食と環境          

食と環境 (白抜き文字は一口知識です)  


  リンゴ三兄弟

 リンゴ三兄弟ってご存知ですか。
長野県のりんご生産量は全国の約1/4を占め、全国第2位の生産県ですが、早生種の『つがる』が出て、次に収穫期になるのが『秋映』『シナノスイート』『シナノゴールド』 です。この『秋映』『シナノスイート』『シナノゴールド』の三者を「りんご三兄弟」といいます。「りんご三兄弟」は中生種と呼ばれています。

 この「りんご三兄弟」の生い立ちと特徴などを簡単に紹介しましょう。
まず、『秋映』ですが、
 長野県中野市の小田切健男氏が、交配・育成・選抜し、1993(平成5)年に品種登録しました。果形は円形、大きさは300〜350g前後。果肉は硬め、着色が非常に良い品種で寒く標高が高い地域の秋映は黒ずむ傾向にあります。種親は「千秋」で花粉親は「つがる」です。
 収穫期は9月中下旬から遅いもので10月中下旬までで、果肉は硬めで蜜はほとんどありません。糖度14%程度で甘味は中、酸味も中というところです。

 『シナノスイート』は、
 1978(昭和53)年、長野県果樹試験場が、交配・育成・選抜した品種で、1996(平成8)年に登録になりました。 大きさは300〜400gで円形。赤〜濃赤色縞状の着色となります。甘さも強く、適度な酸味もあり香りもよく、果汁が多いので兄弟の中でも人気者です。収穫期は10月中旬です。種親は「ふじ」で、花粉親が「つがる」になります。

 『シナノゴールド』は、
 1983(昭和58)年に長野県果樹試験場で交配、翌年その種子を播き、1990(平成2)年に選抜して、1995(平成7)年に育成を完了。1999(平成11)年に品種登録したものです。果肉は黄色で、香りがあり多汁です。収穫期は10月下旬〜11月上旬となります。完熟すると糖度が高く、硬い食感が人気です。保存性も良好で貯蔵することができます。種親は「ゴールデンデリシャス」で、花粉親は「千秋」です。

 「りんご三兄弟」を品種登録からみると、『秋映』が長男で、次男が『シナノスイート』、三男が『シナノゴールド』となります。それぞれ食味が違ってそれぞれのファンがあって人気物です。この兄弟には全農長野が作った歌があります。この歌も紹介しましょう。

 まず、『秋映』の歌です。
 ♪りんごりんごりんごりんご
信州!りんご三兄弟

秋が映える「秋映」
その甘さはオトナの味
ちょっとイケメンなリンゴです
秋映をよろしくね

♪りんごりんごりんごりんご
信州!秋映〜

 『シナノスイート』は
♪りんごりんごりんごりんご
信州!りんご三兄弟

つがるとふじがパパとママ
私はシナノスイート
果汁がジュワー甘さもマル!
信州生まれのリンゴです

♪りんごりんごりんごりんご
信州!シナノスイート〜

 『シナノゴールド』は
♪りんごりんごりんごりんご
信州!りんご三兄弟

お日さまつまったゴールドカラー
私はシナノゴールド
おいしさゴールドメダル級
シナノゴールドおぼえてね

♪りんごりんごりんごりんご
信州!シナノゴールド〜

 というものですがラジオCMで聞いた方もおありでしょう。「りんご三兄弟」を「りんご三姉妹」にしなかったのは何故でしょうか。りんごを女性にPRするにはもってこいの歌だったのに残念です。年々りんごの消費量は低下傾向にあり、特に若い人のりんご離れが深刻化しているといわれています。「りんご三兄弟」はJA(選果場)を通した市場出荷が主に行われていますが、「りんご三兄弟」のあとには晩生の『サンふじ』が続きます。
 りんご農家はこれからが勝負です。

(10/10/18)


  やしょうま

 毎年、2月15日近くになると長野県の各地で「やしょうま」づくりが始まります。
「やしょうま」とは米の粉を熱湯でこねて蒸し、細長く棒状に伸ばし糸で食べ易いような厚みに切ったものですが、各地でいろいろな「やしょうま」が作られています。長野県は広いので、この「やしょうま」の名の由来については諸説があります。少し紹介してみましょう。

 お釈迦様の亡くなった日(入寂した日)は2月15日 (旧暦)とされています。この日を偲んで涅槃会(ねはんえ)という法要が行なわれますが、長野県では寒いため月遅れの3月15日に行う地域もあります。また、地域によっては日をずらし観音様やお薬師様のお祭りと一緒に行うところもあります。
 安曇地域では「やしょま」といい2月15日に行う地域が多いのです。長野市近辺では「やしょうま」といい、3月15日に行います。お釈迦さまの妻の「ヤソダラ姫」がお釈迦さまの臨終の時においしいもちを差し上げたところ、「ヤソ、うまかったぞ」いわれたことからといわれています。また、北信の七ニ会では形が馬の背中に似ているから「やせうま」、それがなまって「やしょうま」になったともいいます。また、馬の足型をかたどったともいわれています。飯山地域の奥信濃でも「やしょうま」といい2月15日に行います。
 佐久地域では「やしょうま」といいますが、月遅れの3月15日に行い、いわれはお釈迦さまの弟子の耶舎(やしゃ)がつくってあげたところ「やしゃ、うまいぞ」とおっしゃったことからといいます。安曇では「やしょ」という弟子が「やしょま」を差し上げたら「やしょ、うまかったぞよ」といってなくなられたからといいます。
 塩尻市では「やしょま」といったり「やしょうま」といい2月15日に行うところが多いです。塩尻市と合併した楢川地区では「オミミ」といい3月15日に行うそうです。木曽地域ではやはり「オミミ」と呼び、これはお釈迦さまの耳に似ていることから付けられたといいます。
 北安曇野一部では「あたり団子」松本市に合併した安曇村では「枕団子」、安曇野市の烏川では「釈迦の大骨」などというそうです。
 「やしょうま」は涅槃会の行事ですが、各家庭でも仏壇の佛さまに供えて供養し、翌朝下げてみんなで頂くというのが普通で、どこの家でも必ずつくったものです。お寺や堂で檀家の人たちがつくった「やしょうま」を、お詣りにきた人にわけることも昔はおこなわれていました。このため2月15日は「やしょうまを引きにいく」といいました。私の家の近くの薬師堂にも「やしょうま」が供えられていました。
 「やしょうま」には言い伝えも残っていて、お釈迦さまのように頭が良くなるようにとか、一つ残しておいてマムシにかまれたらつければ直るとかいわれていました。
 また、お釈迦さまがご病気の時ネズミが天へ薬を取りに行ったが、高い木の枝から降りる時、猫にみつかり食い殺されてしまって、そのため薬を飲めずにお釈迦さまが亡くなって、ネズミは十二支の仲間に入れてもらえたが、猫は入れてもらえなかったとか、お釈迦が亡くなったときあらゆる動物が来て嘆き悲しんだが、ツバメは化粧していて来なかったため、やはり十二支の仲間に入れてもらえなかったなどの言い伝えがあります。

 私の家では祖母と母が「やしょうま」をつくりましたが、近所のおばさんたちが持ってきてくれたいろいろな「やしょうま」も味わうことができました。それぞれの家での個性のあるつくりで、できばえも見事なものでした。家でも「あんね、うんまくできたじゃあねぇかぇ」といった祖母と母の会話を思い出します。子ども心にどうやったらこんなに上手にできるのか不思議に思ったものでした。それぞれの家で形も違うし、色つけも違い、甘さも違い、ひょうたんや繭玉のようなものから、花形、巴形のもの、葉っぱの形のものといろいろなできで、お釈迦さまならずとも持ってきてくれるのを楽しみにしていたものです。
 家では男の子ばかりだったので祖母が「男じぁ、教えてもしょうがねえわ」などといいながら作っていました。それでも米の粉の熱いのをがまんして練るくらいはできました。せいろ(蒸し器)から出したものをこねることもしました。梅漬けの汁を入れたり、食紅で色つけしたり、大豆やゴマを入れたり、青のりを入れたりしたものをこねた覚えがあります。

 各地でいろいろなつくり方がありますが、このあたりでの標準的なつくり方を簡単レシピですが紹介したいと思います。。
 
 1. 米の粉をこね鉢に入れ熱湯を注ぎ練る。
     甘くしたい人は砂糖を入れる。やけどしないようにやかんを左手で持ち少しずつ入れる。二人でやると楽。
 2. 耳たぶくらいの柔らかさになるまでこねる。
     熱いのをがまんしてこねる。
 3. 一握りほどにちぎって、蒸し器(せいろ)に入れ蒸す。15−20分くらい
     状態がわからなければとりだし、割ってみてみて透きとおっていればOK 。白ければだめ、
 4. 蒸したものをさっと水に入れザルにあげる。あげたら冷えないうちによくこねる。
 5. 食紅や絵柄にするもの2〜3等分と無地のそのままとに分ける。
 6. 絵柄になるほうを組んで棒状にする。色がない白の生地でまわりを囲む。隙間が出来ないようにくっける。
 7. のし板の上に片栗粉を引き適当な太さに伸ばす。5センチくらい。
 8. まな箸ニ本で外側を押して好きな形をつくる。柔らかすぎてしまったら簾を使い巻く。
 9. 冷えてから適当な厚さに切る。柔らかだったら糸で切る。出来上がり。
     一晩おくといいあんばいな柔らかさで切れる
 
 柔らかいうちはそのまま食べますが、硬くなったら焼いて砂糖醤油でいただきます。
私の家ではこの日は、赤飯(せきはん)もふかし、「やしょうま」と共に、お釈迦さまが沢山召し上がっても、胸がやけないよう沢庵漬けを添えて仏壇の佛さまにお供えしました。
 いま、「やしょうま」のつくり方を子どもたちに伝えようとあちこちで講習会が開かれています。郷土色豊かでありながら忘れられそうな行事食を取り上げ、残そうと熱心に取り組んでいる人たちがあちこちにいます。心強い限りです。子どもたちが習い覚え、親になったとき、それぞれの家庭でそれぞれの「やしょうま」を子に伝えていけるそんなことが普通になれば嬉しいと思います。 
 
(10/02/03)


  「実山椒」を作る
実山椒を作る

 今日は雨が降ったのでゆっくり「実山椒」を作ることにしました。
きのう午後、犬との散歩のおり、近くの里山からサンショウの実を採ってきました。もう大部硬くなっています。本当は、もっと早いほうが実が柔らかくていいのですが、なんとか「実山椒」の材料になりそうです。

 小さなビニール袋いっぱいの実をいただきました。
 家の庭にも三本ばかり山椒が生えていますが、植えた覚えはなく、小鳥が運んできたものとおもいますが、放任しておけば実をつけるのですが、「すりこぎ」にしょうと大事にしてきれいに剪定してしまうので実をつけることができません。幸い里山に山椒の木が沢山あるので庭の山椒を当てにしなくても「実山椒」を楽しむことができます。
 暑苦しく食欲がなくなる夏にピリリとした味は捨てがたいものです。作っておけばちりめんや小女子などと混ぜてお酒のさかなにもなります。

 「実山椒」の作り方
 
 材料
 サンショウの実
 酒(料理酒)
 砂糖(三温糖か、ざらめ糖)
 昆布(日高昆布など)
 醤油(かつおだしなどでも良い)

 1. サンショウの実は一晩水に入れてアク抜きをします。
 2. アク抜きが終わった実を5分くらいゆでます。
 3. ゆでた実をざるに取り、流水で5分さらします。
 4. さらした実を鍋に入れ、水と酒、昆布を加え煮ます。
    水は煮汁にするので分量は実より多く入れます。ヒタヒタの水では少ない。酒の分量は好みで、昆布は5aくらいに切って多めに。
    沸騰したらふたをして弱火で40分くらい煮る。
 5. 三温糖、醤油を加えふたをして更に1時間弱火で煮込む。砂糖は醤油の前に入れる。
 6. 煮えたらふたをとり一晩おく。
 7. 煮汁だけ別の鍋に移し、醤油を少し加えて前の半分くらいになるまで煮詰め、煮詰めたら冷ます。
 8. 容器に実山椒を入れ、実が浸るように煮汁をかけ冷蔵庫で保管する。

 甘みは砂糖と醤油の分量で調整してください。煮る時は弱火で焦がさないように。サンショウの独特の匂いが部屋中に広がりますから、匂いが嫌いな人は窓を開けて調理することです。コツは煮過ぎないことです。
 サンショウの実は房のまま煮てもいいのですが、後で小枝を除くのに苦労しますから、始めから房の小枝は外しておきます。実の軸はそのままでも食べられますが、気になる方は根気よく外しましょう。
 一緒に煮た昆布は山椒の味がついて乙な酒のつまみとなります。「実山椒」は冷奴などとあわせると涼味を感じます。

 (09/06/30)


  農家と降ひょう

 私がお手伝いに行っている農家は松本市の今井の果樹農家です。りんごを中心にプルーン、桃などを生産していますが、この16日の午後の降ひょうで大きな被害を受けました。
 16日午後降ったひょうは、松本空港周辺で笹賀地区、今井地区、塩尻市の岩垂原で、短い時間でしたが狭い地域に被害が集中しました。今井地区では空港から南の方角、特に宝輪寺周辺で農作物に大きな被害がでました。
 りんごは1回目の摘果作業が終り、見直し作業に入る直前で、ブドウはジベレリンの処理が終りやれやれという時期で、桃やプルーンも摘果が終わったという段階でした。県農政部の17日のまとめ(速報)では、松本市だけで被害額4億6000万円余となることを報じ、松本市でも菅谷市長が視察、農作物等災害対策事業を実施して、降ひょう被害にあった農家に対し、独自の支援策を行うことを決めました。塩尻市では被害額はレタスなどを中心に約6千80万円で、被害面積は洗馬地区を中心に141・7fに及んだといいます。
 今井の宝輪寺周辺では大きい物で直径1・5センチほどのひょうが降り、「道が真っ白で車が滑った」という話が出るほどでした。ひょうは短い時間でしたが断続して降り、15分間程度から3分前後と地区によってまちまちですが、鎖川から西の地区は被害を免れました。
 りんごは果実が傷つき、ブドウは葉が落とされ房が千切れるという状態で、農家の人たちはいっとき、放心したといいます。

 「ひょう」は、よく気象庁やテレビの天気予報で「大気が不安定のため雷や、ひょうに注意」などと簡単に説明されていますが、ひょうは積乱雲や雷雲の中で作られ、雷を伴い降ることが多いのですが、この日の松本平は曇天で肌寒く午後近くから小雨が降り、雷が鳴るという状況で確かに「大気が不安定」でした。
 昔から松本盆地と甲府盆地は「雷」が発生しやすいことで有名ですが、これは南北アルプスが近くにあり、影響を受け易いことがあります。梅雨だからと思っても、このなかで大気は、積乱雲(わたぐも)を作り、氷の粒は上昇気流のなかで成長していたのです。
 16日はオホーツク海高気圧が北海道に、沖縄付近には梅雨前線が停滞していて、天気図は梅雨型となっていました。中国大陸の低気圧が張り出し、沖縄から太平洋上には低気圧が停滞していて梅雨前線の活動は活発でしたが、オホーツク海高気圧が曲者で、影響を受けた関東以北では気温が下がり、本州の山沿いで昼過ぎから雷雲が発生してひょうを降らせたものでしょう。ひょうは東側の美ヶ原や鉢伏山の方から来たといいます。

 果実に傷がついたりんごはどうなるでしょうか。
 18日にJA松本ハイランド今井支所は、降ひょう被害にあったりんごやなしの今後の対処方法を指導する講習会を4か所で開きました。表面が凹んだものを残し、果肉にまで達したものは摘みとるなどを指導、市場には特別な等級で出荷できるよう交渉しているといいます。JAは、農家が生産意欲を欠き、放棄したり、手入れを怠るのを心配しています。農協も販売がなければ販売手数料も入りません。農家でも自家で全量販売できる人は限られていますから、JA頼みとなりますが、ここは気持ちを切り替えてがんばるより他に手はありません。消費者に良いものをと意気込んでことしの作業が始まった矢先の災難で、萎えそうな気持ちを来年に向けて前向きに考えてがんばって欲しいものです。
 個々のりんごの傷の程度はさまざまですが、深いものから浅いものまで、三脚の上段から見下ろすと苦痛になるほどの惨状です。傷のないものを探すのが難しいくらいで、よく漫画や小説で「ボコボコにした」などと表現されますが、ゴルフボールの表面のように凹んだ複数の傷がついています。このようなりんごでも「仕上げ摘果」をやはりきちんとしないと来年の収穫に結びつかないので、いい加減に済ますことはできません。来年度の生産に負を引きずらないために、病害虫の防除や樹の管理などいつもの通りの栽培管理を続けて行かなければならないのです。投げ出すことはできないのです。
 早生の「つがる」は8月下旬から9月に出荷となりますが、JA松本ハイランドの指導員でも今回のようなひょう害は初めてということで、果肉への影響がどうなるのか、食味がどうなるか、分からないところが多いということですが、果樹の種類、品種ごとに追跡調査をして記録を残し、「災い転じて福となす」取り組 みをして欲しいものです。昨年泣いた松川町や青森県の販売の取り組みのようすなどを生産者に知らせるなどしてケアーをして欲しいものです。

 農家ではひょうの対策に手をこまねいているばかりではと、寒冷紗の網をりんごの樹にかけたらと考える人もいます。野菜やなし、ブドウのように丈が低かったり、棚のあるものでは有効でも、りんごなどでは立木やわい化栽培で大きくなった樹には、張るのに障害がおおく実用化までにいたっていません。
 ひょうが局地的に発生するのと時間が短時間のため、個人では多額の費用がかかる防ひょう網が設置できないのです。この防ひょう網を多目的に利用、「陽焼け」「過熟」防止に活用したらと期待は高いのですが、費用がかかるため何らかの後押し策がないと架設に至らないのです。
 農業はお天気次第といわれ、昔から天災に泣いてきましたが、ここにきて地球温暖化という厄介な事態も目に見えるようになりました。長野県はみかんの産地に、北海道でりんごがとささやかれています。稲作は北上していまでは米は北海道と専らの評判です。私たちの生活が多かれ少なかれ大気に影響を与えていることがわかってきて、いま、暮らし方が問われています。
 果樹農家はおいしい果実を消費者に届けようと一年一作に生計を懸けています。栽培の種類も品種もリスクを分散させていろいろと考えて作っていますが、売らないことにはどうにもなりません。暮らしがたたないのです。どうか見てくれで判断するでなく、傷りんごでも温かい気持ちで味わって欲しいと切に願うものです。

