束間の偏話29
1995年6月6日 クワガタが来た


  昭和40年代の松本郊外で小学校時代を過ごした僕たちにとって最大の自慢はなんだったか。

  野球が上手?サッカーが強い?
 確かにそれもあったかもしれない。しかし、当時の男の子が誇れる最高の勲章は、いかにたくさんのカブト虫とクワガタ虫を捕れるか!であった。我こそはと思う男の子は6月から8月の間じゅう、寸暇を惜しんではクヌギ林に繰り出した。

  当時、僕はM町というところに住んでいたが、南に接するY地区にはまだ水田地帯の中に点々とクヌギの平地林が残っていた。僕たちはこの平地林を北から順に第1の森、第2の森、第3の森…と呼んでいて、夕方や早朝にでかけていってはクヌギの樹液に集まる虫を狙う。とはいっても、昆虫図鑑などに描いてあるように簡単に虫が捕れたことなど一度もなかった。
第一、虫捕りに来る子供の数が非常に多い。もしかしたら虫の数より多かったかもしれない。必然的に、そこは鍛え抜かれた虫捕りの技術だけが勝敗を決する戦場となった。技術が未熟な奴に虫は捕れない。この厳しい環境の中で多くの虫を捕ることができる奴は、まさにヒーローだった。

  虫捕りは小学校に上がると、まず上級生たちに付いて出かけるところから始まる。いわば味噌っカス。見習いのおまけ。上級生の機嫌を損ねないように付いてまわり、ムシカゴ持ちなどを勤めて雀の涙ほどのおこぼれに預かる。大きなカブト虫やベンケイ(大形のノコギリクワガタ)をせしめる上級生がとても羨ましかった。いつか僕もあんな大きい奴を捕ってやると思っては胸をときめかせていたのがこの頃だ。時々、同年のチビスケ仲間だけで出かけることもあったが、大物を捕ることなど到底できない。クヌギの根っこを掘ってコクワガタを漁っては満足するのが関の山であった。
3・4年生くらいになると中堅どころで、木から落ちてくる虫の見張り番ができるようになる。上級生の技術を目の当たりに見て盗むこともできるようになった。一方で低学年の味噌っ粕の面倒も見てやる。分け前もベンケイやヨシツネ(小形のノコギリクワガタ)の1匹くらい貰えた。
いよいよ6年生になると、もう押しも押されぬ親分だ。「この親分に付いていけば必ず虫が捕れる」と実力を見込まれれば、いつでも数人の子分や見習を連れて歩くことができた。そして彼等の期待に応え、見事に虫を捕って見せては尊敬を集めたのだ。

  虫たちはクヌギの樹液に集まる。だがシーズンによって樹液を出す木は変わり、樹液が出る場所も変わる。まめに足を運んで状況を把握していないと駄目だ。しかも樹液が出る場所は手が届くような都合のいいところとは限らない。樹上のはるか高いところに出ている樹液と、そこにどんな虫が群がっているか見抜くことが大切だ。

  樹液に集まる虫はそれなりの保護色になっているので、木の皮や瘤に非常によく似ている。また捕っても価値のないカナブンやコガネ虫、ケシキスイなども集まっている。じっと見上げ、そこに何匹のどういう種類の獲物がいるか見極め、どのような方法で木から落とすか決め、落下予定位置に子分たちを配置する。大抵の太さの木は蹴ってゆすれば虫は落ちる。虫は樹液を吸うのに夢中になって油断しているから、ちょっとゆれただけでも案外簡単に落ちて来るのだ。しかし、虫の落下スピードは想像よりもはるかに速い。クヌギの葉や枝をはたきながら高所から落ちてくる虫を目で追うのは、実際には非常に困難だ。しかも虫が複数の場合は、視覚はなまじ精密なばかりに一点に注意が集中して、かえって他を見逃してしまう。どうするか。
音で聞き分けるのだ。どの虫がどの辺へ落ちたか耳を澄まして探るのである。したがって、木を蹴る者も見張り役も全員が、木を蹴った瞬間から凝固し、じっと息を止めて耳を澄ます。これがコツだ。ごく僅かな後、「ピシッ、パシッ」という音と共に数地点に落下物がある。だが、待て。落ちてきたのは狙う虫だけではない。いらない虫も、枝にいた雨蛙も、小さい木の枝、朝露の滴も落ちてくる。カナブンなどは反応が早いので、落下途中で羽を開き姿勢制御して飛び去る飛行音も混じってくる。そういう状況の中で神経を研ぎ澄まし、狙う虫の音だけを聞き分けて「そこと、そこだ!」と子分たちに素早く指示を出す。急がなければ、虫はすぐ落葉の下にカサコソと潜り込んでしまうからだ。


  慣れてくると落下音の違いが聞き分けられるようになる。木の枝の音は音源が広い。雨蛙は大物によく似るが「ピシャ」という粘性な音が僅かに混じる。滴は葉に当たる音は賑やかだが地面に落ちる音が小さい。それは言葉にすればいとも簡単なようだがとんでもない。この微妙な呼吸を会得するには、気の遠くなるほど多くの場数を踏まなければならなかった。男の子たちは6年間の徒弟生活の中でこの機微を必死に身に付けたものだ。だから本当に腕のいい奴の技術は、すでに職人芸の領域に近かった。

  親分になると虫捕りの技術だけではなく、子分たちを従え命令を出し、手柄と歳に応じて分け前を決め、他のグループとのもめ事を解決するという仕事も必要だった。こうして男の子たちは、悔しさは噛み締めるものであることを覚え、人の下につくことや集団生活、リーダーシップを覚え、技術を習得することを覚え、なにより熟練した技術の精妙さに対する驚きを無言のうちに身に滲み込ませた。そこには明らかに教科書的な知識とは別の技術と価値観、序列観があり、ヒーローがいた。みんな、この狭く厳しい道を入り口から出口まで、たゆみなく歩み、そして通り抜けて行った。

  僕はこれから、この技術、精神、感動を自分の息子たちに伝えることが出来るのだろうか。彼らは少年だった僕の誇りを理解してくれるだろうか。時代が違うといってしまえばそれまでだし、環境も大いに異なっている。しかも、親が子に伝えるという性質のものでもないことは百も承知だ。だが、自分の人生を振り返るとき、この感動、というよりは精神を失うことは本当に悲しいことだ。そんな感傷に囚われて止まない。


戻る