束間の偏話66
2005年10月2日 有馬山丸
看護婦あがりのナオヱ伯母は、私などは会うとしょっちゅう小言を言われたのだが、それが不思議に迫力があって本当に怖い人であった。あの迫力は何なのか、たぶん看護婦を長くやっていて、患者とのいろいろなやりとりの中で培ったものと思っていたが、母に聞いた伯母の経歴は凄まじいものであった。 先の大戦で海運王国だった日本を背負っていた優秀な商船群はあらかたが沈み、敗戦時に残った優秀船は日本郵船の氷川丸と、三井船舶の有馬山丸の2隻だけであった。いずれも終戦前から病院船として活躍した。敗戦後、有馬山丸は若い看護婦100余名乗せ、海外各地を回って傷病兵の引き上げ復員に尽力したが、母が伯母から聞いた話によると、伯母はまさにこの有馬山丸に看護婦として乗り組んでいたのだという。当時、20代後半だった伯母は伝染病棟の婦長としてこの任にあたり、各地を回ったのだ。ぎりぎりのところを生き抜いてきた傷病兵たちへの必死の看病、船中で次々と死亡する兵の遺体を船の冷凍室に詰め込んで帰ってきたこと、死亡兵の引き取り手のないことに困惑したことなど、私などには想像もつかない厳しい話だった。母からその話を聞いたとき、なぜ伯母の言葉にあんなに迫力があるのか納得できる思いであった。 一度、伯母の口から直接、そのころの話を聞きたいとずっと思っていた。しかし、先日の千葉の叔父の葬儀に連れられて来た伯母は認知症が進み、私の顔すら思い出せなかった。昔の話を聞くなんてとてもそんな状態ではなかった。もう87歳という高齢だから仕方ない。しかし、このまま認知症が進行し、やがて寿命を迎えるとしたら、伯母の記憶、否、記録は失われてしまうのだろうか。有馬山丸での経験は伯母の記憶とともに永遠に失われてしまうのだろうか。しまった。もっと昔に、伯母が元気な頃に聞き留めておくべきだった。しかし、若い頃の伯母は人を寄せ付けない凛としたところがあって近寄りがたかったんだ。ここでも、叔父の死のときと同様に臍をかむような苦い思いのみが残ったのであった。 追記 2006年3月28日、伯母は逝った。だいぶ認知症が進んでいたようだったが、長く寝込むこともなく、肺炎をこじらせてあっけなく逝った。葬儀の際に周囲の親戚に、有馬山丸の頃のことを聞いたが、みな良く知っていて感心した。伯母が独り胸のうちにしまったままで逝ったのではないことを知って、私は少し安心した。 |
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