(09/06/22)


  米の減反
 
 4月に入ると田の耕起が始まります。今年も沢山お米をとろうと作業が始まるのですが、生産者が好きなだけ米を作れるようにはなっていません。お米は生産目標があって、農林水産省が需要見通しなどを踏まえて、各都道府県に割り当てている生産目標量というものがあります。生産目標量を減らすには減反ということが必要です。このため生産調整という見直しが行われることになります。 
 今年、長野県全体に割り当てられた米の生産目標量は前年比0・03%減の20万6840トンで、ほぼ前年並みとなっています。この生産目標量を県と農業団体などでつくる県水田農業推進協議会という組織が、各地方事務所ごとに生産目標量を決めるのです。長野県内分は5年連続の減少ですが、前年度比0・5%減だった08年産米に比べると、今年の減少幅は小さくなっています。
 地方事務所ごとの生産目標量は、松本4万6430トン、上伊那3万738トン、佐久2万5921トンなどになりましたが、佐久地方事務所管内については 、08年産米の作付面積で長野県全体の55%に当たる、472haが過剰作付となり14%目標をオーバーしたので、09年産米で本来の目標量から86トン減らす措置がとられることになりました。
 塩尻市はどうでしょうか。
 塩尻市水田農業推進対策協議会(代表・小口利幸市長)は、1月の総会で21年度産の作付面積を配分しました。塩尻市は08年度の作付面積は616haだったのですが、塩尻、片丘、広丘、楢川で減反が進まず、松本地方事務所管内では塩尻市だけが目標を達成できず、約25ha超過したため、21年度は昨年の未達成分を上乗せしなければならず、市全体で29haの減反に取り組まなければならないことになりました。過去最大の減反といわれ、これも塩尻市で減反に参加しない農家がいるということを示しています。

 稲作農家は減反になぜ参加しなければいけないのでしょうか。これには訳があります。
 農林省はは米の消費量の減少に合わせて(需要見通し)生産量を減らすことで米価格の暴落を防いできました。そのため減反という生産調整に協力、転作した農家には補助金を出し米価を支えてきたのですが、これが最近うまくいっていないのです。
 減反が始まってから約40年が経ちましたが、この間に政府は7兆円におよぶ税金をつぎ込み価格の維持を図ったのですが、米の消費量は落ち込み、カロリーベースの食糧自給率も40%と落ち、農家の高齢化も進み、それにつれて農業の就業人口が300万人ちょっとで、そのうちの6割が65歳以上というという状況になり、農地があっても耕作出来ない、耕作しないという耕作放棄地が全国で増え、農地全体の1割に達するということになってしまったのです。
 米の消費量や自給率の低下は、食生活の変化と安い農産物の輸入が大きな要因になりました。小麦や大豆、トウモロコシなどもともと零細農家の多い農家で生産される穀物は、ほとんど競争に敗れ、価格は下がり農家の所得は減っていったのです。
 米については、ウルグアイ・ラウンド合意で輸入米に778%という高い関税をかけ、米だけはと政府は稲作農家を守りました。輸入については世界貿易機関(WTO)の交渉がありますから、米の関税も下げざるを得ないのではないかということで、いつまでも農家を守っていくということが難しくなりつつあります。
 米の価格が下がらないよういままで政府が、備蓄名目で米を買い上げて価格維持を図っていましたが、そんなことは止めて市場にまかせろという意見もあり、与党の農水族からは、市場にまかせれば暴落してしまい選挙に差しさわりがあるという突き上げがあるといわれています。
 消費者にとって主食である米が安く手に入るのは嬉しいことです。低所得者である私などは大歓迎なのですが、生産者である農家が勘定に合わないと、意欲を無くして米作りを止めてしまえば、いま以上に深刻な問題を引き起こします。一概に安ければいいと喜んでいられない事情があります。現在、米の価格と米農家の所得は、かろうじて減反で維持されているのです。
 農家でも大規模に稲作に取り組んでいる人たちは、ブランド米として付加価値を高め、自分で販路を拡大して消費者に直接渡そうとしています。県内でも佐久地方の農家は高値でも売れる「五郎兵衛米」の産地であるため減反に不参加の人たちが多く、「締め付け」にめげず、自分で米を売ろうとしています。
 現状では減反に協力参加する人と、作りたいだけ作って売る不参加の人たちの間に不協和音が出ています。協力しない人が得をするので不平等だとの批判が多いのです。自分で売れる力を持っている生産者は減反に参加しないのです。補助金をもらうより売った方が収入が多くなるからです。
 米農家の収入については、平均で475万円前後になりますが、零細米農家の年間農業所得は全国平均でわずか38万円です。大規模農家の農業所得は338万円(07年農水省資料)で農外所得が少なく、反対に零細米農家では農外所得や年金で収入を得ているということになります。減反政策は米農家を一括りしていますが、大きな矛盾をはらんでいることがわかります。大きな農家は非協力で米は自分で売り、兼業農家はJAなどに委託、販売してもらうという構図です。

 農水省は支援を受けるには生産調整実施者であることが必要と、平成19年から新たな需給調整システムを設けました。新たな産地づくり対策(平成19年度〜平成21年度)を盛り込み、米価下落対策の基本的な仕組みとして、対策期間中は一定額を交付することと、新需給調整システム定着交付金については、県段階の判断により、使途・単価を決定するとして@超過達成(大幅に米の作付けを減少させる場合)A 地域振興作物(従来は対象外であった麦・大豆・飼料作物の取組も可)B その他の意欲的な生産調整の取組とし、都道府県別配分については、毎年、配分の見直しを行うとしています。つまり飴と鞭です。
 塩尻市も地域の水田農業推進対策協議会として「塩尻市水田農業推進対策協議会」という組織で取り組んでいるわけですが、ペナルティがあるためなるべく多くの農業者に協力して欲しいということになります。
 米の価格が下がると(供給が過剰になると)生産者はもちろん、JAや米業者など販売や流通に係わる人への影響が大きく、需用は食生活の変化から価格が下がっても大きく伸びることはないといわれていますが、収入の低い人たちの負担軽減にはなります。安くなっても昔のように「まんま、たんと食べろよ」と副食が乏しかったころのように、現代では沢山食べるようにはならないのです。
 米農家が減反に協力して水田に他の作物を作ってもうまく育たないところもあります。適地適作というのは農業の基本であるのですが、それがうまくいかず、わずかな補助金では嫌だと、高齢化や後継者、人手不足などの理由から放置する水田が多くなっているのは事実です。小麦や大豆では米ほどの収入が得られないのも事実なのです。飼料米への転換や佐久市などの過剰作付け地(減反に協力しない)では、作付け削減のため米粉としての利用を図る地区もでてきました。

 農水省は、どうするのでしょうか。
 ここにきて、石破農水省は減反見直しを掲げ、生産調整(減反)を農家の判断に任せる「選択制」に転換、米価は市場にまかせ、農家の所得対策は減反参加者に固定額の新設交付金をあて、農地の賃貸では企業の参入を自由化し、食糧自給率を10年後には50%にするという農政改革構想を打ち出しました。夏までに中間とりまとめをして、10年度の予算要求に反映させるということですが、農林大臣は今を逃せば永遠に農政改革はできないと懸命ですが、早くも選挙を控えて与党農水族議員が反発しているといわれています。
 野党である民主党はどうでしょうか。
 「主食米については消費量に照応した生産数量目標を設定してそれに従った農家を所得補償の対象とし、同時に米粉米、飼料米、バイオ米を最大限生産し、それぞれの価格で販売してもらうが、農家の手取りが減少するからその差額の7〜8割程度は所得補償で補てんするというもので、生産目標数量に従うかどうかは農家の自由意思によるものであって、所得補償の対象者となるか、ならないで自由に主食米を生産するかは自由な選択に委ねるとし、民主党は所得補償政策に集中した農政を行うものであって米価支持政策は行わない」(民主党ネクスト農林大臣)としています。
 生産調整を維持しながら、農家の所得対策には差額の7〜8割程度は所得補償で補てんするというもので、優良農地には企業の参入を認めず、食糧自給率を10年後には50%にするが最終的には100%を目指すとしています。民主党の政策は「減反はするが、それに従った農家を所得補償の対象にし、米価支持政策は行わない」というもので、林業、酪農、水産などの一次産業全体に所得補償制度を設けるというものですが、総額が1兆4千億円という巨額で予算があるのか、どうするのかと批判もあります。自民党は減反参加者に固定額の新設交付金をあてて対処するようですが、これも数千億円ということでどのくらいの金額になるかまだ明らかになっていません。どちらにしても税金で賄われるわけですから、将来に向かっての農業政策を野党各党が競って欲しいものです。

 日本の農家は零細だといわれ、耕地面積の平均でも1.8haで、そのため生産性が低いといわれてきました。
統計など見なくても身近な場所をみわたせば農家が抱えている事情が一目瞭然です。塩尻市の農家全体でも経営耕地が1ha以上ある農家などはごくまれで、水田だけとなるとまたこれがごく僅かとなります。また、専業農家が年々減少していて市全体でも500戸前後で総農家数の2割にも達していません。すべての農家の8 割以上が兼業農家と自給的農家なのです。JAの組合員のほとんどがこれらの農家なのです。米の価格が下がればJAの委託販売手数料が下がり経営を圧迫することになります。JAも米の価格下落が心配なのです。農家は農業機械の購入を控えたり、肥料の購入も思うに任せない状況になるのが予想されます。農外所得の比重が高い兼業農家や自給的農家は、作るのを止めて買って食べたほうがいいと思う人も出るでしょう。現在は60`あたり1万6千円前後ですが、高齢化や後継者がいず、人手がなくて耕起から田植え、収穫と人手に任せると赤字になってしまうのです。そのため耕地を集約して企業形態の農業法人として道を探る動きがありますが、「選択制」でも価格が下がれば経営が成り立たないということが危惧されています。
 
 どうにも困った問題です。「米の価格を維持しても国の財政や農業が疲弊し、市場にまかせ価格下落になると農業はこれまた疲弊する」といった人がいますが、米の生産単価(コスト)はわかっているのですから、価格が下落しても米の生産を続けられるような、農業を持続していけるような政策、一次の産業を、二次や三次の産業が助ける政策が必要だと思います。
 ここにきて、この4月8日に自民党は、新経済対策で09年度の補正予算案に盛り込む農林水産分野の補正予算1兆302億円の財政支出を決めました。農地を貸し出す小規模農家へ交付金を、減反対策で他作物への転作を促す「水田フル活用」に1168億円を投じ、麦・大豆への転作には10eあたり最大で1万5千円、飼料米への転作には同じく2万5千円を支給する過去最大の補正予算をくみました。ばらまきではないといっていますがどうでしょうか。
 国財政も大変なときの大盤ふるまいは結局、増税という名で国民に降りかかります。現に財務相は11日「今回使った分は手当てしなけば」といって11年度から穴埋めに取り組むとしています。前途は多難です。

 農業が滅んでいいと考えている人はいないのですから、ふるさとの原風景や田んぼの生態系を育み守っている農業・農家を「百姓は生かさず、殺さず」ではない、現代の展望ある施策を示して欲しいものです。国会での今後の審議を注視したいと思います。

 (09/04/12)


  おふくろの味 「野沢菜の油いため」を作る

 我が家では野沢菜の漬物を冬中食べていますが、春になって温かくなるとどうしても痛みがきます。漬ける時は大体2月一杯までに食べきれるように考えて、塩を5%の目安で漬け込みますが、若い人があんまり食べないのでどうしても残ってしまいます。野沢菜漬けも3月に入ると日中の気温が上がるため、塩が薄いとすっぱくなったり、カビがきて粉が吹いたようになります。こんなふうになると捨ててしまう人もいますが、我が家では再利用して食べています。昔の人ならでの料理ですが、一品足りないときの、おかずや酒のつまみにもなり結構重宝しています。今日は「野沢菜の油いため」を紹介しましょう。

 材料 野沢菜の漬けた残り物
    みりん
    砂糖
    凍み豆腐(高野豆腐)
    ちくわ
    しいたけ
    きざみ揚げ
    赤唐辛子(好みで)
 
 準備
@ 野沢菜を一昼夜くらい水に浸して塩抜きをする。
A しいたけ、凍み豆腐は戻し細かに切っておく。
  きざみ揚げ、ちくわは半割りにして細かく切っておく。
B 砂糖をみりん少々で溶いて、水を加え100tくらいの分量に作っておく

 作り方
1 水をきった野沢菜を食べ易い長さに切る。
2 フライパンに油を引き、中火で熱する。
3 熱したフライパンに野沢菜を入れて中火で炒る。(焦がさないようにするのがコツ)
4 野沢菜が炒れ、水分が少なくなったらAを入れてよくかき混ぜる。
5 全体がなじんだらBを入れ弱火にして汁が無くなるまで炒める。
6 好みで赤唐辛子を入れる。

 これで出来上がりです。コツは焦がさないようにすることですが、野沢菜は水分があるのでよほどでないと焦げ付きませんが、茎がしなっとしてきたら弱火にしましょう。
 具の凍み豆腐やちくわ、しいたけ、きざみ揚げはどうでもこれでというものではありません。鳥の皮などあれば最高ですが、干しえびや煮干し、かつおの削り節、いわしの削り節でもいいのです。要は冷蔵庫にある残り物、半端ものをうまく利用することです。
 みりんは野沢菜のにおいが嫌いな人はぜひ入れましょう。みりんはいやなにおいを消す役目があります。
 甘味は砂糖で調整しますが三温糖が無難です。ちょっとこりたかったら中双糖か中ザラ糖と呼ばれるものを使うとよりおいしくなります。黒砂糖は独特の風味があります。野沢菜の塩味を生かしたかったら途中で味見をして、砂糖を加減して入れます。

 「もったいない」は漬け物にも活きています。食べ飽きたものでもちょっと工夫するとおいしく食べられるものに変わります。野沢菜も昔は塩加減したものを何種類か漬け込み、夏まで食べられるようにしたものです。塩辛いものでも塩抜きしてまんじゅうやおやきの具にしたり、おからに具をいれて煮つけたりしました。塩抜きしたものは酒粕とあわせ味噌汁で食べたり、油も今でいうカスケード利用をしたもので、てんぷらを最初に段階を踏んで再利用したものです。
 大根のぬか漬けの漬かりすぎたものでも塩を抜き、千切りにしておやきの具にしたり、油で炒めたりしました。これも冬野菜の少ない信州ならではの知恵だっのでしょう。
 今は冬でもキャベツからナス、トマト、キュウリなどの野菜や果物、惣菜まで、なんでもお金さえ出せば間に合いますが、買ってきたものを並べてもなにか一味足りないような気持ちです。いま、ぜいたくとは自分で作ったものを自分で調理し、食卓にのせることのできる人ではないでしょうか。「野沢菜の油いため」は信州の生活からにじみ出た、ものを無駄にしないおふくろの味です。つつましいものですが、ぜいたくさが詰まっています。

(09/03/28)


節分の豆は大豆か落花生か

 節分が近づいています。立春の前の日が節分ですから今年は2月3日になります。
節分は豆をまいて鬼を追い払うという行事ですが、この日、大きなお寺やお宮では有名人が年男になり行われるので大変な賑わいになります。一般の家でも豆まきが行われますが、最近では豆まきの声が聞こえなくなりました。

 節分の日は明るいうちに「十二やき」(十二書き)を作ります。私の家では楢(ナラ)の木の薪を半分に割り、そこに炭で十二書きを書きました。横に線を十二本引き、その下に十二月と書きます。閏(うるう)年には13本を引きます。これを玄関や家の小屋、籾倉、物置などの棟ごとに戸間口に立てます。家によって違いますが必要な数だけ十二書きを作ることになります。
 暗くなると節分の「お年取り」があるので、普段と違う料理が並び、子どもには嬉しい夕餉です。神棚の恵比寿さま(おいべっさま)や大黒天にお神酒を上げ、ご馳走をのせ、枡に入った豆をあげておいてから節分の「お年取り」をします。 これがすむと豆をまきます。
 「豆まき」は早いほどいいといわれています。隣の豆まきの声が聞こえないうちにまくのが一番で、これは隣や近所でまくられた(追い払われた)鬼が来ないように、福が一番先きに来るようにとのことといわれています。
 神棚から豆をおろし、まくのは年男といわれていますが、大概子どもがまくのが普通です。部屋ごとに「恵比寿大黒福の神、福はうち、鬼はそと」と3回ずつ唱え、最後に「ごもっとも、ごもっとも」と唱えます。子ども心に、最初の一声が恥ずかしく小さな声でいうと「福の神にきこえねーぞ」などといわれたものです。「ごもっとも、ごもっとも」も、昔の言葉のようでいつも使っていない言葉で変な感じでありました。
 とにかく勇を奮って大きな声でいうことが必要なのは、縁側から外の闇に向かうときです。庭から裏庭の屋敷にまくようになると、隣近所の豆まきの声が聞こえるようになります。このころになると恥ずかしさも消え負けじと声を張り上げます。

 豆まきにつかう豆は大豆を煎ったものです。大豆は畔(あぜ)などで作った物を秋、収穫して調整したものを、祖母が夕方煎ったものですが、皮がはじけるくらいに焼けていました。大豆を手でかき混ぜるように煎っていました。煎るのは芽が出ると鬼の世になってしまうので、お釈迦さまが鬼に勝てるよう芽が出ないように、豆を煎ったからと聞かされました。
 なるほど庭に落ちた豆が芽を出さないよう、災いがこないよう、鬼の世にならないようにと願ったものでしょうが、昔の人は良く考えたものです。
 豆まきが終わると炬燵に当たりながら、一升枡に入っているまき残りの豆をつかんで自分の歳の数だけ食べます。またまいた豆を歳の数だけ拾い食べます。これらもみな病気にならぬよう元気でくらせるようにとの願いでしょう。

