束間の偏話56
2001年8月31日 道路の液体
1 猛暑であった今年の夏も終わろうとしている。 ところで、私は数年前から、夏の車道のあちこちに、コップで水をこぼしたような液体が点々と存在しているのに気が付いている。焼け付くような日差しの下、水のように透明な液体が、あるものは路面に染み込むように広がり、あるものは強い表面張力を有したかのようにわずかな厚みを保って存在する。 言うまでもない。自動車のエアコンから排出された水であり、車内の除湿によってエアコンに溜まった水分が随時路面に放出されたものである。 しかし、私にはこの液体が、宇宙からの物体Xのように、あるいはエイリアンが滴らせる粘液のようにとても邪悪なものに感じられてならない。ただの水のはずなのになぜだろう。放って置けばほどなく乾いてなくなってしまうものなのに。 私が自動車に乗り始めたのは運転免許証を取得した昭和57年(1982年)であるから、かれこれ19年目になる。運転は怖く、なにより資金的な裏付けもなかったから、しばらくは軽自動車に乗っていた。もちろんエアコンなんて付いていなかった。でも、若くて元気だったし、便利さも知らずにすんでいたからまったく気にならなかった。エアコン付きの普通車を購入したのは36歳のときである。 爾来、エアコンのお世話になっている。しかし、それと同時に何かスッキリしない感じ、肩身の狭い感じを拭えなくなっている。 そもそも、今のエアコンは個室の冷暖房用であり、当然、換気を伴うから、たとえば夏だったら暖気を外へ排出する。室外へ、戸外へ、あるいは車外へ排出された暖気は、いわばゴミだ。自分の管理専用する限定された空間から外へ不用物を排出しているという意味では、まさにゴミに等しい。 2 この「ゴミは外に」という感覚がどうしてもしっくりこないのだ。自分の心のどこかに「いいのかなあ?」という気持ちがわだかまる。自分の部屋だけ綺麗になるのなら隣にゴミを出してもいいのか。自分の目の前からゴミがなくなれば、それでいいのか。自分だけが快適ならば。 たしかに、原始・古代から人間はゴミを外に出してきた。縄文の貝塚しかり、平安京の側溝しかり。コト八日の厄落としだって、疫病神を村境に捨ててくる。ある意味では、「ゴミは外に」は普通の感覚だったと言ってよい。生物学レベルだって、単細胞から哺乳類まで老廃物を体外に排出している。 しかし、今では限度の問題である。自然界では他の生物が排出する老廃物を分解、再生するサイクルが長い年月をかけて作り上げられてきた。そして、近世までの人間は基本的にそのサイクルに組み込まれていたのだ。時に、人間を含む単独の種がこのサイクルの処理能力を超えた集中を起こすと、必ず大量死、ひどい場合には絶滅という自然界におけるナチのように冷酷な最終解決が待ち構えていた。古代都市の過度の人口集中による伝染病の猖獗、富と権力の蓄積による戦乱、異常発生の生物の末路など思い当たることは多い。 それらと同じように現代の排出物は限度を超えてしまった。量的にばかりではなく質的にも。今の自然界のサイクルでは処理不能な物質を大量に生み出し、そして廃棄している。むしろ、物質の問題は見え易い。大気とか水質とかの方が、より普遍的な故に重大かもしれない。水の循環や浄化、大気の循環などはかなり自然界のシステムが解明されてきた。しかし、大気の熱の処理サイクルの細部、あるいはバランスについてはまだよく解ってはいないのではないか。地球温暖化が危惧されて久しいが、冷やす方法はあるのか。とにかく熱と二酸化炭素を出さないだけしかないのか。長い年月をかけて自然に冷えていくのを待つしかないのか。ぜんぜん解っていない。「熱」は最大で最悪で最も身近なゴミだ。 3 べつに、除湿されて凝結した水分が悪いわけではない。邪悪なはずもない。しかし、ゴミは自分の目の前からなくなればいいと思っている人々、排出している熱と呼気にわざわざニコチン、タールを加えている人々、そんな人の吐いた汚い息と体臭が凝縮して、真夏の路面に滴り落ちる。「考える葦」とかいって他の生命体とは違うと奢り昂ぶっている人間が、実は将来も身のまわりも、自分の足元すらも見ていない。そんな利己的で傲慢で無意識な想いがどす黒く凝縮し、路面に滴ってアスファルトを汚している。エイリアンの粘液のように粘着し、アメーバーのようにズルズルと這いずっている。異形の生命体が壁の分子構造の中に入り込むように、路面に、大地に滲み込もうともがいている。一部は蒸発して大気の中へ紛れ込んでいく。 ああ汚い。なんておぞましい!!。 そして、私の叫びはやがて凝結して、路面にポタ・ポタ・ポタ…。 |
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