束間の偏話29
1995年6月6日 クワガタが来た
昭和40年代の松本郊外で小学校時代を過ごした僕たちにとって最大の自慢はなんだったか。 野球が上手?サッカーが強い? 虫捕りは小学校に上がると、まず上級生たちに付いて出かけるところから始まる。いわば味噌っカス。見習いのおまけ。上級生の機嫌を損ねないように付いてまわり、ムシカゴ持ちなどを勤めて雀の涙ほどのおこぼれに預かる。大きなカブト虫やベンケイ(大形のノコギリクワガタ)をせしめる上級生がとても羨ましかった。いつか僕もあんな大きい奴を捕ってやると思っては胸をときめかせていたのがこの頃だ。時々、同年のチビスケ仲間だけで出かけることもあったが、大物を捕ることなど到底できない。クヌギの根っこを掘ってコクワガタを漁っては満足するのが関の山であった。 虫たちはクヌギの樹液に集まる。だがシーズンによって樹液を出す木は変わり、樹液が出る場所も変わる。まめに足を運んで状況を把握していないと駄目だ。しかも樹液が出る場所は手が届くような都合のいいところとは限らない。樹上のはるか高いところに出ている樹液と、そこにどんな虫が群がっているか見抜くことが大切だ。 樹液に集まる虫はそれなりの保護色になっているので、木の皮や瘤に非常によく似ている。また捕っても価値のないカナブンやコガネ虫、ケシキスイなども集まっている。じっと見上げ、そこに何匹のどういう種類の獲物がいるか見極め、どのような方法で木から落とすか決め、落下予定位置に子分たちを配置する。大抵の太さの木は蹴ってゆすれば虫は落ちる。虫は樹液を吸うのに夢中になって油断しているから、ちょっとゆれただけでも案外簡単に落ちて来るのだ。しかし、虫の落下スピードは想像よりもはるかに速い。クヌギの葉や枝をはたきながら高所から落ちてくる虫を目で追うのは、実際には非常に困難だ。しかも虫が複数の場合は、視覚はなまじ精密なばかりに一点に注意が集中して、かえって他を見逃してしまう。どうするか。 親分になると虫捕りの技術だけではなく、子分たちを従え命令を出し、手柄と歳に応じて分け前を決め、他のグループとのもめ事を解決するという仕事も必要だった。こうして男の子たちは、悔しさは噛み締めるものであることを覚え、人の下につくことや集団生活、リーダーシップを覚え、技術を習得することを覚え、なにより熟練した技術の精妙さに対する驚きを無言のうちに身に滲み込ませた。そこには明らかに教科書的な知識とは別の技術と価値観、序列観があり、ヒーローがいた。みんな、この狭く厳しい道を入り口から出口まで、たゆみなく歩み、そして通り抜けて行った。 僕はこれから、この技術、精神、感動を自分の息子たちに伝えることが出来るのだろうか。彼らは少年だった僕の誇りを理解してくれるだろうか。時代が違うといってしまえばそれまでだし、環境も大いに異なっている。しかも、親が子に伝えるという性質のものでもないことは百も承知だ。だが、自分の人生を振り返るとき、この感動、というよりは精神を失うことは本当に悲しいことだ。そんな感傷に囚われて止まない。 |
|