 節分の「豆まき」の豆が、いま大豆から落花生になろうとしています。面白いことです。お釈迦さまも鬼もこれにはびっくりでしょう。
 言い伝えを忘れ、落花生をまくなど「豆まき」ではないとお叱りを受けそうですが、「掃除の手間がかからない」とか、「汚れても殻を剥けば食べられるから食べ物が粗末にならない」なので、スーパーなどでも鬼の面を入れた落花生が売られるようになりました。煎った豆の色で天気(陽気)を占ったり、拾った豆をとっておき雷の鳴るとき食べるとへそを抜かれない、といった言い伝えも遠い世界になりつつあります。
 大豆では我が塩尻市に、大豆の研究で知られる県中信農業試験場があります。大豆の育種と品種改良を試みていますが、かっては生産者の作り易さに重点を置いたものが、現在は消費者の好みがものをいう時代といいます。納豆や豆腐などに使われる大豆が人気といい、納豆用小粒品種として「すずこまち」が普及していますが、「すずろまん」という収量性の高い品種も作り出されています。
 昔(昭和30年ころ)、松本近辺で作られていた大豆といえば「兄」という品種や「赤莢」という品種でした。開花までの日数が短く、結実日数が中から長の品種でしたが、塩尻あたりは早生種が良いといわれていた時代でしたが今も残っているのでしょうか。節分の豆がなんという品種なのか興味がわきます。
 大豆の作付け面積も増えているといわれ、芳川や笹賀あたりの田で作られているのを目にしますが、本来は畑作作物と呼ばれていたものでした。国の稲からの転作作物として奨励されてから、田に大豆が作られるようになりました。流通価格は昨年の1月は60キロ8000円ほどでしたが、この価格は現在も余り変わっていません。国は大豆交付金制度を設け、生産者に助成しています。

 豆まきの風習に加えて最近あたらしい節分の食の風習が生まれています。「恵方巻き」(えほうまき)という関西地方の太巻きの巻き寿司を食べることがはやってきました。これは節分の夜に「恵方」(えほう)を向いて、無言で太巻き寿司を「まるかぶり」するというのが習わしのようで、切らずにまるかぶりするのは「福をまるのみにして縁を切らない」との意味だといいます。
 これも落花生に似て商魂たくましいものですが、もともと関西地方にあった巻き寿司を、海苔業者が海苔の販促のために考え出した苦肉の策といわれています。
 関西の寿しはすし飯と具の味が生命で、江戸前のねたの活きのよさとは対極にあるものです。大坂の巻き寿司は、高野豆腐やおぼろ、しいたけ、かんぴょう、ゆでたみつばや厚焼き卵などを巻き込んでつくりますが、これをまるかじりするなどいささか邪道のような気がします。大坂ずしは持ち帰ってすし飯や具を、ゆっくりかみしめて味うことにあるのですから、食い倒れ大阪の味を味わいたいと思う私にはどうもむきません。ましてや江戸前 風のアナゴやイクラの「恵方巻き」に用はありません。
 また最近、ロールケーキを太巻きにみたて、売り出すケーキ屋さんも現れ、節分の食も現代的な色合が濃くなりました。コンビニやスーパーなどはここぞの稼ぎ時になります。今年の歳徳神の在する方位(恵方)は(己丑(土の弟)甲(寅卯の間)の方位(東微北)といいますが、現代の流行はどうなるのでしょうか。

(09/01/27)


 せんぜぃ畑が究極の「地産地消」

 今日は朝からの雨で久しぶりの農休みになりました。
少しくらいの雨ならできる仕事があるのですが、間断なく降る弱い雨はどうにもなりません。今日は「晴耕雨読」と決めました。
 日曜日も無しに働くことが多かった最近ですが、ごほうびと思って好きなことを今日はするつもりです。

 気懸かりなことがまた起きてしまいました。メラミンが混入した菓子や事故米を使った卵焼きなど食の不祥事が続いています。食材に対する安心感が損なわれ、消費者はなにを信用したらいいのかわからないような状況におかれています。健康被害の報告はまだないといわれていますが、食べてすぐ健康に影響がないというだけで安全というものではないのでこれからも注意が必要です。

 目にみえる究極の「地産地消」といいましょうか、我が家では野菜類はほとんどせんぜぃ畑で栽培したものですませています。
春は、冬を越したホウレンソウや冬菜、きねぎやウドやフキ、アサツキ、ミツバやセリ、ニラなどが食卓を飾ります。味噌汁の具になったり漬物になったり、てんぷらやおつまみになったりします。ナズナや山の恵み山菜「おこげ(うこぎ)、こごみ、たらのめ、わらび」も、ここに加わり特別買わなくても何とか過ごせるのが我が家の強みです。
 昔ながらの農家ではごく普通の暮らしかたですが、家で食べる野菜を最近では農家でも「買って食べるわぃ」という人がいて農家といえどもせんぜぃ畑で作るものは様変わりをしてきています。お金を稼げる作物の手入れに追われ、いろいろなものを少量ずつ作る「せんぜぃ畑(せんざい)」がおろそかにされています。
 夏は、霜が終わる頃植えつけたキュウリやトマト、ナスなどが生りだします。ゆうがおや本うり(しろうり)なども食べごろになります。みょうがも刻んだり、若い芽生えはじめたみょうが竹を刻んで食べたり、シソも暑い盛りにはなくてはならないものです。ささげ、ピーマンやししとう、辛コショウも5本も植えれば食べきれないほどの恵みをくれます。
 秋は、とり入れの季節です。じゃがいもに始まり、かぼちゃ、さつまいも、野沢菜、大根、白菜、ねぎの収穫が続きます。秋は収穫と同時に漬物の季節でもあります。冬ごもりの準備といえましょう。野沢菜、大根を漬け、辛コショウの葉も霜の来る直前に収穫し、アク抜きをして煮つけ保存したり、シソの実をもいでこれも漬物にします。豆類(大豆、ささげ、小豆、いんげんなど)もお年寄のいる家では煮つけの材料としていろいろの豆を作っていて冬の食材となります。
 秋の山も恵みをくれます。あみたけやりこぼう、しめじの仲間やまつたけ、うしびて、もとあし、こうたけなどが近くの里山で採れます。これらのきのこはきのこ飯にしたり味噌汁に入れたり、だいこんのおろしあえにしたりします。りこぼうやあみたけはおろぬき菜(野沢菜を間引いたもの)と一緒に味噌汁に入れると、秋の味といえるものでとてもおいしいのです。秋の味に「たにし(つぶ)」がありますが、大根で味噌汁にするとおいしいのですが最近は食べていません。つぶがいないからです。
 冬は新鮮な野菜は畑では望めなくなりますが、それでも冬菜やホウレンソウをとって食べます。かこって置いた白菜、大根、貯蔵したじゃがいもやながいも、たまねぎやねぎなどで冬を越します。野沢菜や地大根を漬けたものや奈良漬けを冬の間使います。
 春まで「大根やにんじん、白菜たべて、煮物でいきるだわぃ」ということになり、これらの野菜を使った「煮物」が主役となる季節です。お正月ごろ飼っておいたどじょうで作る「どじょうの卵とじ」も幻となりました。小川にどじょうが棲めなくなって池で飼えなくなりました。

 目に見え、自分が手にかけた食材はどんな野菜であれ、安全が実感できます。トレーサビリティーなどと難しい言葉を使わなくてもせんぜぃ畑でとれた野菜は育った過程がわかります。一目瞭然なのです。自分の食べるものを自分で作るということをやっているとなにやら見えてくるものがあります。おかしな不思議な世界です。
 季節外れの食材や昔なら手に届かない果実などが普通に手に入る世の中になり、日々の暮らしも豊かさが享受できる社会になってみんなが幸せになっていいはずなのに、そうはなっていかない社会が現実にあります。食に限らずそんな風潮が目にみえます。豊かさとはなんなのでしょう。
 地に足をつけた生活を続けた先人の知恵はどこにいってしまったのでしょうか。足りないものは工夫し、ものを大事にして捨てるものを極力少なく、山や田畑、川や湖沼の生き物をさまざまに食にとり入れ、厳しい自然の条件と闘ってきたこの信州、信濃の人たちの来し方が粗末にされているようでならないのです。
 私だけが目に見える安全なものを食べられればそれでいいというものではありませんが、輸入された食糧、食材に依存しながら、声高に「食の安全」「地球温暖化防止」を叫んでも何か砂上の楼閣めいてあまり説得力はありません。どうもそんな人が多すぎます。私もときおり声高に叫びますが、足元を見ながら自分でできる範囲のことを「足りる」を知ってやろうと思います。せんぜぃ畑が私の先生になりました。
 
 (0/09/26)


  ぬかみそ漬けの味 そのU

 さあ、ぬか床ができました。このぬか床を使っておいしい漬け方を楽しんで見ましょう。
まず、漬け方ですが、その前に漬けた野菜がどのくらいの時間で食べられるのかを知っておくと、いろいろな野菜を入れても時間差ができ、いつもおいしい漬け物が食べられることになります。 
 野菜は季節、大きさや切り方、下ごしらえ、また室温で管理するのか、冷蔵庫のお世話になるのかで漬かり時間は変わります。
いまの季節だと(夏)早く漬かるもののでキュウリだと3〜4時間、セロリは3〜4時間、キャベツの葉は6〜8時間、ホンウリ3〜5時間というところでしょうか。遅くなるものはナス8時間〜10時間、ニンジン、ダイコン、カブなどは12時間以上かかります。大体の目安ですからこの時間を頭に入れておいて漬けましょう。
 冷蔵庫に入れる場合は醗酵が遅くなるため、これより時間は2〜3割がた長くなります。

野菜の下ごしらえは
 キュウリは洗ってヘタの部分をとります。お尻の部分も切り落すと早く漬かります。急ぐときは塩で揉んで少しおいてから漬けます。ぬか床の真ん中あたりに入れます。
 セロリは独特の風味があり、この時期安く売られています(1本150円くらい)茎を長さ10aぐらいに切って皮を剥きぬか床の上のほうに入れます。これはにおいがぬか床につくので浅漬けにします。細い茎や葉は刻んで木綿袋に入れて漬けます。
 キャベツの葉は芯から離し、硬い部分をはずします。葉を広げてぬか床を載せもう1枚葉を乗せます。上の葉にぬか床をすこしのせて巻き寿しのように巻き込みます。あまり大きくつくるとぬか床に入れるとき苦労します。横にしてぬか床の底のほうに寝かせます。
 ナスはヘタつきのままで手に塩をのせ転がすようにこすると早く漬かります。ヘタの反対側に深さ3aくらいの切れ目を十文字に入れそこにぬか床を挟みます。ぬか床へは切れ目を上にして縦に下のほうに入れることです。
 ニンジンは皮をむき、縦に深い切れ目を入れて縦にして底のほうへいれます。ニンジンは漬かるまで時間がかかります。
 ダイコンは皮をむき、15aくらいに丸のまま切ってこれもそのまま、底のほうに入れます。
 ホンウリは皮のまま二つ割にして種子をスプーンで除き塩を軽くこすりつけ、ぬか床の下よりに入れます。ホンウリは漬かりすぎるとおいしくないので早めに出してパリパリした食感を楽しみましょう。
 カブは根と茎を切り離し、きれいな場合むかずに丸ごと漬けます。時間が長くかかるので底のほうに入れます。早く漬けたいときは皮をむき切れ目を入れるか、半分にして漬けますがうまみは逃げます。
 容器が大きいといろいろな野菜を漬けることができますが、たくさんの野菜を入れると後が大変です。時間差をうまく利用することです。冷蔵庫に入れるなら10gあたりの容器が限度ですね。
 夏は漬けてみたい野菜がたくさんでまわり楽しみですが、コツは少しずつこまめに漬けることです。それから木綿の袋を用意しておくと茎や葉などを刻んで漬けることができますから二つ三つあると重宝します。

ぬか床の手入れは
 基本的にぬか床にふれるときは手をよく洗ってからにします。無用の雑菌を増やさないためです。
 「毎日かきまぜる」ということはよくいわれますが、あまり苦にすることはないようです。このことについてNHkの「ためしてガッテン」でもいわれていました。新しい素材が入るたびに善玉菌が元気になるとのことですから苦にしないことです。私は出し入れのたびに底と上を逆転させるだけです。要は空気に触れさせることがだいじです。
 ちなみに10gの容器に8分くらいのぬか床で漬けていますが、かきまぜることより水分が出る野菜をたくさん入れないことが大切です。保管は冷蔵庫ですからカビなどは生えませんが、キュウリなどをたくさん入れるとてきめんに水分が多くなりぬか床が柔らかくなります。このため、一度塩で漬け水分を飛ばして漬けるという方もいらっしゃるようですが、塩分が残るので塩出ししないといけません。
 ぬか床の表面はいつも平らにしておくことです。これもコツです。手入れの後で手を洗うとつるつるとして肌が若返るようで気持ちのよいものです。

出すとき・入れるとき
 漬けたものを出すときはぬかを振り落とす程度にして出します。ぬか床の上で絞らないことです。新しい材料を入れるときよく床をかきまぜ、入れたあとは表面を平らにして、ぬか床の容器の内側部分に付いたぬかをタオルなどで拭ききれいにしておきます。

水が出てやわらかくなってしまったら
 ぬか床の上に水が浮いてきたらタオルやキッチンタオルなどをぬか床の上にのせ吸収させます。少しゆるめのほうが冷蔵庫で管理する場合材料が早く漬かり易いようです。

ぬか床が減り水っぽくなったら
 漬かった材料をを出すたびにぬか床がくっついて減ってきます。ぬか床が減って水分が浮くようになったらぬかを足します。私は月に2度足しぬか(いりぬか500g・120円)をします。このとき塩かげんもします。手についたぬか床をなめ薄くなった感じがしたら塩を足します。これはもう好みと感じですね。毎日なめていると味がわかります。

 ぬか床がすっぱくなったら
手入れを怠ったりするとぬか床がすっぱくなることがあります。そのときは入っている野菜を全部出して、粉のままの洋がらしを大さじ1杯(10〜15g)を入れかき混ぜます。洋がらしは醗酵を止める働きをしますから足しぬかをするときには一緒に入れてはいけません。

 悪臭がしたら
 こんなことはめったにおこりません。よほどほったらかしにしないかぎり起こらないことですが、漬け物のプロはこんなぬか床でも再生してしまうといいます。その方法は早いうちに残っている古漬けのものを全部出し、塩とぬか、洋がらし粉を加えてかきまぜ容器を密封せず風を入れます。これを毎日3回、4〜5日続けると再生できますが、初心者はあっさりあきらめてぬか床を作り直すことが早道でしょう。生ぬかを使うと虫が湧くことがありますから、いりぬかが市販されていますので、初めてつくるならいりぬかでぬか床をつくると虫の心配はありません。

 ぬかみそ漬けは浅漬けでも古漬けでもおいしいものですが、長く漬けすぎると塩分が高くなり、うまみが抜け体にもよくありません。特に古漬けなどを食べるときは塩出しをすることも必要です。水にさらすなどして塩分をしぼることが健康のためにも大切です。いまは冷蔵庫が普及していますから昔ほど塩分を高くして漬ける必要がなくなりました。漬け物は塩分さえ気をつけて漬ければ野菜の栄養をそのまま受け継いでいるといわれます。ぬかみそ漬けはヘルシーな漬け物なのです。好きな野菜を好きなふうに漬け、旬の漬け物にして楽しんでみてください。
 ぬか床は毎日出し入れすることによって苦にすることなく管理できます。一本出したら一本入れるがコツで、あまりたくさんの素材を詰め込まないことです。そして漬かり時間を覚えてあまり古漬けにしないことです。
 
 それにしても昔の人は「こぬか」を利用することに知恵を絞ったものですね。代表的なものに「たくあん漬け」があります。沢庵和尚が考案したとも山形県上山の「蓄え漬け」を沢庵が発展させたともいわれています。精米した米を食べるようになったのは江戸時代の初めですから、米ぬかもそのころから一般に利用されるようになったものでしょう。玄米を精白するときに出る米ぬかが「こぬか・粉糠」ですが、栄養分の高い米ぬかの効能が見直され近年ではさまざまの分野で利用されています。
 ぬかに関することわざや格言、故事でもおもしろいものがあります。
 中国の故事「糟糠の妻」と日本の格言「小ぬか三合持ったら婿に行くな」ですが、糟糠」とはかす(糟)とぬか(糠)のことをいいますが、漢(後漢)の光武帝の家臣、宗弘の「貧銭交不可忘、糟糠之妻不下堂」からきたものです。良妻と他人に頼らず自立の心意気。ぬかには深いものがあります。

 (08/07/10)


  ぬかみそ漬けの味 そのT

 ぼつぼつと家庭菜園の夏野菜が採れるようになりました。
生り初めは少しでもたくさん生るようになると、近所へお裾分けしたり、料理方法を考えたり結構忙しいものです。特にナスやキュウリは毎日新しいものが採れるので粗末にはできません。皆さんはどうしていらっしゃいますか。
 私は漬け物が好きなので何でも漬け物にして保存していますが、ネックは塩分が多くなるという点があります。高齢になり、文明病といわれる糖尿病や動脈硬化、心臓病・高血圧などの病気を抱えている人には塩分のとり過ぎは注意が必要ですが、減塩にすれば漬け物は植物繊維の宝庫といわれていますから、いろいろな漬け物にして楽しみながら植物繊維をたくさんとることができます。
 幼いころから私は漬け物、特に「ぬかみそ漬け」が大好きでした。
祖母と母のやりとりを聞きながら、ぬかみそのなかからちょっとしなびたキュウリを取り出すのが役目で「ぬかみそ漬け」はおふくろの味、ばあちゃんの味でした。ぬかみそは家の味といえるものではないでしょうか。
 
 「ぬかみそ漬け」にはぬか床を作らなくてはなりません。
 ぬか床は一度作っておけば何年でも何十年でも使えます。昔はお嫁入りに持たせたといいますからこれはまあ、たいした物です。
最近では若い奥様には、においが、かきまぜるとき手がくさくなるからと嫌われ、あまり作られなくなっているといわれます。家庭の味のピンチとなりました。この間NHkの「ためしてガッテン」でぬかみそ漬けの特集がありましたが、ちょっと違う角度から取り上げていて興味深くみました。かきまぜなくてもいいということですからこの番組で「ぬかみそ漬け」に挑戦してくれる人が増えるとうれしいと思います。
 
 ぬか床を作るには材料が要ります。材料は漬けてからいつごろ食べるかによって分量を決めます。
 材料
 生ぬか(いりぬかが市販されていますが生ぬかのほうが醗酵がよいです。)1Kg
 塩   180〜200g・1カップくらい
 水   1000cc
  基本的にはこれだけで出来ますが、醗酵を助けるためにパンくず(1枚)をミキサーで細かくして入れてもよいです。
  また、好みでにんにく(2片)昆布、唐辛子などをミキサーにかけ入れるとうまみが出ます。
 容器は
 ふた付のものなら結構、ほうろう引き、樽(桶)ポリの漬け物容器など好みで選びます。
 容器はよく洗って乾燥させておく。
一度にたくさん野菜を入れるなら、容器も大きくなり、材料もこの比率で要ります。新調するなら、夏は冷蔵庫で保管したほうがよいので冷蔵庫の棚がはずし、容器が入るか寸法をチェックしましょう。

