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平成2010年9月11日
母と怪異


私には現在86歳になる母が健在である。腰が曲がって、足元もおぼつかず、家の中では掴まり歩きで、戸外ではシルバーカーか私が手を引いてやる。しかし、ちっともボケていないので、気丈に一人暮らしを続けている。

 その母の住宅に、一昨年、エアコンを設置した。このところの夏の暑さに耐えられなくなってきたというので、フル装備の横長型の逸品を部屋の壁の上部に取り付けてもらった訳である。爾来、夏も冬もエアコンのお陰で快適に過ごせていると母は言う。

 ところが、去年あたりから、時々奇妙なことを訴えるのだ。エアコンをつけているとエアコンのところから棒がスルスルと横へ伸びてくるのだそうだ。別にエアコンの機能に問題がある訳ではないので、放っておくのだが、どうにも気になって仕方がない。そこで、母は不自由な体を「ヨッコラショ」と起こして、エアコンまでは手が届かないものだから、孫の手を持って行って、その棒状のモノを押し込むのだそうである。すると件の棒は、またスルスルと引っ込むのだという。

 で、その話を聞いて、私は、まだ買って1年目のエアコンだし、おかしいなあ、と思いながらも点検に行く。そうすると、どう見てもはずれて突き出してくるようなパーツは見あたらない。
 「おかあさん、変な所は全然ないよ。」
 「でも、スルスルっと出てくるのよ。私はこれ(孫の手)で押し込むの。」
 しばらく考え込んでしまった。母もボケが始まったか。でも、その他の会話、日常生活はまったく問題ないのである。どうやら、母には私たちに見えないものが見えるようだ、という結論ではないような結論を、私は下した。

 怪異と言えば怪異である。私は、つい「今昔物語」の一節を思い浮かべてしまう。廃屋となっている向かいの屋敷の対屋(たいのや)の屋根の陰から、スルスルと板が伸びてくる。やがて、その板は宙に舞い上がって、見ていた宿直(とのい)の武者の方に飛んでくる。武者は慌てず、白刃を抜き放つと、板はコソコソと方向を変えて飛び去り、別の場所で寝入ってしまっていた武者を押し潰した。「今昔」は、板は鬼が顕じたもので、人間はどんな時でも油断してはいけない、と結んでいるのだが、この板が「スルスル」と現れて、「コソコソ」と飛び去る状況が、なんとも怪異であって、正直言って面白い。昔の人には、現在では体験できないような怪異が見えたのであろう。

 そこで思うのだが、母の一件もこの話に似ているような気がしてならない。「今昔」の板のように、人に害を与える存在ではないようだが、さりとて、尋常なものでもない。確かに、子供には大人になると見えなくなってしまうものが見えていると思う節が多々あることは、皆さん経験済みだろう。してみると、子供ばかりではなく、人間、歳を古ると、やはり今まで見えなかったものが見えるようになるのか。
 
私も母の歳になって見ないと、最終的な結論は下せないであろう。でも、その頃になると、息子や嫁に「お父さん、ボケた。」で片付けられてしまうのだろうなあ。そのうち、母からは「長押の上を小人のお祭の行列が歩いている。」なんて話も聞けるかな。それはそれで楽しみだ、としておこう。


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