福建茶葉闘病記


海外は心を敏感にし、北海道は心を解き放つ。
どちらの方がいいとかいうことはなくて、それぞれにしか得られないものがある。

僕はひとり旅が好きだ。専ら国内の旅しかしていないが。 日本にはまだまだ行きたいところがたくさんある。日本は決して狭くない。 でも一連の海外出張は旅好きの僕に微妙な変化を与えている。 海外に出なければ気付かないことや感じられないことというのは確かにある。 旅はいつも ”日常の中で使うのを忘れていた『感覚』が蘇るもの” だと思う。 日常から(感覚的にも物理的にも)遠く離れれば離れるほどその『感覚』は研ぎ澄まされる。 だから本当に自分が大切にしていきたい『モノ』が何であって 大切な『コト』が何であって大切な『ヒト』が誰なのか、自ずと見えてくる。 海外に出れば日本のいいところも悪いところも外国のいいところも悪いところも、 今まで気付けなかったいろんな価値が見えてくる。 そしてカタコトでもその国の言葉を覚え、 文化も宗教も肌の色も違う人と話すことがどれほど旅を楽しいものに変え、 どれほどその『感覚』を強いものにすることか!

日本を脱し降り立ったフィールドを歩きその土地に生きる人々に触れるにつけ、 この星からあらゆる争い事が無くなることを祈る思いを強くする。 いかなる理由があろうと人を殺してはならないし、 ましてや武力を行使して一国を制圧しようなんていう行為が許される訳がない!


腸チフスという、今では珍しい病気を患った。 常夏の島でのプロジェクトから外れ、ひとり中国福建省へ渡ったときその病気は発病した。 はるか常夏の島で体内へ進入した菌が、潜伏期間を経てたまたま中国で発病したのだ。 にも関わらず福州の日本人赴任者の方・6名の通訳の方・そして多くのスタッフの方々は 当初病名さえ分からなかった僕の病気を案じ、2次感染の危険があるにも関わらず、 全力でサポートして下さった。 協和病院の黄さんをはじめとする看護婦の方々・伝染病院で身の回りの世話をして下さった 通称おばちゃん・こちらの質問に何でも答えて下さる柳美華先生・早朝あるいは夜、 通訳さんのいない時間帯に英語で話しかけてきてくれた先生方。 福州で出会った方々は概して優しかった(例外もあったが、それは何処の国も同じこと)。 中国へ渡るのが初めてなら点滴も入院も生まれて初めて、40℃を超える体温も隔離病棟も 初めてづくしを何もかも詰め込んだ3週間の闘病生活はとてつもなく長く感じられた。 懸念されていた数々の合併症を発症することもなく、当初4週間と言われた入院期間が 予定より短くなったのは、比較的早い段階で病名が判明したからだろうか、 それとも中国4000年の医学が功を奏したからだろうか。


*闘病記録
*黄さん
*ヤクルト菌
*帰国。


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闘病記録


福州滞在1日目
その日常夏の島から日の暮れた福州の空港へ降り立った僕がひと言めに発した言葉は 『寒い』だった。温度差を考え上着を着てはいたが、南国との気温差は想像以上に大きかった。 旧正月連休が終わりを迎えた今日、あらゆるところで小規模な打ち上げ花火が上がっていた。 「びんこう」を渡る橋から福州市街の綺麗な夜景が眺められる。 いかに福州が大きい街であるか想像できる。

初めての中国である。しかも前回他国にて3人でやった仕事を、 今回は僕が一人でやらなければならない。 騒音だけで温風の出ない暖房のホテルの部屋で、 緊張もあってかなかなか眠りにつけなかった。