ぬか床の作り方
作り方はいろいろなやりかたがありますが、
その一、
 まず水と塩を鍋に入れ、煮立てます。沸いたらすぐ火を止めます(ひと煮だち)。冷めるまで待ちます。
 大きなボールに生ぬかか、いりぬかを入れます。パンくずも一緒に入れます。
 煮立てた塩水を一度にたくさんいれず、少しずつ入れてぬかとまんべんなく混ぜます。
 (味噌くらいの硬さになるよう、やわらかくしすぎないように混ぜ合わせるのがコツです。)
 好みでにんにくをスライス、、昆布、唐辛子などを粉末状にして入れ混ぜます。
 耳たぶよりちょっとのやわらかさになったら出来上がりです。
 漬け物容器に移します。

その二
 塩と水を煮立てずそのまま使う方法です。
 大きなボールに生ぬかか、いりぬかを入れます。
 塩を入れ、好みでパンくず、ニンニク、昆布、唐辛子などを入れます。
 中央にくぼみを作り、水を半分くらい入れ全体をよく混ぜます。
 (味噌くらいの硬さになるよう、やわらかくしすぎないように混ぜ合わせるのがコツです。水は加減して入れる)
 耳たぶよりちょっとのやわらかさになったら出来上がりです。
 漬け物容器に移します。
煮立てるかそのまま使うかの違いでどちらでも出来ます。忙しいときはその二のほうがいいでしょう。

 ぬか床をなじませる。
最初から漬けてもうまく漬かりません。ぬかのうまみが出ていないからです。なじませることが必要になります。「捨て漬け」といって紐の付いた木綿の袋(20a×25aくらい)にキャベツや白菜の外側の葉、にんじんの皮、かぶの葉を刻んで入れ、口を縛り、ぬか床の底に入れます。夏なら3〜5日で漬かりますから袋を取り出し、新しい材料でまた繰り返し漬けます。これを2〜3回繰り返すとぬか床の出来上がりです。春なら5日、冬なら10日くらいが目安でしょう。
 夏はぬか床が痛みやすいので涼しい場所に置いておきます。むかしはどこの家でも味噌部屋(みそべや)があってそこへ置いたものですが、いまはそうもいきません。いまは、捨て漬けの段階まで室温で、ぬか床ができたら冷蔵庫で保管するというのが一般的のやりかたのようです。
 新しくぬか床を作るには春が一番よいように思います。お彼岸ごろが理想的です。堅(かた)ダイコンを漬けたぬか床を再利用する術もあります。新しいぬかと塩を足してよくかき混ぜ再生させます。これなら捨て漬けをすることなくぬか床として使えます。
 次回はいよいよ漬け方とぬか床の手入れを語りましょう。

 (08/07/09)


   小麦の値上がり

 この4月1日から小麦が値上がりしました。輸入小麦価格は平均30%上がるといわれます。輸入小麦価格が値上がりすれば小麦粉を主な原料に使うパンやめん類なども値を上げるので、消費者にとって頭の痛いことです。小麦の政府売渡価格は昨年の秋、10月に改定されていますから今回の改定で小売価格も上昇し、これを受けて食品メーカーはこの4月から再値上げをします。

 日本の小麦の自給率は。
 日本の小麦の自給率は低く、小麦の自給率=小麦の国内生産量(86万トン)÷小麦の国内消費仕向量(627万トン)×100=14%ということで、ほとんどその8割から9割弱を輸入に頼っています。とにかく国内生産量が低いのです。
 これには理由があって昭和27年(1952)に麦に関する制度が大きく変更されました。外国産小麦については原則、国が直接買い入れて価格を決め、加工業者に販売するということになり、こうした価格形成が今に至るまで続けられているのです。このため品質の劣る国内産の麦は競争力を失い、生産、消費の減少をみることになります。
 当時、塩尻の農村では稲を収穫した後、麦を作付け、麦の収穫後また稲を植えるという「裏作」という栽培方法がとられました。これは気温の低い東北や北海道ではできませんが、自然条件に恵まれたところでは普通に行われていました。このため春は麦の収穫と脱穀、田植え、果樹の摘果や野菜の収穫、養蚕作業が重なるという、いわゆる農繁期となり、労働ピークが極端に高まり「春貧乏」といわれる状態になりました。労働力の配分がとても大変な時代で、麦の価格が生産費にあわなくなると作付けは減少し、現在では水田の裏作で麦が作られることはなくなりました。

 どこから輸入しているのか。
 国内生産量の少ない小麦は輸入に頼らざるを得ないのですが、日本はアメリカから56%、オーストラリアから22%、カナダから21%を輸入しています。輸入量は5,490千トンに上ります。(平成16年・農水省)
 農林水産省では需要を見極めながら食料供給予測をしていますが、いろいろな要因で難しい局面を迎えています。小麦の国際価格は国際取引指標となるシカゴ商品取所で取引されますが、各国の需要増や在庫率に作用され、価格は昨年秋から上昇傾向にあります。
 まず生産国の要因として生産量の減少がみられます。
 アメリカの冬小麦産地の干ばつ
 オーストラリアの2年連続の大干ばつ
 ウクライナにおける干ばつ
 欧州東部の干ばつ
 欧州西部の長雨
などにより主要生産国で減産となっている影響が大きく、
需要増については
 発展途上国の食生活の欧米化による穀物の需要増
 バイオ燃料としての穀物需要増による生産国での小麦から他の作物への転換(小麦からトウモロコシ・小麦からなたね)
 小麦の飼料用需要の増加(アメリカ)
などにより穀物在庫の減少をまねくことになりました。
 上のような要因に加えアメリカのサブプライムにかかわる金融不安から、穀物相場に投機資金が流入して上昇気味の価格を更に押し上げるということが起きています。

 日本は高くなっても小麦を始め穀物を買えるのでしょうか。
 小麦の価格はいろいろな要因が複雑に絡み合っています。経済の専門家はすぐ安くはならないだろうと見ています。そうなると穀物の争奪戦が始まります。途上国も欲しい、だが日本も欲しい。そうなったとき日本は買い負けることも起こってくるでしょう。マグロなどがいい例です。穀物価格が上がると小麦なら小麦粉の価格が上昇、パン、麺、菓子類の販売価格も上がり、とうもろこし価格の上昇は飼料の上昇となり、畜産物(食肉、鶏卵、乳製品等)の価格が上がります。大豆価格の上昇は、みそ、しょうゆ、豆腐等の価格やマヨネーズ価格の値上がりとなり、穀物価格の上昇は国内価格への影響となります。いま起こっていることはこういうことなのです。
 日本の経済も喜べない状況になりつつあります。いつまで買い続けることができるか心配になります。
 そうならないように手を打つことが必要だと思いますが、生産国の生産量の減少は気候変動による影響が大きいといわれます。連続の大干ばつに泣かされたオーストラリアの小麦農家では廃業する人も出て深刻な状況にあります。また、アメリカのとうもろこし農家では農地の極度の収奪による表層土の荒廃もささやかれています。ぼつぼつとつけが回ってきているようです。
 これからは日本も安定供給や備蓄の問題も考えなければならないでしょう。食料の話になると自給率を上げろということがよくいわれますが、簡単にすぐあがるものではありません。農水省でも「品目横断的経営安定対策」を打ち出し、そのなかで国民に対する熱量の供給を図る上で特に重要であり、他の農産物と組み合わせた生産が広 く行われている「米、麦、大豆、てん菜、でん粉原料用ばれいしょ」の5品目の支援措置を講じていますがどうなるでしょうか。自給率が上がるといいんですが・・・。
 関税を高めて国内の小麦の価格を守れという意見もあります。米もそうですがWTO交渉の停滞につながっている問題です。ここは国も戦略をたて、WTO交渉の進展を進めて欲しいものです。私たちも生きるために食べるわけですから値段が上がって困る、困るといっていてもどうにもなりません。もう少し米を見直すことも必要ではないかと思うのです。

 (08/04/02)


   松本に山賊焼きが・・・がんばれ塩尻

 「山賊焼き」が松本に盗られてしまう。
「山賊焼きは塩尻のものだ」といえばなにを細かいことをといわれそうだが、「山賊焼き」は塩尻のものだ。

 信毎の記事によると、「松本市内の若手飲食店主がつくる松本食堂事業組合青年部が「山賊焼き」を松本の名物として定着させようと活動している。以前から「松本といえばこれ、という名物がない。昔から中信平で親しまれている山賊焼きを売り出せないか」と「松本山賊焼き」と名付けイベントなどで販売、パンフレットも作製して今後力をいれる」という。
 塩尻に遠慮して松本とつけたのか、良くわからないが、自分たちで地域の味をつくれないのといいたくなる。
世の中には狡い人たちがいるもので、どこかが振るわなくなると横からさっとばかりに「昔から中信平で親しまれている」みたいなうまいことをいって自分たちのものにしてしまうのだ。世知辛い世の中になったものだ。
 「まぁ、いいじゃんかい、まつもとでさかんになりゃぁ」とおおようになれないのだ。「おしろのあるまちはおっかねぇ」のだ。

 「山賊焼き」の思い出を話そう。いまからざっと50年ばかり前、塩尻は「山賊焼き」で有名だった。
元祖の「山賊焼き」の店は酒屋さんの裏にあって小さな店であった。ここのおじさんとおばさんは味のある人だった。
 おじさんは無口で仕込みと調理に忙しく、おばさんが一手にお客と接していた。入ると「いらっしゃい、なに」というから「大」とか「小」といって待っているとお酒が二合出てくるのだ。これがここの決まりでお酒を二合飲まない限り「山賊焼き」は食べれなかった。 
 おばさんも無口だがいい人だ。酔っぱらいは大嫌いだったからゴロをまく人はいなかったし、ゲロをはく人もいなかった。なにしろ小さな店だったから席の空くのを待っていないと食べれない。

 酔って人生論やらを友と戦わせるというようなことのできる店ではなかった。食べて飲んですぐ出なければ後のお客がつかえている。
ここで腹ごしらえして、適当に酔ってトリスバーなどに出かけるというのが、当時の「わけぇしゅう」のやりかただった。おじさんとおばさんの店は初めの一歩だった。
 あまりの評判に次々と「山賊焼き」の店ができた。四軒くらいの店があっという間にできた。「山賊焼き」に遠慮して「海賊焼き」と名をつけた店も現れた。松本からも大勢の人が口コミで食べにきた。おじさんとおばさんの店も酒屋の裏を引き払い、すぐそばで大きな店に変わったが、あいかわらずおじさんとおばさんのやりかたは同じであった。持ち帰りも客とおじさんやおばさんとの関係が親戚付き合いに近いものにならないとできなかった。

 おじさんとおばさんの店が客でいっぱいだと待てない客は新しい店に行く。どの店もそれぞれ持ち味のちがう店だった。店主、山賊焼きの素材である肉、色、におい、酒、味みな違う。客は情報を判断して食べるのだ。好みにあえばいいがあわないと、またおじさんとおばさんの店に帰るのだ。つまり高揚したハイの状態で食い歩いたのである。塩尻はある時期、「山賊焼き」を新しい食べ物として認め、それをみなが探求したといえる。しかし誰にでも好かれたわけではない。キャベツの一枚の葉の上に載ったグローブのような肉に噛みつき、引き裂き、飲みこむという芸当ができるのは若い人だ。だから同じ「山賊焼き」でも歯の弱い人には筋のない柔らかなものが好まれた。このころの鶏はブロイラー肉が出始めたころで農家で内職的に食用肉として生産されていた。「あの店のものは硬いから地の鶏だ」とか「これはブロイラーだ」とか通ぶって噛りついていたのだ。

 「山賊焼き」は塩尻の食の文化といったら「なにをおおげさに」という人もいるだろう。あの時代の塩尻で新しいもの「山賊焼き」に出会った若いものは、自分の中 にその嗜好を持ち込んだのだ。にんにくをふんだんに使い地鶏でもブロイラーでもおいしく食べさせてくれた塩尻の「山賊焼き」の店が少なくなっていくのは寂しい。
 何か塩尻がいまの時代から取り残されていくような想いである。どうも元気がない。ここはきちんと、ものを考えることが必要だ。
 松本の「わけぇしゅう」がパンフレットで12店を紹介しているというが、以前から松本には味の楽しみがないといわれてきたから、アクティブに食べ歩く楽しみを提供してくれることはいいことだ。でも全部がブロイラーの肉でも困るし、標準レシピでもこまるのだ。「ご心配なくと」いわれそうだが、蕎麦の売り込みかたも松本のほうがじょうずだし、隣の町のものでもなんでも自分のものにしてしまう。さぞかし「松本山賊焼き」はこった味だろう。

「松本でさんぞくやきをやるってじぃ」
「松本にはいい酒があるかいねぇ、ありゃあ、ちょっとごうがわくが、のんでたべてやってもいいじぃ」
「おしろのあるまちはおっかねぇねぇ」
「あい、そうだいねぇ」「まちがかわってから、としょりだし、みちもなんだかわけがわからねぇであんまりいかねじぃ」
「やっぱりほうかい、きれぇになってなんだかつべたくなったねぇ」
「こんだぁ、いっしょにいかねかい」
「あい、いくかいね」
 山賊焼きを食べて談論風発を楽しむにはうまい酒が必要だ。

 (08/02/02) 


  ながいも(長芋)

 
 秋になるとながいもの生産地ではながいも掘りが盛んになります。
 このながいもの呼び方については、植物学上の呼び名と蔬菜としての呼び名がごっちゃになっていて、複雑ですがすこし整理してみることにします。
まず、植物学上のヤマノイモ科ヤマノイモ属(Dioscorea L.)は、ヤマノイモ科に含まれる属のなかで最も大きい属で、約600種があることが知られ、日本には約9種があります。属名のディオスコレアは古代ギリシャの医者ディオスコリデスを記念して付けられたといいます。このヤマノイモ属のなかの数種が塊茎(坦根体と呼ばれることもある)を食用とする蔬菜として栽培されています。

 まず、このヤマノイモ属のなかのヤマノイモ(D.japonica Thunb.)一名ジネンジョウのお話です。よく「自然薯」と書かれます。
種名のヤポニカはご存知のように日本のという意で原産は日本・台湾で山に自生しているものです。葉のつけね(葉腋)にむかご(珠芽)ができ、茎(つる)は円形、左巻きで葉と同じ緑色をしています。回旋性草本といってものに捲きついて成長します。
 塊茎を食用にしますが、細長く表面はでこぼこしていて、粘りけが強くナガイモより品質がよくおいしいといわれますが、生長期間は長く成熟するのに時間がかかり、普通3−4年くらいで食べられるようになります。むかごを播いて一年養成していもをつくり、これを植えて栽培することも行われています。蔬菜としての栽培品種はなく、山野に自生するものだけです。
 花は7月から8月に咲き、雌の花穂は垂れ下がり、雄の花穂は直立します。刮ハ(さくか)は半円形の三つの翼があり、これに唾液を付け鼻に乗せて「ヤマノイモの天狗」という遊びができます。オニドコロでもできます。

 ナガイモもヤマノイモ属です。学名は D.opposita Thunb.で種名のオポポシタは対生の意で、葉が対生することから付けられましたが、ヤマノイモも対生の葉を持っていますが、柄が長く、短いナガイモと区別がつきます。漢名は「薯蕷」と書きます。
 長芋の原産は中国で、茎(つる)は左巻きで稜があり、葉の色は紫色です。刮ハ(さくか)は3翼でこれはヤマノイモと同じです。いもは一年で成熟し、表面は滑らかです。いもの形によって「つくねいも」「いちょういも」などと呼ばれます。

 蔬菜としてスーパーなどで「やまのいも」として販売されているものは、ナガイモ(D.opposita Thunb.)のことが多く、ヤマノイモ(D.japonica Thunb.)ではありません。
 ナガイモ(D.opposita Thunb.)のなかでは、長さが長い「ながいも」と円形の「つくねいも」(いせいも・やまといも・丹波やまのいも)が、「いちょういも」は扁平・仏手形です。
 広い意味で「やまのいも」をナガイモ(D.opposita Thunb.)とヤマノイモ(D.japonica Thunb.)を含ませて指す場合があり、「やまのいも」を「やまいも」と呼ぶところもあります。
 今年の10月、京都へお寺参りにいったとき、奈良県の「針・はり」という道の駅で「つくねいも」が売られていましたが、「やまいも」と表示されていました。このいもは近畿、東海地方で栽培されているナガイモなのですが、濃度が高いことからトロロとして人気があり、菓子の原料としても使われています。
 どうも「やまのいも」「やまいも」から連想すると、山で採れたいも、ジネンジョウ(自然薯)を思い浮かべてしまいますが、このように地方によっていろいろな名前で呼ばれていることがわかります。
 また、ヤマノイモ属のダイジョ(D.alata L.)や、カシュウイモ(D.bulbifera L.)も食用にされますが、販売されるときには「やまのいも」として売られることがあります。食べるほうからみれば、名前なんかどうでもいいように思いますが、ちょっと整理し基本を押さえておくと見る目も変わり面白いものです。

