日本の高速増殖炉開発
 

日本は先の戦争で負け、原子力研究を禁じられたこともあり、原子力に関しては後進国です。そのため、一番はじめの原子力発電所は英国から買いましたし、2番目以降の原子力発電所は米国から買ったものです。しかし高速増殖炉はプルトニウムを製造するための原子炉であり、きわめて軍事的色彩の濃いものです。したがって、高速増殖炉に関する技術は外国から導入することができず、世界の核開発先進国はそれぞれ独自に高速増殖炉の開発に取り組みました。日本も独自に開発することを余儀なくされ、動力炉核燃料開発事業団(改組されて現在は核燃料サイクル開発機構)が「もんじゅ」と名付けた原子炉を建造してきました。しかし、1兆円もの建設費をかけてようやく試運転にこぎ着けた「もんじゅ」は1995年の試運転早々、まだ出力が40%になったばかりの段階で事故を起こし、行き詰まってしまいました。
 日本の原子力開発の基本方針は、原子力委員会が決める「原子力開発利用長期計画」(以下、「長計」と記載)で定められます。その「長計」で高速増殖炉が初めて取り上げられたのは、1967年の第3回「長計」でした。そこでは、高速増殖炉が「昭和50年代後半」(1980年代前半)に実用化することが目標とされています。ところが5年後の1972年の第4回「長計」では、その目標が「昭和60年代」となり、1978年の第5回「長計」では「昭和70年代」、1982年の第6回「長計」では「2010年頃」というように、どんどんと先延ばしになりました。そして、1987年の第7回「長計」では「2020年代から2030年頃」に「技術体系の確立を目指す」となって、実用化という目標すらがなくなってしまいました。さらに1994年の第8回「長計」では、その目標が「2030年頃まで」と後退した上、ついに2000年の第9回の「長計」では、目標とする年度自身を示すことができなくなってしまいました。昨年改定された長期計画は原子力政策大綱などと言う大仰な名前に変わり、再度高速増殖炉の開発の時期が書き込まれました。それでも商業用規模の1号機をようやく2050年に立ち上げようと言うものです。その経過を右の図に示します。左下から右上に引いた点線は、5年経つと目標は10年先に延びることを示しています。このように、科学的な知見が増えれば増えるだけ、目標が急激に遠ざかっていくような技術は到底実用化しません。それをあたかも希望があるかのようにいいながら、巨額の資金を投入することはおよそ常軌を逸していますし、このようなものが国の原子力開発の基本方針であったことを反省しなければいけません。
 おまけに電力会社による試算でも、高速増殖炉が理想通りに実用化できたとして、はじめの原子炉を作ってから次の原子炉を立ち上げるのに必要なプルトニウムを生み出すまでには90年かかるというのです。今日のようにエネルギー消費を急速に拡大している社会にとっては、高速増殖炉はもともと無意味な代物でした。
 結局、核分裂反応を利用する「原子力」は、ウランは資源がなく、やむなく使おうとしたプルトニウムは壁に突き当たり、仮にその壁を突破できたところでエネルギー資源にはならないことが分かりました。
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