福州滞在4日目
2日目も3日目も熟睡できない夜が続いた。 眠ったかと思うと目が覚める。それが繰り返される。 そして今日、いよいよ体中がだるく筋肉が痛み出した。 階段を登ることさえつらい。僕は直感で単に疲れがたまっただけだと思った。 福州へ来て以来毎日よく眠れないという事実があったからである。 ではどうして眠れないのか… 今までも何か楽しみなことが翌日に控えた夜なんかはなかなか眠れないこともあった。 でも一度寝てしまえば朝まで起きないのがいつもの僕である。 そんな前例など通用しないほど今回の出張に僕は緊張しているというのだろうか…。 あるいは目に見えない『何か』が僕の部屋にいて、眠りを妨げているのかも知れない…。

仕事帰り、いよいよ体がだるくてたまらない。 夕飯帰りにはいよいよ寒気がしてきた。熱が出ている…そう思った。 案の定ホテルで熱を測ると38℃を裕に超える熱が出ていた。 初めて僕は部屋に塩を盛った。


福州滞在7日目
昨日おとといと医者へ行った。 最初は風邪だと診断され、歩くことさえ困難なほど痛みが残る筋肉注射なるものを打たれた。 そして今日は朝から採血やらX線やら検査をした。肺炎や肝炎を疑ってのことだ。 今日分かったことは肺炎や肝炎ではないということ。 おそらく一般的な解熱のためであろう点滴を風通しのよいロビーで受ける。 しかし2時間ほどで体が冷え切ってしまい、点滴の効果もなく体温は下がらない。 ベッドのある部屋へ通されさらに点滴を続けるが体温は一向に下がらない。 僕はこの病院に入院することになった。 外来の棟から入院の棟へ、車椅子に乗せられ道路を横断する。 エレベータで何階かへ上がり先客のいる2人部屋へ通された。 ここは協和医院。後で知ったことだが福建医科大学の附属病院である。


福州滞在8日目
日に日に最高体温は更新されていた。 38℃だった熱が39℃を超え、ついには39.8℃などという数値を示すまでになった。 午前中(特に朝飯から昼飯までの間)は一旦熱が37℃後半から38℃前半まで下がり、 午後になって最高体温を更新するまでに上がるというパターンを繰り返していた。 皮肉なことに38℃台が一番体が楽だった。39℃を超えるとと食欲がなくなり、 37℃台まで下がるとひどく寒気がしてならなかった。 体温が上がると一般的なウイルス殺しの点滴と解熱の筋肉注射が打たれる。 繰り返される筋肉注射は僕から立って歩くことの自由を完全に奪ってしまった。 点滴や注射で一時的に体温が下がったように見えても結局は上がってしまう、 しかもその度に最高体温を更新していく。 つまり今施されている全ての療法は全く効き目がないのである。 しかしこの日も医者は10時間に渡る点滴を繰り返し、 寒気がするから毛布をくれと言えば注射をすると言う。 全く意味が分からない。僕は憤慨した。 (ここにいても絶対直らない…早く日本へ帰って日本の医者にかかりたい…) そう願い出たりもした。だが39℃を超える体温で日本へ帰れるはずがなかった。

医者は僕の意味不明な病気の原因を突き止めるためにたくさんの検査をしていた。 昨日の夜から今日の朝、何度か採った血液で、発熱から考えられる全ての病気を検査した。 その結果が知らされた。全ての項目がマイナスだった。

この日の夜、体温計が初めて36.8℃という数字を示した。 熱が下がる度に感じていた寒気もこのときばかりはなかった。 意味がないと思っていた点滴や注射がやっと効いてきたということだろうか? 発熱の原因は分からない。でもとりあえず熱は下がってきた。 病室内の空気が初めて和んだ。みんなが安堵の表情をしていた。 隣のベッドの患者も手を上げて祝福を表現してくれた。 嬉しかったが、福州との別れを予感し少し寂しくもあった。 しかし、一方で僕は嵐の前の静けさのようなものを感じていた。

