の荒廃が目につきます。山の中が怖いほど静かで音がしません。人のいる気配がしないのです。人が後退した分、奥山から出た野生動物が、里山を我が物顔で歩くのは当たり前のことだと思います。

 ヒメギフチョウの産地を探して、塩尻のあちこちの里山を歩きましたが、かって良い環境だったところが荒廃しているのを目にすると、どうにかならないものかと思わずにいられません。食草があっても林床が暗くなったため、スミレやカタクリが少なくなり、以前軽やかに舞っていたヒメギフチョウがいない、少ない、産卵されていないところが増えています。私一人が憂いても問題が解決するわけではありませんが、今年は衰退しつつある場所を、なんとか以前のように戻したいと山の所有者に話を持ち懸けるつもりです。それと乱獲などの採集圧に対処するため、ヒメギフチョウを知ってもらい、生態などを身近で観察できる「ヒメギフの里」というような場所を作ろうと計画を温めています。いいお知らせができるといいんですが・・・。

(07/03/03)


チカラシバが少なくなった

 むかし遊んだ懐かしい野の草ですが最近めっきり少なくなりました。
田圃のあぜ道や堤防、道端などによく見られたものですが何故でしょうか。

 チカラシバは多年草で北海道西南部から南西諸島、東アジア・インドネシアに分布し、水田稲作にともなって伝播してきた植物で史前帰化植物といわれています。日本の水田稲作のサイクルに対応した植物で春に芽生え、秋に結実します。
 名前の由来は力を入れても容易に引き抜けないことからつけられたといわれていますが、茎や葉が丈夫で切れ難く(葉は線形で葉鞘は平たい)、茎は根もとから群がり、踏みつけにも強い(踏み跡植物)植物です。
 高さは30〜80aで、ときとして大きな株になります。花穂は長さ10〜15aの円柱形で直立します。試験管を洗うブラシのよ うなかたちをしています。長さ1〜3cmの剛毛(長鬚毛ちょうしゅもう)に包まれた小穂を密につけます。花期は8〜10月で青黒紫の穂で目立ちます。
 学名は、Pennisetum alopecuroides (イネ科チカラシバ属)

むかし懐かしい遊びを紹介しましょう。

 チカラシバは方言でカゼクサ、ミチシバ、タヌキノシッポなどと呼ばれています。
穂を下から先に向けてしごくと小さなクリのいがのような形になり、子どもの遊びにします。
 男の子の遊び
 秋になると道端のチカラシバ二株を結びつけいたずらします。足を引っ掛けて転ぶのを田んぼの土手などで隠れて見ています。でんぐりけえる(転倒する)のを待つ遊びです。大人は知っているが無理と知らん振りをして、子どもたちを喜ばせてくれます。
 意地の悪いおやじさんは「あぶねぇじゃねぇか、としよりだったらどうするだぁ」などと言い、鎌で切り払ってしまいます。
 また、ブラシ状の穂を下から先にしごくとクリのいがのような形になり、その長鬚毛(ちょうしゅもう)を抜かせます。「おちんこの毛をぬいた」とみんなではやす遊びもはやりました。
 女の子の遊び
 穂で箒をつくります。ままごとで使うむしろやござのお座敷を掃く箒づくりです。果実が落ちない前の穂を使います。
 小さな自然と遊んだ野遊びがなくなり、畑や田圃で遊ぶ子どもを見かけなくなりました。寂しいことです。

少なくなったわけは
 農道の舗装化による要因が大きいと思います。もともと踏みつけを好む植物で踏まれるほど根茎を発達させる性質がありますが、農道のアスファルト舗装による影響を強く受けました。舗装されていない農道で人や牛馬に踏まれて育った時代は全盛期だったでしょう。
 草刈り機による強い刈り込みも原因のひとつでしょう。土手や畔は何回も刈り込みされます。果実を稔らせる間もありません。このため「ひっつきむし」と呼ばれる逆向きの刺毛による繁殖方法、人の衣服や犬などの動物の毛の間に入って運ばれることも少なくなりました。
 皮肉なことですが、牛馬の放牧草地で繁殖、勢力を拡大してその防除対策が問題となっています。放牧牛馬は出穂後のチカラシバをほとんど採食せず、長い頴(のげ、長鬚毛)が放牧牛馬の眼や鼻を痛めることから嫌われています。