 ながいもの収穫が始まるのは秋、10月からですが、霜が来て寒さが訪れるようになると栽培農家は忙しくなります。
ながいも畑は紅葉して、トレンチャーのエンジン音が響き、畝にきれいに並べられたながいもが見事です。トレンチャーのなかったころは手掘りでしたから、折らないよう気をつけてスコップや棒などを使い掘ったものですが、いまは楽になり傷のない立派なながいもが収穫できるようになりました。
 ながいもの生産量は全国で約20万トン(平成17年)が生産され、全国一を誇るのは青森県で国内流通量の約4割を占めますが、僅差で北海道が続きます。平成16年は北海道が1位でしたがひっくり返されています。この二県で7割以上の生産量を占めています。長野県は平成15年の調べでは生産量9,750t、シェア5.5%、3位でこの順位は現在も変わっていません。
 長野県では山形村と松代町が有名な産地で、松代町のながいもは江戸時代の松代藩にさかのぼり、自家用として作られていたのですが、千曲川が運んだ肥沃な沖積地(砂地)が幸いして、特産として販売用の栽培が行われるようになりました。全国を視野にした作付けは昭和5年に始められ、昭和40年頃には全国で6割のシェアを占め、ナンバーワンになりましたが、青森県の生産拡大と価格の低迷、病虫害などから、生産者が果樹や他の蔬菜に品目転換をしたため、現在、生産量は減少して岩野地区が主な生産地となっています。
 山形村は、むかごを利用したながいもの種用産地として、古くから知られていましたが、戦前から栽培されていたながいもを販売するべく戦後大規模に拡大しました。もともと栽培技術の裏付けがあり、病虫害の予防や種用の技術「むかご繁殖」から「切芋繁殖」が導入され、この技術が生きたことが大きく貢献しています。
 また、耕地が火山灰土壌ということもあって深く効率的に耕せるトレンチャーが導入されて、昭和45年(1970)以降スプリンクラーなどによる畑地灌概が進み,集約的な野菜栽培のための基盤が整えられたため、作付け面積が増えました。
 生産量も昭和43年の10万ケースから、現在年間で30〜35万ケースの出荷を果たしています。関東農政局が行った生産農業所得統計(平成2年)によると農業粗生産額に占める比率はながいもが24%で、すいか(14%)、りんご(7%)がこれに続きます。現在ながいもは80ha以上栽培されていて、土地利用のながいもの比率が高い地区は小坂地区です。
 農家はながいもを中心としてその他の野菜類を組み合わせたもので経営をおこなっています。山形村に行くと多くの作物が混在しているのを見ますが、これは,中心作物であるながいもが連作を嫌うため、ゴボウ、葉菜類(キャベッ,レタス、白菜)アスパラガスなどと輪作されるためで、これらの作物が農家の経営を支えていることがよくわかります。
 いま、どちらの生産地も、ながいもの販路拡大に力を注いでいて、農協がイベントなどを開催、山形村では村の経済課で「長いも料理レシピ集」を販売しています。

 このながいもをお正月に食べる習俗があります。
 塩尻でも元日に雑煮を食べるところと、「いも汁」(とろろ)を食べるところがあり、安曇地方の村落では元日の日にとろろを食べるところが多いのです。今は安曇野市になりましたが、穂高町、有明、西穂高、北穂高、南穂高や、三郷村の温、明盛、小倉と梓村で食べられていました。全戸がとろろだけというわけではなく、ご飯、雑煮を食べる家もありますが、総じてとろろというところが多いということです。また、餅を三が日には一切食べないというところもあります。
 元日にとろろというのは、福の神が滑り込むようにと願った縁起といわれていますが、ながいもは漢方で「山薬」と呼ばれ乾燥したものを滋養強壮剤として、衰弱した身体を戻す働きがあるとされていました。これらからとろろを食べると風邪をひかぬ、腹をやまぬ、中気にかからぬといわれ、病気逃れの習俗として、一年の始まりに皆して病気にならぬよう、丈夫でいられるよう縁起を担いだものと思われます。 食べ方も朝、昼、夕食と元日の三度を食するところや、一食だけで済ますところや、とろろ汁だけをすするというところや、ご飯にかけて食べるところなど、地方によってさまざまな食べ方がされています。
 
 ジネンジョウノの昔話もあります。
 ある山の奥にジネンジョウが生えていました。ジネンジョウは年々大きくなり、いつか違う世界をみたいと思っていましたが、ある秋の日大雨が降って川に流されてしまいました。ジネンジョウは流されていくうち、皮がはげいつのまにかうなぎの姿に変わっていました。
 このお話と正反対の昔話もあります。
 ある川に一匹のうなぎが住んでいました。うなぎは川を遡り別な世界をみようと思い上流へと泳いでいきました。うなぎはだんだん疲れて川の浅瀬で休むことにしました。砂地のなかにもぐりこんで疲れから寝込んでしまったうなぎが、目を開けたときにはジネンジョウに変わっていました。
 うなぎもジネンジョウも共に滋養に富むことと、昔の人にとって高価な貴重品であったうなぎとジネンジョウは、普段食べられるものではなかったことからこんな話がいい伝えられたものと思います。
 千曲川沿いや犀川沿いに似合いそうなお話ですが、全国あちこちの村落で似たような話があり、ながいもが「山鰻」などといわれることとなりました。

 ながいもは昔はリンゴ箱に入れ、もみ殻を充填して凍みないよう「むろ」(もろ)で保存しました。いまは冷蔵庫で冷蔵保存ということになりますが、暖房などをした部屋に置くと休眠が破れて芽を出すことがあります。「むろ」がない場合には70aくらいの深さの穴を掘り、いもと土を交互に入れて雨が入らないよう、寒さを防ぐため藁で囲いをします。これで春までながいもを楽しむことができます。
 ながいもを使った料理は数多くありますが、やはり採りたてを頂くのがおいしく、定番はいも汁(トロロ汁)でしょう。
 「いも汁」は
 まず、だしを作ります。
  味噌でも良し、醤油をベースに、かつお節やみりん、酒などをいれお好みに合わせて仕立てます。ちょっと煮立てるのがコツですぐ火を止めます。
 だしができたら
  まず、ひげのような根は手でむしり、ながいもを洗います。皮がめくれないよう軽く洗うことです。皮剥きで皮を落とす人もいますがこれも好みですが香りは剥かないほうがあります。これは皮のところに抱層部があって香りをだいているからです。
 すり鉢で擂る。
  最初からすり鉢で擂る方法と、陶器のおろし金であらかじめおおまかに擂ったものをすり鉢で擂る方法があります。時間があれば最初からすり鉢で擂ったほうがいいでしょう。
  泡が出て、盛り上がるようになったら、冷ましただしを少しづつ入れ 味をみます。擂りながら好みの味になるまでだしを入れます。
 だしを入れ終わり好みの味になったらながいもの空気の泡が盛り上がるまで擂ります。
 海苔をまぶして出来上がりです。
 食べ切れず残してしまったら冷凍にして保存し、自然解凍するとまた食べられます。
 ながいもは熱を加えると壊れる成分が多く、生で食べることが一番よいといわれ、消化酵素やでんぷん分解酵素、粘膜を保護するムチンなどを多く含むことから胃腸をいたわり、食物の消化を助ける働きをします。「いも汁」の日はご飯が三倍要るといわれた、主婦泣かせの料理です。
 ながいもは太ければおいしいというものではなく、細くててもおいしいものがあります。切り口が白く、ふっくらとしていて、ひげ根があり、表面が滑らかでつやのあるものがよく、山形産のながいもは甘味があって特に粘り気がよいのが特徴といわれます。松代産は甘くて、粘りもあるが山形産に比べるとサラッとしているのが特徴といわれています。最近では漂白され見た目がきれいなものが出回っていますから注意が必要ですが、県下のながいもは無漂白でアクが少ないと好評です。
 いまどこの産地でも通年販売できるよう取り組みを始めていますから、夏でも楽しむことが容易になりましたが、ながいもはやはり冬が旬といえる野菜です。

 柄のわきにできるむかご(球芽)も食べられます。親に似てそのまま生で、蒸したり、揚げたり、炒ったり、煮たり、炊き込みご飯の具にしたりできる優等生ですが、昔の子どもには遊び道具として使われました。「戦争ごっこ」の弾としてポケットいっぱいに入れて敵陣に乗り込んだものです。当たっても怪我もしないし、補給はいつでもできます。いまの子はこんな遊びはしないでしょうが、収穫の終わった田んぼや畑で日の暮れるまで駆け回ったことが思い出されます。

 (07/12/22) 


  カシグルミ
 
 カシグルミがえんできました。
「えんで」なんていわれてもわからないと思いますが、方言です。この辺では「熟れる」という意味に使います。本来の「えんで」は(歩いて)の意味になりますが、昔の田舎の子供たちはこんな風に使いました。
 近所に大きなカシグルミの樹がありました。大本百貨店(だいもと)の大きな倉庫の裏に、その樹があって学校から帰ると落ちていないか見に行くのが楽しみでした。
 拾ったものを生で食べていると「たんと食べるとクサができるぞ」とおじさんに脅かされたものです。
 
 カシグルミもクルミの仲間です。クルミには多くの種がありますが、いまのところ5種が基本とされています。
 マンシュウグルミ(満州胡桃・J.mandschurica Maxim.)の原産地は旧満州で、ペルシァグルミ(J.regia L.)の原産地は欧州東南部、アジア西部一帯からイラン地方ですが、どこの国かということは厳密には特定できていません。
 オニグルミ(胡桃・J.sieboldiana Maxim.)と、ヒメグルミ(姫胡桃・J.subcordiformis Dode)は日本が原産で、アツカワグルミ(厚皮胡桃・J.sinensis(Cas.DC.)Dode)は中国北部が原産といわれています。
 この基本種のほかに亜種と呼ばれる多くの種があり、カシグルミもそのなかに入ります。カシグルミはペルシァグルミの変種でテウチグルミ(var.orientis Kitamura)が本名です。中国では「薄皮胡桃」とよばれています。

 日本でクルミといえばオニグルミ(胡桃・J.sieboldiana Maxim.)と、ヒメグルミ(姫胡桃・J.subcordiformis Dode)を指します。このオニグルミとヒメグルミは、縄文時代の主な食用植物としてドングリ、クリに次いで食べられたもので、東日本の遺跡より多数木炭化していたり、破片となっているものが出土しています。ピット中に明らかに外果皮を腐らせるために密集して埋めた痕跡があることや、人によって割られた不自然なものが見つかっていることから、縄文の人々に植物食糧として利用されていたことがわかっています。
 ドングリやトチノキはアク抜きが必要ですが、クリやクルミはアク抜きをする必要がなく簡単に食べられることから好んで食べられたものでしょう。山に囲まれた信濃でも遺跡からオニグルミが出土していて早くから利用されていました。塩尻でも縄文より時代は下がりますが平出遺跡で見つかっています。

 縄文から時代が移るにつれクルミの記録が現れるようになります。
 かの『延喜式』(925)には胡桃や姫胡桃が胡桃または呉桃と書かれ、わが信濃の国の貢ものとして名を残しています。『医心方』(984)には胡桃人(胡桃仁・和名 久留美)として、『本草和名』(984)には久留美として書かれていることから縄文人に劣らず利用されていたものといえましょう。
 おとなりの中国では自分の国の原産を利用せず、中央アジアからの渡来品ペルシァグルミを利用したといわれ、そのルートはシルクロードといわれる交易経路沿いに入ったということですが、興味深いことです。この渡来した時期については4世紀に入ってからという説が一般的で、朝鮮半島には4世紀後半に中国から渡来したといわれています。このクルミはペルシァグルミですからカシグルミの親といえるもので、これがわが国に渡ることになります。
 テウチグルミは日本では『本朝食鑑』(1618)や『本草綱目啓蒙』(1803)などに「たうぐるみ」「てうせんぐるみ」の和名があり、「トウクルミ」(唐胡桃)チョウセングルミ(朝鮮胡桃)のことですから、中国、朝鮮から渡来したものと思われますがどこの国からいつごろ入ったのかははっきりわかっていません。渡来した時期については江戸時代の中ごろすでに栽培されていたことから、おそらく17世紀の始めか18世紀かけて渡来たものと推測されています。

 味はオニグルミのほうがコクがありうまいのですが、割るにはカシグルミのほうが楽です。テウチグルミといわれはクルミ同士を打ち付けると核が薄いため割れることから付けられたといいますが、手で強く握ると割れるなどと、ものの本などにかかれていますが、実際はとてもそんなものではありません。石や硬いものに打ち付けると割れますが握力だけで割るには年寄りにはちょっときついことです。
 可食部はカシグルミのほうが多くオニグルミの倍の分量があります。
 オニグルミは山野に自生し縄文の時代から人とのつながりの多い植物ですが、収穫が面倒で収量もあがりません。また殻(外果皮)が付いたままですから、これを腐らせないと核果が現れず、すぐ食べることができないことから嫌われ自家用として少量利用されています。樹皮や外果皮は染料として、材は木工材として利用されています
。「えぶり」という植え付け前の田を均す農具にも枝ぶりの曲がりが良いため、好んでオニグルミが使われました。
 カシグルミも果肉は菓子原料、料理などの素材として、 敷居や鴨居の滑りを良くするためや、研磨剤として木材や楽器、金属の磨きに使われてきました。最近では香料や化粧品として開発されています。殻は自動車のタイヤやブレーキの材料としても使われるようになりました。
 テレビや映画でクルミを掌に入れ、揉み手をしているシーンが出てきますが、これは本来2個のクルミを揉むことでストレスの解消を図ったり、機能障害のリハビリとして取り入れているものなのですが、ドラマなどではもっぱら心理を描写する方法として描かれています。中国の北方の人たちはマンシュウグルミの変種オオシナグルミ(var.gigantea Kitamura)を、この揉み手に使って遊ぶといいます。オオシナグルミの変種名のギガンテーア(gigantea )は巨大の意ですから名のとおり大型の核を持ったクルミです。

 カシグルミの栽培は江戸の中ごろに始まっていますが、その頃のものは商品としての価値は低いもので、そのため多果で食用部の多いものが求めれるようになり、改良が続けられてきました。
 縄文の時代、弥生時代、平安の『延喜式』のころから連綿と続いた胡桃の歴史がある長野県は、オニグルミの時代を経て、商品として流通するカシグルミを生産する産地として生まれ変わりました。長野県は「信濃ぐるみ」と総称される改良種の産地としても有名なのです。その代表的な品種改良地は東御市で、信州大学や育種家の手で多くの品種が作出されています。良く知られたものとして「晩春 (ばんしゅん)」「美鈴(みすず)」「清香(せいこう)」「信濃ぐるみ13号」「信濃ぐるみ48号」「信鈴(しんれい)」「錦秋(きんしゅう)」「美鶴(びかく)」「要鈴1号(ようれい)」「要鈴2号」などで、大果で豊産、晩霜にあわないよう発芽が遅く、殻が薄く割れやすい、渋みが少なく可食部の歩合が高い品種がつくり出されてきました。
 現在、国内では岩手県など東北地方と長野県が主な生産地ですが、県内では東御市を中心とした東信地方が全国有数のカシグルミの生産地です。東御市が全国の30%を生産、佐久平全体で全国の80%を超える生産量を誇ります。クルミの問屋があるのは長野県だけといわれています。このため栽培も東信地方が多く、国道の両側にカシグルミの果樹園をみることができます。
 繁殖は接木繁殖が大きな個体がとれるため主に行われ、台木としてオニグルミやテウチグルミが使われています。最近では組織を培養しクローン増殖をする技術が進んでいて、試験管のなかで芽を培養し、茎葉や発根も行われるため形質のおなじものが一度に大量にできるようになりました。
 
 塩尻市ではカシグルミを大規模に栽培しているところはありません。
 わずかに農家の庭先や畑に植えられています。成木になると樹冠が広がり高木となり剪定も困難になるためでしょうか。
 近郊では「アルプスグリーンロード」で松本市今井や山形村に入ると、10aあたり10本位植わったカシグルミの小規模な果樹園が目に入ります。このカシグルミ園はりんご園が近くにあるのでちょっと心配です。これはカシグルミが「リンゴ炭疽病」の伝染源植物になっているためです。ニセアカシア、カシグルミ等の伝染源植物が周辺にあるほ場は感染量が多くなるといわれています。これと似たことはナシ園でも起こります。ナシ園のそばにカイズカイブキやビャクシン、ネズミサシなどがあると中間寄生した菌で「赤星病」という病気にナシが罹るからです。これらの伝染源植物や中間寄生するものを伐採すると効果があるといわれていますが、難しい問題です。できることはリンゴ園やナシ園が近辺にあったらカシグルミやカイズカイブキやビャクシン、ネズミサシなどを植えないことです。
 カシグルミ自体も病害虫に罹ります。枝枯病、紋羽病や果実が黒くなるクルミ細菌病、害虫ではクルミミガやカミキリ、クルミシンクイなどの虫がつきます。

 生産量の多い長野県ではクルミを使った昔ながらの料理がふるさとの味を伝えてくれます。
 料理に使うクルミはオニグルミでした。里山から拾ってきたオニグルミは土の中に1ヶ月ほど埋め、外の皮の腐るのを待ち、掘り出してきれいに洗って干しておきます。使う時はフライパンなどで軽く炒ると割りやすく筋(すじ)に包丁を入れやすくなります。中身を出してすり鉢ですると下ごしらえは万全となります。この作業に手間がかかるので 手間の省けるカシグルミが多く使われようになりました。オニグルミの濃厚な味は捨てがたいのですが世の流れでしょうか。
「クルミのおはぎ」は、拾ってきたカシグルミで祖母がよくつくってくれたものです。ご飯をつぶしている間に私がすり鉢でクルミをすりつぶす役目でした。また、簡単に砂糖をかけた「クルミのおやつ」も好物でした。ワカサギとカシグルミを油で揚げ、砂糖醤油をからめたものも格別な味でした。
 クルミはゴマと相性がよく、混ぜてすりつぶし砂糖、醤油、味醂、塩などを入れ、和えものの「たれ」をつくるといろいろな料理に使えます。そばやうどんの「つゆ」にも使います。刻んだオニグルミをふきんで包み煮出してつゆに混ぜるのです。
 「和えもの」も「たれ」も「つゆ」もクルミを使えばおいしいものが間違いなくできます。
 
 おなじオニグルミやカシグルミをみていても村で生活している人と、都会で生活している人とではおのずから抱く心情が違います。畑で作るものも田んぼで作るものも生産者と消費者では食していても感情に微妙な相違があります。
 幼かったころ楽しみにした大本(だいもと)のカシグルミもいつの間にか無くなってしまいました。見渡せばそんな風景があちらこちらにあります。それだけ世の中の進みぐあいが速いということでしょうか。
 カシグルミの落ちる音を聞くゆとりがないことが妙に心を淋しくさせます。拾われることもなくなったオニグルミをカラスが銜えて農道に置き、車に轢かせて中身を頂戴するかしこさとたくましさのなかに、生きものが生きていくことへのもの悲しさを感じさせます。

      胡桃焼けば灯ともるごとく中が見ゆ  加藤楸邨

(07/10/11)