やはりその平穏は長くは続かなかった。微妙に寒気を感じて毛布が欲しいと申し出た。 まず体温計が渡された。計っている間に寒気は大きな震えに発展した。 これまで全く体験したことのない恐ろしい震えである。 布団やらなにやらいろいろなものを体中に巻かれた気がするが全く治まらない。 名も知らぬ僕の中のウイルスはあざ笑うかのようにこれまでで最大の暴動を起こした。 ここまでわずか数分、体温は40.2℃にまで恐ろしいリバウンドを見せたというが、 正直、あまり覚えていない。 震えが治まったとき何度目かになる採血、注射をし、眠れないほど痛い点滴が施された。


福州滞在9日目
朝から慌しい雰囲気に包まれた。昨夜の血液の培養結果から腸チフス菌が検出された。 今では中国でも珍しい病気だからだろうか、前回の検査項目に腸チフスはなかったのだ。 昨日の恐ろしい震えを見たひとりの医師が腸チフスを疑ったのだという。 近くの病院からこの病気の治療に実績のある詳しい医師が来て、 今後の治療の進め方について話し合いが持たれた。 腸チフスは伝染病である。病室は2人部屋だがそこをひとりで使うことになり、 隣の患者が別の部屋へ移動することになった。 後から来たのは僕の方だ。それに体温が一時的に下がったとき、彼は喜んでくれた。 それなのに追い出すような形になってしまい申し訳なく思った。 この日からチフス菌に対する点滴が始められた。 入院は4週間になると聞かされた。点滴は5日から1週間で終わるが、 その後1週間おきに排菌の検査をし、 完全に体内から菌がなくなったことを確認するのだという。 4週間…。


福州滞在11日目
点滴の効果はてきめんだった。もう体温計が39℃を指すことはなかった。 以下2つの理由から、福州市伝染病医院へ転院することになった。
@腸チフスは法定伝染病であり、隔離病棟での隔離が義務付けられている。
A腸からの出血など合併症が発症した場合、 協和病院では治療の実績がないため適切な対処が遅れる可能性がある。
点滴をしたまま救急車に乗り、すぐ近くだと聞いた割には少し離れた場所にある病院へ 向かった。吹き抜けのある開放的なその病院は妙に人が少なかった。 名前が示すように特殊な病院だからだろうか。外来で来る人はめったにいないのかも知れない。 隔離病棟はその裏の4階建ての建物だった。上の階が良かったのだが1階の1室へ通された。 小奇麗な感じのする部屋だが、明らかに1日中日の光が入らなそうな1階の部屋というのは 陰気な感じがして、第一印象としてはあまりいいものではなかった。 しかしこの隔離病棟、上の階へ行くほど空気感染など感染の危険性が高い病気になるという。 ともかくここは1年前にも腸チフス患者を治療した実績のある病院である。 僕の病気が腸チフスだと判明した日、近くの病院から実績のある先生が来た、 その先生のいる病院がここだというのだ。それなら安心である。

通訳さんがこれまでの付き添いの実績から、医師の質問例とそれに対する僕の回答例の 日本語中国語対応を一覧にしてくれた。会議を開いて作った資料だそうだ。 今日までは通訳さんが交代で付き添ってくれた。いよいよ明日からはひとりになるのだろう。 寂しくなるが、少しの英語と漢字の筆談でどうにでもなるだろうと覚悟を決めた。


福州滞在16日目
体温は下降の一途をたどった。2日前くらいから36℃台にまで落ち着いた。 通訳さんは引き続き昼間の時間帯に限り6人の方が交代で来て下さっている。 1日の流れはパターン化している。

