銭湯というもののお世話にならなくなって20年近く過ぎた。ということは、私は25歳過ぎまで銭湯通いだったということだ。子供の頃、あるいは学生時代、本当に銭湯には世話になった。
子供の頃、M町というところに住んでいたが、近くに「あやめの湯」という銭湯があって通っていた。当時だから循環式の浴槽なんてなくて、遅い時間に行くと、お湯が透明ではなく濁っているのだが、そんなこと気にせずに湯船に浸かったものだ。毎日というわけにはいかなかったので、一日おきに夕食を終え7時半頃に母と二人ででかけた。さすがに小学校2年生くらいになると女湯に入るのが恥ずかしくなって一人で男湯に入った。しかし、男湯に入り始めたころは、最初から男湯の戸を開ける度胸がなくて、女湯で脱衣して体を洗ってから、番台の前の扉をくぐって男湯に行っていた。女湯に比べると男湯は比較的すいていて、きれいな感じだった。
「あやめの湯」の浴槽は、一応、深いのと浅いのの2槽になっていて、湯船の奥には壺を傾げた裸婦像が跪き、その壺の中からドボドボとお湯が流れ出る仕掛けになっていた。裸婦像なんていうとかっこいいが、趣味の悪いヨーロッパ彫刻を真似したセメントか何かの像で、おまけに内部の鉄管が錆びてお湯に渋が混じると苦情があり、壺の口には横丁の井戸みたいに日本手ぬぐいで作った錆びとり袋がぶら下がっていた。今思うとなんとも滑稽な光景であった。
この「あやめの湯」のほかに、学区外のY町に「よねの湯」、D町に「まるも」という銭湯があり、たまに友達同士で誘い合って出かけた。「よねの湯」はちょっと広いがY町団地をひかえていたのでとても混んでいたし、「まるもの湯」はもうちょっと遠かった。この「まるもの湯」では、一度、服を入れた棚の鍵が開かなくなってしまい、寒さで震え、店の人にはこのいたずら小僧、鍵を壊しやがったといって叱られ、散々な目に会ってそれから足が遠のいた。
「あやめの湯」は煙突に看板を出していたのだが、ある大風の夜に「あやめ」の「あ」の字だけ飛んでしまい「やめの湯」になってしまった。それからしばらくして、休みの日が増えたと思っていたら、本当に廃業してしまった。それで、自転車で20分以上かけて「二子の湯」に通わなければならなくなったのである。
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