  りんごの仕上げ摘果

 りんごの仕上げ摘果が終わりました。
なにごともそうですがものづくりというのは大変です。今年は仕上げ摘果という作業を体験しました。これが以外に難しく、脚立の上で考えることがしばしという作業でした。
 園主から仕上げ摘果の講義を受けて作業に入ったのですが、なかなか自分の手が思うように動いてくれません。
りんごの花が開花してから花摘み、摘果と、この6月から7月の作業はタイミングをはずせない重要な作業で、園主も真剣な面持ちになっています。
 りんごも花芽分化があるのでいつまでも摘果作業をダラダラと続けているわけにはいきません。花芽分化の早いものは花の満開後約、40〜50日であり、遅い品種でも50〜60日といわれ、年、品種、土地などにより10日前後の動きがあるようです。今年の今井地区での仕上げ摘果は、7月10〜20日頃までに終わらせるのがい いということでした。

 最初の摘果は粗摘果です。
 これは大まかな摘果ですが、摘み取る果実を園主から説明を受けました。
 ・枝の真上、真下にあるもの。
 ・腋芽果
 ・20cm以上新梢の頂芽果
 ・霜害果・病害虫等の被害果(さび、虫くい果)、変形果、受精不良果
 ・側果(中心果が少ない場合は側果も利用する)
 ・葉数の少ない果実
を主に摘み取ります。
 立ち木だと数名、わい化では2人で木を左右にわかれて囲むようにとりつきます。枝ごとに見落としの無いようにして摘果作業をするのですが、慣れた経験者は速く、私などは遅れぎみでついていくのが大変でありました。
 薬剤摘果が効いていると側果や受精不良果などは手で触るとパラパラと落ちますが、全部が全部そうでないので見落としの無いようにしなければなりません。なんでもこの薬剤摘果はサビ果を発生させることがあるので散布する時期が難しいとのことですが、効いていると作業の省力化に力があります。
 また、品種によっては果梗を短く切らなければならないものもあるので、頭に入れておかなければいけません。これは果梗を長く残したまま切るとりんごを傷つけるからです。混みあった下枝や下垂ぎみの枝についているものは日当たりも考慮しなければならず、地面に着いてしまいそうなものも摘果の対象になります。
 この摘果がひととおり終わると仕上げ摘果になります。

 仕上げ摘果は
 販売できるりんごにするための最後の摘果です。このため仕上げ摘果といわれます。粗摘果で多く残した果実をより強めに、よいりんごになるものだけを残す作業で、園主は何度も園内を周り見残しが無いか確認をしています。この作業で大体の生産量や大玉、小玉が決まってしまうので無理からぬことでしょう。
 この仕上げ摘果の時期になると果実の良否が素人でもわかるようになりますが、木の勢いが弱い木や強い木、枝などを見極めながらの作業をしなければならないので、これは長年、園を見続けていないと出来ないことで難しいものです。
 私のような素人は、ソフトボール大の大きさを想定してそれに必要な葉の枚数を確保することと、サビ果や変形果を見落とさないよう注意することなどに意識がいってしまい、どうしても弱めの摘果になりがちでした。
 りんごは一果当たりの葉の枚数で大きさが変わってしまいます。園主の説明では大体60枚前後、40〜60枚を目安に残して欲しいとのこと。果梗の短いものは落とすこと。果台の短いものを残すなどを教えてもらいましたが、作業になると一瞬で判断しなければならず、いっぽん一本よい果実を残し、しかも果実の大きさを揃え、その木に合った適正な着果量を確保することは容易なことではありません。
 沢山生らせると翌年は樹勢が衰えたり、摘果作業が遅れると花芽分化に間に合わないため、隔年結果を起しやすくなるといわれています。どちらにしてもこの仕上げ摘果の作業は翌年の生産量を左右するほどの重要な作業なのです。

 店頭に並ぶまで多くの人の手を得てりんごは育ちます。万を超える花から花摘み、摘果と続いた作業で残されたりんごは理由があって残されたりんごなのです。りんご栽培の労働時間で摘果作業は全体の30%を占めるという大変な作業を経てりんごに成るのです。仕上げ摘果が済んだりんごも、これから葉むしり、玉回しなどのお化粧作業を得て立派なりんごになっていきます。

 (07/07/26)


   オカヒジキ
 
 オカヒジキを作りました。
7月に入ってからめきめきと大きくなり摘み取るのに忙しくなりました。
 20aくらいに伸びた枝を摘み取りますが、摘み取った茎の所からまた新しい芽が出て、夏中重宝する野菜です。結構伸びる速度が速いので気を付けていないと伸びた枝が固くなってしまいます。柔らかいうちに摘み取らないとチクチクしてこわくなり、食感も悪くなります。

 我が家での食べ方は、湯がいて「おひたし」にして食べます。
ゆですぎると本来の鮮やかな緑と歯切れ感が無くなります。大体2分から3分位が目安です。
 そのまま醤油だけというのが私の好みですが、酢醤油、ポン酢、青じそドレッシングやマヨネーズ醤油をかけてもおいしくいただけます。また、炒め物にも相性がよく豚肉などと合わせたり、ライトツナ缶などと合わせるとお酒の肴にもなります。ゆですぎないようにするのがコツで、食感はシャキシャキとして、始めて食べる人には何なのかわからないくらいの癖のない野菜です。

 オカヒジキは古くから食用に利用されたといいます。なんでも明治以降の農業書にも栽培法が載っているということですから、かなり古くから栽培されたものでしょう。オカヒジキを昔(江戸時代)から栽培しているところで有名なのは山形県庄内地方です。最上川を上下する舟便で下流の庄内から山形県内陸地方に渡り、上流の米沢盆地、中流の山形盆地などでも栽培されました。『本草図譜』(1828年)には「オクヒジキ」として羽州米沢で栽培されていたことがわかっています。
 このころの羽州米沢藩は上杉治憲(はるのり 号 鷹山)が1768年(明和4年)に米沢藩を継ぎ、藩財政の改革に着手し、帰農や特産品の開発に力を注いだ時代です。いまでも山形県内陸地方で自家用として広く栽培されているということですから、もしかしたら藩がオカヒジキの栽培を奨励したかも知れません。上杉治憲は1785年(天明5年)に家督を譲り隠居しますが、亡くなるまで後継藩主を後見し、藩政を実質指導したといわれます。1802年(享和2年)52歳の時、剃髪し「鷹山」と号したのは1802年(享和2年)52歳の時で、亡くなったのは1822年、享年72才でした。

 オカヒジキはアカザ科でオカヒジキ属です。学名はSalsola komarovi で(種名のコマロビーは人名に因む)属名のSalsola(サルソラ属)はSalsus<塩>の縮小形です。塩分の多い海辺に自生することから付けられたといいます。日本1種のほか世界で50種ほどが知られ、中国や朝鮮半島、欧州南西部に分布しています。一名ミルナ(水松菜)といい、英名はSalt-Wort(塩性植物)の意で、耐塩性があり、海水につかっても生育できる植物を指しますから学名の通りです。カリウムを多量に含み、カルシウムやマグネシウムも含んでいてビタミンCも豊富で「畑の海藻」といわれ、健康食品としても人気があります。

 栽培はいたって簡単ですが、余り早播きしても駄目で、地温が上がる5月以降がお薦めです。種子は10℃以上で発芽しますが、発芽適温は20度から25度です。酸性土壌を嫌いますから床を作る前に消石灰や苦土石灰などで調整して置きます。私は90aの床に30a間隔で条播きをして、枝が伸び始めたころ株間を25センチくらいになるよう間引きしました。根はごぼう根で根群は貧弱ですが、気温が上がる梅雨時は生育も早く収穫が忙しくなります。葉は互生し多肉質で先端が尖っていますが、先端が手に触ってもチクチク(硬化)しないうちに収穫します。病虫害に強く消毒も必要ありませんから、無農薬、有機栽培で栽培できるのが強みの野菜といえるでしょう。
 今日は鷹山や上杉家を肴にあれこれを考えながらオカヒジキで晩酌です。

(07/07/18)


  うまい豆腐を食べたい

 うまい豆腐が食べたくなりました。
私は豆腐が大好きです。ほぼ、一年中豆腐のご厄介になっていますが、特に夏になると「冷奴」を肴に飲む一杯は何者にも勝るものがあります。
 子どものころ、板塀一枚で仕切られたお隣が、家の親戚の「松やのお豆腐や」であったことから、「豆腐」の味に親しみました。そのため今でも豆腐の味にはうるさいと思っています。
 朝、3時半頃から豆腐やさんの一日が始まり、がったんごっとんと音が聞こえてきました。豆を水でふやかし砕いて、それを煮てこして豆乳を取り、にがりで固めたものが豆腐になりますが、その工程が面白いので何回も見に行ったものです。
 豆腐を造るなかで「豆乳」「おから」「湯葉」、揚げると「油揚げ」や「厚揚げ」、焼くと「焼き豆腐」、凍らせて「凍み豆腐」が出来ます。捨てるところがないほど加工され利用されるのです。出来たての「豆乳」は濃く、また豆の「えぐみ」があり、飲みなれないと誰でも飲めるというものではありません。最近では飲みやすいように調整されたものが販売されています。
 その豆腐ですが、一番うまいと思った「松やの豆腐」が無くなって(造る事を止めた)しまったので、うまい豆腐探しをする羽目になりました。
あちこちのスーパーや豆腐屋さんを廻り、豆腐を見つける度に買うのですが、どうも慣れ親しんだ豆腐の味には勝るものがなく、いまだ探し続けていますが、松本市に一軒、安曇に一軒どうやら見つかりましたが、なにぶん遠いのでちょっと行って買うということが出来ず残念です。
 豆腐は「木綿豆腐」「絹ごし豆腐」と、どちらも好きなのですが、スーパーなどで売られている「木綿豆腐」にうまいものが無いため、冷奴に使うのはもっぱら「絹ごし豆腐」です。
 煮立てるとき泡を消す消泡剤が「旨み」を引き出すといいますが、旨みは凝固剤のにがりの質や量とも関係があり、それがうまい豆腐、不味い豆腐とわけているようです。にがりの量が多いと固い豆腐になるということで加減が難しいようです。家庭で自家用に作る場合、大豆3升で12丁出来るといわれ、お祭りや年の暮れなどの『晴れ』の日に造ったと農家のお年寄りから聞いたことがあります。

 以前四国の高知へ行ったとき、高知城近くの鄙びたラーメン屋を兼ねた飲み屋さんで一杯飲みましたが、そのとき付けだしに出た豆腐は固い木綿豆腐でした。一人でやっているというおばさんが、土佐の豆腐は固いでしょうといいながら地の豆腐を出してくれました。うまい豆腐でした。ほめると竜馬のうちわを土産に戴きました。
 高知の豆腐を食べたかったのは、司馬遼太郎の『街道をゆく』の嵯峨散歩での短文、「豆腐記」に、かの山内氏が高知城下造成のとき、長曾我部氏に付き従ってきた朝鮮の人たち30人を引き続き保護し、生計が成り立つように豆腐製造販売の特許を与え、高知では唐人町でしか豆腐製造が許されなかったと書かれていて、縄でからげて持ち帰れるほど固い豆腐は朝鮮豆腐ではあるまいかと述べているのを読んだからです。固い豆腐は石川県や富山県にもあります。この「豆腐記」は豆腐の発明にもふれ、古来、中国の劉安(りゅうあん?〜紀元前122年)が発明したという通説を、新中国の学者、袁翰青が宋代ではないかという説を細かく紹介しているので興味があれば読まれるとよいでしょう。

 スーパーなどでは充填絹ごし豆腐という豆腐が売られていますが、量販店独特の豆腐です。豆腐屋さんの水槽に入っている豆腐とは違います。豆腐屋さんの絹ごし豆腐とは製法が違い、豆乳を冷却し、凝固剤を添加、容器に充填してから加熱して凝固させるものです。要冷蔵の注意書が記されています。開封後は早めに食べることです。
 豆腐のパックに記載されている情報をよく読むと、たいがい凝固剤の名前が記されていません。ただ凝固剤と記されていることが多いものです。にがりは塩化マグネシュウムが主成分で昔、塩かますの下に入れものを置いて自家用のにがりをとったものですが、精製塩が販売されるようになってにがりのとれる粗製塩が少なくなりました
。このため、凝固剤として現在は、硫酸カルシウム、塩化マグネシウム、グルコノデルタラクトン、塩化カルシウム、硫酸マグネシウム、粗製海水塩化マグネシウム(塩化マグネシウム含有物)などの凝固剤を使っています。消泡剤の名は記載されているものが多く、グリセリン脂肪酸エステルと表記されていますが食品乳化剤です。泡はサポニンでこれが豆乳に入るとよい豆腐ができないのでこの泡を消す消泡剤が必要になるのです。
 
 豆腐はご存知のように大豆から作りますが、原料となる大豆は良質なタンパク質や脂質を含むことから「畑の肉」といわれているほど栄養価が高く、「大豆」は豆腐のみならず、さまざまな食品に加工され利用される植物の優等生です。原材料名:大豆と記されてカナダまたはアメリカ、遺伝子組換えではないと表示されています。年間豆腐用に50万d消費されますが、平成17年の調べによるとこのうち国産大豆は6万dで、アメリカ産が28万d、カナダ産が14万d、中国2万dという輸入に頼る状況が続いています。家庭での豆腐の消費量(総務省家計調査年報)は、平成16年の一世帯あたりの年間豆腐の家庭内消費は数量で74.5丁、年間支出金額では6719円と報告しています。90円の豆腐を約5日ごとに食べている計算になります。平成17年の同じく都市別順位では長野市が59.83丁で全国47位、支出金額5550円で同43位、ちなみに一位は盛岡市の105.39丁で金額では那覇市の8,906円です。どうも長野県人はあまり豆腐を食べないようですね。それに比べ沖縄の人たちは豆腐にお金をかけるようです。沖縄の豆腐は固い豆腐で一`もある大きな豆腐でタンパク質も多いといいます。豆腐を発酵させた「豆腐よう」という沖縄独特の特産品もあり、チーズのような濃厚な味わいが好まれています。

 豆腐は古来より親しまれた食品です。晴れの時を飾り、値段も手ごろでしかも栄養価が高いということで愛されてきたものでしょう。日本各地にはそれぞれの地の豆腐があり、豆腐を利用した料理が数多くあります。こだわれば国産の大豆で凝固剤もにがりで・・・いやいや消泡剤は邪道だ、昔ながらの米ぬかだ・・・やれ、水はどうだ、水は大切だぞ・・・などなどうまい豆腐を求めて語る言葉は意見を違えても楽しいものです。皆さんも豆腐を食べてみませんか。

(07/06/18) 


   我が家のせんぜえ(野菜畑)その2

 5月の連休があけると、とたんに忙しくなります。
せんぜえ(野菜畑)での野菜苗の植え付けや種蒔きで大忙しです。
 専業農家ではないので一日中畑にいるわけにいかず、時間を上手に使わないとあれもこれもと重なってしまい大変です。朝、5時に家を出て300bばかり離れた畑に向かいますが、ほの明るい田畑にはもう農家の方たちが働いています。

 今年は少し作付けを変えました。
ジャガイモは沢山いらないので止めて、自分が好きなものを作ることに決め、秋野菜の白菜やダイコンを播く場所を確保してから畝立てをしました。
春先にトラクターで起こしてもらった畑は、ふかふかして歩くと気持ちがいいものです。暖められた土もなぜか優しい感じと匂いがします。私の畑仕事はほとんど、昔ながらの手作業で、道具は三本鍬、まんのう、スコップ、ジョレン、草取りの小型鍬などが戦力です。
 畝立ては小型の耕運機やカルチベーターがあれば楽にできますが、三本鍬で全部立てました。マルチをしながら疲れると遠くに見える西山を見ながら一休みです。今年は春先の天候がおかしく寒暖の差があり過ぎました。つい、このあいだも強い霜がありりんごやなしの開花時期と重なったのが心配です。
 ネギを植え、ウドやニラ、ミョウガなどの草取り、パクチョイの種蒔きをすませ、ナスやキュウリ、トマト、ゴーヤも植えました。モロコシも数回に分けて種子を蒔きました。いつも無駄にするピーマンは控えて少なめに、シシトウは3本、オクラも少なめにしました。一番好きな辛いコショウは50本、沢山植えました。

 辛いコショウの多さに農家の人にからかわれてしまいました。「えらぁく、作ったもんじぁねぇかい、なんするだい」「やっ、これはせぇ、人にやるだわい」と私。
可笑しいのは毎年、同じ人が聞くことです。答える私も同じです。元気でいられるうちは、いつまでもこんなたわいのない会話が続くのでしょう。
辛いコショウは私が好きなのと、辛いコショウを待っている人が大勢いるからです。
 夕顔を2本、スイカも2本、アンデスメロンは3本、「坊ちゃん」というかぼちゃを8本畑の草押さえに植えました。
 これだけ植えてもまだ畑が空いています。草取りが大変なのでなるべく埋めたいのですが、これでは埋まりそうにありません。作業は朝の5時から6時半までの一時間半と決めているので、管理や収穫のことを考えるとむやみに増やすことはできません。
 
 畑は草が生えます。
黙っていればハコベ、ノボロギク、アカザ、ノゲシやニガナ、スイバ、ヒメオドリコソウ、ホトケノザ、タネツケバナ、ナズナなどがはびこり、夏にはスベリヒユが全盛になります。畑のみならず土手や畦の草も刈らねばなりません。畑は草との闘いです。マルチングするか絶えず管理機で起こしていないとたちまち原野になります。
 このような作物に害を与える草を防除することに人は多大な労力を強いられます。農家の人も「田んぼはいいが、畑はやだねぇ」ということになります。何も作らなくても耕起していないとすぐ使えない畑となってしまいます。

 せんぜえ(野菜畑)は何とか昔ながらの鋤、鍬の手作業でも維持できますが、単作でセロリ、レタス、キャベツなどの野菜を生産する専業農家は大変でしょう。
耕起からマルチング、消毒と大型農機がないと仕事にならないからです。機械化された農業です。
 機械化された農業はいまから60年前ごろから盛んになりました。耕運機があちこちの農家に入り始めたのも昭和30年代です。戦後間もないころの農業は、貧弱な生産基盤のもとまだ戦前の農業である自給自足的な経営を色濃く残したものでありました。昭和30年代に入ると農政も外国農業の圧迫を受けて、共同化や機械化の道を進むことになり、そのための指導が行われ、過重労働や労働生産性向上のため機械化農業が農家に取り入れられるようになりました。

