束間の偏話39
1999年5月22日 バスの終点


 僕は子供のころ、松本市のM町というところに住んでいた。子供のころといっても、5歳くらいから中学校1年までである。そこは田舎というほどではなかったが、松本では結構郊外というか、やっぱりある程度の田舎だと思っていた。なぜなら、松本へ行くときはバスに乗っていったのだから。

 当時の松本のバスターミナルは、今では区画整理で跡形もなくなってしまった西後町の奥まったところにあって、まだ火事にあう前だから、薄汚くて、暗くて、狭くて、汚くて、でも松本の交通の中心として、今よりずっとずっと活気があった。

子供の僕は、そこに行くたびに、5〜6番あったバスの発車線から聞きづらいアナウンスとともに発車していくバスは、どんな遠くの土地へ行くのだろうと思いながら、胸をときめかせて、行き先を聞いていた。バスの額に表示された行き先を食い入るように見つめていた。
 大和合、三反田、三才山、八景山、中塔、山清路、水代、下古見、まだまだあるぞ。立田、厩所、会吉。そして僕がいつも乗る小野沢、御馬越。読み方もわからない、この不思議な言葉は地名なのだろうか。もし、そうだとすると、そこは一体どんなところなのだろう。きっと、すごい田舎の、でもバスの終点なんだから、人々が暮らしている最果ての地。そう、僕の知らない、うんといいところに違いない。次々、発車していくバスを見ながら、そんなことをぼんやり思っていた。

 僕がいつも乗るバスは、朝日線という路線で、朝日街道という道を延々と終点まで走るのでそういう名前だった。朝日線は結構、本数が多くて、行き先もいろいろあった。僕が降りる石芝百貨店前は、どのバスも通ったから全然心配していなかったのだが、先のほうに行くと、細かく分岐していくらしいのである。二子、神林、下今井、上今井、原口、小野沢、上古見、御馬越。そう、御馬越だ。(そういえば神林水代なんてのもあったな。)
買い物の荷物をいっぱい持ったばあちゃん達が、小野沢行きのバスの乗り口に押しかけて、このバスは御馬越まで行かねえだかい。そりゃ困った。と車掌とやりあっているのも見た。僕にとっては小野沢も御馬越もたいした田舎であまり変わりがない感じがしていたのが、「ふうん、小野沢と御馬越では同じ終点でもえらく違うんだな。やっぱ、御馬越は終点の終点だ。終点だけのことはあって、やっぱ遠いんだ。」と勝手に見直したりもした。

小学校4年(5年だったかな?)のとき、一度だけ、ついに一人で朝日線に乗って上今井まで行った。いつもは降りる石芝百貨店前から、松本とは逆方向の御馬越行きに乗ったのだ。バス停では母が乗り口で車掌を捉まえて、小学生一人だからよろしく。と頼んでくれたのも心強かった。バスは走った。だが、朝日街道を一路南へ、という感じではまったくなかった。二子橋を渡り、飛行場のトンネルを抜け、本当に見たこともない初めての田舎の狭い通りを、とても時間をかけて走ったような記憶がある。乗客はうんと減って、僕を含めて数人になってしまった。そして、ついに車掌さんが呼んでくれた。「ボク、(えらく長く)乗ったね。上今井だよ。」降りた上今井の停留所は、ムラに一軒だけある、食料品から雑貨まで売っている店屋の三叉路にあった。古い家。道。石垣。全然接したこともない風景。なのに思ってたとおりだ。すごい。やった。ついに僕は上今井まで来たんだ。そんな喜びが子供心に湧き上がったのをよく覚えている。でも、バスはまだずっと終点まで走るのだ。ここよりも、終点はずっと遠くて、もっともっとすごいところに違いない。僕の心は、三分の一ばかりバスについていってしまった。

 本当に御馬越まで行ったのは高校生になってからである。もうバスではなかった。自転車やバイクで出歩くようになって、世界もずっと広がっていたので、子供のころのように見知らぬ遥かな地という胸のときめきもなかった。でも、そうか、ここが御馬越か。思っていたとおり田舎だな。というくらいは感じていた。鉢盛中学校から来た友達も出来て、御馬越のもっと奥にだって行った。

今では松本のバスターミナルは駅前に移動して小奇麗になっているが、往時に比べたらずっとずっと活気が無い。みんな、車で出歩くようになっちゃったからなあ。赤字路線は軒並み廃止縮小されてしまい、懐かしくも由緒ある行き先はどんどん無くなっているのだ。これも時代の流れだといえば仕方が無いのであろう。が、とにかく僕は松本のバスの全盛時代の終わり頃に最も多感な少年時代をすごした。大人達とは違う、しかし、貴重で揺るぎない歴史の生き証人だと思う。多分に感傷とロマンに囚われているが、むしろバスの物語の語り部の一員に加えてもらえるかな、と近ごろ勝手に思っているのである。



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