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1999年10月1日 臨界事故


 
今日、茨城県の東海村で核燃料製造過程において事故が発生し、大騒ぎになっている。それも、原発や再処理工場など、従来から危険といわれていたところではなく、民家の周囲にある町工場で起こった事故だから、さらにショックが大きかった。重症の被爆者が3名も出ているのは、実際に尋常な事態ではないのだろう。


  今になって言い出すのも申し訳ないのだが、私はそもそも、近年の原子力政策には若干の疑問があった。電力事情、エネルギー事情が逼迫しているのは分かる。水力、火力ともに頭打ちで、一方の新エネルギーはまだまだ開発途上が多い。畢竟、原子力に頼らざるを得ないのだが、それは好ましくはないが仕方が無い選択、いわばベストではないがベターの選択というところであろう。ところが、いつのまにかこの苦肉の存在のはずである原子力が、あって当然、どんどん推進していくという風になっている。
  電力会社の無様(ぶざま)なまでの原発の安全性を謳うCM。原子力アレルギーがある、パニックを避けるという理由でなかなか公開されない事故やミス。原爆と同じだぞ、安全であるわけが無いじゃないか。そんなことは端(はな)から判っているんだ。何をむきになって嘘いっているんだ。


  原子力を利用しなければ電力需要を満たせない、仕方が無いと平気でいう人が、ではみんなで節電しましょうとは絶対に言わない。ここら辺がエネルギー業界の難しいところで、発電は商売、電気は商品、売って儲けがなんぼ、というものだからだ。節電したんじゃ儲からない。電力会社も鉄道も通信会社もみんな民営になってしまったから、利潤の無いことなんてできっこない。国民生活、国家の根幹に関わることなのに本音は儲けなのである。資本主義社会というのは少しずつでも膨張を続けないと維持できない仕組みになっている。経済、社会保障負担、人口、自動車と道路などなど。この中に組み込まれたものはすべてそうだ。電力とて例外ではない。電力需要が増えるのではなく、需要を増やさなければ困るのだ。その結果として原発か。
  コストの面でも事故さえなければ原発は美味しいんだろうな。火力発電所のように都市に隣接は出来ないけれど、水力のように山の中でもない。村が丸ごと水底に沈むことも無いし、燃料の油を大量に食って煙も出さない。事故だって、とにかく放射能は見えないから。騒ぎにならなければ知らんふりで済ませられる。


  そんなに原発が安全だ安全だと叫ぶなら、どうです。大都市の隣の臨海部に原発を建てたら。電力の大消費地に隣接しているんだから送電コストはグッと抑えられるし、燃料の運搬も整った港湾があって便利。職員、社員にだって田舎で不便な思いをさせないで済む。何より、地方住民を踏み台にして都市が栄えてるなんて言われないで済む。えっ。万一、事故があったときに被害が甚大になるから駄目だって?。だって安全なんでしょ。あれだけCMやいろんな媒体で連呼しているじゃない。田舎にあろうが、銀座にあろうが安全なものは安全なんでしょ。それともやっぱり安全ってのはウソ?


  もう、見え透いたことは止めよう。みんな判ってしまっているんだ。正直に危険は危険というべきだ。しかし、誤解しないでほしい。私はすぐに原発全廃なんて、現状から見て非常識なことを言う気は無い。ただ、危険は無いとうそを言って騙しているよりも、危険なものなので気をつけましょうと普段から準備しているのでは、どっちが良いか。そろそろ国民に突きつけてもいいのではないか。長期的には、原発という選択肢しかない中でエネルギー需要も漸次膨張させていって良いものか。何かを犠牲にしても、この危険を回避したほうが良いのではないか。そういう提案を国民に突きつけてもいいのではないか。
  国民は馬鹿だ。そんな冷静な判断できっこない。そういう愚民政策も解らないではない。しかし、「小国寡民」は資本主義的漸次膨張を全く拒絶した哲学だ。生かさず殺さず、喜びも悲しみも等しく、増えもせず減りもせず。陰で誰かが儲けて高笑いしていたのでは、それこそ馬鹿げていて、これは成り立たない。しかも、すべてが膨張しながら、たったひとつ膨張しない(できない)ものが宇宙船地球号だということを忘れてはならない。

追記 ここに記した事故や高速増殖炉もんじゅの事故などがあって、さすがに電力会社でも原発は安全ですというキャンペーンをやめたようだ。しかし、問題は沈潜化しているだけに過ぎない。(2005年8月)


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