束間の偏話61 
2005年7月30日 短絡線



  近道という語がある。近道というくらいだから、それに対して当然、本道がある。この本道に比べると、距離が近い、時間が短い、通過に楽だなどの利点があるから近道と呼ばれるのであるが、よく考えてみれば、近くて楽ならその近道が本道になるはずだ。なのに、近道と呼ばれてしまうのは、本道に比べて何らかの問題、リスクがあり、それが決して看過できない程のものなのだからであろう。狭い、危険、不快、他人に迷惑をかける、非常識、倫理に反す、違法。これらが考えうる近道に伴う問題やリスクである。



  職場で若い者達の自動車事故が絶えない。事故と言っても接触程度の軽微なものがほとんどであるが、公私、それぞれの時間にしょっちゅう事故を起こしている。自慢ではないが僕は昭和61年(1986年)から現在まで無事故、無違反で、身近でこう頻繁に事故の話があるのは信じられないし、遣り切れない。なぜ、こうも事故が多いのか。しかし、その原因は、若い者の自動車に何度か同乗させてもらってわかってきた。
  狭い道を平気で通るのである。ちょっと近道になるからといっては、対向車が来たらバックしなければすれ違いが出来ないような道を、いとも気軽に選択するのである。そんなところを頻繁に走っていれば、誰だって接触の一度や二度はやりかねないだろう。近道はリスクが大きい。動かぬ証拠である。



  僕の通勤経路の途中には、大型店の駐車場と接した信号機のある交差点が含まれている。毎朝、信号待ちをしていると、何台かは大型店の駐車場を斜めに通り抜け近道をして、信号機をパスしていく。僕は赤信号のひとつ分くらい待ったってどおってことないのに、と思いながら眺めているわけだが、当然、その駐車場には通り抜けお断りの看板が出ている。だから、この近道は非常識で違法という事になる。



  他人の敷地を平気で通り抜ける無神経さと狡さ。他人よりも一歩でも先に出ようという貪欲さ。それほどまでに時間的に切羽詰った状況を作り出している、計画性やゆとりのなさ。あるいは、対向車は来ないだろうという楽観的見込み。対向車は来なくて当然、来たら不運と思う、あまりに自分に都合の良い運命観。
  そういう処々の精神を僕は憎々しく思っていた。一人ひとりが自分の義務と責任を果たし、自省をし、強制されずとも倫理観を維持していかなければならない現代の民主主義にとっては、むしろ害悪でこそあると敵視していた。



  しかし、40歳を過ぎた頃から、僕の心の中で若干の変化が生じている。物の見方がすこし変わってきているのだ。実は近道の精神は正しくはなくとも、間違いとは言い切れないのではないかと。
  実際、みんなが僕のように太くて安全な本道ばかりを走っていたらどうなるか。かえって交通渋滞が起こってしまうのではないか。世の中の人の3割くらいが近道を走ることによって、かえって交通量のバランスがとれているのではないか(通り抜けされる方は迷惑だろうが)。あるいは、人より一歩先に出る積極性が進取の気風を生み、企業や社会の発展に役立っているのではないか。自分の思い通りにうまくいくと信じる楽観性が困難な障害やストレスを乗り越えていく力になっているのではないかと。
  たしかに、僕自身はこんなふうになれないことは元より承知している。しかし、最近は近道を認める心のゆとりが必要なのだと思えるようになってきたのも確かなのである。


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