 現在、内外の農業事情を見聞きすると日本の農業の未来は明るいものではありません。前途多難といっていいでしょう。
田畑で働いているのは老人といえる年代の人たちばかりです。戦前戦後を生き抜いた人たちがまだ健闘しています。近代化即機械化の波を背負い、老骨に鞭打ってトラクターを運転する姿を見るに本当にこれでいいのかと思います。田んぼがあるが老齢のため耕作できないので、人にまかせたら起し賃から、肥料、田植え機賃料、収穫のコンバイン賃料を払ったら赤字だったという話もあるくらいです。生産コストを引き下げるはずの設備投資が逆に経済の原則を無視したようなことになっています。
 「草、ぼうぼう」にしないために赤字覚悟で生産基盤を維持して行く事は大変なことで、いつまでも続くことではありません。
 当初の共同化の意義も薄れ、「結い」も薄れ、個々の家で大型農機を買い揃えて小さな田畑を耕作していることが近代化といえるのでしょうか。いま、農民の心はどこにあるのか知ることが難しい時代です。

 作業をしながらみる西山は雪をまとい、温かさと厳しさを同居させ疲れを忘れさせます。何よりの景色です。
 
(07/05/18)


  甘いフキ味噌

 いつもより暖かいせいかフキのとうが出始めています。
地中からのぞく花(フキのとう)は、早春の風物詩で季語にもなり春を告げる使者ですが、春の香りを楽しむために採取されています。細かく刻んで味噌汁の香り付けにされたり、フキ味噌にされたりします。独特な苦味がありそれがフキの魅力であるのですが、嫌いな人もいて世の中は面白いものです。今日は苦味の嫌いな人や、子どもたちでも食べられるよう甘味のあるフキ味噌を紹介してみたいと思います。

甘いフキ味噌の作り方
 材料 フキのとう  6個(この辺ではふきぼこと呼ばれる)
    ねぎ     3本
    サラダ油   大さじ 2杯
    味噌     大さじ 3杯
    砂糖     大さじ 2杯
    醤油     大さじ 2杯
 手順
 1. フキのとうを刻む。 野趣を楽しむならあまり細かくしない
 2. ねぎを刻む。    フキのとうと同量になるくらい
 3. フライパンか子鍋にサラダ油を入れ、1と2を手早に中火で炒める。
     焦げつかさないようしなっとしたら
 4. 砂糖と醤油をかき混ぜ、だしを作り、3にかける。
 5. 煮汁が少なくなったら、味噌を入れ良く混ぜる。
 6. 弱火で焦げ付かせないようかき混ぜる。
 7. 煮汁が無くなるまで、プツ、プツとしたらすぐ火を止める。
 8. 出来上がり。小鉢(7センチ)一杯分です。

 注意すること
 焦げ付きやすいので手早に。不安だったら弱火で炒める。
 だしは前もって作っておく。
 味噌を入れるタイミングが大切、煮汁が残っている状態で入れる。

 フキの香りがほのかに残り、ねぎの香りもミックスされ、甘くて誰でも食べられます。だしの量、砂糖の量を加減すると香りが活きます。試して見てください。お酒、温かいご飯には最高です。
 お店(スーパー)に並ぶフキのとうは沢山採れるよう品種改良され栽培されたものです。フキとして茎を食べるものは、「愛知早生フキ」が多く愛知県が出荷量で全国の70%を占め、知多半島の根っこ東海市が全国1位です。群馬県も盛んで(25%)もあり、力を入れています。群馬県農業技術センタ−で育成されたフキは「春いぶき」と呼ばれ、ネーミングもよく、市場でも人気が高いと言うことです。わが長野県では、フキを低糖度ジャムに加工する研究などが行われていますが、産地化されていません。

(07/03/12)


 甘酒の楽しみ

 お節句が近づくと甘酒と菱餅をつくります。これはお雛様に供えるためのものです。
 この辺では桃の節句は一月遅れの四月三日に行われますが、最近では三月の節句から四月まで飾られることが多くなりました。普通は三月の二十八日頃、雛壇を座敷につくりお雛さまを飾りますが、そのとき供え物としては、甘酒と菱餅を主に供えます。
 甘酒は俳句の季語としても有名ですが、寒い時期には体を温め、疲れもとれる子どもや女衆の好物ですが、手作りされることが少なくなり、今ではスーパーでパック詰めのものが売られています。

 この甘酒のつくり方は、それぞれの家で工夫が凝らされていました。
昔は、今のように保温器などの電気機器がなかった時代ですから、管理が難しくちょっとした加減で甘さが変わってしまうので、どこの家でも苦労したものです。かまどの余熱を使ったり、こたつに入れたりしてつくりました。
 
祖母や母のつくり方を見ていたらこんなことでした。
 かめをきれいに洗う。
 同量の米と麹を用意する。
 麹にぬるま湯をかけてふやかし、こたつに入れて温めておく。
 米を普通に炊く。
 炊き上がったご飯はざるに上げ冷ます。
 麹とご飯を混ぜる。
 布でかめを包みこたつ(下掛けと上掛けの間に)に入れる。
 時々ようすを見てかき混ぜる。
 大体一晩から一昼夜で出来上がり。
注意すること
 ご飯の温度が高いとこうじ菌が働かず甘くならない。低すぎると酸っぱくなる。60度くらいの中へ麹を入れる。温度計があればいいが、指を入れて十まで数えられる熱さがいいと祖母や母は言った。
 麹を直接混ぜ合わせても良いが、かける湯の温度が大事。熱いのは駄目。固めにしたりゆるくするには湯の量と麹の量で加減する。
 もち米とうるち米を混ぜてもいい。もち米を加えると甘みが増す。もち米のほうが楽。
との話でしたが、昔はなにぶんにも経験が頼りですから簡単そうに見えても大変だったと思います。私の記憶では、種麹から米麹を、祖母がほぐしたり均して作っていた覚えがあり、私も並んで固まった麹をほぐしました。自家製の味噌を作るには沢山必要だったから麹も自分の家で作ったのでしょう。昔の人は必要なものは何でも作り出す力があったのですね。種麹は近くのヤマニさんで売っていました。
 出来た甘酒は鍋で一度火を通して温めて戴きました。煮立てると発酵が止まるということでしょうか。今は電気毛布や保温ジャーで、時間も短く簡単に出来ますが、こたつの中から掠めて飲む楽しみがなくなりました。
今のつくり方は
 うるち米ともち米を用意する。それぞれカップ 2 1/2 ずつ 米麹1袋700gくらい用意。(麹は500gで大体700円前後で売っています)
 うる、もち米、両方を混ぜて普通に炊く。
 炊き上がったらボールなどに移し40度くらいに冷ます
 麹をざるに入れもみほぐしながら短時間で洗い、水気を切る
 ご飯に麹を混ぜ保温ジャーへ移す。そこへぬるま湯カップ2を上からかけて保温する
 2時間に一度の割でかき混ぜる。4時間くらいすると粘りが出てくる8−10時間で出来上がり。
 適宜薄めて飲みます。
手作りのものは黄色くなりますが、雛祭りを手作りの甘酒で楽しんで見ませんか。

(07/02/26)


氷頭(ひず)  お正月の酒の肴

 昨年の暮れ、お正月の酒の肴にするよう「氷頭」(ひず)を作りました。
サケは私の大好きな魚です。何故かといえば昔からサケの料理が多かったことが、サケ好きにさせたのでしょう。
年取り魚の代表はサケかブリでした。なぜ二種類かと不思議に思うでしょうが、ものの本には長野県の東北信はサケ、中南信がブリなどと色分けされていますが、はっきり分けられているものでなく、どちらを食べても良かったのです。
 縁起を担いで出世魚の塩ブリ、「さけえる」(栄える)からサケを買ったのです。海から遠く輸送に難があるため、塩の魚丸ごと一匹買うことが多かった昔は、ブリのほうが高く、サケはブリより安かったのです。ブリが買えるおでぇじん(裕福な人)になれるよう「おいべっさま」に祈ったものです。また、イワシやサンマの「尾頭つき」を年取り魚にする地域もあります。
 サケはそういうわけで一本丸ごと食べることが多く、捨てるところがないほど利用したもので、頭から尻尾まで料理に使われました。ごみとして出すものがないということですからサケは立派な魚です。

 「氷頭」(ひず)はサケの頭部(鼻の上)の軟骨部分を利用する料理です。
父が好きでお酒の肴にしていて、母がよく作っていましたが、子どもの私はあまりおいしいと思って食べたことはありませんでした。それが酒を嗜むようになって「氷頭」が好きになり、自己流ですが頂きものの新巻鮭で作るようになりました。

 「氷頭」の作り方は簡単です。(ヒメギフ流レシピ)
 1.まず、落としたサケの頭をざっと洗います。
   新巻鮭など塩のものはそのままでも良い。
 2.頭を半分に割ります。
   出刃包丁で口先から切り込んで叩き割ります。
   氷頭といわれる部分は鼻先から両眼の周りの氷のように白い半透明の軟骨の部分です。
 3.氷頭(軟骨)の部分を切り取る。
   皮や身がついたままでも良い。   
 4.切り取った軟骨を食べやすいよう好みにスライスする。
   一口状のぶつ切りでも良い。
 5.ボールに入れひたひたに酢を注ぐ。  
 6.冷蔵庫で一晩寝かせる。
 7.酢を適当に切り、好みで味付けして盛り付け出来上がり。
 
 注意すること。
  1.頭を落とすときは、かまのところから落とす。
    包丁はしっかり握り、一気に切る。(油があり滑るから)
  2.えらぶたから包丁を入れ、頭とかまに切り分ける。かまはアラ煮などに利用する。
  3.甘塩のサケは小匙一杯から大匙一杯の塩を足す。

 私の「氷頭」の作り方はワイルドなもので参考にならないかも知れません。
邪道だといわれそうですが、かまなども一緒に入れてもいいのですが、汁が濁り出来上がりが良くありません。頭全部(口先から眼まで)入れて作ることもできます。全部食べれるということです。食感だけを楽しむなら軟骨だけにしておいたほうがいいでしょう。「 氷頭なます」にするなら、別に大根やニンジンで紅白のなますを作り二杯酢・三杯酢にして、鮭の卵(いくら)と一緒に盛り付けましょう。お正月の一品となります。酒や味醂で味つけするのもいいと思います。砂糖を使うとすぐ食べるにはいいですが、置いておくと濁ります。
 生のサケの頭だと塩加減が難しく、生臭さが強く塩ザケよりくせがあります。サケの頭が店頭に並んでいない場合は、「氷頭を作るので塩鮭の頭を欲しい」といえば頭だけ売ってくれます。なるべく新巻鮭を買いましょう。新巻鮭はサケの旬を塩漬けにしたもので生臭さが少ないため、「氷頭」作りにはもってこいです。ちなみにツルヤでは100円でした。
「氷頭」はさっぱりさが大事で、塩加減は好みですが、うまく出来れば酒の肴として最高です。

 サケが好きなら、こんな本を読んでみたらいかがでしょうか。
「鮭サラの一生」という本を紹介したいと思います。ヘンリー・ウィリアムスンというイギリスの作家が1935年発表したもので、交友のあった「アラビヤのローレンス」として知られているT・E・ローレンスに捧げられた作品です。
 雄鮭サラの一生を、確かな自然をみる眼と清冽で印象的な文章で綴っています。海保真夫(かいほまさお)さんの訳も素晴らしいものです。全篇どこか遠い宇宙の眼のような視点で、雄鮭サラと自然と人を語っています。最後の篇、冬の星の流れ の第二十五章「終焉と始まり」では、生き物の命の輪廻と循環を描いていて好きなところです。
 単なる動物文学でない作品で、私が大好きな小説です。サケを食べるたびに思い出します。是非読んでみてください。1968年、至誠堂発行。
 
(07/01/10)



   野沢菜漬け(お葉漬け)

 立冬も過ぎ、霜が訪れるようになると「野沢菜漬け」が話題にのぼります。
「野沢菜、漬けたかい」
「や、まだだいね。こぜいになったし、昔みたいにつけねじ」
「そうかい、若い衆はたべねぇし、えらい漬けてもしょうがねーしね」
信州の冬の風物である漬物野沢菜漬けも、最近はどうも人気が落ちて淋しくなりました。

 野沢菜は冬が永く寒い信州には無くてはならないものでした。
不意の来客にも、お茶の時間でも野沢菜の漬け物は喜ばれたものです。その家、その家の味があり、工夫してどこの家でも漬け込んだものですが、食生活の変化や家族構成、住環境の変化などにより、はたまた、温暖化現象というものにまで左右されるようになってしまいました。

 霜が二、三回降りるようになると野沢菜の収穫になります。「おなとり」は近所の人を交え世間ばなしなどしながら、葉先きを落とし包丁で株(かぶ)を切り離します。茎に土がつかないようござなどを敷き、稲わらを簡単に編んだものの上に、株元を整えた野沢菜を置き一束にします。
 家に持ち帰った野沢菜は広げて枯れ葉を取り除き、葉先きを調整、改めて株の根元に十字に切れ目を入れ整えます。少ししなびるまで待って「おなあらい」をします。
 「おなあらい」は昔は近所の川が洗い場でした。四沢川の薬師堂の南です。先着順でしたから先にお客さんがいると遠慮して待つことになります。待つのが嫌な人はリヤカーや荷車を押して田川や下西条の外田橋、その奥の矢沢川や上西条の強清水まで出掛けたものですが、他地区だと遠慮しがちで嫌だと言っていました。はんぼ(半樽)に水を張り家で洗うことも多かったですが、たいがいの家では川で洗いました。
 今は、漬ける量が少なくなったため、家の水道などで洗う人が多くなりましたが、菜を洗う光景は初冬の風物詩といえるでしょう。

 きれいに洗った「おな」はわらで束ね漬け込みます。
樽は、少し前から水を張って水漏れが無いように検査しておきます。さあ漬け込みです。樽を漬け物小屋(味噌部屋)に据えつけ、底に塩を振り、葉先と根元を交互にして並べていきます。一並べしたら上から塩を霜降り程度にまんべんなく振ります。
 塩加減は「霜ふり」といいますが、お菜の「でき」やその家の「しょっぱずき」「あまずき」などにより違います。姑さんなどは永い経験があり、四斗樽一本にこの位の塩というのがわかっていますから、そこは手馴れたもので自信があります。
 樽の縁まで漬けたら押しふたを置き、重石を載せます。だいたい一晩で水が上がるように重石を調整して「野沢菜漬け」の終了です。水が上がったら重石は半分にします。
 「野沢菜漬け」の味の基本は塩ですが、それぞれの家で唐辛子、煮干し、味噌、昆布などを布袋に入れ味付けの工夫をしますが、シンプルな塩だけの味は捨てがたいものです。
 最近ではポリ桶に簡単に漬けられるようになりました。ちなみにお菜20`に塩、800cから1`で漬けるのが標準だそうです。
 
 こうして漬けた「野沢菜漬け」は大体一週間位たつと食べられます。出すときは注意することです。手を良く洗い雑菌が入らないよう気を付けます。漬け汁がいつもかぶさっているようにしておきます。空気にふれると苦味がでて味が落ちます。まだ青臭さが残る「ほん漬かり」しない「浅漬け」のものもおいしいのですが、良く漬かったお菜を熱いお茶や温かいご飯と一緒に食べるときが一番です。
  寒中、味噌部屋から氷付いた「お葉漬け」を出し、こたつにあたりながら食べた味はなかなか忘れられるものではありません。また、葉の部分でご飯をお寿司のように巻き食べるのも良かったですね。
 寒いうちは味も変わりませんが、色は青みが消えべっこう色に変わります。春、啓蟄を過ぎるとべっこう色に酸味が加わるようになり味も変わってきます。この頃になるとそろそろ食べ飽きるので食べ方の工夫をします。 塩出ししたお菜を細かく刻んで、酒粕と一緒に味噌汁にしたり、唐辛子を入れ、醤油や砂糖で味付け油で炒めて食べたりします。また、おやきの具にしたりします。まったく捨てるところがないくらい利用します。

 野沢菜がいつ頃から作られ、漬けられるようになったのかはっきりとしていません。
名の通り、野沢温泉村が原産とされていますが、なんでも野沢温泉村の健命寺の八世晃天園瑞和尚が宝暦六年頃(1756)京都へ遊学した折り、関西付近で栽培されていた「天王寺蕪」の種子を持ち帰り栽培したことが始まりと言われています。「天王寺蕪」が「野沢菜」になった詳しいこともまだよく分かっていないようです。
健命寺では、今でも寺種と呼ばれる種子を生産しているそうですが、導入以来かれこれ二百五十年にもなりますから大したものです。健命寺の門前には野沢菜発祥の地の石碑が建っています。
 
 野沢菜のほかの漬け菜としては有名な「稲核菜」(いねこきな)があります。
「稲核菜」は、今は松本市安曇になりましたが、旧、安曇村稲核の名を取ったものです。このほうがなんか「稲核菜」のふるさとという感じがします。稲核菜は野沢菜に比べ繊維質が強く、葉が大きく広がります。収量もあまり上がりません。蕪も野沢菜より大きめになります。ちょっと気難しいお菜です。稲核ではいまも種子を生産していますが、野沢菜がはやる前は南安曇や松本、東筑摩全域で栽培され、漬け菜といえば「稲核菜」のことでした。独特の歯ごたえと小味があるので「漬け菜は稲核菜」という根強い人気があります。
 
 伊那地方では「羽広菜」が有名です。
「羽広菜」もお寺が原産地で「中仙寺」の庭にあったものを広めたといわれています。江戸時代から作られてきた「羽広菜」も野沢菜に押されて一時衰退しましたが、最近また復活しています。食味も稲核菜に似ていてこわく、小味があります。蕪はまろやかな味を好まれ漬け物に利用されています。

 「野沢菜」「稲核菜」「羽広菜」は長野県の三大漬け菜といわれました。一時衰退した産地もありますが、村おこしなどで見直され食文化として取り組むところが多くなりました。嬉しい限りです。
 このほかにも木曽地方の「木曽菜」(福島菜)諏訪・茅野地方の「諏訪紅蕪」南信地方の「源助かぶ菜」などがありますが、地域の特色ある漬け菜は地域の風土が育てたもので大切にしたいものです。

 ふるさとの味、信州の冬の風物である漬物はそれぞれの家の独自の味がありました。「野沢菜漬け」はその最たるものです。漬け物には、その家が長いあいだに育んできた味の歴史があります。それはそれぞれの家が豊かな食文化を持っていたということです。漬け物は地域の風土と歴史が育んだものといえるかも知れません。
どうか若い衆がずくを惜しまず、自分の家の味を作って欲しいと願わずにはおられません。まずは、おばちゃんがいたら聞いておいしい漬け物作りに励んでみてください。