 農業も機械化され便利になりましたが、農道の懐かしい風景はだんだんと少なくなりました。


萱ヶ平の一日

  廃食用油回収のお手伝いをしています。廃食用油回収はNPO法人「春の小川」が塩尻市の全域で行なっています。
楢川地区も今年の春から廃食用油回収が実施されることになり、今回は奈良井地区から羽淵地区が回収の日ということで二人で行ってきました。
 廃食用油回収の手順はポリタンクを配置しその中に廃食用油を入れてもらい、後で回収するという作業ですが、配置から回収まで時間があるので羽淵から昔の分校や養鱒場を訪ねて、そこで朝食を取ろうと行ってみることにしました。分校や養鱒場は昔、塩尻青年会議所がアドベンチャースクールを開いたところで想い出があります。

 楢川羽渕・萱ヶ平の周辺は「権兵衛トンネル」の工事で大きく変わり新しい道が出来ています。工事現場はいま、最後の追い込みに入っていておおわらわです。
分校跡を探せないまま萱ヶ平にきてしまいました。

 萱ヶ平の周辺は昔のままの雰囲気と環境をよく残している地域です。この集落の横に集落とほぼ平行して栃洞沢が流れていて何度も遊びに来た覚えがあります。
車が通れないような道になってしまったので近くの家でようすを聞くことにしました。ちょうど集落最後の家で人影が見えたので声をかけてみました。
古畑さんという家で私と同じくらいの年配のご夫婦に相手をして頂きました。
 まず分校跡のようすを聞きました。分校はもう「権兵衛トンネル」の工事でブルに押しやられてしまったとのこと、養鱒場もトンネルの入り口あたりになってしまいもう無いとのことでした。道理でいくら探しても見つからなかったわけが分かりました。

 もう少しお話を聞くことにしました。
出して頂いたお茶を厚かましく飲みながら、率直にここで暮らすには大変でしょうと聞くと「なに、はい、なれているもんで」とのこと。この「はい、・・・」という言葉は木曽の人たちに特有の言葉で、既にとか、もはやなどの意味があり添え言葉ですが柔らかい響きがあります。久しぶりに聞きました。
住む人がだんだんと減って行って寂しいがここが好きなので居られるまで住みたいとのこと、「おられんようになったら出てゆく」とのことで松本に家があり、子どもが居るので心配はしていないと明るく話してくれました。
 面白かったのは野生動物の話でした。サル、キツネ、タヌキ、イノシシが出るが、イノシシはトタン板で畑を囲えばよいが、サルが一番困るということでした。
 以前道にサルが座っているのでいぶかっていると、モロコシを食べ過ぎて動けなかったサルでほんとにその時は可笑しかったそうです。なんでも60本ばかり食べられてしまったそうで、それ以後、網を被せるなどの対策をとっているそうです。
 これから雪が降る12月中旬ころになると除雪が心配だと言っていました。
災害対策のつもりか市でも心配してくれていて水を(ペットボトル入り)を置いていってくれたとの。見せて頂きましたが箱に6本入った富士山麓の水でした。これにはみんなで大笑いしました。保存期間5年のものでした。
 紅葉は10月10日ごろ来れば丁度よいとのこと、また来てとお誘いを受けました。
山の好きな私が茶臼山の事を聞くと「茶臼山もいいとこだにぃ」とこれもお誘いを受けました。
 最後に地域を忘れないで、何かよい方法で利用できたら嬉しいと言われました。本当に塩尻市の最南端のこの地区が忘れられることの無いよう見守りたいと思いました。

 山村を取り巻く環境は厳しいものがあります。過疎、高齢、農林業、交通、通信、防災などさまざまな問題が隠されていますが、対策が有効に生かされているのでしょうか。塩尻に限らず、あちこちで山村の悲鳴が聞こえてきます。通過者の視点でない生活者の視点で考えることが必要ではないかと感じた一日でした。

