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2006年1月7日
義母の死

今日、四十九日の法要と納骨を無事に終えた。これで一連の流れも一区切りがついた感じだ。しかし、神林の女房の実家に行くと、いまだに、あの小柄な人が、「やあやあ」と言って出てきそうな気がしてならない。それほど、義母の死は急であった。


  初夏の頃から、首が痛いと言い出して、女房にちょくちょく電話がかかってきたりしていたが、本人も周囲も首の捻挫くらいだろうと軽く思っていた。それでも、9月になってもちっとも良くならないので、精神的なものもあるのだろうと、かかりつけの整形外科ではS病院の受診を勧めた。S病院ではMRIで精密検査してもらうと、頚椎のひとつが溶けてなくなっていることが判った。

  これは大変と、A病院に入院したのが9月28日。続いて10月3日には頚椎にボルトを入れて固定する手術が行われた。この手術は成功して、首から頭を押さえていたギブスはとれたが、そもそも、頚椎が溶けた原因が問題だった。
  腫瘍マーカーの値が高く、内臓に癌が進行していて、それが転移して骨に異常がでたということであった。癌診療の最新機器であるPETで精密検査をすると、肩や腰の骨にも転移していて、もう手の施しようもない状態であることがわかった。しかし、その割に義母は元気で、あちこちを痛がるでもなかった。


  女房は母の死期が近いと知って、毎日病院へ通った。病院では、総合診療科といういわばホスピスのような部署に移されたが、お見舞いに行くと、水が飲みたいだの体の向きを変えろだの、あれこれ言っていて、このぶんなら、年内は保つのではないかと思うほどであった。私が11月の11・12日と人間ドックでA病院に入院した時、会いに行くと、かなり大きな声を出して、自分の要求を言っていたくらいであった。


  ところが、それから10日もたたない11月20日、ちょうど日曜日であったが、夜8時ごろ、女房の弟さんから電話が来て、様態が急変したからすぐ来てくれとのこと。女房とふたりであわてて駆けつけたが、もう、ほとんど呼吸がとまっていて、女房が「かあちゃん!かあちゃん!」と大声で呼びかけても既に反応がなかった。しばらくして当直の医師が来て、呼吸と心拍、瞳孔のチェックをし、携帯電話の時計を見て、8時47分をもってお亡くなりになりましたと宣告した。あっけないといえばあっけない最後であった。9月28日に入院して11月20日に息を引き取った。2ヶ月経たなかったのである。78歳の誕生日から5日後であった。


  それからあとは悲しんでいるヒマはなかった。看護士が体を拭き清めている間に、葬儀社に連絡して自宅への搬送の手続きをとる。葬儀社の社員が搬送車で来て、自宅へ戻り、床の間に白布を張って、簡単な線香のセットを備えていった。義母も帰宅がまさかこんな形になろうとは夢にも思わなかっただろう。その夜のうちにおもだった親戚へ電話連絡を済ます。
  21日は、朝からお寺との打合せ、葬儀社との打合せ、火葬場の予約、次々と訪れる親戚の弔問への対応、お棺の通り道の片付けなどで多忙に終わった。葬儀社が市役所に死亡届を出してくれたので、新聞社からお悔やみ欄の問い合わせが次々と入る。弟さんがてきぱきとこなしていった。夕方から夜にかけて、隣組と常会がお線香をあげに集まって、お茶出しがたいへんであった。

 
22日は午後6時からお通夜と納棺。生坂と小倉の親戚がみな集まり、6畳間と8畳間をぶち抜きにして、ささやかに行われた。小さなおばさんはお棺の中にちんまりと納まった。通夜祓いのテーブルは葬儀社の物を借り、料理もタイミングを見て葬儀社から届けられた。8時30分には終わる。その晩、女房は神林に泊まった。

  23日。11時に和尚さんが来て出棺のお経。11時15分ちょうどに霊柩車とマイクロバスが来て火葬場に向かう。座敷には簡易な祭壇を葬儀社の方で作っていってくれた。12時から火葬。1時間半かからず焼き終えて集骨。きれいな骨になった。骨壺に納めると、その足で葬儀社のホールにマイクロバスで行く。隣組の方々が受付と帳場をやってくれて、弟さんと女房、私の3名は受付の横に立って参会者のお出迎え。3時から本葬。1仏3僧というのだろうか。お坊さんが4名いらっしゃった葬儀だった。1時間ばかりで終え、忌中祓いの席に移る。それも5時半前には終わって、マイクロバスで神林へ戻った。戻ると、祭壇に遺骨を安置し遺影を飾り、線香を上げて、親戚も次々と引き上げた。うちの一家も不要物をもって引き上げ、6時30分に家に帰り着いた。怒涛のような3日間であった。


  そして、冒頭の四十九日と納骨になるのだが、義母は25年前に連れ合いを亡くしている。やっと一緒に戻れた訳だ。どんな話をしているのだろう。「長かったねえ」、などと言っているのだろうか。

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