6:50頃 おばちゃんが朝飯を持ってくる。毎日決まっておかゆと豆腐が来る。
8:00頃 通訳さんが来る。6人の方が1日交代で来る。チーさんと副社長も顔を出す。
8:20頃 先生が巡回に来る。なぜか大勢の先生が来る。
主に柳先生と林先生が体温は何度だとか下痢はしていないかとか聞いてくる。
8:30頃 先生と入れ替わりに看護婦さんが点滴を持ってくる。
1日5本。そのうち4本は小さい瓶なので午前中で全て終わる。
11:40頃 おばちゃんが昼飯を持ってくる。素麺が一番うまい。たまにおかゆが来る。
日本の素麺は福州から伝わったという言い伝えがあるという。
午後…点滴に眠り薬でも入っているのだろうか?
16:50頃 おばちゃんが夕飯を持ってくる。
毎日決まっておかゆと蒸した肉が出る。これがいい加減飽きる。
通訳さんが帰る。

利き腕を守るため左ばかりに点滴を打ってきた。そのためか夜になると左腕の血管が痛む。 そこで2日前から右手に点滴を打っている。 どうも点滴は好かない。1日5本も点滴すると手が死んだように冷え切ってしまう。 そんな点滴も明日でいよいよ最終日となる。10日間に渡る点滴がやっと取れるのだ。

今日は晴れて暖かい。通訳さんが散歩に連れ出してくれた。 先生から病院構内ならということで許可を得たのだ。 久しぶりに歩くというのは実に不思議な感覚である。雲の上を歩いているような感じ。 自分の足で歩いている感じがしない。とても長く歩ける気がしなかった。 それにしても体力が落ちてしまった。 長い病気との闘いがすっかり筋力を奪い去ってしまった。 しかし久しぶりに浴びる太陽も風も、なんとも心地良かった。


福州滞在20日目
来るべき日が来た。2日前から排菌の検査を行ない、その結果がマイナスとなった。 その結果をもって退院となった。当初の予定より1週間以上早い退院である。 ただし肝機能を示す値が悪いという。今後2週間の安静と食事制限を言い渡された。 山ほどの薬をおみやげに病院を出た。


福州滞在24日目
退院後ホテルにて少しづつリハビリを続けた。 ガードマンに怪しまれながらもホテルの中を歩き続けた。 今日は伝染病医院へ向かう。血液の培養結果が出るのだ。 柳先生は肝炎の外来の一室で診察を行っていた。 培養結果はマイナスだった。 先生は僕の顔を見ると、退院時より顔色が良くなったと言い、 2週間の安静と食事制限に念を押した。 中国での治療はこれをもって終止符を打った。 しかし日本では今後半年に渡り、1ヶ月おきに排菌の検査をしなければならない。 それが全てマイナスになったとき、全ての闘いが終わる。



黄さん


協和医院に黄さんという看護婦さんがいた。

*入院の日
部屋へ通してくれた看護婦さん、僕がポロッとこぼした言葉に反応して僕を見た。 『日本人の方ですか?』綺麗な発音の日本語だ。 驚いて『はい』と返事をすると『どうぞ』と促された。 『これだけ大きな病院になると日本人の看護婦さんもいるのかぁ』 全く不自然を感じない日本語に、日本人が中国で看護婦として働けるかどうかなんてことは 別にして、僕は単純にそう思った。

その看護婦さんは黄(こう)さんという。中国人だった。 3年間日本にいたことがあると言う。どうりで発音が綺麗なわけである。 何はともあれ通訳さんを介さずに直接看護婦さんと話せる、 意味不明の高熱に侵された僕には非常に心強いことだった。

黄さんはときどき点滴の交換に来た。 他の看護婦さんと比べお世辞にも手際がいいとは言えない様子だった。 でも黄さんは、快方へ向かわず募るばかりの僕の不安を確実に減らしてくれていた。 黄さんは日本語に自分の感情を乗せることができる。それほど日本語を使いこなしていた。 だから黄さんの言葉には説得力があった。