                                                                                                     2005.08.27


 植物の寒さへの適応
 このところ寒暖の差が激しく春のぽかぽか陽気に慣らされた身体にはちょっと堪えます。
遅い霜が来なければいいんですが・・・・。
野菜・花卉農家、果樹農家の皆さんは心配だと思います。
 以前、ある植物の研究会で「低温に対する植物の適応戦略」という講演を聞きました。
植物は細胞の中が凍結すると人間で言えば死ぬわけですが、針葉樹のモミ亜属は、芽の原基の水分を脱水することにより、−45度Cくらいまで耐えられるそうです。脱水された水分はクラウンの下で氷の状態となり、暖かくなると元の状態に戻るということです。
 サンシュウなどの花芽はりん片の中に水分を入れることによって、また、シャクナゲは維管束を使って細胞の中の水を出し、寒さや凍結に耐えているとのことで、一般にりん片の数は北にいくほど、寒くなるほど多くなるということです。
 同じ品種でも場所によって、環境の変化によって変わるといわれ、特に盆地性のところのものは寒さに強く、照葉樹などは土壌凍結、冬の乾燥害に弱いということで、ヤナギ、ポプラなどの温帯落葉樹が乗り越えられない壁は−40度Cだということです。遺伝子保存などには、なるべく遺伝的変移の大きい集団を残すことが大切であるようです。
 植物も寒さに対していろいろな方法で適応しているのですが、特に興味深く聞いたのは、ヒマラヤ地方の植物で−25度Cから-30度C以上に耐えるものはないということで、ちょっと意外な感じで驚きました。
 今年の県内の最近の(5月16日前後)平均気温は平年より3−5度下回って推移しているといいます。
 農作物の低温対策では水稲などは、水深を深くしたり水温の低い水を貯めて水を暖かくする工夫や、リンゴやナシでは防霜ファンの使用、野菜はワラやビニール資材をかけたりすることや、植え付けを遅らせることが被害を少なくします。最近の野菜苗はビニールハウス内で養成されたものが多く、低温に対して抵抗力がありませんから、数日外気に慣らしてから植えることが必要です。


 カタクリのお話
カタクリ(ユリ科)
 方言 かたこゆり・かたこっこ・かたご・・・など    古名 かたかご 花ことば 初恋 (遠い青春なのだ)

         「もののふのやそおとめらが汲みまごう
                       寺井のうえの堅香子の花」    (万葉集 大友家持)

 カタクリの名は古名のカタカゴがカタコユリになり、さらにカタクリに転じたものといわれている。
また、花の咲く状態、鱗茎の型からカタカゴはコバイモであるという説もある。(前川文夫1982)

 鱗茎から良質のでんぷんがとれる。
江戸時代から漢方薬として重宝され老人や子どもの下痢止めや解熱に用いたり、湿疹などに鱗茎をつぶして外用した。(日本薬局方 準局方)
下痢止めに使ったのはアミロペクチンの膜が薄いので消化がよいから。この頃ではジャガイモのでんぷんがはばをきかせている。
葉と花も食用になる。 ひたしもの、酢のもの、あえものなどに利用される。
だが・・・・・・
わずかな期間にしかも少ない葉で光合成を行い、養分を貯え、個体と種を維持しているので、山野での採取は控えたい。

塩尻地方では例年4月15日前後に花を咲かせる。今年は8日だった。いつになく早い。
ソメイヨシノが咲く頃花を見せ、散る頃花がしぼむ。・・・・・妙に重なるから不思議だと思っていたが今年は変だ。
花の色は白に近い色から濃いピンクまで個体差が大きい。北向き、北西、東南の斜面に多い。

スプリングエフェメラル(春のはかない生きもの)
 カタクリのほかにイチリンソウ・ニリンソウ・アズマイチゲ・ヒメニラ・ムラサキケマン・ヒトリシズカ・・・・など林床植物が多い。
 ヒメギフチョウもそうだ。そしてカタクリはヒメギフの代表的な吸蜜植物だ。
林床の変化に対応した植物の生活を観察してみよう。
 季節的なすみわけが成立しているようすがいまならわかる。中高木が茂らない状態の中で生育し、中高木の葉が茂ると生活環を閉じる。芽の伸長から開葉、開花、結実まで一気だ。
カタクリが少なくなるのは何が原因だろうか。生育地の環境を守るにはどんなことが必要なのか考えてみたい。


 塩尻の春を知らせる植物
 3月のお彼岸を過ぎると春はかけあしでやってきます。
長い冬をじっと耐えてきた身には嬉しい季節です。あちこちから春のたよりが聞こえてくるとなんだかきぜわしく感じられます。祖母の「春貧乏というだぞ」という声が聞こえてくるようです。これは「いろいろしたいことが山ほど春にはあり、ちゃんとしないと貧乏になる状態」をいう言葉ですが、信州の中でも寒さが厳しい塩尻ならでの言葉だと思います。
 そんな春貧乏の一つを紹介したいとおもいます。
 (すべて、散歩の途中みたものです)園芸種とは家庭の庭に植栽されていたもので開花していたものです。

お彼岸〜3月下旬に開花した植物。
 特記以外場所は塩尻市みどり湖周辺 標高840b前後の地点です。
オオイヌノフグリ  2/15陽だまり開花
ヒメオドリコソウ  3/01陽だまり開花
ホトケノザ  3/05陽だまり開花
フクジュソウ  3/20園芸種
フキノトウ  3/20
キバナノアマナ  3/23園芸種
レンギョウ  3/25園芸種
プリムラ   3/25園芸種
ウメ  3/30園芸種
イヌナズナ  3/30
ミズバショウ  3/31
ザゼンソウ  3/31

