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2006年2月19日
高所恐怖症

子供のころは、山歩きが好きで、きれいな写真のアルプスなどみたり、ヒマラヤ登頂記やアルプス登頂記を読んでは、ぼんやりと登山家になりたいと思っていた。それで、小学校の卒業文集には、登山家になって山で遭難した人を助けるんだと書いた。本気でアルピニストになるつもりだった。しかし、中学校に行って、自分にはとても出来ないことに気付かされた。高所恐怖症であることを覚ってしまったからだ。
  四階建ての校舎の四階の教室に入った時は、窓際やベランダ際でふざける友人を見てさえ、掌に汗がにじんだ。こんな程度のことが恐ろしいなんて、登山に行ったらもっと険しく恐ろしいところだらけに決まっている。登山家の夢は早々に諦めた。

この、高所恐怖症は年齢が上がると治まるどころか、一層ひどくなって私を苦しめた。大学では五階教室の窓際の席にどうしても座れなかった。社会人になっても、仕事上で脚立の上に立ったり、ビルの屋上に出たりするのは、一苦労だった。無理して屋上に立って写真撮影などしようものなら、脚の筋肉がこわばってしまい、そのあと2〜3時間は、仕事にならない始末であった。
 
いまでも映画やテレビで高所のシーンを見ただけでも、掌に冷や汗が滲み出す。それがまた名作には必ずと言ってよいほどビルの壁に張り付いたり、崖を転落するようなシーンが出てくるのだ。映画監督のやつら、人を怖がらせるのにバカのひとつ覚えみたいに高所シーンばかり使いやがって。と、そのつど激怒し、恐怖に震えるのである。

長野五輪で白馬にスキーのジャンプ台ができて、それを見学に行った時は最低で最悪であった。小学校のPTA本部役員の研修会で行ったのだが、あのリフトの怖かったこと。
  周囲の人は誰も怖がる風情もなく、どんどんとリフトに乗って昇っていくから、おろかにも私も、何気なくリフトに座ってしまったのである。ガクンと揺れて足が大地を離れてから、事の重大さに気が付いた。下の方にネットが見える。今飛び降りればまだ助かるぞ。そんな風に思っているうちにリフトは急上昇を開始。もう飛び降りることすら出来なくなってしまった。
  生憎にも、同席した隣人は、「おっ、こりゃ眺めがいいわ。」といって体を動かしてキョロキョロするもんだから、一層、リフトが揺れて、こちらは必死になってシートにしがみつくばかり。やっと言葉を発して、「す、す、すみません。ぼ、ぼ、ぼくの荷物持ってくれませんか。」それだけ言うのも必死。空いた両手でシートにひしとつかまって、目は力一杯つぶって、ただひたすら時間が過ぎるのを待った。いま、空中にいるのだと思っただけで、掌と足の裏、その他、体全体から冷や汗が噴出してやまない。リフトに乗っていた実際の時間は、どのくらいだったんだろう。私には10分間以上にも感じたものだ。
  昇りついてリフトから降りると、腰が抜けてしまい、しゃがんだまま立てなくなってしまった。しかし、残酷なことにリフトは帰りもあるのだ。周囲の人に事情を話し、荷物も持ってもらい、がっちりした体格のPTA副会長に隣に座ってもらい、最初から最後まで、地面に降り立つまで目をぎゅっとつぶって降りた。

いまだに思い出すのさえ、恐怖で冷や汗まみれになってしまう。この原稿を打っていてさえ、掌は汗でねちゃねちゃだ。どうしてみんなは怖くないのだろうとつくづく不思議に思うのである。高所から転落するのは生命の危機につながるのだから、本能的な恐怖と言ってもいいであろう。ただ、それに極端な強弱があるのが解せない。たんに、臆病者呼ばわりされてすむのなら、甘んじて受けようと思う毎日である。

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