(06/11/23)



  子どもたちの四季
           「いなごとりと甘露煮」

 私が8歳ころのお話です。
 稲の穂がこうべを垂れ黄金色に色ずく頃になると、老いも若きも腰に袋を下げてたんぼに出かけます。
そう「いなごとり」です。 
 昔は農薬散布などしなかったせいか、イナゴが沢山いました。日本手拭いなどの古いものを使って袋をつくり、それを持ってたんぼに行ったものです。いなごとりは大人だけのものではありませんでした。こどもでも大きな戦力で遊びながらとったものです。跳ね回るいなごを追いかけ田の畔を転げ落ちたり、刈り取った稲のまだ結わえない束をけちらかすなどしてしかられたことを思い出します。

 いなごは食用のためにとりました。
その頃は今のように沢山の食べ物はありませんでした。牛・馬・豚などの肉料理など思いもよらず、年とりに鶏や兎の肉が食べられれば良かったほうです。終戦直後は本当に食糧事情が悪かったのです。学校を休む子どもも多く、遠足や運動会も半日で終わるということがありました。当時のおやつはいもぼし、うすやき、ふかしたさつまいもやじゃがいも、あられやこおり餅、豆餅などで、店やさんで買った物は一つもなく、果物は秋、柿を食べるくらいでした。 そんななかでいなごは貴重な蛋白源として身近で自給できるものでしたから、おとなも子どもも夢中でとったものです。
 稲刈りのときは、ゆい(結い)でお手伝いにきた人や雇われた人たちも、みんな稲を刈りながらいなごをとりました。子どもはいなごをとりながら稲を刈るような感じでした。袋は腰につけて、いなごを捕まえると袋を一振り、二振りしてから、袋の口を開けいなごを入れます。朝方と夕方は動きがにぶく、日中は活発になって跳びはね捕りにくくなります。稲に止まっているいなごは捕ろうとするとくるりと反対側に廻る習性もあって、面白いものです。
 束ねるよう置いてある稲の下にも隠れていました。稲刈りの列が田の端にくるといなごが畔のほうに出てくるので子どもたちは先回りして待っていました。
仕事をしながら食糧を捕るのですから、手を休めても誰も文句を言いません。稲刈りは腰が痛くなるような作業でしたが、いなごとりがちょっとの息抜きになりました。
 いなごは稲刈りから脱穀のころまでとれましたが、霜のくるころのものはまるまると肥えて油がのっておいしいといわれていました。

 このあたりで食用にするいなごは「コバネイナゴ」で稲の害虫でした。
翅が短く、うしろあし(後脚)で跳びはねる元気なイナゴです。子どもは動くいなごらしいものはなんでも捕りました。クサキリやヒメクサキリ、キリギリスやヒメギス、ウマオイなどを捕ったものです。これらは「ほうりさま」と呼ばれました。これは翅が神主の烏帽子に似ていることから付けられたもので、交尾中のいなごは「おんぶさり」と呼びました。いなごにとってしばしの逢瀬も命がけで人間は罪なことをするものです。

 いなごは祖母や母が下ごしらえして煮付けて甘露煮となり食卓に上がりました。
炒り鍋で炒って砂糖と醤油で味付けするのですが、子ども心にもいなごになんだか申し訳なく思ったものです。 調理の仕方はいなごを洗う家や、水に浸けて汚れを取る家、お湯に通して良く洗う家、脚を取り除いて食べやすいようにするなど、家々で秘伝があり工夫していました。だいたいの家では捕ってきたいなごは、1日くらいそのままにしておき、熱い湯をかけて翅や脚をむしり、ごみなどを取って砂糖、醤油、酒、みりんなどで味付けし、中火で汁がなくなるまで煮込むのが普通でした。翅や脚をとる下ごしらえが一仕事です。酒は燗冷ましなどを取っておいたものを使います。祖母は脚だけ炒ってすり鉢で摺り味噌や唐辛子の摺り粉と混ぜて、作り置きをしていましたが、ご飯の上に載せて食べると芳ばしくておいしく頂けました。
 いなごが一番で、「ほうりさま」の仲間、クサキリなどは柔らかく食感が悪いのでいけませんね。

 食生活が豊かになると、いなごの甘露煮も忘れられ今では珍味と呼ばれるようになりました。いまの子どもたちは出しても箸をつけないそうです。見た目で抵抗感があるのでしょう。
 子ども時代に親しんだ味がその人の味覚を決めるということを聞いたことがありますが、なにも好き好んで食べたわけではありませんが、動物性蛋白が簡単に手に入ったことが大きいと思います。いなごを生活に取り込んで、いつでも食べられるよう日持ちが良い甘露煮にして保存し長く摂る工夫などしたことに感心させられます。そこには、いなごを日常的に利用することを考えた大人の、先人の知恵があったと思います。

 暮らしが豊かになるにつれ、子どもたちが野外で遊んでいる姿を見かけなくなりました。昔どこにでもいた野生の申し子みたいな子どもが少なくなりました。
 生きるために必死であったあのころ、子どもたちは大人の手伝いをしながら野の遊びをし、遊びを通していろいろなことを学んだものでした。 経験することによって、生きものの生活や命のはかなさ、食の大切さを自分の体で感じたものです。いまの子どもたちが「変な食べもの」として嫌うのも、生きものに対する経験の蓄積がないことと、生きるために先人が知恵を絞った地域の食文化を、大人がきちんと子どもたちに伝えていないことが原因かも知れません。
 きくところによると「たまごっち」というゲーム機がまた流行りだしたそうですが、命のないものを育て「食事を、ミルクを」と世話をする子どもたちに、風袋の悪いなんだかわからない昆虫食を「食べろ」といっても恐ろしくて食べることが出来ないのは無理も無いことのように思えます。
 ゲーム機で遊ぶことより野山で遊ぶことをいまの子どもたちに望むのは無理なことでしょうか。

 「いなご」もひところより数が減りましたが、手や袋のなかで「ゴソゴソ」動く感触は忘れがたいもので、子どもたちの賑やかな「いなごとり」は、のどかななつかしい風景でした。

ゆい(結い)お互いに忙しいとき融通してお手伝いする風習で手伝って貰ったら手伝いで返す。金銭のやりとりは無い。

(06/10/01)


  寒ざらし粉

 寒ざらし粉もやはり寒さが続く大寒のころに作ります。
寒中に作られるので「寒ざらし粉」と言われます。昔から米を保存用に加工する生活の知恵ですが、いまはあまり作られません。
 氷餅を作るとき一緒に寒ざらし粉を作る家庭が多く、沢山のバケツが並んだものです。

作り方は
 1. 米を洗い、水に浸します。
        もち米、うるち米を問いません。どちらでもできます。
        もち米で作ると出来上がりは白玉粉。なめらかで、弾力があり腰が強いのがが特徴です。
        うるち米では特に目の細かいものを上新粉と呼んでいます。
 2. 浸したまま寒いところに置き3−4日凍らせます。
 3. ざるに上げ、日影で風通しの良いところでカラカラになるまで乾燥させます。
 4. 石臼で挽いて粉にします。
 5. 一斗缶などで保存します。

 寒ざらし粉は夏まで置いても味が変わらず虫もつきません。春先の草餅、かしわ餅、さくら餅、団子などを作るとき利用します。
また、風邪をひいたときなど砂糖を加え、溶いたものは病人食でした。消化がよく氷餅よりなめらかでおいしいものです。
 日当たりの良い縁側で、石臼を抱え挽いていた祖母が思い出されます。
(06/01/26)


 氷餅

 寒い日が続きますがこんな年は氷餅が上手に出来ます。
「氷餅」は寒さの厳しい塩尻・松本・安曇野・諏訪や大町などで昔から作られていますが、最近は農家の軒先に吊るされている餅を見ることが少なくなりました。
 お正月も終わり、小正月を祝い、大寒を迎えるころ、農家では「氷餅」を作るお餅を搗きます。搗いたお餅はのし板に厚目に広げます。硬くなったところで小さく切り分け、これを新聞紙や雑誌で一個ずつ包みます。
 沢山作るときは家中で世間話などしながら包みます。出来たものはおとこ衆が一個ずつ吊るすためにわらで編みます。簡単そうですが編み方があり、わらを交互にしながらお餅をはさんでいきます。最後は繩状に編み両側に振り分けられるようにしておきます。片側10個ぐらい、両側で20個ぐらいのものが出来たら一本完成です。
 これをはんぼ(飯桶・精米を貯蔵するために使われた大きな桶)に水を入れ浸けます。大きなはんぼでなければ沢山入りませんし、お餅が均等に水に浸かりませんから出来上がりが左右されます。
 たっぷり水を吸わせないと良い「氷餅」は出来ません。一晩、二晩と浸けることもあります。引き上げるとき氷が張り大変なくらいになります。引き上げたお餅は北側の日の当たらない風通しの良い軒先に吊るします。寒い日が続くほどよい物が出来ます。真冬日が続く1月下旬から2月上旬が「氷餅」の季節でしょう。
 一週間くらいたったら日の当たる場所に移して一週間から10日くらい乾燥させます。乾燥が終わると完成です。

 「氷餅」は農家の非常食・保存食でした。
乾燥していて保存が効くので重宝されました。田植えのお茶受けや子どものおやつ、また病人が出たときには砂糖を入れ熱湯を注ぐとトロリとした病人食になります。私もこれを欲しさに風邪を引いたと仮病を使った覚えがあります。
 登山のときなど軽いのが好まれ非常食として常備品でした。戻すとすぐ使えますし、そのままほうばって(食べても)もぱさぱさしていますが噛むほどに味が出てきます。

 「氷餅」は大町で作られたのが最初だとか、いいや諏訪が最初だとか言われていますが、最近では諏訪高島藩説が有力です。氷餅小屋があり徳川家光公のときから幕府に献上していたということと、明治に入って諏訪の小川津右衛門という人が工夫改良した「氷餅」を製造し、それが諏訪地方一円に広まったといわれています。このためか諏訪地方には「氷餅」を加工して和菓子として販売しているお店が多くあります。
 現在、和菓子の原料として作られる「氷餅」は、塩尻で作られるものとは製法が違うようです。その製法はもち米を水に浸し、水切りしたあと石臼でひき米汁にして、その汁をとろとろに煮て、型に流して固め、外気で凍結させてから乾燥させ、製品にするとのことで、これを粉末にして和菓子のまぶし粉として使われたりしています。なにか、寒ざらし粉の製法と似ています。

 「氷餅」を食べながら包み紙の新聞、雑誌の古い記事を読む楽しみが少なくなりました。
(06/01/13)


 もち米を作る人が少なくなりました

 愛犬と散歩しながら田んぼを見ているともち米が栽培されていないのがよくわかります。
昔(昭和30年頃)は、どこの田にも必ず「もち」が作られていたものでしたが、最近は「うる」ばかりでもち米を植えてある田んぼがなくなりました。
 柿沢の中村さんの田んぼで二畝ほど植えてあったので聞いてみました。

 「こんちは、中村さん、珍しいもちをつくったじゃねぇかい。なんてやつだい」と私
 「や、これはせ、昔のもちで福島糯ってやつせ、いろいろ作ったがうまくねぇで、いまはうまいもんでこれっきりせ」と中村さん
 「えらい昔のもちをつくったじぁねぇかい、そんねにうまいかい」と私
 「あぁ、うまいね、いまはこがねもちが有名だけどせ、これが一番だじぃ」と中村さん
 「なんで、手で刈ってるだい、コンバインあるじゃねえかい」と私
 「や、これはハゼで乾したほうがうまいでね、ハゼで乾してこくだわい」と中村さん
 「まいとし作っているだかい」と私
 「あぁ、まいとしだんね」と中村さん
 「おもちはたんと食べるね」と私
 「あはぁ、すきだでね」と中村さん

 中村さんは私より3−4歳上の人ですが、田のあぜ草も鎌で刈っていますし、廃物のいろいろなものを再利用したりしていますが、近代化に抵抗しているわけでもなく、トラクターもあります。ただ、作るものにはこだわりを持っている人です。
 自分でうまいと思うものを、自分のやり方で作ることを実践している中村さんを見ると、昔の「お百姓」の姿を見るようです。
 冷害や倒伏に弱い「こがねもち」を作らず昔の品種「福島糯」を作ることなどさすがといえます。
「福島糯」は昭和11年から昭和36年まで長野県の奨励品種として推奨されたもち米で、早生で長い稈を持っていて耐冷性も強くいもち病にも強い品種でした。私も学校で習った覚えがあります。現在は「福島糯8号」、「福島糯10号」などの親の違う新しい品種が出ています。
 いま、全国で栽培されているもち米品種は沢山ありますが、それぞれの地域で奨励品種、準奨励品種を紹介しています。長野県では、オラガモチ・カグヤモチ・モリモリモチ・もちひかりなどが最近(昭和60年以後平成)のもち米の奨励品種になっています。

 もち米が作られなくなったのは「お餅」ばなれが大きいでしょう。スーパーなどで一袋5百円前後で売られていて、臼や杵を煩わすこともなく手間が省けていつでもすぐ食べられるようになっています。赤飯も上手に作れる人が少なく、20代の女性ではほとんど作れないという人もいるそうです。また農家でも昔ほどあまり餅を搗かなくなりました。伝統食である「凍り餅」も廃れてきています。
古いお米を利用した「おこわ」を作って食べることも少なくなりました。

 なんでも手早く簡単にという風潮がもち米の栽培にまで及んでいます。中村さんのうまいもち米を食べたくなりました。



我が家のせんぜぇ(野菜畑)

 6月の雨不足にもかかわらずせんぜぇ(野菜畑)の夏野菜もなんとか持ち直してくれました。
今年の作柄は昨年に比べると満足できるものではありませんが、お金に換えるものではないので良しとしなければなりません。
 アスパラはジュウシホシクビナガハムシにやられ散々でした。基本的に無農薬で済ますことでやっていますがこの虫には参りました。芽が出たとたん地際からわさわさ出てきて柔らかい芽を食い荒らすのでろくに食べられるものが採れませんでした。
 ニラとアサツキは夏の始めに戴きました。ニラは何度でも葉を利用できますがアサツキは旬を逃すと直ぐ葉が黄色になって食べられなくなるので30センチ位に伸びたときに刈ります。鱗茎はノビルに似た味がします。
 キャベツはまあまあでしたがピーマン、シシトウ、コショウ、ナスが大きくならず雨の欲しい時期に無いとやはり生育が遅れます。ジャガイモは近所の人たちは今年は「ちがいせぇ」と不作を嘆いていましたが、大白(おおじろ)を蒔いた我が家では大きないもが採れました。
 オクラ、ゴーヤーも暑さが戻ったせいでいつになく出来が良く豊作です。カボチャも沢山なっています
 トマト、キュウリはぼつぼつ終わりになりますがナスは沢山採れます。トウモロコシも4回に分け蒔いたおかげで旬に食べることが出来ます。 夕顔も大きなものが採れました。夕顔は好き嫌いがあって人にあげても食べ方がわからないと困る野菜です。特に若い奥さんに食べ方の知らない人が増えてきているようです。味噌汁に入れてもいいんですが・・・・。
 スイカ、メロンも作りました。もうすぐ食べられそうです。ネギのい(土寄せ)も寄せました。いまミョウガ、シロウリ(ホンウリ)が最盛期です。
 シソ(大葉)も3年前に作ったあとのこぼれ種から毎年芽が出て、香りを届けてくれるようになりました。
 困るのは雑草です。特にスベリヒユは抜いただけでは枯れず、葉や折れた茎から発根するので畑のくろに積み上げて腐らせます。夏が好きな植物で食用にもなり生汁は虫刺されにも効きますが、果実を稔らせてしまうと沢山の種子をばら撒くので要注意です。
 小さな畑でも収穫したものはとても二人の我が家では食べきれないのでおすそ分けをしています。「食べきれないので食べて下さい」とお願いするのですが、気を使い、お返しをする人もいて私を悩ませます。
 早いものですがお盆が明けると、つるあげをして秋野菜を蒔かないといけない時期になってしまいました。
 忙しいことですが私の夏もじきに終わります。


雨が欲しい  2005/6/13  

 梅雨に入ったというのに、晴れの天気が続いています。
長野地方気象台によりますと、このところの天気は太平洋高気圧の勢力が弱いため、南海上にある梅雨前線が北上しないことにより、移動性高気圧に覆われる日が続いているとのことで、「少雨に関する情報」を出して農作物への被害に注意を呼びかけています。
 昨年は6月6日に関東甲信越地方は梅雨入りしましたが、多雨で多くの中小河川が氾濫、各地で被害が出るほどでした。

 少雨による農作物の被害が心配です。
私の家庭菜園も植えたものがちっとも大きくなりません。
ナス、コショウ、ピーマンなどは顕著で、トウモロコシも思うように丈が伸びません。これも4月からの少雨が原因と思われます。出来が悪くても自家用ですからあきらめもつきますが、専業農家の方は大変なことだと思います。
 近所の農家の人に訊くと、レタスは形が悪くなり、苦味がつき規格外になるものが多く、白菜もしんの一部が茶色に変色、食味もこわい(硬い)といいます。すでにカット野菜しか利用方法が無く、畑で廃棄される野菜が増えているとのことです。また、乾燥による病虫害の発生も懸念されています。
 アスパラも例年の三分の1くらいしか収量がなく、夏芽の出るのが心配とのことです。
 稲作では灌漑用水の末端の田んぼほど影響が大きく、ため池もすでに枯れかけているところもあるようで、鯉の背びれが見えるくらい減っているとのこと。塩尻市の5月の降雨量は37・5ミリということですから、昨年の214・5ミリに比べ少なく少雨と言えるでしょう。
 果樹農家でも生育の遅れが心配されています。玉伸びが悪く、このまま少雨が続くと小玉となる心配があるとのことです。
 スプリンクラーなどの灌水施設があるところはまだ良いのですが、それでも「雨にぁー かなわねぇー」と、このところの天気を嘆く声が聞こえてきます。
雨が欲しい願いが届くのはいつでしょうか。

 気象庁の長期予報によると6月から8月は北日本(北海道、東北)を除き、平年並みか平年より高くなるとのこと、降水量も平年並みということですが、このまま真夏に突入すると大変です。作物どころか生活に必要な水まで影響があります。
 なにぶん自然が相手のことですから、人間がどうのこうのいってもどうにもなりませんが、私たちの暮らしが大気に影響を与え、その結果だとしたら気をつけたいものです。