4月になって開花した植物
 4月になって雪が降りました。ここ近年無かったことです。
スミレ  4/05
ナズナ  4/05
アセビ  4/05園芸種
カタクリ  4/08
ボロギク  4/8
ショウジョウバカマ  4/10
ヒトリシズカ  4/10
ウスバサイシン  4/10
タンポポ  4/10
エンコウソウ  4/10特記(中西条地籍姥ヶ池)
ツクシ  4/11
スイセン  4/12園芸種
ヒマラヤユキノシタ  4/15園芸種
コブシ  4/15
タムシバ  4/15
モクレン  4/15園芸種
シモクレン  4/15園芸種
シダレザクラ  4/16
コヒガンザクラ  4/16
ソメイヨシノ  4/18
クサボケ  4/20
シバザクラ  4/20園芸種
ユキヤナギ  4/20園芸種
ナノハナ  4/23
ヤマブキ  4/23
イカリソウ  4/23園芸種
モモ  4/24
オキナグサ  4/25園芸種
ミツバツツジ  4/25園芸種
ハルジョオン  4/27

 限られた場所でもこれだけの植物の開花が確認できました。あなたの住んでいる場所と比較して見てください。違いがあるでしょうか。
生物の活動は光と温度によって影響をうけます。今年のように寒暖の差が激しいといきものの生活にどんな影響があるのでしょうか。


春の農作業
 お彼岸を過ぎると農家の家では本格的に農作業が始まります。
畑の耕起から春採りの野沢菜の種まき、アスパラの収穫前の作業、キャベツ・レタスの植え付け、田んぼの耕起とさまざまな作業が続きます。
我が家の小さな畑でも耕起、草取りがまず春の一番の仕事です。秋の耕起のあと、土の硬くなった畑を起こしながらいろいろなことを考えます。農家の小さなこまごまとした作業がいまの田園風景を形作っています。
 手抜きをしたりすることはそのまま自分の収穫に関わって来るだけに根気良く作業を続けることが求められます。なんの職業でも同じことですが改めて感じさせられます。
このような作業が営々と太古から続いてきた結果、いまの田園風景があると思うと何か不思議な気持ちを持ちます。
 ただ、生きるための作業ですが人は止めることが出来ない、耕作を止めれば田畑は荒廃し元の原野に戻り人の手が入らない風景に戻ります。農地は人と自然の関わりを如実に物語ってくれます。
 今日は、ジャガイモとキャベツ、ブロッコリーの定植をしました。年のせいかだんだんと疲れやすくなり半日位が丁度良くなりました。片手間の農作業ですが生きるということは大変なことですね。


タンポポのお話しです。 塩尻のタンポポの名所はどこでしょうか。

                                タンポポ(キク科)
タンポポの方言 くじな ぐじな むじな たんぽこ。
古名 ふじな(布知奈)たな(多奈) 和名類聚抄930年代。

呼び名のいわれ
 柳田国雄説 たんぽぽという名は古名のつづみぐさから出たもので鼓の音タン、ポンに由来するという。裂いて水につけると茎の両端が鼓の形になる。
 牧野富太郎説 たんぽ穂の意味で球形の果実穂からたんぽ(布で綿をくるみ丸めたもの)を想像したものという。
どちらにしてもタンポポという名が広まったのは江戸時代からという。

「いつしかに春の名残りとなりにけり、昆布干場のたんぽぽの花」 北原白秋

タンポポの種類。
エゾ・カントウ・トウカイ・カンサイなど約20種が分布(北村四郎)
セイヨウタンポポ・アカミタンポポはヨーロッパ原産であり帰化植物である。

タンポポの生活の違い。
 開花期 在来種 ほとんどが4−5月に咲く 帰化種 ほぼ一年中で花期の巾が大きい。
在来種は一株当たりの頭花数や一頭花当たりの小花数は帰化種より少ない。また、種子数も少ない。発芽率も低い。
 年間の種子生産量はカンサイタンポポで19600個平方p セイヨウタンポポで107500個平方p。 
在来種は昆虫などによる受粉の媒介が必要。(有性生殖)風媒花ではありません。
 ほかのタンポポの花粉でないと種子ができない。(自家不和合性)
帰化種は一株でも種子はできる(単為生殖)

タンポポの分布
 在来タンポポ 農村的環境ー農道、土手の草むら 有機質の多い適当に湿った場所。
 帰化タンポポ 都市的環境ー空き地、造成地、グランド、道端、工場の空き地、有機質が少ないやせた土地、乾燥地でも生育できる。
          人間の作用が強く加えられたところに多い(踏みつけ・整地・かく乱)