*転院の日
伝染病医院へは点滴を付けたまま移動となった。 まず、点滴をしたまま上着を着る。その早業を黄さんがこなしてくれた。 そんなことできるのか?と思ったが、黄さんは大丈夫です、任せてくださいと言った。 素早く点滴の瓶を上着の袖に通し、続けて針を刺したままの腕を通す。 危ないと思ったが黄さんになら全てを任せられた。 しかし早業が終わった次の瞬間、僕は腕に痛みを感じた。見ると針の先の腕が膨らんでいた。 100%黄さんを信用していた僕は上着の袖が腕を圧迫してるのだろうと思ったが、 黄さんは点滴が肉に刺さったと言いすぐに点滴を止め、針を抜いた。 腫れた腕を案じた僕に黄さんは、大丈夫、1日でひけますと言った。 黄さんの言葉どうり、その日のうちに腫れはひけていた。 点滴は刺しなおしとなった。 この病院で一番優しかった看護婦さんが施したその点滴は不思議と痛くなかった。

車椅子に乗せられ病室を出る。 お礼が言いたくて周りを見回したが、もう黄さんの姿はなかった。 エレベーターで1階へ降りる。どうやら僕は4階か5階あたりにいたらしい。 階下から病棟を見上げ、僕は黄さんに感謝した。

ともすれば不安の塊に押し潰されかねない異国の病院で、 病名さえ分からないまま症状ばかりが悪化の一途を辿る中で、 思いがけず看護婦さんから発せられる母国語がどれほど人を救うことか。

移動の救急車の中、 黄さんの言葉に何度も救われてきたことを思い出し、 それにも関わらず直接感謝の言葉を伝えられなかった悔しさに、僕は涙した。



ヤクルト菌


点滴の効果はてきめんで、体温は36℃台にまで下がった。

その日もいつものように1日が終わろうとしていた。 中国語版のコナンを見終え、そろそろ眠ろうかとテレビを消そうとしていた。 そのときである。突然隔離病棟全体を深い悲しみが包んだ。 恐らく上層階の方からだろう、何人かの人の泣き声が病棟内に響いた。 ひときわ大きなひとりの泣き声は、未明まで止むことがなかった。 病棟内の誰かが亡くなった…

この隔離病棟で亡くなったということは、 何らかの伝染病のウイルスが猛威を振るったということだ。 そのとき僕は思った。ときにウイルスはどうして人間を殺してしまうのか。 自分の生活環境である人間を滅ぼしてしまったら ウイルス自信もそれ以上そこで生きていけないではないか。 人間を滅ぼさない程度に、もっと言えば人間に気付かれない程度に活動していれば、 ウイルスも人間が死ぬまでずっとそこで生き続けられるのに。

でもそこまで考えてはっとした。では人間はどうだろう…。 資源を浪費し有毒ガスを撒き散らす人間はどう考えても地球を滅ぼす悪玉菌である。 地球を殺したら、人間も死ぬ。 しかし伝染病のウイルスと違うことに、幸い人間はそれに気付いているのだ。 はたして僕は地球に優しいヤクルト菌になれるのだろうか。


帰国。


あれほど帰りたいと思っていた日本へ

福州滞在25日目、アモイの空港から成田へ帰国する。 帰国後も検査が続く。抗生物質で弱った肝臓の検査と排菌の追跡検査である。 全ての検査をパスしないと、本当の闘いは終わらない。

今回はたまたま常夏の島で腸チフスに感染してしまった。 いったいいつどこで感染したのか、真因は未だ掴めずにいる。 慣れない土地へ行くことにはリスクが伴う。期間が長くなればなおさらである。 だからと言って常夏の島が恐いとか嫌だとか、決してそうは思わないし言いたくもない。

常夏の島、土地の人と接しながらゆったりのんびり旅してみたい。 そしてたくさんの人に支えられた忘れられない街、福建省福州市。 25日も滞在しながら街を歩くことすらできなかった。 僕はいつの日にか必ず福州を再訪するだろう。 もちろんその時は仕事は抜きにして、自分のリズムで旅を楽しむのだ。

非常感謝。再見。


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