束間の偏話34
1996年1月12日 Mさんのこと
Mさんが人事不省に陥ってから3年以上になる。最初は信じられないことだったが、気楽に顔を出しては親しみのある笑顔を残していったMさんの姿を見ないと、「やっぱり」と悲しい実感が湧いてしまう。お見舞いに行って一目でも顔を見たいと思うが、森嶋先生が、とても無残でそんな状況ではない。奥さんに苦労をかけるだけだから。というので、それもそうだと、遠くから思い出しては祈っている。 よく泳ぐ者は水で身を滅ぼすという言葉があるが、まさにそれなのかなあ。Mさんは長身でスマート、仕事柄からも、一見、都会風の洗練された身だしなみをしていたが、実は山仕事が得意であった。越将軍塚の発掘の時などは、みんなが苦労しているのを尻目に墳丘の薮刈りを一人であっという間に終わらせて、おまけに刈った薮を燃して後始末までしてしまった。いかにも子供の頃からやりつけているという手際の良さで、とにかくみんな感心した。そういえば、道具だって鉈鎌のすごく良いのをピカピカに手入れして持っていた。 そのMさんが自宅近くの山林で事故に遭ったのだから、世の中は皮肉なものだ。数人で下枝を堕ろしていて、落ちてきた太い枝が頭に当たったのだそうだ。一旦は意識が戻ったがそれきりで、以後ずっと意識不明が続いている。回復の見込みは今のところないという。Mさんのご両親は相次いで亡くなったばかり。奥さんと小さい子供たちだけ。さぞ、苦労していると思う。森嶋先生が声をかけて、一度カンパが行われた。関係者の気休めにしかならないとは判っていても、真っ先に駆けつけたい思いで協力させていただいた。森嶋先生はもう一回やりたいと言っておられる。待っています。 Mさんは、僕達が学生の頃、長野の出版社に勤めて営業をしていたのだが、よく原さんや竹内君や僕の所に、大雪が降ったといっては転がり込んでいた。陽気なMさんだから当然、大宴会になるのだが、体格の割に酒は弱くて、いつも真っ先にゴロリと横になってしまった。そして、いつかは独立して考古学の本や、郷土史の研究書を出すぞ、調査研究の企画から参画する本屋をやるんだと大見得を切っていた。僕達は、アア、いつものMさん節(ぶし)がまたでた、とからかい半分に聞き流していたものだ。 ところが、僕達が大学を卒業してしばらく経った頃、本当に中堅出版社をやめて二人で小さな出版社を作って独立した。そんな度胸があるものか。そんな才覚があるものか。からかい半分に大見得を聞き流していた僕はびっくりし、次に恥じた。大見得でもなんでもなかった。強い志があったのだ。僕達はなんて無礼をしてしまったのだろうと。 それ以降の活躍は、皆が知るとおり。やがて、その出版社が軌道に乗ると、それも飛び出して、とうとう自分一人で企画から出版までの会社を始めた。もう、無理な本作りはしないんだ。自分が納得できる仕事をしていきたい。生活は苦しいけれど、食べていかれるだけでもいいじゃん。たまに考古博物館に訪ねてきては、そんなことも言っていた。僕ももう大見得とは思わなかった。この人は思ったことはやる人だ。信念を持って貫く人だ。それが分っていたから、その言葉に素直に肯くことができ、むしろ実行力と能力を羨ましく思ったものだ。 家ではね、今度、ストーブは薪ストーブを入れたんだ。広間の真中に一個据えておくだけで、薪をくべておけば一晩中トロトロ燃えていて家中暖かいよ。目じりにニコニコ皺をよせてそう話してくれた。でもね、最初の冬は一シーズンに使う薪の量が掴めないで苦労したよ。途中で貯めてあった薪が切れちゃってね。ハハハ。でも、そのお陰でどのくらい薪がいるのかも、もうわかった。そんなことも言っていたなあ。 今回の事故となった仕事で、下した下枝は貰うことになっていたそうだ。当然、冬越しの燃料だったのだろう。薪ストーブが思わぬ災難を招いた、などとは決して言いたくないし、僕は決してそうは思わない。Mさんはあくまでも自分の心に素直に生きていた。そのためには俗世の虚栄など失うことは恐れない。そして、それがごく自然な生き方となっていたのだろう。その延長線上にすべてがあり、今度の不幸な事故も渾然一体としてそのすべての一隅にあっただけだ。今だに僕は羨ましい。だからこそ、奇跡を祈るように回復を願います。もう一度、物語がしたいです。 追記:Mさんは1999年2月28日に亡くなられた。葬儀は地元の小さなお寺でささやかに行われた。荒涼とした黒姫火山の麓に点在する集落と林。そこでMさんは眠りについた。ご冥福をお祈りいたします。 |