人とタンポポ
 生薬名は蒲公英(ほこうえい) 全草 主な成分イヌリン・パルミチン酸・セロチン酸・リノール酸など。胃アトニー・胃のもたれ・苦味健胃薬 準局方。
 食用 花の咲く前におひたし、油いため、てんぷら、根はコーヒーの代用 くじな(苦味菜)カルシューム・ビタミンAを含む。
     ヨーロッパではイースターの休日にタンポポの若芽にゆで卵をまぶしてサラダを作る。
 ことわざ タンポポの花がしぼむと雨。冠毛が耳に入るとつんぼになる。
 遊び 水車(茎) 風車(茎) むぎわらや細い竹や木の枝を軸にする。笛(茎)吹く。茎が中空なのは大きな花を支えるため。
     腕時計・かんざし(花)
     冠毛を飛ばす。
 想い出
     小学生の頃、学校に「タンポポ劇団」が来た。座長のおばさんが「踏まれても踏まれても花を咲かせるタンポポは〜」と歌った。
 


 ヒメギフチョウの調査  私が塩尻の里山で観察した記録です。画像で載せたため読みにくいと思いますが、お許し下さい。





フェノロジー研究(生物季節学)のすすめ
 このところ寒さが続き春の遅れが心配されています。春一番が吹いたと言うのに大陸の冬将軍がまだ健在なのが原因のようです。
みどり湖のミズバショウもまだ雪の中です。例年だとお彼岸近くになるとそろそろ顔を覗かせるのですが・・・・・・。このぶんだと里山のザゼンソウ、サクラソウ、フクジュソウ、カタクリ、など里山の春を彩る花々の遅れが心配です。
 春とともに咲きだす花や伸びてくる芽を記録しておき、生物の季節的な移り変わりを毎年比較してみる学問があります。フェノロジー研究(生物季節学)といいます。最近では研究者も増えてきていて盛んなようです。
 学問とか研究というとなにか大変なことのように思いますが、この学問は誰でもできます。春の訪れから冬になるまでの季節の移り変わりと、植物の成長の様子を自分の目で追いかけ、観察して記録すれば立派な研究になります。小さな自然が動いているという実感がわきます。
 近くの雑木林で始めてみませんか。
最初は好きな木や草花で、無理せず毎日通える身近なところで始めましょう。記録が大切ですからこまめにノートや写真で記録しましょう。開芽、開花、開葉、紅葉や落葉、結実、落果などさまざまな様子を記録しておけば、いつ頃、どこにいけばその植物が見られるかわかってきます。
 近くに雑木林がなければ庭でも結構です。毎年比較するには観察するものを増やすと大変ですから3,4種類で始めてみましょう。
要は根気よく毎日観察することが大切な学問です。


冬芽を見る
 冬芽とは、春になると伸びだす葉や枝、花が冬越ししている姿です。三月もお彼岸近くになると暖かい日が続くようになります。そんな日には思い切って雑木林に出かけ冬芽を見てみましょう。

 コナラは魚のうろこのような芽鱗(がりん)と呼ばれる鱗片葉に覆われ寒さから保護されています。サクラ、ミズナラなども同じ鱗芽(りんが)を持っていますから近くに寄って観察してみてください。
 ガマズミは粗毛とよばれる細かい毛の生えた芽鱗に包まれています。庭木として植栽されているモクレン、ハクモクレン、コブシなども長い毛を持っています。
ホウノキは二枚の鱗片葉で芽全体がすっぽりと包まれているのがよくわかります。革のように丈夫そうです。
秋、紫色の実を沢山付けるムラサキシキブは裸芽という鱗片葉を持たないものです。オニグルミ、ヤマウルシ、ニガキなどもこの仲間です。

 マンサク、ダンコウバイ、アブラチャン、クロモジなどは春一番に咲く植物ですが、葉芽と花芽の見分けがはっきりわかります。葉芽は細く小さく花芽は丸くぽっちゃりとしています。よく観察してみましょう。ニワトコ、トチノキなどの混芽も観察すると面白いと思います。
また、葉痕が動物の顔などに似ているものも沢山あります。スケッチなどしておくと、樹木の名前などを特定するに役立ちます。

 いま、里山は手入れがされず、ほったらかしにされています。スギ、ヒノキなどの植栽林を除けば雑木林は落葉期でないと歩けないくらい荒れていますが、冬芽を観察するには今の時期が一番です。
 落葉した樹木はむき出しの個性をみせます。よけいなものを見せないだけに名前を知るにはいい時期です。

一本の枝から名前を検索し、春を待つ命の息吹を感じることが楽しみになればと思います。