手元に役場の男女共生課が全職員に配ったアンケートがある。既婚、未婚職員の状況や意識を探り、少子化問題について意見を聞いている。今までそんなに身近に感じていなかったから、はて、うちの自治体くらいの単位で何ができるのかな、とも思ったが、いろいろと考えることもあった。
世界史的にみても、平和が続き、文化が爛熟した国(文明)は、非婚化、晩婚化、少子化は免れない。古今東西、どこでも何時でも同じである。ローマ、ギリシア、アッシリア、ビザンチン、中世イタリアの都市国家群、大英帝国。平和の一方で常に臨戦体制が続いていてすらその傾向はあるのに、いわんや、第二次大戦後のわが国のように、安保と冷戦構造の中でまったく無血の緊張感の無い平和を50年間以上享受してきたとあれば、これはもうその傾向が一気に増大するのは必然といってよい。
ヘロドトスが歴史の中で伝えている。バビロニアを滅ぼしたペルシア王キュロスを囲んで群臣が、こんな辺鄙で過酷な土地から安逸なバビロンへ都を移し、もっと楽しい日々を過ごそうと提案すると、王は「それは良い考えだが、ただし覚悟がいる。我々の子孫は敵に打ち破られ奴隷となることの。」といった。強い兵、強い民は貧しい土地でしか育たないということである。古代・中世の白兵戦の世界ではまさに至言であった。今日にも通ずる真理も幾許かは含まれていよう。人口の減少が軍事力の低下に即、つながる当時にあっては晩婚・少子問題は、政権としては死活問題だったであろう。
古代ローマではアウグストゥスによってパクスロマーナが達成されると、まもなく晩婚化、少子化が頭を擡げて来る。ローマは世界の支配者であり、財産も食料の供給もまったく心配無い。軍団は無敵。人生の楽しみ、日々の生活の楽しみは無限にあり、結婚も子育てもとてもやっていられない。不倫や売春もおおっぴら。そんな状況になったのだろうか。有能な皇帝は倫理の向上と、結婚や多産をしきりと奨励している。
それにしても不思議なのは、平和が続き、経済が安定すると、人は安心して家庭を営み、子供を育てると思うのだが、事実はどの時代でもほとんど逆で、非婚化、晩婚化、少子化が進行する。なぜなのだろう。
生命哲学的に考えれば、結局、ヒトはきわめて動物的な(生物的な)存在なのだと言えるかもしれない。身体に強力な武器を備えず、一回の産出個体も少ないが、しかし自然界の中ではきわめて強力な存在であり、おそらく食物連鎖の最上位に位置付けられる。したがって、異常な増殖は生態系にとって危険なだけでなく、種そのものをも絶滅に至らせる恐れがある。そこで、一定以上の個体数が確保され、あるいはそれに等しいような安定的状況が現出すると、自主規制回路のスイッチがオンになって繁殖への意欲、オスとメスが発情する「結婚」に興味が失せ、結婚しても出産や子育てに興味が失せるようになる。増えすぎたネズミが海に向って集団自殺に走るように、本能レベルで制御機能が組みこまれているのかもしれない。
これはあくまでも生態系の中でヒトという種を俯瞰した時の推測に過ぎない。しかし、人類の英知とか個人の自由とか、「人間は考える葦である」の一側面である、地球上の他の生命体と人間は違うのだという一種の驕りが、仏様の手のひらの中で弄ばれた孫悟空のように感じられる考えであるところが気持ちよく、また恐ろしい。
おそらく、現代日本の非婚化、晩婚化、少子化の本当の問題は、そんな人類としての、あるいはヒトという種としての基本的問題ではなく、現在の日本一国における資本主義社会・経済とそれに基く生活保障、福祉の維持継続という、歴史上から見ればきわめて限られた局所的な問題に過ぎない。さらに言うなら、社会と経済の現体制を破局なく維持するための課題に過ぎない。
いや、「過ぎない」などと言うと、この問題に日夜呻吟している人たちに非常に失礼になる。しかし、私の真意は非婚化、晩婚化、少子化問題の根(解決方法ではない)は、歴史や生命、社会についての哲学的思索の中からしか見えてこないということである。様々なレベルでの対症療法はあるかもしれない。しかし、その根底に正しい理解があるかどうか。
資本主義経済(ここではマル経などでの厳密な定義ではなく、自由主義経済と言い換えてもよい。共産主義による管理統制経済や初歩生産的な自給自足的経済に対置する程度のものと捉えていただければありがたい。)というものは、僅かずつではあっても発展することによって安定する。発展というよりは膨張と表現したほうが的を射ているかもしれない。膨張を止め、一定水準を維持しようとし始めると、それはもう衰退でしかない。生産、金融、流通、雇用、社会保障などあらゆることから形成された巨大な連環がごくゆっくり回転しており、それが一回転する毎に肥大していく。回転を止めたり、環を断ち切ったりするとその部分だけではなくすべてに影響が波及していく。農家生産などではそのことは見えにくいかもしれないが、工業生産や特に金融などでは顕著だ。
もっとも端的な例が公的年金制度である。60歳までの成人が拠出する資金で65歳以上に年金を配布する。したがって60歳以下の人口と65歳以上の人口比にバランスの狂いが生じると、たちまちこの制度は軋み始める。逆にいうと人口比のバランスが崩れないことが前提となっている。しかも、平均寿命が伸びるとそれだけ受給者は増えるのだから、負担者数が増えないなら負担額が増えるという現象すら生み出すであろう。
でも、よく考えると公的年金ってネズミ講に似ていないか。ネズミ講(無限連鎖講)は子が一定数増加することによって初めて成立する。最終的には無限大に子が増えないと破綻するのだが、日本の人口には限りがあり、したがって最初から破綻は目に見えている。すなわち悪質な詐欺行為の一種であるとして、結局このネズミ講は法律で禁止されてしまった。だが、次のような置き換えはどうだ。日本年金講の会員は20歳に達すると自動的に子会員となり、所得の一定額を講元国家を通じて65歳以上の親会員にせっせと送金する。これを25年間続けると親会員になれる権利を得、65歳になるとこんどは子会員からの送金が届くようになる。しかも親会員の権利は終身制なので、生きている限り送金が途切れることはない。もし、145歳まで生きられれば、子会員の期間の2倍を親会員でいられる訳だ。これはもうネズミ講以外の何者でもなく、破綻を免れるには新たな財源を手当てしなければならないだろう。
話がそれてしまったのでまとめにかかるが、社会・経済の大きな連環を断ち切り、あらたな社会制度を確立していくのか、それとも連環の肥大化を止めつつ一定に維持できる工夫をするのか、はたまた人口抑制の自主規制回路のスイッチがオンにならない環境を無理矢理につくりだすのか。新たで確実な財源を見つけるのか。少子化問題はさまざまな方面に課題を投げかけているのである。
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